[68334]88さん
「市制町村制施行前の町村名等」欄では郷名を省いて記載し、詳細画面の「協議状況・経過等」欄に、例えば「蓮代村,尾立村は地頭分郷」と記載しようかと考えています。
88さんのお考えの通りに記載するとどのようになるのか検証してみました。
(1)明治の大合併での場合
既に採用された
高知県では、特段の問題点は見られません。他の府県ではこのような記載について特に考える必要がないので、従前どおりの記載で何の問題もありません。
(2)全国的に廃藩置県がなされた時(M4.7.14)~明治の大合併以前まで
区制(大区小区制)の区を除くと、「市制町村制施行前の町村名等」欄のところで考えなければならないのは、やはり高知県のみとなります。
具体的事例を挙げます。M22.4.1に高岡郡松葉川村の一部となった仁井田郷米奥村、仁井田郷作屋村、仁井田郷中津川村については
高知県布達丑甲第6号(M10.1.20)で成立したものです(注)。この合併を88さんの案に従った上で大区小区を省いて記すとすると
1877.1.20 新設? 高岡郡米奥村 高岡郡 本村, 川奥村
注釈:本村は米ノ川村
1877.1.20 新設? 高岡郡作屋村 高岡郡 作屋村, 作屋村
注釈:前者の作屋村は仁井田郷、後者の作屋村は米ノ川村
1877.1.20 新設? 高岡郡中津川村 高岡郡 中津川村, 中津川村, 栗ノ木村, 桑ノ木村
注釈:前者の中津川村は仁井田郷、栗ノ木村,桑ノ木村,後者の中津川村は米ノ川村
と記すことになります。
#本来的にはこのような表記では訳が分からなくなります。しかし高知県管下各区村名取調書(明7、著:高知県)によりますと、米ノ川村が仁井田郷と同等の位置に来るものでして。。。実際には別の形で表記されることになるのでしょう。
ただ、高知県布達を良く見ると、米奥村のところでは仁井田郷との名称が出てきません。
[68339]でhmtさんが書かれている
埼玉県の「○○領」は同名の村を区別する符丁らしい
と同様に、高知県の仁井田郷というのも単なる符丁であるとも取れます。
もう一つ事例を挙げます。
高知県布達亥第211号(M8.7.12)で出来た佐川村の事例です。この合併を88さんの案に従った上で区を省いて記すとすると
1875.7.12 編入? 高岡郡佐川村 高岡郡 佐川村, 三野村
となります。先に挙げた仁井田郷米奥村、仁井田郷作屋村、仁井田郷中津川村とは異なり、この合併の佐川村では郷名がありません。
佐川村の事例ではよいものの、仁井田郷米奥村、仁井田郷作屋村、仁井田郷中津川村の記載方法がこのままで良いのか、もう少し考える必要がありそうです。
--------
(注)
まず市制町村制下での町村合併の根拠は内務省からの各府県宛の許可であり、その後府県の告示が出されて初めて実際の町村合併が施行される、と私は理解しています。
では郡区町村編成法以前の町村合併がどのようになされたかといいますと、内務省(明治4年ごろまでは民部省、その後明治6年の途中までは大蔵省?)からの各府県宛の許可があり、これを受けて府県が布達を出して町村合併がなされます。市制町村制下の時と何らの変わりがないことが分かります。(各府県宛の許可をまとめたものが
[58247]でokiさんが挙げられている内務省の布達。)
ただ一つ違う点があるとすれば、内務省からの町村合併の許可があった後に、府県が必ず布達を出したということではないことだけです(
[66845])。
--------
(3)江戸時代(幕末)~廃藩置県まで
江戸時代の公式の文書である天保郷帳では、単に「○○村」として記載されている藩政村もあります。しかしそれらの村と比して少なくない数の、「△△××村」と本来の「××村」との村の名前の前に「△△」という総称が小さい文字で記載されている村があります。また「□□村枝郷◇◇村」と記載されている村もあります。
つまり、江戸時代では藩政村は「○○村」「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」の3形式で表記されたということが分かります。
#汲古書院より内閣文庫所蔵史籍叢刊55天保郷帳(一),56天保郷帳(二)附元禄郷帳としてオリジナルのまま出版されており、それを参照しました。
#国立公文書館所蔵の
天保国絵図に描かれている藩政村(私がリスト化した12ヶ国分については少なくてもそうでした)も、「○○村」「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」の3形式で表記されています。
地域政策研究第8巻第2号(PDF)によりますと、江戸幕府自身が天保郷帳及び天保国絵図の仕上げを行ったとのことですから、一致するのは当然なのですが。。。
さて廃藩置県以降の村々との比較です。
(a)まず、明治になって「□□村枝郷◇◇村」という枝村から「◇◇村」という独立村となった村については重要なのでまず記すべき点でしょう。
(b)次に、明治になってから「△△××村」→「××村」と変わったという村については、注釈で書く必要が出てくるのでしょう。
(c)それ以外で何か問題点は?、というと高知県の郷の記載が問題となります。土佐国でも天保郷帳においては、「○○村」「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」の3種類の形式で書かれた藩政村しか見られません。
天保郷帳の記載から考えると、仁井田郷作屋村のような表記が公式になされるようになったのは、明治になってからということになるのでしょうか。
宿毛市HPにその一端が載っているようにも見えるのですが。。。
さてここで考えなければならないのが、88さんの方針に従うならば、江戸から明治になった時に、高知県では「××村」→「☆☆郷××村」という変遷を市区町村変遷情報に記さなければならないということです。
(a)(b)とは異なり、「××村」→「☆☆郷××村」というあまり本質的ではない変遷を市区町村変遷情報に記すことになり、個人的には賛同できませんが。。。
#そうとは言っても、明治の大合併の前の高知県では「☆☆郷」が公式の表記として使われていたわけでして・・・(e.g.高知県管下各区村名取調書(明7、著:高知県))。
以前
[59148]にて88さんは
この「区」(大区、小区とも)は割愛させていただこうかと考えています。
と、大区小区についての記載ですら割愛することを既に検討されておられます。大区小区の記載を割愛するならば、郷名についても完全に割愛しても特に問題はないのではないでしょうか、などと言うと暴論になるのでしょうね。
以上長々と書きましたが、実質的には単に問題点を浮き彫りにしただけとなり、88さんの参考となったところがあまりなさそうですが。。。
<訂正>
【1】(2)での事例を安芸郡安芸ノ川村の改称の事例から高岡郡佐川村の合併の事例に変更
【2】(3)を全面書き直し。(2)を追記。
【3】(3)で「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」についても少々書き足した。
【4】(3)を分かりやすい文章に変更。