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[46198] 2005年 10月 26日(水)18:29:54hmt さん
不動産屋さんが付けた地名(1)アイムふじみ野
[46112] 花笠カセ鳥 さん
アナウンサーの結びは、
「全国の皆さん!埼玉県には「富士見市」の隣に「ふじみ野市」があるので十分ご注意ください」でした。

まぎらわしい自治体名は、その他にも多数ありますね。

それはさておき、「ふじみ野」の由来。過去ログなどをまとめてみると次の通りですが、どうも少し言い足りないところがあるので、補足しておきます。

1.「ふじみ野」は、1993年11月に東武鉄道東上線の新駅が開業[22008] した後で、駅周辺の通称となる。
2.10年後の2003年11月に、正式の行政地名として初登場する。旧・大井町の住居表示[18983]
3. 入間東部地区2市2町合併計画に際しては、一旦はその新市名として採用されたが[18915]、2003年10月の住民投票で合併自体が破綻した[21515]
4.上福岡市と大井町との合併にあたっては、その新市名候補として「ふじみ野」が復活し、富士見市長からの異論を無視して決定された。

実は、この“幻のふじみ野市復活”決定[36706]の少し後に、ふじみ野駅から降り立った正面に次のような看板が建てられました。
ここは富士見市です
この駅「ふじみ野」の名前は、富士見市の街づくりで生れました。
これからもこの街を大切に育てていきます。
  富士見市

いかにも自分が生んだ子の名前を、隣の市に奪われてしまったという富士見市長の悔しさが読み取れるのですが、そのあたりの事情を考えてみました。

私の知る限りでは、富士見市の都市計画には、「ふじみ野」という名前は使われていなかったと思います。“富士見市の街づくり”の基本は、「富士見市勝瀬原特定土地区画整理組合」によって行なわれています。この組合が設立された1986年当時は、まだ「ふじみ野」という地名がなかったので、当然とも言えます。
「ふじみ野」という通称が普及してきた1990年代中頃に、富士見市内の町名(大字勝瀬)、又は区画整理の組合名(勝瀬原)を「ふじみ野」に変更しておけば、今回のようなトラブルは防げたかもしれませんが、富士見市としては、このへんの既得権?確保策を講じていなかったわけです。

富士見市の公的機関で「ふじみ野」を名乗った最初のものは、おそらく1999年開校の「ふじみ野小学校」[46112]で、東武鉄道による「ふじみ野駅」開業よりも5年以上後のことです。
更に遅れて、2002年には「ふじみ野交流センター」やその中に同居する「富士見市立図書館ふじみ野分館」ができましたが、市役所の出張所は現在も設けられておらず、鶴瀬駅を中心とする富士見市の中では、この地区は未だに辺境扱いという感じがします。

看板に書いてあった“この駅「ふじみ野」の名前は、富士見市の街づくりで生れました。”は、実は行政主導の都市計画の中ではなく、民間のマンション事業の中で生れたのです。

民間マンションの代表的なものが、東武鉄道の「アイムふじみ野」です。リンクしたページの「コンセプト」をクリックすると、全体のイメージ図が出てきます。
ふじみ野駅開設はこのマンション事業と事実上一体のものであり、駅の開業時期も、このマンションの第1期に合わせたものでした。

アイムふじみ野の所在地は確かに富士見市ですから、駅前看板にあった“富士見市の街づくり”には相違ないのですが、民間不動産業者の販売政策は、行政の枠を超えて「ふじみ野」の名を拡散させてゆきます。
[46223] 2005年 10月 27日(木)16:01:24【1】hmt さん
不動産屋さんが付けた地名(2)マンション業者が拡散させた「ふじみ野」
[46198]で、「ふじみ野」の由来について、実は東武鉄道が開発したマンション群「アイムふじみ野」の名として誕生したものであり、この地名を世間に広めた「ふじみ野駅」の名も、マンション事業と一体のものとして名付けられたことを記しました。

結果的には「ふじみ野」の名を横取りしてしまった旧・大井町ですが、当初は大井町領域内の地名としては、富士見市を連想させる「ふじみ野」を避けて、別の名を使いたかったのではないかと思われます。

旧・大井町が1952年から30年間にわたって新駅の誘致を行なった「ききょうが原信号場」[22008]跡地の西側には、この地で最初のツインタワー・マンションと、それに隣接する商業施設(アウトレット・モール)が作られることになりましたが、最初は敷地の形から「ビッグT」と仮称しました。
その名は、建設中に「リズム」RISMと改められ、大井町当局は、その付近(大井苗間第一土地区画整理事業地域)に「うれし野」という名を付けました。駅やリズムができた1993年当時は、明らかに「ふじみ野」に対抗する名を付けていたわけです(住居表示実施は1998)。

ところが、民間マンションは、駅から少し遠くても「○○ふじみ野」と駅名を付けて販売します。例えば、うれし野より更に南、駅から1km以上も離れた上位段丘の縁に作られたマンション群も「コスモふじみ野」(1995)でした。
このようにして、旧・大井町の領域にも、単発を含めて「○○ふじみ野」という名のマンションが数知れず出現するようになりました。

このような状況をふまえて、大井町当局も遂に方針を変え、「ふじみ野」を乗っ取ることにしたようです。
すなわち、1998-99年に「サティ大井店」や「パークサイドコートふじみ野」が作られた東久保土地区画整理事業地域の住居表示として「ふじみ野」を使用しました [18983]
地図の中央の大きな建物がサティ大井店で、青い枠の右側、南武蔵野(富士見市勝瀬の字)と書いてあるところが、アイムふじみ野[46198]です。(現在は北側の空白地も完成しています。)
2市2町合併計画が進められていた2003年のことで、この落書き帳でも話題になりました[19024]

そして、今回の上福岡市との合併では、とうとう「ふじみ野」を新市の名前にしてしまい、富士見市長だけだなく、スナフキん さんを始めとする上福岡の人の反発を呼んでいます。

前記「サティ大井店」のように、川越街道の大井宿に近い商業・サービス業施設は、まだ「大井店」を名乗るところが多かったのですが、「ふじみ野市」になったこれからは、「ふじみ野店」を名乗るところが多くなり、「ふじみ野」という地名はますます拡散してゆくことでしょう。

“マンション業者が拡散させた「ふじみ野」”という副題を付けましたが、実は更に駅から離れているのに「ふじみ野」を名乗る施設があります。
その一例が、文京学院大学ふじみ野キャンパスです。駅から2km以上はあるでしょうが、所在地が既にふじみ野市になっているので、これからは天下公認になりました。
もっと遠い所では「ふじみ野霊園」もあります。関越高速道路を越えた先で、所在地は三芳町。駅から4~5kmも離れた所。
[46258] 2005年 10月 28日(金)19:09:48【2】hmt さん
不動産屋さんが付けた地名(3)公団の団地名
[46239] TN さん
チェルシーガーデン ふじみ野

[46223]で「ふじみ野」という地名が、駅付近から拡散する有様を概観した際に、やはり「最寄り駅・ふじみ野」という条件を満たす範囲であり、いくら「ふじみ野市」になっても、「最寄り駅・上福岡」の地域には拡散しにくいと考えていたのですが、マンション業者の「ふじみ野」志向は、「最寄り駅・鶴瀬」で、ふじみ野市域でもない三芳町の東京証券グランド跡地にまで及んでいたのですね。

それはさておき、ふじみ野市の上福岡地域には、「霞ヶ丘」や「上野台」という町名があります。これらは、それぞれ1959年と1960年に入居を開始した日本住宅公団の団地名に由来する町名ですから、これも“不動産屋さんが付けた地名”に該当します。1966年実施当時は福岡町の町名でした。
計画段階では上福岡西団地、上福岡東団地と呼ばれていたくらいで、もともと特筆すべき地名はなかったようです。
「上福岡市史」を調べてみましたが、「霞ヶ丘」という名の由来は見つけることができませんでした。なんとなく、イメージ先行の命名という感じ。

東上線沿線の大型団地のさきがけとなった霞ヶ丘団地(1793戸)ができた1959年6月に、東武ストアの第1号店が出店しています。引用する「交通東武」の記事は、まだスーパーマーケットが珍しかった時代を物語っています。
店員は、お客の案内と見回りをするだけで、お客は入り口でカゴを受取り、これに購入する品物を入れて、出口でカゴを渡して支払いをするという方法です。

霞ヶ丘団地と同じ1959年に、13kmほど南の中島飛行機工場跡地に建設された日本住宅公団ひばりヶ丘団地は、規模も更に大きく(2714戸)、東京都北多摩郡保谷町、久留米町、田無町の3町にまたがっていました。同時に西武池袋線の駅名も、田無町にない「田無町駅」(保谷町所在)から「ひばりヶ丘駅」に変りました。
地名になったのは保谷と田無が市になった1967年で、住居表示に使われたのは少し違う「ひばりが丘」でした(現・西東京市)。
続いて「久留米町ひばりが丘団地」(現・東久留米市)も誕生しました。

余談ですが、大手外食チェーンの「すかいらーく」は、その前身「ことぶき食品」(1962年設立)の1号店が「ひばりヶ丘」に出店したことから名付けられたとのことです。
[46290] 2005年 10月 29日(土)22:22:22【2】hmt さん
不動産屋さんが付けた地名(4)戦前にルーツを持つ分譲地名
1993年に東武鉄道が売り出した分譲マンション団地に由来する「ふじみ野」[46198]は、他の業者によりその名が拡散し[46223]、この10月には、とうとう市の名前になりました。
その ふじみ野市にある「霞ヶ丘」や、西東京市の「ひばりが丘」は、1959年に造られた公団の団地名に由来する町名です[46258]

住宅公団・住宅公社・民間を問わずに好んで使われた「○○ヶ丘」、「○○台」、「○○野」というような住宅地の名は、1960年以降に続々と行政地名として使われるようになりました。
今年の1月に「新興住宅街地名コレクション」という提案がありましたが[37147]、定義によっては収集のつかない数になると予想され[37192]、実現していません。

ところで、“不動産屋さんが付けた地名”は戦前からありました。
その中で最も価値のある ブランド地名 に成長した出世頭が「田園調布」でしょう。

「田園調布」は、公式には 1932年10月の市域拡張で、「東京市大森区田園調布」(現・東京都大田区)として誕生していますが、田園都市(株)の多摩川台分譲地が、1923年の発売当時、東京府荏原郡調布村[44752] にあったことに由来します。
多摩川の少し上流にある甲州街道の「調布」の方が名が知られているので、住宅地のコンセプトであり、会社名でもある「田園」を冠して区別したものと思われます。荏原郡調布村も、1928年の町制にあたり、北多摩郡調布町と区別するために、東調布町と改名しています。

会社の名前「田園都市」は、イギリスのエビニーザー・ハワードEbenezer Howard(1850-1928)の著書「明日の田園都市」 Garden City of Tomorrow に由来するものです。この理想 に共感した明治の財界人・渋沢栄一子爵が 事業を発案し、矢野恒太(第一生命)や鉄道の五島慶太も協力して、渋沢父子と共に推進しました。扇形の町割りが特徴的です。
「カーブのある道は、ゆく手が見通せないから人に好奇心と夢を抱かせる」というのが栄一の5男、渋沢秀雄のねらいでした。

多摩川台分譲地を8月に売り出した翌月の1923年9月1日に関東大震災が起こりましたが、先に発売して住宅が建ち始めていた洗足地区に被害がないことを確認して、10月の売出しに際しては、さっそく次のような新聞広告を出して宣伝することができました[34571]
今回の激震は、田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!それは非常口のない活動写真館から、広々とした大公園に移転することです。すべての基本である安住の地を定めるのは今です。

第一次大戦後の不況下でも、新しいホワイトカラー層は理想主義的なベッドタウンに憧れ、分譲地は順調な売れ行きでした。日本橋の地価が坪3000円とされた当時、坪平均40円程度で、サラリーマン(公務員の初任給が70円)でも“田園調布に家が建つ”良き時代だったのでした。

私的な地名としての「田園調布」は、1925年から使い始め、翌年には目蒲線調布駅も「田園調布駅」になります。昭和に入ると、東横線開通で渋谷と結ばれ(1927)、田園都市(株)は目黒蒲田電鉄(現・東京急行電鉄)と合併。そして、前記の通り「大東京」実現の時(1932)に、「田園調布」は正式の町名になりました。現在は、大田区田園調布の他に、世田谷区玉川田園調布もあります。

# 東京急行電鉄が戦後に開発した「多摩田園都市」の中核地域には、「たまプラーザ」という名が付けられていますが、これはまだ公式の地名になっていないようです。

田園調布よりも少し遅れて、1929年に開通させた小田急江ノ島線の沿線に「林間都市」を建設しようとしたのが 利光鶴松[34571] でした。
東林間都市・中央林間都市・南林間都市という駅名は、この構想に基づくものですが、昭和初期の段階では、東京から離れ過ぎてていた土地の宅地化は望めず、企画倒れに終わり[3868]、都市とは程遠い「林間」のまま、駅名からも「都市」が外されてしまいました(1941)。移り住んで歌人も、次のように詠んでいます。
相模なる 鶴間の里の 侘住居ひとりずまひの あはれなるかな(吉井勇)
中央林間付近は、下鶴間公所新開という地名でした。境川西岸の公所(ぐぞ)を親集落とする新開(明治以後開拓地)です。
「中央林間」が正式の地名になったのは戦後で、住宅地になったのは更に後のことです。

「田園都市」、「林間都市」の他に、「学園都市」を実現させようとした箱根土地(国土計画を経て現・コクド)の堤康次郎もいました。彼は、大正の初期に沓掛から始めた軽井沢、そして箱根の開発を経て、関東大震災後には、東京郊外の大泉、小平、国立で「学園都市」というブランドを付けて住宅地を売り出したのです。
東京商科大学(現・一橋大学)の誘致に成功した「国立」は、真っ直ぐな道路の立派な住宅地になりましたが、「大泉学園都市」は、[3868] Issie さんの記事のように企画倒れ駅名となりました。
それでも1932年の大東京市により、学園抜きの「板橋区大泉学園町」(現・練馬区)が正式に生まれました。

駅から北に伸びる桜並木を中心に碁盤目に整備された分譲地の売値は坪10円?とか。それでもあまり売れていなかったようです。現在でも その名がバス停に残る 「都民農園」(旧・市民農園)[26813] が作られた大泉は、まだ住宅地というよりも、郊外レジャーの目的地だったのでした。
堤は、武蔵野鉄道に駅舎を提供して「東大泉駅」を「大泉学園駅」と改称させた後、1940年には浅野から武蔵野鉄道(現・西武池袋線)そのものを手に入れました。
小平も、明治大学の移転計画はつぶれましたが、東京商科大学予科が石神井仮校舎から移転して、学園都市になりました。

戦前の住宅地開発にかかわる地名をもう一つ。
それは、[10834]TN さんが、東上線“唯一”の屋敷街として紹介された「常盤台」です。“唯一”が強調されていますね(笑)。

ここは、東武鉄道が伊勢崎線西新井と東上線上板橋の連絡を計画した「西板線」がらみの貨物操車場の予定地だったようですが、西板線は実現せず、住宅地としての環境が良かったので転用されました。曲線の多い街路と植栽、特に自動車の通過を許さずに転回させる袋小路など、“歩行者にやさしい”都市計画が特徴です。

「常盤台」の名は、東上線をはさんで南側にある天祖神社の祝詞に由来する瑞祥地名。武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)の開業が1935年と後発のため、「常盤台」が正式の町名になったのも田園調布や大泉学園町よりもだいぶ後になります。


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