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電車唱歌で巡る100年前の東京

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記事数=9件/更新日:2013年10月15日

江戸時代には 徒歩と駕籠、それに水路のある下町では舟が使われた程度であった市街地内の交通。
明治になって外国人が使う 馬車 を見た日本人は、より手近な動力源を利用できる 軽量の「人力車」を発明し、これが 駕籠よりも効率的であるとの評価を得て、市内交通機関として 大いに普及しました。
発明者として和泉要助の名が伝えられていますが、特許制度発足よりも前のことで、正確なことはわかりません。
第二次大戦後の日本では、軽自動車が大ブームになって普及した経験がありますが、文明開化時代の日本で普及した人力車ブームにも、これと相通じる環境があったのでしょう。

馬車は、日本でも特権階級の専用車や辻馬車として使われたことと思います。
しかし、都市の大衆が馬車の恩恵に浴したのは、より大量輸送に特化した鉄道馬車でした。[61502]では明治15年(1882)に新橋−日本橋間の銀座通りの路上で開業した「東京馬車鉄道」を、日本の私鉄第1号として記しています。

最初は(内務省の監督下)東京府の命令書で 個別に認許された鉄道馬車は、明治23年(1890)になると 「軌道条例」により内務大臣の特許を受けるようになります。

日本における電車の登場は、藤岡市助[61533] による 東京上野公園の博覧会での展示運転(1890年)です。
その成功により、時代遅れの馬車鉄道を電車鉄道に変える動きが始まりましたが、民営を許すか東京市営にするかの方針が決まりません。モタモタしている間に、市内電車では京都(1895)に先を越されてしまいました。[61516]

ようやく馬から電気への動力変更許可が下り、東京電車鉄道(電鉄)が誕生したのは 1900年。市内電車新設を計画していた三井財閥(中上川彦次郎[61226])・雨宮敬次郎[61304]・星亨(利光鶴松[34571])の三派が合併した東京市街鉄道(街鉄)も1901年許可。先行して市外目黒広尾付近の許可を得ていた東京電気鉄道も市内外濠線の許可を得て、3社鼎立の時代になりました。(その後は[61533]参照)

2007年に連載したシリーズ記事「電車唱歌で巡る100年前の東京」は、この3社が鼎立していた明治38年(1905)に発表された「電車唱歌」をガイドとして、日露戦争直後の東京の町を巡るものです。

[61533]に 既に全8記事をまとめてリンクしてありますが、hmtマガジンの テーマ:鉄道 ができたことでもあり、これも特集として入れることにしました。内容的には「鉄道」関係の記事というよりも、「歴史紀行・明治の東京」という趣なので、テーマは「鉄道」でなく、「都市」の中に入れることにしました。

記事追加:2013/10/15 神田に関する[33135]を補足する[51807]を追加

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[33135] 2004年 9月 20日(月)19:24:45【1】hmt さん
♪電車の道は十文字 ― 電車唱歌で巡る100年前の東京(1)
[33006] まがみさん 路面電車についてのご教示ありがとうございました。

いかにも路面電車らしい風景は、路面からの乗降。「閉塞進行!」をやらずに前の電車に追いついてしまう運転方法。
それと共に記憶に残るのは、線路の平面交差です。

そこで、地理に関係した話題として、♪電車の道は十文字 という一節のある「東京地理教育電車唱歌」を取り上げてみました。

この唱歌は、 ♪汽笛一声新橋を で始まる「地理教育鉄道唱歌第一集」(1900年)の大ヒットを受けて1905年10月に発表されたものです。作詞:石原和三郎・作曲:田村虎蔵は、「金太郎」「大黒様」「花咲爺」「牛若丸」「うらしまたろう」など、おなじみの歌を残したコンビです。
こんな曲です
全52番の歌詞はこちら

時代背景を説明すると、1905年は日露戦争の終った年で、夏目漱石の「我輩は猫である」や「坊ちゃん」もこの年の作品です。
東京の路面電車はというと、1882年開業の東京馬車鉄道が東京電車鉄道と改称して1903年に“電化”し、東京市街鉄道も新線の特許を得て同年開業、翌年には東京電気鉄道も加わり3社鼎立となっていた時代です。
3社は、それぞれ「電鉄」・「街鉄」・「外堀線」と呼ばれ、電車唱歌にもこの名で登場します。

東京市会との関係で紆余曲折があり、京都に8年も遅れ、名古屋の後塵をも拝して発進した東京の電車が急速に路線を伸ばしていた時代ですが、電車唱歌の翌年1906年には3社合併、更に1911年には東京市営になりました。1943年都制により東京都営。

以下の記載で使う表記法を記しておきます。
【電車唱歌の番数】1~52番まであります。
《電車唱歌歌詞の引用》幸い著作権が切れているので、心置きなく引用できます。
[現在の地名・建物]
{江戸時代の地名・建物}

では、20世紀初頭の東京見物に「出発進行!」。
いや、軌道には鉄道信号はありませんから、「出発信号が進行=青を現示している」ことを喚呼することはあり得ません。

1909年測図という一万分一地形図があります。4年ほどずれがありますが、これを使って沿線の様子を見ることにしましょう。

【1~6】街鉄線の日比谷―上野間です。現在の千代田線・日比谷―湯島間に対応。
【1】《玉の宮居は丸の内  近き日比谷に集まれる 電車の道は十文字  まず上野へと遊ばんか》
地図で見ると、意外にも築地方面からの線路は斜めに日比谷公園心字池前の電停に向っており、hmtが乗車した頃の11番路線(新宿―月島)のような桜田門方面との直通線路ではありません。地図ではここに鉄道会社の文字があり、スタートの日比谷は、3社合併した東京鉄道の本社所在地と知れます。旧「街鉄」の本社でしょう。

余談:四国の中学校で月給40円の数学教師をしていた「坊ちゃん」が、東京に戻ってきて就いた仕事は「街鉄の技手」でした。月給25円。これでも当時としてはかなりの高給のようです。

【2】《左に宮城おがみつつ 東京府庁を右に見て 馬場先門や和田倉門 大手町には内務省》
東京府庁[東京国際フォーラム]筋向いには三菱会社[三菱商亊ビル]など少し建物があるが、大手町国有地[東西線の北側一帯]との間にある三菱ヶ原は、ほとんど空地。もちろん中央停車場もまだなくて、呉服橋駅も開業前だが、線路だけがその付近まで伸びています。

【3】《渡るも早し神田橋 錦町より小川町 乗りかえしげき須田町や 昌平橋をわたりゆく》
須田町交差点[現在より少し北。交通博物館の角]には広瀬中佐の銅像がありました。後にミニ東京駅のような中央線の万世橋駅前になりますが、線路はこの付近まで伸びています。
街鉄線は万世橋の一つ上流の《昌平橋》を渡って【4】《本郷大通り》を進み、本郷三丁目交差点で《右にまがり》《湯島の天満宮》と迂回して【5】《上野広小路》に至ります。これは上野へとまっすぐに通じる御成道には、既に電鉄線【11】が通っているためです。

【7~20】馬車鉄道を電化した電鉄線です。品川―浅草を結ぶP字形の路線ですが、途中の上野広小路で、街鉄線から乗り換えます。
【7】《浅草行に乗行かば 左に上野ステーション 走るも早し車坂 清島町をうちすぎて》
【8】《はや目の前に十二階  雷門より下りたてば ここ浅草の観世音 詣ずる人は肩を摩(す)る》
日本鉄道の上野駅です。車坂、清島町など下谷区、浅草区(現・台東区)の旧町名については、M.K. さんのHPの「浅草下谷散歩(旧町名探訪)」をご覧ください。
地図を見ると凌雲閣(十二階、日本最初のエレベーター設置)の東に花屋敷あります。こちらは現存。

【11】《電車は三橋のたもとより 行くては昔の御成道 万世橋をうちわたり 内神田へと入りぬれば》
浅草から上野に戻り、《御成道》を南下。須田町から日本橋【12】・京橋・銀座【14】と[中央通]を進んで、【16】新橋ステーション[汐留シオサイト]を過ぎ、芝区

【17】《大門町の左には 電車鉄道会社あり ほどなく高輪泉岳寺  四十七士のあとも訪え》
東京都交通局大門庁舎の存在は、世界貿易センタービル付近一帯が電鉄線の本社・車庫だったことを示しています。

【18】《さて品川につきぬれば 横浜 川崎 羽根田へと 通う電車も開けたり げにも便利のよき事や》
大師線から始まった京浜電気鉄道が品川に達したのは前年の1904年。川崎から先、神奈川に伸びたのは1905年末ですから、《横浜…へと通う電車》はフライング気味。

【19】《なお電鉄には日本橋 しろかね町を右に折れ 浅草橋をうち渡り 蔵前すぎて雷門 》
【20】《もとの線路を引きかえし 浅草橋より道かえて  横山町を通りすぎ 本町さして還るあり》
前に「品川―浅草を結ぶP字形の路線」と書いたのは、この路線があるためですが、日本橋本町と浅草橋の間は道幅が狭いために上下線が別の道路に分れていたことが歌詞からわかります。4年後の地図では1本になっていますから、道路が改良されたのでしょう。
[35013] 2004年 11月 11日(木)13:34:22hmt さん
♪街鉄線は三田よりぞ ― 電車唱歌で巡る100年前の東京(2)
1905年10月発表の電車唱歌。[33135] で【1番~20番】を紹介したまま、運休しておりましたが、運転を再開します。
前回と同様に【電車唱歌の番数】、《電車唱歌歌詞の引用》、[現在の地名・建物]を表します。

【21】《街鉄線は三田(みた)よりぞ 芝園橋をうちわたり 左に見て行く公園は 徳川氏の廟所にて》
【22】《松風すずしく園きよく 東宮殿下御慶事の 記念燈あり丸山に 伊能忠敬の碑も建てり》
【23】 《愛宕の塔を見あげつつ 幸橋をわたるまに いつか日比谷につきにけり いで公園を見てゆかん》
【24】 《さても日比谷の公園は 池あり丘あり広場あり 四季の草木を植えこみて 市民上下の遊歩場》

《街鉄》は「東京市街鉄道」。東京に路面電車の新線を申請していた雨宮・三井・星の3派が合同した会社で、東京市内で最大の路線網を持っていました。星享の参謀だった利光鶴松が、その経営にあたったことは、[34571]で触れました。

「三田」は、路面電車を引き継いだ東京都交通局にとって、現在でも重要な拠点です。官鉄が1909年に設けた駅名は「田町」で、現在でも駅名の違う乗換駅[32974][32980]として機能していますが、地名として有名なのは「三田」でしょう。駅名としても、街鉄>東鉄>市電>都電から引き継いだ都営地下鉄「三田」の方が先輩です。
今回の【21~24】三田―日比谷間(1904開通)と、前回の【1~3】日比谷―神田橋間(1903開通)には、都電時代には37系統・2系統が走っていました。現在も都営地下鉄三田線の路線です。

明治42年測図一万分一地形図を見ると、電車の三田車庫横の停留所に「さつまはら」とあります。慶応4年3月の勝海舟・西郷隆盛会談で江戸城無血開城を決め、江戸を戦火から救った薩摩藩邸がこの付近にありました。
「薩摩原」は、薩摩屋敷の焼討後に一時荒野原になっていた頃の命名でしょうが、様子がすっかり変った40年後にも地名だけは残っていたようです。さりとて、更に100年近く経った現在の「地名コレクション」には収録してもらえないでしょうが。

江戸切絵図と比較すると、薩摩藩邸跡地は 三田車庫のあった場所 [福祉会館・都営アパート] ではなく、その北側 「電気会社」 [NEC本社ビル] 以北であることがわかります。
三田と言えば「ペンは剣よりも強し」のシンボルマークを持つ慶應義塾。福沢諭吉は、安政5年築地鉄砲洲に蘭学塾を開きましたが、外国を見た結果英学塾に転向。慶応4年に「慶應義塾」となる。 三田の島原藩邸跡に移転したのは明治4年(1871)でした。

電車は古川に架かる《芝園橋をうちわたり》芝公園と増上寺へ。1879年に来日した南北戦争の将軍・グラント前大統領[34120]お手植えの「グラント松」(実はヒマラヤスギ)は当時からありました。余談ですが、現在も堂々たる姿を見せている「グラント松」に比べて いかにも貧弱なコウヤマキは、1982年に来日したブッシュ(パパ)副大統領の植樹です。
《徳川氏の廟所》は東京プリンスホテルになっています。愛宕山下には「慈恵医院」が当時からありました。

芝区と麹町区の境の汐留川を幸橋で渡ると、電車唱歌の出発点・日比谷に戻ります。江戸時代初期には入江で、海苔養殖の「ひび」から日比谷の名が付いたとされています。
長州藩や佐賀藩の大名屋敷があったこの地は、明治になって陸軍練兵場を経て、1903年6月に日本初の洋式公園として開園しました。
松本楼脇にある首かけイチョウは、開園から約100日後の街鉄開通を見ていたことでしょう。道路拡張のため、移植不可能と伐採されかけた老木は、本多静六博士[34695]の「首にかけても」という移植で救われ、推定樹齢に100年が加わって400年になった現在も健在です。
[35034] 2004年 11月 12日(金)15:25:52hmt さん
♪ 新宿行に乗るやすぐ― 電車唱歌で巡る100年前の東京(3)
[35013] 三田―日比谷間に続いて街鉄の日比谷―新宿間です。都電時代は11系統。

【25】《新宿行に乗るやすぐ 桜田門より下りたたば 二重橋より宮城を ほのかに拝みまつるべし》
1903年11月~12月に、街鉄が開通させた日比谷―新宿線です。
桜田門の北、二重橋は 千代田城西の丸の大手、即ち当時の「宮城」の正門です。「きゅうじょう」と読みます。念のため。(笑)

【26】《桜田門をすぐる頃 左に見ゆる建物は 大審院よ司法省 なおもつづける海軍省》
明治政府の外務卿井上馨は、条約改正会議を控えて「見た目」重視主義で日本の欧化された姿を諸外国に示すことを考えました。その代表が「鹿鳴館」ですが、御雇教師ヘルマン・エンデとヴィルヘム・ベックマンの基本設計による西洋式中央官庁街の建設も計画し、その第一歩として、日比谷練兵場跡地にネオバロック様式煉瓦造の司法省が1895年に竣工しました。

しかし、この建物の竣工より前に、不平等条約改正の交渉は行き詰まった井上馨が失脚しており、都市計画の権限は内務省に移りました。そして軟弱地の練兵場跡東側は日比谷公園になり、司法省等の建築と桜田門から南下する大通りだけがエンデプランの名残を留めていました。虎の門付近や大通りの西側台地上に及ぶ現在の「霞が関官庁街」が形成されるのは、昭和になってからです。

ところで、この司法省の建物。建築中に起きた濃尾地震を教訓に鉄材で補強された煉瓦壁は 関東大震災にも耐え、戦災で内部が焼失しても外壁は残り、戦後も改修されて法務省として使われました。1995年に昔の姿に復元された外観は重要文化財に指定され、法務史資料展示室として公開されています。

【27】《はやも参謀本部前 たてる馬上の銅像は ながれも清き有栖川 熾仁殿下の俤ぞ》
参謀本部があった場所は、現在の国会前洋式庭園と憲政記念館。現在もここにある 日本水準原点 が、地形図作成の任にあたった参謀本部の所在地だったことを示しています。江戸時代は彦根藩上屋敷。井伊大老は、ここから桜田門までの僅かな距離の通勤途上で襲われたのでした。
《馬上の銅像》電車開通の1903年に建てられた有栖川宮熾仁親王の銅像は、1962年に麻布の有栖川宮記念公園に移設されています。

【28】《電車はいつか三宅坂 陸軍省のそば近く 右の御濠に宮城の みどりの松の影深し》
現在の最高裁判所付近に 三河田原藩三宅対馬守の上屋敷がありました。ついでに言うと、永田町(参議院付近)には 永田伊織という旗本屋敷がありました。
しかし、永田町は、千代田・宝田・祝田・桜田という『おめで「田」地名コレクション』の仲間かもしれません。田んぼにはなりそうもない台地ですが、台地上に開かれた「新田」の例も多いことですから。

【29】《青山行は乗りかえて 赤坂見附 一つ木を 過ぎて東宮御所の前 電車はゆくなり四丁目へ》
【30】《青山墓地へは三丁目 渋谷氷川の病院を 訪わんとならば四丁目に おりてゆくべし左へと》
三宅坂で新宿行と分れて渋谷に向う線路(都電9系統)ですが、まだ青山四丁目 [外苑前] までで、路線は青山車庫にも届いていません。明治40年の「東京市十五区全図」では、境界外の渋谷村に路線が伸びています。

【31】《新宿行は更になお 衛戍(えいじゅ)病院前をすぎ 半蔵門の前よりぞ 左に折れて麹町》
新宿行の本線は内堀沿いを三宅坂から半蔵門に至り左折し、麹町=甲府路(甲州街道)町へ。
御濠端の陸軍衛戍病院跡には 戦後13年間もパレスハイツと称する かまぼこ兵舎が建っていました。現在は最高裁と国立劇場。

【32】《十町過ぎて四ッ谷門 見附を出でて大横町 伝馬町より塩町よ 新宿さしていそぎゆく》
麹町を抜けて四ツ谷ですが、橋柱の鈴蘭燈や欄干の唐草模様が優雅な四谷見附橋は1913年の架設ですから、明治時代の電車は まだ直進できず、カギの手に迂回して西の新宿を目指しました。塩町は四谷三丁目。
[35062] 2004年 11月 13日(土)23:04:04【2】hmt さん
♪ 新宿駅より甲武線― 電車唱歌で巡る100年前の東京(4)
[33135][35013][35034]に続いて、新たな2社の路線が登場します。

【33】《新宿駅より甲武線 四ッ谷 市ヶ谷 牛込や 飯田町をばうち過ぎて その名も清きお茶の水》
【34】《その道すがら右左 目に入るものは青山の 練兵場や学習院 士官学校 八幡宮》
甲武鉄道の市街線は、最初にもっと北のルートを計画したようですが、日清戦争のために青山練兵場 [神宮外苑] と新宿を結ぶ軍用線が先行しました。《その道すがら…青山の練兵場》は、必然の結果というわけです。

このルートだと、その先の市街地に達するのに赤坂御所や学習院の下を抜けなければなりません。当時としては「恐れ多いこと」でしたが、川上操六大将が皇室に掛け合ってトンネルを掘る了解が得られました。兵員輸送が一段落した後で牛込(駅跡はJR飯田橋駅南西)までが開通、翌1895年飯田町まで完成しました。

最初は汽車だけでしたが、1904年に飯田町―中野間で電車併用運転を開始しています。こうして「電車唱歌」には、電鉄・街鉄・外濠線の3社に伍して、路面区間のない甲武線も登場することになりました。4輪単車ながら定員58人の大形で、空気ブレーキや連結運転用の総括制御器も備えていたあたり、やはり国電の元祖です。
電車唱歌の1905年には 既に御茶ノ水まで複線の電車専用線が開通しており、更に都心のターミナルを予定した万世橋まで工事中でした。(翌年 甲武鉄道は国有化され、中央線のターミナルも1919年には万世橋駅[33135]の【3】から東京駅に移ります。)

夏目漱石の「三四郎」は 国有化後の1908年ですが、“甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗った”と書いています。

【35】《外濠線は四ッ谷より 市ヶ谷見附 神楽坂 砲兵工廠前をすぎ お茶の水橋 駿河台》
「外濠線」は、路面電車3社の中で最後 1905年に登場した「東京電気鉄道」で、通称の通り、千代田城の外濠沿いに走る環状線でした。
「神楽坂」は神楽坂下の牛込見附交差点で、現在は有楽町線飯田橋駅の出入口があります。なお、都営大江戸線の「牛込神楽坂駅」や東西線の「神楽坂駅」は神楽坂の坂上から更に先で、全く違う場所です。
「砲兵工廠」は、水戸徳川家上屋敷の跡地 [後楽園]。都電時代は飯田橋までが3系統、その先お茶の水橋まで13系統。
お茶の水橋を渡って駿河台の坂を下ります。戦後の都電ではこの区間は廃止されていましたが、学生時代、橋の上にレールが残っていたことを覚えています。

【36】《小川町より錦町 鎌倉河岸より常盤橋 左に高き建物は 日本三井の両銀行》
外濠線の小川町[駿河台下]・錦町は、街鉄線[33135]の同名停留所【3】よりも約400m西の通りです。
常盤橋界隈や日本銀行になった金座については[33433][33573]で書きました。

【37】《呉服橋より鍛冶橋と すぎ行く道は八重洲河岸 帝国ホテルを対岸に 見つつ土橋の停留所 》
外濠に沿って南下します。東京駅開業までの一時期存在した院線電車呉服橋駅は1910年開業ですから、まだありません。
東京駅に東口が開設されたのは1929年。
「八重洲」という地名の由来となったリーフデ号の船員オランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインが徳川家康から与えられた屋敷は現在の千代田区丸の内二丁目で、明治の地図には八重洲町とあります。八重洲町の北西、外濠に架けられていた八重洲橋と更に北の呉服橋との間にできた東京駅東口が八重洲口と呼ばれるようになったのは戦後でしょう。その八重洲口からできたと思われる地名・現在の中央区八重洲一丁目は、ヤン・ヨーステンの居た場所から東京駅をはさんで約1kmも北西に動いてしまいました。
《帝国ホテルを(外濠の)対岸に見つつ》ということは、視界を遮る高架線のアーチが、まだ烏森駅(1909)[新橋駅]から北に伸びていなかった時代ということです。

【38】《右に曲りて程もなく 内幸町とおりつつ なお行く先は虎の門 議事堂近く建てるなり》
土橋で右折すると、およそ現在の銀座線、新橋から赤坂見附へのルートです。
虎の門の議事堂とは、現在の経済産業省の地にあった第2次仮議事堂です。ベックマン・エンデプラン[35034]の議事堂予定地は、現在の国会議事堂と同じ永田町でしたが、多大の費用を調達できず 実現困難であったため、虎の門付近に仮議事堂を建設して1890年の第1回帝国議会に間に合わせました。
ところが、これが会期中に早くも焼失。第2次仮議事堂は震災には残りましたが1925年に再び焼失。第3次仮議事堂が1936年に現在の国会議事堂が完成するまで使用されました。

余談ですが、震災後の1923年末、この第2次仮議事堂で開かれる第48帝国議会の開院式に向かう摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃するテロ事件が発生。この虎ノ門事件で辞職した警視庁警務部長・正力松太郎が転身して、翌年読売新聞を買収したことが、現在のプロ野球やテレビ放送の歴史にまで大きな影響を及ぼしたことになります。

【39】《赤坂区へと入りぬれば 溜池田町たちまちに 弁慶橋もうちすぎて 四ッ谷見附に至るなり》
虎ノ門から先、赤坂見附・四谷見附・市ヶ谷見附を経て飯田橋までは都電時代の3系統(戦前は33系統)で、「外濠線」の名がずっと生き残っていました。
溜池は、[33199]で記したように明治になってから水がなくなり、埋め立てられていました。
赤坂田町の向いには閑院宮邸 [赤坂東急]、弁慶橋の北に北白川宮邸 [赤坂プリンス]・伏見宮邸 [ニューオータニ] と、当時の宮邸がホテルに変っていることがわかります。もちろん江戸時代は大名屋敷(松江藩・和歌山藩・彦根藩)です。紀州家・井伊家と尾張家[上智大学]の屋敷があったことから紀尾井町の地名ができました。
電車は外濠沿いの低い専用軌道を通り、喰違見附から紀之国坂上へと外濠を横切る土手を、短いながら東京の路面電車で唯一のトンネルで貫いてから四谷見附に上がりました。
電車唱歌は【35~39】で外濠沿いの一周を完成。

# リンクの誤記修正。外掘となっていた個所を外濠に統一。なお、[33135]の「外掘線」も「外濠線」の誤記です。
[35106] 2004年 11月 15日(月)19:14:22【1】hmt さん
♪ 数寄屋橋より尾張町― 電車唱歌で巡る100年前の東京(5)
甲武線、外濠線の旅を終えて、街鉄線の起点・日比谷に戻り、東に向います。

【40】《また日比谷より街鉄は 数寄屋橋より尾張町 三原橋をば渡りすぎ 木挽町には歌舞伎座よ》
[33135] で、明治42年(1909)地形図では“♪電車の道は十文字”になっていないと記しました。今回、明治40年「東京市十五区全図」と比較してみたら、この僅か2年間に大きな変化があったことがわかりました。

その一つは、銀座四丁目から日比谷へ真っ直ぐに通じる大通り[晴海通り]が出来たことです。
かつては、銀座四丁目と尾張町一丁目 [銀座五丁目]との間を進んできた道は、外濠に対して直角の北向きに架けられた旧数寄屋橋を渡って (江戸時代には数寄屋橋御門[マリオン]の北側には南町奉行所がありました)西へ折れ、現在は飯田橋に移転している大神宮 [日比谷三井ビル]の前を過ぎて日比谷公園東側 [日比谷通り]に出ていました。

[35013]で三田からの電車が到着したこの道も、電車開通の直前、おそらく日比谷公園と同時期に作られたものでしょう。大神宮の南隣 [日生劇場・東京宝塚劇場]には、東京鉄道会社(街鉄+2社合併)・東京電燈会社の字が見えます。

なお、この南北の大通り[日比谷通り]と交差する日比谷濠沿いの道路[晴海通り]拡張のため、日比谷御門の枡形と共に撤去されることになったイチョウの古木は、日比谷公園(長州ヶ原)に安住の地を得ました[35013]

こうして 明治40年の地図では、日比谷交差点から北[33135]、南[35013]、西[35034]の3方向の電車通りは既に完成し、東だけに上記のような古い町割が残っていました。
古い地図を見ると、晴海通りができる前は、千代田城から浜離宮(又は築地)へのルートは、桜田門→山下門→「みゆき通り」が自然であったことが理解できます。現在の地図で考えると、なぜこの狭い道を行幸?と不思議になりますが。

明治42年の地形図では、外濠を斜めに横切る新しい数寄屋橋が完成して、3方向の電車道が交差していた日比谷交差点に直結した様子が確認できます。
この数寄屋橋も1958年に外濠の埋め立てに伴ないなくなり、「数寄屋橋ここにありき」と刻まれたラジオドラマ『君の名は』の記念碑と、高速道路の「新数寄屋橋」の銘板に跡を残すのみです。

そしてこの地形図(1909)では、もう一つの構造物が姿を見せています。
それは烏森停車場[新橋駅]から外濠沿いに北上してきた高架鉄道線で、山下橋から先は外濠から離れて銭瓶町[大手町二丁目]まで伸びています。言うまでもなく、中央停車場(1914)のための線路です。
路面電車の線路は、新しい数寄屋橋を渡り、この高架線の下をくぐった後は、大神宮前の旧ルートで日比谷公園へ。

というわけで、【1】《電車の道は十文字》とは、後の都電11系統・37系統のような2画クロスのことではなく、「上野・三田・新宿・本所の4方向への電車の起点である」という意味のようでした。

電鉄線の[33135] では通り過ぎてしまった銀座ですが、やはり触れないわけにはゆきません。そこで、改めて
【14】《京橋わたれば更に又 光まばゆき銀座街 道には煉瓦をしきならべ なみ木の柳 風すずし》
【15】《銀行 会社 商舘の ならべる大廈高楼は いずれも石造 煉瓦造 目を驚かすばかりなり》
江戸時代は新両替町の通称だった「銀座」が明治2年(1869)正式の町名になりました。但し銀座は四丁目までで、その先は尾張町・竹川町・出雲町など。

明治5年の大火を教訓として作られた連屋構造の銀座煉瓦街の居住性は不人気でしたが、15間幅で砂利舗装の車道と《煉瓦をしきならべ》た歩道を分離して整備された街路は、わが国で始めてのものでした。

街路樹は松、桜、楓が枯れた後に《なみ木の柳》が成功しましたが、大正年間に銀杏に植え替えられて、♪昔恋しい銀座の柳 (東京行進曲1929)になりました。そして帝都復興祭で復活した柳も戦災に遭い、戦後は自動車運転の視界を妨げるとして中央通りから撤去されるなど、「銀座の柳」は定着できません。

それはともかく、1872年に新橋停車場ができ、江戸以来の中心街だった日本橋とを結ぶ馬車鉄道も1882年に開通。同じ頃、最初の電灯(2000燭光のアーク灯)がつけられ《光まばゆき銀座街》は繁栄への道を歩みます。

《銀行 会社 商舘》の中で目立ったのが新聞社でした。最盛期には銀座四丁目の四つ角のうち3つを含めて銀座の新聞社30社以上とか。夏目漱石が社員として「虞美人草」「三四郎」などを執筆した東京朝日新聞社も銀座にありました。並木通りには,同社の校正係だった石川啄木の歌碑があります。“京橋の滝山町 [銀座六丁目]の新聞社、灯ともる頃の、いそがしきかな”

もちろん、今に続く有名な商店もたくさんあります。
「木村屋」は1870年尾張町に出店。木村安兵衛は1874年に「酒種あんぱん」を考案した、元祖アンパンマンです。翌年、吉野山の八重桜の塩漬けを埋め込んだ あんばん を侍従山岡鉄太郎を通じて明治天皇に献上して気に入られたということです。「西南の役」にも木村屋のパンが使われました。
日本初の洋風調剤薬局「資生堂」は、それまでの日本になかった医薬分業システムの実践を志した福原有信が、1872年開業しました。由来は『易経』の一節「至哉坤元 万物資生」。
これらは明治初年ですが、電車開通の頃に開業した店としては、伊藤勝太郎が1904年に「和漢洋文房具」“STATIONERY”の看板を掲げた「伊東屋」があります。同じ頃に資生堂では、アイスクリームソーダが誕生(1902)。御木本真珠店は1899年銀座出店ですからもう少し前。デパートは震災後。

「鞄」という字は銀座生まれ? タニザワのHPには、1890年に谷沢禎三が銀座一丁目に開いた店の看板が明治天皇のお目にとまり、「何と読むか?」との御質問を受けとのエピソードが記されています。

そうそう、銀座の店を語る上で欠かせないのは、この地で生れた服部金太郎の時計店です。小さな店から出発して、1892年には本所に工場(精工舎)も作り、1894年には銀座四丁目角地の朝野新聞社のあった地に時計台のある本店社屋を建てました。この本店を1932年に改築したのが現在の「和光」。もともとは服部時計店の小売部門です。製造部門の精工舎が世界的な精密機械メーカーに成長していることはご承知の通りです。

《数寄屋橋より尾張町》に関連して、電鉄の【14】【15】を補足し、銀座の話になったら長くなってしまいました。街鉄の【40】に戻って終りにします。

《木挽町には歌舞伎座》の「木挽町」は、「銀座東」(1951)を経て 1962年からは広域化した町名「銀座」の中に含まれていますが、電車より少し前(1889)に開場した歌舞伎座付近(昭和通の東)は、江戸時代には武家地でした。

# 服部時計店と「鞄」を追加、銀座の柳など一部修正
[35134] 2004年 11月 16日(火)22:56:46hmt さん
♪ ここは築地よ名も高き 西本願寺のあるところ― 電車唱歌で巡る100年前の東京(6)
[35106]に続き、日比谷から東に向う街鉄線沿い[東京メトロ日比谷線]を、日露戦争直後の「東京地理教育電車唱歌」(1905)と「東京市十五区全図」(1907)で巡ります。

【41】《新富町には新富座 芝居見物するもよし ここは築地よ名も高き 西本願寺のあるところ》
西本願寺別院は、振袖火事で焼失後、1679年に新しい埋立地に再建した築地御坊です。1934年に現在の古代インド様式建築になりました。
築地本願寺の南西は海軍大学校など海軍の施設。ここにあった帝国海軍の拠点は、関東大震災後に呉などに移り、跡地は築地市場になりました。

地図には、築地本願寺の北東・明石町に 「聖路加」をはさんで立教中学 [聖路加看護大学]と立教女学校 [聖路加国際病院]、更に東にはまだ「外国人居留地」 [聖路加ガーデン]の文字も見えます。その南にある 「東京税関支庁」[割烹治作]は、税関以外にも居留地関係一切の事務を扱っていた「運上所」の後身です。
1902年にトイスラーが開設した聖路加病院は、関東大震災からも復興し、近年は 隅田川ウオーターフロントの再開発で得た資金を使った新病院を建設するなど、発展を続けています。

この「聖路加」の地(江戸時代は鉄砲洲)には、かつて豊前中津藩奥平家の中屋敷がありました。1771年、千住小塚原で腑分を見た杉田玄白らが集まり、『ターヘルアナトミア』の翻訳(解体新書)に着手した前野良沢宅は、この藩邸内にありました。つまりここは「蘭学事始の地」です。
また この鉄砲洲中津藩邸は、慶応義塾発祥の地でもあります。福沢諭吉が1858年蘭学塾を開いたことは [35013]に記しました。あの記事で “外国を見た結果英学塾に転向” と書いたのは、“横浜を見た結果…”の間違いです。彼は、横浜で英語の看板が読めず、せっかく勉強したオランダ語が通じなかったので、針路の誤りに気がついたのでした。

幕府や明治政府が鉄砲洲 [明石町]に外国人居留地を作ったのは、築地川などの運河に囲まれており、攘夷派とのトラブルを避ける都合からです。横浜の関内と同じ理由です。居留地だった明石町は、先に地図で登場した「立教」など、多くのミッションスクールの発祥の地でもあります。
東京名所錦絵に登場する「築地ホテル館」は、居留地に近い軍艦操練所前に、幕府の御用大工棟梁・清水喜助(清水建設創業者)による建築でしたが1872年焼失。その跡は「海軍造兵廠」[勝鬨橋西詰]になり、日清・日露の役の兵器工場として活躍しました。

【42】《北島町や坂本町 茅場町より乗りかえて 深川行は霊岸町 すぐればやがて永代よ》
【43】《橋を渡りて深川区 亀住町にいたるなり ここに名高き富ヶ岡 八幡宮を拝むべし》
築地で東から北に向きを変え 2km足らず進むと茅場町です。ここは日本橋の少し下流で、付近の兜町には「株式取引所」や第一銀行の字が見え、日本最初のビジネス街であったことをうかがわせます。
深川行きに乗りかえ[東京メトロだと日比谷線から東西線へ]、永代橋を渡った深川終点は、門前仲町よりも北の亀住町。

【44】《茅場町より蠣殻町 水天宮の前をすぎ 人形町よ住吉町 浜町河岸の景色よさ》
【45】《はや両国の停留所 橋を渡れば本所区 左に折れて総武線 高架鉄道十文字》
人形町で日比谷線ルートから離れて浜町河岸[浜町公園の北]に出て、更に北の両国橋を渡り本所区[墨田区]に入ります。両国橋東詰の回向院は、江戸勧進相撲の定打ち場で、1909年、境内に旧国技館が作られました。
忠臣蔵で悪役にされた吉良様の本所松坂町の屋敷があったのは回向院の東です。

その先の交差点[緑一]で左折すると1904年に本所停車場 [錦糸町駅]から両国橋停車場まで延びてきた総武鉄道の高架線との立体交差《高架鉄道十文字》になります。そう言えば甲武鉄道と交差する四谷・お茶の水は橋を渡る形だったし、数寄屋橋付近の鉄道はできていなかったので、この電車唱歌で高架線をくぐるのは初めてでした。
本当に高架鉄道同士が十文字に交差するようになるのは、ずっと後の1932年秋葉原駅です。

都営大江戸線のルートで清澄通りを北に進みますが、左に陸軍被服廠[日大一高・横網町公園]があります。
電車唱歌から18年後の1923年当時、ここは被服廠が移転した跡の広大な空地になっていました。関東大地震が起きた時には格好の避難場所と考えられて、4万人もの市民と家財で溢れかえっていました。そこに四方から火が迫り家財に引火し、発生した大火災旋風で大部分の人が焼死または窒息死するという惨事になりました。現在、東京都慰霊堂が建っています。
[35160] 2004年 11月 17日(水)19:06:59hmt さん
♪ 厩橋をばわたりすぎ― 電車唱歌で巡る100年前の東京(7)
【46】《又も左に折れ曲り 厩橋をばわたりすぎ 黒船町よ小島町 ゆくや上野の広小路》
[35134]は、都営大江戸線の両国から北上しかけたところで終りましたが、街鉄も現在の都営大江戸線も、厩橋で隅田川を横断して上野広小路へと向います。明治の隅田川5橋のうち、永代橋【42】・両国橋【45】は既出ですから厩橋は3つ目の橋です。1907年の地図では新大橋にも電車が通っています。あと一つは吾妻橋。

地図の厩橋下流右岸には、電燈会社[東京電力蔵前変電所]・大蔵省米蔵[水処理センター]・税務署・烟草製造所・工業学校などと書かれた櫛形の堀入のある区域が描かれています。ここはかつての幕府の米蔵で、旗本・ご家人の扶持米はここに貰いに来るというのが原則でしたが、現実には 「御蔵前」で営業する札差の手で現金化されていました。1907年の地図でもまだ「大蔵省米蔵」が残っているのは興味深いところ。
この「蔵前」の名で知られた東京高等工業学校は、関東大震災で被災し、大岡山への移転を経て、東京工業大学になりました(1929)。

厩橋の名は、浅草御蔵の北端にあった幕府の厩に由来しています。震災復興事業では上流の駒形橋と下流の蔵前橋が新設された後、3代目の厩橋が架けられました。

上野広小路では、【1】~【5】で日比谷から到着した路線と接続しています。後の都電16系統のように、ここで電鉄線と平面交差した街鉄線は下町から山手へと直通運転していたと想像するのですが、当時の資料を持っていないので運転系統がわかりません。

【47】《両国よりは更になお 柳原河岸とおりすぎ また須田町に来て見れば 実にや八達四通の地》
前記【46】の約1km南、神田川の南岸を並行する路線です。柳原河岸(神田川)が貨物輸送に使われていたことは、「秋葉原貨物停車場」に神田川に通じる船溜があった[34120] ことからも窺うことができます。
須田町で九段ゆき【48】に直通運転していたか否かはわかりません。

【48】《小川町より九段ゆき 靖国神社に詣でんと 東明館の前をすぎ 俎橋にいたるなり》
都営新宿線の小川町―九段下の区間です。東明館は神田にあった勧工場。俎橋を渡った先には九段坂がありますが、これが今よりもずっと急な坂。江戸時代からの石段が残っていたかどうかわかりませんが、いずれにせよ電車は登れません。「東京市十五区全図」(1907)を見ると小川町からの電車は九段下から飯田橋方面に通じ、市ヶ谷見附から九段上に来た電車は千鳥ヶ淵沿いに半蔵門へという具合に、路線が上下に分離しています。
実はこの地図が発行された直後の1907年の7月に、この難所を電車が越える工事ができました。九段坂の南側に専用軌道を作り、千鳥ヶ淵沿いの線路と結んだのです。この専用軌道は、九段坂の勾配が本格的に緩和された1926年まで使われたそうです。

というわけで、以下の4節のためには 自分の足で坂を登る必要があります。
【49】《坂をのぼれば左には 西南役の記念碑や 右陸軍の偕行社 見わたし広し景色よし》
【50】《靖国神社 の広前に 大村 川上両雄の いさおも高き銅像は 千代も朽ちせぬ世の鑑》
【51】《遊就館に入り見れば 古今の武器や戦利品 国につくししますらおの 肖像高く掲げらる》
【52】《靖国神社に詣ずれば 大君のため国のため 身をつくしたるもののふの 御霊ぞ代代を護るなる》
[35190] 2004年 11月 19日(金)22:32:37hmt さん
夏目漱石と電車― 電車唱歌で巡る100年前の東京(番外編)
[35160]で一応最後の路線を九段まで来ましたが、最初に書いた[33135]では、ずいぶん飛ばしてしまったところがあります。[35106]の銀座のように 補足する必要があると考えていますが、その件はいずれということにして、今回は番外編。

[33135]で説明したように、電車唱歌が発表された 1905年は、日露戦争の終った年で、夏目漱石が「我輩は猫である」や「坊つちゃん」を書いていた頃です。そこで、これらの作品中に電車がどのように登場しているかを、探ってみました。

先ず「坊つちゃん」。
“四国邉のある中学校で数学の教師”をしていた坊つちゃんが、赤シャツに天誅を加えて東京に戻った後の就職先は、街鉄こと「東京市街鉄道」です。
“其後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は25円で、家賃は6円だ。”

「我輩は猫である4」では、苦沙弥先生の家に、学生時代の同宿人・六つ井物産の鈴木藤十郎が訪れます。
“「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。「(中略)…是でも街鉄を60株持ってるよ」

1000円札の漱石は、「我輩は猫である5」でも、「外濠線」こと「東京電気鉄道」会社株への関心を示しています。
(泥棒が来ても知らん顔の猫を煮て食べようという多々良三平君が)
「…奥さん小遣銭で外濠線の株を少し買ひなさらんか。今から三四個月すると倍になります。」

少し時代が下って、朝日新聞社[35106]に入って 1908年に連載した作品「三四郎」には次のようなくだりがあります。
神田の商業学校に行く積で、本郷四丁目から乗った所が、乗り越して九段迄来て、序に飯田橋迄持って行かれて、其処で漸く外濠線へ乗り換へて、お茶の水から神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ急いで行ったことがある。

一橋大学の前身、東京高等商業学校のある一ツ橋に近い神保町で降りるのに失敗し、飯田橋から外濠線に乗ったのに、また最寄の錦町を通りすぎ、と四通八達の電車を使いこなす難しさが偲ばれます。だから[35062]で引用したように、
それより以来電車は兎角物騒な感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗った。
ということになるわけです。

ところで、坊つちゃんが四畳半の安下宿に蟄居して3年間通学していた「物理学校」は、神田小川町にありました。現在東京理科大学として続いている神楽坂下に移転したのは1906年です。
[35062]のように甲武線が電車になり、外濠線も開通して一段と交通の便が良くなっていました。
[51807] 2006年 6月 18日(日)16:44:49hmt さん
内神田・外神田
[51802] Issie さん
たぶん,以前にも話題になっているはずですが,タイトルは「東京地理教育電車唱歌」
万世橋を渡って「内神田へと入りぬれば」と続きます。

一昨年に連載した 電車唱歌で巡る100年前の東京 を思い出しました。

日比谷から上野へ向かう「街鉄線」で
【3】《渡るも早し神田橋 錦町より小川町 乗りかえしげき須田町や 昌平橋をわたりゆく》
と、広瀬中佐の銅像があった旧・須田町交差点を通って本郷・湯島経由で上野広小路に至り、広小路で「電鉄線」(前身は東京馬車鉄道)に乗り換えて、浅草経由で上野に戻り、
【11】《電車は三橋のたもとより 行くては昔の御成道 万世橋をうちわたり 内神田へと入りぬれば》
と南下するルートでしたが、神田から品川までの道は先を急ぎすぎて、ほとんど説明抜きで通り過ぎてしまいました。

伊勢神宮の御田(おみた)があった土地に神田明神が創建されたのが地名の由来と伝えられます。
神田橋門外の鎌倉河岸から駿河台にかけての地名だった「神田」は、幕府ができた慶長8年の江戸町割以後、通り町筋(現・中央通)の東まで広がり、千代田城の外郭線の神田川ができると、川の南側の内神田だけでなく、北側の外神田へと、「神田」を名乗る地域は拡大してゆきます。
現在の千代田区の町名にも、内神田・外神田・東神田・西神田がありますが、東西もずいぶん拡大していて、その間には神田神保町、神田佐久間町など多数の町名を見ることができます。

神田鍛冶町 角の乾物屋で勝栗買ったら固くて噛めない。返しに行ったら、勘兵衛の嬶(かかあ)が帰ってきて、癇癪起こして、カリカリ噛んだら、カリカリ噛めた。
の神田鍛冶町など、町名の示すように職人町が多かった内神田。

JR神田駅のある1丁目と2丁目は住居表示区域になって「鍛冶町」になり、東京メトロ・神田駅のある3丁目だけが「神田鍛冶町」で残っているのですね。[34795] N-H さん

電車唱歌に歌われた「万世橋」は、筋違見附を解体した石材を利用した東京初の石造アーチ橋(明治6年=1873)で、震災後の1930年にできた現在の鉄筋コンクリート橋よりも少し上流にありました。大久保一翁知事の命名は「万世橋(よろずよばし)」でしたが、人々は「マンセイばし」と重箱読みをして、これが定着したようです。
# 秋芳洞の読み方の一件[43914]を思い出しました。

その筋違橋(江戸時代の橋名)門外、神田川北岸の「外神田」は、中山道と、寛永寺や日光に通じる御成道との起点で、神田川舟運の佐久間河岸も設けられた水陸交通の結節点でした。
建築用材のような大型貨物の取り扱いは江戸湊でしたが、内神田の職人町で使う薪炭その他の原材料も、多町(たちょう)の青物市場への入荷も、佐久間河岸で荷揚げされました。

このような江戸の物資流通基地としての外神田の伝統は、明治以後にも 「秋葉原貨物停車場」[34120]として引き継がれました。
その秋葉原貨物駅の跡地は「つくばエクスプレス」という新たな交通路の起点になりました。
日本通運の本社ビルが秋葉原から汐留に移転したことは、物流拠点として栄えた外神田の転機を象徴しているようです。

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