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落書き帳

国立公文書館

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[74207] 2010年 2月 23日(火)16:58:51hmt さん
「初代政令指定都市」
[74182] むっくんさん の記事に、昭和22年制定当時の地方自治法がリンクされていました。
そこで、[72887] じゃごたろ さん の記事を読んだ時に気になっていたことを調べてみました。
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第百五十五條第二項に規定する市

pdfファイル の 50コマを見ると、第1項は現行法とほぼ同じで、第2項は次のようになっていました。なお、第4項は現行法第2項とほぼ同じです。
政令で指定する市は、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例でその区域を分けて区を設け、区の事務所を置くものとする。

この種の資料は 国立公文書館 のデジタルアーカイブ・システムに集録されているようなので、「地方自治法第百五十五條第二項」をキーワードとして検索してみると、すぐに該当する政令が見つかりました。

地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令(昭和22年政令第17号)
地方自治法第百五十五条第二項の市を左の通り指定する。
京都市 大阪市 横浜市 神戸市 名古屋市
附則
この政令は、公布の日から、これを施行する。
明治44年勅令第239号は廃止する。

末尾に添付された手書き文書には、「理由」と題して、次のように記されていました。
地方自治法の施行に伴い、従前の市制第六条及び第八十二条第一項の規定により指定せられた市を地方自治法第百五十五条第二項の市に指定する必要があるからである。

五大都市の根拠になっていた法律「市制」【勅令市・省令市に関する条文は[72201]にあります】が廃止されるので、地方自治法とこの政令により穴埋めをしたわけです。五大都市の序列は、戦前の公式配列とされた三府五港…順[34038] でしょうか。

今更言うまでもないことですが、現在の「政令指定都市」は、昭和31年法律第147号による改正で設けられた 地方自治法第二編第十二章第一節【大都市に関する特例】 に基づくものです。
「特別市」[369][370] になれなかった初代政令指定都市とは別物です。

同じ「政令指定都市」であっても、現在は、
地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令(昭和31年政令第245号)
という名の、全く別の政令で指定されています。いわば「二代目政令指定都市」です。

最初に指定されたのが五大都市であることは、初代と変りないのですが、順序が異なっています。名古屋市が二位に躍進。
大阪市 名古屋市 京都市 横浜市 神戸市

なお、「五大都市行政監督ニ関スル法律」(元は六大都市…[53841])も、昭和31年法改正を受けて廃止されました。

昭和31年の政令には、昭和38年の北九州市、昭和46年の札幌市・川崎市・福岡市から、平成20年の岡山市[66973]、平成21年の相模原市[72498]に至るまで追加指定改正が積み重ねられて、本年4月には19都市なること、ご承知の通りです。
東京を加えれば遂に「20大都市」というインフレ状態になるのですね。

この記事を書く作業を通じて、国立公文書館デジタルアーカイブ・システムの検索により、多くの法令にアクセスできることを実感しました。

それは良いのですが、検索→閲覧では、画面にあるURLボタンが有効になっていません。
[74182] むっくんさん の記事で使われたURLを得る方法を教えていただきたいと思います。
[74211] 2010年 2月 23日(火)23:37:55hmt さん
Re:国立公文書館デジタルアーカイブ・システム
[74209] oki さん
早速のご教示ありがとうございます。
教えていただいたように、「PDF」ボタン>右クリックによるポップアップメニューにより、「リンクアドレスをコピー」を選ぶことができました。

ご質問のあったデジタルギャラリーの「天保国絵図」の件。
IE環境で JPEG2000版の国絵図が 正常に閲覧できています。
[80065] 2012年 1月 10日(火)23:35:17【1】hmt さん
東京横浜間鉄道?
[79961] 芝浦の新駅の記事を読み返してみると、“大先輩の「東京横浜間鉄道」”と書いています。
これまで私の頭の中にあったのは、「駅間」を使った「新橋横浜間鉄道」という路線名です。
例えば国立公文書館デジタルアーカイブに 新橋横濱之間鉄道之圖 があります。

リンク先の6年前の記事[49808]により、“首都と開港場とを結ぶ「東京横浜間鉄道」”からのコピペと判明。
引用した明治天皇の勅語にも“東京横浜間ノ鉄道”とあります。
考えてみれば、この鉄道を「都市間鉄道」とするのは正しい認識であり、「東京横浜間鉄道」という表記は、単純な誤記であると片付けられないように感じられます。
そこで、路線名を少し詮索してみました。

改めて調べてみると、明治天皇の御案内役を勤めた 山尾庸三の伝記 に 鉄道開業当時の詳細な経過が記されていました。
これによると、引用した勅語は 横浜ではなく、新橋に戻った後に 東京で行なわれた開通式典で発せられたとあります。
ともかくも、勅語の中に「東京横浜間の鉄道」とあるのは確かなようです。

山尾は鉄道掛を所管する工部省の少輔(次官補?)ですが、この役所では何と呼んでいたのか?
明治5年9月3日工部省無号布達 の「汽車運転之時限並賃金表」には、横浜・神奈川・鶴見・川崎・品川・新橋と6駅が記されていますが、路線名を直接に見出すことができませんでした。
開業当時は、他の路線と区別する必要がないので、路線名なしで当然かもしれません。

しかし、時刻表の下には次のように「駅間」でなく「都市間」で区間を表記した文があります。
九月十日より旅客の列車此表に示す時刻の発着にて日々東京横浜各ステイション間を往復す
手回り荷物は東京横浜の間目方30斤迄は25銭…

明治7年 阪神間鉄道の仮開業 にも路線名の記載はありません。
要するに、正式の路線名が制定されていない明治初期には、「東京横浜間鉄道」「新橋横浜間鉄道」など、適宜に呼んで よかったように思われます。

なお、国有鉄道線路名称 が正式に定められたのは、ずっと後、鉄道国有化2年後の明治42年(1909)でした。

この時に定められたのは、本州 12線(東海道線・北陸線・…・総武線)、四国2線、九州5線、北海道4線で、「東海道線」の部の中に「東海道本線」など6線がありました。「東海道本線」に括弧書きで(新橋神戸間、神奈川横浜程ヶ谷間及び貨物支線)と記されています。

余談ですが、“神奈川横浜程ヶ谷間”とあるのは、神奈川程ヶ谷間直通線【注】が作られる前からあった、横浜駅【桜木町】でスイッチバックする路線[49808]、つまり「トライアングル[49640][49796]の2辺」のことです。
【注】
日清戦争の兵員輸送目的で建設。戦後東海道本線に転用され、17年間使用された。

話を芝浦の新駅[79961]に戻すと、この新駅ができる区間は、現在の線路名称規定でも、この「東海道本線(東京神戸間)」に引き継がれているはずです。
しかし、JR東日本のサイト において隣接駅「田町」を検索すると、“京浜東北線 山手線”と運転系統で表示され、線路名称の東海道本線は出てきません。

“普通の人”の感覚からすれば、ニュースのタイトルが“山手線に新駅”[79942]になるのは、当然のことなのでしょう。
“京浜東北線に新駅”でもよい筈ですが、こちらは少し遠い地域に及ぶ線です。
都心に近い「山手線」の方がより馴染みがある路線ということになります。

路線名の詮索はこれで終り、明治5年(1872)の鉄道開業時のことを少し補足しておきます。

品川横浜間は、旧暦5月7日に仮開業。法令全書
本営業が旧暦9月にずれ込んだ原因は、やはり高輪海岸に海中鉄路を建設しなければならなかったことが、大きかったと思われます。
陸軍[79961]だけでなく、品川湾に軍艦を停泊させる海軍も鉄道敷設に反対でした。
明治4年東京大絵図を見ると、品川ステーションの直前に、八ツ山下海軍用地がありました。
海軍用地が使えないために、ここまでが海上ルートになったのでした。

重陽の節句に予定していた開業式は、暴風雨で3日遅れの旧暦9月12日【太陽暦換算10月14日鉄道記念日】になりました。
引用文にあったように 開業式翌日“九月十日”に予定していた一般旅客相手の本営業開始も、当然3日遅れになりました。
[80434] 2012年 3月 26日(月)13:12:35【2】hmt さん
戦時合併 と その解体 続編 (6)座間町分立に影響した法改正 住民投票で分離した28町村
[80429][80430] Issieさん
あえて“特別措置”は行使しないことを表明しながら,むしろそれを条件に町に承認を迫った,とも言えそうですね。

タイミング良く、昨年『相模原市史 現代通史編』が発行されていたのですね。
詳細なご紹介により、当時の実情の一端を知ることができました。

引用箇所が戻りますが、
このように,なかなか上手く進まない座間の分離問題。その風向きを変えたのが「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正

この改正法附則第二条は、88さんが [55654]で第5項まで、更に[80419]で第9項までを紹介されているのですが、住民による請求期間を2年間に限定した第10項が なぜか脱落していたので追加します。

昭和23年法律第179号附則第二条第10項
第二項の請求は、この法律施行の日から二年以内に限り、これを行うことができる。

【追記】
ここで、このような過去の法律を落書き帳記事にリンクする際に利用できるソースについて、一言紹介します。
2年前の記事[75018]で 「地方自治法の昭和27年改正」 をリンクした時は、国立公文書館の 原本画像 を利用しました。
ところが、最近では もっと使い勝手のよい テキストソースに 簡単にアクセスできることを知りました。
すなわち、衆議院HPに第1回国会以来の制定法律本文があり、日本法令索引からリンクされているのです。

手順を簡単に説明します。
日本法令索引 の現行法令から「地方自治法」を検索。その「法令沿革」で 昭和23年7月20日法律第179号〔第四次改正〕 の「被改正法令」をクリックすると、国立公文書館_デジタルアーカイブ【御署名原本画像】と衆議院_制定法律【テキスト】との両方へのリンクがあります。
衆議院_制定法律 を閲覧すると、原本由来ですが 項番号がありません。最後のあたりに記された附則の 行頭位置は乱れており、少し読みにくい。
しかし、テキストですから、上記のように必要部分をコピペするにも便利です。

なお、衆議院のテキストが使えるのは“第1回国会以来の制定法律”に限られ、それ以前、例えば 帝国議会による「制定当時の地方自治法」[75012] を見るのには使えません。
【追記終】

なお、“2年間だけ住民投票で決着できる”という事実だけは、ずっと前の[28038]で紹介済みでした。

[80431] Issieさん
片瀬町が藤沢か鎌倉との合併(中略)問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。

1948年の法改正とは無関係ですが、1948年よりも前に住民投票が行なわれた事例があったのですね。

座間町は、事実上 1948年の法改正を見据えたものではあったが、分立手続き自体は法改正によるものでなく、住民投票も行なわれませんでした。従って、“分離が住民投票で決定”された28件[28038]の中に含まれていないのは当然です。

では、[80419]88さんの表で「○」が付けられた20町村と、上記“28件の分離”との相違とは?

特別措置による分立が行なわれた結果、「分立元」が戦時合併前の単独町村に戻ったケースが該当するでしょう。
秋田県南秋田郡昭和町【合併前は大久保町】、秋田県河辺郡和田町、茨城県稲敷郡瑞穂村【分立3ヶ月後に合併前の長竿村に改称】、埼玉県北葛飾郡栗橋町、高知県高岡郡新宇佐町【分立と同日に合併前の宇佐町に改称】で5件。

熊本県飽託郡三和町から池上村が分立した翌年の分割により 合併前の自治体に戻った城山村・高橋村。
この分割手続き自体は 特別措置によるものでなかったのですが、戦前の形に戻すという住民の意向は、前年の住民投票で示されていた可能性があります。
そして、岡山県苫田郡加茂町(2)から新加茂町分立後に残った加茂町(3) [80421]
これは戦時合併前の東西2村ですが、これも同類と数えれば 20+5+2+1=28件。

むりやり数合わせを強行したきらいもありますが、一応説明がつきました。

[28038] 夜鳴き寿司屋 さん
実際に全国で33件が実施され、そのうち28件の分離が住民投票で決定になったようです。
ということは、住民投票で分離せずの結果を出したり、県議会で分離案否決[80415]されたりの不成功 5例ということか。


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