甲武線、外濠線の旅を終えて、街鉄線の起点・日比谷に戻り、東に向います。
【40】《また日比谷より街鉄は 数寄屋橋より尾張町 三原橋をば渡りすぎ 木挽町には歌舞伎座よ》
[33135] で、明治42年(1909)地形図では“♪電車の道は十文字”になっていないと記しました。今回、明治40年「東京市十五区全図」と比較してみたら、この僅か2年間に大きな変化があったことがわかりました。
その一つは、銀座四丁目から日比谷へ真っ直ぐに通じる大通り[晴海通り]が出来たことです。
かつては、銀座四丁目と尾張町一丁目 [銀座五丁目]との間を進んできた道は、外濠に対して直角の北向きに架けられた旧数寄屋橋を渡って (江戸時代には数寄屋橋御門[マリオン]の北側には南町奉行所がありました)西へ折れ、現在は飯田橋に移転している大神宮 [日比谷三井ビル]の前を過ぎて日比谷公園東側 [日比谷通り]に出ていました。
[35013]で三田からの電車が到着したこの道も、電車開通の直前、おそらく日比谷公園と同時期に作られたものでしょう。大神宮の南隣 [日生劇場・東京宝塚劇場]には、東京鉄道会社(街鉄+2社合併)・東京電燈会社の字が見えます。
なお、この南北の大通り[日比谷通り]と交差する日比谷濠沿いの道路[晴海通り]拡張のため、日比谷御門の枡形と共に撤去されることになったイチョウの古木は、日比谷公園(長州ヶ原)に安住の地を得ました
[35013]。
こうして 明治40年の地図では、日比谷交差点から北
[33135]、南
[35013]、西
[35034]の3方向の電車通りは既に完成し、東だけに上記のような古い町割が残っていました。
古い地図を見ると、晴海通りができる前は、千代田城から浜離宮(又は築地)へのルートは、桜田門→山下門→「みゆき通り」が自然であったことが理解できます。現在の地図で考えると、なぜこの狭い道を行幸?と不思議になりますが。
明治42年の地形図では、外濠を斜めに横切る新しい数寄屋橋が完成して、3方向の電車道が交差していた日比谷交差点に直結した様子が確認できます。
この数寄屋橋も1958年に外濠の埋め立てに伴ないなくなり、「数寄屋橋ここにありき」と刻まれたラジオドラマ『君の名は』の記念碑と、高速道路の「新数寄屋橋」の銘板に跡を残すのみです。
そしてこの地形図(1909)では、もう一つの構造物が姿を見せています。
それは烏森停車場[新橋駅]から外濠沿いに北上してきた高架鉄道線で、山下橋から先は外濠から離れて銭瓶町[大手町二丁目]まで伸びています。言うまでもなく、中央停車場(1914)のための線路です。
路面電車の線路は、新しい数寄屋橋を渡り、この高架線の下をくぐった後は、大神宮前の旧ルートで日比谷公園へ。
というわけで、【1】《電車の道は十文字》とは、後の都電11系統・37系統のような2画クロスのことではなく、「上野・三田・新宿・本所の4方向への電車の起点である」という意味のようでした。
電鉄線の
[33135] では通り過ぎてしまった銀座ですが、やはり触れないわけにはゆきません。そこで、改めて
【14】《京橋わたれば更に又 光まばゆき銀座街 道には煉瓦をしきならべ なみ木の柳 風すずし》
【15】《銀行 会社 商舘の ならべる大廈高楼は いずれも石造 煉瓦造 目を驚かすばかりなり》
江戸時代は新両替町の通称だった「銀座」が明治2年(1869)正式の町名になりました。但し銀座は四丁目までで、その先は尾張町・竹川町・出雲町など。
明治5年の大火を教訓として作られた連屋構造の銀座煉瓦街の居住性は不人気でしたが、15間幅で砂利舗装の車道と《煉瓦をしきならべ》た歩道を分離して整備された街路は、わが国で始めてのものでした。
街路樹は松、桜、楓が枯れた後に《なみ木の柳》が成功しましたが、大正年間に銀杏に植え替えられて、♪昔恋しい銀座の柳 (東京行進曲1929)になりました。そして帝都復興祭で復活した柳も戦災に遭い、戦後は自動車運転の視界を妨げるとして中央通りから撤去されるなど、「銀座の柳」は定着できません。
それはともかく、1872年に新橋停車場ができ、江戸以来の中心街だった日本橋とを結ぶ馬車鉄道も1882年に開通。同じ頃、最初の電灯(2000燭光のアーク灯)がつけられ《光まばゆき銀座街》は繁栄への道を歩みます。
《銀行 会社 商舘》の中で目立ったのが新聞社でした。最盛期には銀座四丁目の四つ角のうち3つを含めて銀座の新聞社30社以上とか。夏目漱石が社員として「虞美人草」「三四郎」などを執筆した東京朝日新聞社も銀座にありました。並木通りには,同社の校正係だった石川啄木の歌碑があります。“京橋の滝山町 [銀座六丁目]の新聞社、灯ともる頃の、いそがしきかな”
もちろん、今に続く有名な商店もたくさんあります。
「木村屋」は1870年尾張町に出店。木村安兵衛は1874年に「酒種あんぱん」を考案した、元祖アンパンマンです。翌年、吉野山の八重桜の塩漬けを埋め込んだ あんばん を侍従山岡鉄太郎を通じて明治天皇に献上して気に入られたということです。「西南の役」にも木村屋のパンが使われました。
日本初の洋風調剤薬局「資生堂」は、それまでの日本になかった医薬分業システムの実践を志した福原有信が、1872年開業しました。由来は『易経』の一節「至哉坤元 万物資生」。
これらは明治初年ですが、電車開通の頃に開業した店としては、伊藤勝太郎が1904年に「和漢洋文房具」“STATIONERY”の看板を掲げた「伊東屋」があります。同じ頃に資生堂では、アイスクリームソーダが誕生(1902)。御木本真珠店は1899年銀座出店ですからもう少し前。デパートは震災後。
「鞄」という字は銀座生まれ? タニザワのHPには、1890年に谷沢禎三が銀座一丁目に開いた店の看板が明治天皇のお目にとまり、「何と読むか?」との御質問を受けとのエピソードが記されています。
そうそう、銀座の店を語る上で欠かせないのは、この地で生れた服部金太郎の時計店です。小さな店から出発して、1892年には本所に工場(精工舎)も作り、1894年には銀座四丁目角地の朝野新聞社のあった地に時計台のある本店社屋を建てました。この本店を1932年に改築したのが現在の「和光」。もともとは服部時計店の小売部門です。製造部門の精工舎が世界的な精密機械メーカーに成長していることはご承知の通りです。
《数寄屋橋より尾張町》に関連して、電鉄の【14】【15】を補足し、銀座の話になったら長くなってしまいました。街鉄の【40】に戻って終りにします。
《木挽町には歌舞伎座》の「木挽町」は、「銀座東」(1951)を経て 1962年からは広域化した町名「銀座」の中に含まれていますが、電車より少し前(1889)に開場した歌舞伎座付近(昭和通の東)は、江戸時代には武家地でした。
# 服部時計店と「鞄」を追加、銀座の柳など一部修正