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[935] 2002年 2月 19日(火)22:29:16Issie さん
相馬と南部
> 以前、相馬野馬追祭を特集したNHK番組で「千葉県流山に相馬藩の飛び領が在った」と仄聞しました。

これは,相馬藩主の相馬氏の出身地が下総の「相馬郡」であるからです。
相馬氏は,もともと下総北部の豪族で,現在の茨城県取手市や千葉県我孫子市のあたりを領域とする下総国相馬郡,あるいは相馬御厨(みくりや)を“苗字(名字)の地”,つまり発祥としています。
伝承の上では,常総地域を本拠に「反乱」(京都から見たら)を起こした平将門(“相馬の小次郎”という通称があった)を祖先とする,と言っているのですが,これはまあ,怪しいものですね。

この相馬氏が源頼朝の奥州征伐(奥州藤原氏を滅ぼした)に参加し,その恩賞として陸奥南部の行方(なめがた)郡が与えられてこの地に移住しました。以来,相馬氏は隣りの宇多郡を含めた地域の領主として幕末,そして廃藩置県に至ります。
そうして,行方・宇多両群にわたる相馬氏の領地が「相馬領」または「相馬藩」と呼ばれて定着しました。
明治半ば,郡制施行のためにこの2つの郡が統合されたとき,新しい郡の名称として「相馬郡」という名前が“初めて”採用され,現在に至るのです。
つまり,もともとここに「相馬」という地名があったのではなく,領主の相馬氏が下総から“持ってきた”ものなのです。

下総の相馬郡は明治に入ると利根川を境に茨城県と千葉県とに分割され,茨城県側は「北相馬郡」,千葉県側は「南相馬郡」となりました。そして,南相馬郡は郡制施行の際に東葛飾郡に編入され,茨城県の「北相馬郡」だけが残りました。

実は江戸川に面した流山の市街地はもともと(東)葛飾郡に属していて相馬郡の一部あったことはないのですが,流山市の一部が相馬氏の勃興期に“相馬御厨”の一部あったことはあるかもしれません。

南部氏の場合も,本来は有名な武田氏と同族の「甲斐源氏」の一族であり,甲斐国巨摩郡南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を“名字の地”とする一族です。
こちらも,中世以来,出身地の甲斐国ではなく,もっぱら奥州北部に勢力を拡大し,戦国末期までにその支配地域について「南部(領)」という呼称が定着しました。
やはり,甲斐出身の南部氏が「南部」という地名を甲斐から持ってきたのです。

> 青森県八戸市一帯が南部藩に属した必然性です。

これは話が逆で,戦国時代までは現在の青森県の領域,「南部」に属する下北半島だけでなく「津軽」の半島先端まで,その全域が南部氏の支配下にあったのです。
“津軽氏”はもともと南部氏の一族であり家臣であったものが戦国時代に自立し,それが豊臣政権によって認められ,続く徳川政権もそれを継承したのです。
南部氏(南部藩)としては本来“家来筋”にあたるはずの津軽氏が勝手に独立したわけで,当然認められるものではありません。言ってみれば,今の中国(北京政府)にとって台湾の政権が勝手に独立を志向しているようなものです。
一方,津軽氏(津軽藩)から見れば,盛岡の南部本家だけでなく八戸の分家(八戸藩)その他の分家(支藩)との間にかなり複雑な事情があったようです。

ともかく,「南部」の方から見れば勝手に独立した「津軽」に対していい感情は持たないし,反対に「津軽」からすれば独立後も陰に日に意地悪をしつづける「南部」を敵視したくなるのは人情と言うものでしょう。
恐らくは,府県の大きさを“適正規模”に整理していく過程で,旧津軽領(津軽5郡)に旧南部領(支藩を含む)北部(下北・上北・三戸八戸)で「青森県」の領域が確定するのですが,「津軽」と「南部」の地域対立はそう簡単には解消しない,ということなのでしょうね。
[947] 2002年 2月 20日(水)20:57:06Issie さん
南部氏と安藤氏
前言を少しく(いや,“大幅に”かな?)訂正します。

奥州藤原氏の滅亡後,鎌倉時代から戦国時代にかけて津軽を中心に現在の秋田県北部から北海道の渡島・檜山地方の南部にまたがる地域に勢力を広げたのは「安藤(安東)氏」でした。
前九年の役で滅ばされた安倍氏の末裔を自称していますが,本当のところはどうでしょうか。ただ,少なくとも蝦夷(えみし)の系統に連なるものであったことは確かなようだし,いろいろな意味で奥州藤原氏の遺産を引き継いだ一族ではあったようです。

一方,奥州の太平洋側の地域には関東から多くの鎌倉御家人が領地を得て移住してきました。
甲斐出身の南部氏もそうだし,現在の仙台市周辺に勢力を広げ戦国末期に伊達氏の支配下に入った国分(こくぶん)氏(名字の地は,現在の千葉県市川市国分[こくぶん]。つまり,下総の千葉氏の一族)などもそうです。
特に,現在の盛岡周辺に勢力を広げたのは足利氏でした。足利一族の“斯波氏”の名字は,盛岡市南方の「斯波=紫波郡」に由来します。
鎌倉幕府内での執権北条氏による独裁体制が確立していく中,奥州はその北条氏の支配下に置かれていたのですが,鎌倉幕府が衰退から滅亡に向かい南北朝の混乱期に入ると,かつて北条氏の被官(家来)の地位にあったこれらの豪族が抗争を繰り返すようになりました。
その中で頭角をあらわし,奥州北部の糠部(ぬかのぶ)郡(一戸~九戸に分割される)を統一したのが南部氏でした。
南部氏は北奥羽における支配権を室町幕府から承認され,今の八戸周辺を中心に南の北上川上流域へ勢力を延ばしていくことになります。

安藤氏や南部氏だけでなく中央の足利氏や斯波氏・細川氏など,室町時代前半までは分割相続が一般的でしたから,勢力のある一族ほど多くの家系に分かれていました。細川氏のように割と遅くまで一族全体の統率がとれていたものもありましたが,多くの一族では同族内での抗争が頻発しました。応仁の乱の原因となったのは斯波氏と畠山氏の同族内での抗争です。
結局こうした抗争を通じて室町時代までの有力大名のほとんどが滅亡し,“大名の総取っ替え”を経て江戸時代の幕藩体制が確立します。

当然,安藤氏や南部氏も御他聞に漏れず,一族内での抗争を繰り返しています。さらに安藤氏と南部氏との間の抗争もやはり激しいものでした。やがて,津軽では南部氏が安藤氏を圧倒し,ここに一族の“大浦氏”が送り込まれました。この大浦氏が戦国末期に南部氏から自立して“津軽氏”となったのです。
一方,安藤氏はこの抗争によって大きく勢力を後退させ,結局は出羽北部に勢力を持っていた“檜山安藤氏”が一族内での支配権を確立し,津軽海峡を渡った渡島・檜山地方では若狭守護家の出身と言われている武田信広が安藤氏の一族である蛎崎氏に“婿入り”し,この地方の支配権を継承しました。
南部氏の中では,いまだ抗争の種を残しつつ三戸南部氏が支配権をほぼ確立します。

この状態で豊臣秀吉による全国統一を迎え,蛎崎氏・檜山安藤氏・三戸南部氏・大浦氏それぞれの支配権が中央政権によって承認されました。
蛎崎氏はその本拠地から「松前氏」,檜山安藤氏は秋田地方に本拠地を置いて「秋田氏」,そして大浦氏は弘前城下町を整備して「津軽氏」を名乗ることになりました。三戸南部氏も1600年頃に名前の通りの三戸地方から盛岡に本拠地を移して,北奥羽の勢力地図が一応確定しました。
しかし関ヶ原の戦いの後,徳川家康は関東の中で徳川氏に敵対していた常陸水戸の佐竹氏を秋田へ遠ざけ,変わって秋田氏を南奥州(現福島県)の田村郡に移して(三春藩),これが江戸時代を通じて北奥羽の大名配置となったのです。
[41805] 2005年 6月 1日(水)18:45:36hmt さん
三浦半島の小地名→三浦一族の名字→相模川上流に津久井城→そして「津久井県」などの地名
[41743] 百折不撓 さん
少なくとも、信長以前の姓で地名と同じ場合は、地名が先と考えるのが妥当なのではないでしょうか。

征服した各地にアレキサンドリア(アラビア語でイスカンダル[7333]、アフガニスタン戦争の時にニュースに出たカンダハルも同じ)という都市を作りまくった「歴山大王」の伝統を受け継ぐ西洋と異なり、日本人は概して、地名に人名を付けることには慎重でした。
地名由来の名字が多いのに比べて、人名由来の地名は少ないようです。

そんなことを考えながら過去ログを見ていたら、アーカイブズ地名と姓名の遥かなる関係に行き当たりました。
その中には、下総相馬郡出身の相馬氏が、源頼朝の奥州征伐に参加して、与えられた領地が「相馬領」と呼ばれて定着したとか、甲斐国巨摩郡南部郷から出た南部氏が奥州北部で頭角をあらわし、その地の地名を生んだというような Issie さんの記事がありました。

このように、「地名→人名→別の場所の地名」 という類型があり、hmt として身近な実例は「津久井」です。
改めて過去ログを探ると、さすがに
[1617] Issie さん が
小さなところでは神奈川県の「津久井郡」は中世領主の津久井氏に由来するけれど,津久井氏は三浦半島南部の津久井庄(横須賀市)が本来の領地だった。
と、既に言及されています。
せっかくなので、津久井氏の出自である三浦一族のことなど。

12世紀、鎌倉幕府ができる少し前の東国の武士に、三浦義明という人物がいました。官職は「相模介」ですが「三浦大介」(みうらのおおすけ)で通っています。
この三浦大介義明は、弟や息子などの一族を三浦半島の各地に配し、彼らは、名字としてそれぞれの地名を名乗りました。三浦氏の惣領家の三浦義明の部を見ると、三浦の他に、杉本、和田など地名からの名字が多数出ています。後に鎌倉幕府侍所別当になったが、北条義時と対立して滅ぼされた和田義盛と、和田合戦の時に北条方についた三浦義村は、いずれも義明の孫です。
大介義明の弟、津久井次郎義行も、三浦半島の津久井庄(現・横須賀市)由来の名字です。これも地名先行の例。

ところが、津久井次郎義行の息子・為行(津久井太郎次郎義胤)が、現在の津久井町根小屋の宝ヶ峰に築城し、付近一帯を津久井領としたのが「津久井」の地名の起源と伝えられます。今度は人名先行です。

この城が歴史の舞台に登場するのは戦国時代。小田原北条氏が甲斐の武田氏に備えて、内藤景定を城主として「津久井衆」という家臣団を編成した後のことです。1569年には、付近の三増峠で両軍の激突がありました。その後、秀吉の小田原攻めの際(1590)には、「小田原評定」を続けている間に、津久井城も落城。

江戸時代初期には、「慶安三年(1650)相州津久井領絵図」が示すように「津久井領」と呼ばれていましたが、元禄4年(1691)に愛甲郡と高座郡とに分属していた津久井領が両郡から独立した際に、「津久井県」と命名されました。
命名者である代官・山川金衛門貞清は、漢学者だけに、この地は、郡と称するにはあまりに弱小と考えたのでしょう。
[1196]Issie さん や、森鴎外の「寒山拾得」にもあるように、
本来は「県」よりも「郡」の方が大きい区画です。

実際問題としては、日本にはミニサイズの郡がいくらでもあったので、わざわざ「津久井県」を名乗る必要もなかろうと思いますが、とにかく「津久井県」は「近世日本で唯一の県」になり、この公式名称は明治3年に「津久井郡」になるまで続きました。
「津久井町」は、1955年昭和合併の産物。

最初に挙げた三浦大介義明のエピソード。
彼は、治承4年(1180)に源頼朝の挙兵に応じ、平家打倒に立ち上がりましたが、両軍が合流を果たす前に、頼朝が石橋山で敗れてしまったので、衣笠城に引き返して平家の追撃を防ぎ、一族を脱出させました。89歳の大介はその際に討死しましたが、三浦一族は頼朝軍に加わって功績を挙げ、鎌倉幕府の要職につきました。
大介の死後17年、頼朝は、義明の功績をたたえて生けるが如くに扱ったので、三浦大介は 89+17=106歳までの長寿を保ったとされるようになりました。

厄払いに曰く。
「アーラ目出度いな目出度いな。目出度きことにて払いましょう。
鶴は千年、亀は万年、東方朔は九千年、浦島太郎は三千歳、三浦大介百六つ。」
川柳の “厄払い さて短命は三浦なり” は、このセリフを踏まえています。
#東方朔は、漢の武帝の宮廷にいた人物。西王母の桃を三つ盗み食いしたので長命との伝説あり。
[42030] 2005年 6月 7日(火)12:25:30hmt さん
「かすか・べ」市「かす・かべ」
[41822] トライランダー さん
島根県にま郡にま町大字にま町

「にま」については、発音だけからでは明確な概念を抱きにくい2音地名に当てる漢字が多数ある中で、郡名には「邇摩」が、より使用頻度の多い村名には、字画が少なくて使いやすい「仁万」が定着し、これから改めて「仁摩町」が生まれました[41861]

同音異字の地名が連なる類例を探すと、「しが県しが郡しが町」。
「滋賀県滋賀郡志賀町」であり、3連続の「にま」には及びませんでした。
ここは和邇氏や小野氏の根拠地で、1955年に和邇村など3村が合併して生まれた「志賀町」の直接的な由来は、3村組合立の志賀中学校とされていますが、古代から「滋賀」と「志賀」は混用されてきたようです。

「にま」と同様、「しか」の2音地名に当てる漢字は多数あり、滋賀・志賀の他に 志我・志加・志何・磯鹿とも記されました。
なぜ、「滋賀県滋賀郡滋賀町」にしなかったかというと、少し南に、1932年まで「滋賀村」(大津市に合併)が存在していたので、近くの異なる場所に同表記を復活させることによる混乱を避ける配慮をしたのだと思います。

さて、2音を漢字に移しただけの「にま」・「しが」と違って、明らかに別の意味を持つ同音異字地名を連ねた例が、タイトルに挙げた「春日部市粕壁」です。

近世には、日光道中の「粕壁宿」で、これが明治の「粕壁町」になり、1944年の内牧村との戦時合併で「春日部町」が誕生しましたが、中心区域の大字として「粕壁」の名を残しています。更に、1954年1町5村合併により「春日部市粕壁」に。

この「春日部」という地名。「粕壁」を佳字に変化させた[4742]ようにも見えますが、実は復古なのです。
鎌倉時代に「春日部郷」の地頭職だった春日部実景が、宝治合戦(1247)で三浦方として敗死し、春日部氏は没落しましたが、鎌倉幕府滅亡後に、春日部重行([1608] でるでる さん言及の“新田義貞の家臣”)が、後醍醐天皇から旧領の「春日部郷」を安堵されています。でも、結局南朝側は負けてしまいます。なかなか生き残るのは難しい。

その「春日部」は、[1617] Issie さん にあるように、
大王(天皇)一族で「かすか」という名前の人に奉仕する集団に関わる地名です。

日本書紀の安閑天皇元年(6世紀前半)の条に、武蔵国造が内乱鎮圧にあたり援助を得た礼として屯倉を献上した記事があり、このことから、安閑天皇妃・春日山田皇女の御名代部由来という説が生まれています。
この説を立証する史料はないようですが、この付近は、大和政権との結びつきのあった土地です。

たとえば、私部(きさきべ)に由来すると思われる地名「騎西」があり、1875年に埼玉県から東京府に移管された「舎人」[36159]も、大王の親衛隊を勤めた豪族がいたことを思わせます。北の方に目を転じると、辛亥の年(471)の銘がある鉄剣の出土した稲荷山古墳があります。
そういえば、埼玉(さきたま)古墳群のある場所は、「同字異音の連続」である「埼玉県埼玉郡埼玉(さきたま)村」でした。北埼玉郡を経て、現在は行田市。

それはさておき
「春日部町」が誕生した1944年というと、皇紀二千六百年の4年後。復古調全盛の時代ですから、この名が採用されたのは当然かもしれません。
それでも、大字に「粕壁」を残したことから、少なくとも400年間使われてきた「粕壁」の表記に対する愛着を感じることができます。
なお、戦国時代には、糟ヶ辺、糟壁などの用例もあります。

さて、「春日部」は人名由来の地名ということでしょうか?
春の日が霞むから、大和の「かすか」という地名に「春日」という字が当てられ、それに由来する人名という具合に遡ると、「地名→人名→別の場所の地名」 という類型[41805]に入れることができそうです。

参考までに 同音異字連続の住所に関する過去ログ
[39218]グリグリさん
長野県木曽郡木祖村、滋賀県滋賀郡志賀町、島根県邇摩郡仁摩町、島根県簸川郡斐川町、熊本県葦北郡芦北町
ひらがな町もいれると、佐賀県三養基郡みやき町と鹿児島県薩摩郡さつま町
面白データ検索 同一読みの自治体
[360] ケン さん 市名と町名の違う市
つくば市筑波、春日部市粕壁、越谷市越ヶ谷,都留市つる、茅野市ちの、氷見市比美町、礪波市となみ町、羽曳野市はびきの


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