タイムマシンの設定を、鉄道国有化が完了した1907年10月、つまり100年前に合わせて、今回は東日本の鉄道が、この時点までにどのように敷設されてきたかを概観します。
1886年の閣令
[61303]で中山道鉄道は廃止されましたが、直江津から伸ばした官設鉄道線は、1893年に軽井沢まで到達しました。
横川-軽井沢間に残された碓氷峠は、ルート選定に問題を投げかけました。結局、当時の標準的技術による40分の1(25‰)勾配を断念し、ドイツに派遣された仙石貢
[34522]により進言されたアプト式を用いた15分の1(66.7‰)勾配線が採用され(1889)、1893年に開通しました。
# 中山道幹線をあきらめた後なので、想定輸送量が減少し、アプト式採用に踏み切ることができたのでしょうか。
# アプト式は1963年に廃止されましたが、路線は1997年の長野新幹線開業前まで使われました。
このようにして、1906年の国有化直前の状態は、上野-高崎間が日本鉄道、高崎-直江津間が官設鉄道であり、直江津から先には新潟まで「北越鉄道」が存在しました。
この北越鉄道は、日清戦争後の1897年から翌年にかけて開業した私設鉄道です。多数の私設鉄道が出願・開業した第2次私鉄ブームの時代です。
清水トンネルのなかった時代には、新潟と東京とを結ぶ鉄道は直江津経由の路線であり、買収反対派の北越も、当然に国有化の対象になりました。
国有化後の1909年に、高崎-直江津-新潟間が一本化して信越線という名になりましたが、キロポストの数字が、直江津でリセットされるのは、北越鉄道時代からの慣行が続いているのでしょう。
東日本では、最大の私設鉄道事業者「日本鉄道」
[61225]と、上記「北越鉄道」とを含めて6社が買収されました。
買収された6社中、日本鉄道に次ぐ歴史を持つのは、第1次私鉄ブームの1889年に、日本鉄道(山手線)の新宿を起点として、八王子までを開業した甲武鉄道です。
この甲武鉄道は、その後、青山軍用停車場への軍用線を外濠沿いに延長した「市街線」を作り、買収時には、御茶ノ水-中野間で電車を運転していました
[35062]。後の省線電車→国電の元祖です。
甲武鉄道は、収益率の高い都市鉄道で、建設費の2.9倍にも及ぶ1421万円という買収価格を得、北海道炭礦鉄道と共に買収第1号になりました。
1892年の鉄道敷設法では、中央線の起点として“八王子若は御殿場”と記されていましたが、甲武鉄道の延長線の形で八王子起点の官設鉄道が敷設され
[61108]、国有化後は両者が統合されて中央線になりました。
トンネルをできるだけ避けたルートを選んできた鉄道も、この頃から小仏トンネル・笹子トンネルと、大トンネルで抜けるルートが可能になりました。1903年甲府、1906年塩尻まで開通し、既に1902年に篠ノ井から開通していた官鉄と一体化しました。
東日本の官設鉄道は、東海道・信越・中央各線のほかに、奥羽線があります。
福島県下福島近傍より山形県下米沢及山形、秋田県下秋田青森県下弘前を経て青森に至る鉄道及本線より分岐して山形県下酒田に至る鉄道
鉄道敷設法に上のように記された奥羽線のうち本線部分は、1894年から奥羽北線、1899年から奥羽南線として敷設され、1905年に全通しました。
奥羽線起点の福島より少し南の郡山から喜多方へと分岐する岩越鉄道、千葉県の総武鉄道(両国橋-銚子)と房総鉄道(千葉-大原など)が、日本・甲武・北越と共に買収された6社の残りです。
その一方で、同じく第2次私鉄ブームの1894年から1900年頃にかけて敷設された私設鉄道の中にも、買収の対象にならなかった会社があります。
シリーズの最初
[61108]に記したのように、最初の 32社に入っていたが、貴族院の修正により削除された 15社がそれで、東日本の会社は6社ありました。
川越鉄道(国分寺-川越)。甲武鉄道の支線で、資本的にも関係があり(雨宮系)、甲武鉄道への直通運転をしていましたが
[41513]、買収からは取り残されました。
後日談ですが、1927年に途中の東村山から高田馬場への電車路線を新設しました
[20513]。これにより、川越(現・本川越)側は「西武新宿線」という名になっています(新宿延長は戦後の1952年)。国分寺線はローカル線として残存。
東武鉄道。1899年北千住-久喜開業以来現在まで同じ会社名で存続しています。ターミナルを浅草の対岸の吾妻橋から亀戸に移して、当時経営関係が近かった総武鉄道の両国橋まで乗り入れをしていましたが、これも乗り入れ先が買収されてしまい、1908年には乗り入れ中止。
鉄道国有法の1906年当時の路線は、架橋工事中の利根川南岸・川俣(現在の駅と違う)までで、その翌年足利町まで開通しました。
上武鉄道。日本鉄道熊谷からの支線で、1906年当時は波久礼まで。現在の秩父鉄道。
成田鉄道。佐倉-成田-佐原・我孫子間。名阪間の関西鉄道
[61246]vs官鉄のケースほど大規模ではありませんが、成田山詣で客獲得に、我孫子経由上野直通列車を走らせ、佐倉乗換の総武鉄道よりも優位に立とうとする競争を演じた会社です。1906年には買収から除外されましたが、1920年鉄道省が買収(成田線)。
水戸鉄道。日本鉄道水戸から太田まで。この時は国有になりませんでしたが、1927年鉄道省が買収し水郡線になっています。
豆相鉄道。東海道線三島(現・御殿場線下土狩)から大仁までが開通していました。駿豆鉄道時代の1923年に堤康次郎が買収し、1957年伊豆箱根鉄道と改称しています。
実はこのほかにも、1906年当時には次の鉄道が存在しましたが、買収対象32社には含まれていません。当時は 762mmゲージだった故でしょう。
青梅鉄道(現・青梅線)。上野鉄道(現・上信電鉄)。龍崎鉄道(現・関東鉄道竜ヶ崎線)。
また1067mmの鉄道でも、佐野鉄道は、買収候補に含まれていません。石灰石の産地・葛生と渡良瀬川水運とを結ぶ、異色の鉄道でした。現在は東武鉄道佐野線。