[39176] kenさん
日本鉄道と、官営鉄道に、九州の福岡以外の場所に、堂々と「福岡駅」が2つ並立してあったのなら、新出来の東上鉄道なる郊外電車が、3つめの「福岡駅」を作っても、場所も離れていることだし、格段もめることもなかったような気もしますね。
そもそも東上鉄道の過剰防衛の産物だったのか?
日露戦争後に行なわれた幹線鉄道17社の国有化の結果、日本鉄道の「福岡」(1891年、岩手県)と官設鉄道の「福岡」(1898年、富山県)のように、同じ企業体である鉄道院(1908~1920)の内部に同名の駅が50組以上できてしまいました。
東北本線の駅は1909年に「北福岡」に改名というように、一応は同名駅解消への努力をしていたようですが、なかなか折り合いがつかず、「大久保」(山陽本線、中央本線、奥羽本線)のように3つの同名駅が現在まで共存したままという駅もあります。
#近鉄京都線の大久保駅は除外。
そんな状況の中で、1914年(大正3年)の東上鉄道開業。
この鉄道が、kenさんの言われるように、本当に “郊外電車” だったのなら、岩手県や富山県の「福岡駅」との同名を気にすることはなかったのかもしれません。
しかし、そうでもないようです。
この東上鉄道、第一期の免許区間は東京の大塚辻町から川越・高崎を経由して上州の渋川までと、名前の通り東京と上州とを結ぶものでしたが、第二期として越後の長岡まで全長237kmを計画する幹線鉄道でした。
実際には、第一期区間でさえ完成させることができず、現在では、東上線の「上」の字が浮いてしまっていますが。
池袋付近の一部を除いて、軽便鉄道法でなく、私設鉄道法に基いて建設されたことも、本格派をめざしていた証拠です。
東上鉄道は、鉄道国有法の例外である“一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道”ぎりぎりの大計画をふまえた幹線鉄道であり、全国的な連絡運輸(特に貨物が重要)もありますから、鉄道院線との同名駅回避は、決して“過剰防衛の産物”とは言えないと思います。
なお、電化は1929年ですから、上福岡駅開業当時はもちろん“郊外電車”ではなく、蒸気機関車が客車(並等運賃は1マイル2銭、特等3銭)や貨車を牽引する「汽車」でした。
そこで院線に2つあった「福岡」
[39170] (ゆうさん)との同名回避は必要だったとして、なぜ「上福岡」なのか?
本題に入る前の予備知識として、「上福岡」と同時に開業した東上鉄道「下板橋」駅を頭に入れておいてください。
もちろん、山手線(当時)にあった先輩の駅名「板橋」との同名回避。所在地の東京府北豊島郡板橋町大字下板橋は、石神井川の上流にある上板橋(1914年には上板橋駅もできました)に対応する地名です。
「板橋」駅
[18020]は、それより僅かに下流側(巣鴨村・板橋町・滝野川町の境界)ですが、これは北品川より北の高輪に「品川」駅がある
[38442]ようなものです。
#当時の下板橋駅は、0キロポストある留置線の場所で、大戦末期に移設した現在の下板橋駅は板橋区でなく、豊島区です。
鉄道開通前の明治14年迅速測図を見ると、駅になった場所は雑樹林で、その周囲は畑や松林。最も近い集落は川越街道沿いで、宿場町だった大井村に属する鶴ヶ岡や亀久保です。「大井」駅にしても中央本線(現・恵那、岐阜県)に同名駅があります。
#同じ頃、東京に「大井町」駅が誕生。
それよりもなによりも、この東上鉄道の誘致に尽力し、用地取得にも尽力した福岡河岸の星野仙蔵
[19388]としては、駅所在地でもある福岡村の名を使いたいところです。
川越鉄道(現・西武鉄道)川越駅との同名を回避する「川越町」駅と同じ流儀で、「福岡村」駅も一つの案だったのではないかと想像しますが、江戸時代から通用していた「上福岡」が採用されました。
「上福岡」とは、本来は、新河岸川沿いの下福岡や中福岡村に対応して、上流にある福岡河岸付近の福岡本村(「ハケ」
[19232]と滝の2地区あり)のことでしょう。非公式ながら「上福岡村」という使用例(長宮氷川神社文書
[19388])もあります。
「宝暦4(1754)年6月吉日 大山石尊講帳 上福岡村」
その「上福岡」が、福岡本村の勢力圏にある亀窪道沿いの台地(ここに駅ができた)に拡張して使用されることは、自然のなりゆきと思われます。
このようにして、大正13年測図 昭和元年12月25日発行の2万5千分の1地形図に、「かみふくをか」の駅名が現れます。駅付近に現れた僅かな家屋記号は、東上線の重要な役割だった貨物輸送に関係する運送店や倉庫かと思われます。
#地形図の発行日は昭和の初日です。この日付が印刷されているということは、後日増刷された地形図であるという証拠でもあります。平成になっても、しばらくの間、昭和64年と印刷された特許公報が発行されていたことを思い出しました。
この地形図では、滝地区の北側に「上福岡」の地名も現れ、「中福岡」、水田を隔てて「下福岡」とのトリオが 新河岸川の南側に並びました。参考までに、江戸時代の“三福岡”とは、福岡村・中福岡村・福岡新田の3村でした。
たまたま西から東へと上中下が並んでいますが、もちろん“この川をたどれば京都”というわけではありませんから、支配者の内裏・都を基準にする上下(「お上」の感覚で名付けた官製地名
[19527])とは、無関係です。念のため。
TOBULANDや「東武鉄道創立百周年記念別冊マンスリーとーぶ」
[22395]には、駅名公募説や武蔵福岡案が記されていますが、新市名の公募(福岡町公報113号
[22395])と混同している可能性があり、鵜呑みにするのは危いと思います。“九州にあるため断念”とあるのが、駅名でなく市名選びである何よりの証拠。
より信頼できそうな「東武鉄道百年史」(1998)269頁には、駅名が行政上の名称に先行したことは記されていますが、駅名公募などという現代的な行事?があったことについては、全く触れておりません。
「上福岡」の由来となると、ついつい長文を書いてしまう準地元住民 hmtからのレポートでした。