[11980]special-week さん
明治維新後、どうして淡路島は兵庫県に属したのでしょうか?
ある意味、徳島藩への懲罰ですね。
淡路は江戸時代を通じて徳島藩領でしたので、当然、歴史的には阿波との結びつきが強いです。
幕末維新時の淡路は、それだけで一つのドラマになるくらい、劇的な経緯があるのですが。
かいつまんでいうと、
江戸時代、淡路一国は、戦国時代には蜂須賀小六と同僚だった稲田大炊助を祖とする、徳島藩筆頭家老稲田家が預かり地として、家老とはいえども、1万4千石、一国一城の主となっていました。
幕末、倒幕、佐幕の態度がはっきりしなかった、徳島本藩の動きに対して、稲田家の家中では、本藩の動きとは別に、倒幕論が台頭。
それと同時に、洲本藩の徳島本藩からの分離独立の運動も出て、岩倉具視などと通じる動きもあったりします。態度のはっきりしない徳島本藩と切り離して、稲田家を倒幕側に、という思惑も岩倉などにはあったようです。
しかし結局、徳島本藩も倒幕に固まり、戊辰戦争では、相応の活躍をします。
ですが、淡路分藩の気分は底流として、残ります。
版籍奉還時、基本的には旧領をそのまま、旧藩主が旧領の藩知事に任命される中で、淡路のうち津名郡43カ村が兵庫県の管轄に移されるという異例の事態が起きます。
また、版籍奉還で、武士の身分が廃止されるに及んで、徳島藩家臣は士族ということになるが、淡路稲田家1万4千石、3千人の家臣がいるが、徳島藩本藩家臣なのは、家老の稲田邦稙ただ一人。稲田家の家臣は陪臣なので、士族にはなれない、という事態に直面。
これを契機に、淡路稲田家の分離独立運動は、ついに武装蜂起となり、洲本でも徳島でも、稲田家臣と本藩家臣の武力衝突が起きます。
東京に蜂須賀茂韶と稲田邦稙が召喚され審問を受けるが、東京での空気は稲田家に同情的。
こんな中で廃藩置県が行われたが、稲田家の処分を蜂須賀家に任せたくない、という新政府の姿勢から、3府72県に整理された段階で、本来、統幕参加藩は、旧藩庁所在地を県名に冠するのが、許されるのが普通だが、敵国待遇ともいうべき、藩庁所在地名を県名としない名東(みょうどう)県とされた。このときには、淡路は名東県に含まれ、兵庫県の所属であった津名郡も名東県に戻る。このまま行けば、阿淡二ヶ国は元通り一つの県になるはず、と思われたが、そのわずか5日後、津名郡は再び兵庫県の管轄に移される。
このあたりは、新政府の徳島藩の淡路政策に対する、不信があると思われる。
そして、明治9年のさらなる県統合で、なんと名東県は廃され、阿波は高知県に、淡路は兵庫県に統合されてしまいます。
明治13年になって、ようやく徳島県の高知県からの分立がなるが、そのときには、既に淡路は兵庫県としての結びつきを深めていた、という。
ちょっと限られた時間と字数で説明するのに無理がありましたね。
意味わからないと思います。すみません。
要は、淡路は、色々な思惑から、政治の道具としてもてあそばれた、ということで、ご理解いただければ、大まかには間違いではないかと。