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hmtさんの記事が5件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[95339]2018年1月26日
hmt
[95324]2018年1月23日
hmt
[95314]2018年1月22日
hmt
[94784]2017年12月27日
hmt
[94763]2017年12月25日
hmt

[95339] 2018年 1月 26日(金)18:31:31hmt さん
Re:福浦
[95327] そらみつさん
岡山・兵庫県境で 1963年に行なわれた境界変更[46914]の対象である「福浦」につき再論。

[46914]の半年前の[41633]で 次のように説明しています。
明治の町村制施行時に寒河(そうご)村と合併して福河村(合成村名)になった岡山県福浦村。
地図で今昔 にも、“兵庫県内に備前福河を名乗る駅があるとは”という記事があり、福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)が、昭和合併の機運に乗じて、兵庫県赤穂市に「越県合併」したことが紹介されています。
今尾恵介さんの著書のリンク先を変更してあります。

変遷情報には、境界変更区域を示す根拠資料が「自治省告示S38-106」であることが示されていませんが、[95311]でリンクされた Wikisourceによって、両者の示す区域の同一性を確認することができます。

これによると、岡山県和気郡日生町大字福浦には「赤穂市への境界変更から除外された区域」として、取揚島以外にも東山𡽶など9字(あざ)と鹿久居島とがありました。
明治合併に際し、内務大臣訓令で旧町村の名を大字として残すことが認められました。[37482][48552][66729]
「福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)」と[41633]で書いたのは、これが頭にあったからです。
しかし 告示文を改めて見ると、境界変更対象から除外された9字2島を無視した大胆すぎる言い方であったようです。

実のところ、hmtもTakashiさんと同様に字(あざ)に関する記録調査や、東山𡽶など境界変更対象区域から除外された字の位置特定ができておらず、「これで間違いない」と胸を張ることなどできません。

自治省告示を根拠に注目したいのは、西方の鹿久居島が(その全部か一部かは不明ながら)大字福浦に含まれていたことぐらいでしょう。現在でも鹿久居島に福浦が残っていると説く人があり、字レベルの真相は不明です。 Bakusai2017/4/8
厳密には岡山県に福浦は無人だが存在する。それは取揚島と鹿久居島の東部だ。

こちらの頁も、鹿久居島と福浦との関係を伝えているようです。

hmtの記事を含めて、他人の説には疑うべき余地があります。本当に確認したいならば、自力でどうぞ。
[95324] 2018年 1月 23日(火)14:33:21hmt さん
備前市福浦の取揚島
[95315] そらみつ さん
疑問に思った点はそこではありませんでした。(中略)
なのに何故、取揚島は鹿久居島と一緒に日生に入らなかったのか、ちょっと気になったということでした。

私も[95311]記載の疑問点を誤解していました。岡山県に福浦の名が残ったわけを改めて記しておきます。

岡山県の中で取揚島だけに残る「福浦」という大字名。
寒河村との明治合併で成立した福河村の大字になり、昭和合併で日生町になるまでの66年間はそのまま。
1963年の境界変更で、福浦峠東側の旧・福浦村が兵庫県赤穂市になり、岡山県日生町に残ったのは、旧・寒河村の区域と、ずっと東の無人島・取揚島だけになりました。

2005年の平成合併で日生町は備前市と合併。
取揚島と同様に【1963年の境界変更では】日生町側に残された東山𡽶は その後【備前市】日生町寒河の字となっています。

日生町時代の大字福浦字東山𡽶は、元々が旧・寒河村でしたから、合併後の備前市の大字が「日生町寒河」に変更されるのは、不自然なことではありません。

現状を見ると、平成合併による日生地区・吉永地区の大字名には旧町名を冠するように変更されています。
しかし、これは住民のいる地域の利便のため、居住集落を対象としたルールでしょう。

取揚島はずっと東の海上にあり、旧・福浦村から見ても「東方にある無人の飛地」です。
大字福浦が取揚島(の一部)という狭い区域だけになったのも 1963年の境界変更以来のことであり、50年以上も大字福浦のままで 不都合はなかったものと思われます。
この無人島を、遥か西の地名である「日生」を冠した大字名に変更すべき理由はないでしょう。

鹿久居島は現在日生町日生鹿久居島となっています。

本題から外れますが、日生諸島の中で約10km2と最大の面積をもつ鹿久居島。
2015年に備前日生大橋で本土結ばれています。この橋は、主として頭島へのルートとして使われているのでしょうか?
それはさておき、鹿久居島が単独では大字ではなく、「備前市日生町日生」の一部であるらしいのは、大字クラスの集落がないため?
無人ながらも大字「福浦」の名を残している取揚島が、特別な存在に思われてきました。
[95314] 2018年 1月 22日(月)19:02:52【1】hmt さん
取揚島の謎
[95311] そらみつ さん
福浦……赤穂市福浦/備前市福浦
こちらを見ると、当時福浦であったことは間違いありませんが、その後なぜほかの地区と同様に寒河や日生に編入されなかったのか(それとも実はされているのか)、ちょっと不思議です。

問題になった岡山県の飛び地は、拡大した地図が示すように、「2県にまたがる島」である取揚島です。

当然、昔の記事を集めた落書き帳アーカイブズに収録されていると思い、開いて見ました。
取揚島の関係記事は、15406. 15470, 41610, 41633, 41649が収録されていました。
編集ミスと思われますが、ニジェさんの[41400] 取揚島の謎 が落ちていました。

これらの過去記事により、今回の疑問は解決すると思います。
参考までに 要点をまとめて記しておきます。

1 取揚島は兵庫県赤穂沖の播磨灘にある無人島であるが、本土の境界は別として、藩政時代から播磨だけでなく備前の住民の漁業権も存在した。廃藩置県で播磨は兵庫県、備前は岡山県の所属となったが、取揚島は2県にまたがる島になった。

2 「福浦」という地名はもともと備前国和気郡の旧村名であり、明治4年岡山県所属、明治22年の町村制では、福浦峠の西側に隣接する寒河(そうご)村との合併により福河村になった。
更に昭和合併で福河村は日生(ひなせ)町の一部となる。

3 昭和38年(1963/9/1)、岡山県日生町のうち、福浦峠の東側を兵庫県赤穂市に境界変更[46914]
この時の境界変更区域を正確に記述した告示文が [95311]で引用されたWikisourceに記されており、変遷情報もこれと同じ。

正確な詳細表記よりも、わかりやすい表記を重視して記せば、[46914]のように「福浦峠の東側(旧・福浦村の地域)という記載になるのです。

詳しい境界変更区域を見れば、確かに「取揚島の区域を除く」と記されており、
岡山県が”漁業権に絡む”領海を守り抜き、赤穂市への編入から除外させた
ことを裏付けている。

まとめ:赤穂市の変遷

[95312] Takashi さんから、既に[41400]の紹介がありました。
この記事も同じ大筋ですが、やや詳しく記してあるので、併せてお読みください。
[94784] 2017年 12月 27日(水)14:54:04hmt さん
陸地測量部から地理調査所へ

[94765] ekinenpyouさん
昭和6年9月現在 陸地測量部発行地図目録

戦前における全国地形図発行状況の全容を示していただきました。
時代としては東京市15区が隣接5郡を編入して35区へと大拡張される1年前の状況ですが、[94724]で教えていただいた「旧1万分の1図」について言えば、既に大正末期から東京・大阪・神戸の近傍で発行開始されていたことも知りました。世田谷など一部については、大正末期には5色刷の豪華な地形図も現れていたことなどに驚きました。


巻末の奥付に記されている、著作権所有兼発行者である陸地測量部の住所:東京市麹町区永田町一丁目一番地。
現在は東京都千代田区に変わっていますが、同じ町名番地を受け継いだ土地が、国会前庭北地区内(憲政記念館付近)にあり、そこに設置されている日本水準原点[57343][80226]が 陸軍参謀本部陸地測量部がこの地に存在した歴史を伝えています。

そんなことを考えながら見ていたら、陸地測量部から地理調査所へという資料を見つけました。地図 52巻1号p.13(2014)

要点を一部紹介。「三宅坂」と通称された陸軍参謀本部の中枢が北側の新庁舎を新築して移転した後、陸地測量部は旧庁舎を全部使っていました。
第二次大戦の形勢が悪くなった 1944年(昭和19年)からの第一次疎開で、明治大学予科校舎(杉並区)に移転。

そして、翌1945年3月10日の東京下町大空襲の後、長野県松本盆地への再疎開を本格化しました。
しかし、残念ながら松本への再疎開は 1945/5/25の東京山の手大空襲に間に合いませんでした。
三宅坂庁舎だけでなく、新宿駅にあった疎開荷物も貨車ごと炎上し、多くの貴重な資料が焼失。

そして1945/8/15……国民に対する終戦の告知(玉音放送)。
敗戦の後、国土を復興するためには、測量関係の技術力を保持することが不可欠。
しかし、陸軍の組織として 陸地測量部が存続することは もはや不可能。
大本営で陸地測量部を管轄担当していた渡邊参謀が具申した意見が通り、平時編成の官庁に移管し、米軍進駐以前に既にその機関があることを認識させることになりました。
陸軍大臣不在の中、内務省との移管折衝は順調に成功し、1945/8/31付で陸地測量部は消滅し、内務省地理調査所の設置が決定。職員全員が一応退官した上で再雇用されました。

降伏文書調印による正式の戦争終結は 1945/9/2ですから、その前に陸軍の手を離れるという渡邊プランは辛うじて成功したわけです。

地理学関係の大学や研究所に対して、外邦図[94724]を含む大量の地図が参謀本部から放出されたのも、渡邊参謀の発案により終戦前から動いていた研究会が影響しているようです。(6コマ)

三宅坂庁舎は戦災で失われていたため、戦後に帰京した地理調査所の所在地は千葉市黒砂町の旧陸軍戦車学校跡地(稲毛庁舎)になりました。
1958年7月には目黒区の駒沢練兵場跡地[94730]に東山庁舎を新築移転。
1960年7月 建設省国土地理院と改称、1979年3月筑波庁舎に再移転しています。[94129]特急とりあたまさんの記事に登場する博物館は、その附属機関です。

三宅坂から始めた「地図の元締め」の歴史的変遷の話は、これで終ります。


[94708] Takashiさん
この地図が発行されている頃には当然この地域は東京市の一部になっているわけですから実態を反映していないことになるですけど、当時の地形図というか測量を実施した帝国陸軍としてはそのあたりが実態を反映していなくても問題なかったものなのでしょうか?

1932年の東京市35区に対する陸地測量部の対応問題。
これについては、既に[94736]の末尾に hmtの推察を書いておきました。
要するに、当時から既に5万図は時代遅れの存在になりつつあり、2.5万図の加刷や1万図の新発行を考慮して、未修正のまま発行したのだろうということです。
[94766]で ekinenpyouさん からも同意していただいたものと思っています。


[94766] ekinenpyouさん 代田連絡線

地形図の話題からは外れますが、[41513]の末尾で少し言及したことがあります。
[94763] 2017年 12月 25日(月)16:10:50hmt さん
固有名詞の表記(2)文字コード国際規格書の最新版発行
[94762] Takashiさん
日本語で使用されている全漢字約6万字コード化

情報源として NHK NEWS WEB がリンクされていましたが、独立行政法人 情報処理推進機構からのプレス発表があったことを、とりあえず補足します。

「文字情報基盤整備事業」で推進していた漢字6万文字の国際規格化が完了

「行政機関では 今後、コンピュータで人名等の正確な表記を行う際にも外字登録が不要に」と記されています。

いずれは ISO改正の恩恵が国民すべてに及ぶのでしょうが、何時頃になるのでしょうね。

別件
固有名詞の表記に関し、昨年書いた過去記事に誤記があったので、これを機会に訂正します。

[91310] hmt です。長文ですが、末尾に近いあたり。蓮田市の改称に言及した部分です。

「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。

助詞「を」を使うべき重要な箇所が助詞「に」と記されていました。

修正文:
「こだわり」の類例としては、わざわざ 2点しんにゅうの「蓮」(旧JIS書体)を1点しんにゅうの「蓮」(83JIS書体)に改称した蓮田市の例[77399][77400]も出ましたが、これはちょっと「やりすぎ」。


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