[79961] 芝浦の新駅の記事を読み返してみると、“大先輩の「東京横浜間鉄道」”と書いています。
これまで私の頭の中にあったのは、「駅間」を使った「新橋横浜間鉄道」という路線名です。
例えば国立公文書館デジタルアーカイブに
新橋横濱之間鉄道之圖 があります。
リンク先の6年前の記事
[49808]により、“首都と開港場とを結ぶ「東京横浜間鉄道」”からのコピペと判明。
引用した明治天皇の勅語にも“東京横浜間ノ鉄道”とあります。
考えてみれば、この鉄道を「都市間鉄道」とするのは正しい認識であり、「東京横浜間鉄道」という表記は、単純な誤記であると片付けられないように感じられます。
そこで、路線名を少し詮索してみました。
改めて調べてみると、明治天皇の御案内役を勤めた
山尾庸三の伝記 に 鉄道開業当時の詳細な経過が記されていました。
これによると、引用した勅語は 横浜ではなく、新橋に戻った後に 東京で行なわれた開通式典で発せられたとあります。
ともかくも、勅語の中に「東京横浜間の鉄道」とあるのは確かなようです。
山尾は鉄道掛を所管する工部省の少輔(次官補?)ですが、この役所では何と呼んでいたのか?
明治5年9月3日工部省無号布達 の「汽車運転之時限並賃金表」には、横浜・神奈川・鶴見・川崎・品川・新橋と6駅が記されていますが、路線名を直接に見出すことができませんでした。
開業当時は、他の路線と区別する必要がないので、路線名なしで当然かもしれません。
しかし、時刻表の下には次のように「駅間」でなく「都市間」で区間を表記した文があります。
九月十日より旅客の列車此表に示す時刻の発着にて日々東京横浜各ステイション間を往復す
手回り荷物は東京横浜の間目方30斤迄は25銭…
明治7年
阪神間鉄道の仮開業 にも路線名の記載はありません。
要するに、正式の路線名が制定されていない明治初期には、「東京横浜間鉄道」「新橋横浜間鉄道」など、適宜に呼んで よかったように思われます。
なお、
国有鉄道線路名称 が正式に定められたのは、ずっと後、鉄道国有化2年後の明治42年(1909)でした。
この時に定められたのは、本州 12線(東海道線・北陸線・…・総武線)、四国2線、九州5線、北海道4線で、「東海道線」の部の中に「東海道本線」など6線がありました。「東海道本線」に括弧書きで(新橋神戸間、神奈川横浜程ヶ谷間及び貨物支線)と記されています。
余談ですが、“神奈川横浜程ヶ谷間”とあるのは、神奈川程ヶ谷間直通線【注】が作られる前からあった、横浜駅【桜木町】でスイッチバックする路線
[49808]、つまり「トライアングル
[49640][49796]の2辺」のことです。
【注】
日清戦争の兵員輸送目的で建設。戦後東海道本線に転用され、17年間使用された。
話を芝浦の新駅
[79961]に戻すと、この新駅ができる区間は、現在の線路名称規定でも、この「東海道本線(東京神戸間)」に引き継がれているはずです。
しかし、
JR東日本のサイト において隣接駅「田町」を検索すると、“京浜東北線 山手線”と運転系統で表示され、線路名称の東海道本線は出てきません。
“普通の人”の感覚からすれば、ニュースのタイトルが“山手線に新駅”
[79942]になるのは、当然のことなのでしょう。
“京浜東北線に新駅”でもよい筈ですが、こちらは少し遠い地域に及ぶ線です。
都心に近い「山手線」の方がより馴染みがある路線ということになります。
路線名の詮索はこれで終り、明治5年(1872)の鉄道開業時のことを少し補足しておきます。
品川横浜間は、旧暦5月7日に仮開業。
法令全書
本営業が旧暦9月にずれ込んだ原因は、やはり高輪海岸に海中鉄路を建設しなければならなかったことが、大きかったと思われます。
陸軍
[79961]だけでなく、品川湾に軍艦を停泊させる海軍も鉄道敷設に反対でした。
明治4年東京大絵図を見ると、品川ステーションの直前に、八ツ山下海軍用地がありました。
海軍用地が使えないために、ここまでが海上ルートになったのでした。
重陽の節句に予定していた開業式は、暴風雨で3日遅れの旧暦9月12日【太陽暦換算10月14日鉄道記念日】になりました。
引用文にあったように 開業式翌日“九月十日”に予定していた一般旅客相手の本営業開始も、当然3日遅れになりました。