子午線の測定からは外れますが、ここまで来たので、ついでに伊能忠敬の地図作りを記してしまいます。
高橋至時の暦学的観点から始まった測量事業ですが、伊能忠敬の方は、最初から地図作りに情熱を燃やしていたのかもしれません。第3次、第4次の出羽・越後・北陸・東海沿岸の測量から戻った後で高橋至時は若死しますが、伊能忠敬は「日本東半部沿海実測図」を完成させて幕府に提出し、文化元年(1804)9月に11代将軍家斉将軍家斉の上覧を得ました
[22357]。この時の大図・中図・小図の縮尺3点セット
[35754]が最終版にまで引き継がれています。
地図の正確さに感心した幕府当局は、伊能忠敬を正式の幕吏として登用し、これ以降の西日本の測量(第5次~第8次)は、幕府の事業として、
「伊能測量隊まかり通る」ことになりました。測量は第9次、第10次の江戸府内測量へと続いた後、文政元年(1818)に74歳で死去しました。
「大日本沿海與地全図」が完成して、幕府に提出され、伊能忠敬の喪が公表されたのは文政4年、その後来日したシーボルトが「カナ書き特別小図」
[22387]を持ち出そうとした事件は文政11年(1828)のことでした。
ところで、前記のようにヨーロッパの測地学の成果は、1803年には高橋至時の知るところとなりました。
地球が扁平な回転楕円体であるいう情報も入手していたわけで、この点については伊能忠敬も助言を受けていた筈ですが、伊能図は地球を球体として表現されています。
現代の地図と伊能図とを重ね合わせると、蝦夷地が東にずれている等のゆがみが指摘されています。
この点に関しては、
いろいろな議論 があるようですが、地球楕円体を無視したことも主な要因でしょう。
伊能忠敬の測量した大図は、本質的に地表を平面とみなせる範囲の海岸線を正確に表わしたものであり、緯線と経線とは描かれていませんが、本質的には直交しているものと考えられます。これに対して、中図・小図では、サンソン・フラムスチード図法のように、京都基準の中央経線(中度)以外では、平行緯線と斜交する経線が描かれています。
この経線は、現在の地図と比較すると、あまり正しくないことがわかります。伊能忠敬は、日食・月食の機会だけでなく、京都と江戸での木星衛星食の同時観測(カッシーニが開発した経度測定法
[45211])も行ない、経度の測定を試みましたが、結局はあまり成功せず、地図には反映されませんでした。
シーボルト事件では厳しい処置をした幕府ですが、開国後になると態度が変わります。
文久元年(1861)に英国海軍アクティオン号が海図作成のために日本沿岸の測量を始めましたが、この時に同乗した幕吏は、地名の質問に答えるために伊能図を持参していました。これを見た艦長はオールコック公使を通じて伊能図を入手し、その海岸線を利用して海図を作成したそうです。この時に再来日したシーボルトも日本に居たとか。
江戸城無血開城のおかげで、伊能図は無傷のまま明治政府に引き継がれましたが、不幸なことに明治6年の皇居火災で正本(最終上呈本)は全部焼失しました
[34231]。
しかし、測量事業の関係者が下図から針穴で写して彩色した副本や、江戸時代や明治時代に作られた写本が存在し、その姿を伝えています。最も代表的な副本は、伊能家に伝わる副本ですが、明治政府は正本の焼失後、その提出を求め、近代的な地形図整備に利用しました。内務省、陸軍、水路部等で作製された地図が伊能図を基礎としているのは、このような経過によります。
この副本も関東大震災の際に、保管先の東京帝国大学図書館と共に焼失してしまいました。
国立国会図書館の写本は、東日本に限られているものの、色彩・保存状態共に良好で、
ネットで閲覧することができます
[42805]。この写本は、明治初期に副本から模写されたもので、1997年に気象庁図書館で発見後、移管されたものです。
伊能忠敬の地図と史料 の中に、伊能図總目録があります。