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okiさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[73926]2010年1月15日
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[73925]2010年1月15日
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[73901]2010年1月14日
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[73877]2010年1月13日
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[73814]2010年1月11日
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[73810]2010年1月10日
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[73803]2010年1月10日
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[73801]2010年1月10日
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[73776]2010年1月9日
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[73764]2010年1月9日
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[73688]2010年1月5日
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[73683]2010年1月5日
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[73447]2009年12月30日
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[73446]2009年12月30日
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[73445]2009年12月30日
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[73385]2009年12月24日
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[73362]2009年12月20日
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[73320]2009年12月16日
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[73311]2009年12月15日
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[73308]2009年12月15日
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[73286]2009年12月13日
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[73283]2009年12月13日
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[72780]2009年11月7日
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[72750]2009年11月3日
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[72661]2009年11月1日
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[72609]2009年10月31日
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[72604]2009年10月31日
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[72602]2009年10月31日
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[72575]2009年10月30日
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[72574]2009年10月30日
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[73926] 2010年 1月 15日(金)07:11:36oki さん
第二十六回十番勝負 解答その十
連答失礼いたします。

問一:今治市

やっと完答か?

もう一つの方に意識が固着して、こっちに気が回らなかった。まったく・・・
[73925] 2010年 1月 15日(金)06:45:59oki さん
第二十六回十番勝負 解答その九
問四:高松市
[73901] 2010年 1月 14日(木)10:05:29oki さん
第二十六回全国の市十番勝負 解答その八
地元から。

問九:松江市
[73877] 2010年 1月 13日(水)22:04:25oki さん
第二十六回十番勝負 解答その七
問二:藤岡市

これはヒントが解凍できなかったのですが。
[73814] 2010年 1月 11日(月)10:04:15oki さん
第二十六回十番勝負 解答その六_訂正
バカなミスをしてしまった。

問六:鴻巣市
[73810] 2010年 1月 10日(日)22:00:58oki さん
RE:平泉
[73804] YT さん
早速目を通してみましたが、残念ながら
政治的にも奥羽の中心となた平泉であり、十万に近い人口が集中していたはずである。
今日、平泉町全体の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。
とあるばかりで、根拠も参考文献も全く示されていませんでした。

余計な手数をお掛けさせたようで、申し訳ありません。
すでにご存じかもしれませんが、改めて平凡社の「日本歴史地名大系 岩手県」を見たところ、さすがに平泉古図の信憑性は否定するものの、平泉の人口そのものについては次のような記述しかありません。
「多くの大寺・堂塔が甍を競い,禅坊は中尊寺三〇〇余・毛越寺五〇〇余、平泉館・伽羅御所など藤原氏の居館があり、北奥特産物の集散地でもあったことを考慮すると、平泉の人口はゆうに数万を超えよう。」

これでは、表現こそ異なるものの、YTさんの御覧になった「政治的にも奥羽の中心となった平泉であり、十万に近い人口が集中していたはずである。」と、記述内容としてはほぼ同一です。文献史学の側は、平泉の人口を推定する確実な史料を持ち合わせていないような感じもします。

いずれにせよ、今後は平泉の人口について気に留めておいて、大きな図書館に行ったときなどに確認してみるようにします。何か新しいことが分ればお知らせいたしますので。
[73803] 2010年 1月 10日(日)15:10:01oki さん
第二十六回十番勝負 解答その六
長浜市×の理由がよく分らないので、いささか不安なのですが。

問六:西条市
[73801] 2010年 1月 10日(日)12:16:04oki さん
第二十六回十番勝負 解答その五
問五:市川市

やっと五答目。完答まで匍匐前進。
[73776] 2010年 1月 9日(土)18:53:09oki さん
第二十六回十番勝負 解答その四
こういうことですか。

問七:宇和島市
[73764] 2010年 1月 9日(土)10:28:46oki さん
第二十六回十番勝負 解答その三
やっと分りました。
まだ三答目。完答まで先は長い。

問三:大洲市

しかし、お題の5市だけからこれが分る人たちというのは、一体どういう・・・
[73688] 2010年 1月 5日(火)20:53:57oki さん
第二十六回 全国の市十番勝負 解答その弐
四国がなくなっているので、とりあえず近くの市を。

問十:流山市

さっきははご挨拶を忘れていました。

新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
[73683] 2010年 1月 5日(火)18:41:45oki さん
【第二十六回】全国の市十番勝負
先ほど、やっとこさ帰省先から戻って来ました。

今回は参戦するつもりなので。まずは売り切れ寸前のところを。

問八:根室市
[73447] 2009年 12月 30日(水)07:43:10oki さん
昔の飛地と来年の勝負
三回連続投稿で申し訳ないのですが、見過ごせない書き込みがあったもので。

[73436] 88 さん 市制町村制施行時等における飛地・入会地等の表記方法について

88さま。市区町村変遷情報の入力、誠に、誠にご苦労様です。
私も、徳島などで天保郷帳~明治合併期の町村変遷について整理をはじめたことがあるので、この作業にどれだけの時間と労力が必要かは分ります。あれだけのデータを入力・整理されていることには、ただただ感謝、との思いだけです。
その上で、あえて言わせていただくのですが(この点については前々から考えていたのです)、少なくとも明治合併期に関しては、本村部分、飛地部分の両方について同じように「○○村の一部」とする現在の表現方法は、改めた方が良いと思います。各村がどのように合併したのかが非常に分りにくくなる場合があるからです。
実例を挙げます。私が現在住んでいる東京都江戸川区(当時は南葛飾郡)における3村の事例です。

小松川村:
西小松川村の一部, 逆井村, 東小松川村の一部
松江村:
西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, 西宇喜田村の一部, 桑川村の一部, 西一ノ江村の一部, 東小松川村の一部, 西小松川村の一部

以上挙げた3村のいずれにも、「西小松川村の一部」、「東小松川村の一部」が出現しており、「西一ノ江村の一部」は2村にあります。
落書き帳のメンバーの皆さんであれば、小松川村は西小松川村と逆井村の合併村、松江村は西一ノ江村と東小松川村、船堀村は東西船堀村で、ほかはすべて狭小な飛地だろうと見当がつくと思います。しかし、市区町村変遷情報を閲覧しているのは常連メンバーだけではないはずで、この種の情報にあまり詳しくない人が見た場合、以上のような表記法だと、東小松川村や西小松川村がどのように合併したのか、混乱を来す畏れが強いのではないでしょうか。
そのような事態を回避するには、例えば次のような表記が求められるのではないかと思います(あくまで例です。実際の表記法はさらに工夫する必要があります)。

小松川村:
西小松川村(本体), 逆井村, 東小松川村(飛地)
松江村:
西一ノ江村(本体), 東小松川村(本体), 西小松川村(飛地)
船堀村:
西船堀村, 東船堀村, (以下すべて飛地 西宇喜田村, 桑川村, 西一ノ江村, 東小松川村, 西小松川村)

あるいは、変遷情報の表にはあえて飛地の村を表示せず、「本体」の表記も省略して、これらを「詳細」部分だけに記述してもいいのかもしれません。いずれにせよ、現在の表記法は改善した方が良い、と考えます。
なお、ここには例がありませんが「どちらが本体か、という判断を迫られる」微妙な場合は、その場合に限って「○○村(一部)」などの表現を使えばいいと思います。
また、関連して言うと、変遷情報の参考文献としては「幕末以降総覧」などの刊本しかあげられていませんが、少なくとも明治合併時のデータについては、府県令でのチェックを行なっているのですから、その旨を明記するとともに、デジタルライブラリーの該当府県令へのリンクを張っておいた方が良いのではないでしょうか。「飛地」が現在のどの地域に該当するのか気になる人には、元データである府県令を見てもらうことにしても良いですし。

もちろん、これ以上88さんの負担を増やすのは本意ではないので、ご自身がもっともやりやすい手法をとっていただければと思いますが、以上の点も考慮してもらえれば有り難いです。

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本日、ネット環境のない実家に帰省しますので、今年の書き込みはこれが最後です。いろいろと楽しませていただいて有難うございました。来年もよろしくお願いいたします。
前回の十番勝負は見送りましたが、今回は参加したいと思っています。帰京してからの参戦なので、完答できれば御の字でしょうが。

では、皆様良いお年を。
[73446] 2009年 12月 30日(水)06:31:45oki さん
さまざまなレス
手短に、と言いながら長くなってしまい、連続投稿です。

[73423] hmt さん
由来が一番わからないのが「藤野」です。
1955年に命名された「藤野町」は、中央本線藤野駅に由来するとして、1943年当時の津久井郡小淵村に設けられたこの駅の名を「藤野」とした理由がよくわかりません。
[62419] スピカさん には、次のように記してあります。
「藤野」の名は駅所在地である小原(小渕の誤記)の小字で、合併時の新町名に町の中心地にある駅の名前を採ったものです。
「藤野 = 小字」説は検証していませんが、この駅の立地は 甲州街道の関野宿(小淵村)と吉野宿(吉野町)との中間であり、駅名とするのに適した著名な集落があったとは思われません。

木村礎氏の「日本村落史」によると、江戸時代の津久井郡小淵村に「藤野」という小名(≒小字)があったとのことです。藤野駅のそばに「藤野」という小字レベルの地名がありますが、これが小名藤野の名残と考えて良いのでは。したがって、スピカさんが仰るように、小字藤野が鉄道駅の名称に採用され、さらに藤野町の自治体名まで成り上がったのは間違いないだろうと思います。
なお、元史料は「新編相模国風土記稿」ということなので、念のために、大きめの図書館で小淵村の項を確認しておいた方が良いとは思います(「新編武蔵風土記稿」と違って、近代デジタルライブラリーには収録されていないのです)。

[73420] 蒼の狼 さん
脇町出身の友人に尋ねてみたのですが、
見事に「わきまち」って答えてくれました。
ちなみに、その人いわく脇町地区だから「わきまち」で
岩倉地区だったら「わきちょう」って答えるかもと言ってましたが…どうでしょう??
わざわざ調べていただいて有難うございます。
これは、町民には町名が「わきちょう」であることが周知されているため、旧岩倉や旧江原の出身者なら「わきちょう」と答えるものの、ご友人は旧脇町(脇町、猪尻、北庄)の出身であるため、プライドにかけても「わきまち」と呼ぶ、と理解して良いのでしょうか。ますます、分らなくなる気もしますが。

[73314] なると金時さん
前からずっと思っているのですが、鳴「戸」と誤記される例が恐ろしく多い気がします。
上の名望家はそう書いてました(笑)
約100年前くらいのですが、その時も「鳴門」だった筈なんですがね…。

もともとは鳴「戸」や鳴「渡」の表記が行なわれており、近世後期以降に鳴「門」が優勢になってきたようです。大相撲の年寄名跡である「鳴戸」や「大鳴戸」は、江戸時代中期頃の表記の名残ではないかと。
明治以降の自治体名等にはもっぱら鳴「門」が使われていますが、100年前なら表記は十分に揺れていたはずで、その名望家には「鳴戸」が正しいと意識されていたのかもしれません。

[73424] YT さん
いつも貴重な人口データをご提供いただき、有難うございます。
あれらのデータを地図上に分りやすく表示してみたいと思っているのですが、なかなか実現できません。

平安末期の平泉の人口を10万人以上と推定した書物について御存じの方がおりましたら教えてください。
次のようなサイトを見つけました。
「奥州平泉黄金の世紀」(荒木伸介 角田文衛 他著)新潮社 1987年5月25日刊に、「今日、平泉町の人口は約一万人である。しかし八百年前には十数万人と推定されている。」という記述があるようです。
実際に書籍を見たわけではないので断言できませんが、人口算定の根拠を記してあるか、もしくは基礎となる資料を明記してある可能性があります。佐貫利雄氏の著作より出版年が早いので、参考になるかもしれません(区立レベルの図書館にもあるようです)。
[73445] 2009年 12月 30日(水)06:08:18oki さん
美波町「日和佐」奥河内
今年分の仕事は何とかやっつけました。帰省前なので、あれこれ手短にレスを。

[73411] hmtさん  なぜ「日和佐」という地名を使わないのか?

「日和佐」の地名があまり使われていない(ように見える)理由として、2つの要因があると思います。
一つは、一般に「日和佐」と認識されている場所に比べ、「日和佐」の住所を名乗る地域が非常に狭いこと。二つめは合併して美波町になった由岐町への配慮だろうと思います。
まず第一の要因について。[73385]で「日和佐は薬王寺の門前町兼漁師町」と書きましたが、これが日和佐に関する一般的な認識で、要するにJR日和佐駅の周辺、日和佐川の河口部に開けた小都邑です。
もともとは日和佐川左岸(北岸)に位置する「日和佐浦」が中心だったと思われますが、ここは面積狭小な漁師町のため、江戸時代から隣接する奥河内に市街地が広がり(奥河内字本村と呼ばれる地域です)、一体的な町場になっていたようです。薬王寺やその門前集落は川の右岸にありますが(奥河内字寺前)、こちらも左岸の集落と一体的な存在だったはずです。さらに明治以降は、薬王寺の南側に牟岐線の日和佐駅が開設され、その周辺にも市街地が広がりました(奥河内字弁財天)。これらの地域を含んだ町場が「日和佐」です。千本桜さん流に言えば、「日和佐へ行く」と言った場合に対象として意識される地理範囲、ということになります(旧赤河内村は「日和佐」ではない)。
「富来」と地頭町、領家町との関係と同じく、日和佐浦と奥河内を併せた一体的市街地が「日和佐」なのですが、富来との大きな違いは、面積で見て奥河内が圧倒的に大きく、駅、町役場、各級の学校など主要施設の大半が奥河内にあることで、日和佐浦に位置するのは大浜海岸とうみがめ博物館(カレッタ)くらいです。それでも、今回の合併前はずっと日和佐町(村)奥河内だったので問題はなかったのですが、合併後は美波町奥河内になってしまったため、駅も役場も日和佐を名乗る地域にはなく、「日和佐」という地名が使われていない、という印象を与える結果になっているのだと思います。
この事態を避けるためには、富来と同様に美波町「日和佐」奥河内のような冠称を着ければ良かったのかもしれませんが、片方が「日和佐」日和佐浦になってしまうので、そうもいかなかったのでしょう。奥河内だけに日和佐を冠称するのも妙な話ですしね。

明治合併以後だけでも 100年以上も使い、売り込んできた地名を捨て去るのは、もったいないことであると思います

私もそう思うのですが、以上の状況からいかんともしがたい、というのが実態だったと思います。ただ、「日和佐」の名は鉄道や道路に残っているだけでなく、人々の意識に深く染み込んでいるので、「美波」が取って代わるまでには1世代以上の時間が必要だと思います。少なくとも、私たちの世代の人間があの町を「美波」などと呼ぶことは、絶対にないでしょう。
なお、美波町のHPではウミガメ博物館の住所が「日和佐字浦370-4」となっていましたが、「日和佐字浦」という住所はなく、近世村の名称をそのまま残す「日和佐浦」です。なぜ町のHPが間違っているかは謎です。

もう一つ、由岐町への配慮という点は私の推測です。前にも書いたように、気恥ずかしいので「ウエルかめ」はあまり見ていないのですが、横目で眺めているところでは、主な舞台は日和佐と徳島市内で、美波町に合流した由岐町はまったく出てこないようです。この状況で、ドラマに関連して「日和佐」を強調した場合、旧由岐町民の日和佐側を見る目が非常に微妙になり、合併町内での旧町民同士の融和に大きな齟齬が生じる畏れがあります。
実際にそういう動きがあるかどうかは分りませんが、昭和合併時に、誰がどう考えても日和佐町による赤河内村の吸収合併であるにもかかわらず、町制施行した赤河内村が(旧)日和佐町を編入した上で(新)日和佐町に改称するという3段階の変更を行なって赤河内に花を持たせた(それ以外に理由はない)日和佐町ですから、今回も由岐側に気を遣ってわざと「日和佐」を目立たせず、「美波」を強調している、としても不思議ではないと思います。あくまで推測ですけどね。

[73413] hmt さん
注目すべきは、藩政村についての6回シリーズを上梓された okiさん が、[71198]以降は「近世村」を使うようになり、既に5つもの記事があることです。
「近世村」の用語は意識して使っています。理由はお察しの通り。私自身は、江戸時代を通じて全県が徳島藩領だった地域の出身ですので「藩政村」でも別に構わないのですが、違和感を感じるという方がいらっしゃる以上、特にこだわるほどのものでもありません。「近世村」なら、藩領、幕領、旗本領、寺社領、公家領、皇室領など、すべてが含まれますからね。
[73385] 2009年 12月 24日(木)04:47:31oki さん
脇町 富岡 橘
現在、年末進行で尻に火がついた状態ですが、これだけ徳島県の話題が出ているのに反応しないわけにはいきません(オッサン仕事大丈夫か?)。

[73370] hmt さん 地方公共団体名称末尾における「町」の読み方 徳島県美馬郡脇町の事例から
いつもながらのお見事な考証、恐れ入ります。
要するに、「わきまち」か「わきちょう」かについて、「町村制」でも現行の「地方自治法」でも法的な根拠は何もないし、「谷保・国立」の関係と違って「わきまち・わきちょう」では改称の対象にすらならない、ということですね。
おそらく、明治大合併期の読みは「わきまち」であったはずで、「わきちょう」が採用されたのは、hmtさんの仰るようにかなり後年、戦後も相当年数が過ぎてからだろうと思います。それも、一部の行政関係者の間の了解事項に過ぎず、町職員の間にすら徹底されていなかったのだろうと推測されます(国勢調査ですら、「わきちょう」は二回だけで最新の2000年調査も「わきまち」ですからね)。
「わきちょう」の読みが「点々」と残っている理由はもう少し追究したいと思いますが、当サイトデータベースの脇町の読みを「わき・ちょう」に変更する必要はないようですね。

[73382] 伊豆之国 さん  美馬さん、穴吹さん
okiさんの故郷・阿南市ではベスト100には惜しくも入りませんが、それでも30数件見られます。
小学校~高校を通じ、「美馬」という名字の同級生が一人だけいました。とても可愛い女の子でしたね、当時は。

[73383] hmt さん  徳島県人の北海道移住
徳島県立文書館の開館10周年記念特別展・北海道の開拓と徳島県人 を見ると、明治4年の稲田家臣団による静内地方移住がその先駆だったようですが、その後も 徳島県から北海道内各地への移住が行なわれています。
稲田家臣団による静内移住は、hmt さんの引用された展示図録pdfにもあるように、いわゆる庚午事変(稲田騒動)が原因です(この間の経緯は、「北の零年」という映画にもなったはずです)。
稲田氏は、徳島藩への淡路加増以降、洲本城代を勤めた藩の筆頭家老ですが、洲本に引っ越す前は脇城を預かっていました(それだけ脇が重要な場所だったということですね)。
徳島藩は、幕末に至るまで実効性のある地方知行を維持した藩で、淡路移住後の稲田氏も美馬郡を中心に多数の給知を持ち、それを支配するため脇町の隣の猪尻村に猪尻役所と言われる屋敷を置いていました。当然、そこには稲田氏の家臣がいましたが、「農民の出自で農業兼務するものが多かった(日本歴史地名大系)」ということですから、美馬姓の人もいたはずです。北海道の美馬さんには、「永山兵村」との関係のほか、このような稲田氏関係の人もかなり存在するのではないかと考えられます。

[73371] 千本桜 さん スーパータウン
[73373] 白桃 さん 名探偵アナン

人口は41,343人だそうです。昭和30年に4万人を超していた、このスーパータウンはどこでしょう。当時の町名と現在の市名をお答えください。落書帳メンバーの中には、あ!なんだ、と即答できる方がいらっしゃいます。
ではズバリ、香川県のお隣にある県の富岡町。(現在は阿南市)
私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
(お二人まとめて引用してすみません)

ん~、当時の富岡町があの大河原にも匹敵するような「スーパータウン」であったとは、地元民ながら想像しなかったですね。
もっとも、1955年(昭和30)10月1日における富岡町は、54年3月に中野島村、、宝田村、長生村、大野村、55年1月加茂谷村、そして同3月に見能林村を合併した上での人口で、しかも58年5月には橘町と合併して阿南市が誕生しており、短い期間の水増しスーパータウンと言うべきかもしれませんね。
富岡町自体は、脇町などと並ぶ江戸時代からの町場です。脇と同じく小城下町で、蜂須賀氏の阿波入部直後、脇町の稲田氏に対し、こちらは賀島氏という家老が配置されています。城は本来牛岐城と呼ばれていましたが、賀島氏によって富岡と改名されています。
富岡町は、江戸時代を通じて阿波南方(みなみがた)の政治・商業の中心地でした。阿波南方とは、現在の阿南市を含む那賀郡、海部郡です。阿南市というのは、「阿」波「南」方を略した呼び方なのです。
阿波南方の中心地という富岡町の在り方は明治以降もそのまま維持され、現在に至っています。と言っても、阿南市を含む那賀・海部両郡の人口は、もっとも多いときでも15万人を超えたことがないという状態で、その面積は1500平方キロもありますから、人口密度は100人に達しません。

[73373] 白桃 さん
この富岡の街、1974年頃歩いたのですが、商店街は結構長かったです。ただ、アーケードはありませんでした。そして、言っちゃなんですが、なんとなく野暮ったい。

白桃さんが富岡の街を歩かれた1年後に、私はこの街の高校に入り、3年間を過ごしました。ま、白桃さんが仰るとおり、野暮ったいのは確かですね。上記のように阿波南方は人口希薄な地域で、徳島市や脇町など北方(きたがた)からも田舎扱いされているので、垢抜けていないのは紛れもない事実です。
で、誠に残念なことですが、白桃さんが歩かれた、長いけれどもアーケードのない、野暮だけれどもそれなりに活気のあった富岡の商店街は、現在壊滅状態です。街の東側、新しくできたバイパス沿いに2件の大型店が開業したため、駐車場のない旧来の商店街は顧客を奪われてシャッター通りと化しています。この商店街がかつての賑わいを取り戻すことは、まず望み薄です。まことに残念ながら。

私も前々から不思議だったのですが、富岡はなぜこの時点で市制施行しなかったのでしょうか?
群馬県に同名の市があるから???、まさかね・・・。橘との合併を待って、おもむろに、いや一挙に五万人超の市を目指したのでしょうか?

橘は1955(昭和35)年3月に福井村、椿町、新野町という阿南市南部の町村を合併しています。おそらく、富岡と橘が合併して新市をつくるのは規定の方針で、富岡単独で市制を敷かなかったのはそれが原因だと思います(この点は今回帰省した際に確かめておきます)。
私の出身地は、富岡ではなく橘の方です(狭い町なので、ここまで言うと町民にはほぼ正体がバレてしまいますが、この掲示板を見ている人は居ない、でしょう)。結構古い港町で、室町時代には橘船籍の船が兵庫港に出入りしている記録が残っています。私が子供の頃も港町・漁師町で、5000人の人口が山と海の間の狭小な平地に密集する、それなりの町場でした。
今は、あまり口にしたくない惨状を呈しています。子供の頃に500人いた小学校の在校生が、現在は200人を切っているというだけで一端が分ると思います。5000人の人口が3000人台に減り、減少したのは若い世代、ということです。

以下は、個人的な愚痴なので読み流してください。
この町に、3箇所の火力発電所があります。昭和40年代にできた四国電力阿南発電所と、2000年に完成した四電の橘湾発電所、電源開発の橘湾火力発電所です。後の2つは小勝島という離島を埋立てた石炭火力発電所で、発電した電力はすべて、紀伊水道の海底に敷設したケーブルを通して近畿地方に送電しています。
江戸時代の近世村の範囲に3箇所の発電所がある町というのは、全国的にも例がないだろうと思います。それで町が発展するなら我慢もしますが、30年前と比べて人口が4割近く減っているわけで、発電所の誘致がわが橘町にとっては何の役にも立っていなのは明らかです。阿南市と徳島県のアホ役人、この惨状をどないしてくれるんじゃ。
あくまで個人的な愚痴です。読み流してください(私自身が現在は町を離れているわけで)。

日和佐、牟岐は行ったことが無いのでわかりません。「ウエルかめ」の日和佐は風光明媚だし、薬王寺さんもあるし、一度は行ってみたいです。
日和佐も牟岐も良い町です。日和佐は薬王寺(地元民は「おやくっさん」と呼びます)の門前町兼漁師町で、活気のある町でした(過去形です。残念ながら)。「ウエルかめ」はたまに見ているのですが、出演者の喋る阿波弁のアクセントが微妙にずれていて、気恥ずかしくなるのですぐに消してしまいます。でも、これで徳島の南方を多くの人が知って、訪れる人が増えればいいなとは思っています。
宮脇俊三氏が書いていたのですが、四国というのは、全国を行き尽し世界各国にも足を伸した旅人が「そういえば四国には行ったことがないな」と、ふと気づく地域だそうです(宮脇さんは香川が本貫なので、悪口ではなく実感でしょう)。
その四国の中でも、もっとも観光客が行かない地域が、阿波の南方と高知県東部です。大した観光地がないのと、室戸岬周辺は鉄道がなかったことが主因でしょう。したがって、日本国内でもっとも観光客の少ない地域、ということができるのではないかと思います。「ウエルかめ」の放送で、全国の皆様にこの地域を知ってもらい、観光客が増えることを切に願っております。
落書き帳の皆様も、暇な折には牟岐線と阿佐海岸鉄道に乗ってやって下さい(お前は徳島県観光課か?)。

愛郷心あふれるokiでした。今から仕事にかかります。
[73362] 2009年 12月 20日(日)18:15:01oki さん
脇町関連レス
少しサボった間に脇町関係の書き込みが沢山。申し訳ありませんが、まとめてレス。

[73358] 美馬をみて美馬しょう 白桃さん
[73357] 頑張れワッキー 千本桜さん
[73352] ふと思い出して なると金時さん
[73342] うだつが上がらぬ話ですが‥ 伊豆之国さん
[73331] ワッキー 白桃 さん
[73326] 脇町 なると金時さん

脇町の地名の由来は、脇町市街の北にあった脇城です。元々は西隣の岩倉村に岩倉城があり、戦国時代、その東脇に築かれた支城に脇の名が付けられました。城下の町場をつくったのは、織田信長登場以前に畿内を制覇した三好長慶のようです。
最初は、「脇」と「町」が一体であったわけではありませんが、江戸時代を通じて吉野川中流部北岸における商業の中心地として発展し、その間に「脇町」が固有地名として定着したと考えられます。
白桃さんの仰るとおり、
徳島県は、高知県ほどではないいにろ、首邑の「一人勝ち県」だった
ため、江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。ほかに、池田にも村の一部に町場がありました(白桃さんご指摘の撫養は、村や町の名称ではなく、現鳴門市中心部にあった製塩地帯の総称です)。
これらの地域は明治以降も地域の中心で、各種の公共機関が置かれましたが、なると金時さんが言われるように
脇町の脇町地区にある高校だから、脇高校ではなく、脇町高校なわけですね
ほかの町場にできた高校は池田高校、川島高校、富岡西・東高校という具合で、「町」がついているのは脇町だけです。裁判所、警察署などの名称も同様で、江戸時代に定着した「脇町」地名の一体性は現在も強固に残っています。この場合の読みは、言うまでもなく「わきまち」です。

それだけに、町長自らが「わきちょう」と称しているのにいささか驚いたわけなのですが、公的な資料も含めてほとんどが「わきまち」なので、自分でも本当かいな、と思っている部分はあります。しかも、すべてが「わきまち」ではなく、「わきちょう」とする資料もポツポツあるので、判断に迷います。真鶴町のように官報か何かで確認できれば良いのですが。

ところで、恥ずかしながら、私自身は脇町に行ったことはないのですね。
私の育った徳島の県南地域と、脇町など県西部との間には直接の連絡ルートがなく、鉄道はもちろん自動車で行くとしても、いったん徳島市を経由する必要があります。そのため、両者間の交流が薄いことが一つの要因。
もう一つは、伊豆之国 さんが書かれているように、現在の脇町は「うだつ」で有名ですが、私が県人であった頃は県内でも知る人が少ない状態であったこと。当時、県内の小学生は、脇町の東隣、阿波町にある「阿波の土柱」は必ず遠足で行きましたが、脇町まで足を伸すことは皆無でした。「うだつ」が有名になったのは、おそらくは1980年以降で、全国的な知名度を得たのは1988年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されて以降だと思います。

[73357] 千本桜さん
たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
丁寧な考証、恐れ入ります。確かに、脇町の人口が横這いを維持し得たのは、工場誘致、具体的には松下寿電子工業(現パナソニック四国エレクトロニクス)の脇町工場を誘致できたからのようです。
1970年以降、脇町には多いときで2,000人以上の工場従業者が存在しました。その多くが松下寿や関連工場の従業者でしょう。就業者総数が8,000人程度の町ですから、波及効果を含めて工場の影響力はきわめて大きい。穴吹、貞光、美馬など周辺諸町の工場従業者は1,000人に届かない状態でしたから、その相違が人口増減の差に連動したと考えられます。
ただ、1990年以降、その工場従業者が急速に縮小をはじめ、2004年には935人まで減っています。原因は言うまでもなく、製造業の海外展開に伴う「空洞化」でしょう。平成12年の「少し目立つ人口減」はこれが主因と考えられます。今後も、国内製造業が雇用を増やす事態は予想しにくいですから、脇町地区も急激な人口減少に見舞われるかもしれません(とても悲しいことですが)。
[73320] 2009年 12月 16日(水)11:55:35oki さん
みまぐんわきちょうおおあざわきまち
[73316] 白桃 さん
美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきまちおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち
ではないのでしょうか。
脇町は行ったことが無いのですが、「ちょう」と呼ばれるところが多い中で、いつも「まち」と呼ばれていたのを覚えております。

誰しもそう考えると思います。私もずっと「わきまち」だと思っていました。しかし、ある資料によると、美馬郡脇町は「わきちょう」だったようです。
資料というのは「美馬郡東部・北部合併協議会会議録」の第12回分(2004年1月8日)。合併新市の字名に関する協議が行なわれた中で、脇町の読み方に関するやり取りがあります。少し長いですが、そのまま引用します。
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【宇山勝委員】(美馬町学識経験者)
美馬町の宇山です。脇町は「ワキマチ」と読むんですか。「美馬市脇町(ミマシワキチョウ)字脇町(ワキマチ)」とくるんではないんですか?美馬町(ミマチョウ)、穴吹町(アナブキチョウ)、木屋平(コヤダイラ)云々で脇町(ワキマチ)って今、脇町(ワキマチ)というのは大字になるんではないのですか。この徳島県は大体、町村名は「チョウ」で、まあ独立した町ではないけど。
【西正二会長】(木屋平村長)
「チョウ」だそうです。脇町(ワキチョウ)。
【宇山勝委員】
分かりました。
【事務局・西岡】
すいません失礼します。この調整方針を頂いたときに町の担当者の方とも協議いたしたわけでございますが、その時には、私が聞いておりましたのは合併後脇町の名前は「美馬市脇町(ミマシワキマチ)」でいくっていうことで一応確認はさせていただいたのですが。
【佐藤浄委員】(脇町長)
今まで公式の町名表明の時は「ワキチョウ」あるいは「脇町長(ワキチョウチョウ)」という表示をしとったんですが、住所表示の場合は今まで「ワキマチ」という住所表示をしとるようであります。今後、住所表示については「ワキマチ」で統一したいと思います。
------------------------------------------------------

当時の脇町長の発言などにより、「地方自治体としての脇町」の名称は「わきちょう」であったと思われます。したがって美馬郡脇町は「みまぐんわきちょう」。自治体の下の住所表示は「わきまち」なので、「大字脇町」は「おおあざわきまち」。
一方、美馬市に合併後は自治体としての脇町は存在しなくなるので、どのレベルでも住所表示であり、「美馬市脇町」は「みましわきまち」と言うことのようです。
ですので、問題の答えは次の通り。

美馬郡脇町大字脇町→みまぐんわきちょうおおあざわきまち
美馬市脇町大字脇町→みましわきまちおおあざわきまち

しかし実際のところは、ごく一部の行政関係者を除き、町民を含めて誰も「わきちょう」とは言ってなかったと思います(自ら解答を否定するようですが)。Wikipediaには「合併前は徳島県内の町で唯一「まち」という読み方であった」と明記されており、それが一般的な理解だったと考えられます(Wikipediaの信頼性はともかくとして)。当サイトの「データベース検索」の結果でも「わき・まち」になっていますし。
ネット上で調べると、「わきちょう」になっているサイトがいくつかあり、一つがIssie さんのここ。ふりがなとして「わきまち」、「わきちょう」が併記されていて、「わきちょう」には「国調:70,85」の注があるので、この年の国勢調査だけ「わきちょう」だったようです。

おそらく、町としては他の県内自治体に歩調を合わせて「わきちょう」の読みを採用したものの、固有地名が「わき」ではなく「わきまち」と認識されているため、誰からも「わきちょう」と読んでもらえず、実態としては自治体名も含めて「わきまち」と呼ばれていたのだと思われます。
したがって、白桃 さんのご解答は必ずしも間違いではない、とも言えます(どっちなんかはっきりせんかい)。お騒がせでした。
[73311] 2009年 12月 15日(火)13:40:13oki さん
簡単な地名の「読み」その2
[73310] N-H さん
あと、難読地名の話題になると私が必ず出すのが「大分」。
あまりに簡単な字だし、常識だから皆難読知名だとは思わないけど、これを「おおいた」と読ませるのは非常に難しいと思うのですが。

日本書紀巻七景行天皇十二年十月の条に次のような記載があります。
「冬十月。到碩田國。其地形廣大亦麗。因名碩田也。〈碩田。此云於保岐陀。〉」
同じエピソードが、豊後国風土記では次のようになっています。
「昔者 纏向日代宮御宇天皇 従豊前国京都行宮 幸於此郡 遊覧地形嘆曰 広大哉 此郡也 宜名碩田国 碩田謂大分 今謂大分」

以上から、「大分」を「於保岐陀=おほきた」と読むことが分かります。「おおいた」はイ音便の形ですね。
「分」は古語で「きだ」と読みます。白川静氏の「字訓」によれば次のような意味です。
「幾つもの部分に分れ刻まれているもの。「刻む」と同梱の語であると思われる。」
したがって「大分」とは、大分郡の地形が、低い丘陵と河川が錯綜し、多くの谷底平野と小台地からなって複雑であることを表現したもの、と考えられているようです。

同じように「分」を「きた」と読む地名として、筑前国鞍手郡新分(にひきた)郷があり、肥後国葦北郡は葦分郡と書かれることがあります。鞍手の新分は、現在新北と書かれています。

でも、良く考えるとどうして「慶喜」が「よしのぶ」なんですかね。
これは、いわゆる「名乗り訓」と呼ばれる読み方です。明治以前の公家、武家の実名に用いられる漢字を「名乗り字」と言い、名乗り字特有の読みが名乗り訓です。名乗り字以外の場合の訓とかけ離れた読みが少なくありません。
簡単なところでは、源頼朝や徳川光圀を読めない人はまずいないでしょうが、なぜ頼を「より」、光を「みつ」と読むのか、説明できる人も少ないと思います。
漢字が日本に伝わった当初は、さまざまな読みが当てられたものの、時代の変遷とともに常訓と言われる一定の読みが固定しました。名乗り訓は、常訓にならなかった古い読みが残存したものと考えられています。
詳しくはこちらの書籍をお読み下さい。
[73308] 2009年 12月 15日(火)08:27:39oki さん
簡単な地名の「読み」
次の地名は、平成の合併によって表記が変わっただけで、同じ場所を表しています。
両者の正確な読み方をひらがなでお答え下さい。

美馬郡脇町大字脇町
美馬市脇町大字脇町

ずっと読み方を間違っていました。同じ県内なのに。
[73286] 2009年 12月 13日(日)18:00:36oki さん
「立科のくびれ」の原因に関する私見
[73235] じゃごたろ さん  蓼科神社
[73238] hmt さん 長-----い参道

お二人の書き込みを受けて、いわゆる(誰が言うとるんや?)「立科のくびれ」の成因について、歴史的な観点からの私見を記しておきます。

まず話の前提として、現在の立科町を構成する近世村は、芦田村、山辺村、塩沢村、細谷村、藤沢村、牛六村、宇山村、茂田井村の八ヶ村です。中心となるのは、慶長年間に設置された中山道の芦田宿や、宿形成以前の中心地である古町を抱える芦田村です。それ以外の村々が本格的に発展をはじめたのは、江戸時代になって、[72008]でhmtさんが言及された塩沢堰や、八重原堰、宇山堰など、蓼科山を源流とする用水路が開削されて以降のことです。

次に蓼科神社は、上記の旧芦田村古町に里宮が、蓼科山頂に奥宮があります。元慶2(878)年、日本三代実録に「信濃国正六位上蓼科神」とあるのが史料上の初見とされています。里宮と奥宮があるのは日本の神社の古態ですから、元慶年間以前のきわめて古い時代から神社が存在し、里宮と奥宮を結ぶ道も確保されていたと思われます。

三番目に旧芦田村と白樺高原を結ぶ県道40号線に位置する雨境峠。ここは古くから諏訪と佐久を結ぶ交通の要地で、峠から分岐し佐久市中心部に向かう県道152号線のルートは、古代東山道設置以前に信濃国と中央とを結ぶ路線であったと見られています。戦国期に武田氏が甲府から諏訪を経て佐久、小県に軍勢を進める場合も雨境峠を経由しています。
峠には勾玉などが出る古墳時代からの遺跡もあり、蓼科山の祭祀が行なわれていたようです。

さて、ここからが本題。
蓼科山は円錐型の山容をした火山で、広い山腹斜面を有し、山麓からは地下水を源泉とする多くの沢や川が流れ出ています。下流の村々はこの川を用水として利用しており、村の形状は必然的に、川の流れに沿った細長いものになります。平成合併以前の佐久市、臼田町、佐久町などが蓼科山を中心とした縦長の形状を有していたのはそのためで、立科町もその事例の一つと言えます。
ただし、これだけでは立科町の領域は雨境峠までに留まったかもしれません。白樺高原をも領有している理由は、[72008]でhmt さんが触れた以下の点にあります。
その由来は江戸時代に遡ります。
すなわち、北部が本来の芦田村で、南部の蓼科山麓は、佐久(北)と諏訪(南)との入会地でした。

近世初期、現在の白樺高原地域は、諏訪方九ヶ村(現在茅野市)と佐久方八ヶ村(現立科町を構成する上記8村)の入会原野でしたが、半世紀以上にわたって争論が続いたあげく、延宝5(1677)年に佐久側の領有とする裁許状が出ています。
このとき決め手となったのが、上記の塩沢堰、八重原堰などがすでに引かれており、それに諏訪側から異論が出ていないことです。また、芦田村に住む(里宮の)神主が、立科山上叢祠(奥宮)の管理を行なっていることも佐久方勝訴の理由の一つとしてあがっています。
こうして、雨境峠の南側が佐久側八ヶ村の入会地と認められたのが、現在の「立科のくびれ」をもたらした直接の原因です。明文の裁許状により、この地域への諏訪側の立ち入りが禁止されて佐久側の独占に委ねられ、それが現在の自治体の境界として維持されているわけです。
もっとも、その前提として、佐久側の住民が蓼科神社奥宮の祭祀に関わっていたことがあります。そのための道を「長ーーーーーい参道」と呼ぶかどうかはともかく、芦田村などと蓼科山を結ぶルートは古い時代から確保され、またその道を通って、江戸時代の村人たちも入会地に出入りしていたわけです(入会地で採取したのは主に、刈敷と呼ばれる肥料用の草と思われます。近世の農業には必需の産物ですから、神社関係以外にも多数の村人が、雨境峠を越えて蓼科山山腹までの道を往復していたと考えられます)。

ただし、多数の村人が通っていたとしても、近世の道はけもの道に近いものであったと考えられます。本格的な道路は、六川源左衛門なる人物が、明治14年以降20年以上をかけて、ほとんど独力で開削したもので、これが現在の県道40号線の基礎になったと言われています。
上記塩沢堰を開発したのは六川長三郎勝家という武田家に仕えた元土豪で、六川家は代々、堰を契機に開村した塩沢新田の実質的な支配者でした。六川源左衛門は六川家の出身者もしくは関係者でしょう。現在のように、観光地としての白樺高原が発展するきっかけを作ったのは、この六川源左衛門氏です。
[73283] 2009年 12月 13日(日)11:34:30oki さん
地図をつくろう、など
大変ご無沙汰しています。
ここ一月ほど、久々に業務が繁忙になり、落書き帳は横目で眺めてはいるのですが、書き込むまでの時間が取れませんでした。
今日はいくつかまとめてレスを。

あ、その前に大変遅くなってしまいましたが、落書き帳十周年おめでとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。

オフ会は楽しそうですね。特に石島ツアーには関心を持っていたので、[72970] [72971] 石島探検(前・後編) ニジェガロージェッツさん、などは楽しく読ませていただきました。
瀬戸内海の島つながりと言うことで、[73276] 小松原ラガー さん
島買いませんか?って言われても・・・。
みんなで買い取ってオフ会の会場にするとか・・・。あほな・・・。
正確な場所はここです(呉市音戸町渡子2丁目)。細長い、軍艦みたいな形の島ですね。干潮時には南隣の島へ歩いて渡れそうです。オフ会の会場にする場合は野宿でしょうか。飲み会の肴は廻りで泳いでいそうですが。

[73190] 播磨坂 さん
道路と等高線だけの地形図とかってないんでしょうかね?
紙の地図では難しいかもしれませんが、電子地図であれば可能です。
こちらのサイトで、基盤地図情報(精度レベル25000)をWMS(Web Mapping System)で配信しています。
配信情報には行政区画、建物、水涯線、軌道中心線、等高線、道路縁などがありますが、QGISなどWMSに対応したフリーのGISか、グーグルアースを使い、等高線と道路縁だけを表示させれば、まさに「道路と等高線だけの地形図」を見ることが可能です(グーグルアースは見にくいので、QGISの方がお勧めです)。
ただし、2万5千分1地形図レベルなので等高線は10m間隔ですし、都心部は細かい街路が多数通っているので、あまり分かりやすいとは言いかねます。
それであれば、[72797]で播磨坂さん自身が触れられた東京地形地図には等高線のレイヤもあり(もちろんご存じでしょうが)、こちらは2m間隔なので、東京の低地では見やすいでしょう。

そして、これらよりさらに推奨したいのが、自分で地図をつくってしまうこと。
現在、国土地理院の基盤地図情報では、2万5千分1地形図から作成した10m(0.4秒)間隔のDEM(Degital Elevation Model 数値標高データ)を全国レベルで整備し、東京など大都市を中心に航空レーザ測量で得られた5m(0.2秒)間隔のDEMも順次増えています。これらのDEMデータは、自由にDLし、利用することができます。
かつては、DEMからの地図作成には大変高価なGISソフトが必要で、素人には手が出しにくいものでしたが、現在は高性能のフリーGISであるGRASSがWindowsに対応するようになったので、DEMさえ入手すれば、地形を表す地図を誰でも簡単につくれます(先の東京地形地図自体も、陰影段彩図や等高線は5mDEMから作成したものです。GRASSを使ったかどうかは分かりませんが)。
このやり方だと、等高線の間隔も自由に設定できますし、傾斜図とか流域図など色々な地図も作成できます(どのような地図がつくれるかはScreenshotsをご覧下さい)。もちろん印刷もできるので、紙の地図としての利用も可能ですよ。

私は、東京の5mDEMから、赤色立体地図をつくってみました(リンク先は見本で、私が作成したものではありません)。東京の赤色立体地をグーグルアースに貼り付けた上で、東京地形地図の2m等高線を重畳すると、文京区辺りの地形と標高がよ~く分かります。例えば、播磨坂(道路の方です)は標高8m弱の地点で都道436号から分岐、等高線と直交しながら小石川台の斜面を駆け上がり、その尾根線を走る国道254号(春日通り)と標高26m強の当たりで合流しています。標高差は18m強。この間の道のりは約500mなので、平均勾配は36‰以上ということになります。箱根登山鉄道で小田原~強羅間全区間の平均勾配が35‰なので、それと同程度。相当な坂道ですね。

等高線の間隔を1mにすれば、もっと正確な標高差が出せます。挑戦なさいませんか?
[73200] Issie さん
やはり,技術の進歩は素直に評価しなくては。
技術の進歩を評価するだけでなく、自分で活用できればもっと良い、ですよね。
[72780] 2009年 11月 7日(土)04:59:58oki さん
第二十四回十番勝負 悪戦苦闘記
十番勝負は第1回から「見て」いましたが、参戦したのは今回が初めてです。回答しなかったのは、考えても分からなかったから、という単純明瞭な理由ですが、今回はつい問十に答えてしまったのを契機に参入してしまいました。
はっきり言って悪戦苦闘の毎日でしたが、最終的には完答でき、本人としては大満足です。最初の感想なのでやや長くなってしまいましたが、素人が準備もなしに参加するとどうなるか、の事例としてお読み下さい。

問十:徳島市
■幕末10万石以上の藩があった市(十万石格は除く)
今回も参戦するつもりはなかったのですが、何気なく問題を見ていて、これが「分かってしまった」のがすべての始まりです。
お題の市で、行田と柳川には城があり、金沢、岡山、萩は言わずもがな。土浦と明石にもあったはずで、これらが除外される理由は何かと考えました。行田(忍)、土浦、明石は譜代の中小藩、他は外様の大藩なので、藩の規模だろうと見当がつきました(石高談義もあったことですし)。
土浦藩と忍藩を比較し、前者が江戸時代を通じて最高9.5万石、後者が10万石に達していることから、10万石以上が対象と考えました。この時点での先行回答が久留米市(なると金時さん[72264])、高松市(おがちゃんさん[72275])だったこともあり、間違いないと判断。記念すべき最初の回答なので、徳島市を選択したところ、なんと銅メダルを獲得してしまいました。
ただし、この時点では「幕末」ではなく、江戸期を通じて、と考えていました。明石藩を調べなかったのは、大した石高ではないはずという思いこみがあったためで、初期に10万石であったことや、幕末時に10万石格であったことは気が付きませんでした。そこまで調べていたら、条件の絞り込みに手間取ってメダルには手が届かなかったと思います。

ここで、[72283]油天神山 さんから
わあい、okiさんが十番勝負に参加だ♪
という合いの手が入り、何となく引くに引けない、という感じになってしまいました。

問五:笠岡市
■市の花に菊(○○菊も含む)を制定している市
ま、当然のことですが、他の問題はいくらお題の市を睨んでいても何も思い浮かばず。
今回はすべての問題に岡山市が含まれているので、こっちの方から攻めてみようと思い、公式HPやWikimediaで岡山市のプロフィールを調べにかかりました。
市の花が菊というのが目に止まり、菊なら市花にしているところが数十あっても不思議ではないと考え、検索をかけると八戸市、武生市が引っかかってきました。山武市は野菊だったので少し手間取りましたが、お題の全市が菊ということで(菊川市は、調べる必要もないと判断)間違いないだろうと。徳島県や四国にはなさそうなので、岡山県から笠岡市を回答。

問七:旭川市
■中核市に指定された市(過去の指定も含む)
お題に重量級の市が並んでいるので、中核市はすぐに連想しましたが、岡山、静岡が政令市だからという先入観が働いて検討対象から除外。先行回答に守山市、舞鶴市などがあったのも判断に影響しました。
しかし、これら軽量級の市が誤答になっていたため、改めて中核市のリストを確認すると、政令市になった市を含めた数がちょうど46になり、これで間違いないと確信。四国もしくは中国地方の市を答えたかったのですが、残っていなかったので、リストの最初にあった旭川市で回答。

問八:総社市
■東○○駅がある市(○○は市名)
お題を見ていても何も浮かばないので、地図を眺めてみるべいか、と中間市を見ていると、筑豊本線の中間駅と筑豊電気鉄道の東中間駅を発見。瞬間的に松戸ー東松戸、府中ー東府中という連想が働き、非該当市の広島市と東広島市は同一市になければ駄目との条件だろうと考えました。他のお題の市や既出回答も検討した上で間違いないと判断、岡山県から総社市を回答しました。

ノーヒントで分かったのはこの4問。
第一ヒントのアナグラムは問九を除いてすべて解けましたが、まったく参考にできず。第二ヒントが出て次の正答をするまでに何と6日間を要したのでした。

問一:阿南市(誤答)→山陽小野田市
■市役所の住所が1-1-1の市
第一ヒントの「阿見町も該当」は分かったので同町の地図を見ると、最初に目に飛び込んできたのが「阿見町総合運動公園」。ひょっとしてこれかいなとお題の市で調べるとすべてに該当。いくつかの既出市にも当て嵌まったので間違いないだろうと考え、「南部運動公園」のある、わが阿南市から回答するも、見事に誤爆。後で確認すると運動公園はあちこちにあってとても71市では収まり切らない様子。
その後はまったく分からなかったものの、第二ヒントが「一が沢山」と解けた時点で「住所かも」と思いつき、岡山市の市役所所在地を確認したところ「北区大供1丁目1番1号」。お題の市や既出市も検討し、間違いないと判断。四国も岡山県内も残っていなかったので、中国地方から山陽小野田市を回答。

問四:玉野市
■読みの最後の文字を取ると別の市になる市
これも第二ヒントが「最後が不要」と解凍できた時点で共通項が判明。数少ない残り想定解の中から、岡山市に隣接する玉野市を回答(宇野港から直島を眺めていたことも思い出したし)。

問六:長崎市
■市制施行または新設合併後、6回以上編入合併した市(市制施行日の編入は数えない。同日の複数編入は1回と数える)
第一ヒントの「高岡市はリセット」が解けた段階で、市町村変遷情報をチェックして高岡市が最後の合併時に新設合併していることを確認。編入合併のみだということは分かったものの、合併回数の条件が分からず。第二ヒントを「九州も管内」などと解いたおかげでよけい訳が分からなくなってしまう。「何回も吸収」の解が示されて、やはり編入合併と判断し、まず回数条件を満たすだろうと思えた長崎市を回答。

問九:行田市
■「く」ではじまる市に隣接する市(架橋隣接も含む)
第一ヒントは「野田市は大神楽」もしくは「小野市は大神楽だ」、第二ヒントも「名取はきの次」と解いてしまってよく分からず。第二ヒントの解「隣はきの次」が示された時点でやっと気が付きました。
今治市がお題に含まれているので、架橋隣接もありなのだろうとは思いましたが、安全のため行田市で回答(問十でお世話になったことだし)。

問三:大洲市
■「農業高等学校」がある市
これが分かったのは、完全無欠の偶然。
第二ヒントの解「帰農傾向」から、耕地面積の増加した市など農業関係の統計データに当たるも、ことごとく外れ。仕方がないので南国市の地図を見ていて、高知大学があるのを発見。ひょっとして農学部か、と検索するとピンポーン。やったね、府中には農工大があるはずだし、総合大学たる岡山大には農学部もあるだろうと。ところがさすがに朝倉市には大学そのものがなし。
一瞬唸ったものの、農学部でなければ農業高校ということで調べると、これでビンゴ。既出回答から「農業高校」という厳格な表現が求められると判断し、四国の残っている市として大洲市を回答。

問二:鳴門市(誤答)→八王子市
■女子大学(四年制)のキャンパスがある市
お題の中で大村市が異質かな、というのは誰しも考えることだと思います。
公式HP、Wikimedia、地図で大村市を調べまくり、最初に辿りついたのは大村公園が「歴史公園100選」に該当すること。他のすべての該当市にも100選に選ばれた公園があるため、これで良いだろうと考え、ドイツ村公園のある鳴門市で回答するも、誤回答。後で精査したら、歴史公園100選には200以上の公園が選定されており、該当市は少なく見積もっても100を超えるようでした。
あとは、「文京区も該当」「減少傾向」のアナグラムは解けるものの、それがどうした状態。統計関係の問題がないため、おそらくそれだろうと即断し、岡山市が含まれているからには量的な面ではなく比率関係で減少しているデータと考え、各種数値の推移を検討するも、すべて駄目(このために「統計でみる市区町村のすがた2009」をDLし、1枚のシートにまとめた上で02年のデータと比較してみたのですが)。
結局、第三ヒントの「男は行けない」が解けた段階で、「文京区」「減少傾向」との連想でお茶の水「女子大」が浮かびました。とにかく大村市を検証しなければと思って調べたところ、活水女子大学を発見。他のお題市は検証の必要もなしということで、既出市をいくつか見た上で確信。残っていた市の中から八王子市を答え、やっと完答できました。
ところで、活水女子大学看護学部は大村市の国立長崎医療センター内に設置されていますが、09年4月の開設から日が浅いためか、マピオンには記載されているのに対し、グーグルマップ、ヤフーマップには載っていません。今回は地図としてヤフーマップを使っていたため発見できなかったのですが、マピオンならもっと早く回答できたかもしれません。
-------------------------------------------------------------------

このような次第で、今回完答できたのは偶然の連鎖による奇跡に近い、と自分では考えています。最初の回答から完答まで11日を要しており、その間は七転八倒、夢で共通項が浮かんだので検証したら間違いだったということが二回ありました。
それだけに、共通解が見つかると本当に嬉しかったですね。このような、(何の見返りもない)純粋に知的な快感を味わったのは久々のような気がします。今回の問題が過去に比べて難しかったのかどうかは判断がつきませんが、すべての問題に岡山市を入れるという条件から、作成には苦労されたのではないかと思います。楽しませていただき、まことに感謝申し上げます。

次からはどうしようかな~。本気で参入するには過去問を分析した上で「傾向と対策」が必要だろうし、各種のデータベースをすぐ使える状態で整備することも考えなくてはいけない。次回までにはとても間に合わないので、参戦するとしても完答は無理かな、と思っています。あ、地図は次からマピオンを使います。

以上、長々と駄文にお付き合いいただき、ありがとうございました。
[72750] 2009年 11月 3日(火)23:38:04oki さん
石島の人口
[72627] hmt さん
「石島」は、8島の中で唯一の有人島で、面積も 2.72km2あります。集落のある島の北部・岡山県側の面積は約3割。人口は2008年3月末で 116人(上記岡山県HP)。[24364]の 149人に比べて減少しています。
国勢調査資料によりこのテの局部人口を調べる方法についての記事があったと記憶しますが失念。ご存知の方があれば教えてください。

岡山オフ会には行けませんが、分かる範囲のことを。

「このテの局部人口」とは、一般に町丁大字(字)別人口と呼ばれるものだと思います。玉野市だけでなく、市のレベルの自治体であれば、少なくとも1年に1回程度は町丁大字別人口を調査し、HPにも掲載しているはずです(平成大合併で新しく市になったところは危ないですが)。
玉野市の場合は、「平成21年度 玉野市の概要」があります。
石島は、江戸時代は対岸胸上村の枝郷の扱いでしたが、現在の玉野市では大字扱いになっているようで、2009年3月末における人口は110人と明記されています(「III 統計資料→2.人口・労働力人口→(17)町別人口」と辿ると、エクセルファイルが立ち上がります)。
「玉野市の概要」で確認できるもっとも古い年次の人口は、01年3月末で143人ですから、8年間で33人、2割以上減少している計算になります。
ただし、これは住民基本台帳上の人口であり(hmtさんが引用された岡山県HPの数字も同じ)、国勢調査の人口とは異なります。

国勢調査で同様の数値を入手できるサイトとして、「地図で見る統計(統計GIS)」があります(「データダウンロード」へ進むと、市区町村別に、町丁大字別人口を「小地域統計」として入手できます)。もちろん、お役所のサイトなので使い勝手は良いとは言いがたく、データそのものにも癖があるので、注意が必要です。
確認したところでは、05年調査時点の石島の人口は112人、00年が129人です。住民基本台帳では上記のように01年に143人ですから、00年の国調と10人以上の差があります。おそらく、住民票を石島に置いたまま他所で就業・就学している人がいるのだろうと思います。この国勢調査と住民基本台帳との差を考慮すると、石島の現住人口は100人を切っているかもしれません。

石島に関しては、この島が岡山・香川両県に属していることもそうですが、石島を含む直島諸島全体が香川県所属であることにも興味を引かれます。最短距離だと宇野港から2000mもない直島本島をはじめとして、玉野市の鼻先にある島々が、(石島の一部を除き)すべて香川県というのは少し不思議な気がします。
歴史的に見ると、鎌倉時代までの直島諸島は備前国児島郡に属していたものの、南北朝期に讃岐守護細川氏(これは管領家ですね)の支配下に入ったため帰属が曖昧になってしまい、江戸時代に讃岐国の所属と決定したようです。石島北部は、全島が讃岐に奪われた直島諸島のごく一部を、備前側に取り戻した地域と考えられるのかもしれません。

なお、「日本歴史地名大系」によると、石島の人口は文化年間(1804~18)に127人だったそうですから、現在の人口はそれを下回っていることになります。
[72661] 2009年 11月 1日(日)09:12:35oki さん
第二十四回十番勝負回答
問二:八王子市
やっと完答できました。

あ~大変だった。
[72609] 2009年 10月 31日(土)03:13:43oki さん
第二十四回十番勝負
問三:大洲市
分かったのは偶然。
お題である南国市を見ていたら、1ランク上のが目に止まり、検証した結果こちらと判明。
厳格な表現が求められるようなので、四国の残っているところから。

ここまで来たら完答したいと思っていますが、問二が・・・・
とりあえず、寝ます。
[72604] 2009年 10月 31日(土)01:45:00oki さん
第二十四回十番勝負
やっと分かりました。
問九:行田市
「ぐ」だから「き」だとは思ったのですが、「名取はきの次」と解いてしまい、なんのこっちゃ状態でした。
これで残り2問、だと思いますが。
[72602] 2009年 10月 31日(土)00:55:29oki さん
第二十四回十番勝負
「九州も管内」というボケたアナグラム解のため、明後日の方向をさまよっていました。
本当なら高岡リセットの時点で分かっていたはずなのに。
問六:長崎市
[72575] 2009年 10月 30日(金)16:13:38oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
売り切れ寸前なので、続けて回答。
問四:玉野市
[72574] 2009年 10月 30日(金)15:38:25oki さん
第二十四回 全国の市十番勝負
第二ヒントでやっと分かった。
問一:山陽小野田市


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