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鮮烈に存在した「日本海沿岸交流圏」 −北前船の交易を中心に−

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記事数=18件/更新日:2003年10月19日/編集者:YSK

江戸期の日本海側は、蝦夷地と大坂を有機的に結びつけた「西廻り航路」として、現在では考えられないくらい豊かな物資と文化が行き交うホットな経済地域を形成していました。日本海沿岸の未来を考えるにあたり、こうした歴史的な経緯を理解することは大切なことと思います。

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[3000] 2002年 9月 10日(火)23:27:46夜鳴き寿司屋 さん
「北日本」「東日本」「西日本」「南日本」
 北陸で思い出しましたが、以前あるTV番組で、北陸地方を地元の方は
北日本と称するのは何故かという特集をしていました。富山県のテレビ局に
「北日本放送」ですし、金沢や富山では企業名に「北日本××会社」が
多いそうです。確かその番組では平安時代の朝廷の影響力の北限が
越の国あたりだったので、現在でも北陸では日本の北という意識が
あるとの事でした。(あんまり詳しく覚えていないので不正確かもしれません)
 また「北日本放送」が出たついでに、「東日本放送」は東北・仙台、
「西日本放送」は四国・高松、「南日本放送」は九州・鹿児島にあります。
「北日本」を除けば日本列島から見たら概ね位置に適した名称だと思います。
余談ながら「南日本放送」以外は「日本テレビ」系ですね。

追伸
 掲示板3000番突破おめでとうございます。これからも皆様で良い
書き込みをしていきたいと思います。
[3002] 2002年 9月 11日(水)00:06:00YSK さん
北陸
[3000]
そうですね。律令制時代の中央からの視点からしても、「越の国は北」というイメージなのかもしれません。

余計な妄想をすると、日本海沿岸は、江戸時代北前船による、日本海沿岸北部や蝦夷地との交流が盛んだったので、北に対する憧憬は深かったのでしょうか。
明治時代、屯田兵によって北海道に移民した人の多くは北陸出身者だったと聞きます。

ちなみに、仙台の東日本放送は、テレビ朝日系です。日本テレビ系の局は「ミヤギテレビ」です。
[3186] 2002年 9月 19日(木)18:47:17YSK さん
鯖街道
[3183]
>偏見かも知れませんが、若狭地方については、畿内との直接的な要路が
>存在せず、隣接各域とも地形的に隔てられていたが故に、独自の文化が
>構築されたのではないかとの印象を受けます。

古くは、若狭小浜と京とを結ぶ「若狭街道」は、北前船からの物産を京に運ぶ道筋として往来が盛んだったと聞きます。小浜で陸揚げした鯖に塩をして、一晩寝ずに京都まで運ぶとちょうど良い味になったことから、「鯖街道」と呼ばれています。

面白いHPを見つけました。鯖街道について、いろいろ勉強できます。
http://www.ne.jp/asahi/saba/kaido/

ただ、近代を迎えて北前船による流通が次第に鉄道による流通にとって変わるようになると、次第に鯖街道の隆盛も衰えていったのではないでしょうか。
また、太平洋側優先の鉄道敷設も日本海側と太平洋側との交通事情に影響を与えたのではないでしょうか。

遅れに遅れた日本海側への鉄道敷設の中でも、比較的早く開通した北陸線(富山から直江津まではかなり時間がかかったようですが)と、貿易港として急速に発展した敦賀港とによる流通の成長が、鯖街道の重要性を奪ったといえるのではないでしょうか。
[3189] 2002年 9月 19日(木)22:06:50深海魚[雑魚] さん
鯖街道
[3186]
うーん、この様な歴史があったのですか。となると、以前どこかで聞いた、遠敷郡内の
神社における延喜式の古代より伝承される酒造り云々の話も、こうした背景に依拠する
訳なのかな。北前船の鯖関連で言うと、鯖江市あたりはどうなんでしょうね。隣接する
武生市が、荘園の時代における越前の中心地と思しき事を勘案すると、なにやら諸々の
由緒ありげにも思えますね。

>管理人様
別回線からの接続ですが、コードを失念しました。明日の正規アクセスで裏を取ります。
[7132] 2002年 12月 30日(月)10:52:56【1】Issie さん
十三湊
[7130] 雑魚 さん
>この中に詠われる 「十三湊」 とは、北前船か何かの寄港地だったのですかね。

奥州藤原氏の時代以来の古い港で,中世の安東氏の時代に最盛期を迎えました。
港が衰退した直接の理由は,港として利用していた十三湖から海への出口にあたる水路が砂に埋まってしまって港としての機能を失ってしまったからです。
そして津波が駄目押しをしたのですね。

>ちなみに両者の間に広がる七里長浜は地吹雪の名所とか。

「十三の砂山」とは砂丘のこと。
吹き飛ばされるのは雪だけではなくて,砂もですからね。
(童謡の「砂山」も,あれは新潟市西海岸の砂丘のこと。ところがここに砂を供給していたのは信濃川や阿賀野川だったけど,信濃川に大河津分水が開かれてこちらが事実上の本流とされることで砂の供給が大幅に減少してしまいました。上流にはダムもたくさんできたしね。おかげで河口の新潟港が埋まることはなくなったけど,海岸をけずる「海は荒海」の方とのバランスが崩れて砂浜はなくなる一方です。この地区では新潟市の面積が減少しているのですね。)

>どちらも私好みの景勝地の様ですので、一度しみじみ探訪したいところです。

5~6年ほど前の春先に「十三(じゅうさん)」に行ったことがあるのですが,本当に寒々と何もないところです(地元の方には申し訳ないけど)。
私,中学生か高校生の頃にある雑誌に掲載されたモノクロのグラビアが印象に残っています。それは十三の村から湖の出口をはさんだ対岸にかかる木橋。さすがに行ったときには現代風の鉄橋に架けかわっていましたけど。それでも十分,感慨深い光景です。
もっとも,あまりに何もなくて,結局は乗ってきたのと同じバスで五所川原に戻ることになってしまいましたが。
[7185] 2002年 12月 31日(火)11:23:05Issie さん
本荘から羽越線
[7183] 雑魚 さん
>ちなみに数年前、ガーラ湯沢で滑った時は 「♪どこまでもー」 がゲレンデで
>何度も繰り返し流された為、割と好きな曲ながら辟易した記憶があります。

もう8シーズンほどスキーとはご無沙汰なのですが(そういう人が増えたので「シュプール号」の運転がなくなったんでしょうね。考えてみれば,スノーボードがゲレンデを滑っているのを見たことがないのでした),今までで一番快適なスキーを楽しめたのは1989年1月7日のことでした。
耳障りな音楽もなく,自然の音だけで,何と快適なことだったか。われわれには「最高」の1日でした。
あの日1日限りの「特別な日」だったからなのですが,何でああいう当たり前のことが日常できないのか。

>もう一つ特異的に感じるのは、子吉川の河口付近に位置しながら港湾機能は全く無いという点ですね。

おそらく城下町が建設された時点では港湾機能が意識されていたと思います。海路の方が陸路よりもはるかに便利であった時代,立ち寄る船もあったのでは。
ただ,ここの最大の弱点はヒンターランド(後背地)が圧倒的に狭いということにあるのではないか。由利地域の中心とは言っても,逆に言えば由利地域だけ。雄物川河口の土崎(秋田),最上川河口の酒田,そして阿賀野川と信濃川河口(加治川も合流していた)の新潟・沼垂,かなりの奥行きを持つ大河川河口の港町とは違って,多分にローカルな存在であるように思います。
土崎も酒田も新潟も,河川交通と海上交通の結節点という位置から全国規模の物流にリンクし,集積した商業機能を背景に近代港湾へ発展していくけれども,本荘はあくまでも由利地域のローカルな中心地から抜け出すことができなかった。そんな感じがします。

そういえば,秋田県の中では由利地域だけがどうも孤立しているように見えますね。
今や奥羽本線はブツ切りにされて連続性を失ってしまったけれども,それでも雄物川最上流の湯沢・雄勝地域まで一続きのイメージは強い(もはや鉄道の時代ではないから,奥羽本線が分断されようが何の関係もない?)。米代川上流の大館・北秋田地域もそう。
では同じ「羽後」に属していた山形県の酒田・飽海地域とのつながりはあるのかというと,どうもそういう感じも薄い(つまりね,「庄内」のうち,なぜか飽海郡だけは「羽前」でなく「羽後」に分割されたのです)。
もう1つ。庄内と下越のつながりはどうかというと,鼠ヶ関や笹川流れの存在は伊達ではなくて,やはり強くはない。庄内が新潟県でも秋田県でもないのは,やはり必然的です。
確かに,新津・新潟から鶴岡・酒田,(羽後)本荘を通って秋田まで,「羽越本線」という鉄道で結ばれているけれども,これはあくまでも近世の「北前船」の代替であり,近畿・北陸と北海道の間の通過交通のために存在する。新潟・新発田・村上,鶴岡・酒田,秋田といった拠点都市を中心とする輸送需要はそこそこあっても,お互いの都市圏間の輸送需要はそう多くない。
羽越本線というのは“幹線”でありながら,以前から実は普通列車の非常に少ない路線でした。なもんで,実に地味な路線なわけですが,JRが近畿と北海道を直結する旅客輸送から撤退した以上,この区間を通しで走る列車が削減されるのはしかたのないことかもしれません。
実際,今回乗車した青森-秋田間の「かもしか2号」も,秋田-新潟間の「いなほ6号」(青森始発)も全区間を通しで乗った乗客は多くなく,ほとんどは青森-弘前とか,大館-秋田とか,村上-新潟とか,県内ローカルの高速バスの代わり,のような利用者が多い印象を受けました青森県から秋田県,秋田県から山形県,という県境越えの需要は多くなさそう(秋田から乗った「いなほ」,秋田で乗客が入れ替わった後,鶴岡までは大変すいていました。鶴岡で通路に人が立ち始め,村上で混雑が激しくなる。「いなほ」が酒田止まりを基本としているのは,やはり理にかなっています)。
ならばね,数県を通り抜ける「特急」でなく,特急車両を利用したローカルな速達列車でいいわけです。青森-弘前・大鰐間とか,大館-秋田-羽後本荘間とか。信越線の新潟県内区間では,今回の改正で特急の「みのり」が廃止されたわけですが,実はそれは“快速”の「くびき野」に置き換わっただけ。特急料金が不要になった分,かえってサービスが向上したのかもしれない(それでも,新潟地区で発達した高速バスに対抗できるかどうかは?ですが)。

何か,本荘から話がズレてしまった。
ともかく,こうなってくると「取り残される」ことへの本荘の危機感は十分現実的になってくるような気がしますね。
[7194] 2002年 12月 31日(火)15:16:18【1】深海魚[雑魚] さん
子吉川の地勢を考える (ヒロオさん風)
[7185] Issieさん
>今までで一番快適なスキーを楽しめたのは1989年1月7日のことでした。
その日、数度の兵役を経験した自負からか、ちょっとの事では動じない我が家のカリスマである爺様は
半旗の下、天を仰いで涙しておりました。激動の時代を共有した者ならではの思いだったのでしょう。

>ここの最大の弱点はヒンターランド(後背地)が圧倒的に狭いということにあるのではないか。
確かに、信濃、阿賀野、最上、雄物、米代の各河川と比較すると、流域面積は小さいですね。同水系を
行く由利高原鉄道は、元々は奥羽線の院内まで延伸予定があった一方、前郷で支線を別ち 1971年に
廃止された羽後交通横荘線 (横手起点) に連結する構想だった様ですね。横荘線が分水嶺を越えて、
子吉川水系に属する東由利町の中心地である老方に到達していたのは、そうした構想にも因るのかな。
しかし、子吉川本流と石沢川の合流点が鮎川付近である事を考えると、前郷分岐では某かの山越えが
生じる事になり、それだけ前郷が要衝という事なのかも知れませんね。

>近世の「北前船」の代替であり,近畿・北陸と北海道の間の通過交通のために存在する。
寝台特急や貨物列車、および近距離通学需要を除けば、村上以北の羽越線は庄内盆地の為だけに
存在している様な印象すら受けます。秋田までの電化延伸は 1972年と、奥羽線より三年先行ですが、
これは、旅客上の都市間連絡機能において奥羽線に優越したというよりは、貨物列車の運行において、
一体的な電機牽引を可能ならしめる為の措置ではないかと考えます。こうなると、空路拡充、あるいは
[7104] で言及した 「つばさ」 の酒田延伸構想次第では、羽越線の地位は益々微妙になりそうですね。

>村上-新潟とか
一時期、この区間のみを走る 「いなほ」 の区間便がありましたが、いつの間にか消滅しましたね。
[14009] 2003年 4月 25日(金)15:05:05【1】三丁目 さん
小樽、ニシン編
私が、鰊漁といえば、鰊御殿がある小樽市のイメージがあるんだけど、と釧路在住友人にメールで書いたところ、「ソーラン節で知られる、江差を中心とした檜山地方のイメージがある」との返事が返ってきました。友人は旭川出身ですから、地元的には、留萌地方というイメージもあるんだけどね、とのこと。
(注:正確を期すと、ソーラン節は、積丹半島方面が発祥とされていて、余市町等が、我町こそがふるさとである、と諸説入り乱れているところです。檜山方面の歌としては、1963年から全国大会が開催されている、江差追分が有名です。)

その後、しばらくメールのやり取りを続けたのですが、鰊については、若干の調査を踏まえて、少々、補足したくなりました。

というのも、小樽で鰊漁が栄えて、そのなごりが鰊御殿だということは、間違いではありません。しかし、鰊漁と言えば小樽のことで、小樽を中心に栄えたと理解されるとなると、檜山方面の郷土愛好家の方々にしてみれば、納得がいかないのではないだろうか、ということなのです。

現在残っている鰊御殿は、かつての鰊漁の繁栄ぶりを示す文化遺産ではありますが、維持管理している市町村等からみれば、観光資源の1つとなっています。元々は、網元と呼ばれた豪商と、その使用人の住居だった鰊御殿は、鰊漁が衰退していくとともに傷んでいった建物を譲り受け、市町村等がお金をかけて修復し、維持管理しているのが、現在の姿でしょう。

小樽には観光客が多く、現存する最大規模の鰊御殿が、市内祝津の高台にあり、目立ちますから、鰊御殿&鰊漁=小樽というイメージにつながりやすいのですが、後志、檜山の昔を知る人に言わせれば、元はこちらにたくさんあったのに、という感じでしょうか。

それで、ご参考までに。私が確認した、道内での鰊御殿です。
[檜山地方]
旧中村家(檜山郡江差町。)
横山家(檜山郡江差町。ただし、横山さんが現在もお住まいなので、全部を見学できるわけではありません。)

[後志地方]
鰊御殿(旧青山別邸)(小樽市。現存する中で最大規模を誇る建物。泊村から移築。)
もと鰊御殿「銀鱗荘」(小樽市。現在は、旅館として営業しています。)
もと鰊御殿(泊村郷土館)(古宇郡泊村。)
もと鰊御殿「お宿鰊御殿」(寿都郡寿都町。現在は、旅館として営業しています。)

[留萌地方]
留萌旧佐賀家漁場(国指定史跡)(留萌市。)
花田家番屋(国指定重要文化財)(留萌郡小平町。)
岡田家にしん番屋(苫前郡苫前町。)

なお、留萌地方については、北海道人という道庁が運営するサイトの「留萌のニシン街道」としてまとめられており、参考URLは、http://www.hokkaido-jin.jp/heritage/01.html となります。

と、ここまで書いたところで、念のため、「鰊御殿」の検索結果を、もう一度丁寧に見ていったところ(だって1000件以上出てきて、大変なのですから)、リンクフリーのURLを見つけました。鰊御殿については、このURLをスクロールすると、「ニシン漁」のところに記述されています。せっかくたくさんタイプしたのに、その文章を破棄するのは悔しかったので、最後までお付き合いさせてしまって、申し訳ありません。
http://www.onitoge.org/nyumon/rekishi9.htm
こちらは、個人の方が作成されていますが、全体を読んでいくと、北海道のことが、全般的にわかるようになっています。

オマケの情報
検索結果の中には、「純米大吟醸、鰊御殿(にしんごてん)製造元、北の誉酒造株式会社」というのも、出てきました。飲まれた方ぁ、おいしかったですかぁ?(-.-)凸
[14137] 2003年 4月 27日(日)20:37:52【1】三丁目 さん
ニシン、補遺編
先般、拙稿[14009]で、鰊御殿をご紹介いたしましたが、ネット検索では私が見落としている可能性があると思ったものですから、念のため、檜山支庁、留萌支庁、後志支庁に電話して聞いてみました。檜山支庁は、資料を送りますよ、と向こうから言ってくれました。留萌支庁は、参考URLを教えてくれました。後志支庁は「小樽、泊、寿都以外にありますか」という私の質問に「それで全部です」でした。

対応してくださった方の性格?によるところもありますが、支庁が再編される可能性があるところは、観光や地域振興のためでしょうけれども、いろいろと教えて頂けたなぁ、と思いました。

それで、私が鰊御殿は檜山支庁管内では、「旧中村家」「横山家」以外にありますか?とお聞きして、送って下さった資料は、
(1)旧中村家住宅のパンフレットのコピー
(2)「江差」(旧中村家住宅が所在する江差町の概要パンフレット)
(3)「ひやま」(江差町が所在する檜山(北海道南西部)の概要パンフレット)
です。せっかく資料を頂きましたので、そのご好意にお応えせねば、と思い、少々檜山地方をご紹介、ということで。(1)、(2)、(3)の順でだんだん範囲が広がるようにして頂いているのは、丁寧だなぁ、という印象を持ちました。

さて。江戸時代に、松前藩は、寒冷地ということもあり、米がほとんどとれませんでした。しかし、多量に獲れる鰊によって、藩の経済は支えられていました。だから、「ニシンは魚に非ず、米である」とのことで「魚編に米」と書いて「鯡」と表していました。なお、上記に資料一覧を書きましたが、面白いことに「江差」の中では、全て「鯡」で表記が統一されています。

文政の頃(江戸時代後期)には、3港の戸数、江差2千戸、福山(現松前町)3千戸、箱館1千戸と言われ、「江差の5月は江戸にもない」と言われるほど、盛んでした。5月になると海が安定し、獲れた鰊等の海産物を取引するために、北前船が多く出入りしていた様子を表現したものです。

しかし、鰊の回遊が見られなくなり、やがて鰊漁は衰退してしまいました。ちなみに、資料には1913年(大正2年)を最後に回遊が見られなくなった、とあり、江差方面が道内では最も早い時期に獲れなくなったところです。鰊は、だんだん北の方へ移動し、留萌方面では、1950年代までは獲れた、と聞きました。

ところで、「ひやま」には「北海道南部に位置する檜山は10町で構成され、北海道で最も古い300年の歴史を持つ地域です。北海道のイタリアと呼ばれ…」とあったので、えっ???イタリア?たしかに伊達市は、北海道では比較的温暖なので「北海道の湘南」、とは耳にしたことがありましたが、イタリアとは。これわオドロきました。ということで、さっそく我が地理アドバイザーにご意見を伺ったところ、やっぱり聞いたことない、とのことでした。

個人的な感傷を少々述べますと、檜山支庁管内では、奥尻島のことが気にかかっています。私が北海道にいた当時、奥尻島で地震が起こり、津波によって青苗地区が壊滅的な被害を受けました。ちょうど阪神・淡路大震災のときのように、お手伝いに行く話があったのですが、私事都合により、そのときはお断りせざるをえませんでした。だから、その後の復興状況を知りたかったのですが、首都圏ではなかなか情報が入ってきません。ネットの北海道新聞では、過去記事の検索が有料なのですよねぇ。ウ~ラ~メシヤァ。室蘭民報、苫小牧民報でさえ、無料なのにぃ。。。あ、今気づいたのですが「ひやま」の裏に「北海道南西沖地震。全国通々浦々の皆様方の暖かいご支援と励ましのお言葉。そして、今、檜山は元気になりました。」とあるから、もう、お元気なのでしょうか。

最後になりましたが、「北海道檜山支庁商工労働観光課観光振興係」様、資料を送って頂き、ありがとうございました。と、この場をお借りして、お礼申し上げます。
[15803] 2003年 5月 24日(土)09:37:11OguriCap さん
昆布ロード
[15770]裏日本人さん
私も「新潟と北陸が日本海側の2大地域というよりはほぼ全て」との言葉には、[15777]般若堂そんぴん さんと同じ意見を持つ者ですが、確かに日本海側の各地域は細切れで、つながりは薄いですね。
人の行き来がなければ、つながりを持ちようがないのは当然のことで、私の住む富山で言うと、西に向かうと高速道路にしろ、特急にしろ、敦賀を過ぎると太平洋側に向かってしまいます。東に向かうと新潟で止まってしまいます。それよりも遠くの日本海側とは縁がないという感じです。
日本海東北自動車道ができれば、山形、秋田、青森が近くなりますが、計画自体がぶつ切りで、貫通することは望めなさそうです。

と、ここからは富山の話。
富山は日本海側の他の地域とよりも、北海道とつながりが深いようです。
奇しくも一昨日、北陸銀行と北海道銀行が経営統合に基本合意しました。
交流のない地域同士の地方銀行の合併はありえないでしょうし、今現在でも北陸銀行は道内に25店舗ありますが、この数は準地元銀行とも言える数ではないかと思います。
もちろんこれには理由があるはずですが、私は漠然と、明治の開拓時代に多くの県人が渡ったことや、富山の売薬産業の関係でつながりが深いのだと思っていましたが、面白いページがあったので、かいつまんで紹介します。

富山は一世帯当たりの年間昆布消費金額が日本一だそうです。この理由は江戸時代、北前船の港として機能していたため、北海道の海産物が多く流通するようになり(運搬を手がけた業者には富山の売薬業者が数多くいた)、独特の昆布の食文化を作り上げていったようです。昆布は北海道から富山、鹿児島へと運ばれ、琉球を通じて清国へ密輸され、清国からは漢方薬の原料が逆ルートで運ばれ、富山の製薬業の発展に寄与したそうで、これを「昆布ロード」というのだそうです。
その後明治時代になり、県民の北海道移住や漁業出稼ぎが始まり、中でも昆布の産地である羅臼町への移住が多く、彼らがふるさとに昆布を送ったことが、今でも羅臼昆布の人気が高い理由だそうです。
ということで、下記ページを見ると、昆布から始まった富山と北海道のつながりが見えてきます。

http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/ecm/back/2000jul/tokushu/index2.html

ちょっと興味がありますので、他にも離れた地域間のつながりをご存じの方は、御紹介下さい。
ところで、富山ではおにぎりにとろろ昆布を巻くのはごく一般的な食べ方ですが、最近富山だけの食べ方だと聞きました。
私は県外に十年以上住んでいましたが、どうだったのか思い出せません。
他の都府県の人にすれば、珍しい食べ方なのでしょうか?
また、北海道の人はどうなんでしょう?
気になります。

[15742] utt さん、[15761] miki さん 、[15772] ken さん
きゅうまるまる草原
私も伏せ字だと勘違いしました。
誤解って、本当に思わぬところから生じるものですね。
何でこんなところに伏せ字を使うのだろうと不審を抱いたところだったので、kenさん、ひいてはmikiさんのおかげで勘違いが解けました。ありがとうございます。(そして心の中で…uttさん、誤解してすみませんでした)

[15779] 雑魚 さん、[15781]ken さん、 [15782]般若堂そんぴん さん
「次は山形です。」と言うべきところ、「次は山形でした。」………これって地元固有の言い回しなんですかね。
いやあ、すごい違和感がありますね。
実際のイントネーションを聴けば方言として納得するのかも知れませんが、許せない日本語だ(笑)

[15795]TACO さん
井上靖と旭川はどういう関係があるのですか?
NSさんがお答えを用意されているかもしれませんが、もしそうでしたらNSさん、ごめんなさい。
私は井上靖研究家を自負しているもので。
井上靖氏は、両親とも湯ヶ島出身ですが、父親が陸軍軍医だった関係で、旭川で生を受け、一年間当地で育ちました。
氏は幼い頃母堂から、五月の旭川の百花が一時に開く美しさを聞かされ、旭川という地にしかも五月に生を受けたことに、誰よりも恵まれた出生を持っていると幼心に思ったと書かれています。
[15837] 2003年 5月 24日(土)19:37:52YSK[両毛人] さん
日本海沿岸の経済圏 -北前船による多様な物資・文化の交流- 前編
[15803]OguriCapさん
富山は日本海側の他の地域とよりも、北海道とつながりが深いようです。
奇しくも一昨日、北陸銀行と北海道銀行が経営統合に基本合意しました。
私も、両行の経営統合のニュースに驚くとともに、両地域の結びつきが伝統的なものであることを考えると、この経営統合の組み合わせもさもありなん、と受け止めた次第です。

富山と北海道との経済的な結びつきは、OguriCapさんのご説明のとおりと思います。

北前船の港として機能していたため、北海道の海産物が多く流通するようになり(運搬を手がけた業者には富山の売薬業者が数多くいた)、独特の昆布の食文化を作り上げていったようです。
そうですね。江戸時代には蝦夷地と大坂とをつなぐ一大経済交流ルートとして機能していた「北前船」ですが、これを単純に蝦夷地と大坂とを結んだ物資輸送ルートと理解するわけにはいきません。単に蝦夷地の物産を大坂に運ぶのであれば、若狭で陸上輸送に切り替え、琵琶湖の水上交通あるいはそのまま陸上交通を利用したほうが遥かに効率的であるからです。

また、海上交通は遭難などのリスクが現在とは比べ物にならないほど大きかったことと思われます。現に、江戸時代初期までは、若狭で陸上交通に切り替える方式のほうが主流でした。若狭小浜と京とを結ぶ「鯖街道」の隆盛もそれにともなうものでした(拙稿[3186]をご参照ください)。
[15838] 2003年 5月 24日(土)19:49:56YSK[両毛人] さん
日本海沿岸の経済圏 -北前船による多様な物資・文化の交流- 中編
では、なぜ最盛期の北前船は、本州西海岸を大きく迂回するいわゆる「西廻り航路」をとったのでしょうか。海上交通の技術の向上もあったでしょうが、それ以上に重要な要因は、寄航する土地土地で、物産を売り買いして利潤を得ており、その利益が遭難によるリスクを遥かに上回るものであったということのようです。

北前船の扱う積荷は、大別して蝦夷地方面へ向かうものを「下り荷」、阪神方面へ向かうものを「上り荷」といいますが、これらにも地域性があります。

「下り荷」の主なもの
阪神地域から積み込み・・・木綿、古着(「古手」と呼ばれました)、綿、灘などの酒、油(菜種油、ごま油など)、たばこ、など
瀬戸内一帯から積み込み・・・塩、砂糖(黒砂糖など)、生蝋、尾道の酢、そうめん、和紙、御影石や狛犬や灯篭などの御影石の加工品、など
石見地域から積み込み・・・石州瓦など
出雲地域から積み込み・・・鉄・鉄製品、来待石、米など
若狭地域から積み込み・・・むしろ・俵・縄などのわら製品(蝦夷地では「わら」は入手不可能だった。昆布やいわしの荷造りにはかかせない)
北陸地域から積み込み・・・笏谷石(しゃくやいし。福井市の足羽山に産出する、美しい青緑色の良質の凝灰岩)とその製品、九谷焼などの陶磁器類、小松の畳表、輪島の漆器、富山の薬など
越後(佐渡)・出羽からの積み込み・・・佐渡御影石とその加工品、米、酒など

「上り荷」の主なもの
蝦夷地からの積み込み・・・ニシン加工品(〆粕、干し魚、魚油、数の子など)、イワシかす、塩鮭、塩鱒、昆布、干しアワビ、イリコ、干しなまこなど。
津軽・南部からの積み込み・・・ヒバ、タラ、干しアワビ、雑穀類
出羽以南・・・上記「下り荷」とほぼ同じ。酒田からは「紅花」も多かったらしい

蝦夷地の諸物産(昆布のほか、肥料としてのイワシかすなど)と上方の諸物産(木綿などの衣類)の流通及び年貢としての「米」の輸送と捉えられがちな「北前船」による交易ですが、このように、中継地点での売り買いも含めて実に多様な品々が「日本海」を介して取引されたのでした。
[15842] 2003年 5月 24日(土)21:33:46YSK[両毛人] さん
日本海沿岸の経済圏 -北前船による多様な物資・文化の交流- 後編
また、この「北前船」の寄港地も、現在では考えられないくらい、多様なものでした。大坂から蝦夷地の方向で、主なものを挙げてみますと、

兵庫、室津(兵庫・御津町)、江井(淡路島・一宮町)、坂越(赤穂市)、牛窓、日比(玉野市)、下津井(倉敷市)、玉島(倉敷市)、塩飽諸島(香川県)、多度津、鞆の浦(福山市)、尾道、椋浦(因島市)、御手洗(広島・大崎下島)、竹原、上関、室積(光市)、下関、室津(山口・豊浦町)、魚島(山口・豊北町)、萩、須佐、浜田、温泉津、宇龍(島根・大社町)、鷺浦(大社町)、西郷(隠岐)、美保関、境港、赤碕、橋津(鳥取・羽合町)、浜坂、香住、柴山(香住町)、竹野、久美浜、宮津、舞鶴、小浜、敦賀、河野、三国、橋立(加賀市)、本吉(石川・美川町)、金石(金沢市)、福浦(石川・富来町)、黒島(石川・門前町)、輪島、小木(石川・能都町)、伏木(高岡市)、新湊、東岩瀬(富山市)、水橋(富山市)、糸魚川、能生、柏崎、出雲崎、寺泊、宿根木(佐渡・小木町)、小木、新潟、荒川、岩船(村上市)、加茂(鶴岡市)、酒田、飛島、金浦、本荘、土崎(秋田市)、能代、深浦、鯵ヶ沢、十三港(青森・市浦村)、三厩、松前、江差、熊石、寿都、余市、小樽

などで、下北半島の港を介して、室蘭、苫小牧、門別、様似、釧路、厚岸、根室までを活動域とする場合もあったようです。

もちろん、すべての船がすべての寄港地に泊まったというわけではなく、海の時化具合や扱う商品の多少などによって寄港地が選ばれ、日本海沿岸の港湾どうしの流通が促進されました。

また、上記に挙げた港町には多かれ少なかれ廻船問屋があって、北前船流通を担っていました。

一方、この日本海沿岸を繋いだ流通は文化的交流も促進し、先の[15803]OguriCapさんによる、富山と北海道のつながりをはじめ、瀬戸内で産する石で作られた鳥居や狛犬が日本海岸の神社で使われるなど、現在でもその交流の一端を窺わせる事物が各地に残っているようですね。
[15845] 2003年 5月 24日(土)22:04:53YSK[両毛人] さん
日本海沿岸の経済圏のいまを考える
以上、江戸期における日本海沿岸を基軸とした経済圏の概要をご紹介いたしました。周知のとおり、明治期以降、交通の主軸が水上交通から陸上交通に移っていくにつれて、北前船による交易は衰退し、明治後期にその役割を終えたといいます。

その後の太平洋側を中心とした産業基盤の発達は、日本海沿岸に多様に存在したゆたかな産業を停滞させ、一体的な地域性を減退させました。そして、そのジレンマは現在に至るまで完全には払拭できていないように思われます。

日本海沿岸を縦貫する高速道路をつくり、かつての経済圏を復活させよう、という思想の1つには、もちろん相対的に停滞している日本海沿岸地域の経済活性化を企図したということもあるのでしょうけれども、このかつての日本海沿岸の経済的な結節性に少なからず注目した考えがあるのかもしれないな、と感じています。そして、この「日本海沿岸」というメルクマールは、朝鮮半島や沿海州、サハリンなども含めた「環日本海経済圏」というスケールで語られるむきもあるようです。

現在の国家的な財政問題等を勘案するに、インフラ整備を強力に推し進めるといった形から、「環日本海」を形成させることは、かなり難しい問題でしょうし、効率性の関連からそう簡単に進めていける性質の問題ではないように思われます。

しかしながら、私たちは、「日本海」が実質的な経済地域として燦然と輝いた時代があり、その歴史に裏打ちされた地域性が、現在においても日本海沿岸の津々浦々に刻まれていることを学ぶことはできます。

いわゆる「裏日本」という言葉が持つ(と錯覚されている)「日本海沿岸=経済的に停滞した地域」という意味合いに象徴されるように、 一般的な理解において、日本海沿岸が押し付けられた「たが」は重いように感じられます。

日本海沿岸地域が紡いできた歴史と、その一体性、ゆたかな地域性をもっと理解し、上記した偏った見方を払拭すること。日本海沿岸の成長を考えるにあたり、実はこのことが最も大切なことの1つなのかもしれないな、と考えています。

※なお、「裏日本」ということばには本来「経済的に停滞した地域」という意味はありませんでした。このことについての詳細は、アーカイブズ「奥、陰、裏のつく地名について」をご参照ください。

アーカイブズ
奥、陰、裏のつく地名について
http://uub.jp/arc/arc45.html
[15846] 2003年 5月 24日(土)22:21:57YSK[両毛人] さん
日本海沿岸の経済圏 -北前船による多様な物資・文化の交流- 付記
拙稿[15837][15838][15842]をまとめるにあたり、大いに参照させていただいた文献のご紹介をさせていただきます。

加藤貞仁・鐙敬記(2002)『北前船 寄港地と交易の物語』無明舎出版
鐙敬記(2002)『北前船おっかけ旅日記』無明舎出版

上の1冊は、北前船交易の礎を築いた近江商人のふるさと近江八幡から始まり、大坂、北風家の兵庫津、瀬戸内一帯、山陰、北陸、東北日本海岸と続く北前船寄港地の1つ1つを丹念に取材した珠玉の1冊です。豊富な写真と、何より北前船に関連するすべての地域をフォローした取材は圧巻です。

下の1冊は、上記文献をまとめるための取材旅行のメイキングやその裏話などが、北前船関連の興味深いコラムとともにまとめられた本です。

ちょっと余談

私もなるべくなら図書館で文献を参照するのが一番と思っているのですが、両毛地域に地理学の分野まで十分に網羅した図書館はありません(「地理」の書棚に並んでいる本といえば、旅行ガイドなんですよ・・・泣けてきます)かといって、しょっちゅう東京や前橋に出かけていくのは時間的に厳しいものがあります。

そこで、地域めぐりの際には必ずといっていいほど、訪問先で大きな書店に立ち寄り、その地域限定の地誌書などをチェックし、買い込みます(これ、私のひそかな楽しみです)。地元出版社の発行する地域性豊かな文献は、なかなか侮れない、優れた内容のものも多いんです。

『環日本海』関連の書籍も、おそらく東京などの大都市では普通に売られているものなのかもしれませんが、両毛ではまず手に入らないですね。私は、上記の本を富山市で買いました。
[15913] 2003年 5月 25日(日)23:41:26YSK[両毛人] さん
北前船(きたまえぶね)レス
[15908]OguriCapさん
レスありがとうございます。ご指摘のアーカイブは、いかんせんほとんど文献の内容を受け売りした拙稿ばかりで構成されていますので、はなはだ偏った内容になっているように思います。どうか、日本海側の皆様をはじめとした、多くの方からのご意見やご見識をいただき、内容を充実させていければと思っております。

改めて「落書き帳」の凄さを噛みしめました。
本当に、私もそう思います。アーカイブもかれこれ約300のテーマを数えるのですが、過去ログを探索しますと、出るわ出るわ、本当に貴重な情報がまだまだ埋もれているんですよね。また、日々新たな情報が加わっていくわけですから、すごいですよね。

今後とも、地理情報の泉である過去ログをつぶさにみつめて、アーカイブ化していこうと思っております。

今年の1月2日、雪の富山を訪れました。松川沿いや富山城址公園などを歩いたのですが、すてきな町ですね。また、行ってみたいと思っております。

[15899]紅葉橋瑤知朗さん
「きたまえぶね」が一般的だと思います。
私もそう思います。
ただ、補足いたしますと、「北前」とは、大坂や瀬戸内をはじめとした地域の人々が、日本海を指して呼んだ呼称のようです。江戸に近い東京湾の水域を「江戸前」と呼んだのと同じ感覚でしょうか。

ですので、日本海側では「北前船」という呼称のほかに、「弁才(財)船(べんざいせん)」または「ベザイ船(せん)」と呼ぶのが一般的であったそうです。

弁才船というのは、船の型を指す呼び方のようです。白く巨大な帆1つで海洋を進む帆船です。千石の米を運ぶことができる大型の船で、1石は4斗俵で2俵半ですので、千石=150トンの米を運ぶ能力があるということになります(1俵=60キログラムで計算)。北前船最大の船は二千四百石の積載能力を持っていたとのことです。

[15846]にて紹介いたしました文献より、引用いたしました。
[16017] 2003年 5月 27日(火)13:13:42ken さん
弁財船 自己レス
[16014]
(べんざいせん)と読む出所がありましたでしょうか?

船といえば、笹川一家・日本財団。
先日海底から引き上げられた北朝鮮工作船も「船の科学館」に展示されるそうで、船繋がりで、なおかつ、反共宣伝には格好の材料をGETできるとは、まだまだ日本財団も影の影響力あるんですね。

余談はさておき、「べんざいせん」で検索したら、日本財団図書館のページ
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1997/00667/mokuji.htm
が、かかり、お、これは「船の科学館」の資料だから、確かだな、と思ったら、
目次ページには「弁才船(べんざいせん)の構造と各部名称」とあるものの、
肝心のコンテンツページに入ると、
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1997/00667/contents/011.htm
「弁才船(べざいせん)の構造と各部名称」

「船の科学館ものしりシート」が、これでは困りますね。

<CM回顧(番外編)>
♪戸締り用心、火の用心~
笹川良一氏が高見山関(現東関親方)と子供たちを従え、拍子木を鳴らし町を歩くCMなど、日本船舶振興協会のCMは凄い出稿量でした。
心に残るコマソン(←死語?)だと思ったら、故山本直純さん作曲。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/01002/contents/033.htm
「世界は一家、人類は皆兄弟!」と唱和して終わったり、笹川氏が「一日一善」と宣したり、お母様を背負って石段を登ったり、の一連のCM群は、子供には笹川氏のプロフィールなど詳しく知る由もなく、不思議なCMでした。
[16050] 2003年 5月 28日(水)00:01:36YSK[両毛人] さん
北前船と出雲崎町
連続投稿してますね。申し訳ございません・・・。

[16014]kenさん
弁財or弁才と書いて、ベザイと読む、のではないでしょうか?
私の思い込みかもしれないので、(べんざいせん)と読む出所がありましたでしょうか?
[15846]にて言及しました文献(前者の文献)より、引用いたします。

富山県あたりでは「バイ船」、東北地方では「ベザイ船」、あるいは「ベンザイ」と呼び(中略)「ベザイ船」とは、船の形である。漢字では、「弁才」とか「弁財」と書く。巨大な帆一枚で帆走する和船を想像してもらえばいい。

この記述からは、「弁財(才)」という字が、「べざい」または「べんざい」と読まれたのではないかとの推論が成り立つと考えますが、いかがでしょうか。

ちなみに、北前船の寄港地の1つだった、新潟県出雲崎町には、東毛地域の小学生が必ずといっていいほど行く臨海学校があるのですが、そこの道の駅「天領の里」は、北前船に関する展示が豊富で、廻船問屋が神社に奉納した北前船の模型などが飾られていました。

海岸に間近の丘陵に張り付くように街村を形成する町並みも、板塀に黒瓦の間口が狭く奥行きの在る家屋で統一されており、美しい町並みがゆたかに保存されています。

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