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事例集1:下阪本 高畠

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記事数=21件/登録日:2020年5月3日

自治体の呼び名に関して、固有文字・種別文字の違いなどが問題になる。
種別文字の中で、町と村との違いについては、既に別の特集がある。

この特集は 固有文字の違いに関する事例集の代表的なものとして、 2006年の「下坂本と下阪本」と 2020年の「高畑と高畠」とを示した。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[53877]2006年9月9日
むっくん
[53887]2006年9月10日
88
[53888]2006年9月10日
むっくん
[53915]2006年9月11日
88
[53970]2006年9月14日
むっくん
[53977]2006年9月15日
北の住人
[54042]2006年9月18日
むっくん
[54060]2006年9月19日
88
[54089]2006年9月21日
むっくん
[54378]2006年10月8日
むっくん
[54387]2006年10月9日
88
[99336]2020年4月4日
むっくん
[99337]2020年4月4日
MI
[99339]2020年4月5日
グリグリ
[99341]2020年4月5日
MI
[99349]2020年4月6日
グリグリ
[99353]2020年4月6日
ekinenpyou
[99371]2020年4月16日
グリグリ
[99387]2020年4月26日
グリグリ
[99389]2020年4月26日
MI
[99392]2020年4月27日
グリグリ

[53877] 2006年 9月 9日(土)13:18:23【2】むっくん さん
散漫なレス二題など
[53858]EMM さん
関西で言うところの「きざみ」
「きざみうどん」は大阪では一般的なメニューですが京都では珍しいと思います(単に私が知らないだけ?)。
もっとも京都のごく一部の店では「きつねうどん」と頼むと金沢同様に「きざみうどん」が出てくる店があるそうで、このような店において大阪のような揚げが甘い「きつねうどん」を頼みたいときには「甘ぎつね」と言うということを聞いたことがあるのですが・・・。
これは単なるネタに私が騙されただけかも(。>_<。)。

[53869]小松原ラガー さん
昨今の「地方は切捨て」とまで言われている(東京及びその周辺変への集中の)現状を鑑み、いっそのことジャンジャン政令指定都市を増やしていろんな機能、権限を地方に移していってはどうでしょうか。(中略)もっと要件を緩和して、地方のそれなりの都市がジャンジャンと自治というか、権限強化が出来るようにしたら、今よりも地方が活性化するのではないでしょうか。
1990年代から急速に進展している東京への一極化の歯止めをかけるのには小松原ラガーさんのおっしゃられるようなことをすれば一定の効果はあると思います(ただし現行の政令指定都市における県からの権限委譲だけでなく、国から県への権限委譲をも伴うと仮定しての話です)。ただ権限とともに移す必要のある財源を、いかに現状以上の格差拡大とならないように地方に財源委譲するのかということが大問題となると思います。
つまり財源格差拡大防止のためには少なくとも現行では都市部においてかけられている法人への税収を地方に移す必要があります。ただ(特に東京圏近郊の)都市部は既得権益化している財源を地方に持っていかれることになるので、都市部の猛反発を招くのは必死でかなり現実味に乏しいですね。(これを何とかするのが小泉政権の三位一体の改革とされていたのですが何も実現していないのが現状ですね。)

>88さん

市町村合併情報の更新ご苦労様です。
市町村合併情報 都道府県順一覧市町村合併情報 日付順一覧で1951.04.01に大津市に編入されたのは下阪本村なのでは。
参照:大津市例規集
○滋賀県告示第124号
地方自治法(昭和22年法律第67号)第7条第1項の規定により、昭和26年4月1日から栗太郡大石村、滋賀郡坂本村、同郡雄琴村、同郡下阪本村及び栗太郡下田上村の各村を廃し、その区域を大津市に編入する。
昭和26年3月26日
[53887] 2006年 9月 10日(日)11:20:1888 さん
下坂本村 or 下阪本村
[53877] むっくん さん
ご指摘ありがとうございました。「坂」「阪」が使用されている各種文献をいろいろ調べてみたところ、2通りとも見つかりました。

○滋賀郡下坂本村
官報情報検索サービス(テキスト版、イメージ版とも)
・「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(2)」(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)
・「全訂 全国市町村名変遷総覧」(1991年8月、自治省行政局振興課監修、日本加除出版)・・・・※
○滋賀郡下阪本村
・「消えた市町村名辞典」(2000年9月、地名情報資料室編、楠原佑介責任編集、東京堂出版)
大津市例規集

私は主として上記「※」を参考に入力しているため(随時他の文献でも確認)、何の疑問も持たずに「下坂本村」で入力しました。
想像ですが、大津市のサイトが変換ミス、「消えた市町村名辞典」もミス、と思います。なんと言っても、官報が根拠として大きいと思います。官報のイメージ版では、実際の印刷物をJPEGファイルにしているだけのものであり、これでははっきりと「下坂本村」と判別できました。
むっくんさん、どう思われますでしょうか? 大津市役所に確認する方法もありますが・・・。
ちなみに、上記「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(2)」によると、藩政村の滋賀郡下坂本村と比叡辻村が、M22.4.1に合併して新しく滋賀郡下坂本村として(市制町村制の)村制施行し、その後、S26の大津市との合併を迎えた、との表記になっています。
古代・中世では、「坂」「阪」に限らず、全国どこでも漢字表記の「揺れ」とでも言うようなものは多かったと思うのですが、明治以降はその揺れも、少なくとも「(公文書等の)正式には」ないと思いますが。


[53392] hmt さん
名古屋市天白区の件
修正しました。遅くなりましたがご指摘ありがとうございました。
また、他の方からのご指摘等に対しても、個別のご返事を差し上げていませんが、この場をお借りしてお礼申し上げます。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。


#近々、投稿を準備中です。過去の資料を整理する過程で疑問に思ったこと、よくわからないこと、自分なりに定義づけ・整理はしたものの皆さんの意見を聞いておきたいもの、などについてです。何回かに分けて、皆さんの御知恵をお借りしたいと思います。よろしくお願いいたします。
(「分立・分割」「都道府県告示の位置づけ」「区」など・・・・・)
[53888] 2006年 9月 10日(日)15:59:29【10】むっくん さん
Re:下坂本村 or 下阪本村
[53887]88 さん

「下坂本村」or「下阪本村」のいずれが正しいかですが、私は官報の記載にある「下坂本村」が誤りであり大津市例規集市制施行の記載にある「下阪本村」が正しいと思います。
以下に「坂本」の歴史を記します。

坂本の歴史

(中世)
坂本は「上坂本」(延暦寺・日吉大社の門前の町)と「下坂本」(延暦寺・日吉大社に各地から集められてくる年貢物等の荷揚げ港の町)という二つの門前町から成り立っていた。
(戦国時代~江戸時代初期)
織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちで「上坂本」・「下坂本」は共に没落した。その後すぐに延暦寺が復興して延暦寺・日吉大社に参詣する人が増加するも、商業港の機能が大津に移ったことが追い討ちをかけ、「上坂本」・「下坂本」が門前町として中世のような繁栄を取り戻すことはなかった。
(明治期)
藩政村の合併が行われるが「上坂本」と「下坂本」の双方の村で合併話がもつれたことでしこりが出来たことより、(明治21年施行の市制町村制による)村制施行では「上坂本」は「坂本村」とし、「下坂本」では従来の「下坂本」を用いずに村名を「下阪本村」とした。
(昭和期)
1951年(昭和26年)「坂本村」「下阪本村」は大津市に編入合併された。

私が知っている「坂本」の歴史は上記の通りです。現在の大津市の隣接する坂本学区と下阪本学区という2つの学区で未だに“さか”の字が異なるのは明治期の合併話のもつれによる感情的わだかまりのせいだということらしいです。
#ここでは比叡山延暦寺を挟んで西側の大原を西坂本、東側の上坂本・下坂本を東坂本というという話はあえて省きました。
#詳しい坂本の歴史を知りたい方は大津市坂本Otsucity-SakamotoというHPの坂本の歴史と景観をご覧ください。


上記の話の補強証拠と思われることを以下に記します。

(1)
大津市例規集の行政区域の変更で当地の住所の変遷をみますと
市の区域内の町の設置ならびに町の区域及び名称変更
昭和26年8月1日
滋賀県告示第326号
地方自治法(昭和22年法律第67号)第260条第1項の規定により大津市の区域内において、次の通り町の設置ならびに町の区域及び名称変更を行い、昭和26年7月15日から施行した旨届出があつた。
摘要
坂本本(さかもとほん)町大字坂本旧坂本村
同 穴太(あのう)町同 穴太(同)
下阪本(しもさかもと)町大字下阪本旧下阪本村
下阪本比叡辻(しもさかもとひえいつじ)町同 比叡辻(同)
と書かれていることより合併前の村の名称は「下阪本村」だったのではないでしょうか。それに大字も下阪本ですし。

下阪本がらみで大字や町名変更がなされたところには同一ページ行政区域の変更の昭和37年1月17日滋賀県告示第16号、昭和40年10月20日滋賀県告示第377号、昭和41年4月25日滋賀県告示第160号、昭和42年12月11日滋賀県告示第501号、昭和54年7月10日滋賀県告示第336号、昭和55年8月1日滋賀県告示第382号、昭和63年1月13日滋賀県告示第12号も参照願います。
現在の町名の下阪本一丁目~六丁目は昭和54年7月10日滋賀県告示第336号によるものです。

(2)
大津市下阪本学区にある下阪本小学校の沿革を引用しますと
下阪本尋常小学校と改称
下阪本国民学校と改称
6・3制実施により下阪本小学校と改称
大津市と合併し、大津市立下阪本小学校となる
とのことで、大津市と合併する昭和26年以前に当時の“しもさかもと”村に一校のみあった尋常小学校(国民学校・小学校)に村名や大字(下阪本)と異なる名称を小学校につけるのは不自然だと思われます。そこで「下阪本村」に下阪本尋常小学校・下阪本国民学校・下阪本小学校があるのが自然であると考えられます。(もしも下坂本小学校から下阪本小学校へと漢字が変わったのならそれこそ沿革にのっているでしょう。)

(3)
大津市下阪本学区を校区に含む日吉中学校の沿革を引用しますと
下阪本小学校に下阪本中学校(中略)が併設
坂本・下阪本・雄琴村組合立日吉中学校に改称
と「下阪本」の表記が見られます。

(4)
私が小学校3年の社会の授業で大津市についていろいろ学んだときに、大津市編纂のテキストには昭和26年に「下阪本村」が大津市と合併したと書いてあったと記憶しています。(京阪電鉄の坂本駅の「坂本」とは違う漢字が村名に用いられている事で強い違和感があったので覚えています。)

(5)
他にも、大津市歴史博物館HPの大津市・坂本・下阪本・雄琴・大石・下田上・合併調印式や大津市HPの市域百年の変遷などにおいて「下阪本村」の記述が見られます。

以上、大津市関連ではすべて「下阪本」と統一していて「下坂本」ではないようです。

#以下独り言
#どうやったら表形式での引用が出来るのでしょうか。(1)の表は引用なのに・・・。

#誤字・語尾を修正。
[53915] 2006年 9月 11日(月)22:14:4688 さん
再び 下坂本村 or 下阪本村
レスしたい件は山ほど(少なくとも5件ほど)あるのですが、まずは、レスすべき(レスする責任がある)ものを優先します。

[53888] むっくん さん
私は単に文献から拾っただけなのに対して、詳細な各種調査までしていただいて、ありがとうございます。

[53905] 紅葉橋律乃介 さん
私も
「市町村名変遷辞典 三訂版」(1999年9月、地名情報資料室編、東京堂出版)
は持っているのですが、おっしゃるように「『消えた市町村名辞典』と同じ」と思い、見ていませんでした。改めて見てみると、やはり「下阪本村」であるのを確認しました。しかも、「滋賀郡下坂本村・比叡辻村が合併し村制施行」と、「坂」「阪」をはっきり使い分けています。
昭和26年のことですから、官報より滋賀県の公報があれば、そちらの方が正確な資料ではないでしょうか(わたしは、昭和30年くらいまでは官報を1次資料とは考えていません)。
確かに、戦後初期の官報は、明らかな誤字も多いですね(拙稿[52075][52153]も参照)。これらの資料をどこまで信用するか、悩ましいところです。ただし、都道府県告示は、地方自治法上に必要とされているものではないので(効力発生はあくまで総務(自治)大臣告示(地方自治法第7条第8項)、詳細は別稿予定)、官報より都道府県公報(告示)が正確、というのは私はよくわかりません。時代背景から見ると、混乱しているのは各都道府県も中央省庁も同様なのではないでしょうか?

さて、今回の件ですが、私は今現在では、むっくんさんのご指摘のとおり「下阪本村」が正答かな、と思っています(私としては前言撤回ですが、「阪」の方が客観的に正しいと思われるので)。ただ、官報を「誤り」とすることなので、[53888]むっくんさんの
藩政村の合併が行われるが「上坂本」と「下坂本」の双方の村で合併話がもつれたことでしこりが出来たことより、(明治21年施行の市制町村制による)村制施行では「上坂本」は「坂本村」とし、「下坂本」では従来の「下坂本」を用いずに村名を「下阪本村」とした。
を示す資料が具体的にあればありがたいのですが・・・。というのは、この種の情報は、「ガセネタがいつのまにやら一人歩き」というのが一般的によくある話なので(むっくんさんを信用していないわけではありません。念のため)。少なくとも、大津市への編入後は「下阪本」で一貫しているのは、むっくんさんがご紹介していただいた各種サイトで間違いないですね。むっくんさん、御手数でなければよろしくお願いいたします。
ちなみに、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版(2)」(2000年9月、西川治監修、太田孝編著、東洋書林)によれば、
新村名旧村名備考
M7坂本村上坂本村,高畑村
M22坂本村坂本村,穴太村市制町村制施行
M22下坂本村下坂本村,比叡辻村市制町村制施行
とあります(M22の新「下坂本村」の表記は原文のまま)。つまり、藩政村の上坂本村は、M7年に市制町村制に先行して合併して「坂本村」になっています。上記の「上坂本村」「下坂本村」の合併話は、M7の頃なのか、M22の頃なのか、も気になります。「上坂本村」は、M7に消滅しているようですので。


#今後のレス予告
[53882] 北の住人 さん
石狩市域は4郡か
[53892] 右左府 さん
大潟村の発足(長文御免)
すみません。しばし、お待ちを・・・。
[53970] 2006年 9月 14日(木)23:04:39【4】むっくん さん
Re:下坂本村 or 下阪本村(その2)
こんばんは。むっくんです。
#先にあらかじめお断りをしておきますが、本稿は[53946]を削除して改めて書き直したものです。

[53915] 88 さん

二日前、所要のついでに図書館で大津市の坂本学区&下阪本学区関連の文献調査をしてきました。

まず始めに、[53888]拙稿の
藩政村の合併が行われるが「上坂本」と「下坂本」の双方の村で合併話がもつれたことでしこりが出来たことより、(明治21年施行の市制町村制による)村制施行では「上坂本」は「坂本村」とし、「下坂本」では従来の「下坂本」を用いずに村名を「下阪本村」とした。
との話は、大津市歴史博物館である人の「なぜ大津市の坂本学区と下阪本学区では“さか”の漢字が異なるのか?」という質問に対して学芸員さんが答えられたのを傍らで聞き耳を立てて聞いていてしりえたものなのだったと記憶しています(ひょっとしたら大津市歴史博物館においての友人の私への説明だったかもしれません。あまり自信はないです。)。

で、この時期なのですが明治21年の話として、「滋賀県市町村沿革史」の第六巻『各郡村史並各村重立チタル者諮問ニ対スル答申』の項(pp67-68)での、阪本村・下阪本村の戸長がそれぞれ滋賀郡長に宛てて書いた文書や、同第二巻p21に坂本村と下阪本村では互いに気が合わず人情を異にするから県の主導下での四村合併は拒否したとの記述があることからこの時期の話だと思われます。また、「新修大津市史 近代」のp219にも同様の記述があります。

さて、本題の『下坂本村』or『下阪本村』ですが、

大津市制80年記念事業で編さんされた「新修大津市史(全十巻)(発行:大津市役所)」では

新村名旧村名備考
M5.4.7上坂本村,高畑村,穴太村,下坂本村,比叡辻村滋賀県第11区(注1)
M7.5.2坂本村上坂本村,高畑村
M18.7.1(坂本村)(坂本村,穴太村,千野村)連合戸長役場制施行
M18.7.1(下阪本村)(下阪本村,比叡辻村,苗鹿村,雄琴村)連合戸長役場制施行
M22.4.1坂本村坂本村,穴太村市制町村制施行
M22.4.1下阪本村下阪本村(下坂本村),比叡辻村市制町村制施行
M22.4.1雄琴村雄琴村,千野村,苗鹿村市制町村制施行
S26.4.1大津市大津市,下阪本村,坂本村,雄琴村,大石村,下田上村合併
(注1)苗鹿村,雄琴村は滋賀県第11区、千野村は滋賀県第12区に所属

「滋賀県市町村沿革史(全六巻)(編集・発行:滋賀県市町村沿革史編さん委員会)」では

備考
M5上坂本村,高畑村,穴太村,下阪本村,比叡辻村滋賀県第11区に所属(注2)
M7坂本村(阪本村)上坂本村,高畑村合併改称
M12各町村は再び独立した行政単位各町村は区制下区制廃止
M18(坂本村)(坂本村,穴太村,千野村)連合戸長役場制施行
M18(下阪本村)(下阪本村,比叡辻村,苗鹿村,雄琴村)連合戸長役場制施行
M22坂本村坂本村(阪本村),穴太村市制町村制施行
M22下阪本村下阪本村,比叡辻村市制町村制施行
M22雄琴村雄琴村,千野村,苗鹿村市制町村制施行
S26大津市大津市,下阪本村,坂本村,雄琴村,大石村,下田上村合併
(注2)苗鹿村,雄琴村は滋賀県第11区、千野村は滋賀県第12区に所属

明治(25~44年)発行の2万分1地形図「大津」では
「坂本村」&「下阪本村」

と書かれていました。
これらより、[53877]拙稿での大津市例規集
○滋賀県告示第124号
地方自治法(昭和22年法律第67号)第7条第1項の規定により、昭和26年4月1日から栗太郡大石村、滋賀郡坂本村、同郡雄琴村、同郡下阪本村及び栗太郡下田上村の各村を廃し、その区域を大津市に編入する。
昭和26年3月26日
が正しくて、官報の記載は誤りだと思われます。

#明治22年の市制町村制施行前の区制制度時には確たる「坂」or「阪」の表記はおそらく決まっていなかったのではないでしょうか。区制制度以前には「坂」の表記が用いられたことははっきりとしているようですが。
#苗鹿村は坂本地区と雄琴地区の両地区の合併話に参加していて、結局雄琴地区の合併に加わり雄琴村となりました。
#ちなみに本当は比叡辻村の“つじ”の字はしんにょうに点が2つある方の“つじ”が正しいようです。
#ちなみに坂田郡においても「坂」or「阪」の表記が揺れ動いているみたいですね。「滋賀県市町村沿革史」を受けて作られた「滋賀県年表(編集:滋賀県市町村沿革史編さん委員会、発行:滋賀県)」によれば、T12.11.15の合併までは阪田郡でS.17.4.1の合併以降は坂田郡と表記されていたりします。

#誤字・脱字を修正
[53977] 2006年 9月 15日(金)22:46:51北の住人 さん
昔の事は良くわかりません
[53936] 88 さん
石狩市を構成する郡について、実はまだ問題があり、当初の郡域が良くわからないのです。[53882]は、明治29年地形図での郡域を元にしており、それが当初の郡域と一致するのかは不明のままなんです。

[53970] むっくん さん
私は外野として一連の記事を読んでいますが、「新修大津市史」「滋賀県市町村沿革史」は下阪本村と坂本村が大津市に合併したあとに書かれたものではないでしょうか?明治発行の地形図のほかに、両村が存在した時代の資料で確認したい所です。正誤の判断はそれを待っても遅くは無いのでは?(地形図にも、これ合ってるの?と感じるのがあるんですよね。特に古いのは)
[54042] 2006年 9月 18日(月)14:43:01【2】むっくん さん
官報の記載に漢字表記の揺らぎはないのでしょうか
[53977] 北の住人 さん
「新修大津市史」「滋賀県市町村沿革史」は下阪本村と坂本村が大津市に合併したあとに書かれたものではないでしょうか?
その通りです。
「新修大津市史」は1978年~1987年に毎年一巻のペースで全十巻が発売されました。
「滋賀県市町村沿革史」は1963年に作成されたものだったと思います。
#ちなみに下阪本村と坂本村が大津市に編入合併されたのは1951年(昭和26年)です。

明治発行の地形図のほかに、両村が存在した時代の資料で確認したい所です。正誤の判断はそれを待っても遅くは無いのでは?(地形図にも、これ合ってるの?と感じるのがあるんですよね。特に古いのは)
確かに『下坂本村』or『下阪本村』で急いで結論を出そうとしていました。北の住人 さんの御指摘はまさしく正鵠を射たものだと思います。

私がこの件を通じて持った疑問なのですが、明治22年当時の官報の文字の正確性がどれほどあるのでしょうか?>皆様

明治22年当時の官報の記載『下坂本村』がそもそも誤記(もしくは『下坂本村』or『下阪本村』という表記の揺れに無頓着に記されたもの)で、以前の官報との矛盾をなくすためだけに昭和26年の合併における官報の記載『下坂本村』があるのではないのか、と私は個人的には固く信じているのですが。。。
[54060] 2006年 9月 19日(火)21:46:4288 さん
石狩市、「下坂本村 or 下阪本村」
・ 石狩市を構成する郡について
[53977] 北の住人 さん
石狩市を構成する郡について、実はまだ問題があり、当初の郡域が良くわからないのです。[53882]は、明治29年地形図での郡域を元にしており、それが当初の郡域と一致するのかは不明のままなんです。
私もどうしても断片的にしか確認できていません。興味深い観点からのご指摘ありがとうございます。また何かいい資料が見つかりましたら続報をお待ちしております。
――――――――――――――――――――――――――――――
・ 下坂本村 or 下阪本村 について
[53977] 北の住人 さん
私は外野として一連の記事を読んでいますが、「新修大津市史」「滋賀県市町村沿革史」は下阪本村と坂本村が大津市に合併したあとに書かれたものではないでしょうか?明治発行の地形図のほかに、両村が存在した時代の資料で確認したい所です。正誤の判断はそれを待っても遅くは無いのでは?(地形図にも、これ合ってるの?と感じるのがあるんですよね。特に古いのは)
[54042] むっくん さん
確かに『下坂本村』or『下阪本村』で急いで結論を出そうとしていました。北の住人 さんの御指摘はまさしく正鵠を射たものだと思います。
いやいや、急がせたのは私だと思います。私がつい、[53887] [53915]でむっくんさんに結論を急がせるような口調をしたと思います。申し訳ありません。時間がかかってもいいですし、また、ご多忙な中、何かの折で結構ですので、いい情報があればお教えください。私も新しい観点から新しい情報が出れば、合併情報の整理にも励みになります。
[54042] むっくん さん
私がこの件を通じて持った疑問なのですが、明治22年当時の官報の文字の正確性がどれほどあるのでしょうか?>皆様
明治22年当時の官報の記載『下坂本村』がそもそも誤記(もしくは『下坂本村』or『下阪本村』という表記の揺れに無頓着に記されたもの)で、矛盾をなくすためだけに昭和26年の合併における官報の記載『下坂本村』があるのではないのか、と私は個人的には固く信じているのですが。。。
明治22年の官報を確認されたのですか? 私が確認したのは、昭和26年の大津市への編入の官報なので、「下阪本村(下坂本村)」発足時のものではありません。
もっとも、昭和26年頃の官報は、(表記の揺れではなく)誤字脱字がある、と感じています。
「官報」に掲載されるような、自治体名や、現在の都道府県告示に掲載されるような町・字名は、時代により(終戦直後概ね10年間くらいなど)誤字脱字があることはあっても、表記の揺れはないと思っています。特に、概ね昭和30年代以降は誤字脱字もないと思います。また、都道府県告示に掲載されるような、地方自治法第260条第1項で言うところの町・字も表記の揺れはないと思います。
表記の揺れがあるのは、いわゆる「通称地名」(正式名称から派生したものを含む)や、明治期の市制町村制以前の自治体名だと思うのですが。
もっとも、誤字脱字ですが、本家本元である「合併の告示における『新自治体名』や『旧自治体名』」は誤字脱字がないと思いますが、他の告示(国勢調査結果の告示や、合併に直接関係しない他の省令など)は、誤字脱字はありうると思います。総務省の合併担当の職員以外は、自治体名の表記については無頓着で、誤字脱字を十分チェックしているとは思えず、また、その元になる資料を提出することもある自治体の職員も、「そういう担当」でなければそれほど意識していないのが実態だと思います。
[54089] 2006年 9月 21日(木)00:24:27むっくん さん
官報など
[54060]88さん
明治22年の官報を確認されたのですか? 私が確認したのは、昭和26年の大津市への編入の官報なので、「下阪本村(下坂本村)」発足時のものではありません。
これは失礼しました。てっきり、88さんが明治22年の「下阪本村(下坂本村)」発足時の官報と昭和26年の大津市への編入の官報の両方を確認されたものと思っていました(汗)。

[54064]北の住人さん
[54079]にまんさん
官報は雑誌や新聞と同じ出版物と考えられますから、原稿誤りと校正誤りが付き物です。
官報の訂正記事って珍しくないですよ。今日も出てましたし、2日から3日に1回は出ているかと思います。多いときは一度に一段くらい使ったのも出てますから。
官報も通常の出版物同様に誤りがあると考えていいのですね。ご説明ありがとうございました。
私はそもそも官報自体を見たことがないもので・・・。

[54061]デスクトップ鉄さん

大阪府に東大阪市(1966年だから布施市、河内市、枚岡市とした方がいいのかな?)の追加をお願いします。
[54378] 2006年 10月 8日(日)18:59:17【2】むっくん さん
Re:下坂本村 or 下阪本村(その3)
こんばんは。むっくんです。前回[53970]以降、数度にわたり図書館にて大津市の坂本学区&下阪本学区関連の文献調査を行いました。

#明治22年(1889)~昭和26年(1951)まで存在した『坂本村』『下阪本村』の“さか”の字についての議論です。
#議論の詳細は[53877]むっくん、[53887]88さん、[53888]むっくん、[53915]88さん、[53970][54042]むっくん、[54060][54128]88さんを参照願います
#ここでは『坂本村』『下阪本村』に加えて『坂田郡』の“さか”の字の調査結果も記しておきます。

以下に時系列で昭和30年までに出版された書物等の調査結果を記します。

1.明治18年7月1日連合戸長役場制以前の名称

(1)国の場合
『明治前期全国村名小字調査書第三巻(内務省地理局編纂善本叢書32)(著:内務省地理局編纂物刊、出版:ゆまに書房、昭和61年)』によると、
『坂本村』『下坂本村』『坂田郡』
です。
この本は、(a)内務省地誌課が明治7年4月に各府県に村名の調査を命じ、これを受けて明治7年5月27日には提出された『各府県村名調査報告』と、(b)内務省地理局が明治14年11月26日に各府県へ宛てて町村の字小名を照会した『各町村字小名取調書』『各町村字名称調』等のうち現存しているものを影印複製されたものですのです。
滋賀県の滋賀郡の記載は、明治7年5月2日以降~同年10月7日より前に書かれたものと読み取れることより(∵粟津村が存在し上栄町が存在しない)、(a)の『各府県村名調査報告』によるものであると考えられます。

(2)滋賀県庁の場合
『近江国滋賀郡史(編:滋賀県庁、出版:昭和53年(明治16年発刊の復刻版))』によると、
『坂本村』『下坂本村』『坂田郡』
となっています。
滋賀県の滋賀郡の記載には、明治7年5月2日~明治14年3月7日までしか存在しなかった粟津村の記載があることより、この間のものと思われます。

2.明治18年7月1日連合戸長役場制施工後、明治22年4月1日新町村制施行前の名称

○国の場合
『地方行政区画便覧(上)(中)(下)(明治地理叢刊2)(編:内務省地理局、出版:雄松堂、昭和42年(明治20年(忠愛社)刊の複刻版))』によると、明治19年1月当時は
『坂本村』、『下坂本村』、『坂田郡』
です。

3.明治22年4月1日新町村制施行後、昭和26年4月1日の編入合併前の名称

(1)国(明治時代)の場合
官報第一七四七號(明治二十二年四月三十日)では
○町村制施行
滋賀懸ニ於テハ去ル一日ヨリ町村制ヲ施行セリ今其町村等ノ數ヲ擧クレハ六箇町百八十九箇村合計百九十五箇町村ニシテ役場ノ數ハ百九十五箇所ナリ之ヲ從來ノ町村ニ比スレハ二百七十六箇町千二百四箇村ヲ滅シ又役場ハ四箇所ヲ滅少セリ
としか記載されておらず、ここからは『坂』or『阪』なのかが分かりません。

(2)第二次世界大戦前に書かれた書物の場合
  (ア)『阪本村』、『下阪本村』、『阪田郡』
  (イ)『坂本村』『阪本村』の両方の記載、『下阪本村』、『坂田郡』『阪田郡』の両方の記載
  (ウ)『坂本村』、『下阪本村』、『阪田郡』
  (エ)『坂本村』、『下阪本村』、『坂田郡』
の4通りの表記方法に分かれました。(ア)~(エ)はそれぞれ
(ア)…民間で発行された書物・パンフレット
(イ)…明治期の滋賀県発行の書物(e.g.『滋賀県沿革誌(著:滋賀県、明治44年発刊)』)
(ウ)(エ)…昭和期の滋賀県発行の書物(e.g.(ウ)…『滋賀県史第四巻最新世(著:滋賀県、昭和3年発刊)』、(エ)…『選挙粛正運動要録第二巻(著:滋賀県、昭和13年3月発行)』)
です。

(3)第二次世界大戦後に書かれた書物での表記方法を次に見ます。

(3-1)大津市役所の場合
昭和26年3月に作成された大津市役所の合併の公式文書『合併{大石村,坂本村,下阪本村,下田上村,雄琴村}に関する書類綴』の写真が、『(ふるさとの想い出)写真集 明治大正昭和 大津(編:徳永真一郎、出版:国書刊行会、昭和55年)』のp119に写っていました。
この写真より大津市役所の表記方法は『坂本村』『下阪本村』であることが分かります。

(3-2)滋賀県庁の場合
滋賀懸公報号外昭和二十六年三月二十六日p4の記載によりますと、
○滋賀懸告示第百二十四號
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第七條第一項の規定により、昭和二十六年四月一日から栗太郡大石村、滋賀郡坂本村、同郡雄琴村、同郡下阪本村及び栗太郡下田上村の各村を廃し、その區域を大津市に編入する。
昭和二十六年三月二十六日
滋賀県知事 服部岩吉
とあり、滋賀県庁の表記方法は『坂本村』『下阪本村』であることが分かります。
これは[53877]拙稿での大津市例規集の滋賀県告示第124号の記載と当然ながら一致しました。

(3-3)国の場合
官報第7289号(昭和26年4月28日)によりますと
○総理府告示第九十一号
市村の廃置分合
地方自治法第七條第一項の規定により、昭和二十六年四月一日から、滋賀県栗太郡大石村、同郡下田上村、滋賀郡坂本村、同郡雄琴村及び同郡下坂本村を廃し、その区域を大津市に編入する旨、滋賀県知事より届出があった。
昭和二十六年四月二十八日
内閣総理大臣 吉田茂
とあり、国の表記方法は『坂本村』『下坂本村』であることが分かります。
(大津市公式文書・滋賀県公報告示『下阪本村』と国の官報告示『下坂本村』で表記に食い違いがあることが分かります。)

(3-4)おまけ
合併の翌年に作成された『市史編纂年表 昭和22~昭和27年(著・出版:大津市役所、昭和27年)』でも、
昭和26年4月1日に大石村,坂本村,下阪本村,下田上村,雄琴村と合併
と書かれています。

4.仮説・結論

(1)仮説

まず昭和26年の大津市と五ヶ村(大石村・坂本村・下阪本村・下田上村・雄琴村)合併の決定は大津市・大石村・坂本村・下阪本村・下田上村・雄琴村→滋賀県、滋賀県→国と伝わったと考えられます。
まず、滋賀県は滋賀県公報と同じ『坂本村』『下阪本村』と国に伝えたものと考えられます。
滋賀県は直接『坂本村』『下阪本村』から報告を受けたものと考えられますから、滋賀県が自治体の名称を誤るとは考えにくいと考えられます。『坂本村』『下阪本村』と大津市が合併する計画を最初に(昭和初期に)立てたのは滋賀県なのですから、なおさら自治体の名称を誤ることはないでしょう。

となれば、国が『坂本村』『下阪本村』ではなく『坂本村』『下坂本村』と誤って官報に記載したものと考えられます。その理由としては(I)官報への転写ミス、(II)滋賀県からの報告がミスしているものと判断、の2通りが考えられます。
(I)の場合ですが、発行された官報第7289号総理府告示第九十一号を見て大津市役所なり滋賀県庁が官報の誤りを指摘しているでしょうから、もし(I)の理由であるならば官報に訂正記事が出ていることでしょう。[54079]にまんさんによると、
官報の訂正記事って珍しくないですよ。今日も出てましたし、2日から3日に1回は出ているかと思います。多いときは一度に一段くらい使ったのも出てますから。
とのことですから。ただ、昭和26年当時には訂正記事を出すこと自体が珍しかった可能性はありますが。
次に(II)の場合ですが、一番考えられるのは明治22年当時に『坂本村』『下阪本村』という村名を国が受理せずに『坂本村』『下坂本村』としたケースです。そもそも明治時代における地方自治とは現行憲法の【政治上の自治(憲法92条による住民自治・団体自治)】ではなく、【人民に行政の公務に参与する名誉を与えるもの】に過ぎませんでした。それが、[53888]拙稿の
「上坂本」と「下坂本」の双方の村で合併話がもつれたことでしこりが出来たことより、(明治21年施行の市制町村制による)村制施行では「上坂本」は「坂本村」とし、「下坂本」では従来の「下坂本」を用いずに村名を「下阪本村」とした
という隣村間の感情のわだかまりだけのために自治体名を変えるということは人民に【政治上の自治】に与えたともみなされかねないので正式には『坂本村』『下坂本村』という形で受理したケースです。ただ、この考えでは国の手足に過ぎない県が発行した書物『滋賀県史第四巻最新世(著:滋賀県、昭和3年発刊)』や『選挙粛正運動要録第二巻(著:滋賀県、昭和13年3月発行)』が『坂本村』『下阪本村』という村名を採用している理由が説明できないので無理があります。

うーん、上手く説明できそうにありません。もしかして、上記の(I)(II)のどちらでもなく(III)官報の告示に訂正の記載がなされているが発見できていないだけ、というのが本当なのかもしれません。ただ[54128]88さんによると、過去の告示に訂正があるかないかを探すのは
確かに紙ベースでは困難です。ただし、官報情報検索サービスであれば、検索機能が十分に機能していると思えますので、完全でないとはいえ、ほぼ可能です。
とのことなので、発見できていない可能性もかなり低そうです。
以上(I)(II)(III)の理由付けではいずれも説明に困るところです。

(2)結論
そこで、昭和26年3月に作成された大津市役所の合併の公式文書『合併{大石村,坂本村,下阪本村,下田上村,雄琴村}に関する書類綴』はおそらく『坂本村』『下阪本村』の協力を得て作成されているはずで、当該自治体の職員が自分の所属する自治体の正式名称を間違えることは考えにくいので、官報の表記に誤りがあったのでしょう、と結論付けておきます。

(おまけ)
#昭和26年の大津市の合併の経緯

#昭和25年12月の大津市議会で「大大津市建設に関する意見書」が可決。
#その中身は、昭和4年都市計画区域の町村(瀬田町・坂本村・下阪本村の区域)に加えて四ヶ村(上田上村・下田上村・大石村・雄琴村)とも合併するという考え。
#財政豊かな瀬田町(大津市が最も熱望した合併相手)、瀬田町と関係の深い上田上村とは合併できず五ヶ村(大石村・坂本村・下阪本村・下田上村・雄琴村)とのみ合併することとなる。
#昭和26年3月31日合併調印式
#昭和26年4月1日新大津市発足

訂正
【1】論理の流れを明確にして読みやすくしました。
【2】4.(1)仮説に理由(III)を追記。
[54387] 2006年 10月 9日(月)22:51:3888 さん
下坂本村 or 下阪本村 (最終回?)
[54378] むっくん さん
まず、最初に。むっくんさんの詳細なる調査に敬意を表します。ありがとうございます。私が証拠集めを依頼した(圧力をかけた?)のが発端のようでもありますので、気兼ねもしておりました。お手数をかけました。

さて、じっくりと[54378]を読ませていただきました。
むっくんさんの書き込みを拝見すると、結論から言うと、私もむっくんさんと同じく、M22.4.1の市制町村制時に誕生し、S26.4.1に大津市に編入されるまで存続したのは「下阪本村」であると思います。また、M22.3.31まで存在した藩政村は「下坂本村」であると思います。

むっくんさんご指摘のように、官報の総理府告示が一番のネックになるかと思います。確かに、S26.4.28付け総理府告示第91号の、大津市への編入の告示では「下坂本村」です。参考までに、この合併告示以外の、この頃の各省庁の各種告示では「下阪本村」「下坂本村」が混在しています(これらは、合併を示すものはないのでこれらを証拠としては採用しにくいのですが)。
また、むっくんの示唆された「官報の正誤表で『下坂本村』から『下阪本村』に変わっていないか」の件ですが、検索した範囲では発見できませんでした。この頃は正誤表(訂正)がないわけではないのですが、戦後の混乱期で、正誤表はあと回し(あまり重きをおかれていなかったのでは?)と思います。もっとも、今の時代であれば、間違いなく正誤表が出る内容だとは思いますが。[54128] でも述べた、「公定力」の問題はあるのですが、なんせ昭和26年のことでもあり、当時としては時代背景からしてやむを得ないものだと思います。当時の総理府の担当者の原稿誤りか、印刷段階での校正ミスか、いずれにせよ、滋賀県担当者の報告ミスとは考えにくいですね。
というわけで、遅ればせながら、滋賀県の合併情報を修正しました。ご確認いただければと思います。

合併等の履歴情報は、現在、1934年(昭和9年)あたりを追加入力中です。この頃になると、資料間の相違もさらに増えてくるかと思いますので、お気づきの点がありましたら、お知らせください。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。
[99336] 2020年 4月 4日(土)20:11:18【3】むっくん さん
市区町村変遷情報
>グリグリさん
市区町村変遷情報で、以下の箇所の修正・追加をお願いします。

山形県
#192 1889(M22).4.1 新設/村制 東置賜郡高畑村 東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 高安村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
#21 1895(M28).12.12 町制 東置賜郡高畑町 東置賜郡 高畑村
#32 1905(M38).1.__ 改称 東置賜郡高畠町 東置賜郡 高畑町
市政町村制施行時の廃置分合の県令第18号(M22.3.18)を見ると、市町村分合区域便覧(編:丸田習蔵、出版:米沢活版所、M22.4.)でも山形県市町村区域便覧(編著・出版:飯島喜六、M22.4.14)でも、山形県郡市町村便覧(編:須田庶成、出版:佩玉堂、M22.4.25)でも、現行山形県県令類編上巻(編・出版:山形県、M25.8.6)でも1889(M22).4.1で高畠村とあります。
そして山形県統計書(明治32年)でも山形県統計書(明治36年)でも山形県統計書(明治38年)でも山形県統計書(明治41年)でもM28.12.12に高畠村→高畠町となったとあります。
よって、1889(M22).4.1で高畠村、1895(M28).12.12に高畠村に町制施行で高畠町だと考えられます。

埼玉県
#18 1896(M29).12.10 町制 入間郡坂戸町 入間郡 坂戸村
坂戸市史近代史料編(編:坂戸市教育委員会、発行:坂戸市、H2.2.28)113頁記載の埼玉県告示第88号(入間郡坂戸村ヲ坂戸町ト為ス件)(M29.12.15)では
入間郡坂戸村ヲ坂戸町ト為ス
明治二十九年十二月十五日 知事
とあるので1896(M29).12.10→1896(M29).12.15です。

#27 1913(T2).4.1 編入 北足立郡原市町 北足立郡 原市町, 瓦葺村
官報第一九九号(大正二年四月一日)では
○町村廃置合併
北足立郡原市町、瓦葺村を廃し其区域を以て原市(はらいち)町を、北足立郡膝子村、東宮下村、大谷村、猿ヶ谷戸村、風渡野村、東門前村、新堤村を廃し其区域を以て七里(ななさと)村を、大里郡妻沼村、弥藤吾村を廃し其区域を以て妻沼(めぬま)町を置くの件内務大臣の許可を受け本月一日より施行す
大正二年四月 埼玉県
とあるので、正しくは編入→新設です。

官報第一六二一号(大正六年十二月二十五日)では
○村境界変更
北葛飾郡桜井村、吉田村の境界を左の通変更し大正七年一月一日より施行す
大正六年十二月 埼玉県
桜井村大字細野を吉田村に編入
とあるので
# 1918(T7).1.1 境界変更 北葛飾郡吉田村 北葛飾郡吉田村, 桜井村の一部(大字細野)
を追加することになります。

#41 1932(S7).4.1 新設 北足立郡浦和町 北足立郡 浦和町, 谷田村, 木崎村の一部
官報第一五七六号(昭和七年四月四日)では
○村廃止町区域変更
町村制第三条第一項に依り本月一日より北足立郡谷田村、木崎村を廃し谷田村の区域全部及木崎村の区域中大字上木崎、大字下木崎、大字領家、大字瀬ヶ崎、大字駒場、大字本太、大字針ヶ谷を同郡浦和町に、同村大字北袋を同郡大宮町に編入せり
昭和七年四月 埼玉県
とあるので、正しくは新設→編入です。

千葉県
#114 1937(S12).4.1 編入 君津郡大貫町 君津郡 大貫町, 吉野村
#115 1937(S12).4.1 編入 君津郡環村 君津郡 環村, 駒山村
官報第三〇七一号(昭和十二年三月三十一日)では
○町村廃置
来る四月一日より君津郡大貫町及吉野村を廃し其区域を以て大貫町を、同郡環村及駒山村を廃し其区域を以て環村を孰れも置く
昭和十二年三月 千葉県
とあるので、正しくは共に編入→新設です。

神奈川県
#151 1955(S30).4.5 分立 高座郡渋谷村 高座郡 渋谷町の一部
総理府告示第909号(S30.3.30)
市町村の廃置分合
地方自治法第七条第一項の規定により、神奈川県高座郡小出村、御所見村及び渋谷町を廃し、小出村大字遠藤、御所見村及び渋谷町の区域を藤沢市に編入する旨、神奈川県知事から届出があつた。
右の廃置分合は、昭和30年4月5日からその効力を生ずるものとする。
昭和30年3月30日
[32478]花笠カセ鳥さん)
総理府告示第1112号(S30.4.4)
町村の廃置分合
地方自治法第七条第一項の規定により、神奈川県高座郡渋谷町を廃し、渋谷町大字福田、上和田、下和田及び本蓼川の区域をもつて渋谷村を置く旨、神奈川県知事から届出かあつた。
右の廃置分合は、昭和30年4月5日からその効力を生ずるものとする。
昭和30年4月4日
とあるので、正しくは分立→分割/村制です。

長野県
長野県達第81号(S18.3.22)では
東筑摩郡中山村大字神田を松本市に編入し、中山村及び松本市の境界を変更する。ただし昭和18年4月1日より之を施行する。
昭和18年3月22日
とあるので、
# 1943(S18).4.1 境界変更 松本市 松本市, 東筑摩郡 中山村の一部(大字神田)
を追加することになる。
#大字神田は藩政村。中山村は埴原村、和泉村、神田村がM7.10.23に合併して成立。

滋賀県
官報第五七七六号(明治三十五年十月三日)では
○境界変更
犬上郡磯田村、北青柳村の境界を変更し本月一日より磯田村大字大藪を北青柳村に編入せり
明治三十五年十月 滋賀県
とあるので、
# 1902(M35).10.1 境界変更 犬上郡北青柳村 犬上郡北青柳村, 磯田村の一部(大字大藪)
を追加することになる。

兵庫県
官報第八六三四号(明治四十五年四月四日)では
○村廃置並市区域変更
本月一日より左記飾磨郡国衙村、市殿村の区域を姫路市に編入し及国衙村、市殿村を廃し其区域を以て城南(じゅようなむ)村を置く
明治四十五年四月 兵庫県
(略)
とあるので、
# 1912(M45).4.1 境界変更 姫路市 姫路市, 飾磨郡市殿村の一部(大字神屋村, 大字国府寺村)
を追加することになる。

#116 1941(S16).4.1 新設/町制 飾磨郡広畑町 飾磨郡 広村, 八幡村
官報第四二七〇号(昭和十六年四月四日)では
○町村改称
飾磨郡広村を広畑町と改称し本月一日より施行せり
昭和十六年四月 兵庫県
--------------------------------
○村廃止市村区域編入
本月一日より飾磨郡八幡村を廃し其区域を広村に編入せり
昭和十六年四月 兵庫県
とあるので、正しくは新設/町制→編入/町制/改称である。

鳥取県
#3 1894(M27).3.30 改称 八橋郡勝田村 八橋郡 豊定村
#9 1898(M31).7.22 新設 東伯郡成美村 東伯郡 勝田村, 保永村
とあるが、正しくはM31鳥取県告示第183号(豊定村保永村合併ノ件)より
#9 1898(M31).7.22 新設 東伯郡成美村 東伯郡 豊定村, 保永村
である。

#72 1935(S10).2.20 編入 八頭郡智頭町 八頭郡 智頭町, 山形村, 那岐村, 土師村
鳥取県告示第八十号
昭和十年二月二十日より八頭郡智頭町、山形村、那岐村、土師村を廃し其の区域を以て智頭町(ちづちょう)を置く
廃置の際に於ける其の町村の財産は左記により処分す
昭和十年二月十四日 鳥取縣知事 中谷秀
(略)
とあるので、正しくは編入→新設である。

岡山県
#157 1941(S16).2.11 編入 児島郡味野町 児島郡 味野町, 赤崎町
官報第四二二二号(昭和十六年二月四日)では
○町廃置
本月十一日より児島郡味野町及赤崎町を廃止し其区域を以て味野町を置く
昭和十六年二月 岡山県
とあるので、正しくは編入→新設である。

山口県
官報第五八二八号(明治三十五年十二月五日)では
○大字編入替
本月一日より玖珂郡北河内村大字明見谷を同郡高森村に編入せり
明治三十五年十二月 山口県
とあるので、
# 1902(M35).12.1 境界変更 玖珂郡高森村 玖珂郡高森村, 北河内村の一部(大字明見谷)
を追加することになる。

官報第八二八九号(明治四十四年二月十日)では
○町村境界変更
那珂郡河波村大字波野を本月一日より本郷村に編入せり
明治四十四年二月 山口県
とあるので、
# 1911(M44).2.1 境界変更 那珂郡本郷村 那珂郡本郷村, 河波村の一部(大字波野)
を追加することになる。

#51 1923(T12).4.1 編入 阿武郡萩町 阿武郡 萩町, 椿東村, 椿村, 山田村
官報第三一九三号(大正十二年三月二十六日)では
○町村廃置
阿武郡萩町、椿東村、椿村、山田村を廃し其区域を以て萩(はぎ)町を置き来る四月一日より施行す
大正十二年三月 山口県
とあるので、正しくは編入→新設である。

徳島県
# 1911(M44).10.1 境界変更 海部郡奥木頭村 海部郡奥木頭村, 上木頭村の一部
官報第八四八七号(明治四十四年十月三日)では
○村廃置並役場位置
海部郡上木頭村を廃し大字海川村、大字助村を以て更に上木頭村を置き、大字出原村、大字和無田村を奥木頭村に分属せしめ本月一日より施行せり
明治四十四年十月 徳島県
とあるので、正しくは
# 1911(M44).10.1 分割 海部郡上木頭村 海部郡上木頭村の一部
# 1911(M44).10.1 分割/編入 海部郡奥木頭村 海部郡奥木頭村, 上木頭村の一部
である。

高知県
#55 1941(S16).7.1 新設 吾川郡池川町 吾川郡 富岡村, 池川町
官報第四三五一号(昭和十六年七月十日)では
○村廃止町区域変更
吾川郡富岡村を廃し其区域を同郡池川町に編入し富岡村に属する財産は全部池川町に引継ぐものとし本月一日より施行せり
昭和十六年七月 高知県
とあるので、正しくは新設→編入である。

福岡県
官報第一一七七号(大正五年七月四日)では
○町境界変更等
本月一日遠賀郡黒崎町大字前田の全部を分割して同郡八幡町に編入せり
右境界変更の際黒崎町大字前田に現存する黒崎町有土地、建物及学校動産に限り八幡町に割譲するものとし右境界変更の際現存する黒崎町大字前田の所有する財産は八幡町大字前田の所有財産とす
大正五年七月 福岡県
とあるので、
# 1916(T5).7.1 境界変更 遠賀郡八幡町 遠賀郡 八幡町, 黒崎村の一部(大字前田)
を追加することになる。

長崎県
#10 1912(M45).4.1 分立 下県郡豆酘村 下県郡 与良村の一部
#11 1912(M45).4.1 境界変更/改称 下県郡久田村 下県郡 与良村, 厳原町の一部
長崎県告示第124号(M45.3.2)はリンク切れですが
官報第八六三八号(明治四十五年四月九日)では
○町村廃置分合
下県郡厳原町の内大字久田を分割し且つ同郡与良村を廃し久田村及豆酘村を置き其区域を左の通定めたり
明治四十五年四月 長崎県
町村名区域
厳原町(いづはらまち)桟原、宮谷、日吉、天道茂、中村、今屋敷、田淵、大手橋、国分、久田道、厳原、南室、小浦、曲
久田村(くたむら)久田、尾浦、安神、久和、与良内院、豆酸内院、豆酸瀬
豆酸村(つつむら)豆酸
とあるので、正しくは分立→分割、境界変更/改称→分割/新設である。

#29 1927(S2).4.1 編入 東彼杵郡早岐町 東彼杵郡 早岐町, 広田村
長崎県告示第141号(S2.4.1)より、正しくは編入→新設である。

熊本県
#46 1933(S8).4.1 編入 球磨郡人吉町 球磨郡 人吉町, 大村
官報第一八七四号(昭和八年四月一日)では
○町村廃置
球磨郡人吉町及同郡大村を廃し其区域を以て人吉町を設置し本月一日より施行す
昭和八年四月 熊本県
とあるので、正しくは編入→新設である。

#47 1935(S10).4.1 編入 天草郡本渡町 天草郡 本渡町, 本戸村
官報第二三四五号(昭和九年十月二十四日)では
○町村廃置
天草郡本渡町及同郡本戸村を廃止し其区域を以て本渡町を設置し昭和十年四月一日より施行す
昭和九年十月 熊本県
とあるので、正しくは編入→新設である。

大分県
官報第二八四〇号附録(明治二十五年十二月十四日)では
○庁府県公報
○分合村
大分県北海部郡下南津留村大字前田の内字門前を分離し同郡市浜村へ合併せり此段公告す
明治二十五年十一月十九日 大分県
--------------------------------
大分県町村沿革誌(著:佐藤蔵太郎、出版:甲斐書店、M42.3.25)でも
二十五年十一月十九日下南津留村一部大字前田ノ内字門前を分割し市濱村に合併す
とあるので、
# 1892(M25).11.19 境界変更 北海部郡市浜村 北海部郡 市浜村, 下南津留村の一部(大字前田字門前)
を追加することになる。
#北海部郡下南津留村大字前田字門前は門前村という藩政村。

#19 1901(M34).4.1 新設 東国東郡国東町 東国東郡 国東町, 小原村
官報第五三一四号(明治三十四年三月二十五日)では
○町村境界変更
東国東郡豊崎村大字原を同郡国東町に編入し其境界を変更し来る四月一日より施行す
明治三十四年三月 大分県
とあるので、
#19 1901(M34).4.1 新設/境界変更 東国東郡国東町 東国東郡 国東町, 小原村, 豊崎村の一部(大字原)
へと変更することになる。

#46 1922(T11).9.1 分立 南海部郡中浦村 南海部郡東中浦村の一部
官報第三〇一八号(大正十一年八月二十二日)では
○村廃置
南海部郡東中浦村を廃し大字羽出浦、同中越浦の区域を以て中(なか)浦(うら)村を、大字丹賀浦、同梶寄浦、同大島の区域を以て東(ひがん)中(なか)浦(うら)村を置き来る九月一日より施行す
大正十一年八月 大分県
とあるので、正しくは分立→分割である。

#75 1940(S15).12.23 編入 東国東郡伊美村 東国東郡 伊美村, 上伊美村
官報第四一九三号(昭和十五年十二月二十七日)では
○村廃置
東国東郡伊美村、上伊美村を廃し其区域を以て伊美村を置き本月二十三日より施行せり
昭和十五年十二月 大分県
とあるので、正しくは編入→新設である。

宮崎県
#32 1938(S13).10.1 編入 児湯郡高鍋町 児湯郡 高鍋町, 上江村
官報第三五二五号(昭和十三年十月一日)では
○町村廃置
町村制第三条に依り本月一日より児湯郡高鍋町及上江村を廃し其区域を以て新に高鍋町を置く
昭和十三年十月 宮崎県
とあるので、正しくは編入→新設である。

鹿児島県
#39 1916(T5).5.20 分立 大島郡西方村 大島郡 焼内村の一部
#40 1916(T5).5.20 分立 大島郡実久村 大島郡 鎮西村の一部
#41 1916(T5).5.20 分立 大島郡東天城村 大島郡 天城村の一部
官報第一一四一号(大正五年五月二十三日)では
○村廃置
大島郡天城村を廃し天城村、東天城村を、同郡鎮西村を廃し鎮西村、実久村を、同郡焼内村を廃し焼内村、西方村を置き其区域を左の通定め本月二十日より施行せり
大正五年五月 鹿児島県
村名区域大字名
天城村与名間、松原、岡前、浅間、阿布木名、兼久、当部、大津川、瀬滝、西阿木名
東天城村母間、花徳、轟木、山、金見、手々
鎮西村押角、勝能、諸数、生間、渡連、諸鈍、野見山、秋徳、於斉、伊子茂、花富、与路、池地、請阿室
実久村西阿室、嘉入、須子茂、阿多地、実久、芝、薩川、瀬武、木慈、武名、三浦、瀬相、俵
焼内村宇検、久志、生勝、芦検、田検、湯湾、須古、部連、名柄、佐志、平田、阿室、屋鈍
西方村西古見、管鈍、花天、久慈、古志、篠川、阿室釜
とあるので、いずれも正しくは分立→分割である。

#45 1919(T8).4.1 分立 大島郡早町村 大島郡喜界村の一部
官報第二三七六号(大正九年七月三日)では
○村廃置
大島郡喜界村を廃し喜界村、早町村を置き其区域を左の通定め昨八年四月一日より施行せり
大正九年七月 鹿児島県
村名区域大字名
喜界村湾、赤連、中里、荒木、手久津久、上嘉鉄、浦原、川嶺、羽里、山田、城久、滝川、島中、中間、大朝戸、西目、中熊、坂嶺、伊砂
早町村伊実久、小野津、志戸樋、佐手久、塩道、長嶺、早町、白水、嘉鈍、阿伝、花良治
とあるので、正しくは分立→分割である。

#49 1922(T11).4.1 分立 分立 薩摩郡求名村 薩摩郡 宮之城町の一部
官報第二八四〇号(大正十一年一月二十三日)では
○町村廃置
薩摩郡宮之城町を廃し大字屋地、船木、虎居、時吉、湯田、柊野及平川の区域を以て宮之城町を、大字求名の区域を以て求名村を置き、本年四月一日より施行す
大正十一年一月 鹿児島県
とあるので、正しくは
#49 1922(T11).4.1 分割 薩摩郡宮之城町 薩摩郡 宮之城町の一部
#50 1922(T11).4.1 分割/村制 薩摩郡求名村 薩摩郡 宮之城町の一部
である。

#51 1922(T11).10.1 町制 大島郡名瀬町 大島郡 名瀬村
#52 1922(T11).10.1 分立 大島郡三方村 大島郡 名瀬村の一部
官報第三〇五四号(大正十一年十月四日)では
○町村廃止
大島郡名瀬村を廃し大字金久、伊津部の区域を以て名瀬町を、大字芦花部、有良、大熊、浦上、有屋、仲勝、朝仁、小宿、知名瀬、根瀬部、朝戸、伊津部勝、西仲勝、小湊、名瀬勝の区域を以て三方村を置き本月一日より施行せり
大正十一年十月 鹿児島県
とあるので、正しくは
#51 1922(T11).10.1 分割/町制 大島郡名瀬町 大島郡 名瀬村の一部
#52 1922(T11).10.1 分割 大島郡三方村 大島郡 名瀬村の一部
である。

沖縄県
#12 1939(S14).7.1 分立 島尻郡伊是名村 島尻郡 伊平屋村の一部
官報第三七四四号(昭和十四年六月三十日)では
○村廃置
島尻郡伊平屋村を廃し七月一日より字伊是名、字仲田、字諸見、字勢理客の区域を以て伊是名村を、字野甫、字島尻、字我喜屋、字前泊、字田名の区域を以て伊平屋村を置く
昭和十四年六月 沖縄県
とあるので、正しくは分立→分割である。
[99337] 2020年 4月 4日(土)23:05:17MI さん
Re: 市区町村変遷情報
[99336] むっくん さん
 山形県東置賜郡高畠町に関する件ですが、数年前に山形県庁内にある行政情報センターで確認した明治28年12月12日山形県告示第262号は
東置賜郡高畑村ヲ高畑町ト改稱ス
同郡赤湯村ヲ赤湯町ト改稱ス
であって、市制町村制施行時から「高畠」ではなく「高畑」であったのです。
 そして郡市町村廃置分合一覧表には明治三十八年九月二十五日許可で、高畑町から高畠町へ改められたとありますが、一方で『高畠町史』下巻p678には次のように記述されています。
(八)高畑町を高畠町と改称
 現高畠町地域の当時の町村は、高畑町・二井宿村・屋代村・亀岡村・糠野目村の一町五か村であったが、そのうちの高畑町は地域的にも歴史的にも行政的にも名実ともに実績をもち、ここに明治三八年一月を迎えた。そして種々の論議のなかに、同年一月十三日を期して高畑町より高畠町への改称を県より認証されるのである。その改称の要因については、本章第五節 補筆・特筆の第一項「行政地名検証-高畑と高畠」を、くれぐれも熟読玩味して、歴史の真実を、固有行政地名の重大性を体得されたいのである。
 その詳細については同書を参照していただきたいと思いますが(国会図書館デジタルコレクションの図書館送信資料にあります)、上述の1905(明治38)年1月13日が「高畠町」の成立日であるとされていますので、
 1889(M22).4.1で高畑村
 1895(M28).12.12に高畑村を町制施行して高畑町
 1905(M38).1.13に高畑町から高畠町へ改称
が正当であると思われます。
[99339] 2020年 4月 5日(日)13:08:17オーナー グリグリ
M22は高畑村?
[99336] むっくんさん、市区町村変遷情報へのたくさんの修正情報をありがとうございます。
[99337] MIさん、山形県高畑村(高畠村)への追加情報をありがとうございます。

お二人の根拠とされている資料はいずれも当時のものであり、どの資料を根拠とすべきか非常に難しいと悩んでいます。ちなみに、角川日本地名大辞典山形県や市町村名変遷辞典では次のようになっています(角川は年号のみ)。

1889(M22).4.1高畠村が村制施行
1895(M28).12.12高畠村が町制施行し高畑町
1905(M38).1.?高畑町を高畠町へ改称

お二人の提示された資料を総合的に判断して、やはり上記の流れが一番妥当なのではないかと考えました。すなわち、M22の村制施行時は「高畠村」と考えるのがより信憑性が高く、

[99337] MIさん
 山形県東置賜郡高畠町に関する件ですが、数年前に山形県庁内にある行政情報センターで確認した明治28年12月12日山形県告示第262号は
東置賜郡高畑村ヲ高畑町ト改稱ス
同郡赤湯村ヲ赤湯町ト改稱ス
であって、市制町村制施行時から「高畠」ではなく「高畑」であったのです。
上記告示の「高畑村」は、施行前の名称に頓着しなかった結果ではないかと考えたい。また、M38の改称はかなり信憑性が高いことから、

[99336] むっくんさん
そして山形県統計書(明治32年)でも山形県統計書(明治36年)でも山形県統計書(明治38年)でも山形県統計書(明治41年)でもM28.12.12に高畠村→高畠町となったとあります。
よって、1889(M22).4.1で高畠村、1895(M28).12.12に高畠村に町制施行で高畠町だと考えられます。
これも名称に頓着しなかった結果ではないかと考えたいと思います。

以上の判断を元に、現在の変遷情報については、お二人の記事への参照を詳細情報に付記した上で、以下のように修正したいと思います。

1889(M22).4.1新設/村制東置賜郡高畠村東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
1895(M28).12.12町制東置賜郡高畑町東置賜郡 高畠村
1905(M38).1.13改称東置賜郡高畠町東置賜郡 高畑町

なお、現在の高畠町HP内に高畠地区 地区づくり計画というpdf資料があり、2ページ目にある「地区の概要」の説明は上記の流れを裏付けています。
明治22年の村々合併により高畠村として誕生して以来118年の歴史があり、明治28年の町制施行による高畑町への改称、明治38年の高畠町への町名変更、昭和29年の高畠町・二井宿村・屋代村・亀岡村・和田村の1町4カ村の合併や昭和30年の糠野目村との合併など様々な変遷はあったものの、役場所在地区として高畠町の中心地区の役割を担っている。

とここまで書いてきたのですが、私が書いた[97023]の記事にある高畠町の例規集を確認したところ、町制施行の項目に次の記述がありました。
明治11年「東置賜郡役所」が当地に新設され、地方行政の中心地となり、明治22年市町村制の施行により高畑村を設置、明治28年町制の施行により同年12月12日高畑町制施行、明治38年1月「高畑町」を「高畠町」と改称、昭和28年9月町村合併促進法の施行に伴い、昭和29年10月1日高畠町、二井宿村、屋代村、亀岡村、和田村の一町四ケ村を合併し社郷町と称した。
昭和30年4月1日糠野目村の編入を期として高畠町と改称した。
現在の変遷情報でM22の村制施行を「高畑村」としたのはこの例規集の記述のためではないかと考えています。この記述と前述の「高畠地区 地区づくり計画」の記述には矛盾があることから、これは高畠町に直接確認する必要があると思いました。問い合わせすることとします。

[99336] むっくんさんの埼玉県以下の修正情報については改めて確認の上対応したいと思います。
[99341] 2020年 4月 5日(日)17:22:29MI さん
M22高畠村→M28高畑町→M38高畠町→S29社郷町→S30高畠町
[99339] オーナー グリグリ さん、
 [99336] むっくん さんと、[99337] MIからのデータ整理有難うございます。
その上で、あらためて『高畠町史』下巻の第二章第五節 補筆・特筆の第一項(p.691~711)を読み直してみました。執筆者の思い入れが強烈に入っている感じもしますが、如何に高畑と高畠が混用されてきたかを検証しています。そして[99337]でご紹介した県告示の「高畑村」は「高畠村」の誤記であったと判断せざるを得ないことが分かりました。ここでは関連すると思われるところのみ抜き出して引用します。

一、わが町、行政地名検証-「高畑」と「高畠」
(一) 検証の必要性
 明治の村々大合併以前の元村「高畑村」の地名は「高畑」であって、「高畠」ではなく、むしろ幕藩体制期を通じ地元では、「高畑村」と書記している。よって、「高畑」を「高畠」とも書いたとか、「高畠」を「高畑」とも書いたとか、「高畑」も「高畠」も同じであるというように簡単にかたづけることは出来ない重要な問題である。
 したがって右の検証には、歴史の事実に基づいて記述することが必要となる。(三)、史的検証は、そのために登場するのである。現行行政地名「高畠町」の「高畠」や、同「高畠町大字高畠」の「高畠」を、そのまま過去に遡って適用することは許されないのである。ところが、過去の書類を広く閲覧すればするほど、「高畑と高畠」との混用が多いのに驚くのである。とくに明治期以後において顕著である。よって、その理由を究明することが当然の事実として浮上する。
(略)
一、近代資料、左に前述した、高畑と高畠の混用例をみよう。なお、その時期区分として、
・明治二年以降、明治二二年四月一日の町村制施行直前までの期間…略称(イ)期間
・明治の村々大合併、町村制施行以降、高畑町と名称変更までの期間…略称(ロ)期間
・明治二八年一二月一二日成立の高畑町以降、第一次高畠町成立(注 明治三八年一月一三日)直後期にわたる期間…略称(ハ)期間
(略)
混用の実相 (ロ)期間
 明治の村々大合併による「わが郷土の新しい村々の構成」は、県令第二一号によるもので内務大臣の許可を経て、その村々の区域・名称が決定されたものである。この際、高畑村・安久津村・金原村・小郡山村・高安村・泉岡村・塩森村・二井宿村の八か村、いわゆる高畑村外七か村の組合村は、新村「高畑村」と「二井宿村」とに分離するのであった。
 そのうち、新村「高畑村」は二井宿村をのぞく七か村の合併であった。ところが、新村構成申請の際の新村名が、(イ)期間の混用の実態を反映して「高畠村」としてあったのである。ここに厳然たる事実として新生「高畠村」(注 第一次)が誕生したのである。当時、誕生した合併村のうち、屋代村は別格(注 一〇か村合併で新村名を旧村名からえらばず)としても、四か村合併の亀岡村も、五か村合併の和田村も、九か村合併の糠野目村も合併各村中の大村名に決定した。わけて「高畑村」は従来の実績からも当然新村名として登場するはずであった。しかし、厳然たる事実として「高畠村」が誕生したが、「高畑村」「高畠村」混用の実相は、明治二八年一二月一二日、高畠村が町制施行に際し、伝統ある「高畑」を採用し「高畑町」と改称するまで続くのである。遺憾と叱咤しても歴史の真実は遺憾ともすることが不可能である。
 しかも、この混用の実相は、勢力的には「高畑村」の名称が多く、さらに村役場用の罫紙には「高畠村」または「高畠村役場」と印刷されているにも拘らず、「高畑村長」「高畑村々会議長」をはじめ、「高畑村大字○○」という具合に記述されている文書をみるわけである。かくみれば単なる混用の実相とのみ言及することはできないのである。すなわち、
 いったん提出された書類、とりわけ申請書の重大性を今更に反省しても、如何ともならぬ当時の官庁の権力下に、憤懣やるかたなく、当時の村内にみる多数のこの種の文書が作成されたのであろうか。ともあれ、明治二二年四月一日発足という新村は山形県の方針であったから、新生高畠村は正式村名として、明治二八年一二月一二日の「高畑町」の発足まで採用されねばならぬ明治の行政村名であることを認識せねばならぬわけである。しかも、混用の資料左の通り、
(略)

 以上のことから、[99339]
以下のように修正したいと思います。
1889(M22).4.1 新設/村制 東置賜郡 高畠村 東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
1895(M28).12.12 町制 東置賜郡 高畑町 東置賜郡 高畠村
1905(M38).1.13 改称 東置賜郡 高畠町 東置賜郡 高畑町
1889(M22).4.1 高畠村が村制施行
が正しいのだと思います。その上で付記することがあるとすれば、
・M22に成立した高畠村は高畑村と表記されることも多かった。
・M28の町制に関する県告示(明281212第262号)も変更前を高畑村と誤記してしまった(県報に正誤が出たかは不明)。
と、こんな感じでいかがでしょうか。
[99349] 2020年 4月 6日(月)10:59:46オーナー グリグリ
山形県 東置賜郡 高畠村→高畑町→高畠町
[99341] MIさん、『高畠町史』の引用をありがとうございました。当時の混乱がよくわかります。

[99339]
これは高畠町に直接確認する必要があると思いました。問い合わせすることとします。
高畠町に問い合わせを行いました。回答を待とうかとも思ったのですが、とりあえず、

変更年月日変更種別町村名変更対象町村名
1889(M22).4.1新設/村制東置賜郡高畠村東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
1895(M28).12.12町制東置賜郡高畑町東置賜郡 高畠村
1905(M38).1.13改称東置賜郡高畠町東置賜郡 高畑町
この通り変遷情報を更新しました。
[99353] 2020年 4月 6日(月)20:29:18ekinenpyou さん
東置賜郡高畠町
[99336]むっくん さん・[99341]MI さん・[99349]グリグリ さん

本件に関しての詳細はこちら63コマ(左ページ以降)参照のこと

1905(M38).1.13 改称 東置賜郡 高畠町 東置賜郡 高畑町


とありますが国側は通牒を出したM38.9.25改称許可(右ページ中央)とみなしているので、
この日付(あるいはそれ以降)とした方が(法的には※許可前に実施扱いにはできないはずなので)良いかもしれません。
(極めて特殊な事例であり山形県が改称として告示したかまでは未確認)

※詳細[86677]むっくん さんの
(C)市制町村制施行時(M22)~地方自治法施行以前(S22.5.2)
も参照のこと
[99371] 2020年 4月 16日(木)21:47:42【1】オーナー グリグリ
高畑村、高畠村? 1月13日、9月25日?
[99349]
高畠町に問い合わせを行いました。
本日、高畠町企画財政課広聴広報係の方から回答がありました。それによると、「高畠町史下巻」や「たかはた文化財」により地名の変遷を確認され、明治22年の町村制施行時に、
高畠村・・・高畑村、安久津村、金原村、小郡山村、高安村、泉岡村、塩森村
高畑村を含む7村が合併し高畠村になったとのこと。また、例規集第1編第1章町制施行の記述については、担当課の社会教育課の文化振興係にも確認し、おそらく記述の誤りではないかとの回答でした。「たかはた文化財」の記述内容は確認できませんが、[99341]でMIさんに引用していただいた「高畠町史下巻」と矛盾しない内容と推測します。

さて、判断が難しい問題が2つ残りました。

(A) M22町村制施行前は「高畠村」か「高畑村」か?
「高畑村」… 高畠町史
「高畠村」… 変遷辞典、角川大辞典、市町村制指令録([99353] ekinenpyouさん)

(B) M38改称の日付
「1月13日」… 高畠町史、例規集、変遷辞典、角川大辞典
「9月25日」… 市町村制指令録

(A)については、[99341]高畠町史下巻引用部分の「(イ)期間」の混用の実相に関する記述が気になります(略されている部分)。町村制施行前は混用が普通だったのではと推測しますが、それでも本来はどちらが主流だったのかという点が気になります。高畠町史の記述を信頼するのであれば、本来は「畑」が主流であるにも係わらず誤って「畠」が使われてしまったということになります。一方、市町村制指令録の山形県の稟申によると「畑」は誤用で本来は「畠」であるというニュアンスです。県と町の立場の違いがあるのかと疑ってしまいます。

(B)については、ekinenpyouさんの言われるように法的に成立した時点を厳密に考えるべきかどうかに悩みます。そもそも、特殊な事例であり内務省も誤記であったことを認め今後間違いのないようにとまで注意していることを考えると、高畠町史の記述にある県の認証を重く見た方が良いのではとも思います。

ということで悩みましたが、現時点では[99349]に書いた通り現状のまま保留とします。

変更年月日変更種別町村名変更対象町村名
1889(M22).4.1新設/村制東置賜郡高畠村東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
1895(M28).12.12町制東置賜郡高畑町東置賜郡 高畠村
1905(M38).1.13改称東置賜郡高畠町東置賜郡 高畑町
[99387] 2020年 4月 26日(日)10:20:14オーナー グリグリ
Re:市区町村変遷情報
[99336] むっくんさん
市区町村変遷情報で、以下の箇所の修正・追加をお願いします
遅くなりましたが、以下の通り対応しました。中間報告になります。

山形県
#192 1889(M22).4.1 新設/村制 東置賜郡高畑村 東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 高安村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
#21 1895(M28).12.12 町制 東置賜郡高畑町 東置賜郡 高畑村
#32 1905(M38).1.__ 改称 東置賜郡高畠町 東置賜郡 高畑町
現時点では[99371]の通り。
1889(M22).4.1 山形県 新設/村制 東置賜郡 高畠村 東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 高安村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
1895(M28).12.12 山形県 町制 東置賜郡 高畑町 東置賜郡 高畠村
1905(M38).1.13 山形県 改称 東置賜郡 高畠町 東置賜郡 高畑町

>MIさんへ、[99371]で書いた、
(A)については、[99341]高畠町史下巻引用部分の「(イ)期間」の混用の実相に関する記述が気になります(略されている部分)。町村制施行前は混用が普通だったのではと推測しますが、それでも本来はどちらが主流だったのかという点が気になります。
「(イ)期間」の混用の実相に関する記述はどのようなものかお分かりでしたら教えてください。よろしくお願いします。

埼玉県
#18 1896(M29).12.10 町制 入間郡坂戸町 入間郡 坂戸村
指摘通り修正。
1896(M29).12.15 埼玉県 町制 入間郡 坂戸町 入間郡 坂戸村

#27 1913(T2).4.1 編入 北足立郡原市町 北足立郡 原市町, 瓦葺村
指摘通り修正。
1913(T2).4.1 埼玉県 新設 北足立郡 原市町 北足立郡 原市町, 瓦葺村
合わせて次の詳細情報にも情報追加。
1913(T2).4.1 埼玉県 新設/町制 大里郡 妻沼町 大里郡 妻沼村, 弥藤吾村
1913(T2).4.1 埼玉県 新設 北足立郡 七里村 北足立郡 膝子村, 東宮下村, 大谷村, 新堤村, 猿ヶ谷戸村, 風渡野村, 東門前村

# 1918(T7).1.1 境界変更 北葛飾郡吉田村 北葛飾郡吉田村, 桜井村の一部(大字細野)
指摘通り追加。
1918(T7).1.1 埼玉県 境界変更 北葛飾郡 吉田村 北葛飾郡 吉田村, 桜井村の一部

#41 1932(S7).4.1 新設 北足立郡浦和町 北足立郡 浦和町, 谷田村, 木崎村の一部
指摘通り修正。
1932(S7).4.1 埼玉県 編入 北足立郡 浦和町 北足立郡 浦和町, 谷田村, 木崎村の一部
合わせて次の詳細情報にも情報追加。
1932(S7).4.1 埼玉県 編入 北足立郡 大宮町 北足立郡 大宮町, 木崎村の一部

千葉県
#114 1937(S12).4.1 編入 君津郡大貫町 君津郡 大貫町, 吉野村
#115 1937(S12).4.1 編入 君津郡環村 君津郡 環村, 駒山村
指摘通り修正。
1937(S12).4.1 千葉県 新設 君津郡 大貫町 君津郡 大貫町, 吉野村
1937(S12).4.1 千葉県 新設 君津郡 環村 君津郡 環村, 駒山村

神奈川県
#151 1955(S30).4.5 分立 高座郡渋谷村 高座郡 渋谷町の一部
指摘通り修正。
1955(S30).4.5 神奈川県 分割/村制 高座郡 渋谷村 高座郡 渋谷町の一部
合わせて次の詳細情報を修正・情報追加。
1955(S30).4.5 神奈川県 編入 藤沢市 藤沢市, 高座郡 小出村の一部, 御所見村, 渋谷町の一部
1955(S30).4.5 神奈川県 編入 茅ヶ崎市 茅ヶ崎市, 高座郡 小出村の一部

長野県
# 1943(S18).4.1 境界変更 松本市 松本市, 東筑摩郡 中山村の一部(大字神田)
指摘通り追加。
1943(S18).4.1 長野県 境界変更 松本市 松本市, 東筑摩郡 中山村の一部

滋賀県
# 1902(M35).10.1 境界変更 犬上郡北青柳村 犬上郡北青柳村, 磯田村の一部(大字大藪)
指摘通り追加。
1902(M35).10.1 滋賀県 境界変更 犬上郡 北青柳村 犬上郡 北青柳村, 磯田村の一部

兵庫県
# 1912(M45).4.1 境界変更 姫路市 姫路市, 飾磨郡市殿村の一部(大字神屋村, 大字国府寺村)
指摘通り追加。
1912(M45).4.1 兵庫県 境界変更 姫路市 姫路市, 飾磨郡 市殿村の一部
合わせて次の詳細情報を修正・情報追加。
1912(M45).4.1 兵庫県 新設 飾磨郡 城南村 飾磨郡 国衙村, 市殿村の一部

#116 1941(S16).4.1 新設/町制 飾磨郡広畑町 飾磨郡 広村, 八幡村
1941(S16).4.1 兵庫県 編入/町制/改称 飾磨郡 広畑町 飾磨郡 広村, 八幡村

鳥取県
#3 1894(M27).3.30 改称 八橋郡勝田村 八橋郡 豊定村
#9 1898(M31).7.22 新設 東伯郡成美村 東伯郡 勝田村, 保永村
とあるが、正しくはM31鳥取県告示第183号(豊定村保永村合併ノ件)より
#9 1898(M31).7.22 新設 東伯郡成美村 東伯郡 豊定村, 保永村
である。
この件については保留とします。
◯角川地名大辞典(鳥取県)
・豊定村(とよさだそん)→ 勝田(かった)
・勝田村(かった …)
明治22~31年の自治体名。はじめ八橋郡, 明治29年からは東伯郡に所属。豊定村ともいう。
◯市町村名変遷辞典
・豊定村(とよさだそん)
明22.10.1.八橋郡勝田村・西宮村・出上村が合併し村政施行。明27.3.30.勝田村に名称変更
・勝田村(かったそん)
明27.3.30.八橋郡豊定村が名称変更。明29.3.29.郡の統合により東伯郡に所属。明31.7.22.東伯郡保永村と合併(成美村設置)
角川は当初から勝田村で豊定村は別称との説明。現在の変遷情報は変遷辞典の通り。1894(M27).3.30の改称という記述から何らかの動きがあったと思われますので、検証が必要と考えます。新たな資料など見つかると良いのですが。

#72 1935(S10).2.20 編入 八頭郡智頭町 八頭郡 智頭町, 山形村, 那岐村, 土師村
鳥取県告示第八十号
昭和十年二月二十日より八頭郡智頭町、山形村、那岐村、土師村を廃し其の区域を以て智頭町(ちづちょう)を置く
廃置の際に於ける其の町村の財産は左記により処分す
昭和十年二月十四日 鳥取縣知事 中谷秀
(略)
とあるので、正しくは編入→新設である。
こちらも一旦保留とさせてください。
変遷辞典は編入、角川は単に合併とあります。この件を検証するために、約1年後の
1936(S11).2.26 編入 八頭郡 智頭町 八頭郡 智頭町, 富沢村
この編入事例の鳥取県告示の表現を確認できればと思います。編入という言葉が使われているのであれば上記は新設と判断できると思います。
1954(S29).7.1 編入 八頭郡 智頭町 八頭郡 智頭町, 山郷村
戦前と戦後なので比較検証には弱いですが、こちらも確認できればと思います。

とりあえずここまで、[99336]への対応を中間報告します。岡山県以降の後半部分については改めて対応し報告します。なお、変遷情報の詳細情報には官報記述などできる限り情報を追加しています。その際、表記形式など統一感がありませんが、記述形式や記述レベルを統一するよりも、後々の検証を容易ににするためにできるだけ多くの情報を記録するということを優先しています。ご了解ください。

最後に緻密な調査と貴重な情報提供に改めて深く感謝いたします。→ むっくんさん
[99389] 2020年 4月 26日(日)15:31:05MI さん
高畑と高畠
[99371] オーナー グリグリ さん
[99341]高畠町史下巻引用部分の「(イ)期間」の混用の実相に関する記述が気になります(略されている部分)
[99387] オーナー グリグリ さん
「(イ)期間」の混用の実相に関する記述はどのようなものかお分かりでしたら教えてください。

 [99341] MI で省略した部分を引用します。
(『高畠町史』下巻, p.699~703 高畠町史編集委員会編, 高畠町, 1972)
混用の実相 (イ)期間(明治二年以降、明治二二年四月一日の町村制施行直前までの期間……MI註)
  (高畑と高畠それぞれが用いられた文書3点ずつを紹介……MI註)
 明治二年、三年、七年と同年のものにつき対照的に「高畑」「高畠」の混用をみてきたのであるが、このような事例は右以外に所載することも可能である。ただ、この明治七年前後に高畑村に火災さわぎがあった。すなわち、明治三年五月二九日夜(注 横町三四戸焼失)、とりわけ明治六年五月二七日夜は大火となった(注 大町より出火、横町、荒町五か所より燃え立ち一〇七戸焼失・貞泉寺も焼失)。流言があり、「高畑」の畑は火事に関係するとか。そのような流言からか、個人的に「畑」を用いず。「畠」を用いることをしたという。しかし、「高畑」という伝統の村名は当時といえども変更されることはなかった。
  (明治17年の文書で「高畑」「高畠」それぞれ表記の文書1点ずつ……MI註)
 右二つの原本でみるとおり、町村監督の責任をもっていた郡役所でも混用している実相があった。この年、七月に東置賜郡下の組合村の編成替えがあった。その一覧表は、本巻の三五七ページに所載している。
 高畑村外七ヶ村(注 安久津村・小郡山村・高安村・泉岡村・塩森村・金原村・二井宿村)の組合は、役場を高畑村においた。その役場の新築関係については、本巻四七九・四八〇ページに所載しているで参照のこと。高畑村外七ヶ村の組合役場名は、「高畑村外七ヶ村戸長役場」であって、「高畠村外七ヶ村戸長役場」ではない。注目すべきは、以降両者の混用度は激減し「高畑村」が大きく浮上する。流言は影をひそめたのである。
 前ページの関係資料(明治17~20年の文書3点はいずれも「高畑」となっている……MI註)
 そして次の704ページからは、[99341] で引用した「混用の実相 (ロ)期間」となっております。

 [99353] ekinenpyou さんから示していただいた史料を拝見して驚くと同時に納得したのですが、この混乱の原因は、[99371] オーナー グリグリ さんのおっしゃるように、
・町側は「本来は「畑」が主流であるにも係わらず誤って「畠」が使われてしまった」
・県側は「「畑」は誤用で本来は「畠」である」
という認識や立場の違いにあったということなのでしょうね。

 なお、この『高畠町史』は国会図書館のデジタルコレクションに収められてはおりますが、「インターネット公開」ではなく「図書館送信資料」ですから、送信サービス参加館で閲覧可能となっております。しかし全国の図書館は臨時休館を余儀なくされているでしょうし、国会図書館の遠隔複写サービスも受付休止になってしまいました。

 
[99392] 2020年 4月 27日(月)08:35:00オーナー グリグリ
Re:高畑と高畠
[99389] MIさん
[99341] MI で省略した部分を引用します。
(中略)
注目すべきは、以降両者の混用度は激減し「高畑村」が大きく浮上する。流言は影をひそめたのである。
MIさん、引用をありがとうございました。この一文からも元々「高畑」だったと考えてよさそうです。そこで、
1889(M22).4.1 山形県 新設/村制 東置賜郡 高畠村 東置賜郡 高畠村, 安久津村, 小郡山村, 高安村, 泉岡村, 塩森村, 金原村

1889(M22).4.1 山形県 新設/村制 東置賜郡 高畠村 東置賜郡 高畑村, 安久津村, 小郡山村, 高安村, 泉岡村, 塩森村, 金原村
に修正しました。それにしても、本来は「高畑」だったのに混用から「高畠」に変化したというのも面白いと言っては何ですが、地名の不確実性というか歴史の流れというか不思議なものですね。高畠町役場の回答の説明も、「高畠村」は新村名で「高畑村」は元村名でしたから、現役世代にとってはもはや違和感など全く無いのでしょう。

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