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上福岡市は、なぜ「上」がつく市名だったのか?

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記事数=17件/更新日:2006年12月5日/編集者:YSK

埼玉県上福岡市(現・ふじみ野市)は、市名としては、福岡市との同名回避から「上」をつけた現地名を採用したもののようなのですが、ではなぜ市名のもととなった地名が「上」福岡なのかといいますと、よく分からない部分が多そうなのです。上福岡の議論について、まとめてみました。

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[18285] 2003年 7月 13日(日)19:33:59実那川蒼[あんどれ] さん
Re: 上福岡
しばらく落書き帳から離れていましたが、復帰します。

[18247](ゆうさん)
上福岡市の「上」はどのような感覚で付けられたものでしょうね。
確か上福岡市にある「福岡」という地名に「上」「下」がつけられて「上福岡」「下福岡」と呼ばれていたうち(中福岡もあったかも)、東武東上線の駅が上福岡に設置されたので上福岡駅となったのが市名の由来だったと思います。
京都を基準とした上中下でないことは確かです。
[18294] 2003年 7月 13日(日)22:41:43【1】ありがたき さん
ほとんどの公共機関は「上」付きフルネーム、高校は「福岡」
[18285]あんどれ さん

東武東上線の駅が上福岡に設置されたので上福岡駅となったのが市名の由来だったと思います。

字というか駅名というか、小さい地名が市の名前になったというのも珍しいというか、福岡を尊重したままうまくネーミングしたものですね。
ちょっと地図を見てみたんですが、上福岡市内に「福岡」の付く町名は、「福岡」「上福岡」「中福岡」「元福岡」「福岡新田」があります。「福岡」は広く境界線も入り組んでいるので、ひょっとして住居表示未実施なのかな?もうひとつ、その「福岡」の東端で荒川に近いあたりに「下福岡」というバス停があるので、字として「下福岡」があるのか、市になる頃は上下の「福岡」があったのかも。これだけ見ても奥が深そうで興味がそそられますね。本腰を入れて調べてみるのも面白そうですね。

京都を基準とした上中下でないことは確かです。

市の名前でなく町名の「上福岡」「中福岡」とバス停のある位置の「下福岡」を並べると、京都のある西から順に上中下と並んでいるので、京都を基準としたものと言えそうな感じもありますね。地図上で見ただけなので正確な背景はわからないので、これは推測の域を出ないのですが。
[18309] 2003年 7月 14日(月)00:41:46ゆう さん
Re: 上福岡
[18285]あんどれさん
ご教示ありがとうございます。恥ずかしながらそういった事情を知りませんでした。
このあたり、北広島市([6060]グリグリさん他参照)との共通性を感じますね。

http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/gaiyou/gaiyou.html によれば、
近代に入った大正3年、福岡村の台地を通る鉄道(東武東上線)の駅名に「上福岡」が初めて使われ、駅前に新たに住み始めた人たちの地区も「上福岡」と呼ぶようになった。
とあります。ここにあるように駅名が先だったとすれば、なぜ「武蔵福岡」や「東武福岡」ではなく、「上福岡」だったのかも気になるところです。

[18294]ありがたきさん
市の名前でなく町名の「上福岡」「中福岡」とバス停のある位置の「下福岡」を並べると、京都のある西から順に上中下と並んでいるので、京都を基準としたものと言えそうな感じもありますね。
地形図も確認すると上福岡のほうが新河岸川の上流にあたるような気もしますが、標高差はほとんどないようですし、やはり背景はわかりませんね。
[18311] 2003年 7月 14日(月)01:15:51ありがたき さん
間違いなく駅名先行地名でした
[18309]ゆう さん

駅名が先だったとすれば、なぜ「武蔵福岡」や「東武福岡」ではなく、「上福岡」だったのかも気になるところです。

東武鉄道の沿線情報サイト「TOBULAND」にて駅名の由来が確認できました。

===以下引用===

明治時代に近郊にあった地名は川崎・福岡新田・福岡・中福岡等で、最初は「福岡」が有力でしたが、九州にあるため断念。
ついで武蔵の国にあることから「武蔵福岡」の名が出ましたが、まとまらず公募により最も多かったところから命名されました。

===引用終わり===

上福岡駅の住所は「上福岡市上福岡1-1-1」でして、市名由来の駅がトップナンバーなのは敬意を表したんでしょうか。

参考:TOBULAND  http://www.tobuland.com/
[18318] 2003年 7月 14日(月)09:44:59スナフキん さん
上福岡、もろもろ
本当は上福岡市民としてまっ先にレス付けするつもりでしたが、何せ市民になって3年目、自宅に確固たる資料が揃っていなかったので勤務先の資料に当たるまで、書き込みを控えていました。

[18311]でありがたきさんもご指摘のように、「上福岡」の地名は駅名から派生した、と考えるのが妥当なようです。角川の地名辞典には「福岡駅」の記述が見られますが、これは恐らく参照した先の資料が間違っていたなどの理由による誤植と思われます。6月に発行された合併協議会だよりには新市名の募集の付帯記事として、各市町の名称由来が掲載されていましたが、それを抜粋しますと…

「上福岡」という名称は、昭和47年4月、、市制施行に当たって行われた公募の結果により名付けられました。(以下略)

とされていますが、この公募に際し、当初から駅名とされていた「上福岡」と市名が同一の方が、何かと都合がよいという心理が働いたのは想像に難くありません。従いまして、既存の居住地名であるところの「上福岡」も、駅名に比べればはるかに歴史は浅いということになります。むしろ、「上福岡○丁目」自体、駅の存在を強く意識して命名された町名と見ることもできるかと思います。

[18309]ゆうさん
[18294]ありがたきさん
[18285]あんどれさん
住居表示上は「上福岡」「中福岡」が揃っています。「下福岡」も確かに西武バスのバス停として採用されていますが、正式な町名ではなくあくまでも通称です。もともと「大字福岡」だったエリアが、人口の増加や宅地化に伴って次々と住居表示整備が進み、残された場所が今の「大字福岡」になっています。「上」「中」がすでに命名されているので、残されたこのエリアを「下」と通称するようになったのもうなずけます。この上中下に関しては、そもそも親玉である「上」が駅名由来の可能性が捨て切れないことからこじつけ気味になりますが、概ね「新河岸川」の流方を意識してつけたと思われます。そもそも「福岡村」が新河岸川の舟運との密接な関係を持っていたという前提がありますからね…。

これで疑問点に関するフォローになったでしょうか?

落書き帳本質の話題が噴出中ですが、少し間を置いて別に書き込みします。
[18505] 2003年 7月 21日(月)14:11:39【2】ありがたき さん
武蔵国における地名の上下の慣習
[18502]ゆう さん

「北」という意味かといえば、確かに上福岡市のほうが高緯度にありますが、感覚的には「東」のほうが自然です。それとも「東」=「上」という用法もあるのでしょうか。
もしかして(京都ではなく)東京に近いという意味でしょうか。

上福岡市のサイト内にて「かみふくおか百科」という今昔を紹介したところがありまして、こんな一文を発見しました。

=====以下引用=====

明治に入ると、22年に川崎、駒林、中福岡、福岡、福岡新田の5か村が合併して福岡村が誕生した。このとき、村の戸数は321戸、人口は1,858人だった。

大正期から昭和期にかけては、村はじまって以来の激動期で、大正3年(1914)に東武東上線の池袋~川越間が完成し、上福岡駅が開設された。

=====引用終わり=====

東武東上線の駅名決定にあたって、九州の福岡を意識して「福岡」を断念したのは[18311]にて紹介したとおりですね。ここからは推測になりますが、ではどうしましょう?となったときに、無印「福岡」を使うことに関してはは九州の「福岡」に配慮したものの、「上福岡」の名称については、福岡村の中での位置関係にて決定したというものではないかと。つまり、江戸時代より江戸近辺の国名、郡名、集落名にて幅広く使われた位置関係の呼称である「上下」を使用したのではないでしょうか。

[17554]にて触れたのですが、もう少し掘り下げてみます。
都市史研究家の鈴木理生氏は東京の地名に関する著書を多数だしているのですが、その中の「東京の地名がわかる事典」によると、江戸時代、武蔵国近隣の国、郡名、五街道をはじめ主要街道沿いの集落名において、地形の高低ではなく京都との遠近にて「上下」で区別する位置記号が使われていたと説明されています。
ですので、江戸城の西側に行くと、江戸城に近い方が「下」になるのですね。上下で対の地名は東京近辺では今でも数多く残っていますね。いくつか例を挙げると、北沢、板橋、井草、高井戸、連雀などなど、いずれも京都側が「上」です。この例に倣えば、上福岡駅の位置は旧福岡村の中では中心よりおおよそ南西に外れたところに位置していますので、福岡村の「上手」になる訳ですね。
ちなみに、東京近辺において位置関係記号を「上下」から「東西南北」としたのは昭和に入ってからだそうでして、それまでの「上下」が方角に対応したものではない(上=北とか東とかではない)ことがわかります。

ほかに「東京を基点とした上下」の地名をご存知の方があれば、ご教示ください。

地名ではないのですが、東京基準での上下といえば、鉄道や道路の方向に使われているのを思い出されますね。わたしは東京基準の上下地名は思いあたりませんでした。思うに、近年地名に付与する位置記号で「上下」をつけようとすると、「優劣」ともとれそうですし、故意に避けられるのではないでしょうか。

と、ここまで、文献やホームページの記述を参考にはしていますが、かなりがわたしの推測するところです。残念ながら「間違いなくこれだ!」というものが探しきれませんでした。ゆうさん、ひとまずここらへんまでで参考になったでしょうか?さらなる情報があれば皆さんにもフォロー願いたいところであります。

参考:上福岡市ホームページ内「かみふくおか今昔」URL: http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/konjyaku/history.html
[18507] 2003年 7月 21日(月)19:22:36【1】ken さん
「上福岡」問題
[18506] ゆう さん
[18505] ありがたき さん
[18502] ゆう さん
[18422] オーナー グリグリ さん
[18400] ゆう さん
[18318] スナフキん さん
[18311] ありがたき さん
[18309] ゆう さん
[18294] ありがたき さん
[18285] あんどれ さん
[18247] ゆう さん

結局、上福岡は、
◇市名は公募であるものの、駅名上福岡に多分に影響されたであろうこと。
◇駅名上福岡は、九州の福岡(福岡駅は九州にはないが)を意識し、回避名として付けられた。

とすると、何ゆえ、回避手段として、「上」を選んだか、ということですが、納得性がないですね。
私自身、なぜ、今まで上福岡の名前を疑問に思わなかったのか、不思議です。

http://www.tobuland.com/infomap/17/7312/7312_info.html
の東武鉄道に問い合わせてみるしかなさそうですね。
[18510] 2003年 7月 21日(月)21:10:27【4】ありがたき さん
私的見解では、「同名回避であるものの、直接的方角回避ではない」
[18507]ken さん
何ゆえ、回避手段として、「上」を選んだか、ということですが、納得性がないですね。

[18506]ゆう さん
・上福岡のほうが僅かながら高緯度にあるためか?
・「上」=「東」という用法があるのか?
・東京を基点とした上下という用法があるのか?

TOBULANBと上福岡市ホームページの内容を再確認し、少々補足を加え、経緯を時系列で並べてみると、
・明治22年に川崎、駒林、中福岡、福岡、福岡新田の5か村が合併して福岡村が誕生
・大正3年に東武東上線池袋~川越田面沢(たものざわ・今の川越市駅と霞ヶ関駅の間)間が開業、上福岡駅も同じ大正3年5月1日開業である
・昭和35年に町制施行で福岡町になった
・昭和47年に市制施行で上福岡市となった。市名は東武東上線上福岡駅に由来する
となります。

ここまでで読み取れるのは、埼玉県福岡町が市制施行の際、福岡県福岡市との同名回避の手段として駅名を採用しているということです。

お二方の最新の疑問としてあるのは、駅名「上福岡」がなにゆえ「上」を採ったかですよね?

ここで、可能な限りのデータを集めて、命名の手がかりを見出すべく、では同時期に開業した東上線の「上下」駅名がどういう経緯か調べてみました。


駅名開業年月日命名の根拠
下板橋大正3年5月1日駅舎の位置が北豊島郡板橋町大字下板橋に近接していたため
中板橋昭和8年7月12日川越街道の上板橋宿と中仙道の下板橋宿の中間に位置するため
上板橋大正3年6月17日川越街道の宿場町、上板橋宿に近接
下赤塚昭和5年12月29日700年くらい前の赤塚郷6ヵ村のひとつ、下赤塚村から
上福岡大正3年5月1日前述のとおり、公募の最得票

この中で面白いのは、「下赤塚駅」ですね。対になる「上赤塚駅」が無く、「下」だけ存在の駅です。なにより、700年前の地名を採用したことですね。ちなみに、この赤塚郷6ヵ村は、上赤塚・下赤塚・成増・徳丸(本)・徳丸脇・四ッ葉で、明治22年に町村制布かれて東京府北豊島郡赤塚村になり、6ヵ村の各名称は大字として継承されたそうです。さらに昭和7年1月1日には東京市板橋区に編入となっています。
板橋3駅ですが、川越街道(板橋区近辺では現在の国道254号線)と中山道(もしくは中仙道。同様に国道17号線)の宿場町に関連する命名ですね。2つの宿場の位置関係では、上板橋が北西、下板橋が南東寄りですが、京都に向かうために中山道(中仙道)を進むと、日本橋→下板橋→上板橋→蕨→… となって、北西側の上板橋の方が京都に近いことになりますね。(Issieさん、フォローありがとうございます。書き込み訂正を利用して補足訂正させて頂きました。)
また同じ区間には方角を用いた「北池袋駅」があります。この位置での開業は昭和9年5月1日ですが、当時は「東武堀ノ内駅」と称していました。この駅は第二次世界大戦の東京大空襲で消滅し、その後昭和22年8月に一旦廃止されています。4年後の昭和26年に再開された時に現在の名称になったのですが、その頃になると地名の位置記号が「上下」から「東西南北」になったものと思われます。

と、こうなるとなんだか上福岡の「上」の根拠がもっとも玉虫ですねぇ…。ここまで調べればかなり核心に迫れる類推を導き出せるかと思ったんですが、どうやら進展しなかったというか逆に混乱したというか…。せめて、上赤塚と下赤塚の位置関係がわかれば。こちらに関しては、板橋区教育委員会が発行している文化財シリーズというものがあるらしく、そのひとつ「まち博ガイドブック・下赤塚・成増・徳丸・高島平」でこの近辺はわかりそうですね。埼玉県あるいは上福岡市にも同様の資料があれば助かるのですが。

ただ、福岡県との直接的位置関係の「上」でははく、間接的に位置記号としての「上下」を用いているように推測されそうですね。これは、東京都東大和市が神奈川県大和市に対して東に位置するのではなく、東京の「東」を冠したのであると同様、位置記号が直接的に使われているのではないグループに入りそうですね。東大和の「東」の場合も、京都に対して「東の都」である東京から採ったのであれば間接的位置記号といえなくもないですし。
こうなると、同名回避の分類に1つ加えても良いような気もしてきましたが、果たしてそう単純なものなのか。オーナーグリグリさん、如何でしょうか?
[18524] 2003年 7月 22日(火)09:37:12スナフキん さん
上福岡のこと
ここまで皆さんに披露されると、市民として書き込む内容に困ってしまいます。もともと市民となった経験も浅ければ、市立歴史民俗資料館や福岡河岸記念館すら拝観していない「不真面目市民」なので、やたらなことを書くとお叱りを受けそうですが…(大汗)。

[18505]ありがたきさん
「上福岡」の名称については、福岡村の中での位置関係にて決定したというものではないかと。つまり、江戸時代より江戸近辺の国名、郡名、集落名にて幅広く使われた位置関係の呼称である「上下」を使用したのではないでしょうか。

[18506]ゆうさん
・上福岡のほうが僅かながら高緯度にあるためか?
・「上」=「東」という用法があるのか?
・東京を基点とした上下という用法があるのか?
ううむ、確かに…。今までの私の書き込みでは、上福岡市は駅名に引きずられて公募で決定されたところまでは示せていましたが、ではその前段階の駅名についた「上」についてはもろに、はしょってしまいましたね。

これはもちろん誰かに問いただしたりした結果ではなく、あくまでも2年間ちょっと、上福岡市に住んでみての漠然とした捉え方なのですが、皆さんの「上」の捉え方は平面的位置関係を指摘されているのがほとんどですよね。実はこの上福岡駅、市域(=旧福岡村域)でも、一段高いところにあります。2.5万地形図「与野」でもかろうじて等高線補助曲線で現れるかどうかの違い、それこそ比高にして5m前後ですが、私の住んでいる市域東部~東南部にかけてよりかは、はっきりと高まりになっています。毎朝通勤の際上福岡駅に向かって歩くと、明らかに途中1ヶ所、登り坂になって武蔵野台地にとりつく地点があります。それを鑑みた当時の東上鉄道(現東武東上線)関係者が「福岡村中でも一段高いところにあるんだし、九州の福岡とも区別しなければならないんだから、『上』つけて『かみ』と読ませておけばいいんじゃね~ん」(サイタマ弁丸出し)とでも思ったのではないでしょうか。少なくとも鉄道関係者が、緯度の高低とか、京から、東京からどうこう、とまで突っ込んで考えたとは私にはちょっと考えられないのです。

と言うわけで、私の「『上』福岡」に関する捉え方は、平面的位置関係を意識して「上」を付けたのではなく、土地の高低から「上」を付けたものと理解しています。そうやって始めから書いておれば、こんな議論噴出にもならなかったのかも…。
[18579] 2003年 7月 24日(木)00:56:26ありがたき さん
上福岡を考える(special-weekさんの口上お借りしました!)
[18524]スナフキんさん
[18537]Issie さん
[18576]ゆう さん
[18422]オーナー グリグリ さん

「上福岡」問題、まだいろいろと思考中です。まとまったらまた書きます。
とはゆうさんのコメント。わたしもいろいろ頭をひねっているのですが、インターネット経由の調べものでは行き詰まりました。昭和47年の市制施行および大正5年の駅開業き関する名称決定の経緯については行くところまで行った感があります。

以前にどなたかが「図書館の紙の本にてまず調べたい」旨のコメントをなされていましたが、まったくそう思いました。実際、とある東武東上線の駅名をコメントしている個人サイトを見かけたのですが、個人的な意見と断っているものの、上中下の板橋とか上福岡とか、結構とんちんかんなコメント(例えば、上福岡は福岡市のパクリとか)でして。しかし、明らかに資料性が無いものは一目瞭然としても、もっともらしいものの真偽を判断するのは至難の業ですね。

というわけで、近々まとまったお休みに入るので、一度上福岡市(もしくは埼玉県の大きな図書館)を訪れてみて、実地を見たり図書館にて調べ物してみるのも一興かな~とか思っております。
実は、この一連の「上福岡」問題ですが、ツボにはまりまして、調べていくうちにどんどん面白くなってきたんですよ。最終目標は「上福岡」の「上」の意味解明ですね。

上福岡駅前できょろきょろしてる人を見かけたらわたしかも知れないですw
[19227] 2003年 8月 23日(土)14:51:25ゆう さん
上福岡のこと
[19012]kenさん
ところで「上福岡」の「上」問題は依然、謎のままでしょうか?
その後も折をみて調べてはいるのですが、決定的なものは見つかっておりませんが、現時点までに調べたことによる推測をご紹介します。

・市名「上福岡」
 福岡町が「福岡市」とできないための新市名として、域内唯一の鉄道駅「上福岡駅」から多分に影響を受けた命名であると考えられる。

・駅名「上福岡」
 駅開業時に「福岡村」内に駅ができる際、「福岡駅」が別の有名な福岡との関係で避けられた。
 駅前付近の狭域をあらわす「上福岡」を新作し駅名としたと考えられる。
 ※同じ東武東上線には「赤塚村」に「下赤塚駅」があり、これも常磐線赤塚駅との同名回避を受けての狭域地名選択という線も推測できる。

・駅前の「上福岡」地区
 これが使われたのは駅名としてが最初である。
 当時の福岡村の母体となったのは江戸時代の福岡村,中福岡村,川崎村,駒林村,福岡新田であり、福岡村,中福岡村,福岡新田は境界がそれぞれ錯雑していた。
 (江戸時代の)福岡村は大きく、滝、「土赤」†(本村)、下福岡の3地域に分けられていた。
 「上福岡」は他の小地名「中福岡」「下福岡」からの連想で命名されたと考えられる。

†…「土赤」は「つちへんにあか」の1字、読みは不明です。


【参考文献】
角川地名大事典、日本歴史地名大系(平凡社)、上福岡市史通史編、 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/hyakka.index.htmhttp://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/tiri.htmhttp://www.tobuland.com/http://www.jreast.co.jp/estation/、この落書き帳の過去ログ(個別記事番は割愛)
[19388] 2003年 8月 28日(木)23:51:26hmt さん
上福岡
はじめまして。
隣接する「上福岡」と同様に、市名に昇格?する予定の駅名を持つ「ふじみ野」(この地名は10年前の駅開設時から)の住人です。
[18247]
上福岡市の「上」はどのような感覚で付けられたものでしょうね。
前身の福岡村は5村の合併で生れましたが、その中に「上福岡村」の名はありません。
歴史的には、新河岸川に臨む段丘周辺に形成された福岡村(本村)が、約2km下流の自然堤防地帯(下シモ)にも進出。17世紀に支流の福岡江川北側に開発した福岡新田が成立。18世紀に3集落の間に更に中福岡村が成立。
明治14年測図の迅速測図を見ると、福岡新田と中福岡村(両者逆位置に記入)の北東、下福岡地区に福岡村と記され、本村には地名が記されていません。しかし、ハケ地区と滝地区とから成る本村こそが「福岡」の名にふさわしい台地であり、下福岡、中福岡、福岡新田は沖積地です。福岡村成立後の明治39年測図5万分の1地形図も、大正3年鉄道補入で「かみふくをか」駅はあるものの、「上福岡」の地名はありません。地形図に「上福岡」の地名が登場するのは大正13年測図 昭和元年12月25日(昭和の初日!)発行の2万5千分の1地形図で、滝地区の北側に見えます。
このような経過から考えると、「上」は中福岡、下福岡との対比から、上流側にある本来の「福岡(本村)」に付加された言葉のようです。では、どの時代から? 明治の村名や地図に使用されず、大正3年の駅名に使われていることから、明治後半かと推察しながら、上福岡市立歴史民俗資料館 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_4.htm で尋ねてみました。その結果、僅かながら江戸時代から「上福岡村」の使用例があるとの教示を受けました。長宮氷川神社文書H5-1「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」。
この「上福岡」が1914年に駅名に採用されるにあたっては、東上鉄道を推進した星野仙蔵代議士の意向が働いていると思われます。星野家はもともと福岡河岸の回漕問屋福田屋を営んでいましたが、河川改修と鉄道の出現で新河岸川舟運を見限りました。福田屋の建物は福岡河岸記念館として公開されています。 http://www.city.kamifukuoka.saitama.jp/hyakka/siteibunkazai/bnkazai_1.htm
「東武鉄道・駅長さんが書いた駅名由来(平成4)」という本があるようですが、見ていません。
更に1972年に市名に採用されたわけですが、これについては、上福岡市教育委員会市史調査報告書第19集「20世紀を語る古写真―上福岡and新河岸川舟運+東上線」188頁に「市の名称選定風景(昭和46.10.3)」の写真があり、次の説明文がありました。
市の名称を募集し、上位5種の「上福岡」「武蔵福岡」「東福岡」「新福岡」「上岡」の市名の中から市制審議会で総合的に判断して現在の「上福岡」に決定する。
32年前にも同じことをやってたんだなあ。
[22395] 2003年 11月 30日(日)18:57:11【1】hmt さん
お久しぶりの上福岡です
この落書き帳に出会ったきっかけは、ふじみ野2市2町合併が議論されていた頃の検索からで、嵌り込んで書き込みを始めたのは3ヶ月前の「上福岡」地名論議でした。上福岡市の名も、目出度く?残ることになったので、少し新資料を交えてまとめておきます。

[19388] では「市の名称選定風景」の写真説明を紹介しましたが、より公式の資料である、福岡町公報113号(上福岡市史資料編第4巻140頁)に、新市名の公募結果と決定手順が載っていました。
応募総数734通、市の名称206種、上位5点は、上福岡市215通、武蔵福岡市93通、東福岡市52通、新福岡市13通、上岡市12通。
これを市制審議会で検討し、市名に対する郷土愛、象徴性、知名度、読み具合、書き易さ等を総合的に判断し、他を圧倒して上福岡市(かみふくおかし)と決定し、町長に答申した とあります。この後、町議会の議決を得て決定し、知事の認可を得ることになっている由。

この記事には現れていませんが、福岡県福岡市との同名回避は当然の要件であり、私鉄駅名由来であることも公式には書けないので、「象徴性、知名度」という言葉で置き換えたものと推測します。

その駅名ですが、「東武鉄道創立百周年記念別冊マンスリーとーぶ」は、「大正3年5月開設。駅名は公募によって付けたものである。九州の福岡に対し武蔵福岡をという案もあったという。」と記しています。星野仙蔵氏は停車場開設にあたり 1,600円(停車場敷地代1,920円80銭の時代です)というダントツの額を寄付していますが、ボスが決めるのでなく、公募駅名だったことには感心しました。

ついでに、上福岡市史資料編第3巻で「既定線ヲ本村内ヘ変更ニ要セシ諸費」1,100円が計上されているのを見つけました。東上鉄道の予定路線を川越街道沿いから、少し新河岸川寄りに変更したものと思われます。侵食谷に邪魔されずに台地上を通りたい鉄道側との間の妥協の結果が現在の路線なのでしょう。

停車場は亀窪道が鉄道と交差する場所に作らました。ここは「ハケ」[19232] の下に位置する福岡河岸と川越街道亀久保とのほぼ中間点で、それまで集落のなかった地域です。「上福岡」は明治大合併の前にも後にも、正式の村名になったことはありませんが、[19388]で挙げた文書から、少なくとも18世紀には通称として使われていたことがわかります。福岡河岸付近の福岡本村は、中福岡村や下福岡地区に対して新河岸川の上流に位置します。

これで、福岡地区では上流に位置する通称地名としての「上福岡」>駅名>市名という連鎖が一応でき上がったと思います。福岡県との同名回避だけからすると「武蔵福岡」も対抗馬でしたが、いかにも新出来の複合地名よりも、通称ながら地元で長く用いられてきた「上福岡」の方がすんなりと受け入れられたということではないでしょうか。

前記「別冊マンスリーとーぶ」ふじみ野駅の項には、「市名の冠をいただき、他社線にも同名駅がなく、明るくなじみやすいということから駅名になった。」とありました。やはり鉄道会社としては、中央本線富士見駅などを意識したようです。これは [22008] の補足です。


【1】 追記
「別冊マンスリーとーぶ」の「九州の福岡に対し武蔵福岡」との記載は、同一駅名回避論というより、実務上の混乱回避でしょう。九州の福岡市は博多駅ですから。もっとも、駅名としては北陸本線福岡駅(富山県)の存在も問題になります。また、市名公募の件と混乱している可能性もあります。
[39163] 2005年 3月 31日(木)00:39:40ken さん
突然「上福岡」蒸し返し
アーカイブにもなっていますが、解決したようで、駅名先行であることは確認できたものの、その駅名由来については、なんとなく釈然としない部分が残っている、
上福岡市は、なぜ「上」がつく市名なのか?ですが、本日、梅原淳 氏 著の、「鉄道 駅と路線の謎と不思議」という本を読んでいまして、その中には直接、上福岡駅の話が書かれていたわけではなく、二戸駅の記述の中で気になることがありました。

二戸駅が、かつて「北福岡駅」であったことは、ここの過去ログにも記述があります通り、ご存知の方も多いと思いますが、
明治24年の日本鉄道による駅開業時には、最初は「福岡駅」で、大正10年に「北福岡駅」に、昭和62年に「二戸駅」に改称されています。
で、
一方、東上鉄道(当時)が池袋~田面沢を開業させ、上福岡駅を開設したのは、大正3年です。
つまり、上福岡駅開業時、回避すべき相手の「同名駅」は、現「二戸駅」であった、と考えることが出来ます。

[18311] 2003 年 7 月 14 日 (月) 01:15:51 ありがたき さん
で、ありがたきさんが、
東武鉄道の沿線情報サイト「TOBULAND」にて駅名の由来が確認できました。
として、引用されているのですが、
===以下引用===

明治時代に近郊にあった地名は川崎・福岡新田・福岡・中福岡等で、最初は「福岡」が有力でしたが、九州にあるため断念。
ついで武蔵の国にあることから「武蔵福岡」の名が出ましたが、まとまらず公募により最も多かったところから命名されました。

===引用終わり===
公募で決定した、というのは、確かなのでしょうが、駅名の同名回避の相手駅は、上福岡駅開設時は「福岡駅」は、岩手県にあり、この「福岡駅」と比べると、京都への方角からも「上」だったとも言えるのではないでしょうか?

九州にあるため断念
と「TOBULAND」にもあり、このアーカイブの頃は私を含めて、福岡県の福岡しか、念頭にないままに、「上」について、悩んでいましたが、
九州の福岡には、「福岡駅」なるものは当時も今もありませんよね。(あくまで「駅名」の話ですが)
現在、「福岡駅」は、富山県にあります

上福岡駅開業時、岩手県に福岡駅があった!
という事実を踏まえて、再度、上福岡はなぜ「上」なのか?、を再考してみる必要があるのではないでしょうか?
[39170] 2005年 3月 31日(木)02:10:46ゆう さん
当時福岡駅は2つありました
[39163]kenさん
明治24年の日本鉄道による駅開業時には、最初は「福岡駅」で、大正10年に「北福岡駅」に、昭和62年に「二戸駅」に改称されています。
で、
一方、東上鉄道(当時)が池袋~田面沢を開業させ、上福岡駅を開設したのは、大正3年です。
つまり、上福岡駅開業時、回避すべき相手の「同名駅」は、現「二戸駅」であった、と考えることが出来ます。
官営鉄道北陸線福岡駅は1898(明治31)年に開業、以後今日に至るまでずっと福岡駅ですから、1914(大正3)年には「福岡駅」は2つあったことになります。

そんな訳で、先行駅との位置関係で上福岡駅になったというのは難しいのではないでしょうか。
[39241] 2005年 4月 1日(金)12:41:07【1】hmt さん
東上鉄道「上福岡駅」の由来
[39176] kenさん
日本鉄道と、官営鉄道に、九州の福岡以外の場所に、堂々と「福岡駅」が2つ並立してあったのなら、新出来の東上鉄道なる郊外電車が、3つめの「福岡駅」を作っても、場所も離れていることだし、格段もめることもなかったような気もしますね。
そもそも東上鉄道の過剰防衛の産物だったのか?

日露戦争後に行なわれた幹線鉄道17社の国有化の結果、日本鉄道の「福岡」(1891年、岩手県)と官設鉄道の「福岡」(1898年、富山県)のように、同じ企業体である鉄道院(1908~1920)の内部に同名の駅が50組以上できてしまいました。
東北本線の駅は1909年に「北福岡」に改名というように、一応は同名駅解消への努力をしていたようですが、なかなか折り合いがつかず、「大久保」(山陽本線、中央本線、奥羽本線)のように3つの同名駅が現在まで共存したままという駅もあります。
#近鉄京都線の大久保駅は除外。

そんな状況の中で、1914年(大正3年)の東上鉄道開業。
この鉄道が、kenさんの言われるように、本当に “郊外電車” だったのなら、岩手県や富山県の「福岡駅」との同名を気にすることはなかったのかもしれません。

しかし、そうでもないようです。
この東上鉄道、第一期の免許区間は東京の大塚辻町から川越・高崎を経由して上州の渋川までと、名前の通り東京と上州とを結ぶものでしたが、第二期として越後の長岡まで全長237kmを計画する幹線鉄道でした。
実際には、第一期区間でさえ完成させることができず、現在では、東上線の「上」の字が浮いてしまっていますが。
池袋付近の一部を除いて、軽便鉄道法でなく、私設鉄道法に基いて建設されたことも、本格派をめざしていた証拠です。

東上鉄道は、鉄道国有法の例外である“一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道”ぎりぎりの大計画をふまえた幹線鉄道であり、全国的な連絡運輸(特に貨物が重要)もありますから、鉄道院線との同名駅回避は、決して“過剰防衛の産物”とは言えないと思います。
なお、電化は1929年ですから、上福岡駅開業当時はもちろん“郊外電車”ではなく、蒸気機関車が客車(並等運賃は1マイル2銭、特等3銭)や貨車を牽引する「汽車」でした。

そこで院線に2つあった「福岡」[39170] (ゆうさん)との同名回避は必要だったとして、なぜ「上福岡」なのか?

本題に入る前の予備知識として、「上福岡」と同時に開業した東上鉄道「下板橋」駅を頭に入れておいてください。
もちろん、山手線(当時)にあった先輩の駅名「板橋」との同名回避。所在地の東京府北豊島郡板橋町大字下板橋は、石神井川の上流にある上板橋(1914年には上板橋駅もできました)に対応する地名です。
「板橋」駅[18020]は、それより僅かに下流側(巣鴨村・板橋町・滝野川町の境界)ですが、これは北品川より北の高輪に「品川」駅がある[38442]ようなものです。
#当時の下板橋駅は、0キロポストある留置線の場所で、大戦末期に移設した現在の下板橋駅は板橋区でなく、豊島区です。

鉄道開通前の明治14年迅速測図を見ると、駅になった場所は雑樹林で、その周囲は畑や松林。最も近い集落は川越街道沿いで、宿場町だった大井村に属する鶴ヶ岡や亀久保です。「大井」駅にしても中央本線(現・恵那、岐阜県)に同名駅があります。
#同じ頃、東京に「大井町」駅が誕生。
それよりもなによりも、この東上鉄道の誘致に尽力し、用地取得にも尽力した福岡河岸の星野仙蔵[19388]としては、駅所在地でもある福岡村の名を使いたいところです。

川越鉄道(現・西武鉄道)川越駅との同名を回避する「川越町」駅と同じ流儀で、「福岡村」駅も一つの案だったのではないかと想像しますが、江戸時代から通用していた「上福岡」が採用されました。

「上福岡」とは、本来は、新河岸川沿いの下福岡や中福岡村に対応して、上流にある福岡河岸付近の福岡本村(「ハケ」[19232]と滝の2地区あり)のことでしょう。非公式ながら「上福岡村」という使用例(長宮氷川神社文書[19388])もあります。
「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」

その「上福岡」が、福岡本村の勢力圏にある亀窪道沿いの台地(ここに駅ができた)に拡張して使用されることは、自然のなりゆきと思われます。

このようにして、大正13年測図 昭和元年12月25日発行の2万5千分の1地形図に、「かみふくをか」の駅名が現れます。駅付近に現れた僅かな家屋記号は、東上線の重要な役割だった貨物輸送に関係する運送店や倉庫かと思われます。
#地形図の発行日は昭和の初日です。この日付が印刷されているということは、後日増刷された地形図であるという証拠でもあります。平成になっても、しばらくの間、昭和64年と印刷された特許公報が発行されていたことを思い出しました。

この地形図では、滝地区の北側に「上福岡」の地名も現れ、「中福岡」、水田を隔てて「下福岡」とのトリオが 新河岸川の南側に並びました。参考までに、江戸時代の“三福岡”とは、福岡村・中福岡村・福岡新田の3村でした。
たまたま西から東へと上中下が並んでいますが、もちろん“この川をたどれば京都”というわけではありませんから、支配者の内裏・都を基準にする上下(「お上」の感覚で名付けた官製地名[19527])とは、無関係です。念のため。

TOBULANDや「東武鉄道創立百周年記念別冊マンスリーとーぶ」[22395]には、駅名公募説や武蔵福岡案が記されていますが、新市名の公募(福岡町公報113号[22395])と混同している可能性があり、鵜呑みにするのは危いと思います。“九州にあるため断念”とあるのが、駅名でなく市名選びである何よりの証拠。
より信頼できそうな「東武鉄道百年史」(1998)269頁には、駅名が行政上の名称に先行したことは記されていますが、駅名公募などという現代的な行事?があったことについては、全く触れておりません。

「上福岡」の由来となると、ついつい長文を書いてしまう準地元住民 hmtからのレポートでした。
[39273] 2005年 4月 2日(土)04:47:09ken さん
まだまだ「上福岡」
[39241] hmt さん
鉄道院線との同名駅回避は、決して“過剰防衛の産物”とは言えないと思います。

なるほど、お説ごもっとも。

ですが、
「下板橋」駅を頭に入れておいてください。
もちろん、山手線(当時)にあった先輩の駅名「板橋」との同名回避。所在地の東京府北豊島郡板橋町大字下板橋は、石神井川の上流にある上板橋(1914年には上板橋駅もできました)に対応する地名です。
の下板橋は、石神井川の上流下流では関係なく、京都基点の上下ですよね?
明治22年直前の下板橋「宿」は、「中仙道」のいわゆる、普通の板橋宿、今で言う中宿界隈を指し、一方、上板橋「宿」は、現在、上板橋小学校の名前として痕跡をとどめていますが、最寄駅は中板橋の、現弥生町界隈の川越街道の方の「板橋宿」、を指しておりますので。

この界隈、川も皆、東流していますから、必然的に同じになるのですが、上赤塚村、下赤塚村、上練馬村、下練馬村、上土支田村、下土支田村、などなど、皆、西側あるものが、「上」ですよね。
これらは、京都への、「上下」ですよね。

いずれにしても、福岡村に開設された、東上鉄道の駅が、福岡村内では、「上」側に位置していたことは確かですね。

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