[45093]eiji_t
水戸工場の名の由来だけは判りましたが、戦争に絡んでいて少々重いので別に…
と予告して、延び延びになっていましたが、やっと纏まりました。
水戸工場の由来には
[45417]eiji_t で述べた「多賀工場」と「多賀町」との関係と密接な繋がりがあります。
違いは、その期間にあります。多賀町の場合は昭和10年に地元に打診があり地元も工場の誘致と新町合併に動き、反対派をなだめ工場の新設と新町の誕生までまで3年以上掛けています。
昭和十年代初め軍需産業に傾斜した日立製作所は手狭の上に電力不足の安来工場(兵器用特殊鋼の生産工場)の分工場用地を探します。始めは工場用地を多賀工場の隣(桜川)に求めますが、地元の反対で断念します。
そこで現在のひたちなか市の一部、当時の勝田村,川田村,中野村に跨る広大な農地に目を付けます。
ここで方針の転換があります。分工場ではなく独立した工場として製品を軍に納入する陸軍管理工場として計画し直されます。昭和14年8月のことでした。
またこの地域一帯を水戸市を中心に軍需工場地帯として水戸市に合併する構想が生まれそれに沿って新工場の名も「水戸工場」と決定します。これが水戸工場の名の由来です。
事態が切迫していた事もあり、日立製作所は昭和14年9月工場用地取得に乗出します。降って湧いた農地買収に地元は反対しますが、強制収用をちらつかせ国策の名の下に強引に工場用地を低価格で買収します。12月には百万坪に及ぶ用地買収を完了します。水戸工場完成は翌15年9月です。
、
平行して日立製作所は県に働きかけ合併を画策します。新工場が3村に跨っていてはその操業に支障をきたす為です。水戸市も将来の編入を視野に入れて合併を促進します。県主動でで進められた3村の合併は昭和15年4月に成ります。新町名は3村が提案した合成名「中田町」ではなく、当時の軍事色を反映して「勝った!」に繋がる「勝田町」に決定します。
勝田町の水戸市への編入の話は翌年には何故か萎み、戦後も周辺の村と合併し勝田市となった後那珂湊市と合併しひたちなか市となる道を選びます。
[37842]hmt さん
戦時(1937.7.7~1945.9.2)合併は、全国で合併合体208(関係町村661)、編入合併188(関係町村341)とされています。
勝田町もこの一例でしょう。勝田町のような例を私は勝手に「軍需合併」と名付けています。
全国には似た例が沢山あることでしょう。