1993年に東武鉄道が売り出した分譲マンション団地に由来する「ふじみ野」
[46198]は、他の業者によりその名が拡散し
[46223]、この10月には、とうとう市の名前になりました。
その ふじみ野市にある「霞ヶ丘」や、西東京市の「ひばりが丘」は、1959年に造られた公団の団地名に由来する町名です
[46258]。
住宅公団・住宅公社・民間を問わずに好んで使われた「○○ヶ丘」、「○○台」、「○○野」というような住宅地の名は、1960年以降に続々と行政地名として使われるようになりました。
今年の1月に「新興住宅街地名コレクション」という提案がありましたが
[37147]、定義によっては収集のつかない数になると予想され
[37192]、実現していません。
ところで、“不動産屋さんが付けた地名”は戦前からありました。
その中で最も価値のある ブランド地名 に成長した出世頭が「田園調布」でしょう。
「田園調布」は、公式には 1932年10月の市域拡張で、「東京市大森区田園調布」(現・東京都大田区)として誕生していますが、田園都市(株)の多摩川台分譲地が、1923年の発売当時、東京府荏原郡調布村
[44752] にあったことに由来します。
多摩川の少し上流にある甲州街道の「調布」の方が名が知られているので、住宅地のコンセプトであり、会社名でもある「田園」を冠して区別したものと思われます。荏原郡調布村も、1928年の町制にあたり、北多摩郡調布町と区別するために、東調布町と改名しています。
会社の名前「田園都市」は、イギリスのエビニーザー・ハワードEbenezer Howard(1850-1928)の著書「明日の田園都市」 Garden City of Tomorrow に由来するものです。
この理想 に共感した明治の財界人・渋沢栄一子爵が 事業を発案し、矢野恒太(第一生命)や鉄道の五島慶太も協力して、渋沢父子と共に推進しました。扇形の町割りが特徴的です。
「カーブのある道は、ゆく手が見通せないから人に好奇心と夢を抱かせる」というのが栄一の5男、渋沢秀雄のねらいでした。
多摩川台分譲地を8月に売り出した翌月の1923年9月1日に関東大震災が起こりましたが、先に発売して住宅が建ち始めていた洗足地区に被害がないことを確認して、10月の売出しに際しては、さっそく次のような新聞広告を出して宣伝することができました
[34571]。
今回の激震は、田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!それは非常口のない活動写真館から、広々とした大公園に移転することです。すべての基本である安住の地を定めるのは今です。
第一次大戦後の不況下でも、新しいホワイトカラー層は理想主義的なベッドタウンに憧れ、分譲地は順調な売れ行きでした。日本橋の地価が坪3000円とされた当時、坪平均40円程度で、サラリーマン(公務員の初任給が70円)でも“田園調布に家が建つ”良き時代だったのでした。
私的な地名としての「田園調布」は、1925年から使い始め、翌年には目蒲線調布駅も「田園調布駅」になります。昭和に入ると、東横線開通で渋谷と結ばれ(1927)、田園都市(株)は目黒蒲田電鉄(現・東京急行電鉄)と合併。そして、前記の通り「大東京」実現の時(1932)に、「田園調布」は正式の町名になりました。現在は、大田区田園調布の他に、世田谷区玉川田園調布もあります。
# 東京急行電鉄が戦後に開発した「多摩田園都市」の中核地域には、「たまプラーザ」という名が付けられていますが、これはまだ公式の地名になっていないようです。
田園調布よりも少し遅れて、1929年に開通させた小田急江ノ島線の沿線に
「林間都市」を建設しようとしたのが 利光鶴松
[34571] でした。
東林間都市・中央林間都市・南林間都市という駅名は、この構想に基づくものですが、昭和初期の段階では、東京から離れ過ぎてていた土地の宅地化は望めず、企画倒れに終わり
[3868]、都市とは程遠い「林間」のまま、駅名からも「都市」が外されてしまいました(1941)。移り住んで歌人も、次のように詠んでいます。
相模なる 鶴間の里の 侘住居ひとりずまひの あはれなるかな(吉井勇)
中央林間付近は、下鶴間公所新開という地名でした。境川西岸の公所(ぐぞ)を親集落とする新開(明治以後開拓地)です。
「中央林間」が正式の地名になったのは戦後で、住宅地になったのは更に後のことです。
「田園都市」、「林間都市」の他に、「学園都市」を実現させようとした箱根土地(国土計画を経て現・コクド)の堤康次郎もいました。彼は、大正の初期に沓掛から始めた軽井沢、そして箱根の開発を経て、関東大震災後には、東京郊外の大泉、小平、国立で「学園都市」というブランドを付けて住宅地を売り出したのです。
東京商科大学(現・一橋大学)の誘致に成功した「国立」は、真っ直ぐな道路の立派な住宅地になりましたが、「大泉学園都市」は、
[3868] Issie さんの記事のように企画倒れ駅名となりました。
それでも1932年の大東京市により、学園抜きの「板橋区大泉学園町」(現・練馬区)が正式に生まれました。
駅から北に伸びる桜並木を中心に碁盤目に整備された分譲地の売値は坪10円?とか。それでもあまり売れていなかったようです。現在でも その名がバス停に残る 「都民農園」(旧・市民農園)
[26813] が作られた大泉は、まだ住宅地というよりも、郊外レジャーの目的地だったのでした。
堤は、武蔵野鉄道に駅舎を提供して「東大泉駅」を「大泉学園駅」と改称させた後、1940年には浅野から武蔵野鉄道(現・西武池袋線)そのものを手に入れました。
小平も、明治大学の移転計画はつぶれましたが、東京商科大学予科が石神井仮校舎から移転して、学園都市になりました。
戦前の住宅地開発にかかわる地名をもう一つ。
それは、
[10834]TN さんが、東上線“唯一”の屋敷街として紹介された「常盤台」です。“唯一”が強調されていますね(笑)。
ここは、東武鉄道が伊勢崎線西新井と東上線上板橋の連絡を計画した「西板線」がらみの貨物操車場の予定地だったようですが、西板線は実現せず、住宅地としての環境が良かったので転用されました。曲線の多い街路と植栽、特に自動車の通過を許さずに転回させる袋小路など、“歩行者にやさしい”都市計画が特徴です。
「常盤台」の名は、東上線をはさんで南側にある天祖神社の祝詞に由来する瑞祥地名。武蔵常盤駅(現・ときわ台駅)の開業が1935年と後発のため、「常盤台」が正式の町名になったのも田園調布や大泉学園町よりもだいぶ後になります。