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[54297] 2006年 10月 1日(日)23:15:25hmt さん
兵庫・神戸(1)「兵神市街之図」
[54253] ニジェガロージェッツ さん
1874(明治7)年開業の初代神戸駅(中略)、この場所は意外にも兵庫の領域です。…「兵庫相生町」
なお、駅名を「神戸」と命名したことについては、こういった「陸上の論理」だけでは済まないかもしれません。
というのは、海上では神戸港と兵庫港が共存していた時代でもあり、両港の境界は湊川の河口としていました。
ですから「海上の論理」では、神戸駅は正に神戸港に隣接していたことになります。

神戸と兵庫に関する考察、興味深く拝読しました。なるほど、陸上の境界と海上の境界とは異なるのですか。

神戸・大阪間鉄道の開通から6年後の明治13年出版の「兵神市街之図」(Hiogo and Kobe Map)を見ると、宇治川の中に境界線らしきものが見えます(鉄道より下流では、川筋よりも少し南)。これが陸上の境界線とすると、たしかに「鉄道ステーション」は「兵庫」の領域ということになります。

もっとも、明治13年というと、既にその前年(明治12年)に郡区町村編制法による「神戸区」が誕生しており、行政上は“兵庫と神戸の境界線は存在しないはず”ではないかと思われます。
まあ、昔の人はそんな杓子定規なことは言わず、地図のタイトルも「神戸区市街之図」でなく、「兵神市街之図」としているくらいですから、兵神境界線が残っていても不思議はありません。
この「兵神」という「合成地名」。明治初期から使われたのかもしれませんが、統一「神戸区」の誕生によって使う必要がなくなり、自然消滅したものと思われます。

地図には境界線は示されていませんが、兵庫港と神戸港、それぞれの湾入の自然地形から、湊川の河口が境界であることは一目瞭然です。鉄道建設の経緯からしても、神戸港に隣接しているステーションの名が「神戸」であるのは当然なのでしょう。

この地図の左下隅には、星型の土塁を備えた和田岬砲台 が見え、右側の神戸港には、「Foreign」として外国人居留地の詳細図が描かれています。

この地図において、ステーションの山側「別格官幣湊川神社」の隣には「神戸裁判所」があります。
かつてこの場所(兵庫)にあった「兵庫県庁」は既に神戸(元町の裏山)に移転しています([1776]によると明治6年)が、県の名前はもちろん「兵庫」のまま変わっていません。
兵庫県庁の海側には「神戸市役所」らしい文字が読め、「三ノ宮ステーション」(現在の元町駅付近)もあります。

明治13年(1880)の「兵神市街之図」はこんな具合で、「Hiogo and Kobe」並立時代の名残もあるものの、両者は既に融合の時代に入っていたように思われます。

この地図は、講談社「日本の古地図7」(1976)に収録されたものを見ているのですが、その前の頁には、ほぼ同じスタイルの慶応4年(1868)「開港神戸之図」と、明治2年(1869)「兵庫津細見全図」とが収録されており、この時代にはまだ別個の市街として認識していた神戸と兵庫を、2枚シリーズの地図として発行したことがわかります。

宇治川と湊川の間は「開港神戸之図」(1868)だけでなく、「兵庫津細見全図」(1869)にも収録されています。
「楠公墓」(湊川神社になったのは明治5年[54258])の近くに「兵庫県御裁判所」(兵庫図では「県役所」)があります。
慶応4年当時の“裁判所”は、行政機関でもありました[229]。つまり県庁の前身。

宇治川口には、「福原町」と書かれた、いかにも遊郭らしい町並みが見えます。ニジェガロージェッツ さんの記事[5887]参照。
[54322] 2006年 10月 3日(火)23:47:28hmt さん
兵庫・神戸(2)兵庫開港、そして開港場の地名「神戸」について
[18378] ニジェガロージェッツ さん
旧幕府は安政の条約で兵庫津の開港を諸外国と約束しましたが、(中略)
そこで、兵庫港から北北東へ約2キロ離れた神戸村の浜辺を「兵庫港」の名のまま開港場としました。

兵庫開港の時期については、安政条約では「1863年1月1日(文久2年11月12日)」とされていました。
しかし、安政6年に神奈川などで貿易が始まってみると、物価高騰や攘夷運動が激化。この政情不安を沈静化させるため、兵庫・新潟の開港の延期を求めることになり、難交渉の末、5年間延期させることに成功しました。
一方、外国側もイギリス艦隊による鹿児島砲撃(1863)、4ヶ国連合艦隊による下関攻撃(1864)で開港反対派の薩長をたたいた後、1865年にはその連合艦隊が兵庫沖に現れ、早期開港を迫りました。

薩長には、幕府直轄領・兵庫での開港による貿易独占に対する警戒があったのでしょう。もちろん、公家たちが、都に近い兵庫の開港を嫌う気持ちもありました。孝明天皇は、異人に対する生理的な嫌悪感の持ち主だったようです。

期限の慶応3年12月7日(1868年1月1日)が近づいた3月、徳川慶喜は兵庫開港の勅許を奏請し、反対派の抵抗はあったものの、イギリスなどの外圧に耐えきれず開港に踏み切ることになり、5月24日ようやく勅許が得られました。

開港準備は勅許前から進められ、4月には(旧)生田川の川口西岸・神戸村に居留地が設置されることが決まりました。
[54297]で触れた慶応4年(1868)「開港神戸之図」には、生田川口右岸に「外国人居留地」や「御運上所」が見えます。現在も、まさに運上所の後身である「神戸税関」の存在する地ですが、ここは、文久3年から翌元治元年(1864)にかけて勝海舟の 「神戸海軍操練所」 が建設された所です。[54297]で触れた和田岬砲台と同じ時期です。

このようにして、ともかく予定通りの慶応3年12月7日に兵庫開港を迎えました。
時代背景を見ると、8月に名古屋付近から始まった「ええじゃないか」が京畿にも拡大してきた真っ最中であり、兵庫開港式にも乱舞する村人がなだれ込んだとか。

そして、2日後の12月9日に王政復古の大号令。年が改まった慶応4戊辰年、1月3日の鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府は江戸に引き揚げてしまい、兵庫・神戸は統治者不在状態になりました。
これより後は朝廷側の統治になり、閏4月の政体書 によって「県」の制度ができると、兵庫裁判所は「兵庫県」になりました。初代「知県事」に任命されたのは伊藤博文(慶応4年5月23日)。

本題に戻ると、外国人居留地の造成は、開港に間に合わず、明治政府に引き継がれた後の慶応4年6月に完成。
そのために、新政府は生田川と宇治川の間を指定した雑居地に、外国商人の居住を認めざるを得ないことになりました。

[54258] ezekiel さん
江戸期の幕末前夜までは“一集落の地名”でしかなかったが「神戸」という地名が、明治の区名に選ばれ、市名になり、日本の重要な港名になり、国鉄の停車場の名前に選ばれた理由。

「神戸」という地名が、世界的なブランドになったのは何故か?という問題を解くキーの一つとして、上記のように居留地になった場所に存在した「神戸海軍操練所」の存在にもご注目ください。
歴史のある「兵庫津」から少し離れたこの地「神戸」は、幕末前夜から開港までの10年余の間に“一集落の地名”を脱して、幕府時代に設置された公的機関の名に使われた地名になっていたのです。

隣接する「生田」であっても良かったわけです。

たしかに、この近くには「神戸」の名の由来でもある生田神社が存在しますが、そこの近世の村名は内陸の「生田宮村」(海岸の神戸村と共に八部郡)であり、「生田村」は生田川の東岸・菟原郡でした。従って、新しい開港場の名前とし、港に直結する村名「神戸」の方がより適切だったのではないかと考えます。

なお、生田川の流路は神戸開港後の明治4年に付け替えられ、明治13年(1880)「兵神市街之図」[54297]では既に東側に移っています。この1.9kmの付替工事の請負人・加納宗七の名は、新神戸駅から三ノ宮駅至る大通り(フラワーロード)に沿った町名(加納町)として残っています。ここが「神戸区」時代にも市街地の東端だった(旧)生田川の流路跡で、付替工事の後で彼に払い下げられたのですね。
[54339] 2006年 10月 5日(木)19:08:53hmt さん
兵庫・神戸(3)開港場は、約束した兵庫でなくて神戸でも「ええじゃないか」
[18378] ニジェガロージェッツ さん
兵庫の町は中世から続く古い街で外国の商館や居留地を設けることは土地的に余裕はなく、また治安の面からも当時は幕末の騒然とした時代で攘夷論もやかましく、古くからの因習に満ちた兵庫の住民と、西洋諸国の居留民との間で衝突の懸念もありました。
そこで、兵庫港から北北東へ約2キロ離れた神戸村の浜辺を「兵庫港」の名のまま開港場としました。

ここに挙げられたように、土地的条件と警備面が理由であるとすると、「兵庫」の名で開港したのが神戸になったことは、「神奈川」の名を使って横浜を開港した手法を繰り返したように思われます。
[20917] hmt 参照
安政5年(1858)の日米修好通商条約で開港を約束した5港のひとつは「神奈川」でしたが、幕府は警備上の理由から開港場を横浜村に変更し、外国に対しては「横浜は神奈川の一部である」という強引な論理で押し通しました。

しかし、「神奈川」の名を使いながら実際の開港場を横浜に変えたのは、まさに日本側(江戸幕府)の都合であり、商売上から神奈川宿を主張した外国側の意向を無視して強行したのに対して、条約上の開港場が「兵庫」であるにもかかわらず、実際の開港場を神戸に変えたのは、外国側の同意を得たものであったようです。

国土交通省近畿地方整備局神戸港湾事務所の 神戸港の歴史(幕末から明治へ) によると、当初は兵庫の市街地に近い和田岬から妙法寺川尻に至る臨海部を外国人居留地とし、沖合いに防波堤を築いて内側を開港場とする計画だったようです。

しかし、結局のところ前記の理由により、居留地は神戸村に選定。
この兵庫外国人居留地規定に英国公使パークスが賛同した(慶応3年4月14日)ことにより、各国代表もこの取り決めを承認しました。
パークスは、英米蘭仏4ヶ国連合艦隊が下関を砲撃した翌年(1865)に着任していますが、この年に艦隊が兵庫に来航した[54322]際の測量結果から、“天然のすぐれた投錨地となっている小さな湾”(神戸の入り江)の方が、兵庫津よりも港に適していると判断したのだそうです。

パークス曰く
開港場は、約束した兵庫でなくて神戸でも「ええじゃないか」[54322](冗)。

開港場は神戸になりましたが、勅許がようやく得られた後の慶応3年7月に「兵庫奉行」が任命され、開港後も公文書には「兵庫居留地」と記されています。

開港後間もない慶応4年4月の「開港神戸之図」[54297]が示しているように、「神戸港」の名は最初から使われていたのでしょうが、「神戸港」の名が公的にも現れたのはいつからでしょうか?

ずっと後のものですが、明治17~20年に、「二万分一仮製地形図」が測量されています。平凡社の「兵庫県の地名」に付いている復刻版(集成縮小図)を見ると、ニジェガロージェッツ さんの略図[54321]と同じ位置に「神戸港」、「兵庫港」の文字が入っています。
これよりも更に後の、明治25年9月15日勅令第77号「神戸港船舶碇繋所区域拡張ノ件」によって、兵庫港域も「神戸港」に統合されました。
[54430] 2006年 10月 14日(土)19:22:09hmt さん
兵庫・神戸(4)県域の変遷
安政5年(1858)に米・蘭・露・英・仏の5ヶ国との間にそれぞれ調印した修好通商条約に基づいて開港した五港のうち、名目と実態が異なる 兵庫と神奈川 について書いてきました。

神奈川・横浜の最終回に神奈川県域の変遷を記したので、バランス上(?)兵庫・神戸シリーズの方にも兵庫県域の変遷を付け加えておきます。
これに関連して、興味ある話題に言及することができればよいのですが、あいにく手持ちがなく、データの列挙に近いだけのものになりそうです。

と、言いつつ調べてみたら、兵庫県のHPの中に 県域の変遷 が図示されており、その説明も参考になりました。今川焼さんの記事[46937]からのリンクは、URLが変更されたために、切れています。
以下、このHPを参照しながら、役所と管轄区域の変遷を記してみます。

神奈川よりも8年半遅れ、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に兵庫が開港した翌月、慶応4年正月に、兵庫奉行などの幕府関係者は将軍慶喜の後を追って江戸に引き揚げてしまい、後は接収した新政府の管理するところとなります。

外国掛兵庫事務所、兵庫鎮台、兵庫裁判所を経て、知県事・伊藤博文が任命されて「兵庫県」になったのは慶応4年5月23日です[54322]
「兵庫県」になった根拠は、慶応4年閏4月21日の太政官布告(政体書) ですから、当然のことながら神奈川県の前身の「神奈川府」の発足と同じ年ですが、知府事・東久世通禧の任命で神奈川府が発足したのは6月17日というように、日付はまちまちです。
# 慶応4年は、この後9月8日(1868年10月23日)に明治元年と改元。

「第一次兵庫県の県域」によって最初の兵庫県管轄区域を見ます。
開港場の神戸、西攝津4郡内の旧幕府領の他に、播磨国にも飛び地があります。神奈川県の場合にも“虫食い状態”[54421]と書きましたが、尼崎藩領や三田藩領が介在するこちらは、入り組み方が更にひどく、「飛び地の集合」状態です。
現在の大阪府域のうち、淀川より北(旧摂津県→豊崎県)も兵庫県になっていた時代がありました。
稲田騒動のあった淡路国津名郡の一部も、一時的に兵庫県管轄になっていました。

「第二次兵庫県の県域」には、明治4年廃藩置県後の第1次統合により、ようやく「飛び地の集合」を脱して、摂津5郡(八部、兎原、武庫、川辺、有馬)一円となった「小さな兵庫県」(17万石)が、大きな飾磨県(66万石)と豊岡県(46万石)、そして名東県の一部(淡路9万石)と共に図示されています。

「第三次兵庫県の県域」には、明治9年(1876)8月21日の第2次府県統合によって、面積で9倍と一気に拡大し、現在に近い大きさになった姿が示されています。この巨大な県がいかにして生まれたのか?

先ず特筆されるのは、飾磨県だった大国・播磨の全域が兵庫県になったことですが、兵庫県のHPによると、内務卿大久保利通が
開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ
と指示したことが、飾磨県を消滅させて兵庫県にした原動力になったようです。
県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である
なるほど。

実は慶応4年正月に遡ると、江戸に引き揚げた幕府関係者の中に、老中だった姫路藩主・酒井忠惇がいたために、佐幕姫路藩の追討令が出されていたのです。すぐに開城恭順したのですが、どうもこれが姫路、ひいては播磨の政治的地位に悪影響を及ぼしていたようです。
明治4年11月の第1次統合で誕生した「姫路県」が7日後には「飾磨県」と改められただけでなく、明治9年の第2次統合では、“県庁ひとつを減らす”対象にされてしまったのです。お気の毒。

日本海側の豊岡県は分割され、但馬国全域と丹波国2郡とが兵庫県に編入されました。山陰に近いこの地域が因幡国でなく播磨国と同じ県になった理由は、内務省地租改正局出仕の櫻井勉(但馬国出石出身、後に内務省地理局長)の意見(交通の便を考慮)によると伝えられます。そして前記のように播磨国が兵庫県になったので、但馬国までも兵庫県ということになりました。

更に、淡路国も全域が兵庫県になりました。「阿波への路」という意味で、四国と密接な関係にあった淡路国が兵庫県になったのは、明治3年の稲田騒動で悪感情が高まっていた淡路と阿波(名東県→高知県→徳島県)とを分離させるためでした。

こうして5ヶ国に及ぶ大県になった兵庫県。人口も6倍強になり、東京府・大阪府よりも多かったとか。

この明治9年(1876)の第2次府県統合では、山間部の交通が不便という櫻井勉の意見により但馬国との合併が否定された因幡国までの山陰5ヶ国(隠岐国を含む)が島根県になっています。
この年、石川県も越前国から越中国まで4ヶ国に及ぶ大県になり、明治14年に堺県を併合した大阪府も摂河泉に大和国を加えた4ヶ国です。
しかし、明治14年(1881)以降の分割・再編成でこれら3つの府県域は縮小しました。

# 5ヶ国に及ぶ兵庫県と共に無傷で生き残ったのは4ヶ国に及ぶ三重県でした。3ヶ国(伊勢・伊賀・志摩)の全域と紀伊国の一部。なかなか侮れない存在です。

その後、明治29年(1896)に美作国の一部も岡山県から兵庫県に編入されましたが、県界変更と同時に国界も変更されたようなので、5ヶ国は変わらず。
現在ではほとんど実用的価値を失っている旧国の領域ですが、昭和38年(1963)の備前福河編入により、兵庫県は一応6ヶ国に及ぶことになっています。
兵庫・岡山県境変更関係の記事
[54351] 2006年 10月 6日(金)18:36:27【1】hmt さん
神奈川・横浜(1)横浜の居留地は、文字通りの「関内」だった
兵庫開港と神戸との関係について[54297]「兵神市街之図」、[54322] [54339]兵庫開港の3編を記しました。
関連して、「神奈川」開港と横浜との関係について続けます。
[54340] ezekiel さんの
神戸の場合と横浜の場合との相似と差異とを比較すると面白いだろうなあ~と思います。
の趣旨にも沿うものになるかどうかわかりませんが。

最初に、「神奈川」(実際は横浜)開港の日付から。
日米修好通商条約による「神奈川」の開港日は、条約締結の翌年・1859年の7月4日(米国独立記念日)となっていましたが、続いて締結されたロシア・イギリスとの間の修好通商条約において、切りのよい7月1日開港とされたので、最恵国条項により3日繰り上がりました。当時の暦では安政6年6月2日。
横浜開港記念日は、7月1日(西洋流の日付)だったものが、わざわざ6月2日(日本流の日付)に変更されたのですね。

「兵庫」(実際は神戸)開港は、[54322]で詳しく記したように8年半後の1868年1月1日。明治になる直前とも言える時期で、この間に、政局も治安の状態もも激変しています。

さて、地形条件に目を向けると、もちろん横浜と神戸とは大幅に異なります。

中世文書に神奈河として現れる神奈川(金川)は、近世には東海道でこの付近で最も大きな宿場町として繁盛していました。
神奈川港もあり、三浦方面の産物を江戸に運ぶ中継地でもありましたが、貿易港としての長い歴史を持つ兵庫津には及ぶべくもない、ローカルセンターという程度の存在でしょう。

神奈川宿と海を隔てた横浜村は、大岡川低地の前面をふさぐ砂洲の上の漁村でした。横浜村の漁師が、対岸の神奈川宿に船で魚を運び、納めていたという関係でしょう。
かつて砂洲の内側に入り込んでいた入り江は、江戸時代後期に干拓されて、横浜新田・太田屋新田・吉田新田などが開発されていましたが、本土との間には水路が残り(派大岡川)、ここに大岡川の分流の中村川が流れ込んでいました。現在の横浜市中区に、太田町1丁目~6丁目、吉田町という名を残しています。

条約文の「神奈川」の解釈を巡って、米国総領事ハリスは、商売上の見地から東海道神奈川宿を主張しましたが、幕府は横浜村を出島化して外国人を隔離しようと対立します(安政6年「神奈川宿本陣対話書【誤記訂正】」)。
結局のところ、幕府は外国側の反対を無視して横浜に開港場の建設を開始し、既成事実化してしまいました。
パークスの賛同[54339]を経て神戸に建設された「兵庫居留地」とは大きな違いです。

万延元年(1860)、幕府は中村川の川尻から海岸までを直結する長さ580間の堀川を開削。
これによって居留地は、北を海、西を内海(大岡川末端部)、南西を派大岡川、南東を堀川に囲まれた「出島」になりました。
派大岡川の大岡川への合流点の南側にある吉田橋などには木戸門と見張番所が設けられました。
このような関門に囲まれた内側が「関内」、外側が「関外」です。

[54297]で参照した講談社「日本の古地図7」(1976)には、横浜も収録されていますが、安政6年の「横浜御開地明細之図」では堀川が未開削の時代、また文久の頃と思われる「御開港横浜正景(YOKOHAMA CHART)」や「御開港横浜大絵図」では、堀川開削後の島状になった横浜居留地が描かれています。

現代の地図 では、首都高速道路の石川町JCTから海岸までの間が堀川の上を覆い、石川町JCTから桜木町駅の少し南までが派大岡川の跡で、島状の横浜居留地の形がわかります。

【1】 N-H さんのご指摘[54352]により、“堀川の跡”を“堀川の上を覆い”と修正

Mapionの中心・神奈川県庁の位置には、絵図で「御運上屋舗」があり、その南側・横浜新田の中には、目立って大きく外国人向けの遊郭街(岩亀楼など)が描かれています。現在の横浜スタジアムの位置でした。開港神戸之図にも福原町遊郭がありました[54297]

そうそう、[54297]に、明治13年の地図で“兵庫県庁の海側には「神戸市役所」らしい文字”と書いた部分がありました。実は印刷の解像度が低くてよく読めないものの、この年代には、もちろん「神戸市」ではあり得ません。「神戸区役所」と書くべきところを、誤記していました。

兵庫と神戸の間には、湊川や宇治川があるだけで、神奈川と横浜のように、複雑な地形条件によって隔てられるということはありません。
兵庫開港の時代には、「居留地」とは言っても、警備の厳重な「関内」を作る必要性も少なくなっていました。居留地造成工事の遅れが理由ですが、臨時の措置として「雑居地」が設定され、しかも居留地完成後も既得権として存続を望んだ外国側に応えて混住状態が維持されたくらいです。
「関内」という言葉に象徴される横浜と、特有の「雑居地」を生んだ神戸では、外国文化の流入に違いが生じたはずです。
[54388] 2006年 10月 9日(月)23:38:56hmt さん
神奈川・横浜(2)神奈川奉行所・条約改正
居留地の外、すなわち「関外」に目を転じます。
「御開港横浜正景(YOKOHAMA CHART)」や「御開港横浜大絵図」などの絵図[54351]で、帆船の浮かぶ海の手前に描かれた神奈川宿は、Mapion では上方に現れます。

絵図の右上、入り江を隔てて居留地を見下ろす戸部の丘の上には、「御奉行所」が描かれています。 Mapionでは桜木町駅の北西、市教育会館という文字のあたりです(西区紅葉ケ丘)。開港場を管轄する役所が、横浜の外、しかもわざわざ急な坂を登った上にある通称「戸部役所」であるという姿は、当時外交姿勢を窺わせる姿です。

神奈川奉行所 の設立は、安政6年の開港と同日。5人の外国奉行 のうち水野忠徳と堀利煕とが神奈川奉行を兼任しました。

慶応4年(1868)になると、明治政府の「進駐軍」がここに入り、幕府の神奈川奉行から事務を引き継いだ東久世通禧 (みちとみ)が「横浜裁判所」総督に任じられますが(3月19日)、1ヶ月後の4月20日には「神奈川裁判所」になっています。
開港地は「横浜」だと思っていた新政府が、条約の建前上「神奈川」で押し通した幕府を引き継ぐ立場にあることに気が付き、その結果の朝令暮改ではなかろうかという推測を、[20917]で記したことがあります。

この神奈川裁判所が、「神奈川府」を経て明治元年と改元された9月に「神奈川県」と変わり、これ以後も、横浜区や横浜市が生まれた後までずっと、横浜は神奈川県の管内ということになっています。
なるほど、こうして「横浜は神奈川の一部」ということにしておかなければ、外国に対して“条約に定めた通り「神奈川」を開港した”と主張することができません。

樋口雄一氏 によると、東久世日記(慶応4年6月26日)に、“此迄横浜県と唱来候処、爾来神奈川府と被改候”と書かれているものの、公文書には「横浜県」の名は見えず、「横浜県」は慣用的なものとされています。
たしかに、「神奈川開港」という条約の建前からすると、県の名前まで、横浜にするわけにはゆかなかったのですね。

兵庫県庁が神戸に移っても、神戸区や神戸市が生まれても、県の名前まで神戸県にするわけにはゆかず、あくまでも「兵庫」県というのも、同じように安政条約による足かせということになります。

言うまでもないことですが、横浜県や神戸県になれなかったことは派生的な問題であり、安政条約の本質的な問題点は、「治外法権」という言葉に代表される当事国の不平等関係にありました。

締結当時の国際常識からすれば、安政条約は驚くほど日本に有利な“外交史上の奇跡”だったとする評価もありますが、明治になってみれば「治外法権」が問題になったのは当然であり、長年にわたる条約改正交渉の末、日英通商航海条約が調印されたのは1894年でした。

日英通商航海条約 第二十条
本条約ハ其ノ実施ノ日ヨリ両締盟国間ニ現存スル…安政五年七月十八日…締結ノ修好通商条約…ニ代ハルヘキモノトス。而シテ該条約及諸約定ハ右期日ヨリ総テ無効ニ期シ、随テ大不列顛カ日本帝国ニ於テ執行シタル裁判権及該権ニ属シ、又ハ其ノ一部トシテ大不列顛国臣民カ享有セシ処ノ特典、特権及免除ハ本条約実施ノ日ヨリ別ニ通知ヲナサス全然消滅ニ帰シタルモノトス。而シテ此等ノ裁判管轄権ハ本条約実施後ニ於テハ日本帝国裁判所ニ於テ之ヲ執行スヘシ。

他の列強もこれに続き、5年後の1899年7月に居留地が返還され、わが国の裁判権が開港場にも及ぶことになり、日本はようやく一人前の独立国になったのでした。

# Great Britainに「大不列顛」という字をあてています。[40148]ではAngliaに「諳厄利亜」という文字を当てた時代もあったと記しましたが、その一例は後にシーボルト事件に巻き込まれた高橋景保が吉雄忠次郎に翻訳させた「諳厄利亜人性情誌」(文政8年・1825)です。
[54415] 2006年 10月 12日(木)16:01:18hmt さん
神奈川・横浜(3)外国人遊歩区域
[54388]では、安政条約を話題の中心に据えて、神奈川奉行所から、条約改正による居留地の消滅(明治32年)までを語りました。
今回は、その安政条約に規定されていた「外国人遊歩区域」のお話です。

米利堅合衆國修好通商條約 安政五年六月十九日
第七條 日本開港ノ場所ニ於テ亜米利加人遊歩ノ規程左ノ如シ
神奈川 六郷川筋ヲ限トシテ其他ハ各方へ凡十里
函館 各方ヘ凡十里
兵庫 京都ヲ距ル事十里ノ地ハ亜米利加人立入サル筈ニ付其方角を除キ各方ヘ十里且兵庫ニ来ル船々ノ乗組人ハ猪名川ヨリ海湾迄ノ川筋ヲ越ユヘカラス
都(すべ)テ里數ハ各港ノ奉行所又ハ御用所ヨリ陸路ノ程度ナリ
一里ハ亜米利加ノ四千二百七十四ヤルド日本ノ凡ソ三十三町四十八間一尺二寸五分ニ当タル
長崎 其周囲ニアル御料所ヲ限リトス
新潟ハ治定ノ上境界ヲ定ムヘシ

横浜開港資料館所蔵の「横浜周辺外国人遊歩区域図」 には、 DESCRIPTIVE MAP SHEWING THE TREATY LIMITS ROUND YOKOHAMA と記されており、1865-1867年というから慶応年間に作成された地図です。
横浜から半径約10里の扇形が、江戸の方角だけは、六郷川(多摩川)によって大きく切り取られている姿を見ることができます。

この遊歩区域内には、江戸市民にとっての著名な観光スポットでもある鎌倉、江ノ島や金沢八景があり、更には信仰と遊覧を兼ねて人気のあった大山参りの対象の地も含まれていました。
なお、「遊歩」とは、ウォーキングに限らず乗馬も含んでいます。上記安政条約の英文では、“Americans shall be free to go where they please”と表現しています。
横浜居留地には、外国人のウォーキング専用道路(遊歩新道)も建設されました(慶応2年)。

F・ベアトも、厚木から丹沢山地に入った宮ヶ瀬、そして関東シルクロード[30364]になる八王子・鑓水・原町田方面にも出かけて、写真を残しています。

遊歩区域は、横浜の居留地に準じた重要警戒地域だったわけですが、現実には、遊歩中の外国人がサムライの襲撃を受ける事件もありました。
最も有名なのは、川崎大師への遊歩途中の英国人力査遜(碑文の表記による)が島津久光の行列と遭遇して切り殺された生麦事件(文久2年・1862)です。
ベアトの写真にも、「リチャードソン氏殺害現場」があります。
# 生麦とは珍しい言葉ですが、生麦生米生卵でも有名。この地が麒麟麦酒の工場になっているのは「麦」の縁でしょうか。

生麦事件は正当な遊歩区域内で起きた事件ですが、時にはこの境界を越えて行動する外国人もあり、その冒険体験が、話題になっていたそうです。(J.R.ブラック 「ヤングジャパン」)。
津軽海峡のブラキストン線で有名な博物学者で貿易商の T.W.Blakiston が、旅行免状を持たずに遊歩区域外を旅行したことを問われた事件(明治7年)等を機に、遊歩境界傍示杭についての周知不足や、その距離の不正確について外国側からの苦情が出て、きちんとした測量による境界標石が建てられることになりました。

もちろん、制限付きながら遊歩区域外への旅行も実施されました。外交特権のある外交官は、富士山にも登りました。
明治2年頃からは、病気療養名目で箱根や熱海への湯治にも「内地旅行免状」が交付されました。
hmtの出身地・津久井も遊歩区域外でしたが、幕府のお雇いフランス人技師が業務出張で現れています(慶応3年)。もちろん幕府役人と同道で、横須賀製鉄所建築用材入手のための検分が目的でした。
実家に残る「仏人御林御見分ニ付立替物控」には、 hmt幼少の頃には残ってた旅館に宿泊した異国人へのご馳走品やその値段が記されています。津久井県[41805]の青山村は、幕末には小田原藩領になっていましたが、御林関係ですから幕府の御用を勤めたわけです。

後にトロイア発掘で有名になった ハインリッヒ・シュリーマン も、来日中に許可を得て江戸を見聞し、また遊歩区域内では八王子や原町田を訪れています。小野路村[33902]の記事で触れたことがあります。
[54421] 2006年 10月 13日(金)19:47:08hmt さん
神奈川・横浜(4)県域の変遷
神奈川宿から海を隔てた横浜村の砂洲の上に造成された開港場[54351]、開港場を見下ろす丘の上に設けられた戸部役所[54388]、その神奈川奉行所が慶応4年に新政府に移管された後、慌しく何度かの改名を経て明治元年(1868)9月21日に「神奈川県」と改称され、現在に続く名前が生まれました。

今回は、開港場・横浜の外国人と深い関係にあった「神奈川県」の管轄区域の変遷を振りかえります。

[54415]で紹介した「横浜周辺外国人遊歩区域図」
この区画、現在の「神奈川県」の管轄区域と似ているようでもあり、違うようでもあり…

発足当初の神奈川県の管轄区域は、この外国人遊歩区域内の旧幕府領・旗本領を引き継いだものでした。
遊歩区域内には、武蔵金沢の六浦藩、相模の荻野山中藩、その他諸藩の飛び地が存在し、神奈川県管内図は虫食い状態でした。その一例である高座郡の状態が、Issieさんのページ の中で詳細に紹介されています。

この虫食い状態は、廃藩置県後の明治4年(1871)11月、旧藩領だった六浦県及び各県の飛び地が神奈川県になって解消されました。しかし、11月14日の(第1次府県統合) 太政官布告 では、武蔵国多摩郡と相模国高座郡とは神奈川県に含まれていませんでした。
これに対して神奈川県は、外国人遊歩区域に含まれる多摩郡と高座郡とは、従前通り神奈川県の管轄区域であるべきとする上申書を提出しました。

この上申が認められた結果、神奈川県の区域は多摩川以北の多摩郡にも拡がりました。
一方、相模川から酒匂川の間は足柄県になっており、県域は外国人遊歩区域と比べて少し北東にずれてくることになりました。
なお、多摩川以北の多摩郡のうち、東京市街地の西に隣接する地域は、明治5年(1872)8月に東京府に移管されました(後に東多摩郡→豊多摩郡の一部→中野区・杉並区になった部分)。

神奈川県の管轄区域は、第2次府県統合(明治9年4月)によって足柄県(伊豆国を除く)を併せ、相模国全域と武蔵国4郡(多摩郡の分割後は6郡)に拡大し、最大の領域になりました。

しかし、明治26年(1893)に至り、神奈川開港以来横浜と密接な関係にあった多摩川以南(南多摩郡)を含む三多摩を失います。

[33700] Issie さん
北・西多摩郡はともかく,南多摩郡の東京府移管については,(中略)自由民権運動の盛んな地域であったことがしばしば指摘されています。
やはり神奈川県にとって,南多摩郡を失ったことは返す返すも残念なことだったかもしれないなあ,と思ったりもします。

東京の水源確保関連では、既に1881年に玉川上水の左右十数尺の東京府移管が合意されました。
その後も、コレラ流行に端を発する上水汚濁取締強化のための北多摩郡・西多摩郡移管上申(明治19年=1886)があり、甲武鉄道開通の翌年(1890)には、住民からの北多摩郡・西多摩郡管轄替の建白も出されていました。この段階まではいずれも両多摩移管案です。
南多摩郡を含む三多摩の東京府移管上申は、明治25年(1892)9月に東京府知事から出されたものですが、これは既に神奈川県知事の積極的な合意を得ていたものでした。

南多摩郡は、生糸貿易の横浜との関係が深い繭・生糸の集散地である八王子や原町田を含み、県の財政にも重大な影響があります。それにもかかわらず、南多摩郡を東京府に移管することに神奈川県知事(内海忠勝)が賛成したことは、たしかに異常なことでありました。

その背景としては、1892年の「大干渉選挙」で罷免要求を突き付けられていた内海による、南多摩自由党に対する報復的措置と伝えられています。三多摩移管の政治的背景参照。


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