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[68339] 2009年 1月 15日(木)19:03:59hmt さん
埼玉県の「○○領」は同名の村を区別する符丁らしい
[68334] 88 さん
埼玉県には「○○領」との記載があるところがあります。
例えば北足立郡六辻村として町村制を実施した、市制町村制以前の町村名は、
(北足立郡)白幡村,浦和領根岸村,仝別所村,仝辻村,沼影村,文蔵村

内務省の方針を受けた埼玉県は、町村合併標準を策定し、300戸以上に合併する方針で知事から郡長に内達しました。これが、明治20年(1887)6月10日。
その例式に、県庁の近くのこの地域が示されていました。(埼玉県市町村合併史p.188)
合併町村(名称、戸数):浦和町 1050
現在町村:浦和宿 1050
合併町村: 白根村 352
現在町村:白幡村 96 根岸村 78 別所村 62 辻村 116

結果的には、更に2村を加えた6村合併になり、名称も 合併数地名 になりました。

この内達の村名には、『浦和領』が使われていません。
小さめの文字で記されている町村名の『肩書』(以下、便宜上このように表記)は、果たして正式の町村名の一部なのでしょうか?

この種の『肩書』で既に話題になったものに、市街地を形成する町村の「総称」 がありました。

明治22年の合併における旧町村名を調べると、「地方行政区画便覧」で使われた『浦和領』が正式町村名に組み込まれた府県([64836]のグループ1)も多数あるが、埼玉県、滋賀県、鳥取県など「総称」が旧町村名の枠外だった県もありました。

例えば、埼玉県川越・岩槻・草加などにおいて、明治19年の「地方行政区画便覧」では使われていた「総称」が、明治22年の合併旧町村名には含まれず、単に「岩槻町」[62867]
浦和の場合は、もともと浦和宿とその周辺との「総称」は設けられていませんでした。

それでは、旧町村名欄に『浦和領』根岸村 というように記された『浦和領』とは何か?
どうも高知県の「郷」のような過去の行政区画の名残とは異なり、同名の村を区別する符丁のようです。
埼玉県類聚法規附録に記載された『肩書』ですが、誤認防止目的の便宜的な記載であり、正式村名の一部ではないように思われます。

明治22年の合併における旧町村名を見ると、埼玉県内で北足立郡だけに同名の村の組み合わせが多数あります。
根岸村の場合『浦和領』根岸村(→六辻村)と『安行領』根岸村(→神根村)。現在はさいたま市南区と川口市。
別所村は、『浦和領』(→六辻村)と『指扇領』(→指扇村>>さいたま市西区)の他に、『大谷』(→宮原村>>さいたま市北区)、『常光』(→中丸村>>北本市)を冠した村がありました。
辻村は、『浦和領』・『指扇領』・『南部領』(→野田村>>さいたま市緑区)・『平柳領』(→北平柳村>>鳩ヶ谷市)の4村。

更に領家村は、平柳領・赤山領(以上川口市)・木崎領・植田谷領(以上さいたま市)・平方領・石戸領(以上上尾市)・小針(桶川市)と7村もありました。在家村が安行領と植田谷領。町谷村が与野領と大谷領。

北足立郡に限って、何故こんなに同名の村があるのでしょうね?
300戸の合併標準に対して、神根村は12村、指扇村は10村、中丸村は9村、木崎村は8村という具合に小さな村の分立もその一因でしょうが、それにしても多過ぎる同名村の謎。
[68343] 2009年 1月 15日(木)21:51:17Issie さん
[68334] 88 さん
埼玉県には「○○領」との記載があるところがあります。

[68339] hmt さん
どうも高知県の「郷」のような過去の行政区画の名残とは異なり、同名の村を区別する符丁のようです。

「行政区画」というものに当たるのかどうかわからないのですが,江戸時代,江戸近傍の武蔵国内の村々は数ヵ村ずつで「領」という単位に編成されていました。
「武蔵国内」ですから,埼玉県だけではなくて江戸(東京)をはさんだ反対側の神奈川県東部も同様。川崎市の「ニヵ領用水」の名前の元になった「稲毛領(現川崎市北部)」「川崎領(現川崎市南部)」も,そのようにして編成された「領」の1つです。
現在の都内の村についても,たとえば後に 東多摩郡 となり,現在は中野区や杉並区に属する村々が「野方領」に編成されていたり,西多摩郡に属する村々が「三田領」「小宮領」などに編成されています。
「領」という区画がどのような機能を担っていたのか,私はよくわかりません。
たとえば「野方領」と言っても,それを単位に領地のあてがいが行われたわけではないですよね(少なくとも江戸時代中期以降は)。江戸近傍では,「領」単位どころか,1つの「村」でさえ複数の領主を持つ「相給」となっているのが普通でしたから。
どうもよくわからないのですが,ほかの地域では使われなくなっていった「領」という呼称が,どうしたわけか埼玉県の北足立郡では使われ続けていたわけで(全面的にではないけれど),実際上それは hmt さん のおっしゃるとおりに,同名の村を区別するのに都合がよかったからなのでしょう。なぜ,北足立郡だけか,というのがわからないのですが。

いずれにせよ,江戸近傍に限らず,関東地方の多くの地域は大名領(藩)であってもある程度まとまった地域を支配するという方が例外で飛地だらけ,あちこち足し合わせたら万石以上になるので「大名」を名乗れるという,細分化され錯綜した状況なので案外に支配体制が弱く,そのために(要するに,大名や旗本の支配が当てにならないので),江戸時代後期になって治安強化のためにいわゆる「八州廻り」と呼ばれる 関東取締出役 が設置されることになります。
で,それに続いて文政年間に 水戸・川越・小田原 の各藩領を除いた関東地方の村々について 幕領・旗本領・藩領・寺社領 といった領主の別を越えて地域単位で「寄場組合」が編成されました。隣り合う3~6ヵ村で「小組合」,小組合10ほどで「大組合」とし,大小の組合それぞれに大小の「惣代」を配置,各組合の有力村を「寄場」「親村」として,その村の役人(←武士ではなく“百姓”。武士は城下町にいるもので,村にはいません)を「寄場役人」として,こちらは実際の行政に当たらせました。
これは,ほぼそのまま,明治初期の「大区・小区」につながることになります。

実は江戸時代の関東地方は,特に有力な大名の藩政下にあった地域とはだいぶ違った支配体制下にあったのですね(大坂近傍などもそうだったのかもしれませんが)。
[68352] 2009年 1月 16日(金)23:43:44hmt さん
「領」の話-武蔵国足立郡を中心として
[68343] Issie さん
江戸時代,江戸近傍の武蔵国内の村々は数ヵ村ずつで「領」という単位に編成されていました。
「領」という区画がどのような機能を担っていたのか,私はよくわかりません。

「○○領」という地名は断片的には聞きかじっており、落書き帳でも葛飾郡の「二郷半領」に触れたことがあります[53318]
端数のある数字地名という点で興味をそそられたのですが、吉川郷(吉川市)、彦成郷(三郷市)の二郷に加えてその南の“半郷”を含む区域であることを知っただけで、「領」についての知識はありませんでした。

最初に [68334] 88さん に倣い、「角川日本地名大辞典」(埼玉県)による地名用語「領」の説明。

特に関東の戦国期以降に見える小地域の広称。戦国期に群立する小領主の領域名によるか、河川などの地形によって細分されたか、その成立については未詳。数か村を総称。鉢形領、岩槻領など。

江戸時代に使われた用語とわかったので、文化文政時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」を見ると、各郡の総説に続いて「領」単位で各地の説明を記しています。
例えば、巻之百三十五「足立郡之一 総説」には、足立郡には23領ありとして、これを列挙しています。

136~155巻の各説を参照し、小室領を加えた足立郡24領の名を列挙しておきます(括弧内は概略の対応市区町名)。
淵江領(足立区)、谷古田領(草加、川口)、赤山領(川口)、舎人領(足立区)、平柳領(鳩ヶ谷、川口)、戸田領(戸田、蕨)、浦和領(浦和)、木崎領(浦和)、安行領(川口)、三沼領(見沼)、南部領(緑)、小室領(伊奈)、上尾領(上尾)、大谷領(上尾)、鴻巣領(鴻巣)、忍領(鴻巣)、石戸領(上尾など)、平方領(上尾)、差扇領(西)、吉野領(北)、大宮領(大宮)、植田谷領(西)、与野領(中央)、笹目領(戸田)

「忍(おし)領」は、地名本来の埼玉郡だけでなく、足立郡・大里郡・男衾郡にも現れています。このことからわかるように、「領」は郡の枠にとらわれない領域でした。
武蔵野の方の「野方領」も、多摩郡・豊島郡・新座郡に登場。麻布領(豊島郡・荏原郡)、世田ヶ谷領(荏原郡・多摩郡)、神奈川領と小机領(橘樹郡・都筑郡)、山口領(入間郡・多摩郡)、鉢形領(児玉郡・榛澤郡・男衾郡)と類例多数。

前記のように、足立郡は434村に24領もあり、村数は4村から10数村の小さな領が多数ありました。
荒川を隔てた西側の入間郡河越領は110村もあり、同じ「領」でも性格はだいぶ違いそうです。

「領」に関連して「領家」という地名。
[68339] hmt で、埼玉県北足立郡に「領家村」が7つもあったことを記しましたが、過去ログを調べたら、
[38586] Issie さん
さいたま市周辺のわりと狭い範囲に「領家」という地名がひしめいている
がありました。

明治合併の旧村名の『肩書』に記録された「○○領」という話題の発端に戻って、
埼玉県北足立郡だけにおいてこのよな現象を生じさせた原因として、とりあえず次のようなシナリオを推測しておきます。

モザイク状の零細な幕臣知行地だった足立郡は、大名領中心の入間郡とは、村や領の規模・性格を異にした。
区画の小さな足立郡では、小領主の家に関係した「領家村」「別所村」など同名の村があちこちに誕生。(中世の「領家・地頭」由来というより、近世の小領主由来か?)
それら同名の村を区別する必要から、この地域では「領」という観念が明治22年まで生き続けていた。

最後に、冒頭の「二郷半領」の由来。
「新編武蔵風土記稿」には、吉川・彦成プラス下半郷という前記の説が、三輪野江定勝寺の寛文9年鐘銘によると記されていましたが、それに続けて、
天正の頃、伊奈忠次にこの辺を一生支配すべしとの命あり故、一升を四配と云意にて二合半と唱えという土地の俗説あり

「二合半坂」[61689]伊豆之国 さんと同様の「割り算の地名」[65257]でした。
[68370] 2009年 1月 18日(日)00:45:48Issie さん
領:つづき
[68352] hmt さん
「領」は郡の枠にとらわれない領域でした。

実はだいぶ(10年近く)前に「領」で括られる地域についてまとめてみようと思ったことがあったのですが,(明治時代の)西多摩郡と東多摩郡の町村について手をつけたところで放り出してしまい,それっきり。
「領」が「郡」とは別の括りであることについては認識していたのですが,手許にこの2郡分のデータしかなく確認できなかったので,前言では言及を控えた次第。

「新編武蔵風土記稿」

姉妹本の「新編相模国風土記稿」の方では,郡の下の括りに「領」ではなく「庄」を用いています。以下の通り。

・足柄上郡: 大井庄,苅野庄
・足柄下郡: 早川庄,成田庄,曽我里
・淘綾郡: 二ノ宮庄
・大住郡: 八幡庄,糟屋庄,波多野庄
・愛甲郡: 毛利庄
・高座郡: 大庭庄,一之宮庄,渋谷庄
・鎌倉郡: 山之内庄,西見庄,深沢庄,江島
・三浦郡: 衣笠庄,衣掛庄
・津久井県: 毛利庄

こちらでは,「庄」はほぼ「郡」の下位区分となっています。
「毛利庄」が 愛甲郡 と 津久井県(明治以降の津久井郡) にまたがっているのは,もともと 津久井県 の大部分が 愛甲郡 であったからですね(この本では“相模川以南”としています。“相模川以北”は元・高座郡)。

「庄」の大きさがまちまちなのも,武蔵の「領」と同様。
高座郡は,東海道沿いで現在の藤沢・茅ヶ崎両市の南部に当たる「大庭庄」(1宿[2町]34ヵ村),寒川町南部と茅ヶ崎市北部にまたがる6ヵ村からなる「一之宮庄」,そして残り,現在の相模原市旧市域北部にまで至る66ヵ村にわたる広大な区域である「渋谷庄」に分けられています(村の数と名前は,この本が編纂された化政年間のものですね)。

“角川の地名辞典”の「領」についての解説にある「特に関東の戦国期以降」からは,「領」という括りと後北条氏の支配との関連が想像できそうなのですが,この辺りについて「新編相模国風土記稿」には特に「領」についての記述はみつからないようで,相模でも「領」という括りが行われていたのか,それとも武蔵に特有の括りなのか,よくわかりませんね(その割には,江戸時代初期までは 下総 であった 葛飾郡 にも「領」が設定されているのが,気になるところです)。
とりあえずは,“角川”の言うとおり,「その成立については未詳」ということになるのでしょう。
とにかく,武蔵の「領」にしても,相模の「庄」にしても,これらの本が編纂された化政年間においては現実の支配(行政)の上では何の機能も持たない括りであることは [68343] で述べた通り。「○○領」とか「××庄」とか言っても,その区域全体が誰かの領地となっていたわけではない,ということを押さえておくことが必要でしょう(「伊達領」などとは根本的に違う)。
私は,この本においては「領」も「庄」も村々を適当に括るための“インデックス”と理解しました。

中世の「領家・地頭」由来というより、近世の小領主由来か?

ひとつ気になるのは,中世の荘園制において「領家」という言葉が意味するのが“現地の荘園管理者”ではなくて,寄進を受けた“名目上の領主”,つまりは「都の公卿たち」だということ。
「荘園制」ないしは「荘園公領制」と呼ばれる中世の支配体制は大変にわかりづらいものがあって,自分としてもまだ十分に整理できていないのですが,“1つの土地”に対して所有・耕作・支配といった権利を持つ人が幾重にも重なって成り立っているのが“中世の荘園制”でした。その中で単純化して言えば,“現地で荘園を管理”しているのが“武士”であり「地頭」,“名目上の領主”としてその土地からの“上がり”を吸っていたのが“都の公卿たち”であり「領家」です。鎌倉・室町400年の歴史とは,早い話,“現地管理者”である武士たちが,「領家」たちの権益を排除して土地に対する実質的な支配権を確立していくための闘争の歴史,と言ってしまってもいいかもしれません。
その最終段階が戦国時代であり,それを勝ち抜いた 豊臣・徳川政権 によって重層的な土地支配体制である荘園制が解体されることになります。その下で検地が行われて,近世の「村」が編成・成立するわけですね。
そう考えると,近世=江戸時代には,「領家」「本所」などといった荘園制関連の(特に“みやこびと側”の)言葉に具体的な意味はなくなっていただろうと思います。これは単に荘園制の「歴史」を刻んだ遺産ではないか,と。
…長々と書いてしまいましたが,つまりは,江戸時代になってからの小領主=旗本支配を由来として「領家」という“新しい地名”が成立することはないだろう,と思うのです(用語としての「領家」「本所」という言葉はなくなっている…)。
やはり,これらの地名は中世の荘園に起源があるのでは?
[68413] 2009年 1月 20日(火)03:39:32【4】むっくん さん
Re:高知県の「郷」について
[68334]88さん
「市制町村制施行前の町村名等」欄では郷名を省いて記載し、詳細画面の「協議状況・経過等」欄に、例えば「蓮代村,尾立村は地頭分郷」と記載しようかと考えています。
88さんのお考えの通りに記載するとどのようになるのか検証してみました。

(1)明治の大合併での場合
既に採用された高知県では、特段の問題点は見られません。他の府県ではこのような記載について特に考える必要がないので、従前どおりの記載で何の問題もありません。


(2)全国的に廃藩置県がなされた時(M4.7.14)~明治の大合併以前まで
区制(大区小区制)の区を除くと、「市制町村制施行前の町村名等」欄のところで考えなければならないのは、やはり高知県のみとなります。

具体的事例を挙げます。M22.4.1に高岡郡松葉川村の一部となった仁井田郷米奥村、仁井田郷作屋村、仁井田郷中津川村については高知県布達丑甲第6号(M10.1.20)で成立したものです(注)。この合併を88さんの案に従った上で大区小区を省いて記すとすると
1877.1.20 新設? 高岡郡米奥村 高岡郡 本村, 川奥村
注釈:本村は米ノ川村

1877.1.20 新設? 高岡郡作屋村 高岡郡 作屋村, 作屋村
注釈:前者の作屋村は仁井田郷、後者の作屋村は米ノ川村

1877.1.20 新設? 高岡郡中津川村 高岡郡 中津川村, 中津川村, 栗ノ木村, 桑ノ木村
注釈:前者の中津川村は仁井田郷、栗ノ木村,桑ノ木村,後者の中津川村は米ノ川村
と記すことになります。
#本来的にはこのような表記では訳が分からなくなります。しかし高知県管下各区村名取調書(明7、著:高知県)によりますと、米ノ川村が仁井田郷と同等の位置に来るものでして。。。実際には別の形で表記されることになるのでしょう。

ただ、高知県布達を良く見ると、米奥村のところでは仁井田郷との名称が出てきません。[68339]でhmtさんが書かれている
埼玉県の「○○領」は同名の村を区別する符丁らしい
と同様に、高知県の仁井田郷というのも単なる符丁であるとも取れます。


もう一つ事例を挙げます。高知県布達亥第211号(M8.7.12)で出来た佐川村の事例です。この合併を88さんの案に従った上で区を省いて記すとすると
1875.7.12 編入? 高岡郡佐川村 高岡郡 佐川村, 三野村
となります。先に挙げた仁井田郷米奥村、仁井田郷作屋村、仁井田郷中津川村とは異なり、この合併の佐川村では郷名がありません。

佐川村の事例ではよいものの、仁井田郷米奥村、仁井田郷作屋村、仁井田郷中津川村の記載方法がこのままで良いのか、もう少し考える必要がありそうです。

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(注)
まず市制町村制下での町村合併の根拠は内務省からの各府県宛の許可であり、その後府県の告示が出されて初めて実際の町村合併が施行される、と私は理解しています。
では郡区町村編成法以前の町村合併がどのようになされたかといいますと、内務省(明治4年ごろまでは民部省、その後明治6年の途中までは大蔵省?)からの各府県宛の許可があり、これを受けて府県が布達を出して町村合併がなされます。市制町村制下の時と何らの変わりがないことが分かります。(各府県宛の許可をまとめたものが[58247]でokiさんが挙げられている内務省の布達。)
ただ一つ違う点があるとすれば、内務省からの町村合併の許可があった後に、府県が必ず布達を出したということではないことだけです([66845])。
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(3)江戸時代(幕末)~廃藩置県まで
江戸時代の公式の文書である天保郷帳では、単に「○○村」として記載されている藩政村もあります。しかしそれらの村と比して少なくない数の、「△△××村」と本来の「××村」との村の名前の前に「△△」という総称が小さい文字で記載されている村があります。また「□□村枝郷◇◇村」と記載されている村もあります。
つまり、江戸時代では藩政村は「○○村」「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」の3形式で表記されたということが分かります。

#汲古書院より内閣文庫所蔵史籍叢刊55天保郷帳(一),56天保郷帳(二)附元禄郷帳としてオリジナルのまま出版されており、それを参照しました。
#国立公文書館所蔵の天保国絵図に描かれている藩政村(私がリスト化した12ヶ国分については少なくてもそうでした)も、「○○村」「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」の3形式で表記されています。地域政策研究第8巻第2号(PDF)によりますと、江戸幕府自身が天保郷帳及び天保国絵図の仕上げを行ったとのことですから、一致するのは当然なのですが。。。

さて廃藩置県以降の村々との比較です。
(a)まず、明治になって「□□村枝郷◇◇村」という枝村から「◇◇村」という独立村となった村については重要なのでまず記すべき点でしょう。

(b)次に、明治になってから「△△××村」→「××村」と変わったという村については、注釈で書く必要が出てくるのでしょう。

(c)それ以外で何か問題点は?、というと高知県の郷の記載が問題となります。土佐国でも天保郷帳においては、「○○村」「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」の3種類の形式で書かれた藩政村しか見られません。
天保郷帳の記載から考えると、仁井田郷作屋村のような表記が公式になされるようになったのは、明治になってからということになるのでしょうか。宿毛市HPにその一端が載っているようにも見えるのですが。。。

さてここで考えなければならないのが、88さんの方針に従うならば、江戸から明治になった時に、高知県では「××村」→「☆☆郷××村」という変遷を市区町村変遷情報に記さなければならないということです。
(a)(b)とは異なり、「××村」→「☆☆郷××村」というあまり本質的ではない変遷を市区町村変遷情報に記すことになり、個人的には賛同できませんが。。。
#そうとは言っても、明治の大合併の前の高知県では「☆☆郷」が公式の表記として使われていたわけでして・・・(e.g.高知県管下各区村名取調書(明7、著:高知県))。

以前[59148]にて88さんは
この「区」(大区、小区とも)は割愛させていただこうかと考えています。
と、大区小区についての記載ですら割愛することを既に検討されておられます。大区小区の記載を割愛するならば、郷名についても完全に割愛しても特に問題はないのではないでしょうか、などと言うと暴論になるのでしょうね。


以上長々と書きましたが、実質的には単に問題点を浮き彫りにしただけとなり、88さんの参考となったところがあまりなさそうですが。。。


<訂正>
【1】(2)での事例を安芸郡安芸ノ川村の改称の事例から高岡郡佐川村の合併の事例に変更
【2】(3)を全面書き直し。(2)を追記。
【3】(3)で「△△××村」「□□村枝郷◇◇村」についても少々書き足した。
【4】(3)を分かりやすい文章に変更。
[68442] 2009年 1月 24日(土)12:07:3888 さん
高知県の「郷」、埼玉県等の「領」、同一郡内の同一村名について
[68339] [68352] hmt さん
[68343] [68370] Issie さん
[68413] むっくん さん
期待どおりの皆様から、期待以上のコメントありがとうございます。

まずは前後しますが同名の藩政村について。実はちょうど2年ほど前に[56402] 88 で、 同一名称の地名の話題に関連して、
同一県内の同じ名称の藩政村となると、実例はさらにヤマほど出てきます。例えば現在の熊本県だと、
「今村」・・・託麻郡、飽田郡、菊池郡、下益城郡、玉名郡、阿蘇郡、上益城郡、八代郡、葦北郡、天草郡
「中村」・・・山鹿郡、宇土郡、下益城郡、阿蘇郡、葦北郡、天草郡、下益城郡、合志郡
に存在しています。しかも、例えば今村は同じ飽田郡内に3つ(明治22年の町村制時の力合村、八分字村、中緑村のそれぞれ一部)もあるようになっています。
と書きました。この3つの飽田郡今村のその後の変遷を追ってみると次のとおりです。
藩政村M8M22(1889).4.1その後の変遷現在(推定、地図へのリンク)
(1)飽田郡今村-飽田郡八分字村S30(1955).4.1飽託郡飽田村熊本市今町
S46(1971).11.1飽託郡飽田町
H3(1991).2.1熊本市
(2)飽田郡今村飽田郡合志村*1飽田郡力合村S15(1940).12.1熊本市熊本市合志三丁目など
(3)飽田郡今村飽田郡中牟田村*2飽田郡中緑村S31(1956).9.30飽託郡天明村熊本市中無田町(今村)
S46(1971).4.1飽託郡天明町
H3(1991).2.1熊本市

M29(1896).3.30法律第54号熊本県下郡廃置法律による、飽託郡の設置に伴う郡名の飽田郡から飽託郡への変更(M29(1896).4.1付け)
*1飽田郡今村,苅草村,富籠村が新設合併して飽田郡合志村に
*2飽田郡今村,北中牟田村,南中牟田村が新設合併して飽田郡中牟田村に
この3つの今村は、結構近接していますが、2村は合併により自治体としての「今村」ではなくなった上で市制町村制を迎えました。その後、それぞれの経緯をたどって今では3村とも熊本市内となっています。
(熊本県の変遷の全体像は、市制町村制施行時の情報(熊本県)、及びその後の市区町村変遷情報履歴情報(熊本県)を参照(CM))

続いて、宮崎県の例を挙げます。もっとも宮崎県と書いたものの、あくまで「現在は宮崎県」というだけで、廃藩置県後「鹿児島県→ 美々津県→都城県→宮崎県→鹿児島県→宮崎県」と、たどっている時期の話なのですが・・・。
「幕末以降」によると、現在の宮崎県西諸県郡の地域に「麓村」が2つあったようです。離れたところではなく、岩瀬川をはさみ、それぞれ「麓村」があり、県・郡の変更を明治初期に頻繁に繰り返した後、
場所M18M22(1889).4.1(町村制)S9(1934).10.5S30(1955).2.11
左岸側(北東側)西諸県郡麓村西諸県郡東麓村西諸県郡野尻村西諸県郡野尻町
右岸側(南西側)西諸県郡麓村西諸県郡西麓村西諸県郡高原村西諸県郡高原町
と、2村とも改称した後、現在に至っています(大字東麓、大字西麓)。

これらの2県の例のように、藩政村期(または明治の初期)に同一郡内に同一名の村が一時的にあった例は、他県の例を見てもかなり多いです。このような場合、熊本県飽田郡今村のように廃置分合、宮崎県西諸県郡麓村のようにともに改称、また例示はしませんでしたが一方(一部)のみを改称(東西南北や上中下などを冠する例が多い)など、何らかの方法で市制町村制施行までに同一村名を解消した例が多いように感じます(手元で整理したデータでの感覚的な意見であり、数字での検証には至っていませんが)。そういう意味では、[68339]hmtさんでご紹介のあった埼玉県の例のように「同一郡内の同一村名がある」という例は、少なくとも市制町村制直前の時点では全国的には少数派であったと思います。

これらについては、市区町村変遷情報が市制町村制以前の明治初期にまで遡ることができればより具体的にお示しできるのですが、まだそこに至るには長い道のりがあり、またこれまで以上の大きい難点が思いつくだけで3つあります。
・資料の不確実性
・府県の再編への対応
(現在は47都道府県を指定しての作業・表示でもあり、市区町村変遷情報のデータベース構造に大きく影響する可能性大)
・改暦への対応
明治5(壬申)年11月9日太政官布告第337号改暦ノ儀
一今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事但新暦鏤板出来次第頒布候事
(資料が元号表記か西暦表記か、改暦を踏まえて太陽暦に変換しているのか太陰暦のままの記載なのか、等の確認の必要性及び確認の可否)
(太陰暦・太陽暦変換のサイトの例はこちら)
いずれにせよ、グリグリさん・でるでるさんとの調整も時間をたっぷり要しそうですし、将来構想としてはいろいろ考えています、ということで。
―――――――――――――――――――――――――
郷について
[68413] むっくん さんでも触れていただいたように、市制町村制施行時の情報(高知県)については、[68334]拙稿直後に私の案どおり入力作業を行いました。例えば、土佐郡旭村では「蓮代村,尾立村は地頭分郷」とで「協議状況・経過等」欄に記載しました。作業過程で郷名を記載する・しないを意識して作業を行うのはかなりストレスになり、反動で一気に高知県を仕上げてしまいました。
で、高知県の「郷」の取扱いについて。実は、[68334]拙稿で書き忘れていたことを追記しておきます。
何度か書いたことでもありますが、市区町村変遷情報の編集作業に関しては、作業効率の便宜上、[55681]拙稿の冒頭に掲げたような市販の文献(市区町村変遷情報トップページにも記載)を一次資料にすることが現実でありながら、極力、「根拠」の原典をあたるようにしています。今回の例では、M22.3.4付け高知県令第31号が原典であり、その原典に「地頭分郷」との記述があることから、「原典どおりの記載を行う」との原則を鑑み、「郷」の記載を省略することに抵抗があった訳です。
実は、これまでの作業上、既に記載を省略してきたものがあります。それは「旧国名」についてです。
(廃藩置県以降の旧国名の取扱われ方については、「国」という区画の歴史と現状に関する記事というミニアーカイブが[62889]hmtさんによってまとめられていましたのでご紹介しておきます。)
先ほど書いた、M29(1896).3.30法律第54号熊本県下郡廃置法律でも、
熊本県肥後国飽田郡及託麻郡ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ飽託郡ヲ置ク
で、「肥後国」があります。他府県でもこの時期の取扱いは同様です。
高知県の村名に「地頭分郷」を記載しようとして「協議状況・経過等」欄にその記述を行う一方、「肥後国」のような地理的名称である旧国名を省くことは整合が取れているのか、というのは実は懸念があります。
同様に岐阜県の例です。岐阜県の市制町村制施行時の情報(岐阜県)は、M22(1889).6.27付け岐阜県令第39号であり既に入力済みなのですが、岐阜県大野郡には美濃国大野郡飛騨国大野郡があります。例えば、大野郡西根尾村(現本巣市の一部)は、美濃国大野郡、大野郡高山町(現高山市)は飛騨国大野郡です。このような例こそ、地理的名称である旧国名を記載して区別すべきなのかもしれませんが、もし記載するのであれば他県分も一斉に編集作業するべきでしょうし、・・・。
また、記載するのであれば、「記載しなくなるとき」を明確にする必要もあるでしょう([68413]むっくんさんご指摘の「郷」の取扱いと同様)。まだ悩ましく、記載を保留している状態です。

領について
[68334]88投稿時には漠然と「○○所領」の名残かと思っていましたが、hmtさんやIssieさんに詳しく解説していただき、「同名の村を区別する符丁らしい」との説、じっくりと拝聴いたしました。先ほど述べたように、全国的には改称等により同一郡内の同一村名を解消する流れであったのですが、武蔵国あたりでは何故かそうならなかったのでしょう。

総括
[68413]むっくん さん
[59148]88に関連してコメントしていただいた、
大区小区についての記載ですら割愛することを既に検討されておられます。大区小区の記載を割愛するならば、郷名についても完全に割愛しても特に問題はないのではないでしょうか、などと言うと暴論になるのでしょうね。
暴論どころか、とても整理できたすっきりした考えが浮かびました。高知県の「郷」、埼玉県の「領」、全国の地域区分としての旧国名、同じく全国の行政区画の)「府藩県一般戸籍ノ法」による区(大区・小区)、この4種類はすべて「市制町村制施行前の町村名等」欄では割愛し、必要に応じ、詳細画面の「協議状況・経過等」欄に、記載する(具体的には当面は「郷」「領」のみを記載)、とする案です。この場合、[68413]むっくん さん
「××村」→「☆☆郷××村」というあまり本質的ではない変遷
は、そもそも対象外とし、[68334]88で提起した件は「市制町村制の根拠となる高知県令や埼玉県令に郷・領の記載があったので当該部分のみを『協議状況・経過等』欄に記載したのに過ぎない」との割り切った考えもあるかもしれません。
確定版ではありませんが、ただいまの私の意見としては、作業の効率化もあり、この方針がすっきりしてよいかと考えています。皆様のご意見があれば賜りたく存じます。


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