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落書き帳

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[17077] 2003年 6月 20日(金)17:25:33だんな さん
風とともに去りぬ
台風6号は九州を中心に大変だったみたいですね。こちらは夜中に温帯低気圧にかわったものの、風が強くて目が覚めました。それでもとくに何事も無かったように朝は静かでした。と思いきや、夕刊を読んだところケヤキの木が倒れた写真が載っておりまして、どこかでみたような場所だと思ったら私の住むマンションの前に植えてあった木でした。

さて風といえば[17053]白桃さんの
皆様、お住まいのところにはどんな風が吹いていて、なんという名前がついているか、お教えください。
ですが、能登や富山の方では海の幸を運ぶといわれる東風のことを能登ではあえの風、富山ではあいの風と呼んでおります。由来は大伴家持が詠んだ「東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ」の歌だそうです。
参考ホームページ  http://www.i-kaze.net/mokuji/

そういえば去年の忘年会は和倉温泉の「あえの風」でやりました。あの加賀屋グループだけに豪勢だったような気がします。というのも酔っぱらって途中で記憶がなくなっているので推測で書いております。
[24754] 2004年 2月 11日(水)23:22:42Issie さん
あづまうた
[24699] みやこ さん
万葉集

手許にある旺文社文庫「現代語訳対照 万葉集」(桜井満訳注)をひっくり返して探してみました。
巻八に収録されている「東歌」の中に当該の歌があるのですね。

3404 上野(かみつけの)安蘇の真麻群(まそむら) かき抱(むだ)き寝(ぬ)れど飽かぬを あどか吾(あ)がせむ
 *現代語訳:上野の安蘇の麻の束をかき抱くように,あの子をかき抱いて寝ても満ち足りないのに,これ以上どうしたらよいであろうか。

他の歌にも上野の地名が入っています。
3402:碓氷の山
3403:多胡の入野(いりの)
3411:多胡の嶺(ね)
3405:乎度(をど)の多杼里(たどり)が川路 (或る本:小野の多杼里が安波路[あはぢ])
3406,3420:佐野
3418:佐野田(=佐野の田)
3408:新田山(にひたやま)
3409,3410,3414,3415,3419,3422,3423:伊香保
3421:伊香保嶺(=榛名山?)
3412:久路保(くろほ)
3413:利根川
3416:可保夜(かほや)が沼
3417:伊奈良(いなら)の沼
3407:麻具波思麻度(マグハシマド:比定地不詳)

伊香保が人気ありますねえ。
佐野も意外に,…って後には安蘇郡ともども「下野」ですね。
「黒保根」の元になったとも思える地名も登場しています。

続いて下野国の歌が2首収録されています。

3424:下野(しもつけの)“みかも”の山の小楢のす まぐはし子ろは誰(た)が笥(け)か持たむ
 *現代語訳:下野の“みかも”の山の小楢のように,美しいあの子は,いったい誰の食事の世話をするのであろうか。(※文庫では“みかも”は漢字表記)

3425:下野(しもつけの)安蘇の河原よ 石踏まず空ゆと来(き)ぬよ 汝(な)が心告(の)れ
 *現代語訳:下野の安蘇の河原を,石を踏まずに宙を飛ぶようにやって来たよ。さあ,お前さんの本心を言っておくれ。

「安蘇」や「佐野」の帰属をめぐる考察は私にはできないのですが,1つ気になるのは,この歌集に収録された歌は必ずしも「同時代」のものとは限らなくて,その時代から見た「昔」から歌い継がれてきた“古典”も含まれているのではないかなあ,ということ。

「万葉集」が編纂にかかわったのは橘諸兄や大伴家持たちで,律令国家最盛期の奈良時代後期。
でも一方で,地方の行政区画は少なからず変更が続いていたのですよね。
それぞれの領域がおおよそ固定されて詳細に記録されるのは,平安時代になってからのことです。
まして,家持の時代から百年前には国・郡の制度の形成期で大いに流動的でした。
[29624] 2004年 6月 23日(水)22:12:18【1】千本桜[軒下提灯] さん
史都、阿武隈市、平野コレクション
[29440]なおさん
史都とは何のことでしょうか?
史都・多賀城の場合の史都とは、歴史ある都市および史跡ある都市の意味だと思います。多賀城市には陸奥国府「多賀城政庁跡」や九州太宰府観世音寺に似ていたとされる「多賀城廃寺跡」などの史跡が多くあります。また、奈良時代には歌人としても知られる大伴家持が赴任した土地であり、「末の松山」「野田の玉川」といった「歌枕」の多い土地でもあります。

[29452]月の輪熊さん
「阿武隈市」で応募することにします。
角田市、丸森町の合併新市名も結構難しいですね。仙南市、伊具市なども考えられますが、狭義の仙南地域で「仙南」を冠称する事業所・企業が多いのは大河原町、柴田町、白石市、角田市の順。そのことからすると、角田・丸森は少し外れている感じがしないでもありません。「伊具」ですが、これは世代によって受け止め方が違ってくるようです。明治大正生まれの人は「伊具という地名」から地域を色つきでイメージできるのでしょうが、私のような若年層にはセピア色に見えてしまう。月の輪熊さんや牛山牛太郎さんには伊具ってどんな色に見えるのだろう。そんなことを考えると、「阿武隈市」いいかも!。

愛比売命さん
平野コレクションの編集、おつかれさまです。ひとつ気になったのですが、北上川を挟んで東岸を江刺平野、西岸を胆沢平野とするならば、江刺平野の主な市町村は水沢市じゃなくて江刺市になるのではないでしょうか。水沢市の主要部は胆沢平野に位置していると思います。細かいことですみません。

訂正機能で追加書込みします。平野コレクションでいま気が付いた所。
相馬平野の主な川・宇田川→宇多川
信達平野・しんたち→これは「しんたつ」ではないでしょうか。福島市の人と会話するとき、いつも「しんたつ」と発音していて注意されたことが無かったから、たぶん「しんたつ」だと思います。
諸戸平野・もろと・双葉郡波江町・夏井川→これはたぶん、請戸平野・うけど・双葉郡浪江町・請戸川のことですね。
[48827] 2006年 1月 29日(日)19:31:33【2】オーナー グリグリ
奥の細道のルート【第十回 全国の市十番勝負 出題者雑感(問七)】
[48825] 2006 年 1 月 29 日 (日) 18:43:08【1】 EMM さん
ここを見ていると、越中の段の中に氷見の地名が織り交ぜられていることが説明されていました。
(中略)
その後改めて原文を詠み返すと、「行こうとしたけれども、地元のものに聞いたらあちらは貧しい漁村だから宿を貸してくれる家は無いだろうといわれたので行くのを止めた」というような内容でした。
芭蕉は古くは大伴家持も歌った有磯海に行きたかったようですね。次の句が有名です。
「早稲の香や分け入る右は有磯海 」
氷見市についてはこの故事に因み該当しない市にと思ったのですが、あまりに詳細すぎると考え見送りました。

・想定解から長岡市が抜けていませんか?芭蕉は弥彦から出雲崎に行っていますが、途中通ったであろう寺泊町や和島村は1/1付けで長岡市と合併しています。
むむっ。。。本当ですね。自分自身が出題日の合併確認を怠っていました。確かに抜けています。[48823] は訂正しておきました。ご指摘感謝。

・上記サイト内には「敦賀から大垣までどういうコースを辿ったかは今もって分かっていない。」とあり、なんだか非常に気になります。まぁ、普通に考えれば北國街道から関ヶ原のほうに抜けるところでしょうけれども………???
そうなんです。この部分はよく分からなかったのでEMMさんと同じように普通のコースを想定しています。そう言う意味で北国脇往還が辛うじてかすめている長浜市は一番怪しいところです。

蛇足:
なお、加賀国内では芭蕉は9つの句を読んでいますが、その中でEMMがそらで思い出せるのは...
私は文句なくこの句です。「あかあかと日はつれなくも秋の風」 兼六園など金沢市内三ヶ所に句碑があります。
[64965] 2008年 5月 3日(土)22:51:45Issie さん
みかんの花
[64960] 淡水魚 さん
万葉集にある「橘は冬でも常緑でとてもめでたい木である」という和歌

かけまくも あやに畏(かしこ)し 皇祖神(すめろき)の 神の大御代(おほみよ)に 田道間守(たぢまもり) 常世(とこよ)に渡り…

で始まる歌(巻18, #4111)ですか? 長歌であるために全文を書き出すのには無理があるので検索をかけてみたら,万葉集検索 というページで全文を掲載しているものがありました(この歌 )。
最後は

……この橘を 時じくの 香(かく)の果実(このみ)と 名付けけらしも

で終わり(表記と読みは 桜井満訳注『現代語訳対照 万葉集(下)』旺文社文庫,1975年 による)。
大伴家持の作品なのですね。天平感宝元(749)年閏5月23日,と作られた日付まで記録されています。
(蛇足ですが,「天平感宝」という年号は 天平21年 として始まった年の4月14日に行われた改元で,その年の元旦から「天平感宝元年」だったということにして始まりました。ところが,その年の7月2日にはまた改元があって,改めてこの年の元旦から「天平勝宝元年」だったということになってしまいました。「天平感宝」が現に使われたのは,この歌が詠まれた 閏5月 も含めた4ヵ月足らずで,結局,西暦749年に換算されるこの年は「天平勝宝元年」として始まったことになるので,捉えようによっては「天平感宝」という年号は“なかったこと”になってしまうのですね。)

忘れられがちなのですが,神奈川県は みかん の産地なんですよね。「湘南電車」のあの塗り分けは,みかんの実(橙)と葉っぱ(緑)から採られたと一般に理解されていますし(実はそれを意図したわけではない,という説もありますが),「みかんの花咲く丘」という歌は湘南から伊豆へ向かう汽車(まだ湘南電車はなかった)の中で作られた言われています。
2006年3月に津久井・相模湖両町が相模原市に編入されて,ようやく神奈川県が「平成の大合併」に参加するまで,“直近”の合併例は35年も前の 1971年4月1日 に小田原市に編入された 足柄下郡「橘町」 でした。…ここにも「橘」。

[64947] hiroroじゃけぇ さん
今朝の朝日新聞に掲載されていた記事

知り合いの県職員(…いや,私も「県職員」には変わりはないのだけれど)は,神奈川県が18位だということに「ショック」だと言っていました。
…でもねぇ,「横浜」は知っていても「神奈川」は知らない,という人は多いんじゃないかなぁ。まあ,あれでも十分ですよ。
「キャラが立っている」という点で,「神奈川」は「横浜」に数段劣ると思います。県名と県庁所在地の名前(しかも,とても有名)が違う,というのも結構ハンディなのかもしれませんね(とはいえ,岩手県は6位ですけど)。

まわりの大人を見れば,別に知らなくたってどうでも良いことのように思うし,知ってたからって“威張る”以外に何か意味があるようには思わないけれども,それでもランキングを気にするなら,せめて宮崎県ぐらい“危機感”を持ってアピールしなけりゃ。
…でも,「神奈川」を「横浜」以上に「キャラ立ち」させるネタって,あるのかしら。
[65046] 2008年 5月 10日(土)00:50:43Issie さん
内平かに外成る,地平かに天成る
[65040] 淡水魚 さん
元号が「平成」に決まったときに、漢字が似てるけどいいのかなと

もう「平成」も20年ですね。
私,個人的には「元号法」という法律の思想背景が気に入らなくて,プライベートでは基本的に「平成」の使用を拒否しているのですが(でも,お役所でのお仕事と,Wikipedia への投稿では“大勢”に従って使用していますが),それでも20年も経てば,もう慣れてきました。
今を去る19年前のお正月,「へーせー」なる音と「平成」という表記には大いに違和感を感じたものですが。
あの頃確か,「平城天皇」がらみで「いいのかしら」なんて話が少しばかり流れていたようにも思います。
ともかく,過去の例に従えば(…と言っても,過去の例は3つしかないし,現行憲法下の「象徴」についてはただ1例があるのみなのですが),今の天皇はやがて「平成天皇」として歴史に記されるのでしょう(…でも,今はまだ「平成天皇」は存在しないし,こんな名前で“あの人”を呼んだら甚だ失礼なことになるのですが)。

天皇の名前と年号(元号)のバッティング,“本朝”ではすぐには思いつかないのですが,“唐土”ではあったりしなかったでしたっけ。「四千年の歴史」(←そういえば,最近あまり言いませんね)を誇るあそこでは,何でもありそうですが。
本朝ですぐに思いつくのは,「大伴」という名前の皇子が天皇になってしまった結果(嵯峨天皇の弟で次の天皇の淳和天皇),一族が政争に巻き込まれて犠牲者が出る中,大伴家持 が血を吐く思いで(たぶん)

 剣太刀(つるぎたち)いよよ磨(と)ぐべし いにしへゆ清(さや)けく負(お)ひて 来(き)にしその名ぞ(万葉集 巻20,#4467)

とまで詠ったウヂ名「大伴」を「伴」と変えさせられた例でしょうか。だから,伴大納言(ばんだいなごん)・伴善男(とも・の・よしお)という名前になるのですね。

※大伴氏は,奈良時代末期から平安時代初期にかけて,結構怪しげな動きをしています。長岡京の放棄と平安京への遷都にも少なからず絡んでいて,陸奥で軍事司令官(陸奥按察使持節征東将軍)在任中に亡くなった 大伴家持 もある大きな政治的事件に絡んで死後官位剥奪処分を受けています。生きていれば,きっと失脚して重い処分を受けていたでしょう(その後,名誉回復措置がとられていますが)。「万葉集」はその末期,ほとんど家持のプライベートな“歌日記”のようなものになっていました。そのままでいたら,きっと「万葉集」が世に出ることはなかったでしょう。

天皇の名前がらみで改称させられた地名に,常陸の「白壁郡」があります。
奈良時代に,元は「新治郡」とされていた地域(古代の「新治郡」は筑波山の北西側にあって,今私たちが「新治郡」と呼んでいる筑波山の南東側は,以前に話題になったように「茨城(むばらき)郡」の一部,…どころか,中心でした)を割いて「白壁郡」が設けられました。
ところが,この「白壁」とは奈良時代最末期の 光仁天皇 の名前であったため,この天皇が亡くなったときに,亡くなった天皇と同じ名前では恐れ多いとして,「白壁郡」が「真壁郡」に改称された,と伝えられています。
光仁天皇(白壁)は,天智天皇の孫で,桓武天皇のお父さん。「奈良時代」,すなわち 平城京 の時代とは,その前の 藤原京 の時代も合わせて,天武天皇・持統天皇 夫妻の血統が天皇となった時代で,2人の玄孫(やしゃご)である孝謙/称徳天皇(未婚の女性)を以てその直系が絶えてしまったために,白壁 に「おはち」がまわってきて思いがけず天皇になったわけです。
たとえばもし,聖武天皇の男の子が無事に成長して天皇になり,さらに息子が後を継いでいれば,白壁なぞに皇位がまわってくることもなかったでしょうから,「白壁郡」を「真壁郡」と改称することもなかったでしょう。現在の茨城県に「真壁郡」などという郡はなかったかもしれません(…あっ,すでに「真壁郡」は消滅していたっけ)。

それよりも,白壁の息子の 山部 が天皇になって(桓武天皇),長岡京から平安京への遷都なんていうことを思いつくこともなかったでしょうから,奈良が「1300年の都」を誇っていたかもしれませんね。
[65857] 2008年 7月 24日(木)23:46:41【4】EMM さん
金沢人なら○○の蒲焼き(答えは本文中)
[65851] ペーロケさん
私も本当は国産うなぎが食べたいのですが、財布に相談したところ、あえなく断念。かといって外国産はイロイロ知っている故に怖いし。。。(ね、○MMさん?)
うわ!またなんつーいろんな意味で難しいネタ振りを…
ウナギに絞った話でも、それ以外の方面に絡めても、ややこしい話になりそうなので…要はリスク&ベネフィットをいかに分析・評価し、リスクを極力最小限にしながらベネフィットを最大限に享受できるかを考える必要がある訳で、でもそれがなかなか難しい、とお茶を濁しておきます。

土用の丑の日のうなぎの逸話はwikipediaによると、さらに昔からあった「土用の丑の日にはうで始まる食べ物を食べると良い」(うの字が付く、だったかも?)という民間伝承から平賀源内がうなぎのキャッチコピーを思いついたと言う事なんだとか。
だから、元々の言い伝えにのっとれば、牛でもうどんでも梅干しでもいい、っちゅうことになるそうで…
キャッチコピーは平賀源内ではなく太田蜀山人が考えたと言う説もあるそうですし、大伴家持がこの時期にうなぎを食べると良いと言うような歌を詠んでいたと言う話もあるとかで、土用の丑の日にうなぎ、と言うことの実際の起源ははっきりしていない見たいですね。
ちなみに、家も今日の夜食はうなぎの蒲焼きでした。
親父に「てっきりおまえもぶら下げて帰ってくると思ってた」と言われました。
すんませんね。仕事で書き物の締め切りが迫っていて、それどころではなかったんで…でも(次の土用の丑まで待てないので)明日か明後日あたり、金沢人らしくどじょうの蒲焼きでも買ってこようかな。

#ところで、本文中も「土曜」になってますよ。

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[65856] 小松原ラガーさん
そこに稚魚がいるかどうかは別として、こんなところまであります。その隣のここにはおおうなぎとやらがいます。
オオウナギってのは食用にするうなぎとは別の種で、あんまりおいしくないらしいですね。
中国で食べられているタウナギもオオウナギの仲間だとか。(参考
鰻池の方は、名前の由来ははっきりしないらしいんですが、うなぎはいるような話が書いてあるところもあります。
でも、鰻池から海に流れ出す川ってあるんでしょうか…と思って地図や航空写真を見倒してみるとどうも無さそうですね。
wikipediaの鰻池の項にも流出する川がない旨書かれてました。
実はうなぎって「海で産卵して川で成長する」回遊魚なんですよね。(参考
だから、川で海と繋がっていないと入ってこられない。
ちょっとの距離なら陸上でも移動しますが、鰻池の周辺の様子だと川から陸上を伝って自分で移動、ってのはまず無いでしょう。
鰻池ではうなぎの養殖が明治45年から平成8年まで行われていたそうなので、「うなぎがいた」ってのはその間の話なのかも。
鰻池のほとりにある鰻温泉は江戸時代の書物にも出てくるそうで、うなぎの養殖よりも地名の方が先なのは間違いないようです。

#時々テレビでも紹介されたりしますが、鰻池の周辺には鰻という名字の方が実際にいらっしゃいます。

##うなぎの養殖は明治12年に東京・深川で試みられたのが最初だと言われている、とのこと。(参考
[68316] 2009年 1月 13日(火)14:41:51がんす横丁まま さん
芙蓉峰・芙蓉談義のお礼
全国市十番勝負真っ最中に、豊後芙蓉 の質問をしたばかりに、思わぬ芙蓉談義に発展してしまい、ありがとうございました。楽しかったのですが、申し訳なさも感じてしまいました。それにしてもこのサイトのみなさまの、地名はもとより、博物への薀蓄ぶり、いつものことながら敬意を表します。

Issieさん、じゃごたろうさん、hmtさん、白桃さん、稲生さん、inakanomozartさん、ありがとうございました。蓮・芙蓉について牧野富太郎博士著『植物記』『続植物記』(初版 1943年・1944年)の中の文章を紹介してお礼に替えます。

『植物記』には、芙蓉について触れた文章は見当たりませんが、『原色牧野日本植物図鑑』(コンパクト版1~5)には、フヨウ、スイフヨウ、ブッソウゲ、ハイビスカス、アメリカフヨウ、ムクゲ、モミジアオイ、トロロアオイ、オクラまで、あおい科フヨウ属として載っています。前掲書ではアオイ(旧アフヒ)については記録がたくさんありますがフヨウには触れていません。ただハスについては、前掲書では、蓮の話・双頭蓮と蓮の曼荼羅 の項で次のように述べております。( 同書122頁 )

 ハスは又ハチスという。ハスはこのハチスの言葉が縮んだものである。而してハチスは元と上に記したる蓮房の形より来たものであります。蓮の字は元来はハスの花床(花托)の名であるが、今は通常其の全体の名に用いられている。
 芙蓉と云うはハスの一名であるが、今世人が芙蓉と呼ぶものは元来は木芙蓉なので、これはゼニアフヒ科中の一潅木の名であります。花が大きく且つ美麗であって、ハスの花の様だからこの植物を木芙蓉と呼んだもので、之れと混雑を避ける為にハスの事を水芙蓉とも草芙蓉とも言って、この両者を区別して居ります。
 ハスは日本でも古くから作って居りますが、無論原は他国から渡りしものであります。隣邦の支那にも往昔より栽培して居るが然し其の原産地は天竺即ち印度なので、支那も始めは固より同国より輸入したものでありましょう。尚ハスはペルシア・マレー群島並びに豪州にも分布して居ります。(以下略本文旧漢字・旧仮名遣い)

最近、この『植物記』は復刻刊行されたという記事を読みましたから、図書館でも手に入ると思います。蓮が「万葉集」にも詠まれているとのことでしたので調べてみました。

巻16 3826 蓮(はちす)葉は かくこそあるもの 意吉麻呂(おきまろ)が 家なるものは芋(うも)の葉にあらし 

(長忌寸意吉麻呂が歌八首)=ながいみきおきまろは人の名前。
 最後に大伴家持が詠める「万葉集」最後の歌を挙げて、今年の平安と繁栄をお祈りいたします。

巻20 4516 新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいや重け(しけ)吉事(よごと)

 この歌は家持が因幡国守として赴任した翌年(759年天平宝字3年)の元旦詠とされています。
参考文献 前掲書のほか「平凡社大百科事典」「新校新版萬葉集」「註解萬葉集」
[84084] 2013年 9月 13日(金)21:44:09hmt さん
一文字・二文字・三文字 (1)「大伴」 から 「伴」へ
1989年に平成という年号が発表された時に、似たような発音の平城(へいぜい)天皇の存在を思い出しました。
この天皇は、平安京に遷都した桓武天皇の息子なのですが、上皇になってから 奈良の旧勢力と結託して 平城京復活を企て 失敗した(薬子の変) という事績のために、こんな諡(おくりな)を 付けられてしまったのでした。

迅速な判断で反乱を鎮めたのが、弟の 嵯峨天皇で、父の桓武天皇が願った 平安の世 を実現した名君とされています。
法令整備(弘仁格式)などの重要な業績を残した後、次の弟に譲位しましたが(823)、実権は保持しました。
「嵯峨」という諡(おくりな)は、晩年の離宮(現在の大覚寺)の地で、唐の長安の北にある山に由来するとか。

嵯峨天皇を継いだ弟が 淳和天皇で、この人の諱は「大伴」でした。
「大伴」と言えば、古代国家成立の頃から 天皇家の親衛隊長として勢力のあった 豪族の「大伴氏」 があります。

全盛時代を過ぎた後も、大伴氏は 奈良時代に 万葉歌人の大伴旅人[9247]大伴家持 などを輩出し、名門貴族の地位を保っていました。
平安時代になっても 浮き沈みはあるものの、823年当時は 参議でした。そして大伴親王が即位すると、畏れ多いということで、氏を「伴」に改めました。いや、改めさせられのでしょう[65046]
伴大納言絵巻 [65065]の主人公・伴善男は、少し後の応天門事件(886)で失脚しました。

長い前置きを書いた理由は、「大伴」→「伴」という変化を、県名等の省略表記(過去記事)と 関連して捉えたからです。

さて、天皇にとり 血筋の維持は大きな義務です。嵯峨天皇は、30人以上の妃により 52人の皇子皇女を量産したというから、千年後の権力者・徳川家斉(第11代将軍>大御所)といい勝負です。
さすがに これはやり過ぎで、国家財政を圧迫するので、臣籍降下ということになり、「源」姓の高級官僚が続出しました。
左大臣・源融は「嵯峨源氏」の代表的な人物で、光源氏のモデルともいわれます。
このような措置の前例は、父の桓武天皇が作っており、その孫が臣籍降下した「桓武平氏」から、後に 平清盛 が出ることになります。

文化先進国の唐と同じ「氏・名名」表記が流行【注】してくると、本来は二文字の藤原氏も 一文字に省略した「藤」を使い、「源平藤橘」を四姓と呼ぶようになりました。
菅原道眞を菅公とか菅丞相とか呼ぶのも、このような「中国風一文字姓表記」の流行に沿うものでしょう。
同様の趣旨は、[3131]Issieさんの記事にも記されていました。
【注】
先駆者は 橘諸兄[64972]あたりでしょう。名についても独自の「一文字」主義を守った 嵯峨源氏 のような例外があります。

何か人名の話になってしまいましたが、ここで本筋の地名に戻して、古くからある国名の表記を検討しましょう。
「信州」と「信濃」って、違いはあるの? -旧国名について- という落書き帳アーカイブズを参照します。
[89248] 2015年 12月 5日(土)16:03:53hmt さん
越中国射水郡(2)氷見と伏木
オフ会会場の富山県氷見市は初めて訪れる地でした。
氷見市の概要 によると、日本海側有数の氷見漁港で有名とのことで、大伴家持ゆかりの史跡や近年湧出した温泉にも触れていました。
氷見(ひみ)という地名の由来は諸説あり、同じ地名は 四国の石鎚山登山道の道筋にある愛媛県西条市にあるとのこと。

万葉集に現れる氷見は 大伴家持の長歌「都奈之取る比美の江過ぎて…」一首だけだそうです。都奈之(ツナシ)とはコノシロの古名だそうで、漁業関連の言葉が枕詞のように使われています。

大伴家持が越中国司として赴任したのは天平18年(746)でした。
能登国は養老2年(718)に成立していますが、家持が赴任する5年前には越中国に併合されており、家持は能登にも しばしば赴いています。渤海国[87470]と日本との交流も始まった頃であり、対岸交易も頭にあったでしょう。

国府は小矢部川が日本海に注ぐ伏木【高岡市伏木古国府・勝興寺付近】にありました。…というか、伏木港は元々庄川の河口であり、現在の庄川の河口は、明治末期の分離工事によって造成されたものでした。
伏木は翌日通過しただけですが、便宜上ここで記します。

左大臣橘諸兄[64972][84084]と親しい関係にあった 青年政治家・大伴家持は 前途洋々の思いを抱いて この越中に赴任したはずです。
しかし、越中勤務の5年間に中央政界の権力は藤原氏に移ってしまい、政治の名門・大伴一族としてではなく、万葉歌人として名を残すことになりました。

北陸道を奥州に落ちた源義経。雨晴岩の伝説は有名ですが、伏木の河口にあった如意の渡しで検問に遭い、 弁慶に扇で打たれた という話が『義経記』にあり、これが 加賀の安宅の関に場所を変えて 伝えられたのが歌舞伎の『勧進帳』だそうです。

変遷情報で確認すると、射水郡伏木町は戦時合併で高岡市の一部になり、市町村名から姿を消しましたが、北前船で賑わった時代を含めて日本海側有数の港町でした。
現在でも伏木地区・新湊地区・富山【東岩瀬】地区より成る 「伏木富山港」 の一部として、新潟と共に日本海の国際拠点港湾を構成しています。

家持のいた伏木から氷見に戻ると、こちらは大きな川が流れる富山平野を主体とする射水郡の他の地域とは少し様子が違うようです。だから、一時的にせよ氷見郡として独立していた時代があるのでしょう。海岸も南部は砂浜ですが、オフ会会場になった九殿浜温泉のある北部は岩石海岸が主になります。

九殿(くでん)というのは、氷見市大字姿の下のレベルの小字名であり、地図では確認できませんでしたが、「ひみのはな」の南にある谷間に九殿遺跡があり、1974年の調査で7世紀初めの製塩遺跡が確認されているようです。平凡社の歴史地名体系p.809中。
九殿浜の沖 約1kmの虻ガ島は、小さいながらも富山県最大の島[87262]

地図で氷見の北方を見ると 石動山があります。山頂は氷見市の領域から少し外れた 石川県鹿島郡中能登町になります。
ここは 山岳仏教の霊峰として、一時は三千人もの山伏がいる大勢力だったようです。
石動山の石は 「天より星落ちて、石となり、天漢石と号す」 とされているが、隕石ではないようです。
石動 いしゆるぎ→いするぎ。
難読駅で有名な北陸本線>とやま鉄道石動駅の所在地は 1962年に小矢部市になるまでは、富山県西礪波郡石動町でした。
前田利家の時代に、家臣の前田利秀が能登の石動山の伊須流岐比古神社を城下町に移し、「今石動」と名付けたのが由来とされます。
[89249] 2015年 12月 5日(土)16:13:35hmt さん
越中国射水郡(3)新湊
昔の氷見には「布勢水海」と呼ばれた広い潟湖があり、大伴家持もしばしば訪れて遊覧したり、都人を接待したりしたようですが、新田開発・乾田化などに伴って水系も変り、現在は 十二町潟水郷公園として一部に痕跡を残すのみとなっているようです。

…というわけで、オフ会第2日の遊覧船は氷見漁港です。
強風のため短縮された港内コースでしたが、みなさんと共に楽しむことができました。

下船後に集合写真。その後は海王丸見学組ということで、EMM号に乗車。
特にお願いしたわけではありませんが、伏木港を経由していただいたようです。
同じく富山新港を目指したラガー号は先に到着し、3人は既に海王丸でした。

地図を見ると、戦時合併とその解体で話題になった高岡市牧野地区[15592][74310][79475][80421]も近くでしたが、こちらは経由していないようです。

係留されている海王丸の見学も、船内のあちこちを上下しながら巡り、充実したものでした。
その後、今回の旅行では特に意識させられた斜張橋の中でも最大規模の新湊大橋へ。タンカーが橋の下を通って入港する様子を眺めることもできました。

この富山新港、正式名称は「国際拠点港湾 伏木富山港(新湊地区)」だそうです。
2011年の法律で特定重要港湾から改められた国際拠点港湾は、国際戦力港湾の5港【京浜3、阪神2】に次ぐランクで、全国で18港が指定されていますが、本州以北の日本海では新潟港と伏木富山港との2つだけです。

富山新港は、オフ会でスナフキんさんから紹介のあった昭和32年(1957)の地形図に見るように、昔は 浅い【深度最大1.5m、平均0.5m】放生津潟でした。
ここに港を作る計画は大正時代にもあったようですが、第一次大戦後の不況で実現せず。昭和戦前の大築港計画も技術上の問題と戦争で挫折。戦後の高度成長期になり、1960年に運輸省の承認が得られ翌年着工、1968年に開港し、工業港湾として整備されています。

戦後にできた新しい港だから富山「新港」でよいのですが、その場所が「新湊市」となると 文字づかい が気になります。
1889年の町村制から1951年の市制までの間は 射水郡新湊町で、その前身にも新湊放生津町・新湊六渡寺村など「新湊」の付く町村がありました。要するに「新湊」というのは、庄川と小矢部川とが合流していた時代、古代から左岸にあった伏木港に対して右岸に作られた「新しい湊」を意味するのでしょう。現在の地図でも庄川河口右岸(射水市港町)を見ると漁港があります。

それはさておき、掘り込み式の富山新港建設に伴い、港口の航路になる越の潟・堀岡間の陸地は分断され、道路および鉄道の代替として1967年11月から富山県営渡船、通称 越ノ潟フェリーがが運行されました。1986年からは地元住民だけでなく、一般客も無料化しています。今回のオフ会で この県営渡船の乗客になったのは グリグリさん1人だけではないかと思います【ML00132】。
2012年の 新湊大橋 開通後も、渡船は健在なんですね。

渡船の説明に「道路および鉄道の代替」とあるように、海岸経由で富山と高岡とを結んでいた富山地方鉄道射水線も分断されました。
高岡側の越ノ潟-新湊【現・六渡寺】間は、高岡軌道線・伏木線を営業していた加越能鉄道に譲渡され、1980年に万葉線の愛称が付けられました。2002年からは第三セクター鉄道の会社名にもなっています。
乗客の半減した富山側の鉄道は 廃止されました(1980)。


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