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落書き帳

伊能忠敬

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[21532] 2003年 10月 28日(火)05:44:26G[わたらせG] さん
伊能大図
 江戸時代の測量家、伊能忠敬が測量、製作した詳細な「伊能大図」が復元され、東京・上野の東京国立博物館で公開されるそうです。
 大図(36,000分の1)は日本全国240枚からなり、それぞれ畳1枚ほどの大きさ。このうち公開されるのは、関東から近畿までの図形60枚(縦12メートル、横16メートル)だそうです。
 忠敬は、大図を基に、中図や小図も作っており、幕府に提出した大図はいわば伊能図の「原図」だったそうですが、その原本は火災や震災ですべて消失したが、2001年、米国議会図書館が200枚余りの写しを保管していることが判明。今回、国土地理院が中心となり、復元作業が進められたそうです。
 彩色などの作業を指導したのは忠敬の子孫で洋画家の伊能洋さんであるという。
 大図は31日から始まる特別展「伊能忠敬と日本図」で公開され、表面には透明のカバーが掛けられ、入場者はその上を歩きながら見学」ができるという。

#う~む 眺めてみたいですよ。しかも踏みしめられるなんて。行きたいなぁ~(願望)
[21744] 2003年 11月 4日(火)16:49:23かおらい さん
伊能忠敬と日本図
[21532]でわたらせGさんがアナウンスされていましたが、
昨日、東京上野の東京国立博物館で公開している「伊能忠敬と日本図」の特別展に行ってきました。

いや~すごいですね。測量精度の高さに感銘を受けました。ただそれだけです。
しかも50歳を過ぎてから亡くなる前まで、日本の海岸線を測量しながら歩いたというのも何気にすごいですね。
地図をよく見ると、所々に「不測量」と書かれてある場所もありました。ま、確かに歩けない所もありますわな。
北方領土では択捉島も描かれていました。
そうそう、地図には伊豆諸島や瀬戸内の多数の島々、或いは内陸部の地名も描かれていましたが、全ての場所を踏破したのでしょうか。

それと、展示会場は2階でしたが1階には大図の複製がフロア一面に敷かれて、その大図の上を歩くことができました。
大図を踏むのは、なんだか踏絵をさせられているようで最初は躊躇しましたけど、せっかくなので思い切り踏みしめてきました。もちろん実家と現住所を探して楽しみました。

皆さんも是非行かれては如何でしょう。12月14日までです。
[22357] 2003年 11月 29日(土)12:03:07【1】hmt さん
四千万歩の男(2)伊能大図フロア展示
「大日本沿海輿地全図」の大図は一里当曲尺三寸六分=3万6千分の1ですから、現在の地形図に近い縮尺で、全国を214面でカバーします。
今回の展示品は、2001年に米国議会図書館で発見された207面(おそらく明治初年の写で彩色のないものが多い)のデジタルデータを国土地理院が入手し、国内にある図を参照して彩色や絵画的な部分を手作業で復元しているものの一部です。
http://www.c-crews.co.jp/gnext_express/news/back/0308/030814_04.html
【1】 http://www.geocities.co.jp/AnimeComic-Tone/3156/inoozu.html

これまでに復元した福島県から明石海峡付近までの60枚につき、再デジタル化したものを原寸大(1枚がたたみ1畳ぐらいの大きさ)に出力し、接合したものを展示しています。
http://www.tnm.jp/doc/Guide/Dyn/eten/eten28-5.html
接合と言えば、伊能図は測量データはよかったが、地図の投影法の研究が遅れていて接合に問題があったので、伊能忠敬自身も修正に苦心していたようです。(渡辺一郎:伊能測量隊まかり通るNTT出版1997)

今回も接合の問題はあったのかもしれませんが、地図のない空白域(日本海など)を含めて12m×16mというサイズは、とにかく迫力があります。
伊能図の経度(大図には表示なし)原点である京都付近が欠図となっているのは、惜しいところです。

この図の前身である「日本東半部沿海地図」は文化元年9月に11代将軍家斉の上覧を得ており、この上覧を機に伊能忠敬の全国測量事業は国家プロジェクトになり得たわけですから、199年前の 江戸城大広間フロア展示 は大きな意義を持っていたわけです。

最終的な「大日本沿海輿地全図」は伊能忠敬の没後3年あまりを経た文政4年(1821)に完成し、幕府に上程。老中・若年寄の面前で大図の西半分を接合して閲覧に供しました。500畳敷の江戸城大広間も、全部をフロア展示するには広さが足りなかったようです。
http://members.jcom.home.ne.jp/t-sakamo1b/inohzumonogatari(1).htm
[22403] 2003年 11月 30日(日)22:47:32【3】KMKZ さん
伊能図展の踏み絵コーナーに大感激
お久しぶりです。
国立博物館の伊能図展、11月24日に行ってきました。

[22364]Issie さん
例の「踏み絵コーナー」では,真っ先に下総国千葉郡の久々田・鷺沼・馬加(幕張)3村を探してしまいました。
その馬加(まくわり)の文字を見つけた隣の中年男性、「昔はこんなところにバカって地名があったんだ」と連れの女性に話しかけるのを耳にして噴出しそうになりました。確かにバカと読めないことはないですが。

さて、伊能図は「大日本沿海輿地全図」と呼ばれるだけあって、日本の海岸線は殆ど踏破して正確に描かれていますが、内陸部は主要な街道の描画とその付近の集落名の記載が中心ですね。現在の千葉・茨城の地域は本当に海岸線だけで伊能忠敬の出身地の佐原も記載されていなかったのでは。川もあまり描かれていませんね。利根川や多摩川は河口付近が僅かに描かれているのに対して隅田川とその上流の荒川は熊谷付近まで描かれているのが対象的で印象に残りました。江戸市中を流れている川なので重要視したのでしょうか?

内陸でも現在の埼玉の地域はかなりの密度で街道や荒川とその付近の集落名が記入されているのは元埼玉県民としては嬉しかったですね。中山道、奥州街道、川越街道、岩槻街道(日光御成道)などの現在でも良く知られている街道だけでなく、例えば箱根ヶ崎から豊岡(入間市)、松山(東松山)、熊谷に抜ける現在の国道16号線の一部と407号線に該当する街道の存在などを発見できました。

また、浅間山には噴煙が描かれています。伊能忠敬が日本中を測量して歩いていた頃は天明の大噴火から30年程経過している筈ですが、当時は、まだ盛んに噴煙を上げていたのでしょうか?

最後に別のエピソードをひとつ。
四国の地図の展示の前で私の隣にいた中学生か高校生ぐらいの女子4人組の間で地図に記入されている旧国名は現在の何県になるのかが話題になり、その中で愛媛在住の祖母がいるらしい一人が解説を始めました。「伊予は愛媛、土佐は高知」とここまでは良かったのですが、結局、「讃岐は徳島、阿波は香川」となってしまいました。さぬきうどんブームで讃岐の名は広まっても関東の人間では讃岐と香川はすぐには結びつかないのでしょうか。もっともこの年齢の女子なのに旧国名がすらすらと読めるだけでも凄いことかもしれませんが。私といえば間違いを指摘したい衝動にかられましたが、変なオヤジと思われるのが関の山なので、我慢しました。

#誤字脱字を訂正しています
[27533] 2004年 4月 19日(月)18:01:02YSK[両毛人] さん
今日は地図の日
[27530]kenさん
4月19日は「地図の日」
記念日がまとめられた「こよみのページ」によりますと、

地図の日
1800年(寛政12年)閏4月19日、伊能忠敬が蝦夷地の測量に出発した。豪商伊能家を継ぎ、50才で隠居後、江戸に出て天文学、暦学、西洋数学等を学び、全国各地を測量し、『大日本沿海興地全図』を完成させた。その精度は高く、世界に誇れる科学的地図である。

ということで、かの伊能忠敬が測量の旅程に出発した日なのですね・・・。

参考
こよみのページ
http://koyomi.vis.ne.jp/mainindex.htm
[28358] 2004年 5月 17日(月)13:07:47たっくんのパパ さん
はじめまして(伊能図の衝撃)
みなさん はじめまして、さいたま市在住のたっくんのパパです。

2,3年前から拝見しておりましたがちょっとネタができたもので。

一応自己紹介
生育地:岡山県、生息地:さいたま市
居住年数:岡山約18年、名古屋5年、福井1年、佐賀1.5年、埼玉約20年
趣味:ドライブ、国道関連、お買い物、PC組み立て
家族構成 たっくんのママ(秋田出身)、たっくん(小学生、埼玉育ち)

食の好み
納豆  パパ× ママ× たっくん○
ソース パパ○ ママ× たっくん○

ちなみに経県値は181ですが今週末沖縄家族旅行で全国制覇して184になります。

ここからが本題

先日、文献検索で国会図書館に行ったついでに地図室で武揚堂伊能図復刻版を眺めてきました。
そこで実家の山陽道備前、備中を見ていて気づいたのが、実家のある西辛川村(現岡山市西辛川)が、なんと備中に分類されていました。
正確には国境の印が辛川市場村と西辛川村の間に引かれている。
西辛川、辛川市場は岡山市と合併前は、旧御津郡一宮町で、板倉村なんぞは吉備郡高松町。
字で境目ってあるし伊能図の間違いやと思うけど。
ただ伊能図、畿内中国測量は第5次、1805年ですからその後に備前に鞍替えもありそうですけどね。

その他の成果は、木枯紋次郎シリーズでは蠅島だったが伊能図では既に拝島だったこと。
国会図書館はタダで最新住宅地図が見えていいですね。
[28560] 2004年 5月 24日(月)00:31:59ニジェガロージェッツ さん
伊能忠敬の日本地図展
日付が変わりましたが、昨日(5/23)、神戸市立博物館では「伊能忠敬の日本地図展」の最終日でした。伊能図にお目にかかる又とないチャンスでしたので、行ってまいりました。

何でも、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は大図(縮尺1/36000)214枚、中図(同1/216000)8枚、小図(同1/432000)3枚からなるそうです。しかし、これらの正本は明治6年の皇居炎上により焼失、副図も大正12年の関東大震災により焼失してしまい、中図、小図については伊能家や大名家に複写したものが伝存していすが、残念な事に根幹をなす大図は、214枚のうち国内に確認されているのは60枚のみだったそうです。
ところが2001年に、米国の議会図書館地図部で大図の明治時代の写し207枚が発見され、この出現により214枚のうち欠図は4枚のみとなり、大図のほぼ全容が示されることが可能となったそうです。

今回の「伊能忠敬の日本地図展」では、中図8枚や小図、伊能図に前後する様々な日本古地図や世界図に加え、米国から「里帰り」の大図8枚が展示され、また当時の測量機器のレプリカも見ることが出来ました。

圧巻は、博物館ホールの床一面に近畿地方を中心とした中部地方西部から中国四国地方東部にかけての数十枚の大図のコピーが敷き詰められ、拝観者が一様に地図の上に立ち尽くして、描かれたそれぞれの場所の江戸期の姿を見入っていました。
個人的に面白かったのは、1786年の「三国通覧図説」では極端に北に長細い「蝦夷地」の北西に大陸から突き出した半島に「カラフト嶋」と書かれ、更に北方の黒龍江と思しき大河の河口の先に「サガレイン」という島が描かれ、樺太とサハリンが全く別個の存在として記されており、大河の北方一帯は赤色で着色され、「これ以北はカムチャツカに至るまでムスコウビア国の領」とはっきり書かれていたり、知識としては知っていましたが、現物に出会えて感動ものでした。

また、以前に[2474]たけもとさんに教えて頂いた小豆島の所属が、伊能大図でははっきりと「讃岐国」と書かれていました。伊能図のデータは大体1810年代のものですが、このときには既に備前から讃岐への所属変えがあったことを伺われます。
関連図として参考出典のあった、1669年の「皇圀道度図」は国別に色分けが為されており、ここでは小豆島は備前国の色が塗られていました。

全般的なテーマでの展示にもかかわらず、かなり偏った見方で楽しませて頂きました。

「伊能忠敬の日本地図展」は神戸の後は、6月4日から7月19日まで仙台市博物館でも開催されるようです。
[29977] 2004年 7月 2日(金)00:40:16ニジェガロージェッツ さん
伊能大図ついに出揃う
拙稿[28560]
何でも、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」は大図(縮尺1/36000)214枚、中図(同1/216000)8枚、小図(同1/432000)3枚からなるそうです。しかし、これらの正本は明治6年の皇居炎上により焼失、副図も大正12年の関東大震災により焼失してしまい、中図、小図については伊能家や大名家に複写したものが伝存していすが、残念な事に根幹をなす大図は、214枚のうち国内に確認されているのは60枚のみだったそうです。
ところが2001年に、米国の議会図書館地図部で大図の明治時代の写し207枚が発見され、この出現により214枚のうち欠図は4枚のみとなり、大図のほぼ全容が示されることが可能となったそうです。

伊能忠敬の大図のうち最後まで未発見だった4枚が、ついに発見されたようです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040701-00000112-yom-soci

先日、神戸市立博物館では「伊能忠敬の日本地図展」で、ロビーの床面一面に貼られていたコピーにも、丁度京都周辺の部分がなく、「この部分は未発見です」というような注釈があり残念におもっておりました。

伊能忠敬の偉大な功績の全容が解明され、嬉しい限りです。
[32084] 2004年 8月 24日(火)08:04:59【6】KMKZ さん
伊能忠敬と苗字帯刀
[32068]みかちゅう さん
大半の人は苗字がつけられたのも明治以降なので、
江戸時代の「苗字帯刀」は誤解されているのですが、苗字帯刀の「苗字」とは苗字の公称(公式の場での苗字の使用)を許すという意味で、苗字帯刀を許されていなくても苗字を私称するのは許されていました。

伊能忠敬の略年譜からの抜粋
西暦 年齢
1762  17  佐原村伊能家のミチの婿養子となる。
1783  38  津田氏より苗字帯刀を許される。
1801  56  幕府より苗字帯刀を許される。
この年表でわかるように伊能忠敬は苗字帯刀を許される前から"伊能"忠敬なんです。しかも津田氏(地方役人)と幕府から2回も苗字帯刀を許されている。

兵農分離以前は農民は武士でもあったわけで中世には日本人の大部分が苗字を持っていたはずです。江戸時代に入って苗字帯刀が許されなくなっても先祖伝来の苗字をそのまま私称し続けた例が多かったと考えられます。
明治の国民皆姓時に創生された苗字も多かったでしょうが、江戸時代から私称していた苗字をそのまま戸籍に登録した例も多かったに違いありません。
明治になって殆どの姓が創生されたとしたら、落書き帳アーカイブズ地名と姓名の遥かなる関係で紹介されているように宇都宮姓が鎌倉時代に下野の宇都宮氏が移住した現在の愛媛や大分に多い理由が説明できませんよね。
比較的最近に現在の地名とそこの住民の苗字が殆ど一致しないから地名由来の姓は少ないと主張する書き込みがありましたが、現在の宇都宮市に宇都宮さんが殆どいなくても過去に遡れば宇都宮姓は地名由来の姓と判ります。
[35754] 2004年 12月 14日(火)15:03:56hmt さん
伊能大図(彩色復元図)全国214面のフロア展示開催中
地図の大縮尺と小縮尺の話題[35714][35738][35742][35743]。私も「分数の大小」と心得ています。

伊能大図こと「大日本沿海輿地全図」の大図[22357]は、現代の表現では「1:36000」ですが、「一里当曲尺三寸六分」と表示されています。
同様に中図は 「一里当曲尺六分」、小図は 「一里当曲尺三分」です。
この表現ならば、三寸六分>六分>三分で、大・中・小に混乱はありません。

ところで、[27486]でお知らせした「踏み絵コーナー」全国で開催も終りに近付き、現在(2004/12/6~12/23)、前回のアナウンスでは未定だった日本大学文理学部で開催中です。しかも、東京国立博物館の時と異なり、米国議会図書館で発見された207面、海上保安庁海洋情報部で発見された4面及び残り3面を加えた 全国214面の伊能大図(彩色復元図)の展示というから、見逃せません。

[35753] じゃごたろ さんの「真空度」で迷ったことはありません。多分、「圧力」とか「高真空」とかいう言葉は使っても、「真空度」という用語は使っていないのでしょう。
地理と無関係の分野で、わかっていても混乱するのが「円高・円安」。
これも、1万円=96ドルというような表示にしてくれれば混乱しないのですが…。
[35827] 2004年 12月 17日(金)12:51:19【1】なきら さん
伊能忠敬の日本図展
こんにちは。久しぶりの書込みです。

[35754]hmtさん
伊能大図(彩色復元図)全国214面のフロア展示開催中
昨日行ってまいりました。南西諸島や北方領土等の一部島嶼を除いて、日本全体の大図(アメリカ大図=アメリカ議会図書館蔵)や中図(フランス中図=フランス人の個人蔵だったためこう呼ばれるようです、現在は日本写真印刷(㈱)蔵)をはじめ、たくさんの図が展示されていました。
やはり伊能さんの偉業は、本当にすごい!と言うより他にありません。
今回の展示には、小図の隣に5万分の1の地形図を掲示して当時と現在を見比べられるようにしてあったり、測量に使用した機器を展示してあったり、歩測を実感させたり(伊能さんの1歩69センチの足跡を床に並べている)、富士山を観測して位置を確定していったので、その富士山の遠望を各地(最も遠いのは英虞湾でした)からのバーチャル映像で見せてくれたり、とさまざまな企画がされていて、とても楽しく、面白く見せてもらえました。講演会や映画の上映、測量の実験等が行なわれる日もあるようで、ほんとに多彩な催しです。
それから、特筆すべきは、入場が無料なのです。ちょっとびっくり。案内(主に学生さんがやっておられるようです)の方々も親切でした。日大文理学部さまありがとうございました。
開催は23日までですが、時間のある方にはぜひお勧めです。


[35828]般若堂そんぴんさんに教えていただいて、(株)を修正しました。ありがとうございました。
[35839] 2004年 12月 17日(金)18:50:23hmt さん
写されていた hmt?
[35827]なきら さん
早速 観覧いただき有難うございます。

昨年の東京国立博物館平成館での展示[22357]は、福島県から明石海峡付近までの60枚で、京都と静岡が欠図でした。
今回は「クナシリ島」から「屋久島」までが広い会場に敷き詰められ、「アメリカ伊能大図」の欠図7面も、国立国会図書館や海上保安庁海洋情報部の所蔵図によって補完されており、まさに壮観の一語。
文政4年(1821)、江戸城大広間でも全部を展示することができなかったようなので、今回の展示会は183年ぶりの快挙です。

大図・中図・小図・江戸図と4つの伊能図の揃い踏みの他に、フロア展示を見下ろせるバルコニーでの、現代との対比など、見せる工夫もされていましたね。

小図の隣に5万分の1の地形図を掲示して当時と現在を見比べられるようにしてあったり

5万分の1の地形図と対比して展示してあったのは、「大図」なんですね。
伊能図の「大図」は「大縮尺の図」で、1:36,000。
「小図」は「小縮尺の図」で、1:432,000。(配布資料記載の1/433,000は誤記。)これでは、1:50,000との対比になりません。[22387]参照。

私は、メイン会場を見ているうちに閉館の5時になってしまい、図書館展示ホールの方は見逃しました。

ところで、図録を買って帰り眺めたら、昨年のフロア展示風景の写真があり、そこに写された人物に注目。全体の雰囲気はhmtそっくり!。服の色が少し違う?
[35886] 2004年 12月 19日(日)22:08:43てへへ さん
伊能図を見てきました
昨日、伊能図を見てきました。
大図は圧巻でした。1階で伊能図の上を歩くよりも先に建物2階バルコニーから眺められる順路になっていて、初めて見る大きな日本地図がやはり感動ものでした。そしていよいよ1階の大図のところにいき、日本地図上をたまにしゃがんで村の名前などを眺めつつ歩いてみるのはおもしろかったです。
そもそもは日本全国の測量を構想する前に、緯度の正確な1度を暦学上知りたかったところから始まったとのこと。江戸から緯度差を多く取ろうと考えれば、大阪や九州の方向ではなく北に行くことになります。それで第1回測量でいきなり蝦夷地へ行ったのですね。緯度は秋田辺りが40度の、現在の緯度と同じでした。経度は中心線が京都市付近を通過していました。
都合で1時間くらいしか居られなかったのが非常に残念でした。
先に行ってこられた方々の書込み、hmt さん[35754][35839]、なきら さん[35827]もご参照ください。
今月23日まで日大文理学部(京王線下高井戸駅歩10分)で開催してます。駅からは日大通りさえわかれば、黄色いのぼりが点々と立てられているので迷いません。
[42805] 2005年 7月 4日(月)16:05:08hmt さん
お勧めの地図サイト
[42779] 太白 さん
日本全体を網羅しているものを中心に、どういう地図系のサイトがあるか、まとめてみました。

これは便利! 活用させていただきます。

他にもお勧めの地図サイトがあれば教えてください。

[22356]で紹介したことがあるのですが、1998年の「国立国会図書館開館50周年記念貴重書展」のデジタル図録が公開されており、ここで展示された「大日本沿海輿地全図」(伊能大図)の画像を見ることができます。
所蔵範囲はおよそ本州の東半分43枚で、全214枚のうち207枚が発見されたアメリカ伊能大図[22357] [35754] には及びませんが、模写の品質に関しては格段の出来栄えで、極めて美しい画像です。拡大図により細部まで見ることができます。
[45234] 2005年 9月 29日(木)19:20:08【1】hmt さん
地球を測った人々(4) 高橋至時と伊能忠敬
今年、世界遺産に選ばれたシュトルーヴェの測地弧(19世紀)[45147]を発端として、2000年以上前ののエラトステネス[45172]に遡り、17~18世紀のフランスを中心とするヨーロッパにおける子午線測定の成果[45183] [45211]を振り返ってきました。

ヨーロッパにおけるこのような新知識は、オランダの暦書として日本に伝えられました。1803年、幕府天文方・高橋至時が「ラランデ暦書管見」で紹介しています。
高橋至時は、かねてから暦学上の必要性から子午線測定に関心を持っていましたが、それまでの日本では、25里、30里、32里など諸説が入り乱れ、信用できる実測値はありませんでした。

この時から少し前の寛政4年(1792)には、ロシアの使節ラクスマンが根室へ来て、日本人漂流民を送り届け、通商を要求するなど、北辺の動きが慌しくなっていました。幕府は蝦夷地に目を向け、寛政11年にここを直轄領とし、堀田仁助をして蝦夷地南岸と陸奥の東海岸を測量させました[42889]

高橋至時は、南北に長い子午線に沿って江戸から蝦夷地までを測量をすれば、子午線1度の実測値を得ることができ、北辺防備にも役立つという理由で幕府の許可が得られると考えました。しかし、誰にこれをやらせるのか? 

ここに、絶好の人物が現れます。
高橋作左衛門至時が天文方になった寛政7年に入門してきた下総国香取郡佐原村の伊能勘解由忠敬です。財をなした御隠居の身でありながら向学心に燃えています。
彼は子午線の長さの件でも実行力を発揮して、江戸市内の自宅と職場の間(緯度差1分半)で実測を試みましたが不成功。
相談された師匠は、待ってましたとばかりに、「もっと大きな緯度差で測らなければ角度の誤差が大きくて駄目だよ。蝦夷地までの測量をやってみる気はない?」と持ちかけました。

伊能忠敬のやる気を確認した高橋至時は、幕府に申請して許可を得、寛政12年(1800)閏4月19日に、伊能忠敬の一行6名は江戸を出発しました。幕府の命令書には
御用中一日につき銀七匁五分宛下される
とありますが、この程度の補助金では費用は賄いきれず、この大事業は、金と時間のある御隠居のボランティア活動で始まりました。そして、閏4月から10月迄をかけて、奥州街道と蝦夷南海岸を測量して実測図を作り上げました。

幕府に提出した大図21葉、小図1葉の出来栄えに、“測量試み”として許可を出した幕府は驚き、苗字帯刀を許されることになりました。勿論「伊能」という苗字は百姓身分の頃から持っていましたが、これを公式に使えることになったということでしょう。また、日本刀は方位磁石を狂わせるということで、実際には竹光を差していたそうです。

翌 享和元年の第2次測量を経て、享和2年(1802)には、発端になった子午線1度の弧長を28里2分(110.75km)と計算しています。
# 尺貫法の十進表記もあるのですね。

最初に記したように、その翌年、第3次測量の後にはオランダから、ヨーロッパの測定結果がもたらされました。
自分たちが求めた子午線弧長の測定値とヨーロッパのそれとが一致していることを知り、高橋・伊能の師弟は手を取り合って喜びました。

【1】 苗字帯刀に関して追記
年譜を見ると、“享和元年(1801) 幕府より苗字帯刀を許される”とあったので、上記のように書いたのですが、それより前の天明3年(1783)にも、浅間山噴火のあった年に “利根川洪水で凶作。利根川堤防修理に活躍。津田氏より苗字帯刀を許される。”とありました。
寛政12年(1800)の命令書にも
高橋作左衛門弟子 西九小姓番頭津田山城守知行所 下総国香取郡佐原村元百姓 浪人 伊能勘解由
とあり、学問の道に入った時には既に士分であったようです。
# 苗字帯刀には、領主のローカル・ライセンスと幕府の全国ライセンスがあるのかな?
[45236] 2005年 9月 29日(木)19:28:24hmt さん
地球を測った人々(5) 伊能忠敬の地図
子午線の測定からは外れますが、ここまで来たので、ついでに伊能忠敬の地図作りを記してしまいます。

高橋至時の暦学的観点から始まった測量事業ですが、伊能忠敬の方は、最初から地図作りに情熱を燃やしていたのかもしれません。第3次、第4次の出羽・越後・北陸・東海沿岸の測量から戻った後で高橋至時は若死しますが、伊能忠敬は「日本東半部沿海実測図」を完成させて幕府に提出し、文化元年(1804)9月に11代将軍家斉将軍家斉の上覧を得ました[22357]。この時の大図・中図・小図の縮尺3点セット[35754]が最終版にまで引き継がれています。

地図の正確さに感心した幕府当局は、伊能忠敬を正式の幕吏として登用し、これ以降の西日本の測量(第5次~第8次)は、幕府の事業として、「伊能測量隊まかり通る」ことになりました。測量は第9次、第10次の江戸府内測量へと続いた後、文政元年(1818)に74歳で死去しました。
「大日本沿海與地全図」が完成して、幕府に提出され、伊能忠敬の喪が公表されたのは文政4年、その後来日したシーボルトが「カナ書き特別小図」[22387]を持ち出そうとした事件は文政11年(1828)のことでした。

ところで、前記のようにヨーロッパの測地学の成果は、1803年には高橋至時の知るところとなりました。
地球が扁平な回転楕円体であるいう情報も入手していたわけで、この点については伊能忠敬も助言を受けていた筈ですが、伊能図は地球を球体として表現されています。
現代の地図と伊能図とを重ね合わせると、蝦夷地が東にずれている等のゆがみが指摘されています。
この点に関しては、いろいろな議論 があるようですが、地球楕円体を無視したことも主な要因でしょう。

伊能忠敬の測量した大図は、本質的に地表を平面とみなせる範囲の海岸線を正確に表わしたものであり、緯線と経線とは描かれていませんが、本質的には直交しているものと考えられます。これに対して、中図・小図では、サンソン・フラムスチード図法のように、京都基準の中央経線(中度)以外では、平行緯線と斜交する経線が描かれています。
この経線は、現在の地図と比較すると、あまり正しくないことがわかります。伊能忠敬は、日食・月食の機会だけでなく、京都と江戸での木星衛星食の同時観測(カッシーニが開発した経度測定法[45211])も行ない、経度の測定を試みましたが、結局はあまり成功せず、地図には反映されませんでした。

シーボルト事件では厳しい処置をした幕府ですが、開国後になると態度が変わります。
文久元年(1861)に英国海軍アクティオン号が海図作成のために日本沿岸の測量を始めましたが、この時に同乗した幕吏は、地名の質問に答えるために伊能図を持参していました。これを見た艦長はオールコック公使を通じて伊能図を入手し、その海岸線を利用して海図を作成したそうです。この時に再来日したシーボルトも日本に居たとか。

江戸城無血開城のおかげで、伊能図は無傷のまま明治政府に引き継がれましたが、不幸なことに明治6年の皇居火災で正本(最終上呈本)は全部焼失しました[34231]
しかし、測量事業の関係者が下図から針穴で写して彩色した副本や、江戸時代や明治時代に作られた写本が存在し、その姿を伝えています。最も代表的な副本は、伊能家に伝わる副本ですが、明治政府は正本の焼失後、その提出を求め、近代的な地形図整備に利用しました。内務省、陸軍、水路部等で作製された地図が伊能図を基礎としているのは、このような経過によります。
この副本も関東大震災の際に、保管先の東京帝国大学図書館と共に焼失してしまいました。

国立国会図書館の写本は、東日本に限られているものの、色彩・保存状態共に良好で、ネットで閲覧することができます[42805]。この写本は、明治初期に副本から模写されたもので、1997年に気象庁図書館で発見後、移管されたものです。
伊能忠敬の地図と史料 の中に、伊能図總目録があります。


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