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[94765] ekinenpyouさん
昭和6年9月現在 陸地測量部発行地図目録
戦前における全国地形図発行状況の全容を示していただきました。
時代としては東京市15区が隣接5郡を編入して35区へと大拡張される1年前の状況ですが、
[94724]で教えていただいた「旧1万分の1図」について言えば、既に大正末期から
東京・大阪・神戸の近傍で発行開始されていたことも知りました。世田谷など一部については、大正末期には5色刷の豪華な地形図も現れていたことなどに驚きました。
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巻末の奥付に記されている、著作権所有兼発行者である陸地測量部の住所:東京市麹町区永田町一丁目一番地。
現在は東京都千代田区に変わっていますが、同じ町名番地を受け継いだ土地が、国会前庭北地区内(憲政記念館付近)にあり、そこに設置されている
日本水準原点[57343][80226]が 陸軍参謀本部陸地測量部がこの地に存在した歴史を伝えています。
そんなことを考えながら見ていたら、
陸地測量部から地理調査所へという資料を見つけました。地図 52巻1号p.13(2014)
要点を一部紹介。「三宅坂」と通称された陸軍参謀本部の中枢が北側の新庁舎を新築して移転した後、陸地測量部は旧庁舎を全部使っていました。
第二次大戦の形勢が悪くなった 1944年(昭和19年)からの第一次疎開で、明治大学予科校舎(杉並区)に移転。
そして、翌1945年3月10日の東京下町大空襲の後、長野県松本盆地への再疎開を本格化しました。
しかし、残念ながら松本への再疎開は 1945/5/25の東京山の手大空襲に間に合いませんでした。
三宅坂庁舎だけでなく、新宿駅にあった疎開荷物も貨車ごと炎上し、多くの貴重な資料が焼失。
そして1945/8/15……国民に対する終戦の告知(玉音放送)。
敗戦の後、国土を復興するためには、測量関係の技術力を保持することが不可欠。
しかし、陸軍の組織として 陸地測量部が存続することは もはや不可能。
大本営で陸地測量部を管轄担当していた渡邊参謀が具申した意見が通り、平時編成の官庁に移管し、米軍進駐以前に既にその機関があることを認識させることになりました。
陸軍大臣不在の中、内務省との移管折衝は順調に成功し、1945/8/31付で陸地測量部は消滅し、内務省地理調査所の設置が決定。職員全員が一応退官した上で再雇用されました。
降伏文書調印による正式の戦争終結は 1945/9/2ですから、その前に陸軍の手を離れるという渡邊プランは辛うじて成功したわけです。
地理学関係の大学や研究所に対して、外邦図
[94724]を含む大量の地図が参謀本部から放出されたのも、渡邊参謀の発案により終戦前から動いていた研究会が影響しているようです。(6コマ)
三宅坂庁舎は戦災で失われていたため、戦後に帰京した地理調査所の所在地は千葉市黒砂町の旧陸軍戦車学校跡地(稲毛庁舎)になりました。
1958年7月には目黒区の駒沢練兵場跡地
[94730]に東山庁舎を新築移転。
1960年7月 建設省国土地理院と改称、1979年3月筑波庁舎に再移転しています。
[94129]特急とりあたまさんの記事に登場する博物館は、その附属機関です。
三宅坂から始めた「地図の元締め」の歴史的変遷の話は、これで終ります。
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[94708] Takashiさん
この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?
1932年の東京市35区に対する陸地測量部の対応問題。
これについては、既に
[94736]の末尾に hmtの推察を書いておきました。
要するに、当時から既に5万図は時代遅れの存在になりつつあり、2.5万図の加刷や1万図の新発行を考慮して、未修正のまま発行したのだろうということです。
[94766]で ekinenpyouさん からも同意していただいたものと思っています。
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[94766] ekinenpyouさん 代田連絡線
地形図の話題からは外れますが、
[41513]の末尾で少し言及したことがあります。