[58214] 拙稿 「『府藩県一般戸籍ノ法』、大区小区制などについて」の続きです。郡区町村編制法以降、市制・町村制の直前までです。
参考文献は
[58214]と同じです。
| 年月日 | 事項 | 香川県の例 |
(19) | M11(1878).7.22 | 「郡区町村編制法」公布 |
(20) | M11(1878).12.16 | | 郡区町村編制法適用 |
(21) | M11(1878).12 | | 「戸長職務心得」 |
(22) | M17(1884).12.25 | 太政官布達第204号(連合戸長役場区域の拡大等) |
(23) | 同上 | | 愛媛県大書記官甲第207号同上布告 |
(24) | M18(1885).1.15 | | 同上施行 |
(19)(20)
従来の大区小区制(当時は全国に907の大区と7,699の小区があった)は「制置宜シキヲ得ザルノミナラズ、数百年慣習ノ郡制ヲ破リ、新規ニ奇異ノ区画ヲ設ケタルヲ以テ頗ル人心ニ適セズ、又便宜ヲ欠キ人間絶テ利益ナキノミナラズ、只弊害アルノミ」(「地方体制三大新法理由書」)と反省されました。郡区町村編制法の主旨は、
第一 大小区ノ重複ヲ除キ以テ費用ヲ節ス
第二 郡町村ノ旧ニ復シ良俗ニ便ス
と、伝統的な町村自治・良俗を容認しながらも、
第三 郡長ノ職任ヲ重クシ以施政ニ便ス
であり、町村及び戸長に対する郡長の監督的権限を強化することを忘れませんでした(同)。
また、大区小区制では小区のもとに町村が埋没されがちでした。しかし共同体としての町村が不必要となって消滅したわけではなく、かつて町村内に関する協議事項、例えば年貢の割付、村入用費の勘定、村役人の選定、他村との貸借や訴訟、用水の配分、入会地の管理、祭礼の打合せ等を協議してきた寄合の制は廃され、町村共同事務は戸長の権限に吸収されました。にもかかわらず、町村住民の協議・協賛なしに、戸長といえども一方的に町村事務を遂行することは困難になってきました。このため、寄合の制に代わるべきものとして、大区小区制期に「町村会議事仮規則」、三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)のもとで「町村会規則」が制定されるようになったのも十分理由があったといえます。
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「郡区町村編制法」明治11年太政官布告第17号(M11(1878).7.22布告)
郡区町村編制法左ノ通被定候条此旨布告候事
第一条 地方ヲ画シテ府県ノ下郡区町村トス
第二条 郡町村ノ区域名称ハ総テ旧ニ依ル
第三条 郡ノ区域広濶ニ過キ施政ニ不便ナル者ハ一郡ヲ画シテ数郡トナス(東西南北上中下某郡ト云カ如シ)
第四条 三府五港其他人口輻湊ノ地ハ別ニ一区トナシ其ノ広濶ナル者ハ区分シテ数区トナス
第五条 毎郡ニ郡長各一員ヲ置キ毎区ニ区長各一員ヲ置ク郡ノ狭少ナルモノハ数郡ニ一員ヲ置クコトヲ得
第六条 毎町村ニ戸長各一員ヲ置ク又数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得
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この第二条により大区小区が廃され、郡及び町村が行政区画として復活しました。
第六条の「数町村ニ一員ヲ置クコトヲ得」とあるように、狭小町村は数町村連合して一戸長役場を置くことが認められていました。
[57479]拙稿でも述べましたが、町村は「純然たる自治体とし、国の行政区画たる性質は与えない」とうのが当初案でしたが、元老院で変更され、、町村は「行政区」の性格もあわせもつことになり、戸長も「町村の理事者であるとともに、国の出先機関たる性格」をもあわせもつようになりました。
第四条の「区」(計33区)については、概ねその後の「市」にあたるものですが、これについては
[7772] Issie さん が詳しいのでこちらをご参考に。この「区」の特徴は、
・ 例えば京都は「上京区」「下京区」の2区であり、この2区を総括する「京都市」の類のものは存在しなかった
・ 「区」は「郡」の外にあった
・ 「区」の中に「町村」を含んでいた
ということが挙げられます。つまり、言うなれば
・ 県-郡-町村
・ 県-区-町村
の2種類により県の行政体制が整備されたことになります。
ただし、「区」は自治体ですが、「郡」はこの時点では自治体ではありませんでした(後述)。
第三条の「郡」に関して。郡は、明治維新前においては、自治体ではなかったが一つの行政区画であり、「郡代」というような行政機関が存在していました。しかし、維新後は、大区小区制の実施によって行政区画たる性質も消滅し、単なる地理的名称に過ぎないものになっていました。この郡区町村編制法の制定により、再び行政区画たる地位を与えられることになりました。
(その後M23(1890)の郡制により「自治体」、T12(1923)の郡制廃止により再び「行政区画」となりますがこれはまた別稿にて)
香川県の例では、M13(1880)の香川県令の「県政引渡演説書」によると、郡町村編制に際し、「各町村ノ内従来名称ノ判然タラサル者アリシカ為メニ、既ニ分離シテ独立ノ実アル数村モ強テ之ヲ合セテ一村トナシ、或ハ又其実財産ヲ共有シ利害ヲ相同フスル一村モ強テ之ヲ二村トナシ」と、実情に合わない町村名も見られたようで、「是等ハ更ニ実際ニ就キ其名称ヲ正シ之ヲ確定シ、本年二月四日付ヲ以テ内蔵両卿ヘ申報セシ」とあります。県庁において町村の実情を掌握したのはM13(1880)初頭らしく、東西または上下を冠する町村においては、そのような分離又は統合の扱いを受けたことが想定されます。
(21)
「戸長職務心得」(M11(1878).12)第一項では、「戸長ハ官民両属ノ性質ヲ有スルモノニシテ、或ハ行政吏員トナリテ上旨ヲ庶民ニ通シ、或ハ町村ノ理事者トナリテ下情ヲ官府ニ達スルノ任」と、行政吏員と町村理事者の二つの任務がうたわれています。
しかし、町村限りの事務といえども、「町村戸長職務規則」第三条にあるように「戸長ハ郡長ノ監督ヲ受ケ行政事務ニ従事シ、及ヒ町村共同ノ事務ヲ弁理スルモノトス」とあり、郡長の監督を受けることには変わりはありませんでした。
(22)(23)(24)
M17(1884).12.25太政官布達甲第204号、及びその施行に関してです。
時代は自由民権運動も急進化の傾向を見せ、国政のよき協力者であった戸長及び地方民会の議員たちも、民選の戸長や議員であるために住民寄りとなり、このため、政府は半ば地方自治的な三新法の再検討を行い、官治的統制の強化を図る必要があると判断しました。
この趣旨から、先行してM17(1884).5の太政官布達では、従来の民選による戸長の選出(M11(1878)内務省乙54号達、「戸長はその町村住民においてなるべく公選させ、府知事県令より辞令書を手渡し、公選方法は地方適宜に定める」旨)ではなく、戸長の官選制が布達されました。そして、あわせて、従来の町村戸長役場を廃し、新たに広域の町村戸長役場管轄区域及び役場の所在村を示す区画編成が布達されました。この結果、平均5町村、戸数500戸を標準にして1戸長役場を置くことになりました。
この連合戸長役場管轄区域の拡大は、国政事務の負担に応じうるだけの一定水準以上の財政能力を持った行政区画をつくり出すことを目的としていました。財政能力を高めることによって、例えば「良戸長ヲ得ントスルハ本案ノ希望スル所」(M17元老院会議)というのもその現れでした。しかし他方で連合戸長役場区域の拡大は、村落共同体を超えたもっと広い地域から戸長を選ぶことであり、町村は下級行政単位としての地位を再び失うことを意味していました。結果は、従来の町村戸長と住民を結びあわせていた連帯意識に楔を打ちこみ、行政官としての性質を濃くした戸長をつくり出すことに成功したといえます。しかし、更にもう一方では、戸長役場管轄区域は単一の行政単位ではなく、数個の町村の連合体であって、町村にはそれぞれ町村総代人が置かれ、日常の事務をつかさどっていたのが現実ですが、このことは、従来の「むら」を超えた広域の行政村を目指しながらも、「むら」(自治村)の独自性には十分配慮をしていたという点で、三新法と来るべき町村制の過渡期に位置づけられる改正でした。
また、連合戸長役場管轄区域の拡大によって、町村会よりも連合町村会に実質的機能が移っていきました。このこともまた、行政村としての議案審議が主となり、自治村(「むら」共同体)が抱えている問題は従属的にしか取り上げられなくなりつつあることを意味していました。
M17(1884).12.25香川県(当時は愛媛県)「町村戸長役場管轄区域の編成」の例です。他の村も同様です。
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甲二百九号
明治十八年一月十五日限リ従前ノ町村戸長役場ヲ廃シ更ニ町村戸長役場管轄ノ区域及ヒ役場ノ位置別紙ノ通相定ム
右布達候事
明治十七年十二月二十五日
令 関新平代理 愛媛県大書記官 湯川彰
大内郡
一 坂元村 南野村 馬宿村 黒羽村
右四ヶ村ヲ一区域トナシ戸長役場ヲ馬宿村ニ置ク
(以下略)
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