岐阜オフ会の場で、
[82238][82270][82273] 中島悟 さん の書き込みにもあったように、中島悟 さん から、
市区町村変遷情報に関するいくつかの調査結果の資料をいただきました。わざわざ、図書館によって、かき集めて頂いたものです。オフ会当日はバタバタとしてしまい、十分にお礼をお伝えできませんでした。この場をお借りして、改めてお礼を述べます。ありがとうございました。
>中島悟さん
佐屋町・鳳来町の資料、コピーそのものを私が頂いてしまっています。せめて、pdfファイルで送付・お返ししようととしたのですが、「メールボックスが一杯」とのことで、送付できませんでした。よろしければ再送しますので、対処の上、ご一報いただければ幸いです。
頂いた資料を含め、この3箇月ほどで中島悟さんから調査結果の情報を示していただいた情報のレスを、まとめて記します。
[79760]以降、漢字表記等の
一連のご指摘へのレスが遅れており、申し訳ありません。追ってレスします(個別情報の修正作業は、一部は実施済みですが、まとめて経緯を記録を兼ねて示します。)。
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[82273] 中島悟 さん、
[77619]88、
[74516] むっくん さん
■M22(1889).10.1付け愛知県市制町村制施行時 海東郡 大井村 となる従前の村名について 海東郡 大井村 or 海東郡 犬井村
「佐屋町誌 通史編」(編・発行:佐屋町史編集委員会、平成8年10月14日)のp.294以降の「(七)市制町村制」に、M22.10.1の市制町村制施行・廃置分合について、由来などが記述されています。
以下に引用します。
大井村
大井村は東西約千百七十メートル、南北約三百メートル、田畑約百二十五ヘクタールの大村なので、他村と合併しなかった。
江戸時代に犬井村との記録が多く見られ、明治初年からは大井村と記されるようになったが、今でも「犬井」と呼ぶ人がある。
その他にも、明治19年及び明治20年の書類として、「『犬井村』惣代」と記載された書類が2通、紹介されています。
[77619]拙稿のとおり、
M22.9.24付け(愛知)県令第47号の
62コマ目にもあるように、M22.10.1付けで海東郡犬井村が大井村に改称する形で単独で市制町村制施行した、と
そのままとしました。
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[82273][81895]中島悟 さん、
[66349]88、
[65928] むっくん さん
■S31.9.30付け愛知県南設楽郡新城町への鳳来町の一部の境界変更について
中島悟さんも述べられたように、「鳳来町誌歴史編」(著編者:鳳来町教育委員会、発行:愛知県南設楽郡鳳来町、刊行年:1994年) の記述は、あっさりしています。南設楽郡新城町と、同郡鳳来町との間で相互に境界変更しているのですが、「鳳来町誌歴史編」p.941では、以下のとおりです。
乗本・横川・七久保地区の境界変更については、昭和三十一年九月三十日から、南設楽郡新城町と鳳来町の境界を次のとおり変更する旨、示された。
・南設楽郡鳳来町に編入する区域→南設楽郡新城町乗本
・南設楽郡新城町に編入する区域→南設楽郡鳳来町横川並びに布里字七久保
事実はS31.9.30付け総理府告示第649号(
[66349]88で紹介済)なのですが、「鳳来町誌歴史編」では端折って書いており、正確ではありません。
今回、
[81101]拙稿でご紹介した
登記・供託オンライン申請システム(登記ねっと供託ねっと)で確認してみました。
やはり、現在の
新城市横川字北山だけが、旧鳳来町に残ったようです(現在では、当時新城町へ境界変更した地域及び鳳来町に残った地域ともに、新城市となっています)。
河川である「豊川」の東側(左岸)が旧横山村(横山バス停がある)、西側(右岸)が旧滝川村でしょうか。とすると、当該境界変更は、旧滝川村のすべてと、字北山を除く旧横山村のほとんど一部であり、近世村以上ということです。
よって、S31.9.30付けで 愛知県 南設楽郡 鳳来町の一部 を 同郡 新城町 へ境界変更する、と
追加しました。
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[82273][82030] 中島悟 さん、
[69249]88、
[69205] Issie さん、
[69203] むっくん さん、
[69201]グリグリさん
■S7.12.15付け
熊本県熊本市が飽託郡画図村を編入する件について
飽託郡画図村を画津村に改称し、同日付けで飽託郡画津村を熊本市へ編入
or
飽託郡画図村を(画津村に改称することなくそのまま)熊本市へ編入
[82030]中島悟さんでご紹介いただいた、「新熊本市史 史料編第七巻」p.132による
◇熊本県告示第七○四号
飽託郡画図村ヲ廃シ、其ノ区域ヲ熊本市ニ編入シ、昭和七年十二月十五日ヨリ之ヲ施行ス。
昭和七年十二月十三日 熊本県知事 鈴木敬一
が明白な根拠であり、この他の資料は何らかの「誤りの連鎖」と判断し、飽託郡 画図村 を 熊本市 へ編入したと判断し、
修正しました。
[82273]中島悟 さん
これだけでも編入前に改称していないことは確実だと思うのですが、どうして4資料すべてに画津村と書かれているのか?
確かに不思議ですが、「画津湖」なる表記は、検索してみたところ、幾つかに見られるようようです。正式な表記がどの字を使うのか、定かではありませんが。
・与謝野鉄幹、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎(太田正雄)、平野万里の5人の文学青年による紀行文「
五足の靴」の
原文(部分)中の「画津湖」
・東北芸術工科大学東北文化研究センターアーカイブス
(熊本百景)風光明媚なる、画津湖の眺望
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[82030] 中島悟 さん、
[73438]88、
[72858] むっくん さん
■M22.4.1付けで福岡県市制町村制施行時に発足する村名について
■M40.3.20付けで福岡県 山門郡 三橋町 となる従前の町村名の一部について
山門郡 宮内村 or 山門郡 宮ノ内村
■M22.4.1付けで福岡県市制町村制施行時に発足する村名について
■M40.1.1付けで 福岡県 山門郡 瀬高町 となる従前の町村名の一部について
山門郡 川沿村 or 山門郡 河沿村
オフ会当日に頂いた、「柳川市史 史料編VII 山門郡行政・上」付属の2枚の地図である「筑後国山門郡全図」(明治34~40年頃)と「矢部川水系図」(明治22~29年頃)、確かに、どちらも、やはり「宮ノ内村」と「河沿村」であることを確認しました。
[73438]拙稿のとおり、
・山門郡 宮ノ内村(
M22.4.1付け市制町村制施行時、
M40.3.20付けで 山門郡 三橋町 となる従前の村名)
・山門郡 河沿村(
M22.4.1付け市制町村制施行時、
M40.1.1付けで 山門郡 瀬高町 となる従前の村名)
と、いずれもそのままとしました。
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[81895] 中島悟 さん、
[66349]88、
[65928] むっくん さん
■S30.4.1付けの 宮城県 宮城郡 宮城村 への 名取郡 秋保村の一部 の境界変更について 近世村単位以上 or 近世村単位未満
[66349]拙稿では、この境界変更の根拠であるS30.3.31総理府告示第972号をご紹介しました。
また、今回、
登記・供託オンライン申請システム(登記ねっと供託ねっと)で確認してみました。
現在、仙台市青葉区新川に数多くある字のうち、上記S30.3.31総理府告示第972号に出てこない字は、「字岳山」だけでした。当時と現在が、字の変更がないとしての話ですが、この「仙台市青葉区新川字岳山」(当時名取郡秋保村大字新川字岳山と推測)だけが、S30.4.1付けで宮城郡宮城村へ境界変更することなく名取郡秋保村に残ったと推測します(宮城郡宮城村は
S62.11.1付けで、名取郡秋保村は
S63.3.1付けでともに仙台市へ編入、現在はともに仙台市青葉区)。
よって、当該境界変更は、近世村である名取郡新川村のうち字岳山を除くだけであり、ほぼ新川村すべてに相当すると考えられることから、
市区町村変遷情報の対象とすることとし、
追加しました。
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[81893] 中島悟 さん、
[73615]88、
[73514] MI さん
■M22.4.1付けで福岡県市制町村制施行時に発足する村名について
■T12.8.1付けで久留米市へ編入される従前の村名について
御井郡 櫛原村 or 御井郡 節原村
オフ会当日に頂いた、「久留米市史 第3巻 近代の久留米」p.726の記述を確認しました。確かに、従前は「櫛原村」ではあったものの、合川村の一部と合併後の村名は御井郡「節原村」であり、
「和名類聚抄」の中の古代「郷」名をとったといわれる。
とありました。役場は旧「櫛原村」におかれましたが、村名が「節原村」である説明もなされています。
よって、
[73615]拙稿のとおり、御井郡 節原村 とそのままとしました
M22.4.1付け市制町村制施行時、
T12.8.1付けで久留米市へ編入される従前の村名)。
なお、
[73615]拙稿では、
ちなみに、M22.3.31まで存在した御井郡 櫛原村 は、現在の久留米市櫛原町周辺となりそうです。
と述べましたが、上述の「久留米市史 第3巻 近代の久留米」p.727には、「三井郡節原村役場」の写真が掲載されており、写真の説明では、
久留米市合併前の節原村役場(中略)。所在は現東櫛原町内。
とあります。