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落書き帳

三四郎

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[10965]2003年3月11日
桃象
[11057]2003年3月12日
KMKZ
[11867]2003年3月26日
special-week
[12026]2003年3月28日
KMKZ
[12044]2003年3月29日
special-week
[35062]2004年11月13日
hmt
[35190]2004年11月19日
hmt
[58379]2007年5月7日
hmt

[10965] 2003年 3月 11日(火)13:01:54桃象[桃象@頑迷親父] さん
三四郎池
[10931]
桜の名所といえば、東京大学のキャンパスも桜がいっぱいです。しかし、キャンパス内で酒盛りをしている人を見かけないのは、東大生がみんな真面目で、わきまえているからなのだろうか?

私が学生の頃は花見シーズンともなれば,三四郎池辺りは結構うるさかったものですよ。今は違うのかな~。でも,知人の話によれば,お上がキャンパスの美化に力を入れていると言う話だそうですから。


昨年、花吹雪が舞うと本郷キャンパスを女の子に案内しましたが、本当に東大生は桜を見ることに対して執着がないというか・・・。感慨深げに足を止める人がいないという悲しい現状。ああ、これが日本の最高学府なんて、日本の学生も情緒が欠如してしまったなあ。だから文人は早稲田大学からたくさん輩出されるのかもしれないなあと感じたりもしました。

ちょっと聞き捨てならないですね~(笑)。まあ,私もあの時分はキャンパスをゆっくりと歩くこと等なかったなと,ちょっと反省しています。と言っても自転車でキャンパスを回っていましたからね。太白さんもそうだったんでしょうかね。

==
[11057] 2003年 3月 12日(水)17:46:55KMKZ さん
板橋区加賀
[11055]だんな さん
私の通った高校も藩校の名が由来でした。
藩校由来では、さぞや、立派な校名なのでしょうね。
ところで、金沢といったら加賀100万石の前田家。東大は前田家の屋敷跡ではありませんか。三四郎池も、元々は前田家の屋敷にあった日本庭園の池だったそうですね。板橋にも前田家の屋敷があったそうで、屋敷跡の現在の町名は板橋区加賀です。
[11867] 2003年 3月 26日(水)18:08:20special-week さん

 今日は同級生が上京してきたので、東京大学の本郷キャンパスに連れて行きました。
 キャンパスの桜はまだ咲いておらず、花見はまだまだ先かなとった感じでした。三四郎池の周辺には、明らかに東大生ではない学生やら家族連れが多く訪れていて、写真を撮ったり感慨深げに眺めたりしていました。東大生はというと安田講堂前でのんびり女の子と談笑する姿を見かけたぐらいでしょうか。東大生にとって三四郎池なんて見慣れたものですが、それでも文学部生や本を片手にしている文学青年がいてもよさそうな感じましたが見かけませんでした。これは春休みだからですかね?
 湯島天神の梅は既に季節を終えていました。もうそろそろ桜の季節ですね。
 本郷通り沿いの桜は入学式にはとってもお似合いなのですが、今年はいつまで咲いていることやら。
[12026] 2003年 3月 28日(金)19:12:25【1】KMKZ さん
東大の桜が咲き始めました
[10931]special-weekさん
桜の名所といえば、東京大学のキャンパスも桜がいっぱいです。

昨日、東京でも、やっと桜の開花宣言が発表されました。そこで、ぽかぽか陽気にも誘われて、昼休みにspecial-weekさんお勧めの東大の桜の様子を見に行って参りました。

東大の北端、農学部の正門は、改築されていて真新しい白木の門(白門!)になっています。この門を通って東大構内へ潜入し、農学部を抜け、言問い通りをまたぐ陸橋を渡って、工学部のキャンパスへたどり着くと、工学部の建物の脇にまとまって桜の木が植えてある場所がありました。確かに桜が咲いておりますが、1分咲きから2分咲きといったところです。

工学部を抜けて、更に安田講堂へ、すると安田講堂の周りは人だかりです。中には、角帽にガウンの男子学生、袴、振袖やチマチョゴリの女子学生も見受けられました。付近に立てかけてあった看板から判断するに博士号の授与式だったようです。

一方、その先の三四郎池の周りは、[11867] でspecial-week さんが描写されている通りで、
明らかに東大生ではない学生やら家族連れが多く訪れていて、写真を撮ったり感慨深げに眺めたりしていました。
私は付近の会社のOLではないかと思ったのですが、special-weekさんはどうして明らかに東大生ではない学生と判断されたのでしょうね。ここは、大学内というよりも、どこかの公園のような雰囲気です。元々は加賀藩の日本庭園ですが、桜の木は、ほとんど植えられていないのでしょうか?桜はまったく咲いていません。

時間が無いので、すぐに三四郎池を後にして、そのまま、有名な赤門を抜けて東大の外へ出てしまいました。ここでは、赤門をバックに記念撮影をしているグループを何組も見かけました。

本郷通りそばの桜も満開までは、まだ時間がかかりそうです。

東大は広すぎて昼休みの限られた時間では、南側まで足を延ばすことができません。
桜が植えられている場所は構内で分散しているようですが、どこが一番のお勧めなのでしょうね。

ところで、安田講堂の前庭の地下は食堂になっていますが、この食堂は部外者でも利用できるのでしょうか?
[12044] 2003年 3月 29日(土)00:41:16special-week さん
東京大学
[12026]
KMKZ様

special-weekさんはどうして明らかに東大生ではない学生と判断されたのでしょうね。

 この種明かしは簡単です。私が三四郎池でくつろいでいたら「あの~、購買部はどこですか?」と聞かれたり、いろいろな場所を聞かれたからです。東京大学生ならば分かるはず。まあ、新入生ということも考えられますが、まだ入学式ではないので正式な東京大学生ではないですね。

ところで、安田講堂の前庭の地下は食堂になっていますが、この食堂は部外者でも利用できるのでしょうか?

 利用することは可能です。平日のお昼時になるとサラリーマンの利用者もたくさん見ることができます。付近の定食屋に比べると安いことが人気の理由のようです。
 受験のためにやってきた高校生が記念のために食べていくという話も聞きます。
 この食堂の名物は赤門ラーメンですね。テレビ番組の取材でSMAPの香取慎吾も食べに来たらしいですよ。
[35062] 2004年 11月 13日(土)23:04:04【2】hmt さん
♪ 新宿駅より甲武線― 電車唱歌で巡る100年前の東京(4)
[33135][35013][35034]に続いて、新たな2社の路線が登場します。

【33】《新宿駅より甲武線 四ッ谷 市ヶ谷 牛込や 飯田町をばうち過ぎて その名も清きお茶の水》
【34】《その道すがら右左 目に入るものは青山の 練兵場や学習院 士官学校 八幡宮》
甲武鉄道の市街線は、最初にもっと北のルートを計画したようですが、日清戦争のために青山練兵場 [神宮外苑] と新宿を結ぶ軍用線が先行しました。《その道すがら…青山の練兵場》は、必然の結果というわけです。

このルートだと、その先の市街地に達するのに赤坂御所や学習院の下を抜けなければなりません。当時としては「恐れ多いこと」でしたが、川上操六大将が皇室に掛け合ってトンネルを掘る了解が得られました。兵員輸送が一段落した後で牛込(駅跡はJR飯田橋駅南西)までが開通、翌1895年飯田町まで完成しました。

最初は汽車だけでしたが、1904年に飯田町―中野間で電車併用運転を開始しています。こうして「電車唱歌」には、電鉄・街鉄・外濠線の3社に伍して、路面区間のない甲武線も登場することになりました。4輪単車ながら定員58人の大形で、空気ブレーキや連結運転用の総括制御器も備えていたあたり、やはり国電の元祖です。
電車唱歌の1905年には 既に御茶ノ水まで複線の電車専用線が開通しており、更に都心のターミナルを予定した万世橋まで工事中でした。(翌年 甲武鉄道は国有化され、中央線のターミナルも1919年には万世橋駅[33135]の【3】から東京駅に移ります。)

夏目漱石の「三四郎」は 国有化後の1908年ですが、“甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗った”と書いています。

【35】《外濠線は四ッ谷より 市ヶ谷見附 神楽坂 砲兵工廠前をすぎ お茶の水橋 駿河台》
「外濠線」は、路面電車3社の中で最後 1905年に登場した「東京電気鉄道」で、通称の通り、千代田城の外濠沿いに走る環状線でした。
「神楽坂」は神楽坂下の牛込見附交差点で、現在は有楽町線飯田橋駅の出入口があります。なお、都営大江戸線の「牛込神楽坂駅」や東西線の「神楽坂駅」は神楽坂の坂上から更に先で、全く違う場所です。
「砲兵工廠」は、水戸徳川家上屋敷の跡地 [後楽園]。都電時代は飯田橋までが3系統、その先お茶の水橋まで13系統。
お茶の水橋を渡って駿河台の坂を下ります。戦後の都電ではこの区間は廃止されていましたが、学生時代、橋の上にレールが残っていたことを覚えています。

【36】《小川町より錦町 鎌倉河岸より常盤橋 左に高き建物は 日本三井の両銀行》
外濠線の小川町[駿河台下]・錦町は、街鉄線[33135]の同名停留所【3】よりも約400m西の通りです。
常盤橋界隈や日本銀行になった金座については[33433][33573]で書きました。

【37】《呉服橋より鍛冶橋と すぎ行く道は八重洲河岸 帝国ホテルを対岸に 見つつ土橋の停留所 》
外濠に沿って南下します。東京駅開業までの一時期存在した院線電車呉服橋駅は1910年開業ですから、まだありません。
東京駅に東口が開設されたのは1929年。
「八重洲」という地名の由来となったリーフデ号の船員オランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインが徳川家康から与えられた屋敷は現在の千代田区丸の内二丁目で、明治の地図には八重洲町とあります。八重洲町の北西、外濠に架けられていた八重洲橋と更に北の呉服橋との間にできた東京駅東口が八重洲口と呼ばれるようになったのは戦後でしょう。その八重洲口からできたと思われる地名・現在の中央区八重洲一丁目は、ヤン・ヨーステンの居た場所から東京駅をはさんで約1kmも北西に動いてしまいました。
《帝国ホテルを(外濠の)対岸に見つつ》ということは、視界を遮る高架線のアーチが、まだ烏森駅(1909)[新橋駅]から北に伸びていなかった時代ということです。

【38】《右に曲りて程もなく 内幸町とおりつつ なお行く先は虎の門 議事堂近く建てるなり》
土橋で右折すると、およそ現在の銀座線、新橋から赤坂見附へのルートです。
虎の門の議事堂とは、現在の経済産業省の地にあった第2次仮議事堂です。ベックマン・エンデプラン[35034]の議事堂予定地は、現在の国会議事堂と同じ永田町でしたが、多大の費用を調達できず 実現困難であったため、虎の門付近に仮議事堂を建設して1890年の第1回帝国議会に間に合わせました。
ところが、これが会期中に早くも焼失。第2次仮議事堂は震災には残りましたが1925年に再び焼失。第3次仮議事堂が1936年に現在の国会議事堂が完成するまで使用されました。

余談ですが、震災後の1923年末、この第2次仮議事堂で開かれる第48帝国議会の開院式に向かう摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃するテロ事件が発生。この虎ノ門事件で辞職した警視庁警務部長・正力松太郎が転身して、翌年読売新聞を買収したことが、現在のプロ野球やテレビ放送の歴史にまで大きな影響を及ぼしたことになります。

【39】《赤坂区へと入りぬれば 溜池田町たちまちに 弁慶橋もうちすぎて 四ッ谷見附に至るなり》
虎ノ門から先、赤坂見附・四谷見附・市ヶ谷見附を経て飯田橋までは都電時代の3系統(戦前は33系統)で、「外濠線」の名がずっと生き残っていました。
溜池は、[33199]で記したように明治になってから水がなくなり、埋め立てられていました。
赤坂田町の向いには閑院宮邸 [赤坂東急]、弁慶橋の北に北白川宮邸 [赤坂プリンス]・伏見宮邸 [ニューオータニ] と、当時の宮邸がホテルに変っていることがわかります。もちろん江戸時代は大名屋敷(松江藩・和歌山藩・彦根藩)です。紀州家・井伊家と尾張家[上智大学]の屋敷があったことから紀尾井町の地名ができました。
電車は外濠沿いの低い専用軌道を通り、喰違見附から紀之国坂上へと外濠を横切る土手を、短いながら東京の路面電車で唯一のトンネルで貫いてから四谷見附に上がりました。
電車唱歌は【35~39】で外濠沿いの一周を完成。

# リンクの誤記修正。外掘となっていた個所を外濠に統一。なお、[33135]の「外掘線」も「外濠線」の誤記です。
[35190] 2004年 11月 19日(金)22:32:37hmt さん
夏目漱石と電車― 電車唱歌で巡る100年前の東京(番外編)
[35160]で一応最後の路線を九段まで来ましたが、最初に書いた[33135]では、ずいぶん飛ばしてしまったところがあります。[35106]の銀座のように 補足する必要があると考えていますが、その件はいずれということにして、今回は番外編。

[33135]で説明したように、電車唱歌が発表された 1905年は、日露戦争の終った年で、夏目漱石が「我輩は猫である」や「坊つちゃん」を書いていた頃です。そこで、これらの作品中に電車がどのように登場しているかを、探ってみました。

先ず「坊つちゃん」。
“四国邉のある中学校で数学の教師”をしていた坊つちゃんが、赤シャツに天誅を加えて東京に戻った後の就職先は、街鉄こと「東京市街鉄道」です。
“其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は25円で、家賃は6円だ。”

「我輩は猫である4」では、苦沙弥先生の家に、学生時代の同宿人・六つ井物産の鈴木藤十郎が訪れます。
“「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。「(中略)…是でも街鉄を60株持ってるよ」

1000円札の漱石は、「我輩は猫である5」でも、「外濠線」こと「東京電気鉄道」会社株への関心を示しています。
(泥棒が来ても知らん顔の猫を煮て食べようという多々良三平君が)
「…奥さん小遣銭で外濠線の株を少し買ひなさらんか。今から三四個月すると倍になります。」

少し時代が下って、朝日新聞社[35106]に入って 1908年に連載した作品「三四郎」には次のようなくだりがあります。
神田の商業学校に行く積で、本郷四丁目から乗った所が、乗り越して九段迄来て、序に飯田橋迄持って行かれて、其処で漸く外濠線へ乗り換へて、お茶の水から神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ急いで行ったことがある。

一橋大学の前身、東京高等商業学校のある一ツ橋に近い神保町で降りるのに失敗し、飯田橋から外濠線に乗ったのに、また最寄の錦町を通りすぎ、と四通八達の電車を使いこなす難しさが偲ばれます。だから[35062]で引用したように、
それより以来電車は兎角物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗った。
ということになるわけです。

ところで、坊つちゃんが四畳半の安下宿に蟄居して3年間通学していた「物理学校」は、神田小川町にありました。現在東京理科大学として続いている神楽坂下に移転したのは1906年です。
[35062]のように甲武線が電車になり、外濠線も開通して一段と交通の便が良くなっていました。
[58379] 2007年 5月 7日(月)23:01:47hmt さん
「名駅」付近の地名
[58333] inakanomozart さん
泥江町(ひじえちょう)にあった事業所から、「名駅」に町名が変わるという“はがき”をもらった記憶があります。

かつての泥江町、笹島町などの町域が「名駅1~5丁目」という名になったのは、お説のように1977年でした。1981年は、(おそらく住居表示による)変更があった年でした。

なお、笹島町という地名は完全に消滅したわけでなく、ごく一部が残存 していました。

泥江町は、住所からは消えたものの、交差点の名として残っています。地図 で堀川の東に見える泥江県神社 関連の町名で、名古屋駅が現在よりも少し南にあった時代(1937年以前)には、現在の名駅四丁目が駅前通で、明治時代からの運送店や旅館があったそうです。
# 夏目漱石の『三四郎』(1908)の冒頭は、大学に入るため上京途中、汽車で乗り合わせた女と、名古屋駅前の旅館に同宿するはめになるくだりです。

「泥江」は、沖積低地を意味する「泥地」(ひじ)に由来し、転じて「広江」「広井」となり、この「広井村」の枝郷として「笹島」が形成されたのが文化2年(1805)と伝えられます。

笹島町、泥江町、花車町、禰宜町、水主町ほか多くの町名

地図で捜してみると、交差点、バス停、ビルなどの名に、昔の地名が結構残っていますね。
禰宜町は、泥江県(ひじえあがた)神社の禰宜(ねぎ)の住居、水主(かこ)町は堀川の水運に関連した職業由来地名ですが、名古屋の場合は「住所として現在でも残っている町名」ではないので、地名コレクション の収録対象外です。


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