[1799] 2002年 6月 8日(土)16:49:10 | miki さん |
新雑学ネタ |
1郡1町村。
つまり、その郡に1町村しかない所。(広島県神辺町など)
グリグリさん、今度はこれを雑学ネタに使えばいいのではないでしょうか?
漠然とした記憶ですが、70年代頃を境に、学校で使う地図帳の国名表記が
漢字から片仮名に変更された印象が在ります。当初「象牙海岸」の国名を
見た時、アフリカに漢字文化圏が在るのか?と勘違いして居ました。
我乍らベタなネタですが、語呂遊びと云えば「○○部の練習試合、何処さ
行ったっぺが?」「谷田部(現つくば市)でやったべ?」と云う感じです。
[1797] 2002年 6月 8日(土)12:13:36 | オーナー グリグリ |
落書き帳のリニューアル作業中 |
ただいま、落書き帳ページのミニリニューアル中です。
何か不都合・不具合がありましたらご連絡ください。よろしくお願いいたします。
[1796] 2002年 6月 8日(土)09:54:44 | miki さん |
>1791&修学旅行の思い出 |
中学の時に九州に修学旅行に行きました。
私のつまらないギャグが飛びまくっていました。(笑)
1.阿蘇山にて
「あっ、阿蘇山だ!」「あっそー。」
2.九重山にて
「大分で転んだらおー痛!」
3.別府駅にて
「別府の北は北別府」
4.宇佐駅を通り過ぎる列車内にて
「宇佐はUSA...アメリカの飛び地じゃ。」
[1795] 2002年 6月 8日(土)09:47:32 | miki さん |
コートジボワール |
コートジボワール。
国名は「象牙海岸」のフランス語訳です。
中国ではかつて「象牙海岸」と意訳していたそうですが、今では音訳の「科特迪瓦」が使われているそうです。
英語圏では「Ivory Coast」と意訳していた時代もありますが、どちらにせよ正式名称はフランス語です。
[1794] 2002年 6月 8日(土)09:38:52 | miki さん |
>1787 |
それでは、解答します。
馬里→マリ
肯尼亜→ケニア
烏干達→ウガンダ
喀麦隆→カメルーン
布基納法索→ブルキナファソ
聖多美和普林西比→サントメ・プリンシペ
[1793] 2002年 6月 8日(土)09:21:45 | やっさん さん |
↓ |
GLinGLin さんの名前の所にTが入ってしまいました。
すみませんでした
[1792] 2002年 6月 8日(土)09:18:54 | やっさん さん |
志摩の合併 |
GLinTGLinさんはじめまして。
こんなページがあるなんてはじめて知りました。
更新、大変だろうけどがんばってくださいね。
合併情報なんですけど
三重県の志摩郡の4町(阿児町、浜島町、大王町、志摩町)
に4月に任意合併協議会が発足されました。
http://www.shima-gappei.jp/
来年の4月に法定協議会が発足する予定です。
合併予定時期は2004年10月の予定で合併と同時に市制を施行するようです。
新市名は公募で受け付けるみたいです。
突然お邪魔してすみませんでした。
そもそも「合衆国」と訳出された時期や背景とは何なのでしょうか? 確かに
「合州国」の方が正確ですが、「合衆国」は多民族国家の実状を旨く体現した
観も在りますね。略称のUSA、大分県宇佐市では何か語呂合わせの遊びは
無いものかな?(少々苦しいけど山形県遊佐町も。あ、こちらは「ゆざ」と
濁るんでしたっけ?)
そう言えば昔、或る漫画でユニオン・ジャックの紋様を「米」と勘違いして
米国旗と英国旗を取り違えたオチが在りましたっけ。
布基納法索って、広尾に大使館がある国の事ですか?
[1790] 2002年 6月 8日(土)00:54:34 | f さん |
Re: 連合王国 |
> 全部わかるけど,答えないでおきましょう。
やっぱり簡単すぎましたか。
> ところで
> >布基納法索
> 改称する前はどう表記したのかな。
> 「上伏特」? まさかね。
私も知りませんでしたが、今調べてみたら「上沃爾特」だそうです。
ついでに
> >当時の感覚では湊川を境に兵庫と神戸を分けるのが
> 兵庫は港町として、神戸とはどの様に機能分化されて居たのでしょうか?
> 城下町・・・・・・ではないだろうな。
私も当時の人間ではないので想像にすぎませんが、どちらも港町ですね。
旧港と新港という位置つけではないかと...
兵庫には兵庫城っていうのもあった時期もあるようですがさすがに城下町とは
いえないですね。
[1789] 2002年 6月 8日(土)00:13:55 | miki さん |
廿日市市、佐伯町、吉和村合併 |
廿日市市、佐伯町、吉和村合併について
1.新市名は「廿日市市」
2.合併目標日は2003.3.1
だそうです。
グリグリさん、できるだけ早めに訂正お願いします。
[1788] 2002年 6月 7日(金)23:01:55 | Issie さん |
連合王国 |
>正式にはやはり「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」でしょう。
そうでしたね。「外務省で使っている略称」というのが正しかったかな。
>ちょっと面白そうですから問題です。どこの国でしょう?
全部わかるけど,答えないでおきましょう。
ところで
>布基納法索
改称する前はどう表記したのかな。
「上伏特」? まさかね。
EU。少なくとも新聞では「欧州連合」が一般的ですね。字数が節約できるから。
地理の教科書でも「欧州連合」と「ヨーロッパ連合」と両方併記が普通かな。
[1787] 2002年 6月 7日(金)19:13:06 | f さん |
Re: 英国 |
> 外務省での正式名称は「連合王国」
正式にはやはり「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」でしょう。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/uk/index.htmlを参照のこと。
確かに外務省内では略称として「連合王国」を多用しているようですが、それは
アメリカ合衆国を合衆国と言うようなもの。
でも日本語としては、第一にイギリス、少しおくれて英国というのがよく使われる
名称だと感じています。あえてイングランドと片仮名で書いてあれば、それは
連合王国ではなく英語でのEnglandの地域を指していると考えていいのでは
ないでしょうか。
ちょっと面白そうですから問題です。どこの国でしょう?
馬里
肯尼亜
烏干達
喀麦隆
布基納法索
聖多美和普林西比
>
[1781]
> すみませんが、「欧州」より「ヨーロッパ」という表記の方が自然で
雑魚さんの文体から判断すれば欧州の方が自然でしょ。
外務省での正式名称は「連合王国」。UK,つまり United Kingdom の直訳ですね。
「イギリス」の出所にはいろいろな説があるのですが,16世紀のポルトガル語が怪しいというのがもっぱらの噂ですね。
ま,今回のW杯で England とイギリスがイコールではない,ということが少しは浸透したかな。ついでに“イングランド旗”の説明から英国旗「ユニオンジャック」の成り立ちもお勉強できて,よかったでしょ。
米国は「アメリカ合衆国」。もちろん,United States of America の訳ですね。「合州国」と表記すべきだと主張する人もいて,実は私も同感なのですが,十分定着している「合衆国」で構わないでしょう。
なお「米国」は同じ漢字文化圏でも日本以外では通用しません。理由は,発音が違うから。
だから中国や朝鮮半島では「美国」と表記するのですね。
同じく,「仏国」ではなく「法国」,「独国」ではなく「徳国」。ただし,韓国語ではドイツを「トギル」と呼ぶけれども,これは日本式表記の「独逸」の韓国語読み。
ロシアを「露国」と表記するのも日本だけ。中国語でも朝鮮/韓国語でも「俄国」。「オ」と発音するのですが,これは「オロス=おろしあ」の頭文字なのですね。たぶん,モンゴル語経由で入ってきたものと思われます。
ちなみにロシア語で中国を「キタイ」というのは,逆に「契丹」という意味のモンゴル語がロシアに入ったもの(契丹は,宋の時代に中国の北部を支配した異民族王朝。漢民族からみると異民族だけど,モンゴルから見ると中国の一部なのですね)。
ロシア人の紅茶好き文化は,「キタイ」と同じように中央アジア経由で入ってきたものと言われています。
話を戻して,
日本以外で通用しない最たるものは「倭=和」という図式。
この2つは日本語以外では全く発音が違うから,「和」が日本を表すといっても理解してもらえません。
高校時代、希望者のみを対象にしたスキー合宿が蔵王で在りました。1、2年時と
続けて参加しましたが、寝所の大広間で宴会を始めた阿呆タレが居て引率教師に
見付かり大騒ぎ。脇で就寝して居た我々も傍観罪を問われ、ブン殴られると云う
波乱に満ちた合宿でした。教師に取ってもロクに眠れぬ夜だった事と拝察します。
流石に 3年時は参加させて貰えませんでしたが。
アルペンルートと云えば、立山駅の周辺で、自家用車を大町側に回送する趣旨の
代行サービスの広告を見ました。宇奈月温泉駅でも、手荷物の代配業者から声を
掛けられた事が在りますが、と云う事は糸魚川経由で運ぶ訳ですよね。それでも
普通にアルペンルートを縦走するより早着出来るのかな。宇奈月で誘われた時は
姫川峡谷の土砂災害で、小谷-糸魚川は道路も鉄道も寸断されて居た筈だけど?
(直江津又は安房峠を迂回したかな?)
「欧州/ヨーロッパ」の表記方法についてですが、「桑港/サンフランシスコ」や
「越南/ベトナム」の様な特殊例と異なり、世間一般で認知された範疇と考えます。
私の場合、固有名詞や翻訳困難な技術用語の類は仕方無いとして、片仮名の羅列に
少々抵抗が在る、と云う年輩型の嗜好が在る訳でして。まあ「欧州」「米国」とか
日本以外の漢字文化圏では多分通用しないだろうけど。朝鮮戦争(韓国動乱)時の
「抗美援朝」の様に、中国では米国を「美国」と表記しますしね。
関連して気になるのが「イギリス」の呼称。「イングランド」の転訛かと思われる
この言葉は日本では「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国」の意味で
使われると思いますが、本来のイングランドは、スコットランドやウェールズ等と
共にグレート・ブリテンを構成する国名ですよね。(ロンドン警視庁は、設立時に
スコットランド貴族の滞在先に隣接した事情等から「スコットランド・ヤード」と
称して居ますが。)「UK」では馴染みがないとして、「英国」と言った方が少しは
正確ではないのかなと、確証は無いけれど勘ぐる雑魚でありました。
[1784] 2002年 6月 7日(金)14:41:37 | 夜鳴き寿司屋 さん |
修学旅行の思い出といえば。 |
今が修学旅行という学校が多いようですね、修学旅行といえば
小学校の時に、電車にも乗ったことの無い児童が多いからと
新幹線の停車時間内に全員が乗り込めるように、6学年全員
が運動場で新幹線車両の乗り降り練習した事があります。
中学校の時に阿蘇の旅館の従業員に「福山」と言ったら
何県にあるのかと逆に聞かれました。まあ一度も言った事の無い
地名を聞いても普通の人はわからない毛のは無理もないけど。
また高校の時には広島県から京都まで新幹線に乗り、そこから
福井の東尋坊、富山・長野間の立山アルペンルート、長野、山梨、
名古屋の間を3泊4日の行程でバス移動し名古屋から新幹線で
戻るという中部地方循環旅行をしました。
皆さんの中にはトンデモないコースの修学旅行をされた方は
おられないでしょうか。レスをお願いします。
また最近、高校の修学旅行は引率の教師の負担(夜中に宿舎を
抜け出さないように監視したりする)を軽くするためにスキーの
修学旅行が多いと聞きますがいかがなものでしょうか?
[1783] 2002年 6月 7日(金)13:27:26 | まがみ さん |
[1766]の補足 |
町村どうしの合併では、人口3万人以上で市制施行できますが(
[1782]mikiさんの書き込みどおり)、市と他の市町村の合併では、人口要件にかかわりなく市制施行できます。
例えば、人口1万人の「A市」と人口3000人の「B町」が合併する場合、合計しても人口は1万3000人にしかなりませんが、新しく「C市」として市制施行することができます。
しかし、人口8000人の「D町」と人口7000人の「E町」が合併する場合、人口は合計1万5000人になりますが、新しく「F市」とすることはできず、「F町」となります。この場合、市制施行のためには人口3万人以上が必要です。
いずれも、平成17年3月31日までの時限立法です。
[1782] 2002年 6月 7日(金)10:43:18 | miki さん |
>1766 |
人口30,000人以上50,000人未満で合併して市制施行。
現在ある市では、
兵庫県篠山市、茨城県潮来市がそうです。
また、香川県東かがわ市も特例法で市になります。
[1781] 2002年 6月 7日(金)10:37:19 | miki さん |
>1770 |
すみませんが、「欧州」より「ヨーロッパ」という表記の方が自然で分かりやすいのではないでしょうか?
ちなみにヨーロッパの名前の由来はギリシア神話に出てくる王女エウロペ。
やがてクレタ王の妻になった時、巡った地域がエウロパ(ヨーロッパ)といわれるようになったそうです。
...ちなみにアメリカの名前の由来はイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチです。
>兵庫津と居留地に挟まれる地域が神戸の都心として栄えることになります。
成る程、元々はこちらの方が要衝だった訳ですね。湊川神社の存在は特に
関係無いのかな? 三ノ宮が商業集積地として発展するのは、大分後の事に
なる訳ですね。新幹線駅の存在も与した訳か。
>当時の感覚では湊川を境に兵庫と神戸を分けるのが
兵庫は港町として、神戸とはどの様に機能分化されて居たのでしょうか?
城下町・・・・・・ではないだろうな。
神戸と云えば、もう一点面白いと思うのは神戸電鉄沿線です。実際に乗って
驚いたのですが、鈴蘭台以南の山間部は並行道路も無く、本当に難所と云う
印象でした。福知山線にしても宝塚から三田にかけて武庫川の谷が険しいし、
六甲山地に拠り鰻の寝床宜しく東西に伸びる阪神地区の特質が見て取れます。
水系で見ると、鈴蘭台を基準として新開地方面が新湊川、粟生方面が明石川、
三田方面は谷上地区で意外や加古川、その先が武庫川と云う感じでしょうか。
丁度鈴蘭台の辺りが分水界なのかな。良くぞここまで宅地開発が進捗したと
思いますが、これも神戸電鉄が新開地で神戸高速鉄道と接続した 1968年の
後に本格化したのでしょうね。
余談。先に私の出身高校の迷物行事について言及しましたが、同様の行事は
男子校系の古参高校で時々見られる様ですね。軍事行軍の名残と云う側面も
在るのかな。昨年「ブロードキャスター」で似た様な行事が紹介されました。
件のチャーザァ村の秀才も多数通ったと思われる新潟県立長岡高校で、未明
ダミーの米俵を担いで巻から長岡までマラソンでリレーすると云う行事です。
丁度、小泉内閣が誕生して間も無い頃、首相発言で「米百俵」が人気となり
国漢学校の後身である同校が、三根山藩からの米供出に肖った内容ですね。
こう云う「長距離遠足」の事例を御存知の方が居たら、御教示を賜りたく。
[1779] 2002年 6月 7日(金)07:20:24 | オーナー グリグリ |
Re:ちょっと要望 |
>実は小学生 さんへ
お久しぶりです。修学旅行だったんですね。さて、
★アーカイブズ("ず"ですf^^)
すべて任せると言うことでしたが、ちょっと荷が重いようでしたら、テーマ提案用のページを皆さんに広く公開し、いろいろ提案できるようにしたいと思います。いかがでしょうか。
★書き込みタイトルバーの色
実は常連さん向けの自分専用色サービスを検討しています。しばしお待ちを。まぁ、暫定で色数を増やすだけになるかもしれませんが。その際、過去ログの修正(ニックネーム統一、タイトルバーの色統一など)を受け付ける予定です。ただし、客観的に見てご本人書き込みと思われるものに限ります。
では。#修学旅行の想い出はまたこの次に...
[1778] 2002年 6月 7日(金)07:13:25 | オーナー グリグリ |
Re:合併情報など |
>Dear miki さんへ(メール)
対馬市の合併時期(2004.3.1)の情報どうもありがとうです。更新しました。
>まがみ さんへ
[1762]
ご指摘の内容をすべて更新しました。ありがとうございました。
>dah さんへ
[1768]
どうもはじめまして。お役に立てて光栄です。
ご指摘の公式HPのURL移転情報を更新しました。今後ともよろしくお願いします。
頂いている更新情報についてはその都度反映させているつもりですが、見落としなどありましたらご指摘ください。よろしくお願いいたします。
[1777] 2002年 6月 7日(金)00:46:21 | Issie さん |
Re^2: 神戸市役所の位置 |
「1886年頃の地図」は2万分の1,「1935年頃の地図」は5万分の1の地形図(の復刻版)なので細かい地名はよくわかりません。
1886年は特に市制・町村制が施行される前のものですから,区画については少し分かりづらいものがあります。
神戸駅周辺の「湊東区」は1945年に神戸区と統合されて「生田区」と改称され,さらに1980年に葺合区と統合されて「中央区」になる。かつての「神戸」の後身と言うべき中央区と兵庫区の境界は現在ではおおよそかつての湊川ですね。
>現在地に移転したのはどうやら明治6年のことのようです。
兵庫県に限らず,この1873年頃まではどの府県もかなり流動的だったようですね。
以前にも触れたのですが,下総西部に設置された「印旛県」の県庁は当初予定していた“県名どおり”の印旛郡佐倉に設置されることのないまま1873年に「千葉県」に統合されてしまった。こういう例は少ないないようです。
兵庫県の場合は廃藩置県4ヵ月後の明治4(1871)年11月の府県再編で摂津北西部の県域がほぼ確定して以来(この府県再編以前と以後では同じ府県名であっても本質的に違うものと考えた方がいいですね),1876年8月に隣接3県(飾磨・豊岡・名東)の全部または一部を合併して現在の兵庫県となるまでは大きな変化はないわけですが,県庁の移転は続いていたのですね。
そして「兵庫」から「神戸」へ県庁が移された。
※お気づきかもしれませんが,幕末から明治初期にかけての日付表記に関して私は,「旧暦」が使用されていた明治5(1872)年末までは「元号優先・(換算)西暦併記」,太陽暦が採用された1873年以降は「原則西暦のみ」という方針にしています。もちろん,私個人の「ローカル・ルール」ですがね。
本当は換算の便利さから西暦に統一したいのだけど(だって,元号じゃ不便だもん),特に年末では元号と西暦でズレが生じてしまうのですね。王政復古のあった「慶応3年」は西暦換算で1867年だけどクーデタのあった旧暦12月9日は太陽暦ではすでに翌年の1868年となっていた,なんてね。
そんなわけで,元号表記に慣れた方には申し訳ないのですが,そういう表記法をとっていますので,よろしくご理解をお願いいたします。
あ,もちろん,他の方が元号表記をなさるのに私が文句を言うものではありませんよ。
[1776] 2002年 6月 6日(木)23:17:54 | f さん |
Re: 神戸市役所の位置 |
詳しい地図が手元にないので、ちょっともどかしいのですが...
神戸市が誕生した時点での市役所は、今の中央区相生町にありました。
当時の地名でいえば東川崎町です。ここにはそれまで神戸区役所
があったはずですが、Issie さんの参照している地図にはありますで
しょうか?
と、書いてからよく見ると、神戸区役所が東川崎町に来たのは1887年の
ことだと資料にありました。それ以前は北長狭4丁目つまり県庁の横ですね。
その後、前投稿で申しましたとおり1909年になって神戸駅近くに
移転してきます。正確には生田区橘通1丁目、今の神戸地方裁判所
の隣です。今の加納町の位置に落ち着くまでには、まだ間がありまして
湊川駅近くの今の兵庫区役所の隣にあった時期もあります。(1950年ころ)
> とすると,神戸駅は兵庫地区に設置された,ということになるのかな。
当時の感覚では湊川を境に兵庫と神戸を分けるのが当然だったのでしょう
から神戸駅は、やはり名前の通り神戸地区にあるとみるのが正しい
理解であると信じます。(ここで言う湊川はその当時の流路と考えてください)
ついでに県庁の位置について。
兵庫県が最初に設置された時点では切戸町(兵庫地区)にあったはずです。
その後、坂本村移転を経て、今の神戸地方裁判所の位置に移転し、現在地に移転した
のはどうやら明治6年のことのようです。
[1775] 2002年 6月 6日(木)21:20:16 | Issie さん |
神戸市役所の位置 |
[1774]の発言は,1886(明治16)年頃の地図を見ながら書いたのですが,よく見ると「三ノ宮停車場」の注記がありました。そう,だいたい現在の元町駅のあたりです。
で,この駅の裏手に県庁と「郡区役所」の記号があるのですね。
県庁は今の位置と同じですから問題がないのですが,「郡区役所」の方。
実はもう1つ,神戸駅の北西方にも同じ記号があるのです。だいたい現在の神戸大学医学部の位置かな。
どちらかが「神戸区役所」(市制施行前なので)で,どちらかが「武庫・菟原(うはら)・八部(やたべ)郡役所」だと思われるのですが,現神大医学部の方は微妙に「神戸区」の区域から外れるのでこちらが「郡役所」で,県庁の隣りの方がやはり「区役所」でしょうかね。
1935年頃の地図では f さんの発言のとおり,神戸駅の近くに市役所があります。
で,1935年頃には神戸駅周辺は「湊東(そうとう)区」になっています。元町・三ノ宮のあたりが「神戸区」。
それで1886年の地図をもう一度よく見ると,神戸駅のある湊川北側地区も「兵庫」の一部に見えてきます。確かに1935年の地図で湊東区と神戸区の境になっているあたりに1886年の地図でも境界線の記号があります。
行政上は1886年当時,両者一体で「神戸区」ですからその意味での境界線でないと思うのですが,こちらが「神戸」と「兵庫」の境界だったのかもしれない。
とすると,神戸駅は兵庫地区に設置された,ということになるのかな。
「中央区」は1980年に葺合(ふきあい)区と生田区を統合して設置したものです。すでに三ノ宮地区が都心になって久しいですから,新区役所は当然に三ノ宮駅至近の位置に新設されたのですね。
>千葉県の富津市の場合は、富津地区の市街を考慮してか、上総湊から大貫に移った様子ですね。
合併以来長い間,旧富津町役場ではなく,上総湊にある旧天羽町役場を市役所としていたものが,だいたい“真ん中へん”の大貫地区に市役所が移転したからですね(けっこう前のような気がするが)。
[1774] 2002年 6月 6日(木)20:03:02 | Issie さん |
Re:神戸駅の謎 |
最近,私の発言は暴走気味ですね。すみません。気をつけよう。
で,本題。
>東海道線が神戸まで開通した時点で、三ノ宮駅も在ったろうし、
>そう考えると、神戸駅の位置付けが良く判らないですね。
簡単に言えば,鉄道開通当時の三ノ宮は市街地のはずれだったのです。
三ノ宮にも元町にも駅はなかった。
大きな目で見ていくと,神戸/兵庫という街は開港前の幕末以来,市の中心が徐々に東に移動しつづけています。
楠木正成のお話にも登場するように,中世以来幕末までこのあたりで名の通った都市は「兵庫」でした。通商条約で開港する約束になっていたのも兵庫でしたね。
ところで,湊川をはさんで兵庫の北に隣接しているのが「神戸」です。
幕府最末期に幕府と反幕府派の政争の道具になるなど紆余曲折の末,実際に開港場として整備されることになったのは「神戸」の方でした。
そのようなわけで,鉄道の開通した明治初めの段階では,湊川を境に北の「神戸」と南の「兵庫」が“双子都市”のように市街地を形成していました。
「神戸駅」は,その湊川の河口近くに設置されました。恐らくは「神戸」だけでなく,「兵庫」もターゲットにしたロケーションだったのでしょうね。
(なお,湊川はその後の大改修で大幅にルートが変更されています。現在,湊川公園や新開地の繁華街となっている場所がかつての湊川の跡です。)
行政上は1878年の郡区町村編制で神戸と兵庫セットで「神戸区」となりました。これがそのまま,1889年の「市制」施行で「神戸市」となります。
県庁も市役所も神戸側。元町の裏山に置かれました。
これは当然,港の整備によってその背後の元町地区周辺が商業地区として発展したからですね。相対的に兵庫の地位は徐々に低下します。
なお,この段階の「神戸区→神戸市」の東境は旧生田川跡(こちらは当時すでに),現在の新神戸駅から三ノ宮駅前を経て海岸に至る大通りです。
こうして商業港としての神戸港の発展に比例して元町地区,ついで三ノ宮地区が“業務中心地区”として発展してゆきました。新幹線の岡山延長で布引の滝直下に新神戸駅が設置されると,こちらまで拡大することになるのですね。
一方,兵庫の方には海岸部が埋め立てられたりして工場が進出し,地味な工業地区となってしまいました。今の兵庫駅あたりのたたずまいからは,昔の港町・兵庫の面影はよほど捜さなければ見つけることができません。
「兵庫県」という県名だけが,かつての名残をとどめている,というところでしょうか。この県名は県庁の系譜をたどっていくと,幕府の「兵庫奉行所」に行き着くからです。
なぜ「兵庫」かと言えば,江戸時代にメジャーだったのはこちらだし,幕府が開くと約束したのは「兵庫」だったからですね。なお,兵庫奉行は幕末に新設された奉行職です。
[1773] 2002年 6月 6日(木)19:38:09 | f さん |
Re: 修学旅行の長ったらしい話 |
修学旅行とは懐かしいですねえ。私の場合はずいぶん昔のことでだいぶ忘れてしま
いましたが、広島、岩国方面に行きました(周りのたいていの小学校は伊勢に行く
ことが多かったようですが)。原爆ドームにいった次の日に岩国の米軍基地に行く
なんて、なかなか面白いコース設定でしたよ。
ところで今時の小学生は電車に自分だけで乗ったことがないのが一般的なんで
しょうか?8歳から10歳くらいになれば十分できそうな気がしますし、実際に
自分もそうでした。夏休みに時刻表を片手に、自分の家から祖父の家まで...
なんてありがちなパターンじゃないですか。
[1772] 2002年 6月 6日(木)19:09:22 | f さん |
Re: 神戸駅の謎 |
神戸駅が開業した当時の市街地は、神戸駅周辺にありました。
もともとこのあたりの中心は、古代以来の港町であった兵庫津でしたが、慶応3年の
兵庫開港以降は、兵庫津と居留地に挟まれる地域が神戸の都心として栄えることに
なります。神戸駅はまさにその位置にあったのです。
神戸市役所も神戸駅徒歩数分の位置にありましたし、新開地、栄町大通、元町通
には、その当時からたくさんの小売り店舗が並んでいます。
一方、三ノ宮駅は開業当時は現在の元町駅の位置にありましたが、昭和6年に
現在地に移動し、三宮地区はこのころからターミナルとして発展していきます。
阪急が三ノ宮まで延伸するのは昭和11年のことです。昭和32年の市役所移転、
昭和40年のさんちかタウンのオープンなど、この当たりの時点で三宮地区が
都心としての地位を固めたと考えられます。
僕は、各市町村の合併で一番気になることは、
新しい市町村の名称と役所・役場がどこに置かれるかということです。
長崎県の福江市・南松浦郡奈留町・岐宿町・富江町・三井楽町・玉之浦町の合併の
下五島一市五町合併協議会で、新市の名称が五島市に決まったそうですが、
僕は、「五島市」という名称は絶対反対です。
五島市の地域は、協議会の名称にもあるように、下五島地域にあります。
上五島地域もあるのに、「五島市」という名称は納得できません。
「下五島市」が良いと思います。
あと、江田島市の名称の件ですが、能美町は、当分は能美町に役所が置かれることに
なったそうなので、そこのところを考慮したほうがいいと思います。
どうしてもダメだった場合は、江能市が僕はいいと思います。
>まがみさん
質問に答えてくださって、ありがとうございました。
>KNさん、雑魚さん
修学旅行の行き先について、教えてくださってありがとうございました。
高校時代まで水戸市近郊に居た私の場合、小学校の時は東京に日帰りでした。
常磐道など全然開通して居なかった当時、国道6号線往復はとにかく時間が
掛かりましたっけ。東京での見学先は、皇居前広場、羽田空港、交通博物館、
NHK放送センターと記憶します。時期は五月だったかな。
中学時代は二泊三日の伊勢、奈良、京都方面。初日に新幹線から近鉄特急に
接続して鳥羽に赴き、バスで真珠島や伊勢神宮を見物、二見ヶ浦近所に投宿。
翌日は近鉄特急で大和八木に向い、バスで薬師寺、東大寺を見物。宇治から
瀬田川の谷を経由して大津に入り比叡山根本中堂、そして京都へ下りました。
その晩が唯一の班別自由行動で、新京極を散策。最終日は清水寺に寄った後、
混雑が酷かった二条城を諦め、太秦東映映画村、嵐山を回り新幹線で帰途に
就きました。三日間で使った小遣いは 427円ナリ。(ケチですねぇ) これは
六月の話です。
高校時代は・・・・・・・無かったんです。戦前の不祥事(内容不明)とやらの為。
その代り毎年秋、全校約一千名が参加する「歩く会」と云う迷物行事があり、
遠隔地にバス等で移動して学校を目指したり、水戸近郊を周回したり、総計
約70kmを、仮眠を含めて一昼夜で歩破(最後の 20kmはマラソン)しました。
とにかく体力勝負の行事なので、夏以降の体育の授業はひたすらマラソン。
ちなみに常陸太田の高校に居た友人の話では、広島、宮島、萩、津和野等を
班別行動で回ったそうです。大学で一緒だった、都内某有名私立高校出身の
仲間は欧州と言ってました。高校だと二年生の秋でしょうか。ちと羨ましい。
[1769] 2002年 6月 6日(木)18:01:12 | ケン さん |
江田島市と周南市 |
江田島市と周南市のことですが、江田島市となる部分は合併を延期するか、住民投票で問うか、
呉市と合併するか、合併しない宣言するかで決めるべきです。周南市となる部分のうち熊毛町は住民投票で合併の賛否を問うべきです。今回合併を見送った下松市も住民投票で合併の賛否を問うべきです。
一様僕は田舎の県に生まれたのに大分市鶴崎(別保地区)の住宅地で生まれました。坂ノ市に住んでも
支所一人口密度を持っている地区にでした。
別保小学校は入学した頃は1300人だったのですが今では986人と今年からマンモス校ではありません。
僕は(副班長でした)1日目100万人をこの前割った北九州市のスペースワールドに行って長門市湯本に泊まりました。そして翌日は国立公園秋芳洞、秋吉台にいきました。そして、福岡市の博多観光会館と博物館に行きました。
後、竹田市&荻町が合併した場合については合併特例法で市になれます。(人口約21000人)
後、竹田市と直入郡で確か合併協議会が出来てたような気がします。(人口約28000人)
後、去年の夏に東京に3日間家族旅行に行きました。後、10年前ぐらいに、各所修学旅行ちが替わったようです。
後、大分駅では東京よりか1分遅い5分おきで坂ノ市駅は8分おきなのですが、電車より高速道路の使用が多いです。
昼間人口は4000人しか増えず45万人でした。
一応大分市は豊肥線、日豊線が通っています。
雑魚さん
そういえば1年ぐらい前に羽合町の話が出たような気がします。
[1766] 2002年 6月 6日(木)16:51:49 | まがみ さん |
Re: 第九の質問 |
現在の合併特例法では、既存の市と他の町村が合併する場合、新設する自治体が市としての用件を満たさない場合(人口が五万人に達しないなど)でも、市になることができます。(合併特例法第五条の三)
[185] のM.K. さんの書き込みも参照してください。
ところで、例えば大分県竹田市&荻町が合併した場合、
市の人口の規定に届かないのですが、そうすると、「市」があっても、
町になってしまうのでしょうか? 市として合併できるのでしょうか?
教えてください。
KNさんと一緒で、5月30日~31日まで東京に修学旅行に行ってきました。
生まれてからずーっと静岡のド田舎の地方の生まれなので、
憧れの大都会・東京に行ってすごく興奮してしまいました。(班長ですけど)
充実して楽しかったと言える修学旅行ではありませんでしたが、
自分達だけの力で電車に載ることや乗り換えなど無事できたことが良かったです。
それにしても、僕の住んでいる地方は東海道本線しか通っていなくて、
時間も約20ぷんおきぐらいに来るので、東京の電車って次の駅までの時間が早いし、
電車もちょっとまでばすぐ来るので、便利だな~と思っていました。
地方によって多少違ってくるようですが、みなさんは小学校の修学旅行は
いつの季節にどこへ行かれましたか?教えてください。
それと、グリグリさん、アーカイブスの新規ネタの件で、
連絡を頂いてからまだ一回も投稿していませんでした。すみませんでした。
それと、わがままかもしれませんが、少し書き込みのタイトルバーの色が
暗っぽい色が多いような気がするのですが、
もう少し明るい色の組み合わせを作って頂けないでしょうか? お願いします。
私の記憶違いでなければ、山陰本線の車窓から一瞥した道路標識の表記は確か
「ハワイ温泉」でした。「笑っていいとも」に登場したミス・ハワイも羽合町の
御嬢さんでした。福岡県金田町では、何か語呂合わせの「遊び」は在るかな?
池を挟んで羽合の対岸に在るのは東郷町。北郷、南郷、西郷と併せ、全国各地で
良く見る地名ですが、何か関連は在るのでしょうか? 宮崎県の場合は、独自に
東臼杵郡で「東西南北」一揃え、南那珂郡で「南北」ペアが揃って居ますね。
[1762] 2002年 6月 6日(木)12:17:19 | まがみ さん |
合併情報など |
鳥取県東伯郡の3町村(羽合・泊・東郷)では、7月1日まで新町名を募集中です。既存町名は不可です。石川県河北郡の3町(高松・七塚・宇ノ気)でも、7月15日まで新市名を募集。こちらも既存町名は不可。
尾道市・御調町・向島町合併協議会へのリンクが変です。北魚沼郡町村合併促進協のHPにつながってしまいます。正しくは、
http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kouiki/index.html
あたりでしょうか。グリグリさん、訂正お願いします。
市名ではありませんが、引田・白鳥・大内町合併協では、東かがわ市の「市章」を募集しています。6月21日締め切りです。
「湘南市研究会」ですが、現在の研究会に正式な会員として加盟しているのは平塚市、藤沢市、寒川町、大磯町、二宮町ですね。茅ヶ崎市はオブザーバー参加です。(実際に合併するとなれば茅ヶ崎市も参加するのでしょうけど)
神戸を通過する度に思う事なのですが、神戸駅とは元々どんな駅だったのでしょうか?
路線区分上、東海道線と山陽線の境界駅でずばり市名を冠し、JTB時刻表に拠れば
県都神戸市の代表駅(これはJTBが固有に決めた事?)となって居ます。然し一方、
繁華街は三ノ宮界隈で特急停車もこちら。役所の最寄り駅は、市役所と中央区役所が
三ノ宮で県庁が元町。東海道線が神戸まで開通した時点で、三ノ宮駅も在ったろうし、
そう考えると、神戸駅の位置付けが良く判らないですね。
上記の市代表駅に限って云えば、岐阜県の各務原市も然り。千葉県の富津市の場合は、
富津地区の市街を考慮してか、上総湊から大貫に移った様子ですね。
>餅菓子の有名企業「岩塚製菓」の所在地
亀田製菓と云い、流石は米処・新潟ですね。岩塚と云えば、杜氏供給地として
有名な新潟県の中でも、取り分け有力地と聞いた事が在ります。東北とは一味
違った語感故に、出稼ぎ先の地元民と言葉が通じず、外国の人と間違えられた
逸話も在るとか。「高志」は、福井県立と新潟市立の高校名にも在りますね。
当初は向学心を意味する抽象名詞と思って居ました。(福井県立の方は創立時
福井二高を名乗りましたが、一高が藤島と改称した事に併せ、地元ゆかり風の
校名に改めたのかな。)
市町村の変更情報については随時更新していますので、新しい情報、誤りなどを指摘いただけると幸いです。江田島市、周南市についてはかなり雲行きが怪しくなってきていますね。
#姉崎・姉ヶ崎の件、以前姉ヶ崎駅を利用し姉崎神社に初詣に行っていた私としては興味津々でした。
[1757] 2002年 6月 6日(木)08:37:33 | オーナー グリグリ |
Re: 移転など |
>たけもとさんへ
[1746]
今治市の件、そうではないかと思っていました。(f^^;
こちらの確認が遅れたためですね。ごめんなさい。
菊川町の定形目的外の件、やっと分かりました。鈍くて済みません。更新しました。
香我美町、更新しました。
#ランキング不備の指摘遅ればせながらどうもです。
[1756] 2002年 6月 6日(木)00:24:02 | Issie さん |
渋谷村 |
> 群馬県万場町と中里村の合併の件のことですが、過去に村へ格下げられた町はありました。
> 神奈川県渋谷村(現・大和市)と長野県宮田村です。
この2つは単純な「格下げ」ではありません。
神奈川県渋谷村の場合,これは従来の「高座郡渋谷町」(1944.11.3 町制)が「昭和の大合併」に遭遇したとき,藤沢市への編入を是とする南部の長後・高倉地区と,北部のそれ以外の地区との意見が分かれた結果,一旦「渋谷町」を“解体”した上で南部は藤沢市に編入し,残った地区(福田・下和田・上和田)で「新規の自治体」を編成したものです。「町」としての要件を満たしていなかったので「村」となり,以前この地域に存在した自治体の名を採って「渋谷村」としたけれども,形式上は昔の「渋谷町」をチャラにし上で,「全然関係のない」新自治体が編成された,ということになるのです。
もちろん,現実には旧渋谷町の組織を引き継いでいるのでしょうが。
長野県の宮田村の場合,1954.1.1 に「町」になった後,同じ年の 7.1 に隣接1町2村と合体して「駒ヶ根市」となり,一旦“消滅”しています。その後,1956.9.30 に旧宮田町地域が駒ヶ根市から分離して,やはり「全く新しい自治体」として新「宮田村」が編成されています。
建前上ではやはり,旧・宮田町と現・宮田村とは「全く別の自治体」です。
何で再分離したときに「村」になったのか,役場のHPには書いてないんですけどね。
そのような観点からは,一旦「町」になった自治体が“そのまま”「村」になったり,一旦「市」になった自治体が“そのまま”「町」に還った例はありません。
相撲の横綱と同じ。一旦なってしまったら「格下げ」は現実の例としてはないのですね。
[1755] 2002年 6月 5日(水)22:42:44 | Issie さん |
チャーザァ |
>その南隣りに「千谷地区」
千谷 → 千谷沢 の間違いね。
[1754] 2002年 6月 5日(水)22:36:46【1】 | Issie さん |
コシ |
越後の古志郡が古代の「コシ」と同等かというと,そうではないでしょうね。
その昔の「伝説」では,神武天皇の子孫だなんて信じろというほうがはるかに無理な継体天皇が「コシ」の国から近江に入って天皇の位についたという,十中八九(十中十と言ってもいいぞ)“ウソ”に決まっている“ヨタ話”がありますが,この場合の「コシ」は疑いもなく,後の越前ですね。
(昔の皇国史観なんてバカの極みです。そんなものを本気で教科書に載っけて,子どもに教えようなんてバカな連中の頭が信じられない。だいたい,そんなフザケタ話を信じ込むほど,「素直なお子様たち」じゃないって。)
越後のようなド僻地など,当時のヤマトの脳天気な貴族連中の意識の中にあったかどうか。
きわめて漠然とした地理認識として,アラチの関を越えた「北狄」の世界が「コシ」だったのでしょう。
その後,だんだんと「コシ」の地域が狭められて,現在のように信濃川中流域右岸の地域に限定されたのでしょうね。
「チヤ」という地名は,越後のこの地域によく見られる地名ですね。
当然,「ヲヂヤ(小千谷)」も無関係ではないでしょうね。
>分割編入と云うと、信越線塚山駅の辺りかな。
地元の地区名は「塚野山」ですが,ここは「越路町」に合併される前は「三島郡岩塚村」でした。「ヨネックス」の発祥の地,知る人ぞ知る餅菓子の有名企業「岩塚製菓」の所在地,国民的大歌手の故・三波春夫さんの出身地ですね。
その南隣りに「千谷沢地区」が越路町と小国町にまたがって位置します。これが分割合併前の「刈羽郡千谷沢村」ですね。
標準語では「ちやざわ」が正しい発音なのかもしれませんが,地元の年配の人たちの「本当に正しい発音」はこん平師匠のように「チャーザァ」なのです。
[1753] 2002年 6月 5日(水)21:45:10 | たけもと さん |
古志 |
そういや昔こん平さんの故郷を地図で探してみつけてよろこんでたものです。(^^;)
>近接する「古志郡」や「山古志村」の「コシ」とは「越路」等の
>「コシ」と関連在りでしょうか?
そうですね。かつては北陸一帯は、「越」「高志」「古志」とよばれていました。
意味については「山や坂を越えて行く遠隔の地」という説が有力です。
この「越」の国が律令制になって越前、越中、越後の三国となったのはご存じのとおり。
[1752] 2002年 6月 5日(水)17:32:45 | ケン さん |
村へ格下げられた町 |
群馬県万場町と中里村の合併の件のことですが、過去に村へ格下げられた町はありました。
神奈川県渋谷村(現・大和市)と長野県宮田村です。
江津市と桜江町、豊後高田市と香々地町と真玉町は3万人に満たないため、編入(吸収)合併の可能性が大きいようです。
「千谷沢村」ですか。幾重にも谷が交錯して居ると云う意味かな。
小千谷市と何か関連が有りそうな地名ですね。小国町と越路町に
分割編入と云うと、信越線塚山駅の辺りかな。
近接する「古志郡」や「山古志村」の「コシ」とは「越路」等の
「コシ」と関連在りでしょうか?
[1750] 2002年 6月 5日(水)09:18:15 | miki さん |
千谷沢村 |
こん平さんの故郷「チャーザー村」ですか?
漢字で書くと「千谷沢村」です。
'57.7.5に小国町、越路町への分割編入で消滅しました。
>林家こん平が言うところの「チャーザァ村」です。
実在したのですか。在るとしたら新潟方面かな、程度の予想はして居ましたが。
山形県の小国町、ここは最上川ではなく荒川の水系ですね。庄内地方以外では
県内唯一の非最上川流域ですが、実際国道113号線を走って見た処、下流に在る
赤芝峡や荒川峡が結構な難所と思われ、それが山形県に属した理由でしょうか。
現在、経済的には明らかに新潟圏だそうです。
[1748] 2002年 6月 5日(水)05:58:35 | でるでる さん |
群馬県万場町・中里村 |
両町村の住民アンケートによる、新町名候補の上位5点
1、神流(かんな)町
2、万中(まんなか)町
3、神流川(かんながわ)町
4、奥多野(おくたの)町
5、多野(たの)町
この上位5点と、それぞれの平仮名読みを加えた10点を新町名候補として、再び全住民にアンケートを行い、それを基に決定とのことです。
ちなみに、万場町と中里村の人口は合計して約3,200人ほど。新設(対等)合併を予定しているのですが、このままでは新自治体が「町」になるには人口要件が満たせず「村」になってしまう為、群馬県の条例を変える必要があるとか。
[1747] 2002年 6月 4日(火)23:51:20 | たけもと さん |
姉崎 |
[1733]
>実は“明治の大合併”で「姉崎町」の前身である「鶴牧村」が発足したとき,この村
>に合併された中心村落は「姉ヶ崎村」とか「姉ヵ崎村」とか呼ばれていたようです。
>とすれば「あねがさき」としか読めない。
もともとは「あねさき」のはず・・。奈良・平安時代から「姉前神社」の名前は
文献(たとえば延喜式とか)にも載っています(姉前の名称は神話が由来)。
のちに、姉前→姉埼と変化し、いつしか、岬のように海に突き出ていたので、姉崎の
字があてられ、岬名にありがちな「○○がさき」の読み方が出現したのではないかと。
岬の名であれば「あねがさき」でもよいのでしょうが、由来からすると違和感があります。
誤用が定着してしまった例なのか、それとも・・。
[1745] 2002年 6月 4日(火)23:00:54 | たけもと さん |
鉄 |
JR東日本はいまでも「東日本旅客[金矢]道」ですよ。ださいことに。
近鉄も一時期そうしてましたが、子供が漢字の書き取りで間違えて困る、という
PTAの圧力(死語)によって元へ戻した経緯があります。
「金の王なる哉」は漢字遊び的には有名な話ですね。
[1743] 2002年 6月 4日(火)21:47:20 | なお[KN] さん |
日田郡と凄い増加 |
一応、僕は母の行った言葉と小国、南小国、上津江村、中津江村を出してみました。
後、中津江村、上津江村はその際熊本県に入るそうです。(2005.3に入ったら121万人割り確実です。)後、中津江村では、カメルーンチーム(1時間でつくので行きたかった。)がきたのですが、(1370人)推計だと1304人となっていますがこれを期に1400人~1500人に戻ってほしいです。タダシ県外の人の方が個人的にいい
後、大分市松岡校区では、4350人という人口のなかで一ヶ月でなんと70人も増えています。
人口推計
2月末 4217人
3月末 4301人 増加数84人 増加率1.99%
4月末 4352人 増加数51人 増加率1.17%
と増加率もたった一ヶ月だけでも1%以上増えています。2ヶ月では3.2%増えています。
一応パークプレース大分通り
(ビックアイが真ん中にある街)
に約2000世帯の建売住宅がありそれで恐らく4500人位増えると思います。
※なんとこの計算では人口9000人へこれで大分市も44万5000人に来年5月にもなって欲しいと願っています。
長いですけど読んで下さい。
[1742] 2002年 6月 4日(火)20:45:21 | Issie さん |
日田郡 |
負けなかったですね。歴史的な超大金星です。
(冷静にものを考えろ。「初めてリードを取った」チームだぞ。「初めて勝ち点を取った」チームだぞ。日本の実力は,まだまだその程度なんだ。トーナメントなんて出られたらそれだけで歴史的大勝利。期待だけはしましょうね。)
で,本題。
日田郡が大分県というのは,水系や今の県域で判断すると少し奇異に感じるのですが,要は日田郡が古代の律令時代以来「豊後」に属していたから,そうなっただけですね。
今の福岡県と大分県という区分からすると,筑後川上流域の日田郡が豊後,そして大分県というのは変です。でも,北九州市の小倉(←豊前国企救郡)と戸畑(←筑前国遠賀郡)の境界から始まる「筑豊国境」をたどっていくと,日田郡が豊後そして大分県に属しているのは自然に見えてきます。ちょうどこの線が九州にとって「南北の“正中線”」に相当するのですね。
日田盆地からは筑紫(つくし)の中心たる博多よりも,豊(とよ)の中心地域である瀬戸内海海沿岸の京都(みやこ)郡や宇佐地方に近いですね。ヤマトからのアプローチなら当然,瀬戸内に面したトヨ(京都郡周辺)やオホキタ(大分郡周辺)からヒタ(日田)に入ったことでしょう。
7世紀頃に,ヒタ地方が「トヨ」改め「豊後」に属したのは,そんなつながりがあるんじゃないかしら。
小国が肥後,というより「アソ(阿蘇)」に属するのは,よくわからないですね。ヤマトの影響下に入る前からアソの支配下にあったんでしょうか。
「小国」という地名は外に越後(新潟県)や出羽(山形県)にもあるのですが,肥後のそれも含めて,どれもが「をぐに」という地名のとおり,こじんまりした地域を構成しています。そして,時に応じて周辺地域に含まれたり含まれなかったり。
越後の小国の場合,現在は刈羽郡に属していますが,過去には魚沼郡に属したり,独立していたり。刈羽郡というのは本来,柏崎で日本海に注ぐ河川の水系を領域とするのだけれど,小国地方(小国町)は信濃川水系の渋海川の谷間であり,実際に(刈羽郡の)柏崎よりは(古志郡の)長岡との結びつきが強い。
出羽でも肥後でも,「小国」というのはちょっとまわりとは違ったまとまりを持ってきているのかもしれません。
ちなみに,ウチの母方の田舎は新潟県小国町。林家こん平が言うところの「チャーザァ村」です。
国鉄がJRになった頃,よく言ったものです。
「国が金を失って民営化された。」
製鉄会社が旧字体を使いたがるのは「金を失う」新字体よりも,「金の王かな(哉)」という鉄の誇らしさから,なんて話を聞いたことがありますね。
[1740] 2002年 6月 4日(火)12:44:32 | miki さん |
>1739 |
「鐵道」ですか?
真岡鐵道などもその字使っていましたね。
やっぱり雑魚さんの言う通り「金を失う」というのを嫌っていたのでしょうか?
>いずれも「誤差の範囲」内です。
地名はそれで良いとして、人名でも似た様な事が在ったんですよね。例えば
戸籍手続が現在より大雑把だった時代(戦後の混乱期?)に、近所の女性の
戸籍を代行申請した爺様が、窓口で名前を聞かれた際、正確には「はな」と
答える可き処、何時もの癖でうっかり「おはな」と云う呼称を言ってしまい、
それが正式に登録されてしまった・・・・・・と云う、笑い話の様な実話を聞いた
事が何度か在ります。正式な表記や読み方で間誤付くのは、やはり岐阜県の
各務原市かな。
>小国と南小国は何故大分県じゃなかったのかと不思議に思っています。
確かに。独特のカルデラ火口原を持つ阿蘇山界隈の地形は、結構複雑ですが、
小国や南小国は外輪山の外側、筑後川水系ですもんね。尤も、更に広域的に
見ると、下流の久留米方面に向けて平坦地が開ける日田の周辺が、大分県に
属する必然性とは? とも思ってしまいます。経済圏で云うと湯布院西部の
水分峠が境界ではないのかな。一方、熊本県の波野、産山両村が大分方面に
下る大野川水系に位置する事から、この一帯は単純に水系で線引きするのは
不適当な、何か経緯が在るのかも知れません。
ところで、廃止された国鉄宮原線の駅名にも在った小国町の「北里」ですが、
確か破傷風菌等の研究で功績を残した医学博士、北里柴三郎の出身地ですね。
庄屋だか名主だかの家系と記憶しますので、人名ゆかりの地名と思った処が、
近くには「西里」と云う地名も在る。うーん、どうなって居るのだろう?
>「新日本製鉄」ではなく「新日本製鐵」
国鉄の第三セクター移管が盛んだった頃、「鉄」の文字構成が「金を失う」と
読めるのを忌避して「○○鉄道」ではなく「○○鐵道」と表記した様な例が
在りましたね。「金+矢」と云う造字で物議を醸した例も。
ハジメマシテ。というのもおかしいですが、以前沖縄県の
消滅した市について投稿してますが、お名前を変更してみました。
まず、人名(苗字)が元になった地名の件ですが、北海道中央部
に位置する北村(岩見沢市の西隣)なんかがちょっと該当している
と思います。確か、開拓者の方が“北村姓”ということからそのま
んま北村という地名がついたと記憶してます・・・
同じような地名として、北海道十勝地方の池田町(ワインが有名
)も開拓者の方の姓から引用されたような記憶があります。(もし
かしたら思い違いかな・・・)
でも、開拓者の方の姓を地名として残っていれば名誉ある、誇ら
しい事と思えますね。
後、岐阜県山県郡の件の“岐山”の読みですが、あまり調べてい
ませんが岐阜県内に“岐山高等学校”があり読みも“ぎざん”と読
むと思います。このことからも岐山市(ぎざんし)ではないかと思
います。
「きやま」と読むのかな。「きざん」と読むのかな。
「岐山(きざん)」だと,織田信長がらみで語られている「岐阜」の由来伝説とかぶっちゃうなぁ。
信長が,このあたりを「周勃興の地」になぞらえたとは思えないが。
「山県」がらみのが多いですね。3町村が山県郡にあるからでしょうが、
「新」とか「美濃」がついているのもあるのは、山形県山形市と同音になるのを嫌ったからですね。
富自美市は埼玉県に富士見市があるので、これまた同音です(笑)
[1735] 2002年 6月 3日(月)22:06:15 | miki さん |
高富、美山、伊自良合併 |
これらが絞られた新市名10候補です。
・岐山市
・北岐阜市
・ぎふ山県市
・岐北市
・新山県市
・富自美市
・みの山県市
・美濃やまがた市
・美濃山県市
・山県市
[1734] 2002年 6月 3日(月)21:56:01 | たけもと さん |
トヨタ |
>人名は「豊田佐吉(とよださきち)」で会社は「トヨタ自動車」。
>これは一体どういう事なのでしょうか?
>...ちなみに豊田さんが創始したのは「豊田(とよだ)自動織機」ですが...。
私も気になったので昔調べたことがあります。
トヨタ自動車の当初は「トヨダ」でした。商標もロゴも。
昭和11年から「トヨタ」を使い始めるのですが、その理由として、
1.濁音の「トヨダ」より清音の「トヨタ」の方が語感が良い。
2.「トヨダ」は10画で縁起が悪い(字画判断では0は凶数です)ので「トヨタ」で末広がりの8画にした。
3.新聞広告を掲載した際、濁点が落ちて「トヨタ」となってしまい、そのまま通した。
と諸説あります。というか、3つとも正解の可能性もあるか(^^;)。
さすがに広報室には聞いていませんが。
[1733] 2002年 6月 3日(月)19:01:47 | Issie さん |
姉崎/姉ヶ崎 |
>福島県原町(はらまち)市の常磐線原ノ町駅
よく「国鉄」の方が間違っている,という話になるのですが,必ずしも単純な話ではないようです。
千葉県市原市の「姉崎」。
地元の地名は「姉崎:あねさき」(東電の発電所も「あねさき発電所」ですね)なのに,国鉄(JR)の駅名は「姉ヶ崎:あねがさき」。
「姉ヶ崎:あねがさき」は間違いだ,と思いきや…
確かに現在の地元の地名は「姉崎:あねさき」です。八幡町や五井町などと合併して市原市になる前の自治体名が「姉崎(あねさき)町」なのですね。
では,「姉崎:あねさき」が正しいのか,というと…
実は“明治の大合併”で「姉崎町」の前身である「鶴牧村」が発足したとき,この村に合併された中心村落は「姉ヶ崎村」とか「姉ヵ崎村」とか呼ばれていたようです。とすれば「あねがさき」としか読めない。
ということは,今度は合併後の新町名である「姉崎:あねさき」の方が怪しくなってくる。
やっぱり,どちらも「誤差の範囲」なのでしょう。
>発音は同一で表記が異なる
東京には「四ッ谷/四谷」という例がありますね。「御茶ノ水/お茶の水」というのも。国鉄(JR)と地下鉄とで表記が違うことも少なくない。
個々の地名の実例は措いといて,一般論として言えば「ッ」とか「ヶ」とか「ノ」というのは本来,漢字の読み下しのための「助字」ですね。本来の漢字文では表記しない。必要に応じて書かれたり,書かれなかったりするようなものであって,別にあってもなくても間違いではない。
やはり「誤差の範囲」内のバリエーションに過ぎない。
そのバリエーションの中から国鉄は「四ッ谷」を選び,東京市や営団地下鉄は「四谷」を選んだ,というだけのことでしょう。
[1732] 2002年 6月 3日(月)19:00:58 | Issie さん |
とよだ/トヨタ |
>「とよた」と「とよだ」の様に、発音が濁るか否かの差異は、確証は無いけれど
>良く在る転訛例ではないのかな。
一般論としてはそうですね。
他にも“旧かな”で「は行」に表記したものを「は行」で読むか,「わ行」で読むか(八幡は「やわた」?「やはた」?)とか,“つ”を大きいまま「つ」と発音するか,小さい“っ”,つまり“つまって”発音するか,などなど。
いずれも「誤差の範囲」内です。
こんなことをいちいち気にしてこだわるようになったのは最近なのです。基本的に発音どおりに表記する「現代仮名づかい」と,字体の些細な違いでいちいちバツを喰らった「当用漢字字体表」に基づく漢字教育のせいかな。
本当はこんなことにこだわる必要はないだろうと,というのが私の考えです。共有財産である地名の運用には,もっともっと“大らか”である方がいいな。
ところで,私は「現代仮名づかい」と「常用漢字」による現代表記を基本的に支持しています。
ただし,「トヨタ」の場合は“わざと”そうしているのかもしれませんね。
「キャノン」ではなく「キヤノン」,「新日本製鉄」ではなく「新日本製鐵」。
企業名などは(場合により自治体名も)標準的な表記ではなく,あえて特異な表記を採用することも多いようです。
だいぶ前ですが、「松浦武四郎」の件にお答えをいただきまして、ありがとうございました。
北海道の都市では、市街地は「○条○丁目」という場合が多いですね。
かくいう我が岩見沢市も1~13条まであります。
これが当たり前だと思っていましたが、実際は違うんですね。
と言うことは、北海道の人間は「内地」では迷いやすいのでは?
連続投稿すみません。
メールアドレスはnaoki115@wsn.com
ではなくてnaoki115@msn.comです。
>でるでるさん
でも、今そうすると、僕の孫など、2050年ごろ(一応12歳なので)に生まれた子達は本当のことを知れなくなります。(ここの意見を採用する市などもめったにないのですが)
※否定じゃなくて僕の考えを言っていますので誤解しないで下さい。
宇佐市郡の合併協議会のHPが出来たのですか?
後、県境を越えて大分県中津江村、上津江村 熊本県小国町、南小国町の合併運動が始まったみたいです。
そうすると、日田市、天瀬町、大山町、前津江村はどうなるのでしょうか?
後、僕の母も小国と南小国は何故大分県じゃなかったのかと不思議に思っています。
後、あの地域は福岡、熊本、大分の各方言と違っています。(阿蘇まで行くと熊本ですが)文化もです。
これも含めると31市町村となります。
後、都道府県合併は2005年三月以降です。
宇佐のほうで昭和35年に合併していたら8万7500人でした。
(今は62000人です。)
後、速見のほうはもう、合併協議会のHPは準備が終わり5/16から、運営を開始しました。
しかし、まだ将来推計がありません。
[1728] 2002年 6月 3日(月)14:54:56 | miki さん |
すみませんが...。 |
[1726]は間違いで、正しくは
[1727]の方です。
この場を借りて謝ります。
どうもすみませんでした...。
「とよた」と「とよだ」の様に、発音が濁るか否かの差異は、確証は無いけれど
良く在る転訛例ではないのかな。北海道の旭川駅も、一時期は「あさひがわ」と
発音したらしいですし。
駅名と自治体名の微妙な差異と云うと、先ず福島県原町(はらまち)市の常磐線
原ノ町駅が想起されます。発音は同一で表記が異なる例としては、奥羽線鷹ノ巣、
東北線一ノ関、奥羽線上ノ山(現かみのやま温泉)・・・・探せば未だ未だ有りそう。
豊田の旧称は挙母と聞きましたが、あの辺り、豊橋、豊川、豊明と「豊」の字が
多いのは単なる偶然でしょうか?(熊本県北部だと「菊」が多いですね。)
[1723] 2002年 6月 3日(月)09:13:56 | miki さん |
「とよた」と「とよだ」 |
人名は「豊田佐吉(とよださきち)」で会社は「トヨタ自動車」。
これは一体どういう事なのでしょうか?
...ちなみに豊田さんが創始したのは「豊田(とよだ)自動織機」ですが...。
[1722] 2002年 6月 3日(月)06:37:36 | オーナー グリグリ |
Re:緊急告知 |
>KNさんへ
ランキングと検索(記事検索)を正しく動作するように修正しました。
#原因は最新記事の位置を表すHTMLファイル上のコメント形式をいじったためでした
すばやい指摘どうもありがとうございました。
[1721] 2002年 6月 3日(月)03:33:45 | でるでる さん |
合併協議会のHPです |
[1720] 2002年 6月 3日(月)02:52:58 | でるでる さん |
遅ればせながら。 |
[1617]>新田義貞は鎌倉末から南北朝最初期の人ですね
そうでしたね。Issieさんのご指摘の通りです。
更に、詳細な解説までして頂き、遅くなりましたが有難う御座いました。
Issieさんを始め、雑魚さん、たけもとさん等の熱きトーク?は、毎度興味深く読んでおります。それにしても、皆さんの博学ぶりはさすがですね。
また、
[1621]>「豊田市」というのは「豊田○○」という個人名ではなく、
>「トヨタ」という自動車会社の名前をとったと考えるべき。
>人名ではなくて、企業名による地名とするべきです。
なるほど。また同じ愛知県の東海市は、1969(昭和44)上野町・横須賀町の合併の際に、公募にによって選ばれた市名ですが、その選定理由が「東海地方を代表するようなスケールの大きさと、全国的な知名度から、中部圏の中心となるに相応しい」からとのこと。
なのに、東海市内の東海町(とうかいまち)は、地先に誘致された東海製鉄(現在の新日鉄)の社名にちなんだ地名だそうです。
同じ自治体内の同字地名でこれだから、全国的ではこれまた然り。しかも当て字まであるんですから、地名って本当に奥が深いですね。
[1719] 2002年 6月 2日(日)23:44:50 | たけもと さん |
三条/五條 |
>三条市のHPによると,三条の基礎を築いた人の愛称「三条左衛門」にちなむ
>地名だということのようですが,どんな基礎を築いたかは書いてないんですね。
宮様について京都の三条から入植したといわれている人物ですよね。
槻田村に城を築き、人々を治めた、と。この地がのちに三条と呼ばれるようになると。
>五條市についても,ちょっと留保しておいたほうがいいような気が。
>あのあたり条里制が布けるほど広くないですね。「五条」まで行くんだろうか。
>確認が必要ですねぇ。
井上内親王の呪い、で有名な御霊(ごりょう)神社の転訛語ともいわれてますね。
三条市のHPによると,三条の基礎を築いた人の愛称「三条左衛門」にちなむ地名だということのようですが,どんな基礎を築いたかは書いてないんですね。
五條市についても,ちょっと留保しておいたほうがいいような気が。
あのあたり条里制が布けるほど広くないですね。「五条」まで行くんだろうか。
確認が必要ですねぇ。
[1717] 2002年 6月 2日(日)20:21:06 | miki さん |
条について |
奈良県五條市は間違いなく条里制から来たものみたいですね。
では、新潟県三条市などはどうなのでしょうか?
なお、大阪府四條畷市は神社の名前から来ていますが...。
ランキングと検索のほうがログの位置を動かしたせいか内容が消滅してしまいました。
これはすぐさま応急処置を行なったほうがいいのではないでしょうか・
後、大分市にも街路に条の名前が一部にあります。
後、タイトルを投稿する際には十分に気をつけてください。
(それで300文字の入力が3回もパーになったことがあります。
>札幌や旭川の街区で「条」を使うのも、その発想の延長でしょうか?
むしろ,これは律令時代の条里制に近い発想なのではないかと思います。
対象区域を東西・南北軸の碁盤の目に区切って,南北軸の座標を「条」,東西軸の座標を「里」というシステム。東西座標の方は後の時代に呼称が変わってしまいますが,南北座標の「条」の方は京都(平安京)や奈良(平城京)で健在ですね。
条里制は都の区域だけでなく各地で実施されていますから,これによる「一条」「二条」…という地名は各地に残っています。この区画に基づいて班田収受が行われる決まりになっていたのです。
そして,条里制に基づく耕地の最小の区画の呼称が「坪」。これも「一ノ坪」(「市野坪」と表記されることも)などの形で残っています。
明治期に建設された札幌や旭川のような北海道の開拓都市の場合,古代の条里制に直結するわけではないけれど(恐らく,碁盤の目の地割は,条里制よりもアメリカ合衆国の制度をお手本にしたものだと思います),基本的な発想は同じですね。
ここでは「条・丁目制」。南北座標が「条」なのは同じだけど,東西座標は「丁目」になっていますね。
「条・丁目」で座標表示するのは市街地。農業開拓地については「号・線」という呼称で座標表示をするという習慣になっています。
蛇足:
もともと日本語には疑問符(?)や感嘆符(!)を使う習慣はありません。正式な文章では使用しないものです。新聞も本文では基本的に使っていないでしょ。
使うか使わないかは,その人の好みによるものです。要は,疑問文であるかどうかが伝わりさえすればいいのだから。
ちなみに私は「基本的に使わない派」です。
[1714] 2002年 6月 2日(日)18:37:10 | たけもと さん |
移転など |
>>単純に中世の荘園が分割されたときに,その“北部分”を「北条」と呼んだだけです。
札幌や旭川の街区で「条」を使うのも、その発想の延長でしょうか?
[1712] 2002年 6月 2日(日)15:31:39 | miki さん |
>1709 |
兵庫県...阿閇(あえ)村('62.4.1に播磨町に昇格)
香川県...財田村('70.2.15に財田町に昇格)
P.S.
質問の際には「?」を使った方がいいのではないでしょうか?
>タイトルを入れなかった場合は警告メッセージが出て書き込めないはずです。
はい。それで「戻る」で書込みフォームに戻ると、文章が消えて居て、多少
長目の「力作」(?)を入力しようとした場合など、最初からやり直しと云う
事が在りまして、何処かで送信し損ねた文章がバックアップされないのかなと
思った次第です。
[1710] 2002年 6月 2日(日)12:57:55 | kojokada さん |
掲示板投稿者への御礼 |
毎度ご無沙汰しています。
私が貴殿の掲示板に初めて投稿しておよそ一週間余り経ちました。
この間私の投稿について、多くの方々から色々とアドバイスや提言をくださいまして
誠に有難うございます。
私の述べた市外局番に関する内容に関して、他の方々からも様々な意見を寄せられて
いますね。久しぶりに拝見いたしましたところ、考えていることが皆同じなんだ、と
いうことを改めて実感しました。
また楽しく、陽気に書き込んでいきたいと思っています。
まずは、近況から。
[1709] 2002年 6月 2日(日)10:07:42 | ケン さん |
兵庫県と香川県の最後の村 |
兵庫県と香川県は一つも村がありませんが、どこが一番最後の村だったのですか。
[1708] 2002年 6月 2日(日)07:28:02 | オーナー グリグリ |
書き込みの修正などのルール他 |
>雑魚さんへ
> ところでグリグリ様に質問なのですが、投稿フォームの送信に際し、うっかり
> タイトルを付し忘れた場合、長文気味だと少々哀しく思える事が在るのですが、
> これはシステム上、如何ともし難い事でしょうか?
タイトルを入れなかった場合は警告メッセージが出て書き込めないはずです。
書き込みの修正についてですが、書込者ご本人からの依頼による書き込み全文削除は受け付けます。メールでご相談ください。また、文字化けなどあまりにも見苦しい書き込みの場合には、直接修正することも考えますのでメールでご相談ください。なお、同一書き込みの連続などはオーナー判断で削除しています。
>KNさんへ
[1677]の書き込みで半角カタカナの文字を使用されていますが、文字化けの原因になります。使用されないようお願いします。半角カタカナはメールやWebなどインターネットでの世界での利用は避けた方が賢明です(ネチケットの基本項目の一つです)。よろしくお願いします。
[1600] ~
[1699] の項目追加しました。ついでにレイアウトも見直しました。まだ自動化してませんので次回も間に合わないかもしれません。まぁ、のんびりやりましょう。よろしくです。
[1707] 2002年 6月 1日(土)18:51:54 | たけもと さん |
北条 |
[1697]
> また戦国大名といえば岡山県の井原鉄道の駅にも戦国大名、北条早雲の生誕地にちなみ
>「早雲の里荏原」という駅名がありますが、北条早雲が流浪の末に小田原の領主に
>なったのは知っていたのですが、まさか岡山の出身とは知りませんでした。
一般に後北条氏と呼ばれる北条早雲一族ですが、早雲はもとは伊勢新九郎長氏といって
鎌倉北条氏とは関係無く、伊勢氏であることまでは分かっています。
じゃあその伊勢新九郎長氏が関東に出てくるまでなにをしていたのか。
これには諸説があって、よくわかっていません。
一説に、伊勢から伊勢行長という人物が備中国後月郡荏原村に入部し、
その子孫である長氏が地元を離れ諸国を流浪し、駿河の今川氏に仕え、
のちに勢力を拡大して伊豆を領した云々・・という話が伝わっています。
この岡山の伊勢氏というのは伊勢平氏の一族だそうですが、伊勢新九郎長氏が
ここの出身であるという確証は極めて薄いとされています。
まあ、ようは
>こういう「謂われの地」のというのは得てして地元の人間を巻き込んだバトルに
>発展するので、白黒つけずにそっとしておきましょう(^^;;)。
ということですね。
[1706] 2002年 6月 1日(土)18:45:37 | Issie さん |
間違い |
小早川秀秋は,関ヶ原後,名島から岡山に移されたんですね。
宇喜多秀家の旧領をもらって,一躍51万石。
120万石から36万石に減らされた毛利本家とはエライ違いだ。
そういえば,みなもと太郎の「風雲児たち」で,自分の領地に「裏切り者」の小早川がやってくると聞いて怒り狂う宇喜多秀家,って場面がありました。
[1705] 2002年 6月 1日(土)18:38:15 | Issie さん |
徳山藩 |
> 徳山も毛利氏の城下町だったそうですね。
江戸時代,徳山には萩の毛利本家の分家の1つが配置されていました。
同じく長門府中(長府:下関市)にも分家が配置され,さらにその分家が清末(下関市)に配置されていました。
これらは萩の本家の支配下でありながら,幕府から「独立の大名」扱いをされていたものです。名字は違うけど岩国の吉川家も萩・本家の分家扱いでした。実際,一族ですからね。
でも,小早川秀秋は関ヶ原の戦後,毛利氏とは完全に独立した大名として筑前名島(後の福岡藩の前身となります)に萩とほとんどかわらない30万石余りをもらっているんですよね。関ヶ原の「功績」があるし,もともと秀吉に押し込まれた,毛利氏とは血縁のない人物だからかな。ま,すぐに亡くなって,藩はつぶされちゃうんですけどね。
明治維新の後,全国のほかの大名家の「支藩」と同様,徳山藩も長門府中藩も清末藩も完全に独立した藩とされ,明治2(1869)年の版籍奉還のときにそれぞれの当主が山口の本家と同様に「知藩事」に任命されました。
このとき,ついでに長門府中藩は「豊浦藩」と改称されました。そこらじゅうに「府中藩」があったからです。同様に,駿河府中藩は「静岡藩」,常陸府中藩は「石岡藩」と改称されています。丹後田辺藩が「舞鶴藩」となったのも,紀州の「田辺藩」との同名回避です。
だから,「舞鶴」という地名には全然由緒がないんですね。
[1704] 2002年 6月 1日(土)18:31:33 | たけもと さん |
毛利 |
>>毛利氏が安芸の戦国大名だと知らない人も多いのではないかな。
>私は毛利氏の沿革に付いては不勉強なのですが、数年前のNHK大河ドラマの手前、
>厳島神社に象徴される安芸国=毛利氏と云う図式の印象は、強いのではないかなと
>感じて居ました。
いやあ、いくらなんでも「毛利」における安芸の印象が萩以下ということは
無いと思いますが・・。
私も毛利といえば安芸の戦国大名です。
というよりも山口や萩は幕末の長州藩の印象はあるにせよ、
毛利という大名家の印象は非常に薄いです。
もっとも私は一時期神奈川県厚木市の近くに住んでいたことがあるので
相模国愛甲郡毛利庄のイメージが実は一番強いのですが。(^^;)
>他方、何時頃の話か、徳山も毛利氏の城下町だったそうですね。
本家萩から寛永年間に下松4万5千石を分知された後、徳山へ居所を移し、
途中空白期間がありましたが、明治まで藩はありました。
たしか最後の藩主は戊辰戦争で指揮をとったはず・・。
長府、清末も毛利の城下町(といっても城はない)でした。
> また戦国大名といえば岡山県の井原鉄道の駅にも戦国大名、北条早雲の生誕地にちなみ
> 「早雲の里荏原」という駅名がありますが、北条早雲が流浪の末に小田原の領主に
> なったのは知っていたのですが、まさか岡山の出身とは知りませんでした。
どんなものなんでしょうね。
北条早雲は,美濃の斎藤道三とならぶ「出自不明」の戦国大名ですからね(もっとも,斎藤道三は最近の研究では親子2代の話を1代の「国盗り物語」にしたらしい,という説が強いようです)。
実は北条早雲自身は「北条」という名字を名乗っていないのですよね。彼が名乗った名字は「伊勢」。室町幕府の「書記官長」みたいな役割を担当していた一族の名字です。
「北条」というのは彼の後継者たちが,相模の大名にふさわしく,かつての鎌倉幕府の執権・北条氏にならって勝手に名乗ったものです。「出自不明」の後ろめたさに,ハクづけのために関東の名族の名字を名乗ったのですかね。もともとは伊豆の田舎武士なんですけどね。
そんなわけで,戦国時代の(後)北条氏と鎌倉時代の執権・北条氏は全く関係がありません。
> 愛媛県北条市や鳥取県北条町或いは兵庫県加西市の中心を成す北条町は関係無いのかな?
もともと「北条」というのは,そこらじゅうにある,それ自体には何の由緒もない地名です。
単純に中世の荘園が分割されたときに,その“北部分”を「北条」と呼んだだけです。
「西条」「東条」「南条」も同じ。「上条」「中条」「下条」という分け方もありますね。
「北条」には“音”で「ほうじょう」または「ほくじょう」と読む地方と,“訓”で「きたじょう」と読む地方とがあります。ほかの「西」「東」「南」「上」「中」「下」も同様。
執権北条氏の場合は,伊豆の穀倉地帯である狩野川沿い(田方郡)の荘園の管理人をしていて,その北部の呼称である「北条」を名字にしたんでしょうね。
戦国時代の後北条氏がそれを僭称したのは先述のとおり。
てなわけで,意味は同じなんでしょうが,伊予の北条も,伯耆の北条も,播磨の北条も,北条早雲とは何の関係もないでしょう。全く。全然。
[1702] 2002年 6月 1日(土)17:37:38 | miki さん |
>1645 |
さぬき市。
あれは仕様がありませんね。
「讃」が常用漢字ではなかったですし。
それにひらがなの方がみんなに分かりやすかった...「讃岐市」だと読みにくいですからね。
東かがわ市の場合は「東香川」でも分かりますが、少し平凡だと思って「東かがわ」にしたのでしょう。
また100回ぶりに
[1501]~
[1599]のページがありません。
後、周南合併協議会の新しいホームページはどこですか?
誰か調べてください。
後この前、雑魚さんのことで、話題になってたみたいですが?
[1700] 2002年 6月 1日(土)17:26:38 | miki さん |
そういえば...。 |
そういえば、周南市の市名を決める時「毛利市」という候補も出ていましたね...。
P.S.
>1697
私も「毛利元就」見ていましたよ。地元という事で。
今までのお硬い大河ドラマとは感じが違っていましたね。