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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

沖縄・奄美情報交差点

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記事数=54件/更新日:2006年2月5日/編集者:YSK

わが国にあっても、個性溢れる文化を残す沖縄・奄美につきまして、この落書き帳に寄せられたメッセージをセレクトしてみました。沖縄・奄美に関するさまざまなお話に触れ、かの地への思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[722]2002年1月25日
Issie
[986]2002年2月27日
miki
[989]2002年2月27日
深海魚
[990]2002年2月27日
Issie
[2097]2002年7月7日
深海魚
[2098]2002年7月7日
miki
[2436]2002年8月7日
でるでる
[3943]2002年10月17日
桃象
[3962]2002年10月18日
YSK
[3967]2002年10月18日
桃象
[3968]2002年10月18日
YSK
[3971]2002年10月18日
ken
[3974]2002年10月18日
YSK
[3976]2002年10月18日
深海魚
[3983]2002年10月18日
夜鳴き寿司屋
[4027]2002年10月20日
てへへ
[4046]2002年10月21日
桃象
[4342]2002年10月31日
TN
[6052]2002年12月7日
Issie
[6113]2002年12月8日
夜鳴き寿司屋
[6777]2002年12月21日
Issie
[6784]2002年12月21日
TN
[6787]2002年12月21日
Issie
[7860]2003年1月18日
ケン(地理好き)
[8003]2003年1月21日
琉球の風
[8053]2003年1月22日
琉球の風
[8069]2003年1月23日
深海魚
[9278]2003年2月15日
Issie
[9964]2003年2月28日
ぷりぷり
[16388]2003年6月7日
Issie
[17136]2003年6月21日
琉球の風
[17487]2003年6月28日
琉球の風
[17670]2003年7月1日
ken
[17681]2003年7月1日
YSK
[17695]2003年7月2日
琉球の風
[17703]2003年7月2日
琉球の風
[17739]2003年7月3日
地理好きのケン
[17766]2003年7月4日
ken
[17767]2003年7月4日
N-H
[17768]2003年7月4日
琉球の風
[17769]2003年7月4日
ken
[17775]2003年7月4日
琉球の風
[19079]2003年8月16日
Issie
[24299]2004年1月31日
夜鳴き寿司屋
[24947]2004年2月17日
まがみ
[25510]2004年2月28日
Issie
[27588]2004年4月22日
Issie
[27598]2004年4月22日
Issie
[29766]2004年6月27日
でるでる
[29932]2004年7月1日
作々
[37020]2005年1月23日
Issie
[48993]2006年2月5日
作々
[48994]2006年2月5日
むっくん
[49001]2006年2月5日
Issie

[722] 2002年 1月 25日(金)18:59:39Issie さん
伊是名・伊平屋
伊是名村と伊平屋村はもともと国頭郡の所属でした。
それが1972年6月に島尻郡に所属が変更されています。
県としてはほかの本島周辺の離島と同じように
那覇の管轄にしたかったのでしょうかね。
でも実際には現在でも県の出先機関でさえ
名護の管轄のままのようです。
国の出先機関についても同様。
だいたい,島への航路は今も
国頭の運天港から出ていますね。

竹富町の役場が石垣島(石垣市)にあったり,
鹿児島県の三島村や十島村の役場が鹿児島市に
あったりするのは,ここが島巡り航路の結節点で
島同士の連絡にかえって都合がいいという
事情があるそうですが,
伊是名・伊平屋の場合にはどういう
事情があるのやら。
[986] 2002年 2月 27日(水)16:52:14miki さん
難読地名・2
沖縄県北谷町。
「きたたに」と書いて「ちゃたん」と読むのはどうも沖縄なまりのような気がしますが...。
[989] 2002年 2月 27日(水)18:00:07深海魚[雑魚] さん
>>986
東風平(こちんだ)、南風原(はえばる)、今帰仁(なきじん)等々
沖縄ならではの言語体系の所産かと。「城」を「ぐすく」と読むのも
固有の現象ですが、市政施行が予定されて居る豊見城村にある高校は
何故か「とみしろ」と読むそうです。

台湾では、歴史的な経緯を踏まえ、沖縄は自分達の側に帰属するのが
自然だという物凄い主張があるそうな。
[990] 2002年 2月 27日(水)19:00:39Issie さん
ちゃたん
「ちゃたん」というのは「きたたに」が沖縄式の発音に変わったものですね。
本土式の発音と沖縄式の発音との間には,法則的な対応関係があります。
「ちゃたん」になるのは言語学的に説明できる現象です。
ちなみに沖縄の言葉で「北」は「にし」。「西」は「いり」で,「東」は「あがり」。「南」は何だったかな?「南風」なら「ふぇー(はえ)」です。

「ぐすく」(ぐしく)は沖縄独自の単語。一応「城」という漢字があてられるけど,本土の「しろ」とは別物と考えるべきですね。
でも地名としては(それより先に人名で)「しろ」への読み替えがどんどん進んでいますね。

ちなみに,那覇は沖縄の発音では「なーふぁ」。首里は「すい」。糸満は「いちゅまん」。南風原は「ふぇーばる」。
宮古島の平良は沖縄(本島)では「ふぃらら」だけど,宮古島の発音では「ぴさら」。
これらの発音は公式地名にはなっていませんけどね。
[2097] 2002年 7月 7日(日)14:57:34深海魚[雑魚] さん
豊見城
前段が下らない書込みでしたので、番号を改めまして。

本日のNHK「のど自慢」は沖縄県豊見城市からの放送。案の定、村から一気に市に
昇格した事を司会者も強調して居ました。ラムサール条約に基く保護の対象となった
マングローブ自生地の存在は初耳でした。

「とみぐすく」「とみしろ」と二通りの読み方が併置するこの地名、[252]に拠れば、
「とみしろ」高校の甲子園出場が、この発音の普及の契機になったとの事ですが、
では何故「とみぐすく」村の高校を「とみしろ」と読ませたのか? 北中城など、他の
沖縄県の地名についてはどの様な傾向か、結構謎です。
[2098] 2002年 7月 7日(日)17:31:16miki さん
ぐすく
私もそれには悩まされます。
高校だけではなく、警察署などでも「とみしろ」と読ませています。
「城=ぐすく」は沖縄だけの読みであって、全国レベルでは通用しないのでわざと「とみしろ」の読みにしたのかもしれません。
[2436] 2002年 8月 7日(水)01:49:47でるでる さん
豊見城
そういえば、今年4月に村から直接市に昇格して話題になった沖縄県豊見城市ですが、たしか村政時代は「村役場」ではなく「村役所」であった記憶があるのですが・・・。このあたりはどのような経緯なのでしょうか。
[3943] 2002年 10月 17日(木)09:27:08桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
亜熱帯地域
[3921]
>雑魚さま

私は千葉県出身で現在は茨城県に住んでいるのですが,自他ともに認める沖縄ファンでもあります。ですから国仲涼子が好きなんですよ。茨城に対する愛着はあることはあるのですが,それとアイドルはまた別ですからね~。

奄美諸島も好きです。昭和28年に奄美諸島が返還されたとき,鹿児島県に帰属なったのは,やはり失敗だったと思っています。まあ,思いつきと言われれば,それはそうなのですが,やはり奄美諸島は鹿児島県から分離して,1つの県とするか,沖縄県と一緒になった方が奄美・琉球文化圏の発展にいいんじゃないかなと思うんですけどね。

沖縄県でも市町村合併計画が進んでいますが,「南風原」とか「東風平」というような行政自治体名がやがては消えるのかもしれないと思うと,なんとも言えない気持ちになります。沖縄市にしても地元の人たちは相変わらずコザと呼んでいるようですし,復活させて欲しいなとも思っています。

==
[3962] 2002年 10月 18日(金)08:04:26YSK さん
奄美から北海道、そして九州
[3943]
>奄美諸島も好きです。奄美諸島が返還されたとき,鹿児島県に帰属なったのは失敗だったと思いま
>す。やはり奄美諸島は鹿児島県から分離して,1つの県とするか,沖縄県と一緒になった方が奄美
>・琉球文化圏の発展にいいんじゃないかなと思うんですけどね。
そうですね。私は3年前、47番目の府県として沖縄(本島)を訪れましたが、辺戸岬にて、沖縄県の伊平屋、伊是名両島と並んで、現在は鹿児島県の与論島が本当に間近に眺望できたことが強く印象に残っているのです。この光景を前に、沖永良部や徳之島、奄美大島などを頭に浮かべ、「奄美も琉球文化圏」であることを実感しました。

[3945]
>平(ひら)は沖縄でも、アイヌ語でも「坂」「斜面」の意味と言うのは本当ですか?
アイヌ語は漢字(というか、文字そのもの)を使わないので、「平」の漢字を当てられたすべての地名に該当するわけではありませんが、「ピラ」は「崖」という意味があります。後志支庁古平町の「古平」は、アイヌ語の「フーレ・ピラ」(赤い崖)が語源です。「赤平」はこの言葉を半分だけ日本語に訳したという説があるそうです。

[3946]
>>塩竃が良港たりえたのは、大消費地仙台の需要あってのことだったのでしょう。
>それとやはり、遠浅ではない湾内の立地の故でしょうね。
適切なフォローありがとうございます。

[3947]
>道路標識に「さぬき市津田」などの表記がありました。
こういう工夫が進めば、通行者は理解しやすいですね。

[3956]
>「大都市・県庁所在地であるが故に注目され、他地域での選考にも影響を及ぼす可能性
>があるので、良い名前を選定して欲しい」ということでしょうか。
そういう意図があったのですね。ここまでの深い洞察ができず、一部適切でないレスをしてしまっていたかもしれません。お詫びします。

[3959]
>その内に是非、手塩町中心部から日本海岸を北上する 「オロロン・ライン」 を疾駆したい処。
>宗谷線の写真で良く紹介される構図ですが、サロベツ原野から海を挟んで望む利尻富士の威容は
>格別でしょうね。
2年前の8月、利尻・礼文・サロベツを訪れたのですが、雲がかかり利尻は望めず。本当に残念でした。ぜひまた行きたいと思っています。北海道といえば、今年の2月、稚内からウトロまでオホーツク海沿岸を縦走しました(実はすべて公共交通機関利用)。暖冬で紋別のガリンコ号は冷水の海面を進むありさまでしたが、やっとウトロまで来て流氷に会えました。夏のオホーツクも原生花園などが見事ですが、冬の大地も格別です。

>電化に伴い、黒崎方面に直通する渡り線の方が主力になってしまいましたね。
この現象も、筑豊の今を投影していて感慨深いですね。小倉からご指摘の渡り線を介して筑豊線に入る列車は、桂川から篠栗線に入って博多に行くのですね。かつて一体的な体系をもっていた筑豊線もその頃の歴史は路線名に残るだけで、今は福岡・北九州両方の都市圏構造に対応するような運行系統に変わっているということなのでしょうね。
[3967] 2002年 10月 18日(金)10:27:37桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
奄美・琉球文化圏
[3962]
>「奄美も琉球文化圏」であることを実感しました。

言葉尻を捕えるような書き込みで申し訳ないのですが,「奄美も琉球文化圏」という下りはちょっと違うのではと思います。もちろん人によって考え方は異なりますし,文化人類学の中でもかなりの揺れはある模様なのですが,一般的には「奄美・琉球文化圏」という語句が用いられるようです。

http://www.ethnologue.com/
では、日本で話されている主要な言語が15個リストアップされています。
日本語、朝鮮語、アイヌ語、日本語手話
北奄美大島語、南奄美大島語、徳之島語、与論島語、喜界島語、
国頭(くにがみ)語、中央沖縄本島語、沖永良部島語、
宮古島語、八重山語、与那国語

奄美・琉球文化圏の諸言語は日本語の方言のレベルでは?という考え方もあることは十分承知していますが,言語の分布状況を見ても,奄美諸島と琉球諸島は相当に違うことがおわかりいただけるものかと思います。

地理ネタとは関係なくなりますので,詳しいことは省きますが,そういうことで聞き流して下されば幸いです。

==
[3968] 2002年 10月 18日(金)10:49:08YSK さん
琉球交易圏
[3967]
そうですね。言葉が足らなかったと思うので、「琉球交易圏」と言い換えます。
私が言いたかったのは、「琉球王国」の最盛期の範囲という意味で使わせていただきました。
琉球を含む、海洋交流が盛んに行われた範囲という意味です。

琉球王国は明と冊封関係(当時明は他国との通商を行う際、冊封使(さっぽうし)を渡来させ、友好関係を締結させるという方法をとっていた)により交流したのをはじめ、広く東アジアと東南アジア方面との間の中継地として重要な役割を果たしてきました。

琉球は、対外的には友好関係を保ちつつ、「守礼」のこころを持って、上記の重要な役割を果たしてきたと考えています。
以下、沖縄訪問時に私が書いた随筆の抜粋です。

沖縄のこころは、すなわち「守礼」こころであるという。多くの人たちとフェアにつきあい、互いのよさを認めあって、ともに高めていく。それこそが沖縄の生きる道であるという。その心は沖縄の大地にしっかりと根づいている。

このことを、辺戸岬からみた島々の眺望から感じ取ったのです。そのことを表現したかっただけなんです。琉球・奄美の諸地域の文化を同一視していたわけではないんです。

追伸:もちろん、琉球・奄美地域(「八重山」や「宮古」も別記すべきかもしれません)の中でも封建的な支配・被支配の歴史が存在した時期などがあり、上に述べた状況が、琉球の歴史を正しく言い当てたものではないことは付記しておきます。あくまで、琉球王朝最盛期以降の沖縄のこころを表現したものです。
[3971] 2002年 10月 18日(金)13:42:18ken さん
琉球
[3967]
奄美と琉球の関係は歴史を遡ると3つの段階を考えないといけませんね。

1)まず1609年の島津氏による琉球侵攻ですね。
この段階で、奄美は、琉球王国から、ヤマトの一部である、島津藩に占領・割譲されます。
以後明治まで300年近く、島津氏の領土として「ヤマト」の一部としての歴史を刻みますよね。
この年月は、単に元々琉球だったから、というにはちょっと重い年月ですね。

2)さらに、明治初年の「琉球処分」と廃藩置県、
このときに「奄美」をどうすべきだったか、というポイントがありますね。
このとき、奄美は当然鹿児島県ですが、まだ琉球は一応独立国ですし、尚王が爵位を得て東京に移り、琉球藩が成立して、沖縄県が成立し、明治政府から派遣された県知事が赴任しても、辛亥革命で清朝が滅亡するまで、清の武力を借りての琉球王朝再建を目指す「亡命琉球王朝勢力」が福州に存在していましたし。

3)で、この2つを踏まえて、第2次大戦後のアメリカ占領からの返還時の、沖縄&奄美の扱いを捉えねばならないと思います。

まだ、世界中で行われていることですが、占領、既成事実化、入植、同化政策、等々。単にノスタルジックな文化圏というよりももっと、生臭い政治政略の結果でもあるわけです。

歴史をどこまで遡るか。
カリーニングラード州は本来誰のものなのか?というような、非常に難しい問題ですね。
[3974] 2002年 10月 18日(金)14:48:39YSK さん
沖縄学への入口
私が沖縄を訪れたのは、1999年9月のことでした。
沖縄サミット開催を翌年に控え、普天間基地の返還問題に関連して、名護市のキャンプシュワブ沖の海上に代替基地を建設する案を軸に、その解決への道筋が開かれそうな情勢でした(移転先の是非等の問題は別にして)。
1996年9月8日、米軍基地縮小の是非を問う沖縄県民投票
1997年12月7日、基地移転の受け入れの是非を問う名護市住民投票
などや、繰り返される米兵の犯罪や日米地位協定に関する是非等の問題が噴出していた時期で、その雰囲気の続くなかでの沖縄初訪問でした。

時を同じくして、首里城・守禮門を題材にした二千円札の発行のニュースもあり(それはそうと、二千円札はどこにいったんでしょう)、外交に生きた沖縄の「守礼のこころ」に代表される諸文化が注目されていた時期でもありました(その後、NHK朝の連ドラ「ちゅらさん」等で、沖縄はたびたび注目を受けることになりますが)。

そういった背景で、「沖縄のこころ」とはどういうものなのだろう。また、初めての沖縄ということもあり、沖縄の自然を感じてみたい。私の旅のテーマはおのずとこういったことになり、それを随所に感じる旅となりました。

[3971]
当然念頭に入れるべき問題です。ただ、私自身3年前のこの訪問でしか沖縄を肌で感じていないし、まだまだ沖縄に学ぶ道のほんのスタートラインに立っただけに過ぎません。
ただ、一生をかけて考えていかなければならないテーマの1つであろうと思います。今後とも、自分なりに理解し、この土地にある諸問題に対し、真剣に向き合えればと思っています。

あまり、地理とは関係のない話になってしまいましたが、やはり私が過去ログのような表現を使った背景をご理解いただきたいと思いましたので。
ここに来ると、いろいろなことを学ぶことができて、本当にうれしいかぎりです。今後とも、適切なご助言をいただければと思います。よろしくお願いいたします。
[3976] 2002年 10月 18日(金)15:25:13深海魚[雑魚] さん
レス諸々
[3960]
「穂波」 町なら福岡県にありますね。この発音で連想するのは 「モジ男」 君 (笑) の奥様です。

[3973]
>現在の営業路線名「伊勢湾岸自動車道」に組み込まれている東海IC-飛島IC間でしょう。
その感覚からすると、三陸道に編入された仙台・松島道路も含まれそうですね。つまるところ、
当初は高速道編入を想定していなかった為、法的な位置付けが追い着かず、ややこしい事に
なってしまったという感じでしょうか。

[3974]
恥ずかしながら、沖縄に行った事が無いので、様々な報道内容についての理解が乏しいのですが、
最近読んだ 「ゴルゴ 13」 のエピソードによれば、米施政下での通貨は 「円」 を使用するも、当時
1$ = 360円の固定相場にあって、沖縄ではかなり円高基調の為替相場だったらしく、現地経済が
通貨の面でも米国の経済圏に抱合された事情が窺えますね。

戦時中の爆撃で破壊されたまま、廃止された県営鉄道。車社会の現在にあっては、鉄道を新規に
敷設する意義は小さいかも知れませんが、糸満 - 那覇 - 名護あたりなら那覇空港へのアクセスも
考慮した快速を設定すれば、或いは需要はあるかと反実仮想 (今更、線路用地確保は一苦労。) に
耽るのですが、いかがでしょうか。那覇の渋滞事情は不明ですが、高速バス拡充で十分かな。
[3983] 2002年 10月 18日(金)19:22:34夜鳴き寿司屋 さん
米軍施政下の沖縄通貨
[3976]
>恥ずかしながら、沖縄に行った事が無いので、様々な報道内容についての理解が乏しいのですが、
>最近読んだ 「ゴルゴ 13」 のエピソードによれば、米施政下での通貨は 「円」 を使用するも、当時
>1$ = 360円の固定相場にあって、沖縄ではかなり円高基調の為替相場だったらしく、現地経済が
>通貨の面でも米国の経済圏に抱合された事情が窺えますね。

 アメリカ施政下の沖縄で使用されていた円ですが、日本全国で流通する、いわゆる「日本銀行券」でなく「B円」と呼ばれるアメリカ軍発行の紙幣でした。
 名前の由来ですが紙幣(軍票というのが正しい言い方ですが)に大きく「B」の文字が書かれており、他に日本本土で使用する事を想定した「A円」もありました。
 ただ、本土が「1ドル360円」の固定レートに移行したのに対して、徐々に「B円」は本土の円に比べ価値が上昇し、アメリカ軍がB円廃止に伴うドル通貨への交換(1958年)レートは、1ドル120B円でした。そのため当時の沖縄の円は本土の3倍の価値がありました。
 また沖縄は本土復帰の1972年5月15日の前日までアメリカ・ドル通貨を使用していたので、経済的にアメリカの影響下に完全に入っており、沖縄と日本の航空路も「国際線」扱いで本土の日本人も沖縄を訪問する際はパスポートが必要だったそうです。余談ですが郵便も「琉球政府郵政庁」によるドル建ての郵便切手を使用していており、これが「沖縄切手」といわれるものです。
[4027] 2002年 10月 20日(日)01:02:54てへへ さん
奄美ネタ
最近の書込み状況からすると2日も経つと遅レスという感じですが・・・。

[3971]Kenさん
>奄美は、琉球王国から、ヤマトの一部である、島津藩に占領・割譲されます。
について補足します。

・1609年 4月 1~5日 薩摩軍が首里城占拠し、尚寧(しょうねい)王は下城、薩摩に連行される。
・1610年 8月 8日 島津家久と共に尚寧王は駿府の家康に謁見。同28日、江戸の将軍秀忠の謁見。薩摩による琉球支配が公式のものとなる。
・1611年10月10日 2年半にわたる抑留が解け尚寧王帰国。「琉球は幕府や島津への義務を怠ったために、薩摩によって征討された。そのため琉球はいったん滅んだが、島津の恩情により、奄美諸島をのぞく沖縄諸島以南を再びあたえられた。この御恩は子々孫々まで忘れず、決して島津氏にそむかない」という起請文の提供を強制される。

 鹿児島県の公式サイトでも、一方的に侵略した島津氏が琉球の支配を開始し、中国に対しては琉球国が薩摩藩の領土となったことを隠し独立国としての体裁を保ったとしています。
 つまり、武力により行政権を掌握したのですから基本的には占領です。ただその2年後に奄美群島は琉球から薩摩藩直轄となり、琉球は対外的には独立国のまま薩摩に属するという状況になったので、琉球から薩摩藩への割譲という言い方もされているのだと思います。この扱いの違いが、奄美群島が鹿児島県か沖縄県かということに大きな影響を及ぼします。

 そもそも琉球王朝は13世紀から100年以上かけて支配領域を北に広げ、1571年の尚元王による奄美大島征服で奄美群島は完全に琉球王朝時代になります。この時代の扱われ方は琉球の他の島と大きな違いはないようです。
 1609年以降は琉球も奄美群島も圧政下で砂糖栽培の植民地の様相を呈し、制度なども日本化していきます。ただし、琉球では独立国としての顔を保持することが薩摩にとってプラスであることから、文化面では日本風の苗字や衣服の使用が禁止されています。

 先ほどの薩摩直轄か対外的独立国かの違いは、そのまま明治初年の琉球処分と廃藩置県に現れます。
・1871(明治4)年 7月14日 廃藩置県。奄美群島、琉球ともに鹿児島県管轄となる。
・1872(明治5)年 9月14日 琉球藩設置。尚泰王を琉球藩王とする琉球藩を設置。廃藩置県後の唯一の藩設置。鹿児島県管轄から政府(外務省)直轄に。
・1875年(明治8) 鹿児島県が奄美大島・名瀬に大島「大支庁」を、各離島には支庁を設置。
・1876年(明治9) 琉球が清国に最後の進貢船を送る。
・1877年(明治10) 西南戦争。
・1879年(明治12) 3月11日 軍隊を伴い強制的に琉球藩を廃止。沖縄県設置。琉球王朝の滅亡。日本政府の琉球占領ととらえた琉球国民が清に救援を求め政府に抵抗したあたりの話は [3971]Kenさん のとおりです。清には余裕がなく救援はありませんでした。その後、日清両国間で沖縄を2分割または3分割する分島問題がおこりますが、亡命中の琉球の人の祖国分割抵抗運動などにより、結局まとまらず琉球に対する日本の領有権が事実上確定します。

 さて1945年以降ですが、米国は「琉球人は日本人によって虐げられていた少数民族」として、米軍占領後は韓国のように独立させることも検討していたようです。その際、奄美群島をもともとは琉球の領土とみなし日本から切り離して沖縄の一部に加えることも考えたようです。
・1946年(昭和21) 2月 2日 北緯30度以南の奄美諸島の行政権の米軍管理開始。行政組織が日本から分離した日は沖縄も奄美群島も同じ日。(復帰日は異なります)
・1952年(昭和27) 2月 4日 サンフランシスコ平和条約に基づき北緯29度以北(現在の十島村、三島村)が復帰。
 この条約調印前後の本土復帰運動は奄美群島の方が激しかったようです。復帰要求署名は奄美群島では住民の99.8%(沖縄本島で72%)。また奄美群島では村ぐるみの断食祈願がありました。米国の統治下、渡航許可は那覇経由の申請となり手続きに数週間かかり、本土への商品出荷は「外国製品」として関税がかけられ売れず、日本政府や鹿児島県からの補助金はストップ、米国からの援助は奄美群島よりも軍事上の重要度が高い沖縄本島の復興が優先され、沖縄のように基地産業で潤うこともなく、人口20万人のうち3万人が仕事を求めて沖縄本島へ移っていきました。つまり、戦争による破壊具合は沖縄の方が大きく、日本と切り離された打撃は奄美群島の方が大きかったようです。
・1953年(昭和28)12月25日 奄美群島が日本に復帰。
・1972年(昭和47) 5月15日 沖縄が日本に復帰。
 双方の復帰までの動きに関連はあったとは思われますが基本的に別々に行われたようです。沖縄県の公式サイトでは、奄美諸島でも独自の復帰運動を展開、とあります。

[3943]桃象@国仲涼子ファン さん
>奄美諸島も好きです。昭和28年に奄美諸島が返還されたとき,鹿児島県に帰属なったのは,やはり失敗だったと思っています。まあ,思いつきと言われれば,それはそうなのですが,やはり奄美諸島は鹿児島県から分離して,1つの県とするか,沖縄県と一緒になった方が奄美・琉球文化圏の発展にいいんじゃないかなと思うんですけどね。

奄美群島の復帰後20年もの間、沖縄県は存在していません。背景としては、今なお尾を引く米軍基地問題も関係してますね。

 今年2002年8月7日に、東京都港区の増上寺で開かれた「沖縄本土復帰30周年(2002年)と奄美本土復帰50周年(2003年)を考える」というテーマのシンポジウムがあり、両地域の独自性を守るべきだとの議論があったそうです。
 一つの文化圏であっても、都道府県が行政区分である以上、奄美群島が鹿児島県に所属したことは必然と思われます。なお所属する都道府県の変更については以前に[3866][370]で論議があったとおりです。
[4046] 2002年 10月 21日(月)11:35:48桃象[桃象@国仲涼子ファン] さん
奄美県
[4027]
てへへさん,ご丁寧な説明をありがとうございました。

>一つの文化圏であっても、都道府県が行政区分である以上、
>奄美群島が鹿児島県に所属したことは必然と思われます。
>なお所属する都道府県の変更については以前に[3866][370]で論議があったとおりです。

当時の状況を省みれば,確かに奄美諸島が鹿児島県に帰属することになったのは,自然な事であっただろうとも思います。しかし,現在は平成の大合併と後日記録されることになるであろう市町村合併の動きが喧しい状況下にあります。その中でやはり大きな問題の1つになっていることは,行政区分と生活・文化,経済圏の乖離が目立つ箇所が少なくなくなっていると言うことです。地方自治意識が一時代昔に比べて相当に高くなっていると思われる現在,例え思いつき的な話にせよ,行政区分の由来や将来像等を自由に話し合ってみることは決して無駄ではないのではと思います。そういう意味でも,私個人は,将来は道州制か連邦制を施行し,その上で,奄美県を新しく作るのが,奄美地方の人たちにとって最も良いのではないかと思う次第です。(もちろん,そのためには自治制の仕組みの抜本的な改革等が必要になるでしょうし,大変なエネルギーが要求されることでしょうね)。

それは北海道の場合にも言えると思います。北海道の中に新たな県を設けるべきなのか,現状で特に不都合がなければ支庁制のままでいいのか,そういう話し合いも北海道住民の間でなされるべきではと思っています。

また対馬,壱岐や佐渡島,淡路島の例にも見られるように,1島1自治体の形を求める動きも垣間見られますが,離れ島における自治体のあり方も生活・文化圏と行政区分の関係を考える上では決して無視はできない問題であろうとも思います。特に,沖縄県が発表した合併案では「新・那覇市」は多くの離れ島を合併することになっています。また石垣市が八重山諸島の島の自治体と合併する案はどうなのか。もちろん,住民の意向が大切なことは言うまでもありませんが,雑魚さんの雄大な構想の例にも見られるように,外の目からの意見と言うものも傾聴に値するものであろうとも思う次第です。

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[4342] 2002年 10月 31日(木)13:29:23TN さん
コラムの時間 Vol.3
不思議な川のお話

前回ご案内しました、埼玉県吉見町とお隣鴻巣市の間を荒川が流れておりますが、御成橋という橋の一帯は、意外と知られていませんが、川幅(堤防と堤防の間)が2.5Kmもあり川幅の最大値としては日本一なんだそうです。
勘の良い方は、一瞬、千葉県佐原市から銚子市にかけての水郷のほうが広いんじゃないの、と思われることでしょう。
ですが、実際行ってみると、その広いこと。本来の堤防とは垂直に(つまり東西に)も堤(道路も兼ねている)が伸びており農家が何件かあります。河川区域に暮らす人々も珍しいのではないでしょうか?

前置きが長くなりましたが、珍しいといえば、遠く沖縄県にも珍川(?)がありました。国頭郡本部町に「塩川」という川があるそうです。その川の特徴とは

・全長300m(一説によれば日本一短い川らしい)
・源から湧き出す湧水が塩辛い
・天然記念物に指定されている

といったところです。関連HPによると、塩水が湧き出す川はここ以外に、世界にプエルトリコしかないそうです。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/pre-spe/sfuruten/sfu9904/fu990429.htm

前回のゆうさんのレスではないですが、「そのネタもっと早くしっていれば」ということはよくありますよね。私も今帰仁城(なきじんぐすく)の威容さ(異様さ)に気をとられ、そのような情報収集を怠った自分をかなり悔いています。
「塩川」を見てみたいーーー。

後記:当初、毎日というつもりではなかったので、軽く考えていたのですが、徐々にファン(珍し物マニアでしょうか)が増える兆しも見え、しまった、との思いに駆られています。(嬉
本来、既成ネタは不本意なのですが、まあ、なるべくオリジナルな面を出すようにしていきたいです・・・。さらに、「こんなのあるよ」という方は、私に気兼ねなくVol.4、5と書いていただけると、本当に助かります。
文末にて失礼しますが、体調を心配してくださった方、誠に有難うございました。
[6052] 2002年 12月 7日(土)16:56:16Issie さん
南島の“口之島”
[6050] グリグリ さん
>島だと他に鹿児島県の口之島がありますね。

トカラ列島の「口之島」ですね。次の島は「中之島」となっています。
“エラブ(永良部)島”がわかりやすいのですが,タネ(種子島)・ヤク(屋久島)から始まる南島(南西諸島)の島々の名前には「口」→「中」→「沖」という体系があるようです。…もっとも,トカラの「中之島」を除いて実際に現在「中の…島」と呼ばれている島はないのですが。
その先にあるのが「オキナハ(→ウチナー:沖縄)」なんでしょうね。

どうでもいいことですが,私の父方のルーツは能登です。親父は関東大震災後の東京生まれですが,祖父母が能登から上京して銭湯を始めたという,東京の風呂屋にありがちなパターンです。
で,能登で使われる地域区分によれば,爺さんの出身は「口能登」の「外浦」,婆さんは「中能登」の「内浦」ということになります。爺さんの田舎の“町”(原発がある)では我が家の苗字は確かに多いみたいです。
何でも同じ苗字の金沢藩士の家系には関ヶ原の後始末がらみの話があるようですが,似た話を聞いたことがあるんですけどね。ま,我が家は百姓の家系ですから,どんなもんだか。
[6113] 2002年 12月 8日(日)12:15:36夜鳴き寿司屋 さん
石川市が何故3万人を越えた事が無いのか。
[6099]eternal さん
>今回の合併特例では、市制時の人口が3万人を割っていても、2000年国調で合併町村の合計が3万を超えていれば>市制は可能なのでしょうか?
>過去の市制特例の時の状況も知りたいです。

 直前の国勢調査時に合併する町村の合計が3万人超えていれば市制は可能です。今度岐阜県に誕生する「飛騨市」もその特例で現在3万人以下で市制は可能ですし、他にも合併が実現した場合には該当するケースもあります。過去には北海道の羽幌町が国勢調査(1970年実施)の数字をごまかして3万人にして市になろうとした事件もありました。[3442] を参照してください。

>また、沖縄の石川市は一度も3万人を突破したことはないのでしょうか?
>占領下での市制なので特殊事情なのでしょうが、地区を分離したといったことはあったのでしょうか

 落書帳アーカイブの「終戦後の沖縄に生まれた市とは?」に説明がありますが、第二次世界大戦終結時に沖縄県で市制していたのは那覇市と首里市の2つでした。しかし沖縄全土が戦場になり居住地を失った難民を収容するキャンプが宜野座村に設置され人口が十数万人に膨れ上がり、その難民管理のために宜野座村を六分割し、漢那(かんな), 福山(ふくやま),惣慶(そけい),宜野座,古知屋(こちや),高松の六市を設置し。具志川村にも高江州(たかえす)市が設置されるなどしました。
 それらの市は難民収容所の解散後は元の村に戻されたのですが、石川市だけは収容所が引き続き設置され、美里村(ゴザ市、現在の沖縄市)から分離、市制施行し収容所解散後も石川市として存続していました。

 そのため、石川市は一時的に難民収容所設置のため人口が増加し難民収容所の管理のために市制され、その後も元に戻される事もなく市制が存続しました。また沖縄は米軍占領下の「琉球政府」の統治下であり日本の他の市とは生い立ちが異なります。難民収容所設置時の正確な人口はわからないですが、現在に至るまで石川市が人口3万人を越えた事が無いのはそのためです。
[6777] 2002年 12月 21日(土)19:16:07Issie さん
沖縄県営鉄道
[6775] 雑魚 さん
>沖縄本島の場合、太平洋戦争で破壊された県営鉄道は、現行市をすべて網羅していたのだろうか?

計画では名護まで行く予定だったのですが結局は到達できなかったので,まずここが外れます。
1945年に破壊されて事実上消滅した段階で,県営鉄道には3路線がありました。
・与那原線:那覇~南風原~与那原 9.4営業キロ
・嘉手納線:那覇~安里~牧港~北谷~嘉手納 23.6営業キロ
・糸満線:那覇~東風平~糸満 18.3営業キロ

…というわけで,現在の市としては 那覇市,浦添市,宜野湾市,糸満市を通過していることになります(糸満線は東風平経由なので現豊見城市域は通過していないようです)。
那覇から北へ向かう嘉手納線も,那覇の既存市街地を避けて東側の当時の真和志村を経由していたので,戦後に一時独立の市となっていた「真和志市」にも鉄道が走っていたことになります(なお,那覇の既存市街地は沖縄戦で徹底的に破壊された後米軍に接収されていたので,戦後の市街地は旧那覇の外側,真和志地区などに形成されました。現在の那覇のメーンストリートである国際通り周辺は旧那覇の外れ,あるいは旧真和志市域に属します)。

県営鉄道とは別に1924年から1933年にかけて,那覇と首里の間に路面電車が走っていました。沖縄民謡の「西武門(にしんじょう)節」にも登場します。
だから,旧首里市にも鉄道が走っていたことになります。

県営鉄道は豊見城市域を通過しなかったけれども,那覇(の対岸の垣花)と糸満との間の馬車軌道が通過していました。これを「鉄道」とみなせば,これも入るのでしょうが。

>現行市で、過去も含めて鉄道とは無縁の市

神奈川県の綾瀬市はどうですか。新幹線がかすっているけど,あんなの地元に何の関係もないですね。
なお,神奈川県では「県北」(おおよそ津久井郡および相模原市)は「けんほく」と読むのが一般的なようです。
[6784] 2002年 12月 21日(土)21:13:55【1】TN さん
Re:沖縄県営鉄道
[6777]Issie さん
>県営鉄道とは別に1924年から1933年にかけて,那覇と首里の間に路面電車が走っていました。>沖縄民謡の「西武門(にしんじょう)節」にも登場します。

またいめね さとぅめ 車ぬてぃいもりよ (また車に乗って来てください)
これは、辻遊郭の遊女と役人の相聞歌でして、この場合の車は人力車ではないでしょうか。

Issieさんはもしかしたら、「軽便鉄道節」と勘違いされていらっしゃるかもしれません。

けいびん(軽便)汽車ぬてぃ まぁかいが
なぁふゎ(那覇)のまちぐゎぬ たるがぁやぁ(樽皮屋)

あふぃ あふぃ

この あふぃ は汽車の汽笛の音と兄という意味の掛け言葉になっております。

追記:辻遊郭は昭和19年10月10日の空襲で消失するまで存在したようです。私の大きな勘違いというか、無知をさらけ出しただけかも・・・。
[6787] 2002年 12月 21日(土)22:41:36Issie さん
西武門節
[6784] TN さん
>またいめね さとぅめ 車ぬてぃいもりよ (また車に乗って来てください)
>これは、辻遊郭の遊女と役人の相聞歌でして、この場合の車は人力車ではないでしょうか。

>追記:辻遊郭は昭和19年10月10日の空襲で消失するまで存在したようです。

そう。たぶん最初は人力車でしょうね。
でも電車が開通してからは「電車」に変わったようです。
私が持っているCD(キングレコード「日本の民族音楽 南海の音楽/沖縄」KICH2025,1991年)の歌詞カードでは以下のようになっています:

 また御参ねさとぅ前 電車乗りてぃいもりヨ

で,電車が廃止された後もそのままのようですね。
(このCDで歌っている知名定男さんと宮里康子さん,「電車」を「でんしゃ」と発音しています。沖縄方言では一般に本土方言の母音 e が i に変わるという法則がある(手:て→てぃ-)のですが,「電車」は沖縄方言にとって“外来語”なのでしょうね。だから,本土方言と同じに発音される。)

[6783]雑魚 さん
>結論として、名護市が該当するという事でしょうか。

沖縄市(旧コザ市)と具志川市,石川市も該当します。
[7860] 2003年 1月 18日(土)11:13:19ケン(地理好き) さん
沖縄の地名
沖縄の地名は難読地名が多いようです。
かつて甲子園の出場した豊見城(とみしろ)高校は豊見城(とみぐすく)市にあります。
ほかにも今帰仁(なきじん)村、北谷(ちゃたん)町、金武(きん)町、城(ぐすく)、勢理客(じっちゃく)、保栄茂(びん)、為又(びいまた)、東江(あがりえ)などがあります。
与那城町は町制施行のさい「よなぐすく」から「よなしろ」に変更されました。
[8003] 2003年 1月 21日(火)13:09:58琉球の風[てつ] さん
お久しぶりです
 皆さんご無沙汰しております。沖縄の「てつ」です。覚えてらっしゃるでしょうか?
自分ごとで一年間訪れない内に、一層魅力的なページになり驚いています。
一年間の内に、全国で市町村変遷もいくつかありましたね(書き込み参加したかった)。
さて、沖縄県では他県に比べ合併意欲が低いことが有名(?)で、宜野湾市・西原町・中城村が
任意合併協議会を先週、設置した以外目立った動きがないようです。
 ところで、話は飛びますがこれから全国的な合併に伴って政令市や中核市、特例市などが
増殖すると思いますが、中核市の条件で、1.人口30万人以上・2.面積100平方キロ以上と
ありますが、この条件2の意味って何なんでしょうか?同じ人口なら、狭い面積で
人口密度が高いほうが都市の性格に会うのでは、と思うのですが、どうでしょう。船橋市と那覇市はこの条件により中核市に入らずじまいですよね。更に那覇市は合併を働きかけている周辺市町村の
面積が狭く、合併後も中核市になれるかどうか・・・・(離島地区も加わればなんとか可能かな)
[8053] 2003年 1月 22日(水)20:40:13琉球の風[てつ] さん
那覇空港とモノレール
[8037]蘭丸さん分かりやすい解説ありがとうございました。自分の考え方の適当さに反省です。

さて、ちょうど空港の話題が出ているのでここでひとつ那覇空港の話をします。
那覇空港は確かに、よくアクセスが便利な空港の例としてあげられる事があります。確かに、
那覇市内にあり、那覇市内から路線バスで15分程、更に今年8月(12月から繰り上げられました)に
モノレールが開通すれば、それこそ福岡空港と肩を並べる“便利空港”になるでしょう、が、
それはあくまでも那覇市内にお住まいの方に限り当てはまる話。沖縄が渋滞王国なのをご存知の方も
おられるでしょうが、那覇空港から道程約14Kmの地点に住む私が、ラッシュ時に空港へ車で
行くとすると、所要時間はおよそ2時間。平時でも45分では着けません。現在、建設中の
那覇空港自動車道が豊見城ICまで開通すれば、少しは便利になるでしょうが、それは
まだまだ先の話。
また表向き、那覇市内の渋滞解消をうたうモノレールも那覇市内を東西に横断する形なので、
市外からの通勤客には不評で、地元では開通前から近年廃止説がちらほらと・・・・・。
駅に、駐車場を設けてパークアンドライド制度でも用いない限り、経営と渋滞解消は困難だと
言われています。
[8069] 2003年 1月 23日(木)00:55:23【1】深海魚[雑魚] さん
沖縄についての私見
[8053] てつさん
所要時間はおよそ2時間。平時でも45分では着けません。
道程約 14kmと聞いてあらぬ詮索をする私ですが、それはさて置き、想像以上に渋滞が酷いのですね。
やはり高速道の空港延長を行わないと、抜本的解決にならないのでしょうか。現在、南風原南に達した
路線の延長になるのかな。

市外からの通勤客には不評で、地元では開通前から近年廃止説がちらほらと・・・・・。
やはり市中心街が断続的に連なる石川市あたりまで路線を伸ばした方が良いのでしょうか。そうなると、
ある程度の速達性確保の観点から、モノレールでは役不足かも知れないけれど。RJ誌の三月号にある
試運転開始の記事では、自動車に慣れた人々のモノレール利用転換見込みに鑑み利用率や採算性を
懸念する向きが根強い旨、言及がありましたね。

ところで、那覇市の地図を見ると、城址を擁する首里地区と、港湾を擁する現行の中心地区が並立的な
機能分化を以って発展した様に見受けられますが、自治体構成を含めた沿革はどの様な陣容でしょうか。
十八番の旧中系ネタを持ち出すと、「海邦養秀」 を掲げ、寛政年間に創立された琉球王府 「国学」 改め
県立一中は、確か 「ガレッジ・セール」 のゴリも卒業した首里高が後身ですね。その一方、那覇地区には
現県知事の母校らしく、最近甲子園にも出場した二中系の那覇高があります。なお、進学上の拠点性や
独自のカリキュラムで沖縄市の球陽高と並ぶ人気どころと聞く開邦高は、那覇市と南風原町の境界上の
丘陵地と思しき地で、立地条件の必然性が気になるところですね。

沖縄県に関する事柄として、以下の点が長らく疑問でした。
○ 巷間、鉄道誌はどの程度販売されているのか。
○ 自動車教習所における踏切の模擬練習はどうなっているか。

以上、沖縄に行った事が全く無い雑魚でした。
[9278] 2003年 2月 15日(土)21:02:52【1】Issie さん
Re:島津
[9272] utt さん

「古事記」は物語としては実に面白いものです。昨年(だったかな),それを口語訳したものが出版されて,「西アジア一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)の厳格な神とは違って,おおらかで大雑把でユルユルの神様たちの世界」なんて紹介が新聞の書評欄に載っていましたが,ま,このユルユルさが古代の日本列島の住民の感覚だったんでしょうかね。
(もっとも,この「口語訳」が“老人の語りかけ調”にするという「余計な味付け」をしている点,私は好きません。もともと「古事記」自体が口承文学あったし,この語りかけ口調を評価する人も多いのですけどね。関係ないことですけど,余計な味付けをしている分,私は「イクラ」も「辛子明太子」も好きじゃないのですよ。それだったら,味付けの度合いの少ない「すじこ」や「たらこ」の方が好き。)

奄美地方や琉球王朝も実質的には島津の支配下だったようで、
サトウキビ、清朝との貿易品などを上納させていたとの話を聞いたことあります。

島津氏が琉球を征服するのは江戸時代が始まったばかりの1609年のことです。
地理的に近いことから,それ以前,おそらくは「琉球」が国家としての形を確立した頃から島津氏との関わりは特別に深かったのでしょうが,この征服によって島津の直接・間接の支配を受けることになりました。
征服された当時,「琉球王国」は本拠地である(狭義の)沖縄だけでなく,奄美と先島(宮古・八重山)の3地域を支配下においていました。したがって,この地域は文化的にも,言語(方言)の上でも同質の地域を構成します(本土と大いに異なる,という点で)。

琉球を征服した島津氏は,このうちの「奄美」を首里の王府から切り離して直接支配下に置きました。これが現在に至るまで奄美が鹿児島県に含まれる根拠であり,また敗戦後に米軍が“かつての琉球王国”に等しい奄美・沖縄・先島の3地域を占領したにもかかわらず,奄美だけをかなり早い段階に日本に「返還」した根拠でもあろうと思います。
そして島津氏は奄美の島々にサトウキビを栽培させて砂糖を専売制下に置き,これを本土に「輸出」することで大きな利益を上げました。ちょうどイギリスが西インド諸島(カリブ海)で行った砂糖のプランテーション経営と似たようなものなのだと思っています。島津家中(薩摩藩)は,すでに奄美で「植民地経営」を経験済みだったのですね。
ただし,薩摩・大隅・日向南部の一般領民が奄美へ移住することは厳しく制限されていたでしょう。したがって,島津氏の支配下にあっても奄美は独自の文化を保ち続けました。

残りの沖縄と先島については,首里王府が存続してその支配下に置き,鹿児島からは監督官が赴任して間接支配とする,という形態をとりました。たとえてみれば,敗戦後の日本が連合国総司令部の監督下に自前の日本政府を組織して,この日本政府が実際の統治を行った,というのと同じようなものでしょうか。
そして,首里王府に外交・貿易権を与えて対外的(特に対中国)には“中国の服属国”たる「琉球王国」として,対中国(初めは明,ついで清)外交とそれに付随する貿易(この時代,どちらが主でどちらが従かわからなくなっていますが)を行わせ,その貿易からあがる利益を吸い上げる(さらに,コッソリ幕府が禁止している密貿易も行っちゃう)。
あるいは琉球特産の芭蕉布や砂糖をやはり本土へ輸出することで利益を上げていたわけです。
[9964] 2003年 2月 28日(金)03:52:08ぷりぷり さん
唐突ですが
[9929]touhembokuさん
 春先の四国はとても好きです。私のイメージを書きますと,
「菜の花とお遍路さん」
「菜の花と吉野川」
「水平線の霞む太平洋」
 ただ,3泊4日では幾らも廻れないことはご承知おきを。高速道路がだいぶ伸びたといっても時間距離でみると四国は「大陸」です。あっちこっち欲張ると走りっぱなしの移動旅になる可能性大。


(本題)
 10年近く前,沖縄県のある島にハマり,年いちで通った時期がありました。そのときあったことをつらつらと。決して面白がって(funny)いるわけではなく「日本は広い」ということを感じた単純な事実の羅列です。

1.ことば
 なんといってもこの衝撃は忘れられません。年輩者同士の会話は全く理解不能でした。あるおじさん(50代後半)と飛行機の中で知り合いになり,結局ずーっとお世話になったのですが,私と話すときは教科書のような言葉遣いでした。特に印象に残っているのは「何人(なんにん)」を必ず「何名(なんめい)」と言うことでした。「何名来られますか」のように。このおじさん以外も使っていたので沖縄では標準かも。方言は覚えきれないほど豊富でした。いん(海),ま(馬),すっじゃ(さとうきび)・・・。
 年輩者同士の会話ではこんな感じでした。

近所のおばさんがおじさんの家へ用事を伝えにやって来ました。
おばさん「○○○○。○・・・(会話続く。所在なげに泡盛片手に話を聞く私)・・・。(ちらっと私の方を見て)○○○○?(多分これは誰か? とおじさんに聞いたのだと思う)」
おじさん「ヤマトから来たぷりぷりさん。○○○・・(話は続く)・・・

2~3分の会話の中ではっきり聞き取れたのはこの一文だけでした。なお,離島で「本土」というと沖縄本島を指し,九州以北は「日本」とか「ヤマト」を使うそうです(年輩者だけかも)。

 また,母音が aiueo ではなく aiuiu になるようです。「御嶽」が「うたき」に,「こっちへ来る」が「くっちぃくる」に聞こえます。このことでの笑い話もありましたが,下ネタ関連なので控えます。
 ただしヤマトからの外来語は aiueo でそのまま使います。たとえば「おはよう」を「うはゆう」とは言わないようです。
 宮古地方なので古代日本語(らしい)の発音が残っています。「はひふへほ」が半濁音になるようです。「花」を「ぱな」と表記した商品や,先日紹介した「い」や「り」の半濁音で表したりしていました(民俗資料館だけ)。

2.たべもの
 (一般家庭にお世話になってですが)揚げ物がとても多い。島に行くのはきまって9月で暑い時期だったせいもあるのでしょうが,傷むのが早いためか親族の集まりで持ち寄られるどの重箱も内容の9割が揚げ物でした。これで飲み続けるのはちょっと辛いものがありました。
 ある重度の二日酔いの朝,近所の食堂に行って「親子丼」を頼むと厨房から炒める「ジャー」という音が。不安におののいていると予想どおりてかてかに光った親子丼でした。恐るべし。
 昆布が多量に使われています。歴史的な背景(島津と蝦夷の交易)があるそうで,今でも昆布を産しないのに消費量は全国第2位だとか。
 豚肉がほとんどです。農協スーパー(Aコープ)には豚肉のみだったような。しかもスライス肉はなし。すべて小さいながらブロックでした。耳(ミミガァ)もパックでありました。お世話になったおばぁは「牛肉なんてぜんぜんおいしくないよぉ」と言っていました。山羊は食べたことないそうです。(沖縄本島では食べるようで,電話帳には「○○やぎ肉店」といった牛肉を供する店と間違えそうなものもあります)
 白米は高価なようで,いただいたご飯も粟だったか稗だったかを混ぜたものでした。

3.車
 小さい島だけど車はそれなりに台数がありました。ただしご多分に漏れず離島名物「ナンバープレートの付いていないやつ」が多数見られました。
 スーパー隣の空き地へ錆だらけの廃車を捨ててあったので,その後へ駐車して買い物をしました。ご想像どおり「だれだ,私の車の後へ停めたのは,出られんではないか」と叫ぶおじさんが店内へ入ってきました。島で一番きれいなのは黒っぽい少々ヤンキー系のハードトップでした。フルスモーク,ダッシュボードにチンチラですが,やはりナンバーはありません。ドリンクホルダーにはオリオンビールがささっていました。
 島の人(女性)に
「この島は,ナンバーの無い車が多いですね。」 というと
「ナンバーもないけど,免許もないよぉ」 と快活に返答いただきました。本当かな。

4.酒
(眠たくなったので中断。続けて書いてもいいですか?)
[16388] 2003年 6月 7日(土)00:39:21【1】Issie さん
沖縄と琉球
[16381] ゆう さん
古事記の神話から「かれ伊豫国を愛比売といひ」の、愛比売に新しく字を当てた

県庁所在地でも郡名でもない,というのはこれが初めてなのではなくて,統合以前に中・東予を管轄していた「石鉄(せきてつ)県」(明治5<1872>年旧2月に松山県から改称)と南予を管轄していた「神山(じんざん)県」(明治5<1872>年旧11月に宇和島県から改称)もそうで,なぜか伊予国だけに行われたことなんですよね。
ここに派遣された県令たちに,何がしかのポリシーがあったのですかね。
ちなみに,旧松山藩・久松松平家は徳川一門の「佐幕藩」ですが,旧宇和島藩・伊達家は幕末の「改革派」の1つですよね。維新の進行で取り残されていったようにも見えますが。

沖縄という、郡よりも広い地域を表すけれど県全域を表すものではない名前

「沖縄」とは本来「本島」,あるいは周辺の島々も含めた地域を指す呼称ですね。
「琉球」というのは,おそらくはこの島々の住民自身が名づけたものではなくて,中国から与えられた呼称だと思われます。つまりは中国王朝(具体的には明と清)との冊封関係を背景にした呼称なのでしょうね。
1879年に清朝との冊封関係と「琉球」王朝を否定して「県」を設置するにあたって,明治政府としては「琉球」という呼称を認めることはできなかったのではないかと思います。そして,「琉球」に替わるこの地域全体の呼称として選ばれたのが「沖縄」だったのでしょう。

逆に,戦後この地域を占領して日本政府の統治から切り離した米国は,あえて「琉球 Ryukyu 」という古称を選んでいます。
どうも米国は,少なくとも初めのうち,パナマをコロンビアから無理やり切り離して独立させたように,沖縄を日本本土から切り離すことを意図していたようだ,とも言われていますね。
英語表現としては必ずしも一般的でなかった Ryukyu, Ryukyuan を使用したことに,その意図がうかがえるのかもしれません(ヨーロッパには,16世紀のポルトガル語経由の Lechio:レキオ 系の呼称が行われたことがあります)。
「琉球」か「沖縄」か,というのには,かなり微妙な問題が含まれているのかもしれません。
[17136] 2003年 6月 21日(土)19:18:59琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
夏本番
[17113]両毛人さん
沖縄は、梅雨が明けたとみられるとの発表があったようですね
そのようですね。しかし我が沖縄は恒常的に湿度が高いため、「長雨にならないない」ことを除いては、ジメジメ感はあい変わらずです・・・・。ところで、ご存知の方も多いと思いますが、沖縄の夏の気温は、最も上昇して33度くらいですので、東京や甲府、山形など各地の最高気温35度~38度と比べて、幾分涼しそうな感があります。実際、私もそう思ってました。しかし、県外出身の友人は一様に、「沖縄の方が熱い」と言います。特に、札幌出身の友人は、倒れそうだとぼやくのですが、それはおそらく気温より、太陽光線の強さの方に「暑さの基準」が置かれるせいだと思います。昼間は外をまともに歩けないですから。地元の人は海で泳ぐにしても、Tシャツを着て日焼けしないように泳ぐのが普通です(ホントです)。では夜はどうかと言えば、蓄熱率が半端ではないコンクリート製の家では、真夜中でも室温は30度、とても冷房無しでは過ごせません。そんな夏の本番が、いよいよ(とうとう)始まりました。沖縄に旅行に行く方がいらっしゃるなら、その「暑さ」をお楽しみに!
※ここで沖縄的快適度の気温分布(私基準)を示します。
《酷暑:31度以上/暑:28~30度/暖:25~27度/涼:22~24度くらい/やや涼・やや寒:18~21度/寒:15~17度/酷寒:吐く息が白くなる頃》
寒さの基準などは、県外とはまるで違う事をお察しします。皆様の地元ではいかがですか?
[17487] 2003年 6月 28日(土)18:01:22琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
時間が・・・・
最近どうも時間がなくて、なかなか書き込みができない状態が続いています。「新市町村名案」休業中に、「一般公募」自体は増えているようで、早く新作(?)に着手したいのですが、時間がとれません。それにしても、「アルカディア一丁目」には驚かされました。平仮名・片仮名地名がどんどん進出して、妙な馴れが生じつつあり、その内には片仮名というだけでは驚かなくなるのは間違いないでしょうね。地元の話ですが、沖縄県内各地では現在、埋め立てによる造成が活発で、新地名が続々と誕生しています。西崎町(にしざきちょう)、赤崎(あかざき)、石崎(いしざき)、潮崎町(しおざきちょう)、豊崎(とよさき)、洲崎(すざき)、東崎(あがりざき)、東浜(あがりはま)、美浜(みはま)、西洲(いりじま)、伊奈武瀬(いなんせ)などなど。過去の埋立地も、最近の埋立地でも、「崎」ブームです。平仮名地名は少なく、片仮名地名は皆無なのに対し、東を「あがり」、西を「いり」などと読む、方言読みの地名もまだ登場しています。しかし、那覇新都心の一部の町名を「おもろまち(おもろは沖縄方言で「古い」の意味)」とした時、「新都心に『古い』を使うのはけしからん」「平仮名地名は駄目だ」と、ずいぶんな批判がありましたので、方言であれば良いということではないようです(逆にいえば漢字表記であれば良いという意味かも・・・・)。また、沖縄には○○ヶ丘や××台などというブランド的地名(町名)もないので、沖縄の地名は他県とは違う方向性を持っているのかも知れません。
[17670] 2003年 7月 1日(火)22:19:50ken さん
名護市街雑感
名護の街を車でちょっと通ってきましたが、結構大規模なアーケード商店街があるのに、驚き。
ここではアーケード商店街という意味を、歩行者専用道の上に天蓋がある、という意味ではなく、歩道の上に屋根のあるタイプの商店街という意味で使っていますが。

沖縄県には、当然ながら「駅前商店街」という発展形態は存在しないわけですが、旧来からの市街地にはやはりあるんですね。
しかし、ご多聞に漏れず、名護の商店街も、車社会沖縄の場合、郊外立地のジャスコ名護店等の集客に勝てないのか、あるいは、沖縄県全体の経済的な地盤沈下が問題なのか、立派な商店街もシャッター率50%を越えているように見受けられ、絵に書いたような、シャッター商店街でした。
看板も外されて、シャッターに張り紙がしてある店が多いのですが、歩道の上の屋根だけは、残ってますね。

沖縄では「さんぴん茶」という、ジャスミンティーベースの沖縄茶と、シークワサージュースを、コンビニなどでも自販機なのでも、たくさん売っていて関東では見たことがないので、ローカルブランドの製品なのかと、思って買ってみると、沖縄伊藤園、コカコーラの茶流彩々シリーズ、UCCや、バヤリースなどのナショナルブランドメーカーの製品ばかりでした。

以前、利根コカコーラのジョージアMAXコーヒーの話が出ましたが、ナショナル・ブランド・メーカーのご当地食品・飲料は結構あるようですね。
ジョージアMAXコーヒーの場合は、千葉・茨城県民の嗜好で愛飲されているために売り続けられているとは思えない商品ですが。

カルタについても、落ち着いて考えて対案出したいのですが、旅先にてままならず。
そもそも、パソコン持って行くにあたり、細君とひと悶着あったわけで(^_^;)
両毛人さんが作られた上毛カルタ北海道版のように、市町村カルタを全国版作りたい気もしてきましたが、これといった特徴のない市町村もありますから難易度高いですね。
上毛かるたは、市町村を詠んだものではないですが。

星がきれいです。
[17681] 2003年 7月 1日(火)23:52:46【2】YSK[両毛人] さん
ひんぷんがじゅまる
[17670]kenさん
名護には、夕刻からその翌日までという短い滞在期間でしたが、沖縄本島北部の中心都市として、一定の中心性を感じましたね。
当時は、翌年に沖縄サミットを控えて、街中にはそのことをアピールするポスターが見られたりして、お祭り前夜のような雰囲気が漂っていました。スーパーマーケットに入ってみましたが、ゴーヤーが真正面にどーんと山積みにされていましたね。

名護の街を車でちょっと通ってきましたが、結構大規模なアーケード商店街があるのに、驚き。
沖縄県には、当然ながら「駅前商店街」という発展形態は存在しないわけですが、旧来からの市街地にはやはりあるんですね。

そうでしたね。4年前も、このことに驚かされました。街中に、意外に人も多かったように思いましたが、また訪れてみたいですね。

この商店街の南の入口に、道の真中に立ちふさがるようにして巨大ながじゅまるの木があります。「ひんぷんがじゅまる」と呼ばれ、名護の町のシンボル的な存在のようでした。

「ひんぷん」とは、沖縄の建築において、門から少し奥に入った部分に、母屋の前についたてのようにたてられた壁のことで、この「ひんぷんがじゅまる」は、まさに名護の街にとって、「ひんぷん」のような位置にあるわけですね。

翌日、名護を出た私は、国営公園から今帰仁グスク、辺戸岬からやんばるを一周し、那覇までのドライブを楽しみました。備瀬あたりの海岸は美しいですし、伊江島の眺望もまた美しいですね。嵐山展望台から羽地内海を眺めた時は、あまりの美しさにしばし言葉を失いましたね・・・。奥集落のたたずまいや慶佐次(げさし)のマングローブなど、美しい風土にも触れることができました。
[17695] 2003年 7月 2日(水)19:49:18琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
名護市
[17681]両毛人さん
4年前も、このことに驚かされました。意外にも人が多かったように思いましたが
そうですね。沖縄には駅前商店街なるものは存在しませんが、それなりの規模のアーケード商店街はあります。しかし、全国的な流れで沖縄の商店街も「シャッター通り」化が進んでおり、名護市の商店街も例外ではありません。国道58号線の為又(びいまた)沿線には、イオングループのジャスコ名護店やマックスバリュー名護店(同グループなのにかなり隣接している)、地元スーパーの「サンエー」の為又店をはじめとして、本屋、飲食店が多数進出し、名護市民の客足は急速にそこへ向かいつつあると聞きます。一方、来月に開通する予定の沖縄都市モノレールに先立って、駅周辺の店が「○○駅前店」などに改称している店も出はじめているそうなので、もしかしたら那覇市の既存の商店街が「駅前商店街」として再出発する事もあるかもしれません。これを契機に、県内の商店街にも頑張ってもらいたいところです。
[17703] 2003年 7月 2日(水)21:23:04【1】琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
為又ついでに・・・・
[17695]
の書き込みの「為又(びいまた)」ついでに沖縄の主な難読地名を紹介します。ロードマップで見かけて知っている方もいらっしゃるかも知れませんが、一般地図に記載されない小地名からも多く紹介しますので、興味があれば覗いてみて下さい。頑張れば読めるもの、県内の人でも読めないもの、いろいろ集めてみました。

[表記/所属市町村/読み]
1.一名代(大宜味村)・・・・・・【てんなす】
2.真謝喜納(本部町)・・・・・・【まざきな】
3.杉平(名護市)・・・・・・・・【すぎんだ】
4.大工廻(沖縄市)・・・・・・・【だくじゃく】
5.御殿敷(沖縄市)・・・・・・・【おどんしき】
6.勢理客(浦添市)・・・・・・・【じっちゃく】
7.保栄茂(豊見城市)・・・・・・【びん】※読みは二文字です
8.仲村渠(玉城村)・・・・・・・【なかんだかり】
9.川之尾原(佐敷町)・・・・・・【かーぬじゅうばる】
10.落水原(佐敷町)・・・・・・・【うちみじばる】
11.大嶺(平良市)・・・・・・・・【うふんみ】
12.土川(平良市)・・・・・・・・【んたがー】※ミスではなく「ん」から始まります
13.大三俵(平良市)・・・・・・・【うぶうんたあらー】
14.尻川原(平良市)・・・・・・・【ひしがーばり】
15.出口(平良市)・・・・・・・・【いでふつ】
16.荒牛(城辺町)・・・・・・・・【あらふ】
[17739] 2003年 7月 3日(木)17:37:32地理好きのケン さん
那覇市・北九州市
ほかにギャップのある都市では那覇市と北九州市があります。
那覇市は人口30万でありながら政令市並の都市規模を持っていると思います。特に中心部の町並みを見ていると大都会の感じがします。
北九州市は政令市でありながら小倉駅前は大都市とは思えない雰囲気です。ほかの駅周辺も同じです。
[17766] 2003年 7月 4日(金)08:48:01ken さん
re:那覇市
[17739] 地理好きのケン さん
那覇市は人口30万でありながら政令市並の都市規模を持っていると思います。
那覇市は、今回初めて訪れて、非常に立派な町並みに驚きました。
しかも、駅前がない。(笑)という意味では、駅前の景観とのギャップでは日本一でしょう。0:Nですから無限大。

ところで、この一連の話題の中で、「市町村規模と都市規模」の、「都市規模」という単語の意味が、ちょっとわからなくて、書き込み躊躇してましたが、「都市景観」の「印象」の意と読み替えていいですか?
「規模」というと客観的数値化できるもののような感じがしてしまいますが。
皆さん、「景観」の「印象」と言う意味で使われてますよね。
意味にすれ違いがないか、「確認」の意図だけです。他意はありません。

それから、余談ながら、昨日見た、那覇空港の出発ロビーも驚きました、あの土産物屋の売場面積は、もしかすると、「世界一」規模ではないですか。
少なくとも成田や新千歳や、チャンギ、ドンムアン、KLIA(クアラルンプル・インターナショナル・エアポート『黒川紀章氏設計』)などは全然かなわないですし、シャルル・ド・ゴール、スキポールなども到底太刀打ちできません。
新しい香港チェックラップや、インチョンを体験してませんので(ソウルは前のも知らない)ライバルとして有力なのはこの辺でしょうか?
JFKなど、どこに土産物があったか、という感じ。
あくまで「空港全体の規模」ではなく「(免税店含む)土産物屋」の規模の話ですが。
私の「空港経験」も乏しいものなので、「世界一」は勇み足かもしれませんが・・・。
感動しました、那覇空港。
と言いながら、空港では何も買いませんでしたが。
[17767] 2003年 7月 4日(金)10:51:21N-H さん
Re:那覇市
[17739] 地理好きのケン さん
那覇市は人口30万でありながら政令市並の都市規模を持っていると思います。
[17766]kenさん
那覇市は、今回初めて訪れて、非常に立派な町並みに驚きました。

那覇市は「隠れ百万都市」なんて言われることがあります。何せ現在の市域が狭い狭い。
全都道府県庁所在地の中でもダントツに面積が狭いですね。
その面積は約39平方キロ、これは川崎市川崎区、北九州市小倉北区程度の面積でしかありません。次に県庁所在地で狭い津市が102平方キロですから。
これを強引に横浜市程度の大きさまで合併で広げるとおおよそ百万人くらいの都市になるはずです。
九州で熊本市や鹿児島市が次の政令指定都市候補として周辺を合併したところで、上の大那覇市の規模まで広げても人口において到底及びません。
要するに実は九州沖縄地方で次に最も政令指定都市に近い都市は那覇市なのです。でも、どこからもこんな広域合併の話は出てきませんね。お隣の旧豊見城村だって、実質的には完全に那覇市の一部。私は村の時代に一度訪れましたが、マンションが立ち並び、郊外型商店が街道沿いにぼこぼこある姿はまさに神奈川県相模原市のしかもかなり中心部的風景に近く、とてもあそこが村だとは信じがたい光景でした。

那覇空港の出発ロビーも驚きました、あの土産物屋の売場面積は、もしかすると、「世界一」規模ではないですか。
いや、これはどうでしょうね。新千歳って、那覇に比べてそれほどしょぼかったですか?
私は新千歳の印象が強いなあ。

ライバルとして有力なのはこの辺でしょうか?
前の記憶でうろ覚えですけど、ヒースローなんかずいぶん土産屋があったような気がします。
[17768] 2003年 7月 4日(金)11:09:06琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
那覇市の都市規模
[17766]kenさん
那覇市は、今回初めて訪れて、非常に立派な町並みに驚きました

[17739]地理好きのケンさん
那覇市は人口30万人でありながら政令市並の都市規模を持っていると思います

沖縄県民である私は飛行機に乗って他県に出向かない限り、他の30万都市との比較が出来ませんので、あまり大きな事は言えないのですが、確かに那覇市の都市規模は一般的な30万都市よりは大きい気がします。那覇市の都市圏人口(どこめで含むのかは未確認)は70万人、中心から30km圏内の人口は102万人とのことなので、それを支える中核である那覇市はそれなりの都市規模を有することになるのでしょう。あと、一般的に地方ごとに置かれるような各省庁や企業の支所や支社のビルが那覇市に集中しているせいもあるのかも知れません(福岡は遠いですから)。また、来月開通するモノレールや、那覇新都心開発区、旭橋駅周辺再開発地区(まだ『駅』を使うのに馴染めません・・・・)などの計画も進行中ですので、これからも那覇市から目が話せませなくなりそうです(?)。
[17769] 2003年 7月 4日(金)11:13:13【1】ken さん
沖縄都市景観 雑感
現在沖縄県で、今回の大合併の流れに乗っているのは、
http://uub.jp/upd/okinawa.html
にあるとおりで、本島よりも、むしろ、八重山地区や、離島村の方が俎上に乗っている感じで、浦添市、豊見城市などには、合併話はないようですが、実際に那覇市から名護方面へ車を走らせて見ると、市街地が途切れることもなく、あっと言う間に、浦添市境に達して驚きました。さらに西原町とも市街地は連続し、内地の感覚で言えば、中城村、宜野湾市くらいまで、市街地(住宅地)が連続している印象です。
那覇市南隣側も、帰りに沖縄道から直接那覇空港に行くつもりが、曲がり角をちょっと間違えて、回り道をしただけで、南風原、東風平、豊見城、と図らずも走ってしまいましたが、那覇市とは一体の市街地の連続性があるように見受けられました。
糸満市までは行きませんでしたが。
というか、ちょっと走ると、すぐ隣の市町村なんですね。
元々、市町村域が狭いんですよね。沖縄の市町村の面積については、もちろん、数字では知っていたものの実走してみて、内地の感覚と市町村の面積に関して、ずいぶん感覚の差があるなあ、と思いました。

県庁都市が30万人で、比較的、県の面積が狭い、香川県を引き合いに出し、比較してみると、
<香川県>
市町村名人口面積人口密度
高松市334,363194.331,720.59
丸亀市80,80464.591,251.03
坂出市58,41492.45631.84
善通寺市36,05839.88904.16
観音寺市44,44949.09905.46
合併新設市は略
高松市周辺町村では
三木町29,00375.78382.73  
牟礼町18,22816.481,106.07  
庵治町6,48315.82409.80
香川町24,19327.33885.22  
香南町7,97814.72541.98
綾南町19,23138.47499.90  
国分寺町23,51126.25895.66
といったところでしょうか。

一方、
<沖縄県>
市町村名人口面積人口密度
那覇市305,17338.987,828.96
石川市22,09221.031,050.50
具志川市62,44431.991,951.98
宜野湾市88,22119.514,521.83
浦添市103,80619.065,446.27
名護市57,322210.24272.65
糸満市55,20146.401,189.68
沖縄市122,97849.002,509.76
豊見城市51,97718.582,797.47
本島以外は略
那覇市周辺町村でも
北谷町26,05113.621,912.70  
北中城村16,03011.521,391.49  
中城村15,40415.46996.38
西原町33,26515.572,136.48  
東風平町17,12114.791,157.61  
具志頭村7,91912.11653.92  
与那原町15,0954.453,392.13  
大里村11,65612.35943.81  
南風原町33,27710.723,104.20

という状況で、那覇市の中心街の規模もさることながら、通常の内地の県庁所在地都市の面積から考えて、周辺市町村を域内に入れ、浦添、宜野湾、豊見城、西原、東風平、南風原等を合わせると60万都市。
全国の県庁所在都市としては、上記、4市3町合わせても面積では、佐賀市、津市は上回るものの、静岡市の10分の1。
有に鹿児島・熊本に比肩する福岡県以外での九州では最大の都市なのかも。

それが良い事かどうかは、別にして、例えば、糸満市や、もう少し周辺町村入れるか、あるいはちょっと無理ありますが、沖縄市までも視野に入れると80万都市になります。
糸満市、大里町、与那原、具志頭、北谷、中城、北中城、沖縄市を入れても、面積は約350平方km、静岡市や拡大新潟市などより、全然小さい面積で、合併特例恩典も関係なく政令指定都市が狙えるわけです。
80万都市を目指している新熊本市の面積が538平方kmですから、350平方kmで80万人超となる、拡大那覇市の都市圏人口は非常に大きいですね。

P.S.
沖縄自動車道の「沖縄北IC」、「沖縄南IC」には、やはり意味を理解するのに、数秒要しました。ここで言ってる「沖縄」とは「沖縄市」のことであるか、と、とっさには判らなかった。

面積・人口を電卓叩いている間に、N-H さん、てつ(沖縄の) さんと投稿が入れ子になり、同じような内容になってしまいました。申し訳ありません。
[17775] 2003年 7月 4日(金)17:03:36琉球の風[てつ(沖縄の)] さん
沖縄県市町村米軍基地占有率
沖縄の話題が出ると、つい何度も足を運んでしまいます。沖縄の市町村面積の狭さは、[17769]kenさん、[17767]N-Hさんも触れている所で、これが市街地の連続化・密集化を招いているのは明らかでしょう。さらに沖縄では多くの市町村で米軍基地が存在しており、市街地の拡大は飽和状態になっていると、よく聞きます。次に、沖縄県内の市町村中で米軍基地占有率が10%を越える市町村のデータと、米軍基地をアネクメーネ(非居住地域)としたときの除米軍基地面積での人口密度を改めて算出してみました。尚、自衛隊基地はそのまま市町村面積に含みます。

【市町村名】【米軍基地占有率%】【除米軍基地面積】【人口密度(改)】
嘉手納町82.92.65294.6
金武町59.315.3674.2
北谷町56.45.94415.4
宜野座村50.715.4319.2
読谷村44.619.51884.5
東村41.547.838.8
沖縄市35.931.43916.5
伊江村35.214.7350.9
宜野湾市32.713.16734.4
恩納村29.435.8259.0
国頭村23.1149.837.9
北中城村18.39.41705.3
浦添市14.616.36368.5
勝連町13.411.81146.5
名護市11.1186.9306.7

と、このように人口密度は軒並み上昇してしまいます。これに自衛隊基地も面積から除外するとなれば、この傾向は更に強まるでしょう。今日のは思いつきで計算したものですので、その内に除く米軍・自衛隊基地面積での人口密度算出をしてみたいと思います。話は変わりますが、03年6月現在の那覇市の最新人口統計が30万9258人だそうで、あと700人余りで31万人達成となります。一時は30万都市格下げとなった(なりかけていた?)那覇市、このまま頑張ってもらいたいです。
[19079] 2003年 8月 16日(土)23:51:29【1】Issie さん
なーふぁ
沖縄の「本土復帰」が実現した1972年ころ,NHKの「みんなのうた」で「月(つく)ぬ美(かい)しゃ」という八重山民謡が紹介されました。1番は八重山の言葉で,2番はそれを「共通日本語」に“翻訳”した歌詞で。
歌詞の中に地名が出てくるのですが,「沖縄」の上に「うくなん」,「八重山」の上に「やいまん」とルビが振ってあって,そのように歌っているのが子供心に大変不思議でした。
八重山方言では「沖縄=うくな(ー)」「八重山=やいま」に近い発音なのでしょうね(「ん」は「も」という意味の助詞と思われる。なお,宮古・八重山方言には沖縄本島にさえない母音や子音があって,かなで正確に表記することはなおさらできません)。

[19060] 般若堂そんぴん さん
したいですね,公式名称に(笑).

那覇市の公式HPに,こんな説明があります。

読み方については、1934年(昭和9年)3月、日本放送語審査委員会でナハ(NAHA)と決定され、これにより従来一般に、ナハ、ナファ、ナワ、ナバなどと呼称されていたものが統一されました。
http://www.city.naha.okinawa.jp/youkoso/ayumi.htm

「なは」に統一されたのが意外に最近であることに気づきます。ラジオ放送のために文字情報ではなく音声情報としての地名の統一が必要だったのでしょうね。このときに「なふぁ」が選ばれる可能性がなかったわけでもないのです。
もっとも,北海道のアイヌ語地名も無理やり「五十音の枠」の中にはめ込んで,営々と「標準化」をしているわけですから,実際に「なふぁ」または,より那覇の発音に近い「なーふぁ」が選ばれる可能性は低かったでしょうね。
それよりも,同じことは程度の違いこそあれ本州・四国・九州でも行われているわけであって,多くの「現地読み」地名が「音声上の“標準語”」から振り落とされていそうです。
(熊本民謡の「おてもやん」では「熊本」を「くまんどん」と唄っています。これが熊本の標準的な発音かどうかは,わかりませんが。)

裏返していうと,文字メディアの比重が現在よりもはるかに高かった時代,地名の「正しい読み方」などそれほど気にしていなかった,ということが示唆されているようです。濁点の有無,「つ」の大小,そんなことは誤差の範囲で気にしない。
たとえ県都であっても,「なは」と読もうが,「なふぁ」。と読もうが,「なわ」と読もうが,「那覇」と書いてさえあれば文字メディアとしてはそれで十分。
そもそも「日本」の読み方を「にっぽん」に統一しようとしたのも,ちょうどこの少し後,かなりの部分はラジオ放送が必要とするためでした。

ところで,「ん」で始まる地名なのですが,
現在の沖縄本島の市町村には,残念ながら該当例は見当たりません。
より小さな地名になれば現れてきそうですが。
「んなとぅ(港)」なんて地名はありそうな気がします。

#ほかの島については,那覇/首里地域との差が大きくなりますから,どちらの発音を優先するかという問題が新たに生じます。「うちなー」対「うくなー」,「いぇーま」対「やいま」のように。
[24299] 2004年 1月 31日(土)00:41:28夜鳴き寿司屋 さん
奄美群島「大島県」
[24278] 太白 さん
明治19年から大正15年までは「大島県」というのが存在したようですが、他の「府県」とは異なるという理解でよいのでしょうか

 この情報は初見ですね。念のために「大島県」で検索してみたのですが、該当する情報はないようですが、名瀬市立奄美博物館のHPの記載に

http://www.city.naze.kagoshima.jp/museum/museum/museum.html
薩摩藩治下時代から続いた奄美への支配はそのまま引き継がれ、県は商社をつくって黒糖販売の独占をはかります。しかし明治の中期になると、奄美は経済的に切り離され、独立経済となり、それは1940年まで続きました。

 という記載がありましたので、黒糖に関してだけかもしれませんが鹿児島県とは別の経済圏を形成していた可能性があるようです。どうも鹿児島県の管轄に入らないほど「大島郡」に与えられた権限が大きかったかもしれないですが、それも戦前の府県に相当するものではなく、俗称の類だと思われますがどなたか追加データがいただけたらありがたいです。
[24947] 2004年 2月 17日(火)22:36:56まがみ さん
沖縄本島のバス事情
[24915]みかちゅうさん
沖縄でうまく行かないのはバス事業者3社も客の奪い合いで必死であるうえ、(以下略)
いちおう、現在のところはまだ、那覇交通は自社でバスの運行を続けているんですが…

ちなみに沖縄本島では、沖縄バス、東陽バス、那覇交通、琉球バスの4社が路線バスを運行していましたが(今のところは4社体制が続いていますが)、
1994年 琉球バス、会社整理法の適用を申請。経営再建中
2002年 東陽バス、民事再生法の適用を申請。経営再建中
2003年 那覇交通、民事再生法の適用を申請。営業譲渡の方向で検討中

バス会社4社中3社が事実上経営破綻に陥るという、きわめて厳しい事態になっています。
[25510] 2004年 2月 28日(土)21:06:31Issie さん
いひちゃー
[25499] ken さん
石川って「いひちゃー」って読むんだ、と始めて知りました。

「首里・那覇方言」では「いしちゃー」ではなかったか,と思います。

沖縄で独自の「標準語」形成が進行していれば,おそらくそのベースになったのは「首里方言」か「那覇方言」であったろうと想像します。
(江戸・東京に照らし合わせれば,首里方言は「山手方言」,那覇方言は「下町方言」となるのでしょうか。喜納昌吉さんや照屋林賢さんの活動を考えると,首里よりは那覇の方が勢いがあるように感じます。)
そうすると,「標準沖縄方言」と“地元の方言”との微妙な差異をどうするか,という問題が生じるかもしれませんね。

先島(宮古・八重山)となると,(狭義の)沖縄との言葉の差はさらに大きくなるから,その辺りはもっと深刻になるかもしれません。
宮古島の「平良」は,首里・那覇方言では「フィララ」だけども,宮古方言ではこの方言独特の発音を無理に仮名表記する(つまり,本土方言の発音に基づく仮名表記でその発音を「正確」に表現することは不可能)と,「ピサラ」となる…
この場合,どちらを「公式の読み方」とするか,なかなか難しい問題に発展するかもしれません。

…いや,でも「ぴさら市」というのもよかったかも。
[27588] 2004年 4月 22日(木)01:10:16【2】Issie さん
Re:分割された自治体
[27505] 地名好きさん
[27570] 両毛人 さん

ある意味,非常に特殊な例かもしれませんが,

沖縄県八重山郡八重山村が 1914年4月1日 に,同郡石垣村・大浜村・竹富村・与那国村 に完全4分割されています。

沖縄では琉球処分による「琉球藩」廃止・「沖縄県」設置後も,さまざまな分野で王国以来の旧制度が温存されていましたが,地方行政区画についても同様でした。
王国時代,域内の「村(むら)」や「島」が数ヵ村ずつ「間切」という区画にまとめられ,それがさらに「島尻」 「中頭」「国頭」「宮古」「八重山」その他にまとめられるというもの。
で,八重山は明治初めの段階で「大浜間切」「石垣間切」「宮良間切」に分けられていました。

1908年4月1日に「本土」よりも遅れて「沖縄県及島嶼町村制」が施行されて(那覇と首里には一足早く「区制」が施行),従来の「間切」が自治体としての「村(そん)」に,「村(むら)」がその下位区分の「字」に編成されました。
このときに八重山では,3間切を一括して全体で1つの「八重山村」が編成されました。
ところが,1914年4月1日にこの「八重山村」が分割されて,上記4村の成立となったわけです。
…この場合,旧八重山村の法人格は消滅して,新4村に“分割相続”されているのではないかしら。

ところで,王国末期の八重山3間切の区画は少し特殊で,石垣島に3つの間切が編成された上に,そのそれぞれが西表島に管轄下の村を持つ,という区画でした。つまり,西表島の村には「大浜間切」所属のものと「石垣間切」所属のもの,「宮良間切」所属のもの,のそれぞれがありました。
“親村”-“子村”という関係なのでしょうかね。
普通の「水平的」な村の括りとは異質の「垂直的」な関係が連想されます。

旧八重山村分割後の4村は,従来の間切の区画を解体して,島単位の領域設定(石垣島に石垣村と大浜村,竹富島・西表島その他が竹富村,与那国島には与那国村)となりました。

この4村はそのまま「町」となり「市」となって,1964年に大浜村が石垣市に編入された以外,そのままの区画で現在に至ります。

竹富町役場が石垣島にある,というのに,このあたりも関係あるのでしょうかね。

…というわけで,「例のページ」に沖縄県を(暫定)公開。
[27598] 2004年 4月 22日(木)20:53:30【1】Issie さん
伊平屋・伊是名の帰属
さて,「例のページ:沖縄県編」を作成していて少しく問題になったのが,本島本部半島の北にある伊平屋・伊是名両村の帰属でした。

1970年4月の行政管理庁告示で「本土」の地方公共団体について「統計に用いる都道府県等の区域を示す標準コード」が導入されましたが(同じものは1968年以来,自治省が採用していた),当時まだ米軍統治下にあった 沖縄 にも同じシステムでコード番号が割り振られ政府統計に用いられるようになりました。
このとき,伊平屋村と伊是名村とはともに「国頭郡」所属として,前者には「316」,後者には「317」の番号が振られていました。
ところが,1972年5月15日の「本土復帰」を経て,同年6月7日に「島尻郡」に“所属変更”となり,それぞれ「359」「360」と番号が振りなおされています。

現在,両村はもちろん「島尻郡」所属です。

もともと伊平屋・伊是名両島は王国時代には「島尻方」所属とされていました。それが琉球処分後,沖縄県にも徐々に「本土並み」の制度が導入される過程で,郡制の施行によって,そのまま「島尻郡」所属となりました。沖縄県及島嶼町村制の施行により両島あわせて「伊平屋村」となり,のち「伊是名村」が分立しています。
そして,1945年の沖縄戦によって沖縄県が「消滅」するまで,やはり両村は「島尻郡」に所属していました。
だから,どこかで両村が「島尻郡」から「国頭郡」に所属変更された,という記録がありそうなものなのですが,それが見つからないようなのです。

沖縄県公文書館の公式HP( http://www.archives.pref.okinawa.jp/)では,米軍統治下,琉球政府の「公報」が pdf ファイルで公開されているのですが,これを閲覧すると以下のことがわかります。

1.琉球政府では「郡」という区画は用いない。本島周辺は「北部地区」「中部地区」「南部地区」に区分され,それぞれが「国頭(郡)」「中頭(郡)」「島尻(郡)」に相当する。
2.伊平屋・伊是名両村は「北部地区」に含まれる。
3.佐藤首相訪米での「両三年以内の返還」合意成立後の1971年公報では「昭和45年国勢調査」の“沖縄”分の統計値が掲載されている。ここでは両村が「国頭郡」所属とされ,コード番号「316」「317」が振られている。

戦後,米軍占領下で新しい統治体制が整備されていく過程で,両村は「北部地区」の管轄下に組み込まれたようです。位置関係からすれば,自然な話ではありますね。
サンフランシスコ体制の下,アメリカ合衆国は沖縄に対する日本の「潜在的主権」を認めつつ,現実には「日本本土」から切り離すベクトルが働いていたようで,たとえば琉球政府では「本土」では当然の元号が(公的には)一切使用されていません。
沖縄戦終結直後・占領開始当初の「異常」な状況から,住民が原住地への帰還が認められ,市町村については戦前のものが「復活」するわけですが,その上位レベルの区画については紆余曲折があって,結局「郡」は使われていないようですね。

けれども1969年に「両三年以内の返還」が合意されて,急速に「本土並み」の制度が沖縄に整備されます。
元号を使用した「昭和45年国勢調査」の実施とその中での地方公共団体コードの使用もその流れの中でのことなのでしょう。
そして「郡」という区画についても。

で,「北部地区」管内の伊平屋・伊是名両村も,そのまま「国頭郡」所属となっている。

「郡」という区画の使用されていなかった時期のこととて,「島尻郡→国頭郡」という所属変更手続きは行われなかったのではないか,と考えています。

なお「本土復帰」後,先述の通り,地方公共団体コード上の扱いとして,両村は「国頭郡→島尻郡」という所属変更が行われたことになっています。
ところが,自治省告示では該当するものを見つけることができませんでした。
琉球政府の告示にも該当するものはないようです。

そうすると,多くの資料でそうであるように,両村は「ずっと島尻郡」ということになるのかもしれません。
[29766] 2004年 6月 27日(日)02:32:23【1】でるでる さん
ギタラ・ペキンノ
自宅にある資料(本)などで、意味などを調べてみました。

[29740]牛山牛太郎 さん
海ギタラ・陸ギタラ(うみぎたら・あぎぎたら)・・・沖縄県伊是名村・・・絶壁の奇岩

「ギタラ」とは、「切り立った岩」の意味だそうで、海ギタラと陸ギタラがある二見ヶ浦海岸は、日本の渚百選にも選ばれております。なお、二見ヶ浦海岸は別名ギタラ海岸ともいうそうです。

[29748]むじながいり さん
ペキンノ鼻 岬 羅臼町

ペキンノ鼻の”ペキンノ”とは「ペケレ・ノッ(明るい(木が生えていない)・岬)」という意味だそうで、実際にペキンノ鼻は小さな草原の岬だとか。なお、他にも「ペレケ・ノッ(割れている・岬)」という説もあります。


[29753]両毛人 さん
この2つの地名、「ナイ」という名の「山」です。こんな例もあるのですね

古くは、その山の下側(下流)もしくは付近の川名や地名で、山の名を呼ぶことが多かったそうなので、「オロエナイ」と「ソロアンナイ」は、その名残なのかも知れませんね。

河川名では、ほとんど「~ナイ川(沢)」という名称になっているようで(中略)
「ベツ(別)」地名についても調べてみましたが、やはりほとんどのケースで「川(沢)」がついていまして

川を意味する語には「ナイ(~内)」と「ペッ(~別)」などがありますが、「ナイ」は主にオホーツク海沿岸に多く、「ペッ」は主に太平洋沿岸や根室地方、斜里郡に多く見られます。
ちなみに、樺太では「ペッ」がほとんど無く、一方で千島列島では北に行くほど「ナイ」がみられなくなるとか。このことから、北海道内では元々「ペッ」と呼ばれていたところに、樺太方面から「ナイ」が入ってきて、次第に道内に広まっていったものの、東側(太平洋沿岸)や南側まではそれほど広がらずに元からある「ペッ」が残り、更に遠くに位置する千島列島にまではほとんど影響が及ばなかったのではないかとの説もあるそうです。
この件については、私自身は詳しく調べた訳ではないのですけども、中々興味の惹かれるところです。
[29932] 2004年 7月 1日(木)00:51:39【1】作々 さん
南風~名称募集~
市町村合併情報の欄にもあるとおり、7月1日から奄美大島地区と徳之島地区が新市/新町名称の募集を始めます。募集要項を見ると、奄美のほうは既存の1市2町3村の名称はそのまま使えず(但し、名称の一部としての使用は可)、徳之島のほうは(当然ながら)既存3町の名称の使用は可となっています。
恐らく、奄美のほうは本命と対抗の二者択一、徳之島のほうはオッズが限りなく1.0倍に等しい出来レースになるかと思いますが(あえて候補は書きません)、両島の名称について調べてみると、
奄美:657年、日本書紀(斉明記)の「海見島」が所見
徳之島:699年、続日本紀の「度感(とく)」「度感嶋(とくしま)」が所見
というように、結構古くからあったようです。

市町村名の由来を調べると、以下のようにありました。ご参考まで。

名瀬:奄美大島の中地(ナージ)に位置することから、など
宇検:江戸期の方名、村名から?
笠利:琉球王朝の統治時代・鹿児島藩時代の「笠利間切」から
住用:住みよい地であるようにという願いから
瀬戸内:大島海峡の存在から古くから使用されていた付近一帯の呼称から
大和:大和浜の名称から
*龍郷:名瀬間切龍郷方から

天城:雨気岳(天城岳)から
伊仙:近世からの村名から
徳之島:島の名称から

参考)
間切~琉球王朝時代の行政区の名称
方~間切の下におかれた行政区。10前後の村によって構成
[37020] 2005年 1月 23日(日)10:56:28【2】Issie さん
うちなーぐち
[37011] くるり さん
沖縄県の標準語は「琉球語」

りんけんバンドの作品に「志情(シナサキ)」というラブソングがあります。
私,この歌を初めて聴いたとき,たいへんびっくりしました。

りんけんバンドが「本土」で知られるようになったのは,「ありがとう」や「乾杯さびら」(オリオンビールのCMソング)あたりの歌からだと思いますが,どちらも“うちなーぐち”で歌われた「沖縄」の色の濃い作品です。
りんけんバンドよりも一回り先に「本土」で知られるようになった 喜納昌吉とチャンプルーズ は,より強烈に「沖縄」を主張していました。
ほかに「本土」で聞かれる“うちなーぐち”の音楽と言えば,“島唄”などと呼ばれる伝統的な沖縄歌謡のようなもので,つまり「沖縄」を離れることがなかった。

ところが「志情」には,そのような「沖縄色」がない,あるいはあっても極めて希薄です。
別に舞台が沖縄である必要もなく,たとえば東京のお台場でも成立するような内容です。70年代アイドルの歌の中にも,同じような内容のものはあったのではないかしら。
それを“うちなーぐち”で歌ったことに,たいへん驚いたのでした。
“うちなーぐち”には,そのような表現力があるのか,と。

以前,沖縄では“うちなーぐち”でニュースを読む「方言ニュース」というプログラムがラジオで放送されていました(今でも,やっているのでしょうか)。音楽や演劇の分野でも“うちなーぐち”による作品が蓄積されています。
“うちなーぐち”についての体系的な文法を(場合によっては,独自の表記法の考案も)扱った一般向け入門書が出版されている点も,“変わった,珍しい”単語や語法が断片的にしか一般には紹介されない「本土」の「方言」研究と違うところです。

標準化された語彙集(辞書)と文法,そして統一された表記法が整備され,それが公教育の場で「国民」に教育される,というのが19世紀以降の「近代国家」における「国語」の確立の上で重要な要素でした。
象徴的なのは「民族の共栄」を標榜したソ連で,“認定された”各民族ごとに標準化された文法と統一されたアルファベットが制定されて多くの近代言語が確立されました。中央アジアのトルコ系諸言語(カザフ語・ウズベク語・キルギス語・トルクメン語・アゼルバイジャン語・タタール語,その他)が最終的に確立したのはこの言語政策によります。同じ政策によって,旧ユーゴスラビア連邦では,第2次大戦後に「現代マケドニア語」という言語が確立しました(ほとんど同じ言葉が話されているブルガリアでは,これをブルガリア語の「方言」としています)。
近代の日本列島でその流れの上に乗って確立されたのが,いわゆる「標準語」(共通語)です。

沖縄地方で行われている“うちなーぐち”は,現在の日本列島の中では「標準語」に次ぐ位置にあるのかもしれません。

けれども,現実には「東北弁」で東北地方の言葉を一くくりにすることはできず,「大阪弁」とは言ってもどの私鉄の沿線かで微妙に言葉が違っている(らしい…。あたしにゃ,区別できない)のと同様,沖縄本島内だけでも那覇・首里を中心とする南部と,北部のヤンバルとではかなり言葉が違うようです(昔は那覇と首里でも違っていたようですが,沖縄戦でシャッフルされてしまったのだそうです)。
「方言研究」の世界では「本島中南部方言」と「本島北部方言」とを区分しています。「北部方言」は,むしろ「奄美方言」との共通点が多いらしい。
さらに「沖縄・奄美」の言葉に対して,比較的新しい時代(もちろん15世紀以前)に首里政権によって「征服」された宮古・八重山の言葉は「外国語」ほどに違うらしい。

いや,長々と書いてしまいましたが,
要するに,「楽天・地域密着へ東北弁使え」とは「わかってないよなあ」,というみなさんの意見に同感なのです。

…こんなこと言うなら,「ものゴッツい」という応援歌の歌詞はないよなあ,とも思うのでした。
[48993] 2006年 2月 5日(日)12:54:50作々 さん
奄美(大島郡)の所属の件
早速反応しておきます。

[48992] 白桃 さん
ところで、種子島は大隅でいいのかな?屋久島、種子島は私が持っている地図に「大隅諸島」と書いておりましたから、大隅にしちゃいました。(苦)
はい。最初は多ネ(衣偏+執)国というのがあったようですが、9世紀初めに熊毛、馭謨の両郡は大隅国に併合されたようです。


問題は8枠です。1国1市はもうないのですが、奄美諸島が薩摩でも大隅でもないのなら、「奄美」という国を勝手に作って…。で、Z市は甘味、いや奄美市。本当にこれでいいのでしょうか?

以下、角川の地名辞典の「大島郡」の項からの引用です。
明治12年4月8日太政大臣三条実美通達に『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事」と見え(旧記雑録),この通達により,同年7月同諸島にも郡制区画が定められ,ここに大島郡が成立する。
明治12年4月7日までは琉球国、8日からは大隅国になったということでしょうか。
[48994] 2006年 2月 5日(日)14:03:42むっくん さん
Re:奄美は薩摩か大隅か、はたまた琉球か?
[48992] 白桃 さん
奄美諸島が薩摩でも大隅でもないのなら、「奄美」という国を勝手に作って

言語学見地から見てみましょう。

日本語の方言は大きく分けて(1)本土方言(2)琉球方言に分かれます。
そして、(2)琉球方言は、(ア)北琉球方言(イ)南琉球方言に分かれます。
そして、(ア)北琉球方言は(a)奄美徳之島諸方言(b)沖永良部与論沖縄北部諸方言(c)沖縄中南部諸方言に、
(イ)南琉球方言は(d)宮古諸方言(e)八重山諸方言(f)与那国方言に分かれます。
さて、奄美本島、喜界島、徳之島は2-ア-a に、沖永良部島、与論島は2-ア-b に属しています。
言語学見地からは奄美は琉球と一体のものとみなせますね。

次に文字の歴史をみて見ましょう。

奄美諸島や沖縄本島には、琉球列島に古代から伝わる「ユタ」と呼ばれる民間信仰の伝道者は共通の独自の文字を古来より持っていました(「ユタ」は文字を信仰の教えを文書としてしたためる秘伝の物として一般人には一切伝えませんでした)。
ところが、琉球王国の統一を成し遂げた「尚巴志」は、本来は九州から南下して来た「倭寇」の血を引く人物であり「ユタ」が継承して来た琉球の由来に関わる伝承を否定しなければ正統な統治者としての資格を失う危険性を危惧して「ユタ」を弾圧しました。
ただ、この時には、「ユタ」は文字を守り抜きました。
その後、1609年に薩摩の島津氏が琉球王国に攻め入り、奄美諸島を琉球王国から割譲させました。その後の島津氏の統治が熾烈を極めて、「ユタ」が守り抜いた伝承を書き記した文書を焼き払い、「ユタ」を怪しげな教えを布教してまわる者として弾圧しました。その結果、島津氏の直接統治下での奄美諸島からはほぼ独自の文字は消えました。沖縄本島では直接統治ではなかったのでわずかながら独自の文字は残ったのですが、昭和20年の沖縄戦でわずかながら残った文書はすべて灰となりました。

文字の歴史という点でも、奄美地方は琉球と一体であるといったほうがいいですね。
[49001] 2006年 2月 5日(日)18:37:44Issie さん
Re:奄美の件
[48998] 白桃 さん
奄美地方は幕藩体制時代には琉球国ということになり

というのは少し微妙で,慶長14(1609)年の琉球侵攻以来,奄美は首里王府の支配から離れて島津氏(薩摩藩)の直接支配下に置かれました。以降は,いわゆる「琉球王国」の領域には含まれないと考えた方がいいと思います。明治5(1872)年の「琉球藩」に奄美(大島地方)は含まれず,鹿児島藩→鹿児島県に所属しています。

[48993] 作々 さん
明治12年4月8日太政大臣三条実美通達に『鹿児島県管轄大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・与論島ヲ以テ大島郡ト為シ,大隅国ヘ被属候条,此旨布告候事」と見え(旧記雑録),この通達により,同年7月同諸島にも郡制区画が定められ,ここに大島郡が成立する。

1879(明治12)年4月,というのが重要ですね。
この年の3月に明治政府は警察と軍隊を派遣して琉球藩(首里王府)を解体し,4月4日に「沖縄県」を設置しました。大島地方の大隅国編入は,これと連動する措置なのでしょうね。

大隅国に編入されるまでの奄美は(当然,沖縄・宮古・八重山も),「北海道」設置以前の松前地・蝦夷地と同じく“国郡制”の外にあったと考えた方がいいでしょう。そして,国郡制の中の一地方区分である「大隅国」と,本来は“外国”の呼称である「琉球(王)国」(←この呼称,厳密にはかなり微妙な意味の使い分けがあるのだそうです)とは同等のものと捉えるべきではないと思います。

このような政治的な区画とは別の次元で,言語的・文化的に奄美が沖縄と一体であるのは むっくん さんの [48994] の通りです。ただ,敗戦後に「琉球諸島」の一部として米軍の占領下に置かれた数年間を除いて,17世紀以来沖縄とは切り離されて鹿児島の支配ないしは管轄下に置かれたことによる微妙な違いはあるようです。

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