都道府県市区町村
落書き帳

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[43765] 2005年 7月 31日(日)14:08:30右左府 さん
能代の偉人&市町村暗記
 ローカル有名人ネタ、乗り遅れてしまいましたが能代のものも。能代以外ではマイナーな能代の偉人は?と聞かれると、何人か思い浮かびます。その中の一人をピックアップ。

 井坂直幹(いさかなおもと)。<1860年~1921年>
 調べてみたところ、出身は水戸で、水戸藩士井坂幹の息子との事。(これは知りませんでした…。)1889(明治22)年、林産商会能代支店長として来能、商会解散後も能代に留まります。当時能代の材木工場で職人の手作業によって行われていた製材の機械化を図り、製材の効率化、品質向上を目指しました。(最初は職人などが大反対し、井坂の家に放火する人もいましたが。)その後は1907年(明治40年)秋田木材株式会社を設立し、この地域を「東洋一の木都」と呼ばれるまでに発展させたのです。
 私がこの人の事を最初に知ったのは、確か小学校4年の道徳の授業。この人の話が教科書(正確には副教材)に載っていました。市内には井坂記念館というものがあるんですが、私は色々あってまだ一度も訪れてません……。昔は井坂直幹の立派な墓の前を通って学校に通ったものですが、何やら「多摩霊園に永眠」という記述が下記HPに。はて……???
 そうそう、この人の名前、能代の大人は皆「いさかちょっかん」と言ってます。勿論正しいのは上記の通り「いさかなおもと」。私が昔「なおもと」と言ったら祖母に「ちょっかん」と“直され”ました。何故この誤解が広まっているのか……。
 参考HP: http://www.shirakami.or.jp/~machi/02/isaka.htm

 他にも、能代の誇る日本一の松林「風の松原」を生んだあの人……ああ、名前が思い出せない。能代市内のある小学校では風の松原を称える行事を毎年行っていて、その人達の苦労を劇にしたりしているようで。風の松原の歌なんかも作ったとか。
 私の出身中学校では加藤景林という人をやたら取り上げて、校歌の歌詞にも出てきました。取り上げているといっても、校舎のあるエリアの廊下の掲示板がこの人関連の掲示物で埋められているだけですが。

 これは能代市内でも中心部の方に住んでいる人間の立場から書いた物なので、同じ市内でも他地域に行くとまた別の偉人さんがいるでしょう。檜山地区なら檜山城主の安東氏とか。市内全域で知られている人は、なかなかいないと思います。


[43177] 打吹 さん
大体小学4年で県内の市町村を覚えるんですよねぇ(最近はどうだか知りませんけど)。
 私も7年前にこれをやらされましたよ。(小学校4年の社会科では都道府県の範囲の学習をしますね。)ただ、私の担任はちょっと特殊な人だったので、今ではあまりやらないようです。秋田県は当時69市町村。(「当時」という言葉を使うのが悲しい。)勿論覚えられるわけもなく、私の隣の席の子はカンニングまでして必死でした。
 ちなみに、今の能代の高校生は山本郡の構成町村すらまともに言えません。合併にも疎く、大仙市を知らない人、「三種町」ってどこ?と聞く人、等々……。(県内市町村ではないですが、根室・釧路・旭川等を知らない人なんかも。)
 北海道ではどうなんでしょうかね。ちょっと前まで212市町村(北方領土を含めると218)。支庁単位でやらせていたんでしょうか。

 ここからは余談。
 その秋田県の市町村名、それ以来一部が頭の片隅に残ったまま数年が過ぎました。そして中学校3年生。授業で暇になった私は暇つぶしにと、このとき覚えさせられた市町村名を書き出します。全部は書けませんでしたが、以後この作業にハマってしまい、この時期のノートやプリントの余白は市町村名で埋め尽されています(笑)。思えば私の地理活動が活発化したのはこの頃かも。
[43834] 2005年 8月 2日(火)22:10:10hmt さん
人の名前を「音読み」するのは敬意や親愛の気持ちから
[43765] 右左府 さん
井坂直幹(中略)能代の大人は皆「いさかちょっかん」と言ってます。勿論正しいのは上記の通り「いさかなおもと」。

最初に予備知識。
戸籍には「読み」が記されていないませんが、日本人の名前に多い、「良い意味の漢字2字」を並べた名は、もともと公家や武家の男子が元服する時に名乗る名前で、「訓で読む」という伝統がありました。これを「実名」(じつみょう)または「名乗」(なのり)と言いました。
# 地名についても、古くから「並用二字、必取嘉名」の原則がありました。[37482]参照。

しかし、この実名(名乗)は、昔は生前に他人から呼ばれる名ではありませんでした。他人は、その人の大事な実名を尊重して、めったに口にしてはならないのです。
そこで、他人に呼ばせるための「通称」という名がありました。西郷吉之助というような名がこれです。○スケ(助・介・亮など)、○兵衛、○衛門、○蔵などは昔の官職まがいの言葉を含む通称です。太郎、二郎のように兄弟順(排行)由来の通称もありました。郎を省いて数字だけになった「源三」とかもありました。もっともこれは、「源蔵」を簡略化した可能性もあります。通称は「呼び名」ですから発音主体で、文字本位の「実名」と違って、漢字はどうでもいいようでした。○作、○吉も代表的な通称でした。

明治5年5月の太政官布告で、「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」になり、通称か名乗かどちらかを一つだけを選んで戸籍に記すことになりました。西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人が間違えて父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。名乗がほとんど使われていなかったという現実を窺がわせる逸話です。

枕話が長くなってしまいましたが、「井坂直幹」は「実名」系の名ですから、「なおもと」のように訓読みするのが正しいことになります。但し、この「訓読み」が曲者で、いくらでも読み方の候補があり、どれが正しいのか、中々分らないのです。例えば、[43497]hmtでは、“徳川慶喜(よしのぶ)”と書いたのですが、「よしひさ」という別の読み方もあり、こちらの「読み」もかなり一般的に知られていたようです。
元来、「実名」は、本人が公の書類に署名するための「書き言葉」であり、「話し言葉」ではないので、どの読みが正しいのか、当人からの聞き書きとか、ローマ字のサインでもないと分らないのでしょう。
氏名に「ふりがな」を求められるようになったのは、ごく最近の習慣です。

さて、本題の「いさかちょっかん」のように名前を「音読み」するのは何故か。

最初に書いたように、他人は、その人の大事な実名を尊重して、めったに口にしてはならないのです。
「源氏物語」に登場する多くの人々が、官職やあだ名で呼ばれて、実名を明らかにしていないのはご承知の通りです。主人公の「光源氏」にしても姓は「源」だが、実名は不明。
実名を呼ぶことは、その人の人格を支配することになり、親や師でなければ許されることでないと考えられていました。
明治になって通称が廃止された後も、このような考え方は根強く残っていたと思われます。故人になった人物ならともかく、生きている人の通称がなくなってしまったので、どのように呼んだら失礼にならないのか困りました。

板垣退助(実名は正形)のように、通称の方を選んでくれた人はよいのですが、桂小五郎でなく木戸孝允(たかよし)になってしまった人をストレートに実名で呼ぶことには、はばかりがある。そこで、わざと「こういん」と音読みすれば、その人を直接指さず、「孝允」という文字を指すという間接的表現になるというわけです。
著名人の名を「音で呼ぶ」ことで、尊敬の念や親しみを表わすことになり、このような呼び方が広く行なわれたことと思います。

私が昔「なおもと」と言ったら祖母に「ちょっかん」と“直され”ました。何故この誤解が広まっているのか……。
というのは、実は「誤解」だったのではなく、郷土の偉人・井坂直幹さんに対する、能代の人たちの敬愛の念からだったのでしょう。

[43497]で、わざと音読みで“慶喜(けいき)さん…”と書いたのも、同じような考えからです。
実際、徳川慶喜家の中でも、世間でも、圧倒的に「慶喜(けいき)」という呼び方がされていたようで、本人もそれを好んでいたとのこと。

伊能忠敬も、正式の「ただたか」ではなく、「ちゅうけい」先生の方が良いですね。

本稿を書くにあたり、高島俊男:お言葉ですが…〈7〉漢字語源の筋ちがいを参照しました。実名と通称に関する興味深い話がたくさん出ています。

おまけ
本来「音読み」である僧侶の名前を、訓読みにして俗人に戻ったことを示した例がありました。
大原崇孚(おおはらたかたね)  太源崇孚(たいげんすうふ)[43558]のことです。還俗して武将だった時代の名前。
[43849] 2005年 8月 3日(水)16:57:12右左府 さん
レス
[43805] みかちゅう さん
神奈川県では3年生の時に「わたしたちの横浜」(区ごとに編集)、4年生の時に「わたしたちの神奈川県」という副教材が配布
 こちらと同じ形ですね。ちなみに、能代では更に中学校で「中学社会・能代市」というのが配布されました。小学校版がB4で教科書程度の厚さなのに対し、中学校版はA4で薄型。地理・歴史・公民の3分野に分かれており、特に歴史分野は原始時代から現代まで、詳しい文章や資料があり、まさに「能代市史の教科書」といった感じです。

「わたしたちの横浜」の方は誤字が目立つ教材で、授業中にあら捜しをして楽しんでいたものです
 市や区の編集となると、こういうのが目立ちますね。「わたしたちの能代市」も今読み返してみると、括弧が片方脱落していたりと、まだまだ校正の必要が。しかし、本文のフォントは教科書体になっているなど、ちょっと感心する所も。

[43834] hmt さん
人の名前を「音読み」するのは敬意や親愛の気持ちから
 解り易いご解説、有難う御座います。「西郷隆盛」の一件の裏にも、こんな事情があったんですね。
 「ちょっかん」と言う祖母に井坂直幹の話を聞くと、彼に対する敬愛の気持ちがいつもひしひしと伝わってきます。まるで神様に対する尊敬心のよう。本当に井坂直幹は「能代の偉人」ですね。
 そうそう、上記の小学校副教材「わたしたちの能代市」を読み返してみた所、井坂直幹に関する記述もあったのですが、そこのルビが「いさかなおもと(ちょっかん)」となっていました。この本、後半は小学校4年生の範囲になっており、その部分は学習しなかった為か見落としていました。

[43812] かぱぷう さん
交差点の信号が見通せないところに取り付けられる『補助信号』に縦型信号機が用いられているところをよく見かけます。
 「補助信号」、以前どこかで見た気が。まず能代ではありませんが(笑)。縦型信号機にも様々な用途が有るようで。
 雪対策以外の縦型信号機設置例がこれだけあるなら、九州南部・沖縄の目撃情報が得られるのかも。さて、最南端はどこになるでしょうかね。
[43497] 2005年 7月 25日(月)19:29:54hmt さん
水戸出身の慶喜(けいき)さんは、京都で仕事をして、静岡にも住んだが、やっぱり江戸っ子
[43409] しぞ~かおでんGM さん (郷土の偉人・静岡県)
僕もどちらかといえば15代目・徳川慶喜のイメージが強かったりします。
[43411] オーナー グリグリさん
徳川慶喜は江戸のイメージが強いですね。

…というわけで、[43480]に続いて、「権現様の再来」と称えられた「最後の将軍」徳川慶喜(1837-1913)の居住地を調べました。

天保8年江戸小石川水戸藩邸[41575]で誕生。徳川斉昭の七男。幼名は松平七郎麿。
余談ですが、大勢の兄弟の中で、最も親密だった徳川昭武(最後の水戸藩主)の幼名は松平余八郎、つまり十八男です。松戸市の戸定邸の主。

2歳(数え年、以下同じ)の時、水戸に移り、9年居住。

11歳、一橋家相続のために江戸へ出府。元服、任官して徳川慶喜(よしのぶ)となる。12代将軍・家慶の「慶」です。江戸に居住すること16年。政争の結果、安政の大獄の時期に23歳で隠居謹慎になりましたが、26歳で政界復帰して、将軍後見職として文久の改革で、公武合体路線を進めます。

27歳、上京。28歳から31歳の4年間は、京都の二条城に住んで、殆んど一生分の仕事をこなしました。30歳で15代将軍になり、大政奉還の慶應3年は31歳の時ですが、王政復古の宣言で大阪城に退去。

32歳の正月、鳥羽伏見の戦の後、大阪から海路で江戸の品川湾[42889]に帰り、後を勝海舟に一任して、江戸城を出て上野に謹慎。江戸無血開城後、水戸に移って謹慎1年半。水戸居住は、少年期と通算して11年。

33歳、謹慎を解かれて静岡に移住。長~い長~い余生を、カメラ・自転車・狩猟など広範囲な趣味ですごしました。静岡には28年間居住。写真集「将軍が撮った明治」。静岡では、東海道線安倍川橋梁の写真も撮影しています。

61歳、東京に移り77歳で死去するまで16年居住。江戸と通算して33年。

# 地理の話題からは外れますが、慶喜(けいき)さんについて印象の残っている逸話。
大阪の砲兵工廠で飯盒に興味を持ち、「アルミニウムは人体に害がないか?」と質問し、銀の飯盒を特注して自分で炊飯したとのこと。
透析痴呆症に関連して、アルミニウムにアルツハイマー病の原因の疑いがかけられたのはずっと後の話。
[48812] 2006年 1月 28日(土)23:40:00hmt さん
音読み・訓読み
[48802]りゅう さん   ほっきつ?きたたちばな?
[48803] miki さん   「きたたちばな」→「ほっきつ」

日本武尊伝説の橘山([34294] 烏川碧碧さん)由来の群馬県勢多郡「南橘村」は昭和大合併の時代に前橋市に編入され、「北橘村」も近々消滅するのですね。

その北橘村の読み方については、2002年に話題になり[5176] [5178] [5181]、渋川市との合併で「ほっきつまち」と読むようになることも[37082] Hiro(&TOKO) さんの記事にあります。

このような音読み・訓読みの問題、過去にも秋芳洞[43914] [44105]、白馬岳[43943]などで話題になりました。村名としては、南毛利村[44059]の例があります。

既に論じられているように、現在の 北橘村公式ページの 村の紹介→村の概要を見ると、「きたたちばなむら」を正式名称としているものの、中学校名にも使われている「ほっきつ」に、かなりの愛着を示していることが読み取れます。
合併を機に、「ほっきつまち」と読むことになるのも、このような背景があるのでしょう。

もっとも、1889年にできた北橘村に「正式の読み方」などあったのかどうかは疑問があります。
[44065]で南毛利村について書いたことなのですが、正式に定められていたのは「書き言葉」であり、読み方なんてものは「慣習」であり、通じさえすれば、どっちでもよかったのではないかと思われます。
「正式の読み方」にこだわるようになったのは、近年のことなのでしょうね。

[5178] YSK さんによると、前橋市内にある「南橘」という地名も、現在は「なんきつ」だそうですが、昔は「みなみたちばなむら」と読んでいたのかもしれません。

人名の音読み・訓読みについても、記事を書いたことがあります[43834]
徳川慶喜の実名(正式の名前)は訓読みでも、現実には「けいき」さんと呼ばれ、本人もそれを好んでいたとのことです。
[73312] 2009年 12月 15日(火)14:42:39hmt さん
壇ノ浦・徳川慶喜
[73310] N-H さん
「壇ノ浦」は現在のどの都道府県にあるか、漢字で書け。

本来「壇ノ浦」は 海の地名 です。12世紀の源平合戦場として知られますが、700年後に、またもや馬関戦争の戦場になりました。

山口県地先の海ですから山口県で正解とは思いますが、「福岡県」という回答が出たら、これをどのように扱うか?
古戦場の「壇ノ浦」は、山口・福岡両県の地先にまたがっていたと思われます。

なお、陸上の地名としては表記の異なる下関市壇之浦町があります。

ウオッちずで「壇ノ浦」を検索すると、2件がヒットしました。

高松市屋島東町  こちらも、源平合戦の舞台(屋島の戦い)ですね。

登米市迫町北方  こちらは内陸。昔は壇ノ浦という名の沼があったのかもしれません。

でも、良く考えるとどうして「慶喜」が「よしのぶ」なんですかね。

[43834]に記したように、公家や武家の男子が元服する時に名乗る「実名」(じつみょう)(名乗ともいう)は、本来、生前に他人から呼ばれる名ではなく、公の書類に署名するための「書き言葉」でした。
だから、正確な読み方はよくわからないのですね。

一橋家を継いで 1847年に名乗った「徳川慶喜」の場合、「慶」は12代将軍・家慶の「よし」[43497]としても、「喜」を何と読むのか?
江戸幕府のお役人はどうしたのか。「一橋さま」と呼べばよいのですね。必要ならば官職でもよい。

慶喜には「よしひさ」という別の読み方も伝えられ、これもかなり一般的に知られていたようです[43834]
Wikipediaには、本人による署名「Yoshihisa」の表記が残ると記されていました。
これが本当ならば「よしのぶ」ではないことになりますが、「Enomotto Takeaki」[43845] のような証拠があるのでしょうか?

なお、実名は「訓で読む」のが原則でしたが、明治になると、敬意や親愛の気持ちから他人の名前を「音読み」する習慣が一般化しました[43834]
実は、歌道や有識(ゆうそく)を伝える分野ではこの音読みが使われており、例えば藤原定家は、「ていか」と読みます。

明治になってからの慶喜は「けいき」さんと呼ばれることが多く、本人もそれを好んでいたとのことです[48812]


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