戸籍制度における「住所」(本籍地や寄留地)の表示として、戸籍行政を取り扱う組織が設定した区画である「府県」や「大区小区」(明治11年以降には「郡区町村」)が使われたのは、当然のことと言えるでしょう。
[62886]参照
そして、この「住所表示」は、出版届制度においても適用されていたことがわかりました。
[62881]
しかし「住所表示」を離れると、一般的に広域の「地名」を指示する「国」は、ずっと後まで健在でした。
郡区町村編制にあたり、新設された郡区の位置を示すのに使われた
[62795]のは勿論のことですが、 郡制施行時には 埼玉県下国界変更及郡廃置法律(明治29年)など
[59173]を制定して、わざわざ「国」の領域を「県の管轄区域」にマッチさせる努力までしています。
例えば次のような表現はずっと後の時代まで使われました。
“福岡県の管轄区域:筑前国1市9郡・筑後国1市6郡・豊前国2市4郡”
(大正元年10月現在)
戦時中に学習した「初等科地理」巻末表の記載も“福岡県:筑前国の全部、筑後国の全部、豊前国の一部”という形式であったと記憶します。
しかし これは「建前」としては広域地名として「国」が用いられた という話で、現実には鉄道
[61378]によって密接に結ばれた炭田地域は、田川(豊前国)も直方・飯塚(筑前国)も共に「福岡県」に形成された「筑豊」という新たな経済地域として認識されるようになってきたものと思われます。
同様に、豊前国企救郡にあった門司・小倉と、筑前国遠賀郡にあった若松・八幡・戸畑などは、「北九州工業地帯」を形成し、ここでも豊前と筑前との「国境」意識を遠ざけました。
結局のところ、現在の福岡県は、北九州・筑豊・福岡・筑後の4地域圏に大別されているようで、「筑後」だけが「国」の名残を留めています。
もちろん、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
[47061]と、異なる自然条件を実感させる「国境」もあります。
参考までに、
「国」という区画の歴史と現状に関する記事 を集めてみました。
行政的には1都2県に分断され、広域的には相模や下総も含む首都圏の一部になって、地域としてのまとまりを表すのに適当な区域でなくなった「武蔵国」。
筑豊や北九州という新たな経済ブロックの形成により福岡県内での地域区分としての価値を失った「筑前国」。
その反面、「加賀」「能登」「若狭」のように現代に生き続ける国もあります
[59238]。
「日常に残る旧国名」に関しては地域的な温度差があるということで、一概に広域地名の「国」が「府県」に変ったという言い方は正しくないようです。
しかし その一方で、始めは「行政組織」だった「府県」が、「住所に用いられる行政区画」を経て、独立した「広域地名」としての地位を確立してきたことは、まぎれもない事実であると感じられます。
「府県の地名化」について考えると、郡区町村編制によって確立した「府県 + 郡区 + 町村 + 町字 + 番地」(明治22年以降は区に代って市)という「住所表示」が影響していることは確かでしょう。
郵便の宛先として「住所」を記すことも、「府県の地名化」の促進に一役買っていると思われます。
しかし、府県が「独立の地名」になった決定打は、「府県の性格」の変化にあったと私は考えたいのです。
それを制度面で裏付けるのが明治32年の改正府県制です。
この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか。