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hmtさんの記事が5件見つかりました

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[99400] 2020年 4月 28日(火)16:06:08【1】hmt さん
1952/4/28 平和条約発効に伴う市町村の変遷 戦前の小笠原5村廃止
4月28日 今日は何の日でしょうか?
1952年というと昭和27年ですから、メンバーの中で当時の記憶があるのは hmt くらいのものと思いますが、日本にとって新時代の始まる年でした。
個人的には大学生になった年であり、直接の関係はないものの メーデー騒擾事件 も記憶に残ります。
東京の市街地道路には、至る処に 英文の標識が立っていました。Occupied Japan のシンボルです。

その前年 1951年9月に 連合国51ヶ国による 対日講和会議 がサンフランシスコで開かれました。
もっとも、事前に来日した米国のダレス国務長官顧問が 吉田茂首相との間で実務的な合意を成立させており、会議の実態は「平和条約」に署名する調印式に近いものでした。
とはいうものの、会議ではソ連のグロムイコ外相が反対論を展開、ソ連、ポーランド、チェコの3国は署名せず。
当時は朝鮮戦争中で、中華人民共和国は米国と対立していました。会議主催者の米国は、東西対立を考慮し、中華人民共和国と中華民国(台湾)との両国 いずれも講和会議に招聘しませんでした。

会議において吉田全権が読み上げた受諾演説は、30m近い巻紙に毛筆で記されたもの。裏話1 裏話2 

講和会議では、後に首相になった池田勇人など全権5人全員が署名しました。
しかし、同日に調印された 日米安全保障条約の署名者は、吉田首相1人でした。

講和条約は1952/4/28寄託により発効し、日本国との平和条約(昭和27年条約第5号) として公布されました。

この落書き帳の中で多用している「Occupied Japan」という用語が過去の存在になったのは、この日でした。
そこで、都道府県市区町村 履歴情報1952年 を開いてみたのですが、4月28日の記載がありません。

実は、昨年の4月28日に[97663]を記した際に、 沖縄「屈辱の日」と書いたのですが、今日は 小笠原への影響について記します。

1952年の平和条約発効時点での小笠原。
潜在主権の存在は認められたものの、日本復帰が実現していなかった点では、沖縄と共通の事情にあります。

違うのは、「地域住民共同体を構成する市町村」が【戦後の混乱期を含めて、曲りなりにも】存在し続けていた 沖縄・奄美に対して、小笠原では 消滅に近い状態 になっていたことでした。

戦前の小笠原5村については、市制町村制施行時の状況東京都の下の方に 1940/4/1 設置が記録されていますが、その後の変遷が記録されない状態になっています。

[79760] 中島悟さん の末尾
小笠原諸島の【中略】これらの5村が消滅していることを書き加えたほうが良いと思います。
[83624] むっくんさん
(16)小笠原5村(大村、扇村袋沢村、北村、硫黄島村、沖村)の廃止の記載をすること
に対する [85063] グリグリさん の意見
こちらの変更種別については「廃止」が妥当でしょうか。
に続いて、[85081][85082] hmt も意見を記しています。
[85081]に記した 「[79266]でリンクした小笠原村沿革」の代りに、現在閲覧できる同名のページ をリンクします。

その中の 1952年(昭和27年)の記載
対日平和条約の発効により、小笠原はアメリカの施政権下になる。小笠原支庁及び各村役場が廃止される。父島に米海軍施設(U.S. Naval Facility, ChiChi Jima)が設立される。

言葉が少し増えていますが、わざわざ「各村役場が廃止」と書かれた表現は変りません。
やはり【事実上の村の廃止はもっと前だが、“村の廃止”が(1952年に)手続上でも完了した】と理解します。

事実上の廃止日は、硫黄島地上戦と父島などへの空襲とは 条件が異なり、村により相違するでしょう。
変遷情報としては、手続的に旧村の廃止が完了した 1952年【日付を入れるならば、平和条約発効に伴い、戦前の行政機構から《自動的に縁が切れた》4月28日です。】を記録するのがよいと思います。
[99374] 2020年 4月 18日(土)13:48:08hmt さん
明治22年4月1日 「町村制」施行により 長野県北安曇郡に設置された自治体 「大町」
[99372] MI さん
数年前に県立長野図書館で確認していただいた調査の詳細報告をいただき、ありがとうございます。

從來ノ町村ヲ分合シ其區域別册之通來ル四月一日ヨリ編制ス
【別冊】【新町村区域の郡名】北安曇郡、【新町村名】大町、【舊町村名】大町
朱書による訂正なし。さらに【同年】4月10日 - 町制施行 の記載もなし。

これにより、明治22年(1889年) 4月1日 長野県 町村制施行 16町375村設置の #252 に記されている情報は、正しい裏付けを得たと判断します。

詳細ではピンク地で示されている 旧・大町 が、Wikipediaに記載されているように
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称
された状態を継続していたのか 否かは 未確認のままですが、新制度とは無関係のことでしょう。


いずれにせよ、明治22年当時に使われていた制度用語は「町村制」「町村名」で、町と村とを区別するのは、個別の名称だけです。
従って、「変更種別」も「町制」ではなく、「町村制」と記録するのが正しいように思われます。

制度としては「町村制」であり、村から町への呼称変更は 別の制度による「町制」を施行したのではなく、「町村制」の制度内での「改称」に過ぎない。
「24年告示第27号を以て上諏訪村を上諏訪町と改称」[91956]

このような慣行から、「町制施行」という言葉が使われる慣行に移行したのは、何時のことか?
戦後の地方自治法? いや、もっと根が深いのではないか?

その答を持っていない私としては、根拠不詳ながらも 変遷情報 上諏訪町 における「変更種別:町制」を受け入れざるを得ない、中途半端な状態なのです。
[99370] 2020年 4月 16日(木)17:09:51【1】hmt さん
hmtマガジン「町と村の違い」更新
2016年11月、グリグリさんの疑問 [91951]「大町は村?」を発端に、[91971]種別名 に至る一連の記事9本がありました。

大町・谷村の同類。つまり語幹部が漢字1字である自治体名。
このタイプの「もとの地名」を論じた最初の記事は[34776]の「中村」でした。
しかし、[91969]に引用してあるので 省略し、特集 町と村の違い の末尾には 2016年の9本の記事を 追加しました。

[91951]で引用された Wikipediaには、現在でも次の記載があり、町村制施行当初「大町は村だったのか?」という疑問が生じたのでした。
1882年(明治15年)3月20日 - 大町村が村格のまま、「大町」に改称する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、大町として単独で村制を施行。
【同年】4月10日 - 町制施行。町制に基づく「大町」となる。

この疑問に答えようとしたのが[91956]ですが、明治22年4月10日 大町の町制施行 を裏付けることができそうな県令・告示などの一次資料を発見するには至りませんでした。

[76874] むっくんさん に引用された『長野県現行令達類聚』に掲載された 明治22年長野県令 第18号(3月19日)には、「新町村名:大町」が明記されているのですが、明治25年12月迄の改正が盛り込まれており、「明治22年の原文そのままではない」という問題点がありました。
此書専ら専ら簡約を主とす 故に…改正増補の文字に改め旧文を存せず 欄外に於て其沿革のみを記載す

結局、[91956]の結論は グリグリさんの問に対する返事としては物足りないが、次の通りでした。 
現状では、「大町は 1889/4/1に村制を施行した」と信ずるに足る証拠が 具体的に示されていない。
従って、大町は 1889/4/1に町制を施行した生まれながらの町である」とする趣旨の変遷情報を 改める必要はない。

[91956]の末尾、余談:村と町との区別について より抜粋
便宜的に 村制・町制・生まれながらの町・後発の町 などという表現を使いましたが、これは私の本意ではありません。
施行当時の考え方としては 制度は「町村制」一つであり、「町制」「村制」を区別する「いわれ」はなかったと思います。
現行の「町になる要件」【地方自治法第8条第2項】は、ずっと後に生じた慣行が制度化されたものです。

「生まれながらの町」論争はさておき、グリグリさんは [91965]で、「町村名」に「まち・ちょう・むら・そん」なども含めるべきかどうかというテーマに舵を切りました。

例示された山口県阿武郡椿郷東分村。
私も 椿郷/東/分村 だろうと思っていましたが、にまんさん[91970]から 椿郷/東分/村 という指摘がありました。
大きな村の「西半分」「東半分」といった意味合いが強いと思われます。

椿郷西分村→1910年椿村、椿郷東分村→1921年椿東村、1923年両村他1村萩町に編入、1932年萩市

現在は統合された市町村名で単純化されましたが、履歴を遡ると「町村名」からも複雑な過去が現れるのでした。
[99368] 2020年 4月 14日(火)16:16:30【1】hmt さん
役場巡りの菊人形さん
[99366] 菊人形さん
全国の市町村役場を一通り巡りましたが、庁舎が新しくなると再訪しているので、ゴールは永遠に来ないかもしれないです(笑)。【中略】
さて、新型コロナの影響で各地で自粛空気の中で、本日(4月13日)に3つの市役所の新庁舎が開庁しました。

お久しぶりです。
菊人形さんとの初対面は、2012年の岐阜オフ会。例会翌日にも、金華山行きなどで助けていただきました[82265]
その後も 2016年の杖立まで 5年連続してオフ会同席。
2013年の松江では、富士山世界文化遺産登録を記念して 富士見市が作成した団扇[83633] を菊人形さんがゲット[84496]

2015年 氷見を訪れる往路では、思わぬハプニングもあった[89225]とか。
hmtも 2008年 湯瀬オフ会への往路で訪れた八戸駅(当時は新幹線終着駅、記事なし)で、同様の失敗を経験。

庁舎訪問の趣味は 特にありませんが、『広報かわぐち』で川口市新庁舎の外観4/13_使用開始を閲覧。

菊人形さんの過去記事を眺めていたら、4年前に 北海道石狩湾北端の 雄冬に関する記事があることを発見。

関連記事には、
30年前の「陸の孤島」時代に 酷い船酔いに苦しめられながらも訪れた高校生が 落書き帳メンバーとして活躍しており、しかも3年前にも国道231号で 再訪を果していること
に感動した hmtの記事[92055]も 含まれていました。

楽しからざるニュースが溢れている昨今です。
しかし、久方ぶりのメンバー登場を機に、一つの地名「雄冬」を選んで、過去記事を発掘してみました。
その結果、普段は忘れていた地域や その過去を再認識して、歴史の中に生きている実感を味わうことができました。
[99364] 2020年 4月 12日(日)15:18:34【1】hmt さん
チバニアン補足
[99356]の補足です。
これまで「中期更新世」と仮に呼んでいた77万4000年前から12万9000年前の地質時代

シロウトですが、学問の進展により変化している 地質時代の名称について、少し記しておきます。

最初に 第一紀・第二紀・第三紀・第四紀と呼ばれた区分の基準は、古生物化石の変化【大量絶滅】でした。
しかし、研究が進んだ結果、第一紀には6紀が、第二紀には3紀が含まれることになり、古生代・中生代と命名。
これに伴い、恐竜に代り哺乳類と鳥類が陸と空の動物代表になった第三紀以降は、新生代と命名。

第三紀 Tertiary。これは 長く使われてきた用語であり、現在でも「K-T境界層」などの用例を見かけます。
K-Tの「K」は、ドイツ語の Kreide 白亜紀 です。
現在では 古第三紀 Paleogene と 新第三紀 Neogene とに分けられており、「K-T」は「K-Pg」になりました。

第四紀 Quaternary だけは、大量絶滅とは無関係に、「人類の時代」として使われてきましたが、2004年に Neogene に併合する提案がなされました。
しかし、この提案には 反対論が多く、第四紀を存続し、その始期【新第三紀との境界】を ジェラシアンの基底年代である 258万年前とすることになりました。2009年6月です。

2010年の 地質時代区分を見ると、0.78-0.126Mya は「更新世中期*2」と記され、「*2:Ionian が提案」という注記により「チバニアン案」は未申請であったことが解ります。【イオニア海に由来するイタリアの提案】

最新の 国際年代層序表v2020/01

この表の左上 第四紀更新統/更新世の2番目に 「チバニアン」0.774-0.129Mya があります。

日本の地名に由来する チバニアン が、国際年代層序表に 新たに採用されたのは 快挙であるように思われます。
それは「地磁気逆転」研究分野に関して、松山教授を先駆者とする日本人が貢献した成果を背景とするものでした。

しかし、今回の命名に至る段階では 日本国内の反対論・反対活動もあったと伝えられています。出典


新第三紀 中新世に「アキタニアン」があります。これは 秋田… ではなく、フランス南西部 Aquitaine 由来です。


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