こんばんは。むっくんです。前回
[53970]以降、数度にわたり図書館にて大津市の坂本学区&下阪本学区関連の文献調査を行いました。
#明治22年(1889)~昭和26年(1951)まで存在した『坂本村』『下阪本村』の“さか”の字についての議論です。
#議論の詳細は
[53877]むっくん、
[53887]88さん、
[53888]むっくん、
[53915]88さん、
[53970][54042]むっくん、
[54060][54128]88さんを参照願います
#ここでは『坂本村』『下阪本村』に加えて『坂田郡』の“さか”の字の調査結果も記しておきます。
以下に時系列で昭和30年までに出版された書物等の調査結果を記します。
1.明治18年7月1日連合戸長役場制以前の名称
(1)国の場合
『明治前期全国村名小字調査書第三巻(内務省地理局編纂善本叢書32)(著:内務省地理局編纂物刊、出版:ゆまに書房、昭和61年)』によると、
『坂本村』『下坂本村』『坂田郡』
です。
この本は、(a)内務省地誌課が明治7年4月に各府県に村名の調査を命じ、これを受けて明治7年5月27日には提出された『各府県村名調査報告』と、(b)内務省地理局が明治14年11月26日に各府県へ宛てて町村の字小名を照会した『各町村字小名取調書』『各町村字名称調』等のうち現存しているものを影印複製されたものですのです。
滋賀県の滋賀郡の記載は、明治7年5月2日以降~同年10月7日より前に書かれたものと読み取れることより(∵粟津村が存在し上栄町が存在しない)、(a)の『各府県村名調査報告』によるものであると考えられます。
(2)滋賀県庁の場合
『近江国滋賀郡史(編:滋賀県庁、出版:昭和53年(明治16年発刊の復刻版))』によると、
『坂本村』『下坂本村』『坂田郡』
となっています。
滋賀県の滋賀郡の記載には、明治7年5月2日~明治14年3月7日までしか存在しなかった粟津村の記載があることより、この間のものと思われます。
2.明治18年7月1日連合戸長役場制施工後、明治22年4月1日新町村制施行前の名称
○国の場合
『地方行政区画便覧(上)(中)(下)(明治地理叢刊2)(編:内務省地理局、出版:雄松堂、昭和42年(明治20年(忠愛社)刊の複刻版))』によると、明治19年1月当時は
『坂本村』、『下坂本村』、『坂田郡』
です。
3.明治22年4月1日新町村制施行後、昭和26年4月1日の編入合併前の名称
(1)国(明治時代)の場合
官報第一七四七號(明治二十二年四月三十日)では
○町村制施行
滋賀懸ニ於テハ去ル一日ヨリ町村制ヲ施行セリ今其町村等ノ數ヲ擧クレハ六箇町百八十九箇村合計百九十五箇町村ニシテ役場ノ數ハ百九十五箇所ナリ之ヲ從來ノ町村ニ比スレハ二百七十六箇町千二百四箇村ヲ滅シ又役場ハ四箇所ヲ滅少セリ
としか記載されておらず、ここからは『坂』or『阪』なのかが分かりません。
(2)第二次世界大戦前に書かれた書物の場合
(ア)『阪本村』、『下阪本村』、『阪田郡』
(イ)『坂本村』『阪本村』の両方の記載、『下阪本村』、『坂田郡』『阪田郡』の両方の記載
(ウ)『坂本村』、『下阪本村』、『阪田郡』
(エ)『坂本村』、『下阪本村』、『坂田郡』
の4通りの表記方法に分かれました。(ア)~(エ)はそれぞれ
(ア)…民間で発行された書物・パンフレット
(イ)…明治期の滋賀県発行の書物(e.g.『滋賀県沿革誌(著:滋賀県、明治44年発刊)』)
(ウ)(エ)…昭和期の滋賀県発行の書物(e.g.(ウ)…『滋賀県史第四巻最新世(著:滋賀県、昭和3年発刊)』、(エ)…『選挙粛正運動要録第二巻(著:滋賀県、昭和13年3月発行)』)
です。
(3)第二次世界大戦後に書かれた書物での表記方法を次に見ます。
(3-1)大津市役所の場合
昭和26年3月に作成された大津市役所の合併の公式文書『合併{大石村,坂本村,下阪本村,下田上村,雄琴村}に関する書類綴』の写真が、『(ふるさとの想い出)写真集 明治大正昭和 大津(編:徳永真一郎、出版:国書刊行会、昭和55年)』のp119に写っていました。
この写真より大津市役所の表記方法は『坂本村』『下阪本村』であることが分かります。
(3-2)滋賀県庁の場合
滋賀懸公報号外昭和二十六年三月二十六日p4の記載によりますと、
○滋賀懸告示第百二十四號
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第七條第一項の規定により、昭和二十六年四月一日から栗太郡大石村、滋賀郡坂本村、同郡雄琴村、同郡下阪本村及び栗太郡下田上村の各村を廃し、その區域を大津市に編入する。
昭和二十六年三月二十六日
滋賀県知事 服部岩吉
とあり、滋賀県庁の表記方法は『坂本村』『下阪本村』であることが分かります。
これは
[53877]拙稿での
大津市例規集の滋賀県告示第124号の記載と当然ながら一致しました。
(3-3)国の場合
官報第7289号(昭和26年4月28日)によりますと
○総理府告示第九十一号
市村の廃置分合
地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十六年四月一日から、滋賀県栗太郡大石村、同郡下田上村、滋賀郡坂本村、同郡雄琴村及び同郡下坂本村を廃し、その区域を大津市に編入する旨、滋賀県知事より届出があった。
昭和二十六年四月二十八日
内閣総理大臣 吉田茂
とあり、国の表記方法は『坂本村』『下坂本村』であることが分かります。
(大津市公式文書・滋賀県公報告示『下阪本村』と国の官報告示『下坂本村』で表記に食い違いがあることが分かります。)
(3-4)おまけ
合併の翌年に作成された『市史編纂年表 昭和22~昭和27年(著・出版:大津市役所、昭和27年)』でも、
昭和26年4月1日に大石村,坂本村,下阪本村,下田上村,雄琴村と合併
と書かれています。
4.仮説・結論
(1)仮説
まず昭和26年の大津市と五ヶ村(大石村・坂本村・下阪本村・下田上村・雄琴村)合併の決定は大津市・大石村・坂本村・下阪本村・下田上村・雄琴村→滋賀県、滋賀県→国と伝わったと考えられます。
まず、滋賀県は滋賀県公報と同じ『坂本村』『下阪本村』と国に伝えたものと考えられます。
滋賀県は直接『坂本村』『下阪本村』から報告を受けたものと考えられますから、滋賀県が自治体の名称を誤るとは考えにくいと考えられます。『坂本村』『下阪本村』と大津市が合併する計画を最初に(昭和初期に)立てたのは滋賀県なのですから、なおさら自治体の名称を誤ることはないでしょう。
となれば、国が『坂本村』『下阪本村』ではなく『坂本村』『下坂本村』と誤って官報に記載したものと考えられます。その理由としては(I)官報への転写ミス、(II)滋賀県からの報告がミスしているものと判断、の2通りが考えられます。
(I)の場合ですが、発行された官報第7289号総理府告示第九十一号を見て大津市役所なり滋賀県庁が官報の誤りを指摘しているでしょうから、もし(I)の理由であるならば官報に訂正記事が出ていることでしょう。
[54079]にまんさんによると、
官報の訂正記事って珍しくないですよ。今日も出てましたし、2日から3日に1回は出ているかと思います。多いときは一度に一段くらい使ったのも出てますから。
とのことですから。ただ、昭和26年当時には訂正記事を出すこと自体が珍しかった可能性はありますが。
次に(II)の場合ですが、一番考えられるのは明治22年当時に『坂本村』『下阪本村』という村名を国が受理せずに『坂本村』『下坂本村』としたケースです。そもそも明治時代における地方自治とは現行憲法の【政治上の自治(憲法92条による住民自治・団体自治)】ではなく、【人民に行政の公務に参与する名誉を与えるもの】に過ぎませんでした。それが、
[53888]拙稿の
「上坂本」と「下坂本」の双方の村で合併話がもつれたことでしこりが出来たことより、(明治21年施行の市制町村制による)村制施行では「上坂本」は「坂本村」とし、「下坂本」では従来の「下坂本」を用いずに村名を「下阪本村」とした
という隣村間の感情のわだかまりだけのために自治体名を変えるということは人民に【政治上の自治】に与えたともみなされかねないので正式には『坂本村』『下坂本村』という形で受理したケースです。ただ、この考えでは国の手足に過ぎない県が発行した書物『滋賀県史第四巻最新世(著:滋賀県、昭和3年発刊)』や『選挙粛正運動要録第二巻(著:滋賀県、昭和13年3月発行)』が『坂本村』『下阪本村』という村名を採用している理由が説明できないので無理があります。
うーん、上手く説明できそうにありません。もしかして、上記の(I)(II)のどちらでもなく(III)官報の告示に訂正の記載がなされているが発見できていないだけ、というのが本当なのかもしれません。ただ
[54128]88さんによると、過去の告示に訂正があるかないかを探すのは
確かに紙ベースでは困難です。ただし、官報情報検索サービスであれば、検索機能が十分に機能していると思えますので、完全でないとはいえ、ほぼ可能です。
とのことなので、発見できていない可能性もかなり低そうです。
以上(I)(II)(III)の理由付けではいずれも説明に困るところです。
(2)結論
そこで、昭和26年3月に作成された大津市役所の合併の公式文書『合併{大石村,坂本村,下阪本村,下田上村,雄琴村}に関する書類綴』はおそらく『坂本村』『下阪本村』の協力を得て作成されているはずで、当該自治体の職員が自分の所属する自治体の正式名称を間違えることは考えにくいので、官報の表記に誤りがあったのでしょう、と結論付けておきます。
(おまけ)
#昭和26年の大津市の合併の経緯
#昭和25年12月の大津市議会で「大大津市建設に関する意見書」が可決。
#その中身は、昭和4年都市計画区域の町村(瀬田町・坂本村・下阪本村の区域)に加えて四ヶ村(上田上村・下田上村・大石村・雄琴村)とも合併するという考え。
#財政豊かな瀬田町(大津市が最も熱望した合併相手)、瀬田町と関係の深い上田上村とは合併できず五ヶ村(大石村・坂本村・下阪本村・下田上村・雄琴村)とのみ合併することとなる。
#昭和26年3月31日合併調印式
#昭和26年4月1日新大津市発足
訂正
【1】論理の流れを明確にして読みやすくしました。
【2】4.(1)仮説に理由(III)を追記。