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100年前、国有化の頃の鉄道

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記事数=19件/登録日:2012年10月13日

日本最初の鉄道敷設計画は、江戸時代末期に外国人から提案されました。米国人ポートマンは慶応4年に幕府から江戸−横浜間の鉄道建設免許を受けています。明治新政府は、この免許は王政復古後のものであるから無効であると主張し、日本の植民地化への道を開く危険がある外資鉄道計画を拒否しました。英国の進言もあったようです。

しかし、新政府としても鉄道建設資金の調達は容易ではありません。結局英国での起債により官設鉄道を作ることになり、英国の鉄道技術も導入して、明治5年にわが国最初の 新橋横浜間鉄道 が開業しました。

これは首都と開港場とを連絡する短距離鉄道ですが、本格的な第一目標としては、東京と西京とを鉄道で結ぶことで、中山道ルートが想定されました。しかし、この大プロジェクトはなかなか見通しが立ちません。

新政府の中心人物の一人である岩倉具視は、華族士族に生計の道を与えると共に 鉄道建設により産業開発を図る 日本鉄道計画 を出願し、明治14年(1881)に 東京−高崎間と 東京−青森間との 特許条約書交付 を受けました。
東京−高崎間は、政府が予定する中山道幹線鉄道の一部であり、青森への縦貫線は東北地方の開発を目指すものです。
私設鉄道の特許は、鉄道建設は官設で進めるという方針を変えるものです。
政府としては財政事情からのやむを得ない措置として、特権階級の資本を入れ、半官半民の会社で鉄道建設を促進することにしたのです。

明治16年の上野−熊谷間開業に始まり、翌年には高崎まで全通。開業式には明治天皇を迎えたくらいで、まさに日本の幹線鉄道でした。
半官半民の日本鉄道より2年後には 純粋の民間資本による鉄道(阪堺鉄道)も登場しました。短距離ながら地の利を得て業績好調。
このような成功を見て、各地に鉄道会社が誕生しました。幹線鉄道では 山陽鉄道が 明治21年(1888)に姫路まで開業。

官設鉄道は、難工事の中山道ルートから 東海道ルートへと変更してから 順調に工事が進み、明治22年(1889)に全通した後は小休止。
この間に ようやく蓄積されてきた 民間資本による 鉄道建設は進み、日清戦争時には 広島まで開通していた山陽鉄道が 軍事輸送に活躍しました。
明治33年度末の鉄道営業キロは、官設鉄道 1206km に対して私設鉄道 4674km と 4倍近い値になっていました。

明治37〜38年(1904〜1905)年の日露戦争は、軍事輸送路としての鉄道の重要性と 問題点とを 改めて認識する機会になりました。
分立している各社を 動員する際の 車両規格の不統一、指令や運行調整など 実務上の問題が明らかになり、軍部から 鉄道国有の要請 が出されただけでなく、規格統一は産業界の望むところでもありました。

このような時代の背景を受けて実施されたのが、鉄道 17社の国有化です。

落書き帳のシリーズ記事では 明治40年(1907)に完了した国有化のプロセスはほんの一部であり、もともと国有化の対象外である軌道を含めて、私鉄の誕生や、国有化よりも後の 電車の発展 というような記事も含んでいます。
そのため、シリーズ記事のタイトル「100年前、国有化の頃の鉄道」は、特集の内容を適切に示していないのですが、あえてそのまま転用したことをお断りしておきます。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
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[61108] 2007年 9月 9日(日)18:19:51【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(1)国有化前史
[61073] Issie さん
明治から阪和間の輸送を担ってきたのは南海鉄道であって,なぜかその南海が国有化されなかったにもかかわらず

たしかに、大阪・和歌山間という重要路線であるにもかかわらず、「南海鉄道」が、明治39年(1906)の 鉄道国有法 第2条による買収対象にならなかったのは、「なぜだろう?」という疑問がわきます。

実は、明治39年3月に政府案として衆議院に提出されて可決された法案では、買収対象 32社 で、その中には「南海鉄道」も含まれていました。それが貴族院の審議で南海など 15社 が除外された 17社 に修正されました。その後は、大混乱の衆議院を経て、結局のところ賛成派(政友会)の単独採決で貴族院の修正案により成立させたという経過でした。

南海は、まさしく瀬戸際で国有化を免れたのでした。

1907年10月1日、17社のうち最後まで抵抗していた関西鉄道と参宮鉄道の買収により幹線鉄道の国有化が達成されました。それから ちょうど100年になります。
この間、80年目の1987年4月に国鉄が分割民営化され、単一の企業体ではなくなりましたが、「JRグループ」という形での統一性は保持されています。

百年という節目にあたるので、「南海鉄道」が国有化されなかったいきさつ調べも兼ねて、「100年前、国有化の頃の鉄道」を振り返ってみましょう。

明治5年(1872)の京浜間に続いて阪神間(1874)京阪間(1877)の鉄道が開通しました。その後、大津までの延伸は実現しましたが、幹線鉄道建設の基本方針は定まらず、資金の目当てもありませんでした。
そうした中で、鉄道建設を民間に委託する方針も生まれ、半官半民の日本鉄道は、将来の中山道幹線鉄道の一部となるべき関東平野部分(現・高崎線)や青森への鉄道(東北線など)を建設してゆきました。
純民間資本の私鉄も明治18年(1885)に開業。これこそ現・南海本線の一部になった阪堺鉄道でした。

結局、東西両京を結ぶ幹線鉄道のルートは東海道線ときまり、明治22年(1889)には全通[49808]
当時、日本鉄道は上野から塩竃まで開通、高崎線の先は官設鉄道で、アプト式で工事中の碓氷峠(横軽間開通は1893)を残して直江津まで開通。
その前年には、馬関(下関)をめざす山陽鉄道が神戸-姫路間を開通させるなど、日本の鉄道網は官設鉄道と私設鉄道とが入り乱れて伸び始めており、「鉄道一千哩祝賀会」が開かれたそうです。

基本方針の定まっていなかった政府も、明治24年(1891)になると鉄道国有主義の代表的人物である鉄道庁長官・井上勝の建議に基づいて、私設鉄道買収法案を衆議院に提出しましたが、否決されました。1890年の経済恐慌後には、民間の一部から買収を望む声も出ていましたが、財界では、まだ鉄道民営主義が主流だったのでした。

政府はあきらめずに、翌年改選された議会での再議をはかり、議員立法の法案との折衷により、明治25年法律第4号 「鉄道敷設法」 として帝国議会で成立しました。(北海道は明治29年法律第93号)
第2条「予定鉄道線路」(リンク)を見ると、この法律が日本の鉄道網の骨格を規定したものであることがわかります。

こうして、長期的視野による将来像をふまえた鉄道計画が実施されることになり、第一期線(第7条)である中央線・北陸線・奥羽線から調査・着工されることになりました。
中央線の予定線路の起点は「八王子若ハ御殿場」で、甲府・諏訪の先は「伊那郡若ハ西筑摩郡」ですから、起点の選定と伊那谷/木曽谷のいずれを選ぶかでルートは大きく変ります。結局八王子起点、木曽谷経由が選ばれたのは、勾配などの技術的理由が主たるものと思われます。

この計画実行に伴なうエピソード。諏訪から木曽谷に出るルートは、現在のように塩尻峠をトンネルで抜けずに、南に大迂回する辰野経由になりました。そのために、鉄道会議のメンバーだった伊藤大八代議士の力により、少しでも伊那に近づけたのではないかという,「大八回し」が伝えられていることは Issieさんの記事[2842] [2897]にあるとおりです。

それはさておき、この法律では既存の鉄道国有化を実現できないだけでなく、幹線鉄道網に私鉄による新線建設をも容認するものでした。
第十四条
予定鉄道線路中未だ敷設に着手せさるものにして若私設鉄道会社より敷設の許可を願出る者あるときは帝国議会の協賛を経て之を許可することあるへし

明治ニュース事典を見ると、鉄道国有に関する新聞記事は明治31年(1898)から急増しています。東京商業会議所の建議(請願)とか、福沢諭吉が「国有は断じて不可」と時事新報で力説した記事などがあります。翌年には政府の調査会が法案を作成したが、政党は意見を集約できず握りつぶし。

このようにして、1900年の営業キロ数は、私設鉄道(軌道を除く) 4674km、官設鉄道 1206kmという私鉄優位の状態で20世紀を迎えます。
[61109] 2007年 9月 9日(日)18:25:24【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(2)買収を免れた南海鉄道
明治25年(1892)の「鉄道敷設法」で、国による一元管理の基本方針が打ち出された後も、私鉄優位の現実は動きませんでした。
官設鉄道の営業キロ数は、1890年の 886kmから1900年には 1206kmに増加しますが、同じ期間に、私鉄は 1365km → 4674km と、はるかに上回る勢いで増え続けます。

このような状況に大きな影響を与えたのが明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争です。
動員された兵士は、当時広島まで開通していた鉄道によって運ばれ、宇品港から海外派兵されました。

東京を例にとり鉄道輸送の実務を考えると、千駄ヶ谷駅付近の青山練兵場から新宿までは甲武鉄道、そこで反転した山手線は日本鉄道、品川から神戸までは官設鉄道、神戸から先は広島まで山陽鉄道という具合です。
品川・横浜のスイッチバック[49808]こそ解消されていたものの、列車の編成・運行ダイヤ・乗務員手配・費用清算・機密保持などで複数会社にまたがる処理の複雑さに悩まされました。

日露戦争中から行なわれた鉄道国有化のための調査の結論は、その趣旨として「運輸の疎通」、「運賃の低減」、「設備の整斉」の3項目を挙げており、これに基づいて戦後の明治39年(1906)3月の帝国議会に鉄道国有法案が提出されました。

新聞記事によると、原案は 17社買収 だったものが、提出直前に 32社 に改められたとか。
既に記したとおり、貴族院の修正で 15社 が削除されて 17社 に戻り、南海鉄道は買収を免れました。

南海鉄道を含む 15社が買収を免れた理由を一番単純に考えれば、鉄道国有法
第一条 一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限ニ在ラス
の第一条但し書きによる除外というのがその答えになります。

しかし、買収対象になった 17社 中の 7社 (房総、参宮、七尾、甲武、京都、徳島、西成)は、南海線よりも短距離です。
距離こそ南海よりも長いが、岩越(福島県)、北越(新潟県)、総武(千葉県)は“県内鉄道”。
どうも線引きが不透明です。

短距離または県内であっても、幹線網の一部として買収対象に含まれるのが妥当な鉄道もあります。
中央線の一部である甲武鉄道(御茶ノ水-八王子)、山陰線の一部である京都鉄道(京都-園部)。
まだ「日本海縦貫線」という概念がなかった当時でも、信越線の一部たるべき北越鉄道(直江津-新潟)。

ところが、買収対象線の中で不思議の極致は、西成鉄道(大阪-天保山)です。
僅か7kmのミニ路線ながら、身分不相応な全国幹線ネットワークに入れてもらったのは、瀬戸内海航路への連絡鉄道という視点を強調したロビー活動の成果でしょうか?

“入れてもらった”と書いたのは、この西成鉄道は、営業成績が低迷していたからです。
株価が額面を大幅に割り込んだ状況を考えると、建設費をほぼ回収できる金額で買収してもらえることは大歓迎。
# 西成鉄道も西成区と同様に大阪府西成郡に由来する名前でしょうが、ずいぶん違う場所で「西成」という地名が使われるのには、いささか違和感がありました。現在は線名も桜島線(JRゆめ咲線)になっていますが。

法的には、私鉄条例による買い上げ権が 25年後(日本鉄道だけは特許条約により 50年後)であるという問題もあったようですが、日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道と大手が大勢に従う姿勢をとったために、鉄道国有化は実現することになりました。
17社の買収路線延長合計は 約4550km(資料により相違あり)。
国鉄(1907年4月帝国鉄道庁発足)と私鉄との市場シェアは逆転しました。
買収価格の総額は4億6737万円。うち大手の5社が4億円近くを占めます。1899年頃に論議されていた2億円に比べて、だいぶ高くなっています。

大阪-名古屋間で激烈な乗客獲得合戦を演じて官鉄に対抗した関西鉄道は、国有化に反対の立場で、最初に書いたように法律成立後1年半も抵抗したのですが、結局は屈しました。
関西鉄道の買収によって和歌山線が国有化されたことにより、首都と和歌山県庁所在地との間を国有鉄道で結ぶ形は整ったわけです。

[53947] じゃごたろさん によると、
明治の国道は交通というよりも、東京からの指令等を各都道府県に達するための径路的なものでありますけど。。。
だそうですから、鉄道の場合にも同じ考え方があったとすると、奈良経由でも国有鉄道線路がつながればよかったのかもしれず、このことが“買収を免れた南海鉄道”にも有利に作用した可能性があります。

一部修正すると共にタイトルも改めました。
[61225] 2007年 9月 19日(水)18:04:06【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(3)買収された五大私鉄・その1 日本鉄道
だいぶ間が空いてしまいましたが、「100年前、国有化の頃の鉄道」 の続編です。

1906年の鉄道国有法によって、同年から翌年にかけて買収された17社のうち、五大私鉄と呼ばれた5社は、当時の大企業でした。

中でも、その名のように全国展開の大構想で発足した「日本鉄道」は、財政難により鉄道工事を着工できなかった明治政府を代行する民間資本として、華族・士族の持つ金禄公債による出資を中心に岩倉具視らが1881年に創立した会社です。
用地の払下・買収や地租免除、配当保証、建設工事・資材手配などで政府の手厚い保護を受けた特殊会社で、当初は保線や運行も官鉄への委託経営で、日本鉄道会社がやっていたのは営業だけでした。

上野-熊谷間から開業した(現)高崎線が、翌1884年に全通した後の開業式には、明治天皇の行幸があり、お召し列車を運行。
まさに“国家的行事”であり、高崎への鉄道が、単なる“私鉄の開通”ではなかった事実を如実に示しています。

創業時にはまだ私鉄用のルールも制定されていなかった日鉄線は、99年期限の「特許条約」により敷設されました。
条約上は、政府による買上権も満50年後にならなければ発生しないことなっていたのですが、20年余での国有化に直面したわけです。
でも、もともとの半官半民の会社で、政府の方針変更に対する強い抵抗はなかったようです。

日本鉄道会社は、将来の中山道幹線鉄道の一部となるべき上野から高崎、前橋までの区間[39336]に続いて、赤羽から分岐し 東京の山の手を通って官鉄の品川と連絡する山手線[38130]、その支線の巣鴨線[49796]も作りました。
青森への鉄道の分岐点は、熊谷との比較検討の結果 大宮と決まり、1885年着工して半年で宇都宮まで完成します(利根川橋梁のみ翌年)。

1887年に仙台・塩竈、1890年に盛岡まで開通した後、鉄道工事に適さない冬季の労働力を利用し、関係者3人(日本鉄道の小野義真、三菱の岩崎弥之助、鉄道庁長官の井上勝)の名を冠した小岩井農場を開いたという話は有名です。1891年に青森まで全通[43090]KMKZ さん。

支線として日光線も敷設。水戸鉄道買収後に土浦線[49796]と磐城線とを統合して海岸線(常磐線)も全通しました。
両毛鉄道線[39338][39370]は、日本鉄道の経路にならなかった桐生・足利などの繊維工業地帯を日鉄線と結ぶ産業鉄道で、水戸鉄道に続いて統合(1897)。

かくて、日本鉄道は、1906年の買収時には、延べ1384kmの日本最大の私鉄でした。(資料により距離の相違あり、以下同じ)
[61226] 2007年 9月 19日(水)18:09:18【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(4)買収された五大私鉄・その2 山陽鉄道と九州鉄道
日本鉄道(1883年開業)、そして純粋の民間資本による都市近郊鉄道の第1号である阪堺鉄道(1885年開業)の成功は、ようやく蓄積されてきた民間資本による 各地の私設鉄道建設計画(第1次私鉄ブーム)を招きました。

しかし、杜撰な計画も多く、私設鉄道条例(明治20年勅令12号)、続いて商法の制定に伴なう私設鉄道法(明治23年法律64号)が定められ、官設鉄道と同じ水準による監督を受けることになります。3ft6in(1067mm)に統一された鉄道の軌間は、このルールに従ったものです。

「山陽鉄道」はこの時代の会社で、採算見込みのある神戸-姫路間の当初計画が、将来の幹線構想をふまえた政府の意向により、馬関(下関)までの大規模プロジェクトに変身しました。
姫路以西の不採算区間については建設補助金を得ていますが、政府の援助は日本鉄道に比べると少なくなっています。

中上川彦次郎(福沢諭吉の甥)を社長とする山陽鉄道は、1888年から先進的な設備の模範的幹線鉄道を敷設しました。東海道線でも40分の1勾配があった時代に、100分の1勾配、曲線半径300m以上を守った立派な線路を作りました。
# 中上川が山陽から三井へと去った後ですが、瀬野・八本松間だけは、やむを得ず45分の1勾配になっています。

山陽鉄道は、急行列車(1894)・照明の電灯化(1898)・食堂車(1899)・寝台車(1900)などの先進的サービスで瀬戸内海航路に対抗し、九州とは航路(1898徳山-門司)による連絡を経て、1901年に馬関まで全通させました。
# [61109]で“(日露戦争)当時広島まで開通していた鉄道”と書きましたが、“日清戦争当時広島まで開通”の事実と混同していました。

神戸-馬関間の本線のほかに大嶺への支線があり、播但鉄道と讃岐鉄道(高松-琴平)とを買収しており、延べ673km。

「九州鉄道」も、官設鉄道の敷設を待てないとして、福岡・佐賀・熊本県令を含む設立委員により 同時代(1888)に発足しました。政府の援助は山陽鉄道と同様でした。技術的には、本州のイギリス、北海道のアメリカに対して、新興のドイツから車両を輸入して発足したのが特徴ですが、後期の機関車はアメリカ製が主体になりました。

1889~1891年に、博多を起点として門司(現・門司港)・熊本・佐賀までの鉄道が開業しました。1891年開業の黒崎-小倉間は、軍艦からの攻撃を避けるという陸軍の要請により、山側ルートをとりましたが、1902年に現在の海岸ルートに変更しています。

そして、1898年までには行橋・八代・佐世保、そして大村経由で長崎にも達しています。この間に、筑豊鉄道(若松-飯塚ほか)・伊万里鉄道を合併。その後も、豊州鉄道(行橋から田川地区と宇佐方面)・唐津鉄道の合併、筑豊地区や三角への延伸などで国有化時の路線延長は718kmになります。

特に筑豊鉄道は石炭輸送で潤う優良会社でしたが、この合併は経営方針をめぐる九鉄騒動の原因になったとのことです。九鉄の経営は、当時近代産業の柱であった炭鉱経営に影響し、三井三菱を巻き込む争いになったようです。

そういえば、九州鉄道の大株主で沿線に炭鉱を経営する三菱財閥は国有化に反対で、三菱と関係の深かった外務大臣加藤高明が、西園寺内閣の鉄道国有法案に反対して辞職するという一幕がありました。
結局は九州鉄道も買収に応じましたが、翌1907年半ばまで粘り、買収価格も日鉄に次ぐ1億円以上を獲得しました。

鉄道趣味の世界に深入りしてしまいますが、この買収価格に含まれていた九州鉄道の資産の中に、「或る列車」 がありました。昔の雑誌記事に由来する呼び名です。
このアメリカ製の豪華客車は現存していませんが、九州鉄道の遺物としては、それよりも古い 初代2号御料車 (ドイツ製)が現在も残っています。

九州鉄道の遺物を考えた時に、国の重要文化財に指定されている門司港駅の駅舎が浮かんだのですが、国有化後の1914年に移転した際に新築されたもので、違いました。
[61246] 2007年 9月 20日(木)23:04:32hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(5)買収された五大私鉄・その3 関西鉄道
「関西鉄道」も、山陽鉄道・九州鉄道と同様に、明治21~22年(1888-1889)にピークのあった第1次私鉄ブーム[61226]の時代の鉄道です。
明治20年の私設鉄道条例よりも後、国による全国鉄道網の建設を視野に入れた鉄道敷設法(明治25年)[61108]の制定前に発足した鉄道です。

草津-岐阜間の官設鉄道が中山道ルートで敷設され、後の「東海道線」沿線から外れてしまった滋賀県南部・三重県の「東海道筋の地域」は、両県知事の後押しで私設鉄道を作ることになりました。

出願したのは関西鉄道(かんせいてつどう)という大きな名の会社ですが、最初に得た免許は、草津から四日市・津までの区間でした。幹線でないという理由で、山陽鉄道や九州鉄道の得た政府援助は受けられない不利がありましたが、東海道官設鉄道と競合する幹線だったら許可されないのだから仕方ありません。

工事上の難関は加太(かぶと)越え。トンネルに列車が入ると、煙の逆流を防ぐため入口の遮断幕を引く作業が、SL廃止の1972年まで行なわれていた場所です。
この大工事に成功した関西鉄道は名古屋進出を申請。鉄道局は、弥富・桑名間の木曽・長良・揖斐三川の大橋梁工事を理由に難色を示しましたが、関西鉄道は東大土木科教授の白石直治(加太トンネル工事も指導)を社長に迎え、1888年に草津で着工してから7年後の1895年に、名古屋駅までの線路を全通させました。

競合線出現を危惧する官鉄を尻目に、関西鉄道は1896年に名古屋駅の西0.6kmに豪華なターミナル「愛知駅」を設置し、柘植から西へ、大阪への路線延長に着手します。1897年に買収した浪速鉄道(片町-四條畷)の路線と合わせて、後の片町線経由で名古屋・大阪(網島)間に急行列車を走らせたのが1898年。

王寺経由で湊町(現・JR難波)と奈良とを結んでいた大阪鉄道は、これにより経営が傾いてきたので1900年にはこれを買収。
こうして距離は四條畷経由よりやや長くなるものの官鉄よりは短く、奈良駅や天王寺駅を通る経路に勝れた 後の関西本線ルートが形成されました。

大阪鉄道からは、大阪環状線の前身の城東線や王寺-桜井間も引き継ぎましたが、その後も、1904-1905年に統合した紀和鉄道・南和鉄道(高田-二見)・奈良鉄道(京都-桜井)を含めて、関西鉄道の路線網の形成史はなかなか複雑です。
ともかく、鉄道国有化当時には、関西鉄道は、その大きな名にふさわしく、東海道線より南の地域の鉄道網の大部分を占める路線延長452kmの大規模私鉄になっていました。

紀和鉄道は、五条-和歌山間が1900年に全通していますが、1903年になると難波から伸びてきた南海鉄道が紀ノ川を渡り、和歌山市駅が開設され、同時に紀和鉄道の和歌山(1968年より紀和)駅との間に、両社からの連絡線が作られます。

南海難波から南紀方面への直通列車[61073]が通った線路の起源はここにありますが、まだ紀勢線がなかった時代のこと、「南紀直通列車」はあり得ません。おそらく橋本方面からの紀和鉄道の列車が、大阪への便利がよい和歌山市駅まで乗り入れるのに使われたのでしょう。

大阪-名古屋間をメインとする関西鉄道は、日露戦争前の1902~1904年に、官設鉄道との間で 異常とも思われる運賃ダンピングを含む激烈な 乗客獲得合戦 を演じたことが語りぐさになっています。

鉄道国有化にあたり、買収反対の先鋒だった関西鉄道には、ライバルの軍門に下ることへの抵抗が強かったのだと思います。
官設鉄道と対抗した関西鉄道の意気込みを示す象徴ともいえる「愛知駅」も、国有化によってその存在意義を失い、廃止されました。

関西鉄道は、運賃以外の面でもサービス改善に熱心でした。客車の窓下の色帯と切符の色(白、青、赤)で等級をわかりやすく区別するアイディアを創始し、これは鉄道局の指導により各鉄道の採用することとなりました。

急行用の「早風」、短距離用の「池月」など、機関車には優雅な形式名称を付けていました。国有化直前の輸入で、使いこなすには至りませんでしたが、ハンガリー製蒸気動車導入の試みもなされました。戦後の関西本線は、気動車準急や通勤型気動車の活躍する舞台となった時代がありますが、このような関西鉄道の歴史と何かの縁があるのかもしれません。

幹線鉄道の技術分野では、関西鉄道から国有鉄道に引き継がれた財産の一つとして、「広軌改築」や「弾丸列車」の計画で知られる鉄道技術者・島安次郎があります。標準軌・高速列車の夢は息子の島秀雄に受け継がれ、それまでに培った技術的蓄積をうまく利用した東海道新幹線が実現したのは1964年でした。
[61271] 2007年 9月 22日(土)18:43:18【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(6)北海道の鉄道 その1 幌内鉄道と北海道炭礦鉄道
鉄道国有化で1906-1907年に 買収された五大私鉄 は、半官半民の日本鉄道と、第1次私鉄ブームで出願された山陽鉄道・九州鉄道・関西鉄道、そして もう1社、北海道炭礦鉄道があります。

この通称「北炭」という会社による私鉄営業の開始は、山陽・九州・関西の3社と同じ頃(明治22年)なのですが、鉄道そのものは、官営幌内鉄道(明治13年開業)と、日本鉄道よりも古い独自の生い立ちがあります。
今回は、開拓事業の進展と共に、「官営鉄道」を民営化したものの、やがて開拓が既に進んだ地域では「私設鉄道」、フロンティア地域で「官設鉄道」と、両者が並存する時代になり、そして、北海道全土の鉄道が「国有鉄道」になるという変遷の歴史をたどります。

はじめに余談めいたお話から…
実は、明治5年の京浜間鉄道開業よりも3年前に、日本最初の「鉄道?」が北海道で誕生していました。

安政元年(1854)に幕府が結んだ日米和親条約では、下田と箱館(函館)を開港し、食料、石炭などの供給も約束しました。
第二ヶ条
一 伊豆下田、松前地箱館の両港は、日本政府に於て、亜墨利加船薪水、食料、石炭、欠乏の品を日本人に而調候丈は給候為め、渡来の儀差免し候。尤下田港は約条書面調印之上即時相開き、箱館は来年三月より相始候事。

燃料供給体制としては、茅沼(かやぬま)炭山を開発し、海岸まで約3kmの運炭鉄道工事も始めました(慶応3年、1867)。
その場所は、積丹半島の付け根、小樽の反対側です。
政権交代に伴ない、この事業が開拓使に引き継がれ、明治2年(1869)から稼動したものが日本最初の「鉄道?」です。

梅木通徳氏 によると、その設備は、木製の角材の上面に鉄の角棒を釘で固定したレール(軌間2ft6in)を ゆるやかな傾斜路に敷設し、運転者と石炭を乗せた制動付き4トン貨車を、自重により山麓から海岸まで下降させるというものでした。空貨車の返送は牛による牽引であり、機関車は使用されませんでした。
その他に、炭山坑口と山麓の間には1トン貨車を用い、釣瓶方式の索道で輸送しましたが、これも無動力です。

これが軌条を利用した日本初の事例のようですが、「無動力」なので、やはり「これが鉄道?」という感じです。
「貨物専用」であるのはともかくとして、企業内の「専用鉄道」であり、運賃を払えば誰でも利用できる「公共運送手段」ではありません。

それはさておき、本物の鉄道も、明治20年代になった四国や九州よりもずっと早い明治13年に実現しました。

発足したばかりの明治政府が設置した開拓使は、アメリカ農務局長ケプロンを招き、その報告により有望とされた幌内川上流の炭田開発計画を実施しました。
その一環として、クロフォード技師による幌内から積出港・小樽までの鉄道が1880年に着工され、年内には港側の手宮と札幌の間が開業しました。1882年に炭山のある幌内(三笠市)まで全通。幌内鉄道は、1882年の開拓使廃止後は工部省や北海道庁が管轄していました。

本州の官設鉄道はイギリスの技術で建設されました。しかし北海道では、官営ながら独自にアメリカ流の技術を採用しています。但し軌間については、西部開拓の3ftでなくて本州と同じ3ft6inに揃え、後に問題を残すことがなかったのは幸いでした。
西部開拓史に登場するようなスタイルの機関車が、小型ながらボギー式の客車を牽引しました。西部開拓鉄道は簡易線路なので、脱線しにくいボギー車を使ったのですね。最初から自動連結器を使ったこともアメリカ式です。

幌内鉄道で使われた 弁慶号機関車 と 大型の最上等客車・開拓使号 とは、神田の万世橋から近々(2007年10月14日)大宮にオープンする鉄道博物館に場所を変えて、再び公開展示されます。

「北海道炭礦鉄道」は、官営幌内鉄道(手宮-幌内など97km)と幌内炭鉱とを1889年に払い下げを受け、引き継いだ会社です。
鉄道路線は、その後 1891-92年にかけて岩見沢を機軸として歌志内、空知太、室蘭、夕張への路線を展開し、最終路線延長は合計334kmになっていました。

つまり、産業鉄道としての性格が著しい点は特異ですが、官営時代の2倍半近くの路線は、私設鉄道として作られたわけです。
1906年の鉄道国有化にあたり、北海道炭礦鉄道には、建設費の2.5倍にあたる約3000万円の買収価格が付きました。鉄道専業でない同社は、国有化を歓迎する姿勢で、買収第1号になっています。

鉄道以外の事業は「北海道炭礦汽船」として買収後も存続し、幌内・夕張・空知・真谷地・楓・万字・平和などの炭鉱を経営しました。石炭積出港として小樽の他に室蘭を整備し、室蘭では日本製鋼所、輪西製鐵場などの事業も展開しました。
# 日本製鋼所は、アームストロング砲 で知られるイギリスの武器メーカーとの合弁企業です。

このように、過去は栄光の時代があった会社ですが、近年は、石炭をめぐる環境が厳しくなった上に、1981年に起こした夕張新炭鉱での事故で大打撃を受け、遂には会社更生法の適用を受けるに至りました。
[61273] 2007年 9月 22日(土)19:11:14【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(7)北海道の鉄道 その2 北海道官設鉄道と北海道鉄道
明治の鉄道事情に戻ると、本州以南では明治25年の鉄道敷設法[61108]によって国の長期展望が示されると共に、日清戦争の頃から私設鉄道への第2次投資ブームが起きて、多数の会社が名乗りを上げました。

北海道は、既に開拓使が廃止され、3県1局時代(1882~1885)を経て、明治19年に設置された「北海道庁」の時代に入っています。念のため記しておくと、この組織は地方自治体ではなく、国の地方機関と理解すべきものです。[53577]など参照

開拓推進のために不可欠な鉄道については、本州以南よりも4年遅れて 北海道鉄道敷設法 が制定され、北海道庁鉄道部が直接運営することになりました。つまり、官有物を払い下げ、民営化した北海道炭礦鉄道ですが、東と北に伸びてゆくフロンティア開発に関わる鉄道は、この会社に任せず、国の事業とする方針が確認されたわけです。

かくして、1898年7月には、北海道庁鉄道部による「北海道官設鉄道」が空知川を越えて旭川まで延伸され、それまで北海道炭礦鉄道の、そして日本の鉄道路線の北端駅だった「空知太」駅は、対岸に新設された滝川駅に取って代わられ廃止されました。

「北海道官設鉄道」は、旭川から北は名寄へ、そして旭川から十勝を目指す線路は富良野経由落合までが延伸され、また、狩勝峠の東側では釧路から池田へと進み、帯広に近づきました。
1905年4月に、北海道庁から鉄道作業局への移管により、合計350kmが官設鉄道に編入されました。

ここまで記してきた北海道の鉄道の歴史で、重要な区間が抜けています。それは、もちろん函館-札幌間です。
千歳線を経由する現在のメインルートは戦後に形成されたものであり、千歳線自体も1926年開業の私鉄(1943年戦時買収)だから、「100年前」にピントを合わせた今回のシリーズの対象にはなりません。

従って、ここで記しておく必要があるのは、通称「山線」経由の函館本線ルートです。小樽-札幌間は既設ですから、北海道鉄道敷設法では、次のように記されています。
第二条 北海道予定鉄道線路は左の如し(5項目省略)
後志国小樽より渡島国函館に至る鉄道

この区間を1902年から1905年にかけて開業したのは、「北海道鉄道」という私設鉄道でした。
後に千歳線を作った私鉄と同名ですが、全く別の会社です。

函館-小樽間が北海道官設鉄道でなく、本州以南と同様の私設鉄道として敷設されたことは、この区間が既にフロンティアではない「本土並み」の地域であったことを如実に示しています。

さすがに広い北海道だけあって、鉄道国有法により買収された17社の中では五大私鉄に次ぐ延長256km。但し営業成績は芳しくなく、株価は額面を大きく下回っていた会社なので、買収価格も建設費をやっと回収できる額で、はるかに短い路線ながら高収益を挙げていた甲武鉄道の買収価格には及びません。

100年前の国有化によって、北海道の鉄道は、釧路から帯広まで開通して371kmになっていた官設鉄道に、北海道炭礦鉄道334kmと北海道鉄道256kmが加わり、合計約961kmの国有鉄道になった計算です。

北海道鉄道敷設法の計画と比較すると、主な未開業線は、落合-帯広間のほかに、網走、根室、宗谷、留萌への鉄道ということになります。

石狩と十勝の間は、国有化完了の直前、つまり今からちょうど100年前の1907年9月に狩勝トンネルにより開通しました。
その後も1966年新線移行、1981年石勝線開業という具合にトンネル技術の進歩でルートが改良されています。石狩側のアクセス地点も、旭川→1913年滝川→1981年千歳と移り、国名から合成された用語も「狩勝」から「石勝」へと遷移しました。

網走への線路も、かつて網走本線だった池北線ルート→名寄・湧別線ルートを経て1932年の石北トンネルと、変遷しています。

後日談ついでに、長万部-東輪西(東室蘭)間は、1923-1928年に長輪線として敷設されましたが、北海道鉄道敷設法では全く触れていません。
次回のサミットが開かれる洞爺湖の近くを通るこの路線が、函館-札幌間のメインルートになったのは、進駐軍の命令で横浜から千歳・札幌への直通列車を運転したことに伴なう「怪我の功名」でした[51787]
[61303] 2007年 9月 25日(火)16:18:27hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(8) 幹線鉄道は中山道ルートから東海道ルートへ
100年前に実施された鉄道国有、その頃の五大私鉄と北海道の鉄道、これらの記事 に続いて、時代が前後しますが、日本における初期の鉄道敷設状況を概観しておきます。

明治5年(1872)に新橋-横浜間で開業した鉄道は、首都と開港場との連絡鉄道であり、国土全体計画の中における幹線鉄道(の一部)という性格はありませんでした。初代横浜駅(現・桜木町)は、市街地の入口で行き止まりになる線形で、東海道への延伸は考慮されていません[49808]

鉄道建設となると、先立つものは資金です。神戸・大阪・京都間開通後に、1878年国債により着工できたのは、大津への延伸と米原-敦賀間だけ。敦賀(金ヶ崎)からの鉄道路線と琵琶湖の汽船連絡により、日本海(北陸)と京阪神とを結ぶことができます。また、この路線は、将来中山道沿いに鉄道を建設する場合の資材輸送にも役立ちます。
東京-高崎間も計画しましたが、資金不足で取り消されました。

このような状況のもとで、「民活」方式が検討されましたが、まだ純粋の民間資本蓄積のない時代、実現したのは、華族・士族授産の意味を持つ半官半民の「日本鉄道」です。この会社に政府が計画して中断した東京-高崎間に加えて、東京-青森間も特許することにしました。

明治16年(1883)に開業した日本鉄道前橋線は、絹の産地である北関東への産業鉄道という面もありますが、高崎までは、中山道ルートをふまえた幹線鉄道の第一歩でもありました。
西南戦争後に軍事輸送に着目した陸軍は、幹線鉄道の建設を働きかけ、同年12月、政府は東西両京を中山道鉄道で結ぶことを正式に決めました。このルートは、海上攻撃を恐れた陸軍の主張にかなうものでした。

中山道鉄道公債證書条例
第一条 中山道鉄道公債證書は群馬県下上野国高崎より岐阜県下美濃国大垣に至るまで中山道に沿ひ鉄道を敷設し及び其事業を経営するの資金に充つるが為発行するものとす

工事中だった高崎、大垣までは1884年に開通し、 KMKZ さんの記事[38482]に示された鉄道開業区間(1885年2月時点)の状態から中山道鉄道を目指す建設がはじまります。
鉄道建設と資材の陸揚げ、輸送の関係については、既に[38538] KMKZ さんの言及があります。
これを中山道鉄道にあてはめると、新規区間のうち高崎-横川間には、横浜港で陸揚げされ、開通したばかりの日本鉄道山手線経由で運ばれた建設資材が使われたという背景が読めます。1885年10月開通。大垣-加納(岐阜)間の建設には、敦賀港(金ヶ崎)からの輸送ルートが使われ、1887年1月に開通。

中山道鉄道建設の資材陸揚げ地としては、半田港(武豊)も選ばれ、ここから名古屋[58329]を経て北上した線路は、1887年4月に木曽川を渡って加納に達し、同時に、武豊・敦賀間の本州横断鉄道輸送路も完成したことになります。
中山道鉄道を建設するための資材輸送体制は、これらのルートのほかにも、直江津港から上田方面の鉄道が着工しており、1886年に関山まで開通しています。

ところが、山岳地帯の建設計画を立てるうちに、工事の困難と、開業後の輸送能力低下が予想以上であることが明らかになってきていました。
井上勝鉄道局長は、既に東海道ルートも調査させて比較していました(原口要が、箱根越よりも御殿場経由が有利であると提案)。その結果、井上は陸軍のボス・山県有朋を説得した上で、伊藤博文首相(1885年に内閣制度が発足)をして、東海道ルートに変更する 閣令第24号 を明治19年(1886)7月19日に出してもらいます。

中山道鉄道工事…之が実測を経るに其地形は険峻にして之を東海道の平夷に比すればただに迂路を取るの不利あるのみならず其工費…竣工後の遅速の差あるを発見…今般中山道鉄道敷設を廃し更に工事を東海道に起すに決定す…

予算2000万円のうち、これまでに427万円を使いましたが、残りのうち1000万円を流用すれば東海道線ができます。横川線(碓氷峠)などの残工事に573万円をあてれば、予算内に納まります。

東海道沿いと決まれば、横浜でスイッチバック[49808]して東海道を程ヶ谷から国府津へと進む東側、大府から分岐して浜松へと進む西側を手始めに突貫工事が始まり、3年後の明治22年(1889)には、御殿場経由の山越えや 琵琶湖東側の区間も完成し、東海道線が全通しました。

この頃の伊藤博文の大仕事は、大日本帝国憲法の発布に続く帝国議会の開設(1890)ですが、地方から集まる代議士を汽車で東京に送り込むという約束を、井上は伊藤のために果たしたわけです。
[61304] 2007年 9月 25日(火)16:24:29【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(9) 東日本の鉄道
タイムマシンの設定を、鉄道国有化が完了した1907年10月、つまり100年前に合わせて、今回は東日本の鉄道が、この時点までにどのように敷設されてきたかを概観します。

1886年の閣令[61303]で中山道鉄道は廃止されましたが、直江津から伸ばした官設鉄道線は、1893年に軽井沢まで到達しました。
横川-軽井沢間に残された碓氷峠は、ルート選定に問題を投げかけました。結局、当時の標準的技術による40分の1(25‰)勾配を断念し、ドイツに派遣された仙石貢[34522]により進言されたアプト式を用いた15分の1(66.7‰)勾配線が採用され(1889)、1893年に開通しました。
# 中山道幹線をあきらめた後なので、想定輸送量が減少し、アプト式採用に踏み切ることができたのでしょうか。
# アプト式は1963年に廃止されましたが、路線は1997年の長野新幹線開業前まで使われました。

このようにして、1906年の国有化直前の状態は、上野-高崎間が日本鉄道、高崎-直江津間が官設鉄道であり、直江津から先には新潟まで「北越鉄道」が存在しました。
この北越鉄道は、日清戦争後の1897年から翌年にかけて開業した私設鉄道です。多数の私設鉄道が出願・開業した第2次私鉄ブームの時代です。

清水トンネルのなかった時代には、新潟と東京とを結ぶ鉄道は直江津経由の路線であり、買収反対派の北越も、当然に国有化の対象になりました。
国有化後の1909年に、高崎-直江津-新潟間が一本化して信越線という名になりましたが、キロポストの数字が、直江津でリセットされるのは、北越鉄道時代からの慣行が続いているのでしょう。

東日本では、最大の私設鉄道事業者「日本鉄道」[61225]と、上記「北越鉄道」とを含めて6社が買収されました。

買収された6社中、日本鉄道に次ぐ歴史を持つのは、第1次私鉄ブームの1889年に、日本鉄道(山手線)の新宿を起点として、八王子までを開業した甲武鉄道です。
この甲武鉄道は、その後、青山軍用停車場への軍用線を外濠沿いに延長した「市街線」を作り、買収時には、御茶ノ水-中野間で電車を運転していました[35062]。後の省線電車→国電の元祖です。
甲武鉄道は、収益率の高い都市鉄道で、建設費の2.9倍にも及ぶ1421万円という買収価格を得、北海道炭礦鉄道と共に買収第1号になりました。

1892年の鉄道敷設法では、中央線の起点として“八王子若は御殿場”と記されていましたが、甲武鉄道の延長線の形で八王子起点の官設鉄道が敷設され[61108]、国有化後は両者が統合されて中央線になりました。
トンネルをできるだけ避けたルートを選んできた鉄道も、この頃から小仏トンネル・笹子トンネルと、大トンネルで抜けるルートが可能になりました。1903年甲府、1906年塩尻まで開通し、既に1902年に篠ノ井から開通していた官鉄と一体化しました。

東日本の官設鉄道は、東海道・信越・中央各線のほかに、奥羽線があります。
福島県下福島近傍より山形県下米沢及山形、秋田県下秋田青森県下弘前を経て青森に至る鉄道及本線より分岐して山形県下酒田に至る鉄道

鉄道敷設法に上のように記された奥羽線のうち本線部分は、1894年から奥羽北線、1899年から奥羽南線として敷設され、1905年に全通しました。

奥羽線起点の福島より少し南の郡山から喜多方へと分岐する岩越鉄道、千葉県の総武鉄道(両国橋-銚子)と房総鉄道(千葉-大原など)が、日本・甲武・北越と共に買収された6社の残りです。

その一方で、同じく第2次私鉄ブームの1894年から1900年頃にかけて敷設された私設鉄道の中にも、買収の対象にならなかった会社があります。

シリーズの最初[61108]に記したのように、最初の 32社に入っていたが、貴族院の修正により削除された 15社がそれで、東日本の会社は6社ありました。

川越鉄道(国分寺-川越)。甲武鉄道の支線で、資本的にも関係があり(雨宮系)、甲武鉄道への直通運転をしていましたが[41513]、買収からは取り残されました。
後日談ですが、1927年に途中の東村山から高田馬場への電車路線を新設しました[20513]。これにより、川越(現・本川越)側は「西武新宿線」という名になっています(新宿延長は戦後の1952年)。国分寺線はローカル線として残存。

東武鉄道。1899年北千住-久喜開業以来現在まで同じ会社名で存続しています。ターミナルを浅草の対岸の吾妻橋から亀戸に移して、当時経営関係が近かった総武鉄道の両国橋まで乗り入れをしていましたが、これも乗り入れ先が買収されてしまい、1908年には乗り入れ中止。
鉄道国有法の1906年当時の路線は、架橋工事中の利根川南岸・川俣(現在の駅と違う)までで、その翌年足利町まで開通しました。

上武鉄道。日本鉄道熊谷からの支線で、1906年当時は波久礼まで。現在の秩父鉄道。

成田鉄道。佐倉-成田-佐原・我孫子間。名阪間の関西鉄道[61246]vs官鉄のケースほど大規模ではありませんが、成田山詣で客獲得に、我孫子経由上野直通列車を走らせ、佐倉乗換の総武鉄道よりも優位に立とうとする競争を演じた会社です。1906年には買収から除外されましたが、1920年鉄道省が買収(成田線)。

水戸鉄道。日本鉄道水戸から太田まで。この時は国有になりませんでしたが、1927年鉄道省が買収し水郡線になっています。

豆相鉄道。東海道線三島(現・御殿場線下土狩)から大仁までが開通していました。駿豆鉄道時代の1923年に堤康次郎が買収し、1957年伊豆箱根鉄道と改称しています。

実はこのほかにも、1906年当時には次の鉄道が存在しましたが、買収対象32社には含まれていません。当時は 762mmゲージだった故でしょう。
青梅鉄道(現・青梅線)。上野鉄道(現・上信電鉄)。龍崎鉄道(現・関東鉄道竜ヶ崎線)。

また1067mmの鉄道でも、佐野鉄道は、買収候補に含まれていません。石灰石の産地・葛生と渡良瀬川水運とを結ぶ、異色の鉄道でした。現在は東武鉄道佐野線。
[61344] 2007年 9月 27日(木)23:49:04hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(10) 近畿・北陸・山陰・東海の鉄道
京阪神間(1874~1877開業)に続いて明治11年(1878)着工した京都-大津間鉄道は、東山連峰を避けて、ほぼ現在の名神高速の線まで迂回するルートを取りました。しかし、それでも稲荷-大津間では25‰勾配が連続し、琵琶湖の手前では683mの山岳トンネルを掘削する必要がありました。
日本人技術者は、イギリス人が伝えた外来技術と在来の手法とを融合させ、生野などの坑道掘りで経験を積んでいた労働者の力により、逢坂山トンネル工事を見事に完成させました(1880年)。初期の鉄道建設技術において特筆すべき成果と評価されます。

馬場(現・膳所)からスイッチバックした琵琶湖畔(現・浜大津)の初代大津駅と長浜の間は、1882年に太湖汽船が連絡。
琵琶湖の先、中山道鉄道を建設するためにも必要な長浜-敦賀間の鉄道は、1882年に徒歩連絡区間を挟んだ開業です。2年後には柳ヶ瀬トンネルも開通しました。(現在のように塩津経由になるのは、はるかに後の1957年です。)

鉄道敷設法で規定された北陸線(敦賀-富山間)は、官設鉄道として建設され、1896~1899年に開業しました。もちろん敦賀~今庄間は1962年北陸トンネル開通で廃止された 杉津経由の旧線 です。

北陸の私設鉄道のうち、石川県の七尾鉄道は、鉄道国有法により買収されました。
富山県の中越鉄道(高岡-城端と高岡-伏木)は、32社買収案には含まれていましたが、他の14社と共に買収対象外になりました。後日、1920年に鉄道省に買収されて、城端線・氷見線になりました。

琵琶湖東岸の長浜から東は、1884年に伊吹山地と鈴鹿山地の間の峠・関ヶ原を抜けて大垣まで開通。
この後、1886年のルート変更を経て、東海道沿いに名古屋(大府)-横浜間の建設が進んだことは、[61303]で記しました。

1889年には、関ヶ原から米原経由馬場までの湖東区間が完成して新橋・神戸間が全通しました。米原が東海道線と北陸線とのジャンクションとして登場しました。その後、1901年に長浜からの旧線廃止を含む関ヶ原付近の複線化・別線建設で、伊吹越え西斜面の勾配緩和は完成しました。

# 国有化の時代より後の話になりますが、京都-大津間をほぼ直線の新線で結ぶ逢坂山越えの改良は1921年完成。丹那トンネルによる箱根越え改良線は1934年開業。最後に残った伊吹越え東斜面に10‰の迂回線ができたのは第二次大戦中の1944年と、東海道線でさえも、急勾配線の克服には長い期間を必要としています。

鉄道国有化に話題を戻すと、近畿地方では、[61246]で記した関西鉄道のほかに、阪鶴鉄道・京都鉄道・西成鉄道・参宮鉄道が買収されています。

阪鶴鉄道は、1893年に開業した尼ヶ崎(尼崎港[38465]を経て廃止)-池田間の摂津鉄道を起源とし、福知山までの自社線に加えて、1904年からは舞鶴までの官鉄線を借り入れて営業していました。
この舞鶴-福知山間の官設鉄道は、鉄道敷設法で
京都府下舞鶴より兵庫県下豊岡、鳥取県下鳥取、島根県下松江、浜田を経て山口県下山口近傍に至る鉄道
と記された「山陰線」の一部です。この山陰線は境・米子から東に進み1906年には青谷までが開業していました。

現在の山陰本線の起点・京都付近はというと、「京都鉄道」というローカルな名前の鉄道(京都-園部間)が開業しており、買収されました。
なお、国有化後の明治42年10月に告示された 線路名称 における「山陰線」は、山陰本線(鳥取松江間)と境線であり、舞鶴付近は阪鶴線、綾部との間がまだ未開通の京都園部間は「東海道線」の一部である「京都線」となっています。

次は、大阪付近。西成鉄道については、既に[61109]で言及したとおり、僅か7kmのミニ路線ですが、買収17社に入りました。

買収対象から除かれた15社のうち、最も長い路線を持っていたのは、1900年に和歌山市まで全通し、紀和鉄道との連絡線[61246]を設けた「南海鉄道」です。関西鉄道の天王寺に通じる支線を含めて68km。
この会社自体は第2次鉄道ブームの1897年に堺から南を開業しましたが、この年に併合した「阪堺鉄道」(難波-堺)は、1885年という日本鉄道に次ぐ開業年次を誇る古参私鉄でした。

# 阪堺開業時に再利用された軌間2ft9inの釜石鉱山鉄道(産業施設の一部)は、公共輸送用ではないため、茅沼炭山[61271]と共に鉄道史の本流から外れた位置にあります。

南海鉄道と同様に買収されなかった会社の中で、高野鉄道[21049](道頓堀-長野、現・南海高野線)と河南鉄道も大阪近郊の私鉄です。
河南鉄道は、(初代)大阪鉄道[61246]の柏原と富田林の間を河陽鉄道が開業し(1898)、長野まで延長。現在の近鉄の路線中で最も古い歴史がありますが、1920年代に道明寺から大阪天王寺(現・阿部野橋)、古市から久米寺(橿原神宮)へと線路が新設されたために、現在は南大阪線をはさんで両側が別の支線とされています。
南海・近鉄両社の「長野駅」が「河内長野駅」と改称されたのは、1954年の河内長野市発足と同日でした。

三重県に移ると、関西鉄道の津を起点に1893年に宮川まで、その後山田までを完成した参宮鉄道があり、1907年10月1日に関西鉄道と共に最後の買収路線になりました。線路名称(1909)では、「関西線」の中の参宮線(亀山山田間)になりました。

愛知県には、1906年に買収から除外された15社のうちの2社がありました。
尾西鉄道。1898-1900年に弥富-一ノ宮間を開業。1925年名鉄尾西線。
豊川鉄道。1897-1900年に豊橋(吉田)-大海(長篠)を開業。1943年鉄道省の戦時買収で飯田線の一部に。
[61349] 2007年 9月 28日(金)13:59:38【1】hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(10.1) 近江鉄道
鉄道国有法成立の1906年に存在した近畿地方の鉄道[61344]のうち、書き落としていた1社を補足します。
それは、「近江鉄道」で、彦根-八日市間は1898年開業。その後 関西鉄道[61246]の貴生川(現・草津線)まで延長。

鉄道国有法の 32社買収案には入っていましたが、17社に修正[61109]されたため、私鉄として存続。

1927年の経済恐慌下、電力の安定需要を求める 宇治川電気[28294](現・関西電力)が、この近江鉄道を系列下にして全線電化を行なわせました。同じ頃手に入れた神戸姫路電気鉄道と兵庫電気軌道は宇治川電気に合併して直営(のち山陽電気鉄道)にしましたが、近江鉄道は別会社のままでした。

1942年の電力国家管理によって、鉄道企業は電力企業と切り離され、近江鉄道は地元出身の 堤康次郎の系列に入りました。箱根土地を経営していた堤は、既に多摩湖鉄道に続いて武蔵野鉄道も手に入れた[46290]私鉄経営者でもありました。

このように、近江鉄道の経営者は移り変わっていますが、翌年開業の東武鉄道(こちらは一貫して根津嘉一郎の経営)と共に、19世紀の第2次私鉄ブーム時代から今日まで、同じ会社名で営業を続けている最古参の私鉄です。
# 第1次私鉄ブームに遡る伊予鉄道の方はさらに古参ですが、同社は1916~1942年の鉄道と電気の兼営時代に「伊予鉄道電気」という社名に変っています。
[61378] 2007年 9月 29日(土)16:35:06hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(11) 山陽・四国・九州の鉄道
神戸から西、馬関に向かう山陽鉄道については、既に [61226]で触れました。
瀬戸内海に沿った路線であるため、海運との競争を意識して、列車のスピードアップやサービス向上に努めた会社でした。そのために、勾配をおさえた、先進的な設備の模範的幹線鉄道を作りました。
1894年6月10日に広島まで開通。その際に設定した長距離急行列車は、官鉄の東海道線よりも2年も先んじるものでした。

翌7月に始まった日清戦争においては、鉄道により首都と直結した広島の地理的立場が大いに認識されました。
明治天皇が9月に広島に大本営を移し、いわば日本の首都機能が一時的に移ってきたことは、山陽鉄道の存在がこの時代の日本に占めていた大きな意義を示しています。
もちろん、鉄道は兵員輸送にも大活躍。山陽区間ではありませんが、急遽スイッチバック解消の短絡線[49808]も作られました。

その後も食堂車(1899)・寝台車(1900)など多くの本邦初のサービスを取り入れ、1901年の全線開通では 「最急行列車」を運行。
山陽鉄道の終着駅は「馬関駅」でしたが、翌1902年 赤間関市からの改称 と共に、「下関駅」になりました。

山陽鉄道の支線は、飾磨・和田山(播但鉄道買収1903後に延長)、大嶺、和田岬への各線のほか、四国の讃岐鉄道を買収(1904)した高松-琴平間がありました。また、広島-宇品間は陸軍省からの借入線を運行、海田市-呉間の官設鉄道も、山陽鉄道が借り入れて運行し、事実上の支線になっていたようです。

山陽筋では、 津山・岡山・湛井(総社)間の中国鉄道が1906年の32社買収案に含まれていましたが、貴族院の修正で外されました。1944年に運輸通信省が戦時買収(津山線、吉備線)。

四国は、山陽鉄道の高松-琴平間(前記)のほかに、松山と徳島に鉄道がありました。

外側(現・松山市)と三津浜との間を1888年に開業した伊予鉄道は、山陽鉄道の兵庫-姫路間よりも早く、阪堺鉄道に次ぐ歴史のある私鉄です。その後、路線を高浜と横河原へと伸ばし、1895年開業の道後鉄道、1896年の南予鉄道(郡中線)とを統合しました。

創業者は、小資本による簡便な設備として、2ft6in(762mm)ゲージの軽便鉄道を日本で最初に採用しました。1906年当時、松山の路線はいずれも762mmでした。そのために、もともと32社買収案の中にも含まれていません。

「坊ちゃん」では、東京から来た漱石にとっては既に珍しかったと思われる小さな2軸客車との出会いを、“マッチ箱のような汽車”と表現しています。高浜・松山間は9km以上あり、現代の電車でも20分かかりますから、「ごろごろと五分ばかり」はフィクションということになります。

停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んでみるとマッチ箱のような汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である。
(中略)
四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。この住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分ばかり、歩いて三十分で行かれる、料理屋も温泉宿も、公園もある上に遊廓がある。

当初762mmの蒸気鉄道だった路線も、その後、改軌・電化・松山電気軌道の開業と乗客争奪戦・合併などを経て、現在の道後温泉・松山市内線は軌道になっています。

1907年に買収された徳島鉄道は、吉野川に沿う現・徳島線の一部(徳島-川田付近の船戸)。

九州鉄道の概要は[61226]で記しました。買収の時には、既に筑豊地区を含めて複雑な路線網が張り巡らされていました。
八代までは既に1896年に開業しており、ここが九州鉄道路線の南端になっていました。

八代から先は官設鉄道ですが、山の中を行く現在の肥薩線ルートです。鹿児島から国分(現・隼人1901)経由で1903年に吉松まで開業していました。
球磨川沿いの八代-人吉間と矢岳越えの人吉-吉松間の開通は、国有後の1908-1909年になりました。

最後は1904年開業の博多湾鉄道(西戸崎-宇美)です。1906年の32社買収案には入ったが、修正により対象外になりました。西鉄を経て戦時買収で運輸通信省香椎線。
[61502] 2007年 10月 3日(水)23:00:00hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(12) 馬車鉄道
100年前、国有化の頃の鉄道。今回は「馬車鉄道」を取り上げます。
ヨーロッパでは蒸気機関車が実用化される前の19世紀初頭に出現した馬車鉄道ですが、日本では、「陸蒸気(おかじょうき)」に遅れて登場。その呼び名にも関わらず、法令上は「鉄道」ではなく、「軌道」という別の範疇に入れられた日陰の存在。

このシリーズの過去記事においても、かつて「鉄道」だった伊予鉄道の道後線が、現在は「軌道」として存在している関連でやむを得ず触れた箇所[61378]以外は、これまで「軌道」に言及するのを意識して避けてきました。

その理由は、「軌道」が このシリーズを書く発端となった鉄道国有の対象でないからです。

しかし、2ft6inゲージ(いわば軽便規格)であったために32社買収案にも含まれなかった鉄道(伊予・青梅・上野・龍崎各社)も含めて、結果的には 1906年当時の「すべての」鉄道をカバーする記事を書いてしまった現在、「当時は軌道だった」という理由で除外した路線について、「これで良いのか?」という疑問が残ります。

法令は、同じようなものを何故「鉄道」と「軌道」とに区別するのか?

最初は、個別に認可していたものと思われます。
東京では、新橋をターミナルとする官設鉄道開業(1872)の10年後、明治15年(1882)に新橋-日本橋間の銀座通りの路上に「東京馬車鉄道」が開業しました。日本における私鉄第1号の栄誉は、この路線であるとも言えます。

これが東京府の命令書で認許されたということは内務省の監督下であり、当時の工部省鉄道局とは別系統の、道路交通行政の一環として認められたということでしょう。4ft6in(1372mm)という特異な軌間(いわゆる馬車ゲージ)が使われてしまったのも、東京市内という限られた地域の道路交通手段に対しては、軌間を鉄道に合わせる必要など、なかったためでしょう。

明治14年の特許条約 に基づいて明治16年に上野から北へ向けて開業した日本鉄道には、もちろん官鉄と同じ3ft6in(1067mm)が採用されました。
しかし、1885年開業の阪堺鉄道となると2ft9in(838mm)と、またゲージが違います [61344]

このような経過を経て、政府も鉄道建設に統一的な基準が必要なことを認識し、1887年の 私設鉄道条例[61226]で, 全41条の詳細な規定が作られました。
私設鉄道條例 明治20年勅令第12号(官報5月18日)
第一條(第2項) 馬車鉄道は本条例定むる所の限にあらず
第七條 軌道の幅員は特許を得たる者を除くの外総て三呎六吋とす
これが三呎六吋の「鉄道」と、似て非なる「馬車鉄道」とを区別した最初の法令でしょう。

その3年後に 軌道条例 が制定され、馬車鉄道に加えて“其他之に準ずべき軌道”を含むように拡大された、「軌道」という新たな範疇が生まれました。軌道条例の条文は僅か3条で、軌間の定めもありません。
軌道條例 明治23年法律71号(官報8月25日)
第一條 一般運輸交通の便に供する馬車鉄道及其他之に準ずべき軌道は起業者に於て内務大臣の特許を受け之を公共道路上に布設することを得

軌道は、内務大臣の特許となっています。(この時点では、たまたま鉄道庁も内務省に所属していましたが、3年後に逓信省に移りました。)1921年の軌道法でも同様でした。現行法 は、建設大臣から国土交通大臣に改定されているので、鉄道との所管の違いがわかり難くなっています。

馬車鉄道は、都市交通機関及び小規模な地方交通機関として、日本各地で採用されましたが、最も初期のものは、電化(東京や小田原)や鉄道開通(碓氷や佐野)で1906年より前に消滅しています。

甲府付近(石和・鰍沢)や佐賀県の祐徳稲荷・武雄間など、やや長距離の路線もあり、昭和初期まで存続しましたが、殆んどは短距離路線です。同一事業者に限定しなければ、大月-富士吉田-御殿場間約55kmの馬車鉄道ルートがありました。このうち、現在も富士急行の鉄道路線(1929)がある大月-富士吉田間は、遡れば鉄道敷設法の「中央線」のルート[61108]として検討された1案です。御殿場から籠坂峠経由富士吉田も中央線の検討路線。いずれの案も、富士吉田から先は御坂峠経由で甲府盆地に出る計画でした。
トンネル技術の進歩で、中央線の笹子経由が実現し、鉄道から取り残された郡内地方の人々が、せめて作ったのが馬車鉄道だったのでした。
[61507] 2007年 10月 4日(木)22:23:38hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(13) 人車鉄道
「陸蒸気(おかじょうき)」(1872)に遅れて登場した馬車鉄道(1882)[61502]も「動力近代化」に逆行するものでしたが、更なる逆行現象がありました。
それは、人力で動かす「人車鉄道」です。最初の事例は、馬車鉄道から更に9年後の1891年 藤枝焼津間軌道 とか。

明治初年の日本の都市で、駕籠に代って爆発的に普及した フロントドライブの人力車は、「リキシャ」の名と共に、中国・インド・東南アジア諸国に広く輸出された大発明でしたが、軌道を使う リアドライブの「人車鉄道」は、さほどのインパクトはなく、日本独自の乗り物に終始したのではないかと思われます。

最も有名な存在は、小田原-熱海間の「豆相人車鉄道」です。
幹線鉄道のルートが中山道から東海道に変わり(1886)、横浜からスイッチバックして建設が始まった東海道鉄道は、翌明治20年には国府津までが開通しました[49808]。更に翌年には、小田原・湯本までの馬車鉄道も国府津から開通しました(1888)。
箱根に向かう客を横目に見て、自分たちも鉄道で客を呼ぼうというのが、温泉地・熱海の目算です。

しかし、1889年に願書を出した鉄道は、資金が集まらないので着工できず、とうとう「安かろう悪かろう」を知りながらも、やむを得ず手を出して 1895年にやっと開業したのが「人車鉄道」でした。
610mmゲージの小型客車(復元)を押す人夫の苦労は言わずもがな、25.5kmもの距離をガタガタと運ばれる乗客にとっても、決して快適な乗り物ではなかったでしょう。

尾崎紅葉の死去で未完に終わった小説「金色夜叉」が読売新聞に連載されたのは1897~1902年ですから、豆相人車鉄道にとっては、良いタイミングだったと思われます。
# 個人的な記憶としては、教科書で 塩原 の「美文」に出会い、この小説を読みました。上野から西那須野まで日本鉄道で5時間とは遠い。

豆相人車鉄道は、1907年に762mmの蒸気軌道に改良され、雨宮の大日本軌道を経て、関東大震災で被害を受け、鉄道省の熱海線全通を前に廃止されました。熱海駅前の機関車

もっと短距離の人車鉄道ならば、東日本の各地にありました。
東京では、日本鉄道土浦線(常磐線)の金町駅から柴又帝釈天への参詣用に作られた「帝釈人車軌道」(1899)。距離は僅かに1.2kmです。これは、京成の経営に移った翌年(1913)電化。

早くから蒸気の軽便鉄道で成功した伊予鉄道の事例 [61378]があった西日本では、人車鉄道は殆んど作られませんでしたが、1907年度末に営業していた人車鉄道は全国で11社(馬車鉄道は37社)だそうです。

これよりもずっと後(1922)の開業ですが、車両の実物が残っているのが宮城県(現・大崎市)の 松山人車軌道 2.5kmです。同様の客車が万世橋の交通博物館にもありましたが、鉄道博物館の収蔵資料 には見当たらず、大宮で見ることはできないようです。
[61516] 2007年 10月 5日(金)20:47:54hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(14) 電車の登場
本来の鉄道国有の話題から逸脱してきましたが、馬車鉄道から市内電車、そして都市間電車への変化も、この時代に起こった大きな出来事なので、ご容赦ください。

頻繁運転、乗降の便利を求められる都市交通機関として、1882年に東京馬車鉄道ができました [61502]。しかし、たくさんの馬を管理するのは大変で、動力の近代化が必要になります。東京の場合、最盛期には二頭引きの車両 300両に馬が 2000頭とか。なんでも、乗務員は2交替制で働いたが、馬のほうが優遇されて3交替制だったとか。

内燃機関の発達していなかった時代、欧米の大都市で最初に試みられたのは、スチームトラムとケーブルカーでした。
後者は、線路に沿う溝の中を走るエンドレスケーブルを車両からのグリップでつかんで進む方式で、1873年にできた サンフランシスコ が有名です。

1887年、Frank Spragueが架空線(トロリー)から集電した電力で自走する方式の電車を発明。これが都市交通機関の決定版として、アメリカやドイツの都市で馬車鉄道に代って実用化されました。

日本における電車導入の計画もその直後から動きはじめ、1890年に東京上野公園の博覧会での展示運転によって、電車の実用性が一般の人々にもある程度認識されましたが、建設計画の申請は認可されるに至りませんでした。

そのうちに、平安遷都1100年記念の博覧会が開かれた京都で、最初の電車が営業を開始しました(1895年、京都電気鉄道の伏見線)。琵琶湖疏水、蹴上水力発電所、電車の運転という一連の大事業は、京都市近代化の証明であり、官民一体で推進されたものでした。
1918年に京都市電が買収統合。その後、堀川線だけが改軌されずに、狭軌線(N電)として残っていました。博物館明治村の車両

ところで、1890年の軌道条例[61502]では、“馬車鉄道に準ずべき軌道”という規定がありました。「人車鉄道」[61507]がこれに該当することには異論がないとして、京都のような「電車」は「鉄道」なのか「軌道」なのか、これが問題になりました。

結局のところ、路面上を1~2両で低速運転することで、京都の電車は「軌道」として認められました。

一旦、規制のゆるい「軌道」で認められた実績ができると、1898年に名古屋、1899年に川崎大師、1900年に国府津-小田原-湯本[61507]や大分-別府、1902年に江ノ島、1903年に東京、大阪、伊勢、1904年に横浜、1905年に阪神間という具合に各地で走り始めた電車は、殆んどが「軌道」になりました。

しかし、1904年に蒸気鉄道だった甲武鉄道の線路上を走り始めた電車[35062]は、電車専用区間も含めて「鉄道」という扱いで、国有になった後の1909年に登場した山手線電車も「鉄道」でした。
私設鉄道では、南海鉄道が1907年から電化に着手、4年後には全線完成して「鉄道」である都市間電車が難波・和歌山市間64kmもの距離を結びました。

このように、馬車鉄道の電化や新設の場合は「軌道」、蒸気鉄道の電化は「鉄道」という図式ができたようです。
[61533] 2007年 10月 6日(土)20:17:14hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(15) 市内電車と行楽電車
東京は、大都市内の公共交通機関として最初の馬車鉄道を誕生させ、試験的ながら 1890年に電車の運転[61516]もあり、企業計画も早くから進みました。しかし、民営を許すか市営にするかなどの方針で当局の意見が決まらず、政争もからんで特許が大幅に遅れました。

東京がモタモタしている間に、官民一体で推進した 京都[61516]は、電車の営業線で先を越しました。
狭軌民営でスタートした会社は、1912年から標準軌の市営電車との競争になり、経営が苦しくなって 1918年に市営に統合されました。市営電車は、1957年度 77kmをピークに 1978年全廃。

次いで市内電車が走った名古屋(1898)も狭軌民営でしたが、1922年に市営化。1960年度 107km。1974年廃止。

大阪は最初から市営の方針で標準軌。1903年に開業した築港線は、魚釣り電車と呼ばれたくらいで、市内電車というよりも、当時としては郊外電車的な性格かもしれません。二階建て電車も存在。1954年度111km。1969年には他の大都市に先駆けて市内電車全廃。

東京では、「軌道」の元祖になった東京馬車鉄道が 東京電車鉄道、通称「電鉄」という名で電化を計画。これに対して、新線建設の三派は合併して 東京市街鉄道「街鉄」に一本化。両社共にやっと特許を得て、大阪と同じ 1903年に電車が営業開始しました。翌年には 東京電気鉄道「外濠線」も開業。
3年前の 電車唱歌で巡る100年前の東京 は、この3社鼎立の時代です。軌間は馬車鉄道から引き継いだ1372mmに統一。
1906年には3会社統合して東京鉄道となり、1911年に買収されて東京市営になりました。1943年、東京都営。

路線長は民営時代の末期に 95km、昭和になった頃 163kmと延び、1941年に「王子電車」と「城東電車」[39140] を買収して 200kmを越えました。
しかし、発祥の地であった銀座通りの路線も 1967年に廃止され、1972年からは旧・王子電車の路線だった荒川線を残すのみになっています。
「市内電車」というより路面区間が少ない「郊外電車」に近い路線だったために残された都電荒川線ですが、一応「鉄道」とは一線を画した軌道として、存在し続けています。

残る六大都市のうち、横浜市内電車の軌間は東京と同じ 1372mm。1904年に民営でスタート。1921年市営。1956年度 52km。1972年度廃止。
神戸市も1910年に標準軌民営でスタート。1917年市営。1946年度 36km。1970年度廃止。

電車は、大都市内だけでなく、特殊な交通需要の或る地方交通の分野でも利用され始めました。
その一つである、参詣・行楽鉄道のうち、東京にも近い川崎大師へは、1899年に六郷橋-大師(現・川崎大師)間を大師電気鉄道が開業しました。欧米の標準軌間である 1435mmを日本で最初に採用した路線です。

翌 1900年に馬車鉄道を電化した小田原電気鉄道は、官設鉄道の国府津から小田原を経て箱根湯本までを結んでいました。最初は馬車ゲージでしたが、1435mmに改軌。この会社は電力事業も営んでいたので、関東進出を図る日本電力[28294]に買収され、子会社の箱根登山鉄道になりました。電力と鉄道の分離により五島慶太の手に。現在は箱根湯本までの区間は狭軌に変わり、小田急の延長線の形になっています。

大分-別府間の豊州電気鉄道(後の大分交通別大線)も、同じ 1900年開業。狭軌新設軌道。これも九州水力電気という会社の直営になった時代があります。
江ノ島・鎌倉も東京近くの参詣・行楽地で、江ノ島電気鉄道は、1902年の藤沢-片瀬から、1904年極楽寺へと進んだ狭軌の新設軌道でした。一時は横浜電気→東京電燈の子会社でしたが、やがて別系統に。

1903年、東京の「電鉄」と「街鉄」、それに大阪の「市電」が開業した同じ年、参宮鉄道の山田(伊勢市)から二見への電車が走り出し、やがて宇治の内宮方面へも通じます。この電車は、会社名がいろいろ変遷していますが、1939年に 東邦電力[19892]から分離されるまでは電力系です。分離後の名は 「神都交通」→三重交通神都線で、1961年廃止。
[29157] 今川焼 さんが挙げている“神都・伊勢”の実例です。

1904年になると、地方都市では初めての市内電車「土佐電気鉄道」が高知市内で開通します。[61516]では書き落としていましたが、この「とでん」は横浜より先でした。
高知は別格として、1909年には和歌山、岩国、呉に電車ができます。岩国は、1890年に東京上野公園で日本最初の電車運転を実現した東京電燈技師長・藤岡市助の故郷です。

福岡では、1910年開業した、福沢桃介と松永安左エ門が組んだ東邦電力による「福博電気軌道」と、翌年開業した地元設立の「博多電気軌道」との2社が誕生。後者は、別大線でも登場した九州水力電気の支配下になり、競合した結果、ようやく 1934年に「福博電車」に一本化されたそうです。
九州における東邦電力と九州水力電気との争いについては、かつて周波数がらみの話題で、[28405] TGRS さんの記事がありました。

東京の3社合併(1906)を別とすると、同一の市内で2社が争った例は、福岡のほかに京都[61516]があり、市内電車第1号の歴史を持つ会社が市営に敗れて統合されました。また、道後温泉への客を争った松山の事例[61378]にも触れました。

現在、市内電車が運行中の都市における最初の開業年を見ると、岡山・広島が1912年、長崎1915年、熊本1911年、鹿児島1914年。函館(馬車鉄道1897)の電化は1913年、札幌は(最初馬力で)1918年電化。富山 1913年、豊橋 1925年で、廃止された岐阜が 1911年と、1910年代前期に集中していました。
[61549] 2007年 10月 7日(日)14:08:30hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(16) 都市間電車
前回[61533]では行楽電車として登場した「大師電気鉄道」(1899)ですが、その起点の六郷橋が、東京と横浜の真ん中という立地であることから、この会社は都市間電車の第1号に変身します。

六郷橋から北と南へ路線を延ばし、1905年には品川-神奈川間が完成。1904年に品川に達した時は、東京市内電車と同じ 1372mm軌間に改めて直通運転を狙いました。
一部に路面区間もあるものの、ボギー電車を使用するなど、「鉄道的な高速電車」の先駆でもあり、ゆくゆくは東京・横浜の市電に直通する構えとなると、官鉄にとっても強敵です。

官鉄は当面は快速列車の運転で対抗し、更には京浜間電車線の新設ということになったのですが、その完成試乗会の際(1914)に大失態を演じたことは、[39140]で記しました。

目を西に転じると、同じ 1905年には、「阪神電気鉄道」が、京浜間よりも長い阪神間の全線を一挙に開業しています。
ターミナルの立地に優れた「待たずに乗れる阪神電車」は、京浜よりも更に業績を挙げ、官鉄にとっては、更に強烈なライバル出現です。

鉄道国有化に少し先立って、名目上は「軌道」でも、完全に「鉄道」のライバルであり、「100年前、国有化の頃の鉄道」を語る上で無視することのできない都市間電車が出現したというわけです。
なお、「軌道」として開業した京浜や阪神は、当初は時速8マイルに制限されたということも伝えられます。軌道条例にはそのような規定はありませんが、特許条件だったのでしょうか。もっとも、速度向上は間もなく実現したようです。

このように、実質は鉄道なのに「名目上は軌道」にして鉄道国有法などの縛りを免れる手法は、鉄道国有が実施された後にも、明治末期から大正初期に開通した電車路線、例えば箕面有馬(現・阪急)、京阪、京成、京王、大軌(大阪電気軌道、現・近鉄奈良線など)と後まで続きました。
「鉄道でない」証拠なのか、1435mmや 1372mmの軌間を採用し、僅かな路面区間があったりしました。
[10820] まがみ さんは、これを“軌道もどき”と呼んでいます。

都市間電車は、1924年になっても福岡-久留米間(筑紫電気軌道、現・西日本鉄道)で、「軌道」としての開業が続けられていた一方、名古屋地区では早くも1912年から新たな会社が、まともに都市間の「鉄道」として開業するようになります。愛知電気鉄道と名古屋電気鉄道(名古屋鉄道、名岐鉄道)。

関東・関西でも1920年代に新たに開業した会社は、都市間電車を「鉄道」として開業しました。新京阪鉄道(現・阪急京都線)、目黒蒲田電鉄など現・東京急行の各線、小田原急行鉄道、阪和電気鉄道、参宮急行電鉄がその代表例です。
現・近畿日本鉄道の大阪線は、軌道で開業した「大軌」(奈良線)から分岐したために、1927年までに作られた八木以西は軌道でしたが、八木-桜井間(1929)は鉄道で開業しています。“軌道もどき”の尻尾を引きずっていた都市間電車も、実体に合わせて鉄道とする方針に転換し、先ず新線部分から実行されたようです。

既存の“軌道もどき”も、この方針を受けて、大部分が鉄道に変更されました。主な私鉄の変更年です。
九州鉄道(現・西鉄)(1938年)、旧「大軌」の関西急行鉄道(1942年)、東京急行電鉄の旧「京浜」路線(1943年)、旧「京王」路線(1945年)、京成電気軌道(1945年)、阪神電気鉄道(1977年)、山陽電気鉄道(1977年)、阪急電鉄(1978年)、京阪電気鉄道(1978年)。結構時間がかかっています。

京浜・阪神から“軌道もどき”を追跡して、鉄道国有の時代を離れてしまいましたが、蒸気鉄道として開業した路線は、電化開業した新線を含めて、当然に都市間電車鉄道になりました。既報の南海[61516]、鉄道院(京浜間電車線)のほかに、現在の西武、東武など。

鉄道国有の 1906年当時は「軌道」として営業していた路線だが、現在は「鉄道」に変身している路線は、上記の京浜電気鉄道、阪神電気鉄道のほかにも、この記事に2社登場しています。

江ノ島電気鉄道(藤沢-極楽寺)。1910年鎌倉まで延長。1945年鉄道に変更。江ノ島鎌倉観光を経て江ノ島電鉄。
小田原電気鉄道(国府津-湯本)。日本電力を経て1928年 箱根登山鉄道。1919年箱根湯本から先の登山鉄道を開業した後、1935年に小田原-箱根湯本間も鉄道を開業し、軌道は廃止。
# 国府津-小田原間は、1920年に鉄道省の熱海線が開通し、既に同社の軌道は廃止されています。
[61836] 2007年 10月 11日(木)19:59:38hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(17) 川越電気鉄道
都市間電車[61549]と呼ぶのは、少し憚りがある「田舎の電車」なのですが、鉄道国有法の1906年に開業した「川越電気鉄道」。
地方都市では、小田原・別大・江ノ島・伊勢などの行楽電車[61533]は別として、高知(1904)、瀬戸(1905)に続く早い出現です。1906年末には三島・沼津間と大井(恵那市)・岩村間にも電車が走り始めるのですが、hmtの地元ということでもあり、川越の「軌道電車」について少し語ります。

川越電気鉄道は、川越の久保町(現在でも東京電力がある)に発電所を作り、埼玉県で最初の電灯を川越町に提供した(1904年末?)会社です。1年余り後の1906年4月に大宮駅との間を電車で結びました。
自社の火力発電所で使う常磐炭輸送を考えれば、日本鉄道から貨車が直通できる構造にしたほうが便利だと思うのですが、東京の路面電車と同じ1372mm軌間です。鉄道国有法を意識して、わざと1067mmを避けた軌道を用いたのかもしれません。

この会社の電力事業は、大宮への給電、神流川水力電気へと発展し、社名も「武蔵水電」と、電力を表看板にします。
川越には、既に川越鉄道[61304]が通じていましたが、こちらは甲武鉄道国有化によって国分寺経由の新宿乗り入れルートを失ない、東京方面にアクセスする電化新線に活路を見出そうと目論んでいました。
武蔵水電は、川越鉄道を統合して、この事業を推進しました。
経営が帝国電灯に移った1922年に、鉄道部門は電力会社から分離されて、「西武鉄道」を名乗ります。

余談ですが、現在知られている「SEIBU」ブランドは、前年の1921年に淀橋町(新宿)-荻窪間で青梅街道の路面電車(後の都電14系統)を開業した「西武軌道」を発祥とします。
西武軌道の前身(堀之内軌道)は、荻窪から先の田無・所沢までの特許を申請していました。そのため、東京への新線を目論む武蔵水電はこの軌道を併合し、その「西武」の名が、上記のようにして 旧・西武鉄道へと持ち込まれたわけです。

東京へのアクセス地点は 荻窪から高田馬場に変り、東村山からの新線が 1927年開通し、川越と東京を結ぶ都市間電車が走り出しました。こちらは、もちろん「鉄道」です。戦後の1952年には、新宿(仮駅)への延長も実現しました。結局、国鉄新宿駅乗り入れは実現せず、仮駅の位置がターミナルになりました。

先走りしましたが、旧・西武鉄道は、戦時体制化の私鉄統合に際して、武蔵野鉄道と東武鉄道との争奪対象になりました。
結局は、武蔵野鉄道の堤康次郎[46290]が、根津に流れかけた株を入手し、現・西武池袋線が東武の間に挟まれる形になることを阻止しました。
「西武」という名は、堤に気に入られたとみえて、武蔵野・西武・食料増産の3社統合後の社名(西武農業鉄道1945)にも使われ、堤が買収した菊屋百貨店も、「武蔵野」を経てやがて「西武」になります。

川越-大宮間の軌道電車(西武大宮線)に話を戻します。
この電車は、ほぼ並行する区間に鉄道省の川越線が1940年に開通すると、到底太刀打ちできなくなり休止、翌年廃止されました。
国道16号を走る西武バスも、最近は川越-大宮間の直通がなくなり、すっかり「埼京線」の時代になっているようです。

無駄話をひとつ。
このシリーズでは、「軌間」という言葉をたくさん使っていますが、MS-IMEのデフォルトでは「軌問」という誤変換が出ます。
普通に入力したらこんな間違いは生じ得ない筈なので、どこかで「OCR による読み間違い」が入ってしまい、かつそれを見逃したケアレスミスによるものと想像します。

少し前に話題になった 「おおすみ問題」 では、
IMEの単なるミステイクが今の今まで続いているとも考えにくく、意図的である可能性があります。
というご意見もあったのですが、「軌問」のような明白なミスが放置されている実例を見ると、「意図的」と考えることはないと思われます。

こちらのケースも、共犯に OCR がいるのではないかな?
[61876] 2007年 10月 13日(土)14:31:46hmt さん
100年前、国有化の頃の鉄道(18) おわりに
日露戦争後の1906年に成立した鉄道国有法。関西鉄道を最後に 17社の買収が完了してから100年になりました。
その頃の鉄道を振り返る このシリーズでは、法律が制定されるに至った事情(1~2)、 主な買収対象であった五大私鉄(3~6)、官鉄や非買収を含めた各地の鉄道(6~11)、法律的には鉄道でなかった軌道・電車(12~17)という内容で綴ってきました。

コトの発端となった南海鉄道の件だけに限れば、

関西鉄道の国有化する方針により、既に和歌山県の県庁所在地への線路(和歌山線)を確保していた明治政府としては、大阪-和歌山間を結ぶ南海鉄道は、“一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道”にすぎなかったということなのでしょう。

という程度の短いコメントだけで足りましたが、「鉄道国有」という制度が成立し、実施された背景に言及したがる性癖が出て、関連事項に筆が及び、自分でも意外なほどの長編になりました。

もっぱら文章で記述してきましたが、100年前の鉄道路線図については、「逢坂山から眺めた鉄道史」の中にある 百三十年史 を御覧ください。1906年初、つまり国有化前には、私鉄が優位であったことが一目瞭然です。

この時点の官設鉄道は、東海道線(横浜、浜大津への支線あり)のほかに武豊線・信越線・中央東線・篠ノ井線・奥羽線・北陸線・舞鶴線・山陰線・境線・呉線・肥薩線(国鉄時代の線名で表示)が開業していたことを(8)~(11)回で記しました。
このほかに東海道線大船から軍港横須賀に通じる横須賀線が、明治22年(1889)の東海道線全通 [61303] とほぼ同じ頃に開通しています。また、 1892年の鉄道敷設法による第一期線[61108]である中央線の名古屋口も、1902年には中津(現・中津川)までが開通していました。

リンクしたサイトで 1908年を表示させてみると、日本の鉄道の殆んどが国鉄に変ったことを確認できます。

但し、この路線図では、後の時代に(例えば戦時買収で)国鉄になった路線は記されているが、南海・東武など、私鉄に終始した路線は図示されていないことに御注意ください。もちろん、軌道も無視されています。

このシリーズを書く際に座右に置いて常に参照したのは、「私鉄史ハンドブック」です。和久田康雄さんが集めた膨大な私鉄史の資料を、コンパクトな表の形にまとめて出版されたものです。もちろん、同氏の「日本の私鉄」およびその他の方々の著作物も参照させていただきました。

もうひとつ、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに収録されている「法令全書」。これもずいぶん利用しました。
既に[59112][59173]などでもリンクしていますが、今回も多くの明治の法令の原文に、容易にアクセスすることができました。
1年前に「北海道地方費令」の記事[53950]を書いたときは、まだ 近代NDL の存在を知らず、別の本から探してきたことを思うと、便利になったものです。

…といいながら確認してみると、[61226]で記した 「私設鉄道法」(明治33年法律第64号)にリンクがついていませんでした。しかも、明治23年と誤記。此の場を借りて訂正しておきます。

余談ですが、この法律と同日に制定された明治33年法律第65号 「鉄道営業法」 は、 現在 でも有効です。
第十五条  旅客ハ営業上別段ノ定アル場合ノ外運賃ヲ支払ヒ乗車券ヲ受クルニ非サレハ乗車スルコトヲ得ス
無賃乗車を禁じたこの規定の趣旨は現在でも当然のこととして受け入れることができますが、現実に乗車券に取って代わってしまったプリペイドカードについては、別の規則が定められているのでしょうか?
第15条第2項の規定(下記)は、現実には守るのが困難になっていますね。
乗車券ヲ有スル者ハ列車中座席ノ存在スル場合ニ限リ乗車スルコトヲ得

明日、2007年10月14日「鉄道の日」は、新橋横浜間鉄道の正式開業[49808]から135周年になります。
大宮に 鉄道博物館 が開館します。

長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。
[61864]音無鈴鹿 さん が言及してくださったように、100年前、街には電車が登場し、家々には電灯が灯りはじめた時代の雰囲気や活気が伝わり、また現代との接点を改めて見直す「よすが」ともなれば幸いです。

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