[33135][35013][35034]に続いて、新たな2社の路線が登場します。
【33】《新宿駅より甲武線 四ッ谷 市ヶ谷 牛込や 飯田町をばうち過ぎて その名も清きお茶の水》
【34】《その道すがら右左 目に入るものは青山の 練兵場や学習院 士官学校 八幡宮》
甲武鉄道の市街線は、最初にもっと北のルートを計画したようですが、日清戦争のために青山練兵場 [神宮外苑] と新宿を結ぶ軍用線が先行しました。《その道すがら…青山の練兵場》は、必然の結果というわけです。
このルートだと、その先の市街地に達するのに赤坂御所や学習院の下を抜けなければなりません。当時としては「恐れ多いこと」でしたが、川上操六大将が皇室に掛け合ってトンネルを掘る了解が得られました。兵員輸送が一段落した後で牛込(駅跡はJR飯田橋駅南西)までが開通、翌1895年飯田町まで完成しました。
最初は汽車だけでしたが、1904年に飯田町―中野間で電車併用運転を開始しています。こうして「電車唱歌」には、電鉄・街鉄・外濠線の3社に伍して、路面区間のない甲武線も登場することになりました。4輪単車ながら定員58人の大形で、空気ブレーキや連結運転用の総括制御器も備えていたあたり、やはり国電の元祖です。
電車唱歌の1905年には 既に御茶ノ水まで複線の電車専用線が開通しており、更に都心のターミナルを予定した万世橋まで工事中でした。(翌年 甲武鉄道は国有化され、中央線のターミナルも1919年には万世橋駅
[33135]の【3】から東京駅に移ります。)
夏目漱石の「三四郎」は 国有化後の1908年ですが、“甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗った”と書いています。
【35】《外濠線は四ッ谷より 市ヶ谷見附 神楽坂 砲兵工廠前をすぎ お茶の水橋 駿河台》
「外濠線」は、路面電車3社の中で最後 1905年に登場した「東京電気鉄道」で、通称の通り、千代田城の外濠沿いに走る環状線でした。
「神楽坂」は神楽坂下の牛込見附交差点で、現在は有楽町線飯田橋駅の出入口があります。なお、都営大江戸線の「牛込神楽坂駅」や東西線の「神楽坂駅」は神楽坂の坂上から更に先で、全く違う場所です。
「砲兵工廠」は、水戸徳川家上屋敷の跡地 [後楽園]。都電時代は飯田橋までが3系統、その先お茶の水橋まで13系統。
お茶の水橋を渡って駿河台の坂を下ります。戦後の都電ではこの区間は廃止されていましたが、学生時代、橋の上にレールが残っていたことを覚えています。
【36】《小川町より錦町 鎌倉河岸より常盤橋 左に高き建物は 日本三井の両銀行》
外濠線の小川町[駿河台下]・錦町は、街鉄線
[33135]の同名停留所【3】よりも約400m西の通りです。
常盤橋界隈や日本銀行になった金座については
[33433][33573]で書きました。
【37】《呉服橋より鍛冶橋と すぎ行く道は八重洲河岸 帝国ホテルを対岸に 見つつ土橋の停留所 》
外濠に沿って南下します。東京駅開業までの一時期存在した院線電車呉服橋駅は1910年開業ですから、まだありません。
東京駅に東口が開設されたのは1929年。
「八重洲」という地名の由来となったリーフデ号の船員オランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインが徳川家康から与えられた屋敷は現在の千代田区丸の内二丁目で、明治の地図には八重洲町とあります。八重洲町の北西、外濠に架けられていた八重洲橋と更に北の呉服橋との間にできた東京駅東口が八重洲口と呼ばれるようになったのは戦後でしょう。その八重洲口からできたと思われる地名・現在の中央区八重洲一丁目は、ヤン・ヨーステンの居た場所から東京駅をはさんで約1kmも北西に動いてしまいました。
《帝国ホテルを(外濠の)対岸に見つつ》ということは、視界を遮る高架線のアーチが、まだ烏森駅(1909)[新橋駅]から北に伸びていなかった時代ということです。
【38】《右に曲りて程もなく 内幸町とおりつつ なお行く先は虎の門 議事堂近く建てるなり》
土橋で右折すると、およそ現在の銀座線、新橋から赤坂見附へのルートです。
虎の門の議事堂とは、現在の経済産業省の地にあった第2次仮議事堂です。ベックマン・エンデプラン
[35034]の議事堂予定地は、現在の国会議事堂と同じ永田町でしたが、多大の費用を調達できず 実現困難であったため、虎の門付近に仮議事堂を建設して1890年の第1回帝国議会に間に合わせました。
ところが、これが会期中に早くも焼失。第2次仮議事堂は震災には残りましたが1925年に再び焼失。第3次仮議事堂が1936年に現在の国会議事堂が完成するまで使用されました。
余談ですが、震災後の1923年末、この第2次仮議事堂で開かれる第48帝国議会の開院式に向かう摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃するテロ事件が発生。この虎ノ門事件で辞職した警視庁警務部長・正力松太郎が転身して、翌年読売新聞を買収したことが、現在のプロ野球やテレビ放送の歴史にまで大きな影響を及ぼしたことになります。
【39】《赤坂区へと入りぬれば 溜池田町たちまちに 弁慶橋もうちすぎて 四ッ谷見附に至るなり》
虎ノ門から先、赤坂見附・四谷見附・市ヶ谷見附を経て飯田橋までは都電時代の3系統(戦前は33系統)で、「外濠線」の名がずっと生き残っていました。
溜池は、
[33199]で記したように明治になってから水がなくなり、埋め立てられていました。
赤坂田町の向いには閑院宮邸 [赤坂東急]、弁慶橋の北に北白川宮邸 [赤坂プリンス]・伏見宮邸 [ニューオータニ] と、当時の宮邸がホテルに変っていることがわかります。もちろん江戸時代は大名屋敷(松江藩・和歌山藩・彦根藩)です。紀州家・井伊家と尾張家[上智大学]の屋敷があったことから紀尾井町の地名ができました。
電車は外濠沿いの低い専用軌道を通り、喰違見附から紀之国坂上へと外濠を横切る土手を、短いながら東京の路面電車で唯一のトンネルで貫いてから四谷見附に上がりました。
電車唱歌は【35~39】で外濠沿いの一周を完成。
# リンクの誤記修正。外掘となっていた個所を外濠に統一。なお、
[33135]の「外掘線」も「外濠線」の誤記です。