安政5年(1858)に米・蘭・露・英・仏の5ヶ国との間にそれぞれ調印した修好通商条約に基づいて開港した五港のうち、名目と実態が異なる
兵庫と神奈川 について書いてきました。
神奈川・横浜の最終回に神奈川県域の変遷を記したので、バランス上(?)兵庫・神戸シリーズの方にも兵庫県域の変遷を付け加えておきます。
これに関連して、興味ある話題に言及することができればよいのですが、あいにく手持ちがなく、データの列挙に近いだけのものになりそうです。
と、言いつつ調べてみたら、兵庫県のHPの中に
県域の変遷 が図示されており、その説明も参考になりました。今川焼さんの記事
[46937]からのリンクは、URLが変更されたために、切れています。
以下、このHPを参照しながら、役所と管轄区域の変遷を記してみます。
神奈川よりも8年半遅れ、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に兵庫が開港した翌月、慶応4年正月に、兵庫奉行などの幕府関係者は将軍慶喜の後を追って江戸に引き揚げてしまい、後は接収した新政府の管理するところとなります。
外国掛兵庫事務所、兵庫鎮台、兵庫裁判所を経て、知県事・伊藤博文が任命されて「兵庫県」になったのは慶応4年5月23日です
[54322]。
「兵庫県」になった根拠は、
慶応4年閏4月21日の太政官布告(政体書) ですから、当然のことながら神奈川県の前身の「神奈川府」の発足と同じ年ですが、知府事・東久世通禧の任命で神奈川府が発足したのは6月17日というように、日付はまちまちです。
# 慶応4年は、この後9月8日(1868年10月23日)に明治元年と改元。
「第一次兵庫県の県域」によって最初の兵庫県管轄区域を見ます。
開港場の神戸、西攝津4郡内の旧幕府領の他に、播磨国にも飛び地があります。神奈川県の場合にも“虫食い状態”
[54421]と書きましたが、尼崎藩領や三田藩領が介在するこちらは、入り組み方が更にひどく、「飛び地の集合」状態です。
現在の大阪府域のうち、淀川より北(旧摂津県→豊崎県)も兵庫県になっていた時代がありました。
稲田騒動のあった淡路国津名郡の一部も、一時的に兵庫県管轄になっていました。
「第二次兵庫県の県域」には、明治4年廃藩置県後の第1次統合により、ようやく「飛び地の集合」を脱して、摂津5郡(八部、兎原、武庫、川辺、有馬)一円となった「小さな兵庫県」(17万石)が、大きな飾磨県(66万石)と豊岡県(46万石)、そして名東県の一部(淡路9万石)と共に図示されています。
「第三次兵庫県の県域」には、明治9年(1876)8月21日の第2次府県統合によって、面積で9倍と一気に拡大し、現在に近い大きさになった姿が示されています。この巨大な県がいかにして生まれたのか?
先ず特筆されるのは、飾磨県だった大国・播磨の全域が兵庫県になったことですが、兵庫県のHPによると、内務卿大久保利通が
開港場である兵庫県の力を充実させるように考え直せ
と指示したことが、飾磨県を消滅させて兵庫県にした原動力になったようです。
県庁ひとつを減らすことができるなら、一挙両得である
なるほど。
実は慶応4年正月に遡ると、江戸に引き揚げた幕府関係者の中に、老中だった姫路藩主・酒井忠惇がいたために、佐幕姫路藩の追討令が出されていたのです。すぐに開城恭順したのですが、どうもこれが姫路、ひいては播磨の政治的地位に悪影響を及ぼしていたようです。
明治4年11月の第1次統合で誕生した「姫路県」が7日後には「飾磨県」と改められただけでなく、明治9年の第2次統合では、“県庁ひとつを減らす”対象にされてしまったのです。お気の毒。
日本海側の豊岡県は分割され、但馬国全域と丹波国2郡とが兵庫県に編入されました。山陰に近いこの地域が因幡国でなく播磨国と同じ県になった理由は、内務省地租改正局出仕の櫻井勉(但馬国出石出身、後に内務省地理局長)の意見(交通の便を考慮)によると伝えられます。そして前記のように播磨国が兵庫県になったので、但馬国までも兵庫県ということになりました。
更に、淡路国も全域が兵庫県になりました。「阿波への路」という意味で、四国と密接な関係にあった淡路国が兵庫県になったのは、明治3年の稲田騒動で悪感情が高まっていた淡路と阿波(名東県→高知県→徳島県)とを分離させるためでした。
こうして5ヶ国に及ぶ大県になった兵庫県。人口も6倍強になり、東京府・大阪府よりも多かったとか。
この明治9年(1876)の第2次府県統合では、山間部の交通が不便という櫻井勉の意見により但馬国との合併が否定された因幡国までの山陰5ヶ国(隠岐国を含む)が島根県になっています。
この年、石川県も越前国から越中国まで4ヶ国に及ぶ大県になり、明治14年に堺県を併合した大阪府も摂河泉に大和国を加えた4ヶ国です。
しかし、明治14年(1881)以降の分割・再編成でこれら3つの府県域は縮小しました。
# 5ヶ国に及ぶ兵庫県と共に無傷で生き残ったのは4ヶ国に及ぶ三重県でした。3ヶ国(伊勢・伊賀・志摩)の全域と紀伊国の一部。なかなか侮れない存在です。
その後、明治29年(1896)に美作国の一部も岡山県から兵庫県に編入されましたが、県界変更と同時に国界も変更されたようなので、5ヶ国は変わらず。
現在ではほとんど実用的価値を失っている旧国の領域ですが、昭和38年(1963)の備前福河編入により、兵庫県は一応6ヶ国に及ぶことになっています。
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