[43103] 山中鹿次 さん 地域のへそ
[43112] 小松原ラガー さん 全国へそのまち協議会加盟市町村
「へそ」と同じように、人体にたとえると、
ここを、利根川水系の「ハート」と呼びたくなります。
天気予報地図でおなじみの群馬・栃木・茨城・埼玉の4県が1点に集まっているように見える場所。
[22467] みかちゅう さん
そして、42.195kmの間に県境をなんと20回も跨ぐ「渡良瀬遊水地マラソン」の開催地。
[35735] むじながいり さん
衛星画像で目立つのは、何といってもハート形の貯水池ですが、よく見ると、その北側に濃い緑色の葦原が拡がっています。
貯水池を含む渡良瀬川の南側が「第1調節池」、貯水池の北東側から渡良瀬川に合流する思川と巴波川との間が「第2調節池」、巴波川合流点よりも北側・渡良瀬川との間が「第3調節池」、それらを含む全体が「渡良瀬遊水地」です。
ところで、「さんずい」の「調節池」と、「つちへん」の「遊水地」の使い分けがお分かりでしょうか?
国土地理院の地形図、
国土交通省関東地方整備局利根川上流河川事務所のページ、施設の整備・維持管理実務を行なっている
渡良瀬遊水地アクリメーション振興財団のHP等によると、この地域の公式の呼び名は「渡良瀬遊水地」であると理解されます。
しかし、お役所自体が少し混乱しているのですね。
組織名は、
利根川上流河川事務所渡良瀬遊水池出張所と、「さんずい」になのです。しかも、このページの写真説明では、「渡良瀬遊水地出張所全景」と誤記しているという念の入れよう。
振興財団の方も負けてはおらず、「遊水池会館」という建物に入っています。
YSKさんのご指摘
[20011]によると、市販の地図の多くが「渡良瀬遊水池」と記載しているそうですが、むべなるかな。
それはさておき
よく知られているように、この渡良瀬遊水地の歴史は、足尾銅山の鉱毒事件と関連して語られています。
足尾の鉱毒被害は、早くも足尾で大鉱脈が発見された1885年の鮎大量死事件に始まったようですが、影響が大きくなったのは、その後の稲などへの農業被害で、群馬県邑楽郡、栃木県下都賀・梁田・足利・安蘇各郡だけでなく、江戸川や霞ヶ浦方面に及んだようです。
栃木県選出の代議士田中正造は、1891年、第2回帝国議会に初めて「足尾銅山鉱毒加害の儀に付質問書」を出し、以後、繰り返し政府に対策を求め、足尾銅山鉱業停止運動を展開します。農民の大規模な集団陳情(押出し)は、1897年から1900年の間に4回起きています。1901年に田中正造は議員を辞職し、鉱毒事件を明治天皇に直訴しました。
政府もこのような状況を放置するわけにはゆかず、さりとて、日清・日露戦争のさなかという時代背景から、簡単に銅山の操業を停止させるわけにもゆかず、銅山経営者の古河市兵衛に対して、厳しい対策を緊急に実施するように命じました(1897年の鉱毒予防令)。
この対策に当たった古河市兵衛が1903年、養子の古河潤吉が1905年に相次いで死去していることは、公害事件の原点が、原因者側にとっても厳しい心労をもたらしたことをうかがわせます。
しかし、実施された鉱毒予防策も、技術的には不完全であり、鉱毒は軽減されたものの、根本的解決には至りませんでした。
もっとも、渡良瀬川流域の鉱毒汚染地には、1902年の大洪水で新しい地層が堆積したことで、農業被害が軽減されたようです。
鉱毒反対運動も、中心人物の田中正造が死去する1913年頃には、下火になりました。
さて、鉱毒問題以外にも、渡良瀬川・利根川下流部には、洪水被害に対する対策が必要でした。
そこで、政府は渡良瀬川に遊水地を作り、利根川への流入量を調節する計画を立てました。水を滞留させれば、銅を主とする鉱毒も沈殿します。1905年、この遊水地として選ばれたのが、栃木県下都賀郡谷中村でした。
この立地は、周辺の村よりも低いという自然的条件にも適っていたのですが、鉱毒反対運動の中心地つぶしという面も指摘されています。
谷中村はこれに激しく抵抗し、隣の藤岡町との合併案を否決した。このため、合併に必要な谷中村議会の議決が行われないまま、谷中村は1906年に強制廃村となり、その領域は藤岡町になりました。
遊水地936町歩余の買収は、当時の渡良瀬川を管理していた栃木県によって進められ、380戸の移転が図られました。
移住先は近隣町村だけでなく、遠隔地に及びました。郵便番号091-0558北海道常呂郡佐呂間町栃木 という地名が、この移住を伝えています。
移住を拒否して1907年の強制破壊後も住み続けた元村民も、1917年には全員退去。
遊水池工事は、1912~1918年に実施されましたが、通常時は水はなく、大雨のときに水が溜められる状態でした。
第2次世界大戦後の新しい囲繞堤や越流堤の工事(1963~1998)で、3地域に分けて囲った現在の形になりました。
更に、1970年にできた第1調整池の中を掘削して、洪水調節容量の増大、新規都市用水のための容量確保等を目的とした貯水池化事業が1976年に着工され、1990年に運用を開始しました。
これが、ハート形の「渡良瀬貯水池」です。この貯水池の底はコンクリート張りで、土壌中に沈殿している銅などが東京に供給される水に流出しないようになっています。
もともと、楕円形だった設計が反対運動で縮小されてハート形になり、第2調整池内に作る計画の第2貯水池も、バードウオッチャーの反対で着工されなかったために、「第1」の字が取れた「渡良瀬貯水池」という名になりました。
そういえば、この「渡良瀬貯水池」には、
「谷中湖」という名が付いています。
平成2年度よりダムとしての利用を開始
とありますから、
ダム湖コレクションに収録できると思います。>美濃織部さん
「渡良瀬遊水地」は、面積33km2(大部分は栃木県)、治水容量1億7680万m3。内、「渡良瀬貯水池」の貯水量は2640万m3。
明治17(1884)年の谷中村と、ほぼ現在の形になった「渡良瀬遊水地」とを比較した
地図。
この地図の着色部分が、東京山手線内の南半分(中央線以南)に近い大きさ(33km2)と形の「渡良瀬遊水地」です。