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[36083] 2004年 12月 26日(日)19:18:37hmt さん
埼玉県の生まれた頃(3)―神明宮の社殿に千木が10個あったから十千木?
関東地方の県の改廃関する太政官布告 の途中ですが、少しわき道にそれます。

縦書きの太政官布告を横書きに改めているのですから、新字体で引用してもかまわないのですが、昔の気分を出すために 舊字體に變換してみました。但し「改称」は「改稱」に変換されなかったので、別に修正。

[36081]で引用した明治6年の太政官日誌は 明朝体で印刷され 「廢」は旧字体でしたが、[36047]で引用した明治4年のものは 楷書体で、「廃」は新字体(当時は俗字)でした。標準活字も普及せず、もちろんコンピュータ検索上の問題[36063][36066]もなかった時代ですから、字体統一の必要性は小さかったのでしょう。

「埼玉縣」の「埼」という字も異字体で、旁の上の部分が「立」になっていました。これも当時使われた俗字でしょう。
また、「群馬県」の「群」という字は、音符の「君」が「羊」の左に置かれた常用漢字の字体(もともと俗字)でなく、「君」が「羊」の上に置かれた本来の漢字で記されていました。

とは言うものの、字体の違いをまったく気にしていなかったわけでもないようです。
明治6年の布告文は、「杤木縣」と書いてありました。
「とちぎ」の由来は「遠つ木」(遠い木の国=毛の国、近い木の国=紀の国)とか「十千木」(栃木市の市章参照)とか諸説あるようですが、「杤木」の「杤」は後者の説に基く国字でしょう。
落葉喬木の「とち」は「橡」で、「橡木県」という書き方も行なわれました[32037]
「栃」は 「万」の部分が「萬」になっている漢字(橡と同じ木?)の俗字かもしれません。

平凡社の「栃木県の地名」p.653には、次のような趣旨の記載がありました。
近世史料では「杤木」と書かれているが、明治に入って栃木県が成立してからは「橡木」と「杤木」が併用。
「栃木県」の「万」の部分が 「萬」になっている文書も残されており、県印の字体もこれに近い。
明治5年に「栃木」に統一する旨の達を出す伺が出ているが、残された史料には「杤木」が多用されている。
このため明治12年に再度統一を図った県令通達が出された。

異なる漢字で最近話題になった県名は「巖手県」です[35703][35708][35710]
新旧字体「巌」「巖」を 落書き帳の画面で区別できるほど目が良くはないのですが、コンピュータの過去記憶のまま無意識に旧字体を使ってしまったhmtなのでした。
そのような次第で「巌手」で記事検索すると、[35716]紅葉橋瑤知朗さんの記事等は出るのに、上記の3件はヒットしません。

残念ながら自分の目で見た記憶はないのですが、“「東京府廳」の看板は、「京」の真中が「口」でなく「日」になっている字を使っており、並んでいた「東京市役所」看板と対照的だった”という話を聞いた記憶があります。
[36111] 2004年 12月 27日(月)18:52:03hmt さん
埼玉県の生まれた頃(4)―土地人民同縣ヨリ可受取
本題の関東地方の県の改廃に関する太政官布告に戻ります。
1971年の第1次府県統合による関東地方1府11県[36081]から、1973年には入間県・宇都宮県・木更津県が消えて1府8県へ[36081]、更に1975年に新治県は千葉・茨城両県に分割され1府7県へ。

1876年になると 2度にわたる全国的な第2次府県統合で3府35県になります。
関東地方では、先ず足柄県が 神奈川・静岡両県に分割されて 消滅しました(4/18)。
現在と同じ数の 1府6県となったのは この時だし、江川代官所から韮山県へと 関東と深い関係を持ってきた伊豆と 別れ別れになってしまったのも この時でした。

北関東では次の布告による3県の組換えがあり、埼玉県・群馬県・栃木県が “ほぼ” 現在の形になります。
この後、関東地方の県境で大きな変化があるのは、1893年の 神奈川県から東京府への 三多摩移管[33700]だけです。

太政官日誌明治九年第六十五號(1876年)
〇八月二十一日(第百拾弐號布告)
筑摩縣始左ノ通廢合并管轄替被仰付候條是旨布告候事
一 筑摩縣ヲ廢シ飛騨國ヲ岐阜縣ヘ合シ信濃國ノ内ヲ長野縣ヘ合併(注:関東とは無関係)
一 熊谷縣管轄武蔵國ノ内ヲ埼玉縣ヘ合シ橡木縣管轄上野國山田新田邑楽ノ三郡ヲ熊谷縣ヘ合シ熊谷縣廳ヲ上野國高崎ヘ移シ群馬縣ト改稱

武蔵(旧入間県)を埼玉県に渡し、橡木県[36083]から上州3郡を得て、結局上野国全域になった熊谷県は、新しい県庁予定地の名に由来する「高崎県」となるはずでしたが、“差し支え”あるとの理由で、高崎・前橋をともに含む郡の名を採用して(第2次)「群馬県」に改称しました。翌月には県庁所在地が前橋になっているので、これが理由だったのでしょう。
なお、栃木県庁が栃木から宇都宮に移ったのは 8年後の1884年でした。

最後に、旧入間県を受取ることになった埼玉県に対する文書。

埼玉縣
熊谷縣管轄武蔵國ノ分其縣ヘ管轄被仰付候條土地人民同縣ヨリ可受取此旨相達候事
明治九年八月二十一日 右大臣 岩倉具視

[36081]の布告が、 「“地所物成(ものなり=生産物、年貢)等”を請取るべく」と財産権的な表現だったのに対して、今度のように 「“土地人民”を受取るべく」と書かれると、人民としては「ギクッ」とします。
1872(壬申)年施行の戸籍法や 1873年布告の徴兵令により、支配対象が「石高」に象徴される「生産物」から、「生産手段」たる 「人民」そのものに変化してきたことを示しているのでしょうか。
版籍奉還の “版籍” も、まさに“土地人民”と同じ意味だったのですが、使い慣れた4字熟語になると、鈍感になってしまいます。
[46981] 2005年 11月 29日(火)16:59:37hmt さん
地勢図で「県界変更史跡」めぐり
[46937]今川焼 さん
現佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国(岡山県吉野郡)でした。

これは知りませんでした。
早速、20万分の一地勢図「姫路」で現状を確認してみたところ、兵庫・岡山の県界と、播磨・美作の国界とは一致していました。

この県界変更が行なわれた明治29年(1896)は、明治23年に公布された「郡制」が全国的に施行の時期を迎えた時代です。
兵庫県についての直接の資料は持っていませんが、埼玉県では同じ明治29年に、中葛飾郡(最近春日部市と合併した旧・庄和町など)が北葛飾郡に併合されました。

実はこの地域は、もともと利根川が太日川として東京湾に注いでいた時代の川筋(庄内古川、現在は中川の一部)の左岸(つまり下総側)でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離されました。しかし、ずっと下総国の一部であり、明治8年に千葉県から埼玉県に移管されて中葛飾郡という名が付いてからも相変わらず下総国でした。
ところが、明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。
このような「国界変更」が行なわれことは、旧国が実質的な地域名称として機能していたことを示しています[36159]

旧美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。

つまり、兵庫県内には「美作国」の地域はなく、1896年の時点では、摂津(一部)・播磨・但馬・丹波(一部)・淡路の五ヶ国でした。1963年に日生(ひなせ)町の一部(旧・福浦村)編入により備前の一部が加わった後は六ヶ国となり、首位の座を固めています。

旧国が既に実質的な地域名称として機能を失った戦後の県界変更になると、それに伴なって国界を変更して一致させる必要性はなくなりました。
そのために、20万分の一地勢図上ので県界と国界との不一致として「県界変更史跡」が残されることになりました。

“備前国で兵庫県”の備前福河[46914]は地勢図「姫路」で、“丹波国で大阪府”の旧・京都府樫田村[31152]は地勢図「京都及大阪」で県界変更の跡を見ることができます。
“越前国で岐阜県”になった旧・福井県大野郡石徹白(いとしろ)村[31291]は、「岐阜」と「金沢」にまたがっています。手持ちの昭和43年発行の地勢図「岐阜」を見ると、石徹白付近に“白鳥町”の注記はあるものの、13年も前にできた筈の岐阜・福井県境が描かれていません。

同じく1955年に愛知県に越境合併した旧・岐阜県三濃村の一部の「県界変更史跡」は、地勢図「豊橋」にあります。この付近を中心として、北の現県界、東の明智川、南の矢作川、西の国界(表示なし)に囲まれた範囲が“美濃で愛知県”です。

有力メンバーの多い栃木・群馬県界の変更については、さすがにこの落書き帳に多数の記事があります。
地勢図は「宇都宮」で、手持ちの昭和34年版と平成10年版とを比較してみます。
昭和34年版でも桐生市街の対岸にある旧栃木県菱村[14592]は、明瞭な「県界変更史跡」を見せています。この“下野国で群馬県”の地域が、平成10年版になると、北方に更に拡大しています。これが1968年に桐生市に編入された栃木県飛駒村の一部[31165]ですね。

逆に“上野国で栃木県”になったのは、旧・群馬県矢場川村の一部[14616] です。昭和34年版は足利市編入の前年ですから、当然ながら県界=国界であった矢場川の南はすべて群馬県でした。矢場川は、渡良瀬川の旧河道[4618]で、その名も両毛橋が架けられています[25139]。平成10年の地勢図では、栃木・群馬県界が矢場川の少し南に移っているのは良いのですが、矢場川の位置に残るべき国界が消されています。
YSK[両毛人]さんのご指摘[17073] により、国土地理院は昭和56年からの編集ミスを認め、昨年発行の図から訂正されて、「県界変更史跡」が復活したようです。

最後に、“信濃国で岐阜県”の地域。地勢図は「飯田」です。
手持ちの昭和35年発行図を見たら、恵那山の北方に“中津川市”と記され、昭和33年に長野県西筑摩郡神坂(みさか)村の一部が越県合併した時に生れた新県界が、信濃・美濃国界から離れて北東へと描かれているのですが、ほんの一部だけで途切れ、東と北の県界は描かれていません。要するに「県界変更史跡」は未完成状態。
今年の2月に、長野県木曽郡山口村の岐阜県中津川市への編入が実現しました。“信濃国で岐阜県”の地域は、更に拡大したわけです。

“岐阜県でも信濃国”ですから、この地域の馬籠宿で生まれた島崎藤村は、[37786] 北の住人 さんのおっしゃるように、「信濃国出身」と書くことができます。たしかに「岐阜県出身」よりは数等「まし」な言い方です。
しかし、藤村本人の意識としては、彼の生まれた馬籠宿は、「筑摩県」でも「長野県」でも「信州」でもなく、「木曾」だったのだと思います。[37785]参照。
「信濃国」や「長野県」、「岐阜県」のような広域であり、かつ行政の都合で変化してしまう地名を「出身地」に使うことは、誤りではないにしても、「ふるさと」という感覚からはあまり適切でないケースがあるように感じます。

# 実は、県境の話題とは関係ないことなのですが、来年の3月になったら、メンバー紹介記事の「出身地」をどのように記すべきかと悩んでいるのです。
[54888] 2006年 11月 1日(水)23:30:12hmt さん
“現在の県の直接の母体”第1号となった群馬県(1)「群馬」の名と県庁所在地
[54618] YSK さん
群馬県民の日(中略)明治4年10月28日にはじめて「群馬県」が登場したことにちなむものです。

明治4年旧暦11月(1871年ですが、最後の11月22日は太陽暦では1872年)に行なわれたいわゆる「第1次府県統合」のうちで、10月に実施された唯一のケースが群馬県ですね。
他に先んじて第1号に選ばれたのは、たまたまなのか?それなりの理由があったのか? よくわかりません。

振り返ると、慶応4年(1868)、府藩県三治体制ということで新政府の直轄地に府県が設置され、更に明治4年7月には、全国の藩を廃して県が置かれました。
しかし、これらの302県は、江戸時代に形成された支配地の集合に過ぎませんでした。 [54430]で「飛び地の集合」状態と表現したモザイク模様の 第1次兵庫県 がその実例です。

廃藩置県から4ヶ月後の明治4年11月には、この混乱状態が3府72県に整理統合され、現在の県域の一部( 実例として第2次兵庫県 )又は全部の領域を備えた県が続々と誕生しますが、このような“現在の県の直接の母体”第1号が「群馬県」でした。

Issieさんのページ には、太政官の布告文が収録されています。
今般上野国諸藩被廃更ニ群馬県被置候事
おやおや、7月に廃藩置県は済んでいる筈なのに、“今般上野国諸藩被廃”と書いてあります。

上野国の主要な郡としては、古くは国府のあった甘楽郡が首位であったようですが、東山道が整備され、国府も群馬郡に移って、こちらが上野国の中心になったようです。
「群馬」の名は、古い時代の「車」郡が、“凡諸国部内郡里等、並用二字、必取嘉名”(延喜式)に従って二文字の表記に改められたもので、近世でも「くるま」と「ぐんま」とが両方用いられていたようです。
表記と言えば、[36047]で引用した明治4年11月の太政官布告文でも「群馬県」の「群」という字に、音符の「君」が「羊」の左に置かれた常用漢字の字体(もともと俗字)でなく、「君」が「羊」の上に置かれた本来の漢字が使われていました[36083]

但高崎ニ県庁ヲ被置候事
徴兵令布告に先立ち、高崎城には鎮台分営が置かれる方針が出され、県庁は高崎を追われて前橋に移りました(明治5年6月)。
更に明治6年6月には知事が兼務した入間県と合併したので熊谷に県庁が移り[36081]、「群馬県」の名も一旦消えました(熊谷県)。
明治9年8月の第2次府県統合で「群馬県」が復活した際にも、再び高崎に県庁が置かれましたが、その際も満足な庁舎が得られず、生糸貿易による経済力に勝っていた前橋の仮県庁誘致が成功しました。
明治14年(1881)には正式に群馬県庁所在地が前橋ということになり、現在に至っています。
県庁と言っても現在のように大所帯ではなく、定員50人程度だった埼玉県庁[36047]と同規模の役所でしょう。従って引越しも身軽にできた時代ですが、転々と移動した履歴をもっています。
[54919] 2006年 11月 2日(木)17:50:00hmt さん
“現在の県の直接の母体”第1号となった群馬県(2)最初はなかった「鶴の首」
明治4年(1871)10月28日(1985年制定の群馬県民の日の由来)に登場した「群馬県」、[54888]の続編です。

Issieさんのページ には、群馬県設置の布告文に続き、新旧各県宛の達が収録されています。
         群馬県
今般上野国小幡伊勢崎前橋岩鼻高崎沼田安中七日市ノ八県ヲ廃シ更ニ其県ヲ被置

     各通  小幡県 伊勢崎県 前橋県 岩鼻県 沼田県 安中県 高崎県 七日市県
今般其県被廃候ニ付テ管轄地並当未歳物成等群馬県ヘ可引渡事
 但元県ノ官員追テ 御沙汰候迄従前県庁ニ於テ事務可取扱事
  但高崎県ハ元県ノ官員追テ御沙汰迄従前ノ通可相心得事ニ作ル

上野国には、旧幕府領から明治政府の手に渡った岩鼻県の他に、旧藩領から転換した8県がありました。合せて9県のうち、明治4年には館林県(東毛3郡)だけが栃木県に入り、残る8県が群馬県として統合されたわけです。

[54618] YSKさんの「群馬県民の日」に関する記事中の次の箇所も、このことを指しています。
このときの群馬県はいわゆる「第一次群馬県」でして、現在の桐生市やみどり市、太田市、館林市、邑楽郡の区域は含まれていませんでしたが

「鶴舞う形の群馬県」 ですが、この時代にはまだ「鶴の首」がなかったわけです。
…と書いたら、「鶴の首」のない地図が現存していました。
[54483] みやこ♂ さん
「東京12チャンネル」の天気予報の地図(関東地方)に,群馬県の「鶴首」がないのがあるんですよ

それはさておき
「第1次府県統合」は現在の県の母体を作ったとはいえ、3府72県という数からも明らかなように、県域が現在の県よりも狭い場合が多数ありました。
1971年は「第1次府県統合」の100周年でしたが、この年に「県民の日」が制定されたお隣の埼玉県を、その例として挙げます。
すなわち、明治4年の第1次埼玉県には、荒川の西、川越から秩父までが含まれておらず、面積的には現在の約3分の1に過ぎません。現在の県域との相違は、群馬県よりもはるかに顕著でした。

[54618] YSKさん
イベント等を実施するには気候もよいなどの理由からこの日を群馬県民の日としたとのことです。明治4年当時は太陰暦を使っていたので現在の暦とは違うようですが、そのあたりは厳密には考えないことにしたそうです。

「県民の日」を太陽暦換算の年末とせずに、旧暦の日付を用いることにより、気候のよい秋に持ってきた点も、群馬県・埼玉県[21976]に共通しています。
横浜開港記念日 は、外国関連なので太陽暦日付が適しているように思われるのですが、何故か太陽暦による7月1日から、わざわざ旧暦による6月2日に変更されたのですね[54351]

“現在の県の直接の母体”第1号として誕生した群馬県ですが、入間県と合併していた「熊谷県」時代の3年間は、一時的にその名が消えます[36081]
この明治6年の合併は、現代流に言えば「新設合併」です。
入間県・群馬県
其県被廃熊谷県被置候条地所物成等同県ヘ引渡可申事

東毛3郡(新田、山田、邑楽)を加えて上野国全域に及ぶ第2次「群馬県」として復活したのは明治9年(1876)でした。
明治9年の布告文から、この時には「熊谷県」が管轄区域と県庁所在地を変更して「群馬県」と改称したものであることがわかります。[36111]
熊谷県管轄武蔵国ノ内ヲ埼玉県ヘ合シ橡木県管轄上野国山田新田邑楽ノ三郡ヲ熊谷県ヘ合シ熊谷県庁ヲ上野国高崎ニ移シ群馬県ト改称


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