都道府県市区町村
白桃研究所長による人口テーマ専門誌

去りゆくワケ

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記事数=22件/登録日:2012年9月29日

あの街は20年前までは順調に人口が増加していたのに、突然人口が減少に転じてしまったのは何故なのか。炭鉱等の閉山に伴う影響なのかな?高齢化・過疎化の影響かな?ベットタウンでの子供の独立に伴うものかな?
という[13121]でるでるさんの“つぶやき”は、“人口推移オタク”の誰しもが思うことでしょう。
地域人口の社会減少の要因について、いろいろ考えられることがありますが、真っ先に思いつくのが炭鉱の閉山です。この場合の減少はドラスチックです。ダムに沈没したら、それ以上、壊滅的です。大学・学校が他の土地に移転しても、かなりの痛手をこうむります。
そこまでいかなくても、造船、鉄鋼、繊維など、その町唯一の基幹産業が不振に陥ると“スタンディングダウンたうん”となります。特定の産業に特化している市町村は結構多いのですが、社会環境の変化、技術革新等で、時代がその産業をそこに必要としなくなったり、海外に安い労働力を求めたり・・・、つまり、ある日突然、雇用の場を失うという危険性をはらんでいます。
また、温泉地や著名な観光地は当然、観光産業に特化しておりますが、今、殆ど人口を減少させております。この要因は、社会環境の変化というより、“金太郎飴”的観光地自身のせいかもしれません。そして、このような観光地は一旦さびれてゆくと、他産業への転換が非常に難しい、ということも課題です。
大都市周辺にも人口減少都市がありますが、通勤が不便な割には地価が高い、社会インフラ整備が遅れている、など、それが解決されれば、再び増加が期待される所もあります。
昔は規模的にも同等クラスの町が並んでいた地域において、都市間競争によって敗れた都市。このボディブローは後々よく効いてきます。でも、慢性的な人口減少、そんな町を応援したくなったりして・・・。
社会減少の要因を精査、検証すると言えば大げさですが、この特集では、そんなことにチョコット触れた記事を集めました。

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[2830]2002年8月30日
YSK
[4819]2002年11月12日
ムンク
[8846]2003年2月7日
まるちゃん
[9071]2003年2月11日
BANDALGOM
[10817]2003年3月9日
白桃
[12114]2003年3月30日
白桃
[12140]2003年3月31日
白桃
[12542]2003年4月6日
三丁目
[15876]2003年5月25日
白桃
[16143]2003年5月30日
YSK
[17763]2003年7月4日
hoshi
[19497]2003年9月1日
太白
[24788]2004年2月12日
まるちゃん
[43758]2005年7月31日
白桃
[43781]2005年7月31日
Issie
[43789]2005年8月1日
白桃
[52683]2006年7月26日
白桃
[62289]2007年10月28日
白桃
[73362]2009年12月20日
oki
[75209]2010年5月29日
N-H
[77730]2011年3月1日
白桃
[77747]2011年3月9日
がめら

[2830] 2002年 8月 30日(金)00:00:04YSK さん
北九州
[2821][2823]
私も、雑魚さんのご意見に賛成です。
北九州の停滞の要因は、(1)工業の停滞 (2)福岡の台頭、発展 に集約できるといえます。

北九州は、日本最初の官営製鉄所である「八幡製鉄所」に、国内有数の炭田であった「筑豊炭田」が結合して形成された歴史ある工業地域を基礎に発展してきたといえます。

学生時代、社会のテストで、製鉄所の立地場所として八幡が選ばれた理由を書けという問題がよく出題されて、その解答が「当時鉄鉱石の主要輸入先だった中国に近く、かつ有数の炭田である筑豊炭田に近い土地だから」だったという経験をもっている人も多いのではないでしょうか。

しかし、戦後になって鉄鉱石の輸入先がオーストラリアやブラジルなどに変化し、安い石炭が輸入される時代を迎え、製鉄業は太平洋側にシフトし、筑豊炭田の斜陽化に符合するように北九州の工業は徐々に停滞していきます。

さらに、福岡が九州の中心都市として飛躍的な発展を遂げ、北九州を凌駕する中心性を持つようになりました。

以上の諸要因により、北九州は人口減少傾向にあるといえるのではないでしょうか。

ただし、政令市としては、福岡よりは北九州のほうが先輩です。
[2454]にて書きましたとおり、北九州市の政令市昇格は1963年で、福岡市の政令市移行は1972年のことで、北九州市に14年の遅れをとっています。以下に示すように、人口を指標とすれば、都市としての発展は北九州の方が先行していたといえますね。しかし、下のデータは同時に戦後の福岡の急成長をも同時に示しています。ちゃんと両市の人口推移を調べたことがなかったのですが、調べてみてこの差には驚かされました。


 人口(単位:人)の推移

          福岡市       北九州市
1940年    398,468    818,950
1950年    487,885    736,895
1960年    682,365    986,778
1970年    871,717  1,042,620
1980年  1,088,588  1,065,078
1990年  1,237,062  1,026,455
2000年  1,284,795  1,019,598

国勢調査による。共に現在の市域に換算した数値。出典は両市のホームページ。


ただ、松戸さんの北九州の各区の名前を変えれば、減少傾向に歯止めがかかるかもしれないというご意見はユニークで興味深いですね。北九州は申し分のない都市基盤を持つ都市なのだから、そういった部分からイメージアップを図っていくということも、都市活性化の一手法なのかもしれませんね。

同様に、さいたま市では「浦和南区」などの名称が区名公募の上位にきているようですが、地名は地域のアイデンティティ醸成のための重要な要素になるので、ぜひともいい区名を考案して欲しいですね。
[4819] 2002年 11月 12日(火)02:15:26ムンク さん
re.衰退すには惜しい
[4811]
南知多町の衰退は観光業の衰退が原因だと思います。

名鉄の業績不振もあり、フォレストパークの閉鎖確定、名古屋港水族館(港区)や
新舞子ブルーサンビーチ(知多市)ができて、南知多ビーチランド(閉鎖も時間の問題)や
海水浴で南知多町まで客足が延びなくなってしまったようです。

また、バブル期に南知多の内海へ遊びに行きましたが地元の
漁協関係者(夏に駐車場や海の家をやっている)や旅館など、
客に対して大変横柄でした。印象を悪くした人も多かったのでしょう。


西枇杷島町は東海水害が最大の原因です。

明電舎は水害前から撤退が決まっていましたが、水害後に高岳製作所が
撤退を決め、明治チューインガム本社工場も移転するようです。

西区山田地区などは大規模な雨水対策事業が行われていますが、
西枇杷島町はあまり行われていません。

また、水害時も道一本隔てた名古屋市には生理用品から食料品など直ぐに
配給されましたが、西枇杷島町は一回の食事がおにぎり1個にコップ半分の水だけ
という日が数日続き、西区に隣接する地域は中小田井小学校から、余っている食料を
分けてもらう始末。名古屋市へ避難する人も続出。

災害復旧時も役場職員がボランティアを追い返してしまい、途方にくれた中高年の
世帯などは名古屋市に災害ボランティアを要請した人もいました。
(その後、新川町の協力でボランティア本部を設置。)

道路や公園に山積みされた災害ゴミは名古屋市は数日で片付けられましたが、
西枇杷島町は2週間以上も放置され公園は数ヶ月使用できませんでした。

また、西区山田地区は分流式下水道が整備されているのに対し、西枇杷島は下水道普及率0%です。
水害時は浄化槽の糞尿が町中に溢れ大変な悪臭を伴いました。

隣接する西区中小田井地区は、水害前の人口に回復しましたが西枇杷島町は減少の
一途をたどり、住民は名古屋市との合併に活路を見出そうと住民発議が行われました。

しかし、町長が消極的であるのに加え、名古屋市が西春日井郡7町編入・区制という
条件を示したため郡内他町との調整の難航も予測され、先行きは不透明。

こういう状況の町に見切りをつけて名古屋市内へ引っ越す人が多いようです。
JR枇杷島駅は名古屋駅の次の駅ですが駅周辺でも空き地が多く、
マンションや公営住宅は空室が出来ると埋まらず、ゴーストタウンになっております。

名古屋駅から僅かに3分で町面積も3平方キロメートル、水道は名古屋市水道局で
町北部には市バスも走っております。本来なれば名古屋市が広域的な都市政策として
面倒を見るぐらいの度量の広さが欲しいところですが、財政の硬直化している今は
期待薄のようです。
[8846] 2003年 2月 7日(金)01:37:39まるちゃん さん
宇部,本山線
[8804] 雑魚さま
宇部興産に象徴されるセメント工業より以前に炭鉱産業が盛んだったのですね。長門本山駅に近い海底炭鉱の坑口がその名残りかと思われますが、そう考えると、宇部界隈は産業構造の転換にうまく成功した例なのかな。

明治初期,旧厚狭郡宇部村時代の中心部は,現在の市役所から4km程北東部に入った上宇部地区の寺の前とよばれる地域でした.寺の前の寺とは,教念寺という宇部で最も檀家の多い浄土真宗のお寺で,そこから名前の由来がきています.
明治30年に創立された宇部興産(今は正しくUBEと横文字に変えていますが,今でもふつう,“興産”と地元ではよんでいます)の前身「沖ノ山炭鉱」の鉱区は宇部沖の海底にある炭田でした.熱量こそあまり高くありませんでしたが,火着きがよいことから、主に製塩用燃料や家庭用燃料として使われましたようです.
その後の人口規模の急速な拡大と飛躍的な発展を遂げた宇部村は,大正10年11月、村から一挙に県下2番目の市制を施行し,この頃には現在の地域に中心は移っていたようです.
その後、戦災により市街地の大半を焼失しました(我が家の庭からも以前,さびきった古い焼夷弾がみつかったこともあります)が,戦後の石炭景気に支えられ復興しました.
ただし,戦前,戦後まもなくまでは,粉じんが市街に降り注ぎ,さながら桜島噴火時の鹿児島市内のごとく,洗濯ものが外で干せず,それはひどかったそうです.
宇部市に現山口大学医学部(戦時中にできた山口県立医学専門学校)ができたのも,あまりに健康に悪い環境なため,宇部興産が土地を提供し,宇部に誘致されたものなのです.
昭和29年、小野湖周囲などの北部地区などの周辺4か村との合併を経て市域を現在の形となりました.
しかし,資源エネルギーの需要構造の転換に伴い,多くの炭鉱が閉山を余儀なくされ,昭和42年には最後のヤマも姿を消しました.その結果,一時は人口も減少し市勢も停滞しましたが,化学工業を中心とする工業都市へとなんとか切り替えることにうまくいった都市として紹介されていました.
確かに,大牟田,夕張など他の九州や北海道の炭坑都市に比べ,最大人口からの減少の程度はかなり少ないので,そうなのかもしれませんが,現在では,人口も横ばいからやや減少気味に傾いてきています.

全長 2km少々では、自転車でもある程度は代替が効きそうですし。
付近に位置する石油コンビナートへの通勤客が利用する事情でもあるのかな。

石油コンビナートは西部石油の山口製油所のことですね.
ここは385万klの貯油タンク群を保有しており,コンビナート各社に製品を供給する,貯油タンクが主な施設ですので,通勤客がそんなにいるとこではないのです.
私もかねがね思っていたのですが,なぜ廃線にならずに経過しているか不思議でたまりませんでした.
旧型電車を見にくる,鉄道ファンがのっていたから,廃線しなかったという話しもちらほら.
[9071] 2003年 2月 11日(火)20:27:12BANDALGOM[地域研究家] さん
seahawkさんへ(1)
[9056]
北海道の5万人割れの都市というのは、だいたいが炭坑の閉鎖が原因でしょう。赤平市とか美唄市もその一つかな?あと、沿岸部の根室市や網走市、根室市はふつうの過疎化なんだと思いますが、でも網走市に近い北見市はなんで10万人の人口があるのか不思議です。
北海道の5万人割れの市で、炭坑があったのは歌志内・赤平・三笠・夕張・芦別・美唄ですね。
滝川と砂川は市内に炭坑があったわけではありませんが、炭鉱閉山の影響はもろに受けたでしょう。
また根室と稚内の過疎化は北洋漁業衰退の影響が大きいでしょう。
網走ですが、過疎化というのではなく、そんなに増えてもいないですね。

炭坑があった6つの市以外で、根室・滝川・稚内以外は5万人を超えたことはないと思います。
紋別・士別・名寄・根室・滝川・砂川の各市は昭和の大合併期、深川・富良野・伊達の各市は昭和30年代末~40年代の市制施行ですが、この時期には3万人、4万人での市制を認めていました。
網走・留萌・稚内の各市は戦後すぐの市制施行ですが、この時期にも特例があったのかどうか。
網走は昭和22年2月ということで、まだ地方自治法施行前ですが。

あと、釜石市もかなりの人口減少ですね。第二次産業で栄えた都市というのは、今の世の中厳しいのでしょうか?
だれかほかに、栄華を誇った街が衰退の一途をたどったというような市を知っているという方は教えて頂きたいなと思います。
北海道以外で炭坑があって、衰退の一途をたどったのは美祢市、田川市、直方市、飯塚市、山田市、大牟田市、荒尾市、多久市が挙げられますね。
田川市も炭坑全盛期には10万人いたのが半減しています。
常磐炭田の北茨城市、高萩市は衰退した後盛り返し、いわき市は合併で盛り返しましたが。

炭坑以外で釜石市同様、第二次産業で栄えて衰退した所には室蘭市、日立市、足利市、桐生市、岡谷市、尼崎市、因島市、呉市、坂出市、水俣市が挙げられますね。
中でも悲惨なのが因島市と水俣市でしょうか。
[10817] 2003年 3月 9日(日)09:09:31白桃 さん
千葉ニュータウンの終焉?
印西市が2月1日現在の推計人口で6万人を割りました。印旛村もここんとこ減少傾向にあります。
ミッキーやドナルドも国勢調査人口に数えられている(小中学生の方、信じてはいけませんよ!)浦安市在住の白桃には他県ごとのようでよくわからないのですが、東京都心部の地価下落に加えて新都市(ニュータウン)での社会インフラ整備の遅れも人口減少原因になっているのでは?
[12114] 2003年 3月 30日(日)18:57:58白桃 さん
湘南電車
 本日、仕事上のつきあい(本当は、放課後のつきあい)のある方のお見舞いに藤沢市の長後まで行ってまいりました。東京から東海道線で行きましたが、久し振りに湘南電車に乗りました。緑に橙の配色はもう何年つづいているのでしょうか?四国の片田舎育ちの白桃にとって、乗り物の絵本でみる湘南電車こそ都会の乗り物の代表格で、あのスマートなカラーに一種のあこがれを抱いておりました。でも、今はカラフルな電車が多くなり、少々「ダサイ」感じになりましたかね?それに、湘南電車ってもう呼んでないのかな?
[12104]太白さん
レスありがとうございます。
下館、真岡、結城、見附、須坂、都留、富士吉田、黒部あたりは、衛星都市でも工業都市でもない気がするのですが、意外に健闘しています。どんな理由があるのか気になります…。(見附は合併分の上乗せ? 富士吉田は観光産業?)
 詳しく調べておりませんが、下館、真岡はいわゆる内陸型工業団地、見附は長岡市がらみとニット製品、黒部はYKK(YSKさんではありません:笑)、須坂は長野市と疎開企業、都留は都留文科大学、富士吉田はご推察のように観光関連企業の存在がある程度貢献していると思います。ただ、結城はなんでしょうね。隣県小山市のからみでしょうか。まさか結城紬が好調なわけはないし。
 もっとも、下館、富士吉田はここ数年不振で、人口もだいぶ減少しております。特に富士吉田の減少については「日本で観光産業都市は育たない」という白桃の持論を裏付けるものかもしれません。
[12140] 2003年 3月 31日(月)02:33:39【1】白桃 さん
観光に生きる?都市(雑魚さんへ)
[12130]雑魚さん
観光産業への依存度が大きいと思しき (または ヒヒが勝手に想像する) 登別、鹿角、上山、笠間、日光、熱海、伊東、下田、大町、七尾、加賀、伊勢、鳥羽、宮津、別府、武雄、菊池、指宿などはいかがですか?
いやぁ、まったく、よくこれだけ斜陽都市を選んで頂いたものです。次の資料をご参考にしてください。
都市名 1955年都市名 1975年 2000年 2002年
幌別町 24787登別市 50885 54761 54066
花輪町他 61370鹿角市 46822 39144 38438
上山市他 41862上山市 37858 36886 36652
笠間町他 33784笠間市 30909 30076 29926
日光市 33490日光市 26279 17428 16865
七尾市 50698七尾市 49493 47351 46865
大聖寺町他 53681加賀市 61599 68368 67727
大町市 30722大町市 33844 31011 30657
熱海市他 44236熱海市 51437 42936 42295
伊東市 50169伊東市 68072 71720 71686
下田町 27369下田市 31700 27798 27408
伊勢市 97917伊勢市104957100145 99284
鳥羽市 30121鳥羽市 29346 24945 24432
宮津市他 36200宮津市 30194 23276 22745
武雄市 41673武雄市 34250 34603 34327
隈府町他 35711菊池市 28258 27342 27164
別府市104136別府市133894126523126738
指宿市 35981指宿市 32339 30640 30223

 1955年の都市名で他とあるのは、現行の行政区画にあわせた人口です。例えば笠間町は稲田町の人口を含んでおります。また、他と記されていない都市の中でも、その後の境界変更で市域が変更となったため、現行の市域になおした当時の人口を表示しております。1975年、2000年は国勢調査人口、2002年は10月1日現在の推計人口です。
 こうみますと、登別、熱海、加賀、別府など日本有数の温泉を有する都市は、高度経済成長が終焉する1975年あたりまでは増加しております。しかし、バブル崩壊にともない人口が停滞→減少というパターンになっております。上の表では読み取れませんが、登別市は1985年、加賀市は1995年がピークでした。熱海、別府など昔からの温泉地は1975年頃から翳りをみせております。これは、観光に頼りすぎるという地域経済構造のせいもありますが、ホテル、旅館の体質改善がうまくいかなかったことにより客離れが激しかったことにも起因するでしょう。バラィティに富みリゾート滞在型温泉地の伊東と肥前夢街道がポテンヒットした武雄はよく健闘したと思います。悲惨なのは日光(ニッコウ)で、もうこれ以上の減少はケッコウでしょうね。
[12542] 2003年 4月 6日(日)08:21:56三丁目 さん
釧路市
釧路市の市内観光といえば、有名どころはMOO(釧路フィッシャーマンズワーフ)、幣舞橋、春採湖等かとは思いますが、釧路湿原、阿寒湖、川湯、摩周湖といった道東観光地への入口の拠点市という位置付けもできるかな、と。

まずは、釧路方面の情報から。社会科で習ったのは「根釧」台地として、記憶にある音は「コンセン」ですが、地元では「センコン」と言うそうです。例えば新聞の「釧根版」などです。根室県が置かれたくらい、根室という地名にも由緒がありますが、市制施行は根室市に比べると、釧路市が道内最古参市の1つであることなど釧路市の方が大きく発展したことなどから、釧を先につけるのかな、と思いました。

それと、釧路では吐瀉物が道端で凍っていると聞いたことがあり、私自身は見たことがなかったので、釧路在住5年目の友人に聞いてみました。それは事実あるそうで、友人は危うく踏んで滑るところだったとのことです。雪が少なく、冷たく乾燥した風が吹きすさぶため、フリーズドライされるのでしょうね。端的に土地柄を表現すると、このような、お上品でない言葉になってしまうのでしょうか。

私が調べた情報源の1つを明かしますが、コンパクトにまとめた下記HPを見つけましたから、宜しければ、そちらもご参照なさってください。
http://www.kuhcci.or.jp/as_for_us/city.htm

それで、かなりの遅レスですが、調べるのに時間がかかったものですから。

[11974]uttさん
釧路川の北側は湿原の泥炭地帯が広がっていたそうで、住むのには適さなかったようです。
鉄道開通をきっかけに、ようやく北側も区画整理され、人が住むようになったらしいですが、
それでも今よりもっと港寄りに駅があり、今の釧路駅周辺は何もない原野だったそうで、
漁業と炭鉱のおかげか、相変わらず南側の丘陵地帯が街の中心だったようです。

このお話は、きっと友人は何か言いたくなるだろうと思い、聞いてみたら、案の定、返事が返ってきました。私自身も地図を見、釧路市史等を調べたのと、しばらく友人とメール交換しましたから、それらを併せ、ご紹介いたします。まったく、なぜ友人が自分で書きこまないのか不思議なのですが。。。通常、私は読点に「,」は使わないのですが、以下は友人の文章の方が多いので、トーンを合わせるために、今回はカンマにします。

ということで。

釧路の開拓が釧路川南岸の丘陵地から始まり,その地域から発展していったことは間違いないのですが,釧路駅付近が鉄道開通後も原野だった,というのは歴史的に誤解があると思います。

鉄道開通前の明治期から,釧路川北岸にも入植が進んでおり,今の釧路駅周辺より西の地域は鳥取村といい,農業集落が点在していました。名前のとおり鳥取地域からの入植者が多かったところです。釧路市と1949年に対等合併する前は,鳥取町でした。

根室本線が釧路まで開通し,終着駅だった当時は,釧路川北岸はまだ市街地ではなく,南岸市街地への利便のため,今の釧路駅よりも釧路川側に駅がありました。その後,鉄道が根室方面へ延伸するにあたり,釧路駅は現在位置に移され,旧釧路駅は貨物駅となりました。これは遅くとも大正期の頃と思われます。これ以降,釧路駅前から釧路川までの北大通りの市街地化が進み,昭和初期には,多くの商店が立ち並ぶ商業地域に発展していました。

南北市街地間を結ぶ幣舞橋が明治期からあって,その往来が盛んだったことからも,2市街地が両立発展してきたのが,1960年代頃までの釧路の歴史だと考えられます。つまり,南岸地域は漁業と炭鉱という古くからの基幹産業によって栄えた地域であり,北岸地域は陸上交通と第3次産業を中心に栄えた地域であって,南大通りと北大通りはそれぞれの中心市街地だったと言えます。

南地区の方が市の中心と考えられたのは,1960年代までは幣舞橋の南,つまり南大通の北端に官庁街があった(釧路支庁,財務事務所は今もそこにあります)ためで,そこから両方向に市街地が発展していたと言えます。ちなみに,市役所が現在のきた北地区に移転したのは,1965年のことで,それ以前は官庁街を形成したうちの1つでした。

1970年代後半から,漁業と炭鉱の衰退によって,南地区の人口が減少したことと,新しい築港と工業地域が西地区に伸びていったことから,北大通りを中心に新しいビル街が発展したため,南大通りのかつての繁栄は見る影もなくなりました。これが現在の釧路の南北市街地の姿です。しかし,その北大通りも今や,郊外型スーパーにお客を取られ,テナントがなくシャッターの閉まったビルが増えて,ドーナツ化による衰退の途をたどっているようです。

なお,北大通り周辺地区は,平地で計画的に区画化されたらしく,ほぼ碁盤の目の区画で,条・丁目制としてもよいような街区です。具体的には,西から順に,幸町,黒金町,末広町,栄町などの南北に細長い住所区画が横一列に並び,東西に同じ丁目が仕切られています。つまり,町の名前を~条にあてはめれば,条・丁目制だと言えます。逆に,南岸の丘陵地帯は,細い道が曲がりくねり,北とは対照的な
街区です。(オシマイ)
[15876] 2003年 5月 25日(日)08:33:46白桃 さん
新三河物語(いなさんを偲ぶ)
 もう15年以上も前になると思いますが、某旅行会社に在籍していた頃、「三河七福神をめぐる旅」なる企画がありまして、その下見で三河地方を訪れたときの話です。三谷温泉の旅館の方と豊橋駅で待ち合わせ、車で案内をしていただきました。七福神のお寺の名前は全部忘れました(恥)が、近藤勇の首塚があるお寺、竹の子料理専門のお寺があったことは覚えております。それとなぜかプラス豊川稲荷がはいっていた。(そういえば、豊川稲荷ってお寺なんですね?)。範囲としては蒲郡を中心に西は碧南市、東は額田町あたりまでの下見だったような気がします。どうしてそんなに不確かな記憶なのか、そうなんです。「下見」と称するご接待だったのです。(白桃がご接待されたのです。)それはともかく三河湾一帯の諸都市はどうも捉えどころがないですね。吉良とか一色とか室町(いや、もっと前かな)時代に遡らなければならない由緒ある町、非常に興味がありました。一色町なんかは、昔から人口が多くて、どうして市制施行しなかったのだろうかと不思議でなりません。でも、豊穣な低地が広がる景観をみると、人口の多さもうなづけます。要するに農業が地域の基幹産業なんですね。そういえば、豊橋市なんかは日本有数の「農業都市」ですから。それにひきかえ、蒲郡市は人口が減少しております。やはり、三谷、西浦等温泉地が不振なのでしょうか。それとも地場繊維産業か?。おそらく両方でしょうね。(この書き込みで、回数が尊敬するいなさんに並びました。どこでどうしているのやら)
[16143] 2003年 5月 30日(金)02:50:25YSK[両毛人] さん
両毛の夜は更けゆく(出雲崎町レス)
アーカイブズに熱中していたらもうこんな時間に・・・。北陸ネタにも反応したかったのですが、とりあえず寝ることにします。その前に、1つだけレスを。

[16059]白桃さん
明治の初期に出雲崎は人口1万人を擁する大都市だったと、ものの本で読んだ記憶があります。
出雲崎町の日本海に面した旧市街地は、海に迫る丘陵地と海とのわずかな平坦地に、この地域としてはかなりの密度を有する、凄みを感じる街村です。北前船の寄港地であったほかに、佐渡金山の金を江戸方面へ運ぶ基地となっていたことから(この町からいわゆる「北国街道」経由で金が輸送された)、出雲崎は、ご指摘のごとく繁栄していたものと思います。

出雲崎は、金の関連もあり、天領(幕府の直轄地)でした。

以降ドラスティックな人口減少が見られます。どうしてこうまでさびれてしまったのでしょう?
北前船の衰微、佐渡金山の衰微・閉山が大きく影響しているものと思います。

ゆかりの良寛さんにでも聴いてみよう。
そうですね。良寛和尚の生誕の地なんですよね。芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」の句碑とともに、良寛記念館や良寛堂などが点在し、出雲崎の歴史の凄みを一段と幅の広いものにしているように思います。

出雲崎には、この他「石油記念館」なるものも立地します。日本初の油井(一号井)が掘削された土地らしいです。
[17763] 2003年 7月 4日(金)03:36:39hoshi さん
Re:千葉市の人口など
[17759]松戸さん

常磐線沿線住民ながら、千葉市だけでなく銚子や富津、館山に勝浦の人口なんかもかなり観察してますよ~。千葉市以外は今人口減少が千葉県でも目立つ都市なんですよね。

千葉県でも千葉市以東、以南はかなり人口の減少が目立ってますね。銚子は個人的に大好きな街でよく行くんですが、やはり漁業の不振は大きいんでしょうね(鰯も獲れなくなってきましたし)今のままでは館山も銚子も館山自動車道や銚子連絡道が開通したら逆に過疎化が進みそうな感じです。

それにしても、千葉市の人口増加は私も結構びっくりしました。数年前までは人口停滞期のような感じで目立つ増加をしている区は緑区だけでしたもんね!(千葉市のHPで何度も見ちゃいました^^;)最近になって開発がどんどん進んでいるってことですかね・・・。

美浜区は幕張ベイタウン、緑区はおゆみ野、あすみが丘の開発があるので分かるんですが、中央区は目立った開発というと千葉寺や蘇我周辺しか見られないので、なぜ増加しているのかイマイチわかりません。市外への転出が少なくなったんでしょうか。すいません、よく調べてません!

そういえば、四街道市は今人口の増減は停滞してますよね。千葉市の一部になればまた増加を見ることができるんでしょうか?

今、長い間開発されなかった総武本線物井駅の西側がベリータウンもねの里として開発されているのでこれから少しは増えてくるのではないでしょうか。千葉市になって急に人口が増えるほど千葉市にはブランドイメージはない気がします(^^;
[19497] 2003年 9月 1日(月)13:36:14太白 さん
西目屋村の人口激減理由
[19468] グリグリさん
全国の町村 人口ランキング(推計人口と国勢調査人口)
新メニューを早速拝見しました。で、私もグリグリさんと同じく、ランキングの上下動の激しい町村に注目がいったわけで、

[7158] グリグリさん
世界遺産の白神山地が広がる西目屋村の場合は、2002年3月から4月にどっと減っており、一体何なんでしょう。

[7159] 両毛人さん
西目屋村のことですが、ご指摘のとおり何らかの季節的な居住者が村を去ったことが原因ではないかと思われますが、目屋ダムは1960年に完成して現在に至っているとのこと、やはり謎です

と、同じ疑問を持ちました。

で、検索したところ、
http://www.thr.mlit.go.jp/wwwroot/Bumon/B00091/K10001/kisya/000802.htm
にヒットしました。公共工事がらみではありますが、原因は季節労働者ではないようです。

上記リンクの建設省(当時)プレス発表によれば、西目屋村内での津軽ダム建設に伴い、水没地区の187世帯620名が集団移転する計画になっており、うち134世帯(ざっと見積もって450名程度)は村外への移転予定となっています。これは、西目屋村の人口減少数(▲460)とほぼ一致します。移転補償協定締結が平成12年(2000年)夏、ダム完成予定は平成15年度(2003年度)となっていますから、2001年度末に集団移転が行われたと推定されます。
[24788] 2004年 2月 12日(木)22:31:46まるちゃん さん
周南市と下松市
新着のアーカイブズ 合併資料室(2) 周南市
http://uub.jp/arc/arc424.html
を拝見して思ったことがあります.

下松市は徳山市との関係が密接であり,新市が周囲を取り囲むようになるにもかかわらず,合併協議から離脱した理由の一つには「ザモール周南」の登場による,周南地域における下松市の商業集積の影響も大きいと思います.
[24695] 愛比売命 さん
周南市ではありませんが、周南市発足の10年以上前からある、下松市の「The MALL周南」の影響が強く、徳山駅周辺はかなり空洞化していますね。みなみ銀座などのシャッター率はむしろ岩国よりも深刻かもしれません。
とご指摘されているように,下松市末武地区は今や周南地域における,実質的な商業の中心エリアとなっており,徳山駅周辺の中心街は空洞化してきています.
末武地区の様子や位置は次のHPをご覧ください.
http://kudamatsu.info/suetake.html

周南地域は石油コンビナートで栄えてきたわけですが,近年は企業の海外シフトや事業縮小と地盤沈下のため,人口が減少してきています.
当HPの人口ランキングを参考にすると,2000年 国勢調査人口に比べて,2003年10月1日 推計人口が周南市は2,385人減と大幅に減少しているのに比べて,下松市は96人とわずかなものの人口の増加を認めています.
最終的に下松市が合併協議から離脱したのは,2001年12月の第十八回合併協議会で「徳山市と格差の大きい水道料金や財政の見通しなどの協議を,新市に先送りしたままで,期日決定はできない」と,下松市長ら委員四人が退席したためですが,無理に周南市に合併する必要性を下松市が感じなかったということでしょうね.
郊外型の大規模商業施設の進出によって商業集積が高まり,周囲との合併を拒否し単独自治体で貫こうとしているところは他にもありそうです.
[43758] 2005年 7月 31日(日)09:53:13白桃 さん
城ヶ島の雨
神奈川県三浦市の人口が2005年7月1日現在で50,079人と、今年の国勢調査で5万人を維持できるかどうか微妙なところです。水産業と観光、多核都市、と人口減少の要因は考えられますが、京浜急行って三崎市街までまだ伸びてないのですね。それも関係あるのかな?
[43781] 2005年 7月 31日(日)20:25:53【1】Issie さん
利休鼠の雨が降る
いやあ,お久しぶりです。
どうも繁忙期に,身内関連のことで今や「長岡市」となったチャーザァ村(の少し奥)へ2往復した上に,怒涛の週刊連載となった総務省告示関連で自分とこのHPの手入れに手一杯となってしまいました。
本業が「特別営業期間」に入って1週間。ようやく落ち着いた次第です(“お客様”が夏休みでも,私たちは夏休みではありません)。

[43758] 白桃 さん
神奈川県三浦市の人口が2005年7月1日現在で50,079人と、今年の国勢調査で5万人を維持できるかどうか微妙なところです。

三浦市のHPに掲載されている 統計 を見てみると,90年代半ばをピークに人口が減り続けていますね。
自然増減と社会増減の推移 というグラフを見ると,90年代前半に人口流出が流入を上回る“社会減”に転じ,数年して徐々に低下を続けていた“自然増加”(出生数と死亡数の差)がマイナスとなったことも重なって,かなり目立った人口減となっているようです。
このままのペースでは,3ヵ月間で80人ほど人口が減ってしまう可能性はかなり高そうですね。

地区別人口の推移 のグラフも掲載されています。
「三崎地区」とは,半島南端部の三崎漁港を中心とする旧三崎町の区域。
「南下浦(みなみしたうら)地区」とは,浦賀水道(金田湾)に面した北東部で,京急の三浦半島駅のある旧南下浦村の区域。
「初声(はっせ)地区」とは,相模湾に面した北西部で,京急の三崎口駅のある旧初声村の区域。
地区別人口の推移で目立つのは,1970年代前半から一貫して三崎地区の人口が減少し続けていることです。三崎漁港はマグロ遠洋漁業の基地として有名ではありますが,半島の先端であるせいもあって漁業関連以外の商業機能は非常に小さく,地域経済における観光産業の地位も想像されるほどには大きなものではありません。このような「過疎化」傾向は第一次産業に依存する他の多くの地方都市に共通するものであるように思います。
それに対して南下浦地区では1970年代に,初声地区では1980年代に人口の増加が見られますが,以降は停滞から微減傾向にあります。
三浦海岸駅や三崎口駅の周辺では宅地造成が行われてもいるのですが,限定的なものにとどまっています。大規模な宅地造成の前線は横須賀市南部で止まってしまっているようですね。
全体的に山がちで平地の極めて乏しい三浦半島は南端部で地形が大きく変わって台地が広がるようになり,その地形上の境界と横須賀・三浦両市の境界とがおおよそ一致しています。
大規模な地形改変による造成が必要な横須賀市以北に比べれば,台地の広がる三浦市内は大規模宅地造成には有利に思えます。もう少し「バブル」が続いていれば宅地開発の前線が到達したかもしれませんが,結局は届かなかったわけです。やはり,東京都心から奥行きがありすぎるのでしょうね。

現実には小網代のヤトと干潟の存在もあって事実上延伸が不可能になっているのですが,仮に京急が市街至近の地にまで延びたとしても,三崎地区に劇的な効果を与えることができるかどうか,かなり疑わしく思っています。
[43789] 2005年 8月 1日(月)00:17:31白桃 さん
三浦市の人口減
[43781]Issieさん
お久しぶりです。三浦市に関するフォロー誠に有難うございます。
(三崎地区の)地域経済における観光産業の地位も想像されるほどには大きなものではありません。このような「過疎化」傾向は第一次産業に依存する他の多くの地方都市に共通するものであるように思います。
そうですね。三浦市の場合はどうかわかりませんが、いまだに観光へ過度の期待をかける地方自治体が多いというのも困りものです。観光産業が地域の経済にもたらす効果はそんなに大きくないと思いますし、人口減少の歯止めにもさして役に立たないでしょう。
大規模な宅地造成の前線は横須賀市南部で止まってしまっているようですね。(中略)もう少し「バブル」が続いていれば宅地開発の前線が到達したかもしれませんが,結局は届かなかったわけです。やはり,東京都心から奥行きがありすぎるのでしょうね。
都心への人口回帰現象と相まって、「東京通勤圏」が縮んできているように思います。千葉県でも東金市あたりがここ2~3年前から減少に転じておりますが、2000年国勢調査時点と比較した場合、まだ貯金を残しております。しかし、三浦市の場合は、同じように第一次産業、とりわけ水産業への依存度が高い銚子市と酷似した人口減少の道をたどっております。(2005.5月時点で三浦市:-4.02%、銚子市:-4.75%)
[52683] 2006年 7月 26日(水)02:23:10【1】白桃 さん
元気な高齢者が多かった津田病院
[52666]なると金時さん
さらにいうと、生まれたのは香川県立津田病院(現在はさぬき市)。この病院、もうすぐ廃止されます(涙)
白桃の兄が定年退職後に、自宅のある豊中市からわざわざ津田に居を移し、夫婦で借家住まいをしていたことがありました。というのも、大内町(当時)小砂に住んでいた医者嫌いの両親でも、津田病院近くに息子がいたなら少しは変わるだろう、という期待からだったのですが…。結局、母が何度か津田病院のお世話になった程度で、兄の目論見はチトはずれてしまいました。それはともかく、私は母の見舞いに津田病院に行き思いました。田舎において一番人が集まり活気があるのは病院周辺地域だなぁ。
そういう意味でも、病院の廃止は津田の人口減少を加速させるかもしれません。

[52672]KKさん
実は、まだ問九の共通項がよくわかっていないのです。
白桃なんか、問四と問九は「大体こんな感じのとこ?」で答えてしまいました。
問九は、「廃止が決定している県立病院のある市」だったりして(大ウソです)。
[62289] 2007年 10月 28日(日)22:27:57【1】白桃 さん
東かがわ市の人口減少は「国際化」で解明?
今日は、ワールドシリーズを見て、日本シリーズを見て、一応、天皇賞も観て、非常に忙しい日でありました。
天皇賞はさて置き、日米の野球を観ていて思ったこと。デンバーで松坂や岡島が投げて松井稼が打ち、札幌でイラン系日本人?やウッズやボラギノール?が活躍。なに?これ?
私は、西鉄ライオンズが解散して以降、日本のプロ野球には殆ど関心がありません。ただ、どうやら野球はアメリカ、相撲は日本、という状況では無いということを感じます。ダルちゃんや福留やナンヤラかんやらが海外に流出しても、日本のプロ野球は安泰なんでしょうか?
国際化に拍車がかかると、ファンを大事にしないプロスポーツは滅亡の道をたどるのではないでしょうか。

さて、例によって前置きよりも短い本題です。東かがわ市の手袋産業の勃興は、タマタマ偶然???
でも没落ははっきり解ります。安い労働力資源が海外にあったのです。イヤァ、全盛時はそれなりに凄かったですよ。各家庭がマニュファクチャリングしてました。
この勢いじゃ、東讃地域が日本の首都になるんじゃないかと、ソコまでは思いませんでしたが・・・。

文脈が支離滅裂でありましたので、整理いたしました。
[73362] 2009年 12月 20日(日)18:15:01oki さん
脇町関連レス
少しサボった間に脇町関係の書き込みが沢山。申し訳ありませんが、まとめてレス。

[73358] 美馬をみて美馬しょう 白桃さん
[73357] 頑張れワッキー 千本桜さん
[73352] ふと思い出して なると金時さん
[73342] うだつが上がらぬ話ですが‥ 伊豆之国さん
[73331] ワッキー 白桃 さん
[73326] 脇町 なると金時さん

脇町の地名の由来は、脇町市街の北にあった脇城です。元々は西隣の岩倉村に岩倉城があり、戦国時代、その東脇に築かれた支城に脇の名が付けられました。城下の町場をつくったのは、織田信長登場以前に畿内を制覇した三好長慶のようです。
最初は、「脇」と「町」が一体であったわけではありませんが、江戸時代を通じて吉野川中流部北岸における商業の中心地として発展し、その間に「脇町」が固有地名として定着したと考えられます。
白桃さんの仰るとおり、
徳島県は、高知県ほどではないいにろ、首邑の「一人勝ち県」だった
ため、江戸時代の阿波国で「町」を名乗った地域は数少なく、脇町のほかは川島、富岡くらいです。ほかに、池田にも村の一部に町場がありました(白桃さんご指摘の撫養は、村や町の名称ではなく、現鳴門市中心部にあった製塩地帯の総称です)。
これらの地域は明治以降も地域の中心で、各種の公共機関が置かれましたが、なると金時さんが言われるように
脇町の脇町地区にある高校だから、脇高校ではなく、脇町高校なわけですね
ほかの町場にできた高校は池田高校、川島高校、富岡西・東高校という具合で、「町」がついているのは脇町だけです。裁判所、警察署などの名称も同様で、江戸時代に定着した「脇町」地名の一体性は現在も強固に残っています。この場合の読みは、言うまでもなく「わきまち」です。

それだけに、町長自らが「わきちょう」と称しているのにいささか驚いたわけなのですが、公的な資料も含めてほとんどが「わきまち」なので、自分でも本当かいな、と思っている部分はあります。しかも、すべてが「わきまち」ではなく、「わきちょう」とする資料もポツポツあるので、判断に迷います。真鶴町のように官報か何かで確認できれば良いのですが。

ところで、恥ずかしながら、私自身は脇町に行ったことはないのですね。
私の育った徳島の県南地域と、脇町など県西部との間には直接の連絡ルートがなく、鉄道はもちろん自動車で行くとしても、いったん徳島市を経由する必要があります。そのため、両者間の交流が薄いことが一つの要因。
もう一つは、伊豆之国 さんが書かれているように、現在の脇町は「うだつ」で有名ですが、私が県人であった頃は県内でも知る人が少ない状態であったこと。当時、県内の小学生は、脇町の東隣、阿波町にある「阿波の土柱」は必ず遠足で行きましたが、脇町まで足を伸すことは皆無でした。「うだつ」が有名になったのは、おそらくは1980年以降で、全国的な知名度を得たのは1988年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されて以降だと思います。

[73357] 千本桜さん
たぶん、脇町の人口ピークは昭和20年代後半で、2万5千人程度いたのではないでしょうか。その後、急激に減少したはずですが、昭和45年から平成7年までは横這いで持ちこたえています。徳島市のベッドタウンに成り得ない距離に位置し、しかも、鉄道が走っていない環境での人口横這いは敢闘賞ものでしょう。工場誘致の賜でしょうね。ところが、何が原因か分かりませんが、平成12年には少し目立つ人口減になっています。
丁寧な考証、恐れ入ります。確かに、脇町の人口が横這いを維持し得たのは、工場誘致、具体的には松下寿電子工業(現パナソニック四国エレクトロニクス)の脇町工場を誘致できたからのようです。
1970年以降、脇町には多いときで2,000人以上の工場従業者が存在しました。その多くが松下寿や関連工場の従業者でしょう。就業者総数が8,000人程度の町ですから、波及効果を含めて工場の影響力はきわめて大きい。穴吹、貞光、美馬など周辺諸町の工場従業者は1,000人に届かない状態でしたから、その相違が人口増減の差に連動したと考えられます。
ただ、1990年以降、その工場従業者が急速に縮小をはじめ、2004年には935人まで減っています。原因は言うまでもなく、製造業の海外展開に伴う「空洞化」でしょう。平成12年の「少し目立つ人口減」はこれが主因と考えられます。今後も、国内製造業が雇用を増やす事態は予想しにくいですから、脇町地区も急激な人口減少に見舞われるかもしれません(とても悲しいことですが)。
[75209] 2010年 5月 29日(土)18:08:27N-H さん
Re: 都市間人口争奪
[75200] 白桃 さん
首都圏においても人口減少に伴う税収の目減りに少しでも歯止めをかけようと、周辺地域からの「人口争奪」を画策している自治体があるようです。
(中略)
三つの政令指定都市を除くと神奈川県で最も人口の多い市です。

この市に住んだことはないものの、かれこれ通算してこの市に20年ほど通い続けている者としても、この市の低落ぶりと画策は目覚しいものを実感します。
やはり最大の敵は地形です。こればかりはどうしようもない。
元々この市がここまで発展した背景には、海軍⇒米軍の存在抜きには語れません。そもそもこの地形に対して元々人口が多すぎるのです。
数週間前の朝日新聞地方版でもこの地の現状が語られていました。「谷戸」地形を貫く鉄道と道路、そしてどんどん山の上まで開発された住宅。
この原型はすでに太平洋戦争中にはできあがっており、多くの人が山の上に居を構えました。それが、今や超高齢化社会を向かえ、老人にはもはや山の上に住む体力がなく、空き家がずらりと並んでいる状況です。
しかし、このうち捨てられた古い住宅が並んだ山の上から見る景色はそれはもう素晴らしいもので、事実それが捨てがたく今でも残る老人もいるのだとか。

とはいえ、元々がいびつに発展した街なのですから、ある程度のところで落ち着かせるぐらいが丁度良いように思うのですがね。
個人的にはこの地の海を埋め立ててまで高層マンションを作るなどということはやめてほしいなと思っています。現に相当建ってしまっていますが。
[77730] 2011年 3月 1日(火)07:08:12白桃 さん
高梁市の人口減少
[77729]ころすけ さん
本州一人口減少率の高い市は高梁市(岡山県)の▲9.9%でした。
ご推察どおり、吉備国際大学の学生数が減少しているのが人口減少の要因のひとつ、のようです。この大学のおかげ?で1990-1995年には若干ではありますが人口増となった高梁ですが、どうも苦しいようですね。
それに、平成の合併によって高梁市となった旧備中町あたりは、早くから(1970年頃)急激な人口減少が始まっておりました。成羽、吹屋もしかりです。
[77747] 2011年 3月 9日(水)19:36:49がめら さん
近大高専の移転と熊野市
 三重県熊野市の近畿大学工業高等専門学校が4月に、約100キロ離れた三重県名張市に移転するとの記事が、本日の朝日新聞夕刊に掲載されています。
 この記事によれば、学生や教職員ら580人が名張市に移ることになるそうですが、2010年10月の国勢調査の速報値で熊野市は 19,675人と2万人を割り込んだ人口が、さらに大きく減少することになりそうです。

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