たけもとさん、mikiさん、情報ありがとうございます。
修正しました。町村の公式HPも少しずつ登録していますので
よろしくお願いします。(にこ^^;)
[998] 2002年 2月 28日(木)17:02:07 | miki さん |
東北にもあるアイヌ地名 |
東北にもアイヌ地名はありますよ。
岩手県北上市和賀町...ワッカ(水)が転じたもの。
ワッカというと稚内もそうですよね。
「別」に似たものとして、「内」も多いですね。どちらもアイヌ語で「川」を意味します。「ナイ」なのにいっぱいあるんですね。和人はうそ付きだ(笑?)。
また、「幌」は「大きい」と言う意味ですから、その反対に「奔」(ホン・ポン)すなわち「小さい」という地名もあります。
ただし、アイヌ語をそのまま訳したのか、それとも実際の地形がそうなったいたのか、によって意味が変わる場合もあります。
「上流」や「下流」がそうです。アイヌ民族は、川は「神の通り道」として、「海から入って山を抜けて天へ登る」と解釈します。ですから、我々の感覚で「山から海へ向かって下る」と考えるととんでもないことに…。
[996] 2002年 2月 28日(木)11:48:37 | いわ さん |
Re: 静岡・清水合併 |
清水市側が編入されたように見えるのを嫌って、役所の位置等色々と言ってきていましたよね。
だから新市名が「静岡市」になったらそれこそ大変だと思います。
どう決着するのか私も興味があります。
[995] 2002年 2月 28日(木)11:41:40 | いわ さん |
合併と気象予報区 |
3月1日より一部地域の気象予報区の二次細分区域が変更になると聞きました。(ちなみに私の住む練馬区は23区西部になるそうです)
ところで栃木県では先日、新たな合併パターンの研究ということで河内郡上三川町、河内南河内町、下都賀郡壬生町、下都賀郡石橋町、下都賀郡国分寺町の5町による研究会が発足いたしましたが、仮にこの組合せで合併が行われるとします。
3月1日から新しい二次細分区域としては、上三川町、河内町は県央部に含まれ、壬生町、石橋町、国分寺町は南西部に含まれていますので、合併したときに二次細分区域を変更しないと同一自治体の中に2つの二次細分区域が存在することになります。
こういう場合はどちらかの区域に包括してしまうものなのでしょうか。
>>990
「南風原」もそうですが、九州で散見される「原=はる」の発音も
独特ですね。対する北海道だと、差当たり「別」「幌」「寄」「冠」か。
架空の地名で「悲別」「幌舞」なんてのも、いかにもと云う感じで。
そう云えば、茨城県の大子町と美和村の境界に在る「タバッコ峠」は
アイヌ文化の所産だとする説が在るそうですが、何か御存知ですか?
>>991
そう云う便利なツールの存在を失念したとは、失礼申し上げました。
>>993
既にそう云う段階に話が進捗して居たのですか。市街が事実上一体化
して居る事を思えば、当然と言えば当然ですが。新名称候補に付いて
「静清」の様な合造型は無かったのでしょうか?
[993] 2002年 2月 28日(木)09:11:22 | miki さん |
静岡・清水合併 |
静岡市と清水市との合併の際につけられる新市名。
「静岡市」「駿河市」「日本平市」
この中から今日決まるそうです。
さて、どの市名になるのでしょうか?
[991] 2002年 2月 28日(木)00:16:07 | オーナー グリグリ |
「津」「浦」「浜」のつく市町村 |
[975] 雑魚さんへ
「津」「浦」「浜」のつく市町村はぜひ「市町村データの検索」メニューをお使いください。以下のURLがその結果です。
【検索文字列:津】【検索結果】 市=22 町=52 村=13 計=87
【検索文字列:浦】【検索結果】 市= 7 町=28 村= 5 計=40
【検索文字列:浜】【検索結果】 市= 9 町=22 村= 2 計=33
ここをクリックしてみてください。
[990] 2002年 2月 27日(水)19:00:39 | Issie さん |
ちゃたん |
「ちゃたん」というのは「きたたに」が沖縄式の発音に変わったものですね。
本土式の発音と沖縄式の発音との間には,法則的な対応関係があります。
「ちゃたん」になるのは言語学的に説明できる現象です。
ちなみに沖縄の言葉で「北」は「にし」。「西」は「いり」で,「東」は「あがり」。「南」は何だったかな?「南風」なら「ふぇー(はえ)」です。
「ぐすく」(ぐしく)は沖縄独自の単語。一応「城」という漢字があてられるけど,本土の「しろ」とは別物と考えるべきですね。
でも地名としては(それより先に人名で)「しろ」への読み替えがどんどん進んでいますね。
ちなみに,那覇は沖縄の発音では「なーふぁ」。首里は「すい」。糸満は「いちゅまん」。南風原は「ふぇーばる」。
宮古島の平良は沖縄(本島)では「ふぃらら」だけど,宮古島の発音では「ぴさら」。
これらの発音は公式地名にはなっていませんけどね。
東風平(こちんだ)、南風原(はえばる)、今帰仁(なきじん)等々
沖縄ならではの言語体系の所産かと。「城」を「ぐすく」と読むのも
固有の現象ですが、市政施行が予定されて居る豊見城村にある高校は
何故か「とみしろ」と読むそうです。
台湾では、歴史的な経緯を踏まえ、沖縄は自分達の側に帰属するのが
自然だという物凄い主張があるそうな。
[988] 2002年 2月 27日(水)17:26:29 | ケン さん |
下松市と能美町 |
周南市は2市2町で行きそうです。下松市は光市と大和町と合併したほうがよさそうです。
江田島市は能美町を除く3町で行く可能性です。能美町は福島県矢祭町のように合併しない宣言をした方がよさそうです。
[986] 2002年 2月 27日(水)16:52:14 | miki さん |
難読地名・2 |
沖縄県北谷町。
「きたたに」と書いて「ちゃたん」と読むのはどうも沖縄なまりのような気がしますが...。
[985] 2002年 2月 27日(水)16:35:05 | miki さん |
能美町 |
ついに能美町が合併協欠席ですね。
「江田島市」実現は難しくなりそうですね...。
六合村の公式HPより (一部改変)
六合村には「小雨」「生須」「入山」「太子」「日影」「赤岩」と大字が
六つあり、これが「六合」となりました。「くに」と読む由来は古事記、
日本書紀の記述(神武天皇即位のくだりのすぐ前)に「兼六合以開都」と
記してあり「くにのうちをかねて、以て都を開く」と読んでいます。
「六合」は、東西南北及び天地を意味し、支配の範囲を示し、国(くに)を
意味します。六合村を「くにむら」と読むのは、このところからであると
言われています。
・・・・・・・・だそうです。HPの扉には幻想的な野反湖の写真がありますが、
これ実は信濃川水系です。ここから流出する魚野川(湯沢、六日町方面の
それとは別物。)を少し下ると私の故郷である雑魚川が合流します。(藁)
[983] 2002年 2月 27日(水)11:46:50 | miki さん |
難読地名の謎 |
群馬県六合村。
6つの村が合併して成立した村なので「六合」の字が当てられています。
ところで、どうして「ろくごう」と読まず「くに」と読むのでしょうか?
分かる人は教えて下さい。お願いします。
[982] 2002年 2月 27日(水)11:00:11 | 深海魚[雑魚] さん |
2003年センター試験予想問題 (嘘) |
以下の地名群から仲間はずれを抜粋せよ(藁)
A ①北千里 ②南千里 ③草千里
B ①松本平 ②佐久平 ③藤田平
C ①北海道 ②水海道 ③合気道
D ①白根山 ②白神山 ③白頭山
E ①安心院 ②少年院 ③養老BR>
F ①津久見 ②只 見 ③脇 見
>>976
要衝の中津を失念してました・・・・・・(汗)。
>>979
東に流れるルートというのは追波川の事ですね。そうすると、河北町の
中心部から鹿又駅付近に至る連絡水路の如きは、余り機能して居ないと
いう事でしょうか? 追波川河口の北上町や上流部の北上市は、河川に
因んだ命名と思いますが、どうも後者の場合は「黒沢尻」の印象が強い。
現称に落ち着いたのはいつ頃の話ですか?
河川が環状を成して居るという点では、新潟県の中ノ口川や宮崎県の
五ヶ瀬川河口付近、青森県の十三湖絡みも興味深いです。
[980] 2002年 2月 26日(火)22:36:38 | いわ さん |
周南合併 |
何かと話題の多かった周南市構想ですが、既報通り下松市は離脱、議会の意見が割れていた熊毛町は参加で落ち着きました。
6月に2市2町で「新たな」法定合併協議会を設置する方向で準備を始めるようです。
[979] 2002年 2月 26日(火)22:14:08 | Issie さん |
もとい!北上川 |
…と思ったら,逆でした。
もともと北上川は宮城県内に入った後,現在の流路よりもすこし西を流れ石巻北方で二手に分かれて一方は東へ流れて太平洋へ,一方は南へ流れて石巻へ注いでいた。で,どちらが本流かといえば東へ流れる方が太かったらしい。
これを江戸時代初めに河川改修を何度か重ねて石巻ルートの方を本流にして,東に流れるルートは堤防で本流から切り離してしまった。
ところが1910年に大洪水が発生し,この対策として江戸時代の改修で放棄された旧流路をもう一回掘り直し,東へ流れるルートを再度本流として復活させることになった。で,この工事は1934年に完成。1953年には新流路の分流点で北上川の水を旧流路へ落とすことをやめて,石巻に北上川本流の水が(直接)流れ込むことはなくなった,ということだそうです。
参考:宮城県高等学校社会科教育研究会地理部会「宮城県の地誌」,2001年
[978] 2002年 2月 26日(火)21:57:08 | Issie さん |
川の付け替え |
阿賀野川の場合は,それ以前に砂丘を突っ切って人工的に開削された掘割(方水路としての機能はほとんどない)が,1731年春の融雪洪水でいっぺんに切れて本流になってしまった,ということのようです。
つまり,「付け替えた」のではなく「付け替わってしまった」ということらしい。
大河川の付け替えでは,ほかに北上川が有名ですね。
もともと真っ直ぐ南の石巻で海に注いでいた川を寛永年間に仙台藩が改修を行って東の太平洋に注ぐように付け替えた。
といっても全区間を新しく開削したわけではなく,以前からあった流路に手を加えたものですが,それでも大工事であることに変わりはありません。
この河川改修が北上川下流の平野が仙台藩の穀倉地帯となる出発点となり,同時に石巻がそこで生産される(南部藩領も含めて)米の積出港として発展する基礎にもなったわけです。
[977] 2002年 2月 26日(火)21:40:06 | Issie さん |
酒田と鶴岡 |
酒田には江戸時代の初めに山形の最上義光が支城を置いたことがあるのですが,1622年にその最上氏(山形藩)が改易されて酒田の城下町としての機能も失われたようです。
この短期間を除いて古代以来,酒田は一貫して最上川河口の港町として機能してきました。
> 庄内の場合、最上川の峡谷で奥羽線沿線と隔てられて居る事もあり
というよりも,この場合は最上川の水運を通じて上流の最上・村山地方との結びつきは強かったようです。
現在の奥羽線ルートではなく,雄勝峠-鳥海山-有耶無耶(うやむや)関の線で出羽国が「山形県」と「秋田県」とに整理されたのは,その意味で合理的です。
むしろ,明治初めの出羽分割の際に酒田を含む飽海郡が「羽前」でなく「羽後」に組み込まれたことが不思議です(同じように,陸奥の分割のしかたにも?なところがありますね)。
室町時代以来,最南部の置賜地方を除く出羽南部に強力な支配を確立した最上氏(足利一族の斯波氏)が1622年に改易された後,その旧領は分割されて庄内地方には譜代大名の酒井氏が送り込まれました。で,鶴岡がその支配の拠点となり城下町として発展することになります。
(ちなみに,置賜地方は戦国時代の伊達氏から豊臣時代は蒲生氏,そして秀吉の死去直前からは上杉氏が支配。)
以来,行政の中心としての鶴岡と経済の中心の酒田という機能分担が成立して現在に至ります。同時に鶴岡は庄内南部(東・西田川郡),酒田は庄内北部(飽海郡)それぞれの中心でもあります。
もっとも酒田は最上川水運が衰退し,奥羽線が開通するまでは庄内だけでなく上流の最上・村山・置賜もその勢力圏に置いていたのですが。
戦後,山形県が庄内地方南北の行政拠点を1ヵ所に統合しようとしたとき,やはり鶴岡と酒田のどちらか一方とするのには無理があったのでしょう,両者を統合した「庄内支庁」(現在は庄内総合支庁)は(JR羽越線ではなく国道で)両市のちょうど中間の三川町に置かれています。
[976] 2002年 2月 26日(火)19:16:58 | ブルーアイズ さん |
974へのレス |
大分県民ですが、他に大分県に「津」がつく地名が4つもありました。
中津市
日田郡 前津江村
日田郡 中津江村
日田郡 上津江村
です。
此れも凄い付替えですね。結構色々有るものだ。Issieさんに拠れば
阿賀野川もそうだったとか。
水への拘りで、今度は海岸や湖岸絡みで「津」「浦」「浜」の付く
自治体を探して見たいと思います。
道内) 標津、浦河
東北) 金浦
関東) 北浦、美浦、霞ケ浦、袖ヶ浦、木更津、君津、富津、富浦、白浜
中部) 両津、内浦、美浜、小浜、高浜、沼津、焼津、津、御浜
近畿) 長浜、大津、宮津、泉大津、白浜、美浜
中国) 温泉津、安芸津、豊浜、豊浦
四国) 豊浜、上浦、長浜、明浜
九州) 津屋崎、唐津、郷ノ浦、玉之浦、上浦、津久見、米水津、内之浦
その他、駅名だと「大津港」「直江津」「米ノ津」辺りでしょうか?
[974] 2002年 2月 26日(火)16:14:04 | まにあめ さん |
>973 |
>信濃川の大河津分水が該当しそうですが、他にどんな所が有るでしょう?
大阪では江戸中期(1704年)に行なわれた大和川の付け替えが有名でしょうね。
大和盆地~大阪平野東部を経由して大阪城付近で淀川(現在の大川)に合流
していたのを、大阪平野を一直線に堺へ流れるように付け替えました。
これにより、大坂の町の洪水はなくなり、旧河川であった河内は新田開発が
盛んになりました。一方、新たな河口ができた堺には大量の土砂が流れ込み、
それまでの港湾都市としての機能を失っていくことになります。
ところで庄内といえば、鶴岡と酒田が二大都市と言えますが、これらは
どの様に機能分化して居たのでしょうか? 単純に見れば、鶴岡が城下町、
酒田が港湾都市という事になりますが、酒田にも城址が有る様ですし。
殿様すら凌駕する「本間様」の話も有名ですね。
余談ですが、小学生時、河口直前で最上川に合流する赤川の流れを改め
洪水防止の手立てとした話を社会科で習いました。同様の例としては、
信濃川の大河津分水が該当しそうですが、他にどんな所が有るでしょう?
まあ考えて見たら、江戸時代の話ですが、利根川もその類ですよね。(藁)
宍道湖だと佐蛇川と云うのが有るけど、地元の方に伺った処、放水路と
しては脆弱との事。
[972] 2002年 2月 26日(火)08:42:42 | miki さん |
969へのレス。 |
中国では「荘」は「庄」と表記します。
ですから秋田県本荘市も埼玉県本庄市も同じ「本庄市」という表記になります。
「荘内」というと、取り敢えず銀行を連想しますね。鶴岡南高も確か
旧制時代に名乗って居た様な。(旧制中学の内、特に古参格の学校と
城下町との相関に興味が有りまして。)
庄内の場合、最上川の峡谷で奥羽線沿線と隔てられて居る事もあり、
歴史的にも別個の発展を遂げた様ですね。同地の有名な造り酒屋の
経営者の方は、北前船を介して、加藤清正公の末裔に当たるとか。
(という事は、同地選出の与党某大物議員の方も又然り?)
但し、1981年に六十里越街道が全面的に整備され、高速道路も可也
進捗した現在では、山形市指向が強まって居る様に見受けられます。
庄内地方は廃藩置県4ヵ月後の1871年11月2日の府県統合で「酒田県」となりました。しかし,1875年8月31日付けで県庁が移設され「鶴岡県」となっています。
1876年8月の全国的な府県再編で米沢盆地の「置賜県」とともに村山・最上地方の「山形県」に統合されています。
「庄」と「荘」。
本来の漢字自体としては別々の文字でしょう。しかし実際の使用上は「同じ意味の文字」として扱われ,お互いに“交換可能”です。
とはいっても長年の習慣で,秋田県の「本荘」と埼玉県の「本庄」,一般名詞でも「荘園」と「庄屋」というように一応の書き分けが成立して定着していることも多いのですが。それでも,「本荘/本庄」「荘園」「庄屋」の「荘/庄」は全部語源が同じですね。
というわけで,本来は「荘内」も「庄内」もどちらの表記も“あり”です。
ただし現在ではもっぱら「庄内」の表記が広く行われ,公式の行政地名の表記としても採用されている,というわけですね。
> 旧制の中学や高女、特に公立校の分布も、人文地理的な考察には一部
> 資する様です。税務署や合同庁舎なども又然りですね。
そうそう。
実業学校も含めて,どこにどういう順番でどういう種類の学校が設置されたのか,というのは設置者である府県が地域をどのように把握していたかをある程度反映します。
別に旧制起源の伝統校に限らず,人口が急増した都市で小中学校や公立高校がどこに,どの学校を母体に設置されたかを追う,というのも面白いかもしれません。
山形県の庄内地方は、廃藩置県の時点で何県だったのか?
「庄内」と「荘内」はどう違うのか?
成程、確かに峠を越えた方が楽な場合が在りますね。姫川流域の白馬、
小谷両村が長野県に、久慈川流域の矢祭、塙、棚倉の各町が福島県に
属する必然性もそれに通じる事情がある様に思います。
鉄道で云うと、聖高原に於ける篠ノ井線や、白石川に於ける東北線が
該当しそうですね。海岸絡みだと窪川町の土讃線-土佐くろしお鉄道
及び宇和町の予讃線という処ですか。(藁)
そう云えば「ドラゴンドラ」で耳目を集める苗場界隈も、下流となる
清津峡は難所の為か、車で中里方面に下る場合は、一旦魚野川の谷に
出る必要が在りますね。こう云う例は多いんだろうな。
戊辰戦争の遺恨に付いては、或いは白虎隊の悲話等から、誇張された
部分が在るのかも知れませんね。学歴ネタで恐縮なのですが、福島の
旧制中学は一中が郡山、二中がいわき、三中が福島、四中が相馬との
分布でして、二中よりも開学が早い会津中学が、県立移管の遅れから
ナンバースクールに漏れたのも、斯かる背景の所産ではないかとする
見方が結構ある様です。
旧制の中学や高女、特に公立校の分布も、人文地理的な考察には一部
資する様です。税務署や合同庁舎なども又然りですね。
[967] 2002年 2月 24日(日)21:06:36 | Issie さん |
戊辰戦争伝説 |
> 戊辰戦争の遺恨
別にこの話題に関して,ということではないのですが…
一般的な話として,私は「戊辰戦争で…」という話はあまり信用していません。
もちろん,個々の話題について確かに戊辰戦争が原因で,ということはあるのだろうと思います。
しかし,「賊軍」「官軍」という色分けで全部をひっくるめて一律に説明する説は信じることができない。
たとえば,よく話題になるのは都道府県名について。
いわく,「賊軍」であった地域の県は懲罰の意味も含めて従来の藩名から改称された…。
これは本当か?
現在の47都道府県について大雑把に言えば,東日本では県庁所在地ではなく郡名による県が多く,西日本に所在地名による県が多いのは事実です(ただしあえて言えば,秋田・千葉・佐賀・大分・宮崎・鹿児島の各県は郡名と所在地名が同じで,どちらによるものか判断できない)。
でも,これは結果の話であって,1871年の廃藩置県の段階からこの47都道府県に統合することを構想していたとは思えない。
この47という数や各県の名称になるまでには多分に偶然によるものが少なくないし,途中の変遷を見れば,一概に「賊軍」「官軍」の色分けで説明できるほど単純なものではないように思います。
たとえば,「賊軍の首魁」であった徳川宗家の藩を前身とする県は,なぜいまだに「静岡県」なのでしょう(“駿河府中”から“静岡”へ改称したのは明治政府ではなく,徳川家自身です)。当然,真っ先に改称され,県庁が移転されてしかるべきです。
福島藩主の板倉氏は代々幕府の高官で,当然戊辰戦争の「賊軍」です。戦後に藩主は移転させられたけど,城下町の福島はそのまま県庁が置かれつづけ,しかも「信夫県」とはなっていません(1871年11月半ばの半月を除いて)。
新政府に協力的であった福井藩や宇和島藩を前身とする県は改称された上,隣接する県に併合されてしまいました(福井県はその後,幾多の変遷を経て復活しますが)。
新政府主流派の一角である「佐賀県」でさえ,しばらくの間はなくなっていたのです。
「戊辰戦争で…」と説明するのは簡単だし“面白い”のですが,それが本当かどうかはそれぞれの事例についてきちんと確認することが必要なのだろうなぁ,と思います。
もちろん,これは「戊辰戦争が原因である」というのを全否定するものではありません。本当にそれが原因の場合もあるでしょう。それがきちんと確認できればそれでいいのです。
ところで,福島と二本松の話,詳しいことは私は知らないのです。
> 以前、会津高原駅から高杖スキー場に抜けた際、途中の峠は結構な
> 難所でしたが、他はそうでもないのかな?
でも,1度峠を越えて伊南川の方へ出れば,後は谷も広く集落も多く,楽に只見へ到達することができますね。
山道に大変弱い鉄道と自動車が陸上交通の主役となって,現代では「谷底ルート」をまず連想するのですが,馬と人の足が主役だった時代には陸上交通では歩きにくい峡谷部をできる限り避けたものです。こういうときは,むしろ山間部や峠を迂回しています(海岸でも同じですね。親不知のように,どうしても迂回することができない場合だけ我慢してそこを無理やり通る)。
この場合,峠は分水界として地域を分けるよりも,“一番通りやすい交通路”として地域を結びつける方により強く作用することの方が多いように思います。
只見川沿いの峡谷を道を探して歩くより,1度だけ峠越えの苦労を我慢すればいいのであれば,こちらのルートの方が太くなることもあるかもしれません。
只見も含めた伊南川沿いの村々の場合は,むしろ駒止峠があるからこそ南会津地方の中心である田島との強く結びついたのだろうと考えています。
同じように,大沼郡の金山町や昭和村も博士峠を介して郡の中心の(会津)高田につながっているからこそ,「大沼郡」なのでしょう(なお,現在「大沼郡」の三島町と会津高田町の間に「河沼郡」の柳津町が割り込んでいるのですが,この町の南半分の西山地区は1955年に大沼郡から編入したものです)。
ただし,これはあくまでも若松が会津地方の中心で,ここへの交通手段が陸上交通だったことによるものです。
なぜなら,こうした陸上交通とは別に只見川の上には舟や筏による水上交通があったからです。
しかし,この交通路は川の流れのまま越後の方へ向かってしまいます。たとえばもし,只見川と大川の合流点に近い喜多方あたりが会津の中心であったなら,話は違ったかもしれません。
当時もっとも便利な大量輸送機関は舟なのですが,それでも合流点から川をさかのぼって若松へ行くことを考えれば,1度だけ峠を越える方が便利だったことでしょう。田島へ出て大川を舟で下ればいいわけだし。
御指摘の点から推すに、「福島」の県名は県都の福島市に由来すると
考えて良いのですか? 現県庁は城址の立地と聞いた事が在りますが、
二本松に比肩する有力処だったのですか? 又、福島遷都の背景として
戊辰戦争の遺恨で、なるべく会津から遠ざけるとの意向も作用したと
聞いた事がありますが、若松県の存在を考えると、良く判りません。
郡山市に付いては、東北線が到達する数年前に、文教政策の要となる
尋常中学(現安積高校)が開校して居ますが、いわゆる県立一中が
設置された辺り、郡山には何か必然性が有ったのかな、とも思います。
以前、会津高原駅から高杖スキー場に抜けた際、途中の峠は結構な
難所でしたが、他はそうでもないのかな?
[964] 2002年 2月 24日(日)14:35:29 | オーナー グリグリ |
京都府の区設置時期 |
さて、市町村データベースも少しずつ活用できるようになってきました。
町村の公式HPを登録することにしてしまいましたが、いずれ登録管理ツールを準備しますので皆さんのご協力に期待しています。また、検索ページも更新しましたのでご利用ください。
ところで、区の設置日(施行日)を調べていたのですが、京都府の区についてはよく分かりませんでした。Issieさんの地理データ集を参考にしましたが、第一法規の全国市町村要覧とは違いますね。経緯が分かりましたら教えていただければと思います。
後で気になって確認してみたら,それでも郡山市は福島県で3番目の「市」なんですね。
1.若松市:1889年
2.福島市:1907年
3.郡山市:1924年
4.平市:1937年
敗戦までに福島県で市になったのはこの4つ。
つまり“どんぐりの背比べ”状態で,多くの人口を集積させた都市が少なかった。
「県都」の福島への集積度も低かったんでしょうねぇ。
何しろ,若松よりも米沢,平よりも仙台の方が近いポジションですから。
折に触れて郡山が浮上する所以です。
でも結局,府県制施行以来,県庁が移転したことはないんですよね(もっとも,最近同一市内での県庁移転が盛んですが,明治半ばの行政区画では全く別の市町村になってることが多いんですけど)。
[961] 2002年 2月 24日(日)11:29:48 | Issie さん |
Re:福島県の謎 |
平安時代半ばの「延喜式」によれば,「会津地方」には当時“会津郡”と“耶麻郡”しかありませんでした。
つまり,阿賀野川-日橋川を境に以北が耶麻郡,以南が会津郡。
これはごく自然で,耶麻郡の領域は現在もこのままですね。
“大沼郡”と“河沼郡”は中世以降,地方区画に関して中央の統制の利かなくなった後に“会津郡”から分かれたものです。
14世紀に芦名氏(相模三浦郡の出身)が会津での支配を確立して以来,後に「若松」と呼ばれることになるあたりが会津の中心となります。
で,若松を中心にここからの交通路を考えれば,河沼・大沼・(南)会津3郡の領域も何となく納得がいくように思います。
現在の感覚では,只見線(旧会津線)があるせいで“只見川ルート”を一本に考えてしまいがちなのですが,若松から大沼郡西部へ行くには只見川へ出ない方が行きやすいようですね。
只見の場合も通ってみた感じでは,只見線ルートよりも同じ南会津郡の田島から行くほうが途中の山越えも楽な気がしました(若松から田島への峡谷部はやはり大変なのですが,こちらは白河や日光へ抜ける“幹線ルート”ですから)。
> 郡山と福島の沿革
郡山への移庁論は,やはり何度も出ているようですね。
ただ,少なくとも現在の府県が確定するまでの明治前半の段階では,都市の規模や機能の点で郡山は福島の“敵”ではなかったようです。
当時の福島のライバルは,やはり二本松。
どちらも「賊軍」という点では同じですが,福島藩板倉氏が3万石の小藩なのに対して二本松藩丹羽氏は10万石。意外に規模の違いは大きいですね。
実際,廃藩置県4ヵ月後の府県統合の際,“浜通り”は平(磐前県),“会津”は若松(若松県)と問題なく県庁所在地が決まったのに,“中通り”は初めに「二本松県」で統合されたものの,わずか半月で「福島県」へ変更されています。かなり微妙な問題があるのでしょうね。
当時の郡山はごくありふれた小宿場町。江戸と会津を結ぶメインルートはさっきの大川沿いのルートですから,ここに分岐点としての機能はあまりありません。
ここが都市として発展するのは明治後半に東北線と岩越線(現磐越西線)の分岐駅となり,繊維産業が進出してからのことです。
(戦後の“インフレ”で価値が暴落する前の)「市」になったのは,ようやく1924年のことです。
いい加減国内ネタに戻りまして、次なる謎は福島県。
郡と云う単位が、政治経済的に或る程度一括りに出来るものと考えると
福島県の大沼郡や南会津郡も結構謎ですね。同じ阿賀野川水系ですが、
大川と只見川で地域が二極化されて居る様に思えます。分水界は相応の
峠で隔てられて居るだろうに、同じ郡に属する必然性は何でしょうか?
又、只見川の上流部が新潟県湯之谷村や群馬県片品村に接して居るのも
特異な印象を受けます。水利権の問題でしょうか?
そしてもう一点は中通の主要都市、郡山と福島の沿革です。この一帯は
歴史的には白河や二本松と云った城下町が古参と思え、戊辰戦争絡みで
色々あったのかな、とも思います。又、街の位置や交通網を勘案するに、
郡山県都論も少なからずあったと推察しますが、その辺御教示賜りたく。
当該掲示板の情報では、島嶼を含めて新規の市政施行予定が目白押しの
様相ですが、先ず人口要件ありきで、従前の感覚で求められたであろう
核となる市街地の存在は余り問題ではなくなったのかな、という印象も。
換言すれば、市と郡部の境界がぼやけて来たというか。私も山間郡部の
住人だけど、その内「市民」になるのかな?(そう云えば以前、とある
野党々首が、日本の自治体構成は数百の市に収束されるべきだ、とする
趣旨の発言をしてましたね。)
[958] 2002年 2月 23日(土)22:55:22 | オーナー グリグリ |
全国の市町村一覧 |
「全国の市一覧」をようやく「全国の市町村一覧」に拡張しました。
面積データ、人口密度データなど更新し、公式HPのページを独立させました。
町村の施行日、公式HPは工事中です。これから時間をかけて登録していくことになります。
また、合併、編入など「市町村の更新情報」のページを独立させました。
間違い等あると思いますので、気が付かれたらして指摘して下さい。よろしくお願いします。
[957] 2002年 2月 23日(土)21:42:28 | miki さん |
938へのレス |
そうです。
広島市もそうですよね。
安芸郡、安佐郡、佐伯郡、高田郡。
岡山市は御津郡、児島郡、都窪郡、吉備郡、上道郡。
[956] 2002年 2月 23日(土)08:37:24 | miki さん |
大崎上島3町合併 |
広島県の大崎町、木江町、東野町の合併ですが、新町名が3/24の合併協議会で決まる見込みです。
なお、候補は「上島町」「大崎上島町」の2案です。
また、合併目標は2003.4(日はまだ未定)だそうです。
明確な規定の有無は不詳ですが、漢字文化圏の固有名詞の表記や発音は
或る種の相互主義に基づくとか。発音に付いては、韓国の場合は、概ね
現地式に則る様ですが、中国だと人名は日本語の音読みが主流ですね。
多分、四声の発音の難しさが介在するのでしょう。
韓国の盧泰愚元大統領は、訪日時の晩餐会演説で「日本」「平成」を
「イルボン」「ピョンソン」と発音したと記憶します。現大統領の場合、
私の世代だと「きんだいちゅう」事件の印象が余りにも強いですが。
イトマン事件を巡る英語の報道では、許永中被告の名前に付いて、
「エイチュウ・キョ」及び「ホ・ヨンジュン」と、日韓の別で氏名が
逆転して居ましたっけ。日本人名の英訳に於ける氏名の逆転の是非は
結構論争になって居ましたね。
[954] 2002年 2月 22日(金)08:44:23 | miki さん |
続編。 |
まだまだありました。
1.中国...青海省
2.中国山東省...福山(フーシャン)
3.中国雲南省...下関(シヤコワン)
4.中国青海省...共和(コンホー)
>953
NHKでは韓国の固有名詞をカタカナで表記するんだそうです。
他の新聞などではなぜか漢字表記が多いですよね。
全部カタカナ表記に統一した方がいいのではないでしょうか?
中国の場合、文革で漢字が徒に簡略化された結果、僻地同士の
意思疎通が困難になったそうで、日本の漢字はどの程度、識別
出来るんでしょうね? まあ韓国にしても、日常はハングルで
済んでしまうので、漢字の識字率は高くないと言われますが。
[952] 2002年 2月 21日(木)20:11:21 | miki さん |
まだまだ...。 |
私の海外同一地名探しはまだまだ続きます。
1.台湾...玉里(ユイリー)
2.中国...湖北省
3.中国...海南省
4.上海市...松江(ソンチャン)
5.四川省...江津(チャンチン)
6.ロシア...チタ
[951] 2002年 2月 21日(木)17:34:06 | miki さん |
949へのレス |
そうですよね。
ホーチミンでも「胡志明」ですからね。
日本加除出版の分厚い本(タイトルは何とか「総覧」でした)を見ますと、「分立」とは別に「分割設定」という言葉がありました。
行政区の分区は「分割設定」でしたね。官報を確認し忘れたのですが、「分立」は「○○の区域を分かち云々」、「分割設定」は「○○を廃し、○○及び××を云々」と考えて宜しいのでしょうか?
釧路町と札幌村の違いは、「釧路村」ほかが合併してできた釧路町が、区制施行の際に新たな「釧路村」が分離した、札幌村は町村制の前から存在した、ということです。
他の府県はまだ見てませんが、後から「上」やら「下」やらが冠に付いた町村がたくさん出来てますね。
今でも「上川郡下川町」というわかり難い町がある。富良野は大変です。
「樺太庁」の廃止…。廃止されたんでしたっけ。「実効性喪失」だったような(「樺太庁官制」)…。
ベトナムは元々が漢字文化圏であると共に、華僑も少なくない為、
ハノイやホーチミン等の主要都市では、漢字紙が結構あるそうな。
ドイモイ(刷新)政策で「リトル・ゴルバチョフ」等と呼ばれた
グエン・バン・リン書記長は「燕文霊」(記憶違いなら失礼)と
表記した様ですが、中国人に示したら判りませんでした。(藁)
[948] 2002年 2月 20日(水)21:56:09 | Issie さん |
同一地名 |
ベトナムも漢字文化圏ですから,地名・人名を漢字で表記することができますよ。
こんなのもあります。
ハノイ(河内)
トンキン(東京)
タイソン(西山)
[947] 2002年 2月 20日(水)20:57:06 | Issie さん |
南部氏と安藤氏 |
前言を少しく(いや,“大幅に”かな?)訂正します。
奥州藤原氏の滅亡後,鎌倉時代から戦国時代にかけて津軽を中心に現在の秋田県北部から北海道の渡島・檜山地方の南部にまたがる地域に勢力を広げたのは「安藤(安東)氏」でした。
前九年の役で滅ばされた安倍氏の末裔を自称していますが,本当のところはどうでしょうか。ただ,少なくとも蝦夷(えみし)の系統に連なるものであったことは確かなようだし,いろいろな意味で奥州藤原氏の遺産を引き継いだ一族ではあったようです。
一方,奥州の太平洋側の地域には関東から多くの鎌倉御家人が領地を得て移住してきました。
甲斐出身の南部氏もそうだし,現在の仙台市周辺に勢力を広げ戦国末期に伊達氏の支配下に入った国分(こくぶん)氏(名字の地は,現在の千葉県市川市国分[こくぶん]。つまり,下総の千葉氏の一族)などもそうです。
特に,現在の盛岡周辺に勢力を広げたのは足利氏でした。足利一族の“斯波氏”の名字は,盛岡市南方の「斯波=紫波郡」に由来します。
鎌倉幕府内での執権北条氏による独裁体制が確立していく中,奥州はその北条氏の支配下に置かれていたのですが,鎌倉幕府が衰退から滅亡に向かい南北朝の混乱期に入ると,かつて北条氏の被官(家来)の地位にあったこれらの豪族が抗争を繰り返すようになりました。
その中で頭角をあらわし,奥州北部の糠部(ぬかのぶ)郡(一戸~九戸に分割される)を統一したのが南部氏でした。
南部氏は北奥羽における支配権を室町幕府から承認され,今の八戸周辺を中心に南の北上川上流域へ勢力を延ばしていくことになります。
安藤氏や南部氏だけでなく中央の足利氏や斯波氏・細川氏など,室町時代前半までは分割相続が一般的でしたから,勢力のある一族ほど多くの家系に分かれていました。細川氏のように割と遅くまで一族全体の統率がとれていたものもありましたが,多くの一族では同族内での抗争が頻発しました。応仁の乱の原因となったのは斯波氏と畠山氏の同族内での抗争です。
結局こうした抗争を通じて室町時代までの有力大名のほとんどが滅亡し,“大名の総取っ替え”を経て江戸時代の幕藩体制が確立します。
当然,安藤氏や南部氏も御他聞に漏れず,一族内での抗争を繰り返しています。さらに安藤氏と南部氏との間の抗争もやはり激しいものでした。やがて,津軽では南部氏が安藤氏を圧倒し,ここに一族の“大浦氏”が送り込まれました。この大浦氏が戦国末期に南部氏から自立して“津軽氏”となったのです。
一方,安藤氏はこの抗争によって大きく勢力を後退させ,結局は出羽北部に勢力を持っていた“檜山安藤氏”が一族内での支配権を確立し,津軽海峡を渡った渡島・檜山地方では若狭守護家の出身と言われている武田信広が安藤氏の一族である蛎崎氏に“婿入り”し,この地方の支配権を継承しました。
南部氏の中では,いまだ抗争の種を残しつつ三戸南部氏が支配権をほぼ確立します。
この状態で豊臣秀吉による全国統一を迎え,蛎崎氏・檜山安藤氏・三戸南部氏・大浦氏それぞれの支配権が中央政権によって承認されました。
蛎崎氏はその本拠地から「松前氏」,檜山安藤氏は秋田地方に本拠地を置いて「秋田氏」,そして大浦氏は弘前城下町を整備して「津軽氏」を名乗ることになりました。三戸南部氏も1600年頃に名前の通りの三戸地方から盛岡に本拠地を移して,北奥羽の勢力地図が一応確定しました。
しかし関ヶ原の戦いの後,徳川家康は関東の中で徳川氏に敵対していた常陸水戸の佐竹氏を秋田へ遠ざけ,変わって秋田氏を南奥州(現福島県)の田村郡に移して(三春藩),これが江戸時代を通じて北奥羽の大名配置となったのです。
[946] 2002年 2月 20日(水)18:32:10 | miki さん |
同一地名・台湾編 |
台湾にも日本の地名と同じ地名がたくさんあります。
1.台北市内
三重(サンチョン)、中山(チュンシャン)、大安(ターアン)、中和(チュンホー)
2.その他市町村
板橋(ハンチャオ)、新城(シンチョン)、豊浜(フォンピン)、長浜(チャンピン)、鹿野(ルーイエ)
既出ネタは御勘弁頂くという事で、市区町村名前と同じ韓国の地名です。
但し先方の行政単位は不詳。全国図に有る地名の抜粋なので、多分何れも
自治体レベルとは思うのですが。
ソウル市 / 江東(カントン)、江南(カンナム)、城東(ソンドン)
江 原 道 / 大津(テージン)、東海(トンヘ)、山陽(サニャン)
京 畿 道 / 城南(ソンナム)、板橋(パンギョ)、松川(ソンチョン)
済 州 道 / 長田(チャンジョン)、高山(コサン)
忠清北道 / 深川(シムチョン)、松江(ソンガン)、玉城(オクソン)
忠清南道 / 三角(サムガク)
慶尚北道 / 赤城(チョクソン)、東部(トンブ)、大川(テーチョン)
慶尚南道 / 河東(ハドン)、金山(クムサン)、花山(ファサン)
全羅北道 / 玉山(オクソン)
全羅南道 / 石橋(ソッキョ)、南陽(ナムヤン)、河南(ハナム)、安城(アンソン)
こうして見ると結構有りますねえ。韓国でも地名の重複は多い様です。
読み方の片仮名表記は不正確なので、まあ参考程度に。
[944] 2002年 2月 20日(水)17:25:59 | ケン さん |
長崎県の合併問題 |
長崎県でも多数の地域で合併構想がありますが、福島県矢祭町のように合併しない宣言をする所も出てくるそうですね。
[943] 2002年 2月 20日(水)09:47:48 | miki さん |
外国の地名と同じ地名・2 |
1.滋賀県山東町、兵庫県山東町→中国山東省
2.島根県大田市→韓国大田(テジョン)市
3.宮城県河北町、山形県河北町→中国河北省
4.宮城県河南町、大阪府河南町→中国河南省
[942] 2002年 2月 20日(水)09:43:09 | miki さん |
埼玉県大里町 |
4/1に埼玉県大里村が大里町に町制施行します。
できるだけ早めに追加して下さい。
お願いします。
すると極端な話、青森県全域が南部氏の支配下にあった訳ですか。
何れにせよ、盛岡界隈が本家という訳ですね。二戸前後の山間を
越えての所領という事は、相当の勢力を誇ったのでしょうか。
(奥州藤原氏との接点は有りますか?)
昨日のNHK「プロジェクトX」ですが、最初のみ一瞥をした処、
風害を奇貨として発電事業に邁進した山形県立川町が紹介されて
居た様です。庄内地区では、ピンポイントで風が酷いそうですが、
此れは最上川が平野部に出る地形の産物でしょうか? 上流部の
戸沢村から立川町にかけての山峡部は、ライン下りが行われる等
風光明媚ですが、奥羽線沿線の山形県主要地域の下流という事を
考えると、ちょっと複雑ですね。(それを言い出したら、程度の
差は有りますが、京都の保津峡等も又然りですが。)
[940] 2002年 2月 20日(水)04:06:59 | いわ さん |
Re: 937 |
>ROMさん
多良見町は「県央地区任意合併協議会」のメンバーでした、これには諫早市、森山町、飯盛町、高来町、小長井町が含まれています(つまり「長崎県の市町村合併パターンの基本的な考え方」に沿っている組合せ)。多良見町以外は確か住民アンケート実施までいっていたと思うので、協議会の議論の中で外れる方向性がでてきたと思われます。
多良見町は以前から「西彼杵郡市町村合併調査研究会」として西彼杵郡(長崎市は入っていません)の研究会活動にも参加していました。
そして昨年、多良見町は参加していない「長崎地域広域行政調査検討委員会」(長崎市、香焼町、伊王島町、高島町、野母崎町、三和町、長与町、時津町、琴海町、大瀬戸町、外海町)が発足しています。
そこで、この「長崎地域~」からは一部の町が外れている多良見町、長与町、時津町、琴海町という組合せと西彼町、西海町、大島町、崎戸町、大瀬戸町、外海町という組合せが「長崎地域~」以外として浮上してきます。
その後は
[894]に記したように現時点の報道によると、
多良見町、長与町、時津町、琴海町に西彼町が加わり、
「長崎地域~」に一旦は加わると思われた西彼町、西海町、大島町、崎戸町が離脱し、
西彼町、西海町、大島町、崎戸町、大瀬戸町、外海町から西彼町、大瀬戸町、外海町が離脱
という方向になるようです。
諫早市との合併からは外れることにした多良見町が、長与町等に働きかけた結果が今の組合せの一因ということなります。
それぞれの町での様々な思惑が動いた結果なのでしょうね。
ただひとつ不気味なのは1月ごろは西彼杵郡の合併に関して様々な報道があったのですが、最近ちょっと鳴りを潜めています。法定合併協議会設置の議案提出までは日数がありますから、大ドンデン返し!なんてことがあるかもしれませんので、これからも各地の報道を注意深くチェックしていきます。
ところで、対馬市は評判悪いんですか?(汗
市の名前ですか?それとも協議の内容ですか?
[939] 2002年 2月 20日(水)01:13:36 | ROM さん |
訂正 |
× 明治以前の区分に遡れば、旧茂木町も(北)高来郡。
○ 明治以前の区分に遡れば、旧茂木町と旧日見村も(北)高来郡。
ひょっとしたら、旧矢上村も高来郡かもしれない。
連続書き込み失礼。
[938] 2002年 2月 20日(水)01:00:33 | ROM さん |
2郡にまたがる市・長崎県編 |
>>905 mikiさん
>>910 ケンさん
佐世保市
市街地を含む南東部が東彼杵郡、残り西北部が北松浦郡。
長崎市
大部分が西彼杵郡だが、旧東長崎町(旧矢上村・古賀村・戸石村)のうち
古賀・戸石地区が北高来郡。
明治以前の区分に遡れば、旧茂木町も(北)高来郡。
前回の昭和の大合併以降に市域を大幅に広げた市は、複数の郡から町村を編入しているケースが少ないないですね。
ご指摘の福岡市もそうですが、たしか岡山市・広島市あたりも3郡(それ以上だったっけ?)からかき集めているはず。
調べれば山のように出てきそう。
[937] 2002年 2月 20日(水)00:25:51 | ROM さん |
Re: 市町村合併 長崎県の場合 |
>>894 いわさん
私、長崎市出身なので、平成の大合併、やっぱり一番興味あるのは長崎県です。
市街地が連続している長与町は、長崎市との合併は拒否なんですか?
多良見町がその長与町(のグループ)と合併というのも意外です。同一郡とはいえ、諫早市か長崎市と合併(というか編入)するのが自然と思うのですが。
対馬市は評判悪いですね(苦笑)
今回の大合併政策に当たり、従来の“市”“町”“村”という行政単位名を捨てて、新たな名称を設定すれば、旧来の“市”というイメージにこだわった(JRの国鉄時代からの特急の大安売りに対する鉄道マニアの批判と同じような)批判が生ずることもなかったのに。
とは言うものの、その新たな行政単位名称をどうするか、全然思い浮かばないですけれど。
[936] 2002年 2月 20日(水)00:01:58 | ROM さん |
国とか郡とか |
>>932 Issie さん HPの地理データ集 、重宝しております。
木曽谷のほうは以前は美濃国だったという話ですが、一方の伊那谷の方も一時期ですが“諏訪国”だったことあるようですね。旧“国”は、明治初期の陸奥・出羽の分割を除けば固定だったイメージがあったのですが、古代に遡ればそうでもないんですね。とは言っても、“国”の分置統合の例は少ないでしょうけど。
けれど、境界線の移動はけっこう各地で行われていたようですね。武蔵国と下総国との間の境界変更もそうだし。
しかし、“国”(+“郡”)という行政単位は、律令制が事実上瓦解した後は無意味になっているはずなのに、明治初期まで生き残っている(だけでなく、ときおり修正している)のは興味深いです。
結局それは、封建制の下、各領地が飛び地でもって輻輳してしまい、それらを実際上の行政単位(という呼び方はふさわしくないかもしれませんが)で括ることができなかったことも一因なんでしょうけれど。
ところで現在も生き残っている“郡”ですが、これ、現在推進中のいわゆる“平成の大合併”の後も(地域名称として)存続するんでしょうかね? 全域が“市”に昇格する(つまり“郡”が消滅する)地域はともかく、そうでない地域はほとんどが1郡1町になってしまいそうですが。
あと“地方公共団体コード”ですが、これもグチャグチャになってしまいますが、一段落した後で番号を振りなおすことはしないのでしょうかね。
そんなことすれば移行作業で余計な手間ヒマかかるからそのままなのかな。
どうなんでしょう?
[935] 2002年 2月 19日(火)22:29:16 | Issie さん |
相馬と南部 |
> 以前、相馬野馬追祭を特集したNHK番組で「千葉県流山に相馬藩の飛び領が在った」と仄聞しました。
これは,相馬藩主の相馬氏の出身地が下総の「相馬郡」であるからです。
相馬氏は,もともと下総北部の豪族で,現在の茨城県取手市や千葉県我孫子市のあたりを領域とする下総国相馬郡,あるいは相馬御厨(みくりや)を“苗字(名字)の地”,つまり発祥としています。
伝承の上では,常総地域を本拠に「反乱」(京都から見たら)を起こした平将門(“相馬の小次郎”という通称があった)を祖先とする,と言っているのですが,これはまあ,怪しいものですね。
この相馬氏が源頼朝の奥州征伐(奥州藤原氏を滅ぼした)に参加し,その恩賞として陸奥南部の行方(なめがた)郡が与えられてこの地に移住しました。以来,相馬氏は隣りの宇多郡を含めた地域の領主として幕末,そして廃藩置県に至ります。
そうして,行方・宇多両群にわたる相馬氏の領地が「相馬領」または「相馬藩」と呼ばれて定着しました。
明治半ば,郡制施行のためにこの2つの郡が統合されたとき,新しい郡の名称として「相馬郡」という名前が“初めて”採用され,現在に至るのです。
つまり,もともとここに「相馬」という地名があったのではなく,領主の相馬氏が下総から“持ってきた”ものなのです。
下総の相馬郡は明治に入ると利根川を境に茨城県と千葉県とに分割され,茨城県側は「北相馬郡」,千葉県側は「南相馬郡」となりました。そして,南相馬郡は郡制施行の際に東葛飾郡に編入され,茨城県の「北相馬郡」だけが残りました。
実は江戸川に面した流山の市街地はもともと(東)葛飾郡に属していて相馬郡の一部あったことはないのですが,流山市の一部が相馬氏の勃興期に“相馬御厨”の一部あったことはあるかもしれません。
南部氏の場合も,本来は有名な武田氏と同族の「甲斐源氏」の一族であり,甲斐国巨摩郡南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を“名字の地”とする一族です。
こちらも,中世以来,出身地の甲斐国ではなく,もっぱら奥州北部に勢力を拡大し,戦国末期までにその支配地域について「南部(領)」という呼称が定着しました。
やはり,甲斐出身の南部氏が「南部」という地名を甲斐から持ってきたのです。
> 青森県八戸市一帯が南部藩に属した必然性です。
これは話が逆で,戦国時代までは現在の青森県の領域,「南部」に属する下北半島だけでなく「津軽」の半島先端まで,その全域が南部氏の支配下にあったのです。
“津軽氏”はもともと南部氏の一族であり家臣であったものが戦国時代に自立し,それが豊臣政権によって認められ,続く徳川政権もそれを継承したのです。
南部氏(南部藩)としては本来“家来筋”にあたるはずの津軽氏が勝手に独立したわけで,当然認められるものではありません。言ってみれば,今の中国(北京政府)にとって台湾の政権が勝手に独立を志向しているようなものです。
一方,津軽氏(津軽藩)から見れば,盛岡の南部本家だけでなく八戸の分家(八戸藩)その他の分家(支藩)との間にかなり複雑な事情があったようです。
ともかく,「南部」の方から見れば勝手に独立した「津軽」に対していい感情は持たないし,反対に「津軽」からすれば独立後も陰に日に意地悪をしつづける「南部」を敵視したくなるのは人情と言うものでしょう。
恐らくは,府県の大きさを“適正規模”に整理していく過程で,旧津軽領(津軽5郡)に旧南部領(支藩を含む)北部(下北・上北・三戸八戸)で「青森県」の領域が確定するのですが,「津軽」と「南部」の地域対立はそう簡単には解消しない,ということなのでしょうね。
[934] 2002年 2月 19日(火)22:28:08 | Issie さん |
海上郡 |
> 千葉県海上郡海上町(かいじょうぐんうなかみまち)もそうです。
> 町役場に質問したところ、もともとから「かいじょうぐん」だそうです。
これは「近代以降は」という意味ですね。
古代は「うなかみ郡」と読んでいました。
その後,いつの頃からか音読みで読む方がポピュラーになったのです。
同じ例には,相模の高座郡(たかくら → こうざ),三河の碧海郡(あをみ → へきかい),阿波の海部郡(あま[べ]→ かいふ)など,結構たくさんあります。
登米(とめ)郡は“音読み”ではない(…マイは“音”だから,そうでないとも言えないか...)けれども,同系列の話ではありますね。古代は「とよま郡」でした。
で,郡名のほうは“より簡便な”音読みの方が定着して,それが明治初めの郡区町村編制のときに採用されたけれども,町村制の施行に備えた“明治の大合併”で生まれた新町村のうちのいくつかは,“なぜだか”「うなかみ」とか「とよま」と言った“古風な”読み方の方を採用した,ということでしょう。
#ちなみに,愛知県は明治半ばの郡制施行に際して,中世以来分割されていた「海西(かいさい)郡」と「海東(かいどう)郡」を統合して古代の「海部郡」を復活させ,“わざわざ”古代の読み方である「あま郡」という名称も復活させました。徳島県(阿波)の海部郡は「かいふ」,大分県の(南北)海部郡は「あまべ」と読むのにも関わらず。
釧路市・釧路町合併協議会ができるみたいなのですが、もともとは、釧路市は
釧路町も含まれていました。しかし、釧路町と釧路市に分離したそうです。
それで、分離の意味がないと思うのですけど・・
[932] 2002年 2月 19日(火)18:57:11 | Issie さん |
木曽は実は美濃の国 |
「木曽」は古代には独立した“郡”ではありませんでした。
現在の木曽川上流から奈良井川上流にかけての地域が漠然と「きそ」(木曽,岐蘇,その他漢字表記はさまざま)と呼ばれていたようです。
何しろ「すべて山の中」(by 島崎藤村)の木曽谷のこと,開発のほとんど進んでいない中世以前,木曽は独立した郡を置くほどの所ではなかったのでしょう。今で言うところの高速自動車道に相当する古代の官道である東山道は当時,現在の中津川から峠を越えて伊那谷を経由して上田(移転後は松本)にあった信濃国府へ向かっていました。
実は,古代の信濃と美濃の国境は木曽川と奈良井川の分水界にあたる鳥居峠であったと考えられています。
つまり,現在の木曽郡のうち奈良井川上流の楢川村の区域だけが“信濃”で,木祖村以西の木曽川流域は“信濃”ではなく“美濃”の恵那郡のうちだったと考えられているのです。
中世にはこのあたりの帰属は不安定で,木曽全域が“信濃”に属することが確定したのは実は江戸時代の初めです。
同じ頃,古代には奥羽へ向かっていた東山道を“江戸行き”につけかえた中山道(中仙道)が木曽谷経由で整備され,さらに尾張藩領となって森林開発が進んだことで,ようやく木曽谷の発展が始まりました。
源平交替期に活躍した源(木曽)義仲は,木曽谷で成長したことから信州では地元の英雄・偉人の1人として(“あんな国歌”よりもはるかに広く,かつ親しく,心をこめて歌われる)県歌「信濃の国」でも歌われているのですが,その頃の木曽が信州であったかどうかは微妙なのですね。
そもそも「筑摩(つかま)郡」というのは梓川を境に松本平の南半分,つまり奈良井川流域をさす地名(梓川以北の高瀬川流域が安曇郡)ですから,この川の最上流部で鳥居峠の“信州側”にあたる現楢川村の区域が「筑摩郡」に含まれるのはごく自然なことです。
江戸時代になって木曽全域が信濃に属することが確定すると,そのまま「筑摩郡」に編入されました。で,明治になり郡が分割された際に,現在の楢川村以西の「木曽」と呼ばれた区域が「西筑摩(ちくま)郡」とされ,「木曽郡」に改称されて今に至るのです。
何やら Issieさんへの質問専科になっておりますが、レスどうもです。
又一つ賢くなりました。(藁)
少し地域を変えて、此れも積年の疑問。以前、相馬野馬追祭を特集した
NHK番組で「千葉県流山に相馬藩の飛び領が在った」と仄聞しました。
そうなると、茨城県北相馬郡もそれに関連した命名かと拝察しますが、
実際どうでしょうか?
もう一つの疑問は、青森県八戸市一帯が南部藩に属した必然性です。
不来方城の存在から考えて、当時の中心地は現在同様盛岡でしょうが
奥中山峠の分水界を含むこれだけ長距離に及ぶ山間部を経て、同藩に
属したのは特異な事ではないかと思われます。これは偏に開港政策の
所産でしょうか?
現在も同地では津軽地区への対抗意識は強く、高校野球の地区予選で
両地域の学校が対戦すると、応援合戦も物凄いとか。他方、八戸市の
伝統高校は創立百周年記念で岩手の高校を招待試合に呼んだそうで。
[930] 2002年 2月 19日(火)09:25:08 | miki さん |
外国の地名と同じ地名 |
外国の地名と同じ日本の地名です。
1.長野県小諸市(コモロ)
2.鳥取県羽合町(ハワイ)
3.福岡県金田町(カナダ)
[929] 2002年 2月 19日(火)08:56:26 | miki さん |
925へのレス。 |
新潟県三島郡三島町(さんとうぐんみしままち)だけではありません。
千葉県海上郡海上町(かいじょうぐんうなかみまち)もそうです。
町役場に質問したところ、もともとから「かいじょうぐん」だそうです。
宮城県登米郡登米町(とめぐんとよままち)の場合は何があってこのような読みになったのでしょうか?
[928] 2002年 2月 19日(火)08:51:56 | miki さん |
筑摩と木曽 |
そうそう。
木曽郡一体も「西筑摩郡」でしたよね。
ところが68.5.1に現在の郡名に変更されましたね。
「筑摩」と「木曽」。
どちらが本来の地名なのでしょうか?
...なんとなく「筑摩」ではないかと思いますが?
> 千島3郡は「昭和26年10月放棄」
これはサンフランシスコ条約が1951年9月8日に調印されたからでしょうね。
約1ヶ月のズレは,調印後の国内での事務処理のせいでしょうか。
条約が発効したのは1952年4月28日のことです。
現実がどうであれ,日本の領土であり日本政府の統治下にあるべき地域をソ連が「不当に占拠」しているという立場にある日本政府としては当然の主張ですね。これを“第三国”が認めるかどうかは全く別の次元の問題ですが。
当然,樺太庁以下の行政組織も1945年8月に「消滅」しているのですが,建前上,正式な手続きによる「廃止」はもっと後に行われているはずです。でも私はまだ,それに関する法令を見つけ出していません。
こういう次第ですから,領有権を「放棄」した得撫以北の千島列島と南樺太についてはともかく,択捉以南の“南千島”の行政区画は現在も「廃止」されてはおらず,占領された1945年8月半ば当時の状態で「凍結」されています。
つまり,形式上は国後郡以下の5郡6村の行政区画は「存在」するけれども,この区域に地方自治法は施行されておらず,当然に各町村はこの法律による自治体ではない(そもそも区画は存在しても,それぞれの行政機構は存在しない)。
なお,旧憲法下でも得撫以北の“中千島”“北千島”を含めて,千島列島の“村”には自治制は布かれず,したがってこれは「自治体」ではありませんでした。
実は,自治省が編成した「地方公共団体コード」ではきちんとこれらの村にも番号が与えられているのです。
01695:色丹郡色丹村
01696:国後郡泊村
01697:国後郡留夜別村
01698:択捉郡留別村
01699:紗那郡紗那村
01700:蕊取郡蕊取村
なお,北海道では支庁にコード番号が与えられていて,郡は無視されます。これらの各村は「根室支庁」に属します。
[926] 2002年 2月 18日(月)22:06:47 | Issie さん |
筑摩県松本 |
> 「筑摩」は松本一帯の県名にも使われたそうですが、その守備範囲は?
「筑摩(ちくま)県」は,廃藩置県後の1871年11月の全国的な府県再編によって,信濃国のうち南西半にあたる安曇・筑摩(いわゆる「中信」)・諏訪・伊那(いわゆる「南信」)4郡に飛騨国全域3郡を管轄区域として設置され,県庁を筑摩郡松本に置きました(だから「筑摩県」と言う)。
ちなみに,小県(ちいさがた)・佐久の2郡が「東信」,更級・埴科・高井・水内4郡が「北信」とよばれます。ただし,更埴2郡は特に北半分が長野市に編入されて以降,更埴市以南の区域は「東信」に含まれることが多くなっています。
「中信」と「南信」とで広義の「南信」,「東信」と「北信」で広義の「北信」となります。前者の区域がつまり「筑摩県」の信濃国部分でその中心が松本,後者の区域が旧「長野県」で中心はもちろん長野。
この南信と北信,つまり松本と長野の対立は余りに有名です。
木曽は筑摩郡に含まれます(だから「中信」の一部)。1879年に筑摩郡が東西に分割されると,いわゆる「木曽」の地域が「西筑摩郡」となりました。残り,松本平の南半分が「東筑摩郡」。1968年に西筑摩郡が「木曽郡」と改称されて現在に至ります。
ところで,1871年7月の廃藩置県以来11月に府県の再編が行われるまでの4ヶ月間は,従来の「藩」がそのまま「県」に変わっただけで,したがって全国いたるところに府県の飛び地が存在していました。
たとえば,現在の神奈川県海老名市の区域には下野の「烏山県」や下総の「佐倉県」の飛び地がありました。それぞれ,烏山藩・佐倉藩の飛び地だったからです。隣の寒川町から茅ヶ崎市にかけての区域には三河の「西大平県」がありましたが,これもやはり西大平藩(藩祖は有名な大岡越前守忠相)の飛び地,というより旗本時代からの大岡家の本領でした。
群馬県の川場村が東京都の世田谷区と合併するという話がありますが,またこの時代に戻ろうってつもりなんですかねぇ。
総務省は口先では「自治体のため」の市町村合併と言っていますから,地元の意思を尊重するなら当然あってしかるべきパターンだとは思いますが。
> 「深志」の地名
さて,さっき筑摩県の県庁所在地を「筑摩郡松本」と書いたのは,当時は「松本」という行政区画が存在しなかったからです。
そこにあったのは「北深志村」と「南深志村」(“町”だったかも)。「松本」というのは,この2つの区域からなる旧城下町の総称でした。
「深志」と「松本」を比べたら,当然「深志」の方がずっと古くて,その起源がわからないほどです。
「松本」は始まりが一応はっきりしていて,1582年にこの地に復帰した小笠原氏が「深志城」を「松本城」と改称したことに始まる,と言われています。以来,江戸時代を通じて城主(藩主)はどんどん変わっていきましたが,ここの城下町は「松本」と呼ばれて発展しました。
松本城下町は,お城の外堀の役目をする女鳥羽(めとば)川を境に北側の武家町である「北深志」と南側の町人町である「南深志」とからなっていました。で,これが明治半ばの町村制施行で両区域を統合した「松本町」が発足するまで続いていました。
したがって,1960年代後半からの“住居表示”による新町名が編成されるまでは松本市の中心部は「北深志」と「南深志」の2つの“大字”から構成されていました。現在ではそれぞれの区域のごく一部に「北深志」「深志」という新町名があります。
> 新潟県三島も、郡が音読み、町が訓読み
越後(新潟県)の「三島郡」は古代と近代とでは区域が違っていたようで,直接連続するものではありません。
古代の「三島郡」は「みしま」と読んだようですが,現在の「三島(さんとう)郡」の直接の前身にあたるのは中世から近世にかけて「山東(さんとう)郡」と呼ばれていた郡です。長岡から見た“西山丘陵”の東側,という意味ですね(ちょっと,ややこしいのですが)。これが古代の「三島郡」(確か,現在の刈羽郡の一部だったような)と混同されて,「さんとう」という読みに「三島」という表記が当てられ,これが明治になって固定化したものです。
「三島(みしま)町」は1955年に脇野町と大津村の一部が合体して発足したのですが,このときに“お約束”に従って新町名を郡名からとったのだけど,読み方は“より素直な”「みしま」の方を選んだのでしょうね。なぜなのか,私にはわかりませんが。
#余談ですが,もう20年ほど前ですね,三波春夫がNHKの紅白に出演したとき,テロップで出身地が表示されたのですが(彼の出身地は三島郡越路町),しっかり「みしま郡」と“誤った”ふりがながふってありました。まあ,よくある間違いです。
> 白馬岳と白馬村
これは,「正しかろうが間違っていようが,地名ってどんどん変わっていくもんなんだよ」ってお話の見本みたいなものですね。
まず,山の名前は本来「しろうま岳」が正解です。
なぜなら,この名前の由来は春先の雪解けの季節に,山の斜面に「馬」の形をした“雪形”(残雪による模様)が現れることにあるからです。
麓の農民は,山にこの馬の形が現れるのを田んぼの“代掻き”を始めるサインにしていました。
だから,この山を「しろうま岳」と呼んだのです。漢字で表記すれば「代馬岳」。
でも,「しろうま」と聞いて自然に連想する表記は「白馬」なので,やがて「白馬岳」という表記が定着しました。実は山の斜面に現れるのは「黒い馬」なのですが。本当は「白馬岳」という表記がすでに間違いなのです。
ともかく,山登りをする人の間ではもちろん「しろうま岳」という読み方が定着するのですが,スキーなどによって観光地化してあまり山に詳しくない人たちがやってくるようになると,やや難度の高い「しろうま」よりは「はくば」と読まれることが多くなってきました。
決定打になったのは,1956年に麓の神城(かみしろ)村と北城(ほくじょう)村とが合併したときに,新自治体名として「白馬(はくば)村」を名乗ったことです。
なぜなんでしょうねぇ。
今では「はくば」の方が「しろうま」よりもずっとポピュラーですが,地元の人々の一部(特に地理関係者)の間ではいまだに「はくば村」という名前は不評です。
[924] 2002年 2月 18日(月)22:05:08 | Issie さん |
佐久市と佐久町 |
> 「千曲川」が漢字で書いた通りの意味との事ですが、どの辺りを指して
> 居るのでしょうか?
「くま(隅=曲流点)が千,つまりたくさんある川」という意味だ,と言われています。
しかし,本当かどうか。
昔から使われている地名の語源を探るのは容易なことではありません。
むしろ,「犀川」の方が全く意味不明。
「佐久市」の発足は1961年4月1日,「佐久町」の発足は1955年2月1日。
どちらも近隣町村の合体による新設自治体ですね。
お互いそれぞれ別個に,「佐久にある町」または「市」という意味で名づけたのだと思います。
佐久町の場合は旧南佐久郡栄村と海瀬(かいぜ)村の対等合併,佐久市の場合は旧北佐久郡浅間町(岩村田)・東村,南佐久郡野沢町・中込町の3町1村の対等合併。
特に佐久市の場合は,事実上,それぞれに勢力を持つ岩村田・野沢・中込の合併なので,どれか1つの町の名前を名乗るわけもいかず,こういう場合の常套手段はそれぞれの旧町村名の一部を組み合わせた“合成地名”とするか,それとも後腐れのない“全く新しい自治体名”にするか,ということになります。で,よく使われるのは所属の郡名を新自治体名とすること。この場合,それが「佐久町」であり,「佐久市」であったということでしょう。
町村の場合は同一郡内に,市の場合は全国で同名の自治体名は認めない,というのが自治省(当時)の指導ですが,この場合「佐久町」の後から「佐久市」が誕生しても“語尾”が違うので問題なし,ということなのでしょう。
「釧路市」と「釧路町」の場合は事情が違って,北海道で「町村」および「区」(後の「市」)を設置する(“内地”の市制・町村制とは若干違った制度下に置かれていた)にあたって,“釧路”という地域(釧路郡に属する)のうちで既に市街地となっていた区域を「釧路区」(1922年に「釧路市」),それに隣接する(だから市街地ではない)区域を「釧路村」(1980年に「釧路町」)としたことに由来します。
同じことは“札幌郡”のうちの「札幌区(→札幌市)」と「札幌村」の間にもありました。ただし,札幌村は1955年に札幌市に編入されましたが。
北海道にはこういう組み合わせがまだあったかもしれません。
[923] 2002年 2月 18日(月)21:49:13 | エサオ さん |
Re:Re:東北の合併話 |
いわさん、ケンさん
ありがとうございます。
参考になりました。
東北の場合、
合併してもメリットがなさそうな地域が多いのも
一因かもしれませんね。
それとも
ただ単に、
みんなの性格がのんびりしてるだけだったりして。
[922] 2002年 2月 18日(月)20:25:53 | いわ さん |
Re: 東北の合併話 |
確かに本日時点で法定合併協議会設置済となると、平成15年4月1日合併目標の宮城県加美郡の4町(中新田町、小野田町、宮崎町、色麻町)のみとなりますが、今春、法定合併協議会への移行が予定されている地区は他にもあります。
◎青森県上北郡の4町村(七戸町、上北町、東北町、天間林村)3月法定合併協議会設置予定
◎福島県白河市 + 西白河郡の7町村(西郷村、表郷村、東村、泉崎村、中島村、矢吹町、大信村)3月法定合併協議会設置予定
◎福島県東白川郡の3町村(棚倉町、塙町、鮫川村)4月法定合併協議会設置予定
任意での研究段階のところは他にも多数ありますが、組合せが流動的なところが多いです。
盛り上がっていない(ように見える)のは恐らく、昭和から現在まで、すでにかなりの編入が行われていているからなのではないでしょうか。
つまり緊急に合併(編入)する必要のあった町村ではすでに行われているということです。
現在、合併の議論がさかんなところはここ10数年の間に同県内で合併(編入)は実現していないところが多いように思われます。(徳島、香川、愛媛、長崎 等)
[921] 2002年 2月 18日(月)17:54:52 | ケン さん |
合併のこと |
世田谷区が群馬県川場村と合併話が出ていましたが、狛江市とも合併したらどうですか。
釧路市と釧路町の合併構想もありますが、歌志内市も周辺市町村と合併したらどうですか。
台湾や朝鮮の日本領時代はどういう市町村があったのですか。
東北の合併構想には盛岡市と滝沢村、矢巾町、宮城県柴田郡などがあるそうです。
地元の八王子市の青少年の家が長野県長門町にありますが、そこが八王子市になったら・・茅野市の北に八王子市ができてしまいそうですね。
わたしは1977年11月生まれなんですが、北海道内の市町村はずっと212でした(北方領土は除く)。
釧路市で合併協議会の設置が決まり、あとは釧路町で可決されれば、協議に入るわけです。
>樺太
なるほど。どうして気になったのかと言えば、町が5つあったからなんです。泊居あたりが「村」だったのかなあ、と考えてもみましたが、原典に当たれないものかと。
個人的には、昭和19年あたりに郡の再編がありましたが、これは未だに分かっていません。
「放棄」とソ連の占領の関係ですが、北海道の行政区画一覧によると、千島3郡は「昭和26年10月放棄」となっています。
岩見沢市立図書館には、昭和40年代のが1冊ありましたが、北方領土も含め「20年8月15日」で数の内から除かれています。
どうやら現在に至って変更されたようですが、まあ、負け惜しみのような気がしないでも…。
昨日の天気予報で、「奥尻島」に何とか注意報が出ていました。どうやら、普段は気づかなかっただけみたいです。
ありがとうございました。
[919] 2002年 2月 18日(月)12:17:18 | エサオ さん |
東北の合併話 |
他地域に比べて
東北地方では
合併のための話し合いが
ほとんど盛り上がっていません。
法定協議会は1箇所だけです。
どうしてなんですかねえ。
[918] 2002年 2月 18日(月)09:29:53 | いわ さん |
飛び地合併? |
正直言って今日の報道にはビックリしました。
「群馬県内に東京都世田谷区」ができるかもしれないって言うんですから。
スポニチ記事
http://www.sponichi.co.jp/society/kiji/2002/02/18/03.html
川場村は合併があるとしても沼田市と利根郡全体でまとまるものだと思ってましたので、実現するかどうかは別にして、選択肢として世田谷区があるというのが驚きです。
この例を私の住む練馬区に当てはめますと、友好都市として提携しているのは長野県小県郡武石村です。
ここには中学生スキー教室などの際に宿泊する練馬区立武石少年自然の家がありますし、災害時における相互援助に関する協定の締結、さらには練馬区によって武石村特別村民の募集なんかも行われます。
もしここが練馬区になったら・・・、松本市の隣に練馬区ができてしまいますね(笑)
ちなみに私が川場村の住民だったら、沼田市と利根郡でまとまる方に一票入れます。
「千曲川」が漢字で書いた通りの意味との事ですが、どの辺りを指して
居るのでしょうか? 支流の犀川なら一目瞭然ですけどね。(藁)
其の上流部の佐久市ですが、更に上流部に佐久町が有り、同様の例が
「釧路」でも見られますが、どういう経緯で同名の市と町が近接して
居るのでしょうね? 下流の新潟県三島も、郡が音読み、町が訓読みと
特異な感じ。長野県だと白馬岳と白馬村が似た様なものですが。
「筑摩」は松本一帯の県名にも使われたそうですが、その守備範囲は?
松本だと、地元屈指の進学校(貴兄の曽ての居住地の近所ですね。)の
名前にも使われる「深志」の地名が、どの程度の広域性や歴史を持つか
これも気になる処です。(観光バスガイド嬢によれば「深志の里」との
呼称も有ったとか。)
[916] 2002年 2月 17日(日)23:47:11 | かつ さん |
感謝! |
>ぐりぐりさん
センタリングの件ありがとうございました!今日ここにきたら
以前と同じ表示になっていました。タグのことはよく分かりませんが
いろいろと難しいのですね。感謝します。
[915] 2002年 2月 17日(日)20:59:38 | miki さん |
906への自分レス |
更級郡の字、間違えていました。
本当にすみません。
それにしても「更科」の字も使いますね。
>907~910、912
レスありがとうございました。
[914] 2002年 2月 17日(日)20:32:34 | Issie さん |
上越・中越・下越 |
> 新潟県は畿内に近い方から上越、中越、下越と区分される
いつから始まった区分なのか私は知らないのですが,通常「上越」は高田や直江津(つまり上越市)を中心とする頸城地方を指します。県北部の岩船地方や北蒲原地方が「下越」なのは疑いがありません。
微妙のなのは「中越」と「下越」の境界と,新潟の位置付けです。
通常,「中越」というのは長岡を中心とする地域と理解されていて,その場合には長岡市(古志郡と三島[さんとう]郡にまたがる)を中心に古志・三島・刈羽の各郡および魚沼3郡と,それに三条を中心とする南蒲原地方が含まれます。
「下越」を新潟を中心とすると考えれば岩船・北蒲原に加えて,西蒲原・中蒲原・東蒲原3郡も「下越」に含まれることになります。でも文化的には,新潟は中越の方に近く,先の岩船・北蒲原に限った方が合理的なこともあります。
つまり,一番問題なのは蒲原地方をどうわけるか,ということなのです。
行政の立場では,やはり新潟を「下越」に含めることが多いのですが,「中越」との境目はそれぞれの機関によってまちまちです。
ご参考までにこちらをどうぞ。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/kubun/tyubu_1.htm#niigata
気象庁の予報区分についてはこちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/tenki/t-hoku.htm#niigata
> これらの区分と「柏崎県」との関係は?
これはこちらを。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/k-tyubu.htm
魚沼地方は「中越」に含まれます。特に上越線(これは“上州・越後間の路線”という意味。頸城の上越とは全く無関係)で長岡と結ばれた北魚沼(小千谷が中心)と南魚沼(一応,六日町が中心)は問題ありません。ただ,十日町を中心とする中魚沼地方は高田・直江津方面との結びつきも強く,衆議院の中選挙区時代には上越と同じ「新潟4区」に含まれていました。長岡を中心とする中越地方は,言わずと知れた「新潟3区」ですね。「1区」は新潟近郊と佐渡,「2区」は下越というわけ。
> 千曲川と信濃川の分界
長野県と新潟県の県境です。
越後の方では「信濃から流れてくる川」という意味で「信濃川」と呼んでいるのでしょうね。
信州では「千曲川」というオリジナルの名前があるし,“信濃を流れているのは自明の理”という意識があるのかもしれません。
相模川は「相模の真ん中を流れ,相模を代表する川」という意味なのでしょうが,信州の人にはそういうネーミングをする感覚がなかったのかもしれませんね。
このあたり,昔からそう呼んでいるだけで別に理屈はないでしょう。全国で命名法が首尾一貫している必然性など,どこにもありません。
> 「千曲」と「筑摩」
「千曲川」というのは,漢字で書いたとおりの意味だと言われていますが,どうでしょうか。
「筑摩」は今でこそ「ちくま」と読んでいますが,もともとは「つかま」と読んでいました。現在でも,松本市南部の「筑摩地区」は「つかま」と読んでいます。
だから,これは“偶然の一致”と考えてよいでしょう。
[913] 2002年 2月 17日(日)20:31:21 | Issie さん |
新潟のこと |
> 阿賀野川のルート変更(現在の通船川?)
そうです。1731年までは現在の通船川が阿賀野川の本流でした。さらに南の新津市との境には「小阿賀野川」というのもあるから,こちらが優勢であったこともあるかもしれません。
いずれにせよ,このあたりは治水・排水事業が完了する1960年代まで極めて劣悪な泥田で,田んぼだか沼だか区別のつかないような状態だったようです。そのころの記録映画では亀田あたりの農民が胸まで泥につかって田植えをしている映像がよくでてきます。
新潟県が“おいしいお米の大産地”となったのは実はごく最近で,江戸時代以来の治水と農地改良の結果なのです。
[912] 2002年 2月 17日(日)19:39:06 | Issie さん |
みすずかる |
和歌の世界では枕詞の意味は詮索しないというのがお約束のようですが,当然もともとの意味はあるはずですよね。
岩波の古語辞典によれば「みすず」というのはシノダケ(篠竹)のことだそうで,「みすず刈る」となると,笹だか竹だかが生い茂っているところを伐り払いながら,つまり藪こぎをしながら進まなければならないほどの山奥ということなのでしょうね。
信濃路は今の墾道(はりみち) 刈株(かりばね)に足踏ましむな 沓(くつ)はけ わが背
という万葉集の有名な東歌そのまんまですね。
姨捨は平安時代の頃から「更級(更科)の姨捨の月」として有名だったようです。
ただし,現在「田毎の月」とされているのは善光寺平側斜面の更埴市姨捨の方ですが,平安時代は峠の反対側,現在は東筑摩郡になっている麻績(おみ)村側から姨捨山(冠着山)ごしに見た月のことを指したのだと言われています。
いずれにせよ,「さらしな=更階」とは田毎の月の情景が浮かびます。
ところで,長野市というのはもともと犀川左岸の上水内郡に属する自治体でした。
ところが1966年の大合併で,犀川と千曲川にはさまれた更級郡の区域から篠ノ井市と川中島町・更北村・信更村,千曲川右岸の埴科郡の松代町,同じく上高井郡の若穂町,さらに旧長野市の西に隣接する山間部の上水内郡の七二会(なにあい)村の区域を加え,つまりは4郡にまたがる市となっています。
また佐久市の場合も,北部の岩村田は北佐久郡の中心集落,南部の中込と野沢は隣の臼田町とともに南佐久郡の中心集落の1つで,つまりは南北佐久両郡にまたがっています。
千曲川をはさんで中込と野沢は半ば一体化した市街地をつくっているのでよいとして,問題は岩村田の扱いをどうするかということになり,結局合併後,市役所をはじめとする行政機関は中込と岩村田の中間の中込原に置かれることになりました。
10年ほど前は幾分寂れた感じの岩村田に対して中込の方がややにぎやかだったのですが,新幹線の佐久平駅が岩村田の近くにできて,このあたりどう変わることでしょう。
大阪のベッドタウンとして「大阪府名張市」と揶揄されているが、いっそのこと伊賀地区で合併するよりも大阪府の飛び地になったらいいんじゃないかと思うんですが。
[910] 2002年 2月 17日(日)17:56:41 | ケン さん |
更埴市 |
更埴市は戸倉町や上山田町と合併構想があるそうです。更埴市のように2郡にまたがる市も多いようです。
新潟市は西部が西蒲原郡、中部が中蒲原郡、東部が北蒲原郡です。
信濃川は長野県では千曲川を名乗っていますが、相模川は山梨県では桂川を名乗っています。
福岡市も福岡など西部(中央区、城南区、早良区、西区の東部)は早良郡、博多など中部(博多区、南区)は筑紫郡、東部(東区)は糟屋郡、西区の東部は糸島郡です。
山がちで階段状の地形(階=しな)というのは「田毎の月」で
有名な姨捨山とか典型そうですね。
信州といえば、枕詞の様に使われる「みすずかる」の意味も
不明です。どうも「薮コギ」に近い意味だそうですが。
[908] 2002年 2月 17日(日)17:05:48 | Issie さん |
科野国 |
そもそも「信濃」という国名が「科野」という意味らしい,とよく言われていますね。
で,「しな」とはシナノキという樹木のことだとか,山がちで階段状の地形(階=しな)によるだとか,諸説があるのですが,起源が古すぎてよくわからないというのが現状のようです。
ただし,「豊科」は例外。
これは明治になってから「鳥羽」「吉野」「新田」「成相(なりあい)」の4村が合併したときにそれぞれの村の頭文字を並べたもの。
「…しな」になるなんて,いかにもそれっぽくって違和感がないでしょ。
御指摘の他、蓼科、立科、仁科、明科、豊科・・・・という具合に
長野県には「科」が多いですね。どんな意味なのでしょうか?
地元で仄聞した処によると、更埴市では坂城町辺りと合併して
「科野(しなの)市」等の名称で広域化を目指して居るとか。
更埴市の屋代駅もそうですが、再編の進捗に伴い、自治体名と
中心駅の名称の乖離が出て来そうで、全国規模で路線網を持つ
JRの場合、遠隔地からの利用者は間誤付くかとも思います。
福島県いわき市や岩手県二戸市の様に、数年前是正された例も
在りますが。
そうした観点からすると、九州の「小倉」や「博多」の駅名も
一考を要しそうですが、博多の場合、城下町福岡と港町博多の
対等合併に際しては、市名と駅名を痛み分けで折半した経緯が
有るらしく、一概に是非を論じられるものではない様子。
一方、利用圏が限られた私鉄の場合は余り問題にならない様で、
大阪駅界隈では、JR以外は全て「梅田」を名乗って居ますね。
[906] 2002年 2月 17日(日)12:43:15 | miki さん |
付けたし。 |
代表的なのが長野県更埴市。
2つの郡の頭文字を取って市名にしたわけですからね。
更科郡と埴科郡。
[905] 2002年 2月 17日(日)12:41:42 | miki さん |
大津市(2郡にまたがる市) |
大津市は瀬田川で2つに分かれています。
西側が元滋賀郡、東側が元栗太郡。
こういった市は結構ありますよね。
[904] 2002年 2月 17日(日)08:15:59 | オーナー グリグリ |
Re:何ででしょう? |
>かつさんへ
ようやく原因が分かりました。IE6で再現することを確認し調べたところ、HTMLバージョンを指定する<!DOCTYPE>タグを不用意に追加していたことが原因でした。このタグでHTML4.0を指定していたためにIE6では表示が意図通りになっていませんでした。<!DOCTYPE>タグを外しましたので大丈夫だと思います。長い間ご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。今後とも表示不具合、改善要望等々、忌憚のないご意見をよろしくお願いいたします。
追伸:M.K.さんからも表示不具合の状況をご連絡いただきました。感謝です。
御回答有難うございました。新「潟」の地名、沼垂という
まったりした地名、鳥屋野潟の存在、そして、阿賀野川の
ルート変更(現在の通船川?)を勘案すると、南岸一帯は
湿地帯の趣だったのでしょうか?
潟、湖、沼、浦・・・・・それぞれの定義も気になります。
潟)八郎潟、河北潟、柴山潟
浦)万石浦、霞ケ浦、北浦、伊雑ノ浦・・・・・・・必ずしも
海洋絡みか否か、という感覚ではない様ですね。
ところで、その信濃川、上流部の信濃国では「千曲川」を
名乗る感覚が良く判りませんが、千曲川と信濃川の分界は
定義されて居るのでしょうか?(疑問の序でに「千曲」と
「筑摩」の関係も良く判らない。)
新潟県は畿内に近い方から上越、中越、下越と区分される
そうですが、具体的な区域は決まって居ますか? それと
これらの区分と「柏崎県」との関係は? そもそも魚沼は
中越と考えて良いのか? (湯沢、六日町、十日町方面)
・・・・・・等と考え出すと、新潟県も奥が深いです。
[902] 2002年 2月 15日(金)22:29:08 | かつ さん |
何ででしょう? |
>ぐりぐりさん
こんばんは。設定を変えられたようですが,症状は同じのようです…
何ででしょうね。僕だけでしょうか?他の方はどう見えているのか気になる
ところですが…文字サイズについては「以前と変わったんだな」と思っただけで別段気にはなりません!
[901] 2002年 2月 15日(金)01:27:24 | オーナー グリグリ |
Re:センタリング? |
センタリングの不具合の件、原因がよく分からないのですが、これでどうでしょうか。スタイルシートの設定を少し変えてみました。
フォントサイズについてですが、これもスタイルシートで12px固定にしました。というのも、WinとMacでは文字サイズにバラツキがあるため、スタイルシートでpx指定で固定にしました。この設定にするとブラウザローカルの文字サイズ設定に関わらず12px(=12pt)固定になります。したがって、これまでブラウザローカルで文字サイズを大きめに設定している方は文字が小さくなったと思います。このサイズでは見にくいでしょうか。14pxにした方がよいのかな。皆さんの意見を下さい。
文字サイズについては、ディスプレイの解像度設定とも関連してなかなか難しいです。なお、固定サイズにしたのは、レイアウトの崩れをできるだけなくしたいという理由からですが、この落書き帳についてはレイアウトは比較的柔軟なので固定サイズ指定にする必要はないのかも知れません。