明治25年(1892)の「鉄道敷設法」で、国による一元管理の基本方針が打ち出された後も、私鉄優位の現実は動きませんでした。
官設鉄道の営業キロ数は、1890年の 886kmから1900年には 1206kmに増加しますが、同じ期間に、私鉄は 1365km → 4674km と、はるかに上回る勢いで増え続けます。
このような状況に大きな影響を与えたのが明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争です。
動員された兵士は、当時広島まで開通していた鉄道によって運ばれ、宇品港から海外派兵されました。
東京を例にとり鉄道輸送の実務を考えると、千駄ヶ谷駅付近の青山練兵場から新宿までは甲武鉄道、そこで反転した山手線は日本鉄道、品川から神戸までは官設鉄道、神戸から先は広島まで山陽鉄道という具合です。
品川・横浜のスイッチバック
[49808]こそ解消されていたものの、列車の編成・運行ダイヤ・乗務員手配・費用清算・機密保持などで複数会社にまたがる処理の複雑さに悩まされました。
日露戦争中から行なわれた鉄道国有化のための調査の結論は、その趣旨として「運輸の疎通」、「運賃の低減」、「設備の整斉」の3項目を挙げており、これに基づいて戦後の明治39年(1906)3月の帝国議会に鉄道国有法案が提出されました。
新聞記事によると、原案は 17社買収 だったものが、提出直前に 32社 に改められたとか。
既に記したとおり、貴族院の修正で 15社 が削除されて 17社 に戻り、南海鉄道は買収を免れました。
南海鉄道を含む 15社が買収を免れた理由を一番単純に考えれば、
鉄道国有法
第一条 一般運送ノ用ニ供スル鉄道ハ総テ国ノ所有トス但シ一地方ノ交通ヲ目的トスル鉄道ハ此ノ限ニ在ラス
の第一条但し書きによる除外というのがその答えになります。
しかし、買収対象になった 17社 中の 7社 (房総、参宮、七尾、甲武、京都、徳島、西成)は、南海線よりも短距離です。
距離こそ南海よりも長いが、岩越(福島県)、北越(新潟県)、総武(千葉県)は“県内鉄道”。
どうも線引きが不透明です。
短距離または県内であっても、幹線網の一部として買収対象に含まれるのが妥当な鉄道もあります。
中央線の一部である甲武鉄道(御茶ノ水-八王子)、山陰線の一部である京都鉄道(京都-園部)。
まだ「日本海縦貫線」という概念がなかった当時でも、信越線の一部たるべき北越鉄道(直江津-新潟)。
ところが、買収対象線の中で不思議の極致は、西成鉄道(大阪-天保山)です。
僅か7kmのミニ路線ながら、身分不相応な全国幹線ネットワークに入れてもらったのは、瀬戸内海航路への連絡鉄道という視点を強調したロビー活動の成果でしょうか?
“入れてもらった”と書いたのは、この西成鉄道は、営業成績が低迷していたからです。
株価が額面を大幅に割り込んだ状況を考えると、建設費をほぼ回収できる金額で買収してもらえることは大歓迎。
# 西成鉄道も西成区と同様に大阪府西成郡に由来する名前でしょうが、ずいぶん違う場所で「西成」という地名が使われるのには、いささか違和感がありました。現在は線名も桜島線(JRゆめ咲線)になっていますが。
法的には、私鉄条例による買い上げ権が 25年後(日本鉄道だけは特許条約により 50年後)であるという問題もあったようですが、日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道と大手が大勢に従う姿勢をとったために、鉄道国有化は実現することになりました。
17社の買収路線延長合計は 約4550km(資料により相違あり)。
国鉄(1907年4月帝国鉄道庁発足)と私鉄との市場シェアは逆転しました。
買収価格の総額は4億6737万円。うち大手の5社が4億円近くを占めます。1899年頃に論議されていた2億円に比べて、だいぶ高くなっています。
大阪-名古屋間で激烈な乗客獲得合戦を演じて官鉄に対抗した関西鉄道は、国有化に反対の立場で、最初に書いたように法律成立後1年半も抵抗したのですが、結局は屈しました。
関西鉄道の買収によって和歌山線が国有化されたことにより、首都と和歌山県庁所在地との間を国有鉄道で結ぶ形は整ったわけです。
[53947] じゃごたろさん によると、
明治の国道は交通というよりも、東京からの指令等を各都道府県に達するための径路的なものでありますけど。。。
だそうですから、鉄道の場合にも同じ考え方があったとすると、奈良経由でも国有鉄道線路がつながればよかったのかもしれず、このことが“買収を免れた南海鉄道”にも有利に作用した可能性があります。
一部修正すると共にタイトルも改めました。