[38124] みやこ♂ さん
わたくしの想像する(元々の)佐野とは「田沼」なのです
また、マメじゃなくなると思いますが、「佐野と田沼」というお題を頂戴しましたので。。。
田沼意次といえば、江戸時代の老中として有名ですが、意次は、彼の父の意行の代に、浪々の身から紀州藩の足軽に新規採用され、紀伊藩主だった徳川吉宗が、将軍就任する際に、紀州から連れて来られて、陪臣から旗本になったわけですが、このとき300石。
そこから、吉宗の世子、後の九代将軍家重の傅役となり、出世を重ねて、遠江相良に1万石を得て、大名に。
さらに、1万5千石→2万石→2万5千石→3万石→4万7千石→5万7千石 と加増され、ついに老中首座となり、親子の相勤めは異例中の異例なのですが、嫡子の田沼意知(おきとも)も若年寄に就任。
田沼に取り入り、出世を図ろうとした大名、幕臣は数知れず、
その中に、佐野善右衛門政言(まさこと)という旗本がいるのですが、
成り上がりの田沼の事ゆえ、さぞかし、出自を明らかにしたいことであろう、と考え、佐野氏伝来の系図に、佐野氏の傍流として田沼氏を書き加えてはどうか、と佐野氏の系図を、田沼に預けます。
金品よりも喜ばれるワイロだと、佐野善左衛門は考えたのです。
これで、出世間違いなし!
まあ、一応、佐野氏は、足利氏の傍流で、源頼朝の御家人となって、佐野庄を領して「佐野」を称したことに始まる「鎌倉以来」の名族で、戦国時代には、唐沢山城に拠って、佐野昌綱などの戦国大名を輩出。
上杉に付いたり、佐竹と結んだり、北条に付いたりと、巧みに存続を図り、豊臣政権、徳川政権でも、唐沢山城を保持しますが、
本家は、江戸初期に改易。
旗本として残った佐野家は何家かありますが、佐野善右衛門家も、この佐野氏の傍流には間違いないようで、
また、田沼氏も下野国「田沼」がその出自の由来であること自体には間違いないようなのですが。
さて、出世を今か今かと待つ佐野善右衛門、ですが、いつまで経っても何のお声掛りもありません。
実は田沼意次は、自分の出自や系図などに、何の興味もなく、佐野から預かった系図のことなど、すっかり忘れ、政務に忙殺されていたのです。
恩を売ったつもりなのに、何の見返りもない佐野善右衛門は、逆恨みが爆発し、
ついに、江戸城中で、意次の息子、若年寄の田沼意知に、いきなり切り付けます。
4太刀付けたと言いますが、傷そのものは致命傷ではなかったようですが、破傷風を発し、意知は亡くなってしまいます。
城中騒動を起こしたということもあるのか、この事件がきっかけで、田沼意次の発言力が急速に弱まり、田沼失脚の端緒になります。
佐野善右衛門政言は、城中刃傷ですから、当然切腹、お家断絶ですが、田沼のワイロ政治を嫌っていた、江戸市民からは、「世直し大明神」と称えられ、墓参の人が絶えなかったということですが、
その後、出現する、白河藩主、松平定信の緊縮政治に、
「白河の清きに魚の住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」
と、落手されることになったのは、皆様ご存知の通り。