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[74299] 2010年 3月 8日(月)23:53:51hmt さん
Re:★新規 市の変遷
ざっと拝見して、気がついたことを記します。

川口市の項目で、1950.11.01 鳩ヶ谷町分立が脱落していました。
変遷情報からの拾い方に問題があったのではないかと思います。

北海道の市の配列順について。
市区町村プロフィールの頁と異なり、支庁別(支庁内はコード順)に表示しているのですね。
実はこれが北海道庁で普通に使っている「道内市町村の配列順」なのだろうと思います。
「市部」と「郡部」とを厳しく区別した戦前の市町村制の時代ならともかく、「市」も「町村」も等しく「基礎的な地方公共団体」と位置づけられている地方自治法の下では、同じ地域の市を近くにまとめた「支庁別配列」の方が、実情に合った妥当なものであると考えており、この配列の採用に賛成します。

「支庁別配列」(4月からは名前が変ってしまいますが…)を取る以上、区切り目のところに「支庁名」を入れてほしいですね。
そして、青地に白文字で記された市のヘッドマークにでも「コード番号」を入れてほしいのです。

参考までに、コード番号は、国土地理院の「面積調」にも 今回から入っています。
なお、「面積調」も 「支庁別配列」を採用しています。

コード番号で思い出しましたが、「01100 札幌市」に変わった 1972.4.1 の「政令指定」。
この日付も是非とも記録しておくべき「市の変遷」なのではないでしょうか。

更に希望すれば「よみがな」。
宮城県登米(とめ)郡登米(とよま)町などが合併して誕生した「登米(とめ)市」を例に引くまでもなく、読み方を示した方が好ましいと思います。
[74298] 2010年 3月 8日(月)22:54:56小松原ラガー さん
ロータリー
小松原ラガーです。

別になんてことないのですが、今、ちょっとホットな話題の「辺野古」。で、「辺野古ってどこだったっけ?」、と地図を眺めていたらロータリーを見つけました。ロータリーコレクションは調べましたが未登録。但し、過去に議論されていたかは十分調べきれていない可能性があるので、もし以前に話題になって却下されていたら申し訳ないのですが、まずは下記、いかがでしょうか?

名護市の田井等(「たいら」と読むのですね)の羽地ダムの脇の管理施設に通じるところに終点ロータリーらしきものがあります。ここです。ただ、場所が場所だけに、一般車両が進入できるのかどうか、全く不明です。また、航空地図で2、3調べたのですが、詳細な解像度まで拡大することができず、これまたはっきりわかりませんでした。

という中途半端な情報で申し訳ありません。

実は上記のロータリーは2週間以上前に見つけていたのですが、なかなか投稿できずにいました。そうこうしているうちに別のロータリーを静岡市内で見つけました。

清水エスパルスの本拠地のスタジアム近くのここと、そこから旧清水市街地に向かったここです。(ちょっと拡大してみてください。)前者は採用には???という感じもしますが、後者はドンピシャかと思います。

以上、閑話休題でした。
[74297] 2010年 3月 8日(月)19:30:18geo さん
市区町村プロフィールについて
 お久しぶりです。
 さて,市区町村プロフィールの滋賀県で数字に誤りらしきところがありましたので報告いたします。

 まず,長浜市の欄ですが
長浜市 ながはまし 123,583 247.01 500.32 1943.4.1
となっていますが,面積が今年1月の編入合併前の数字になっていて,それに合わせて人口密度も誤ったものとなっています。
 また,県合計の欄も
滋賀県 合計 1,402,132 3,583.58 391.27
となっており,長浜市に編入された6町分の面積がそのまま抜けた数字で,人口密度もまた上と同じ誤りになっています。

 お忙しいところ申し訳ありませんが,修正の程よろしくお願いします。

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[74292]オーナー グリグリさん
市の変遷
 早速拝見させていただきました。わかりやすい表でまとめられていて,市域が拡大していく様子などがよく読み取れることができ,見ていて面白かったです。今度はぜひ町村部の・・・いえ,なんでもありません(笑)

以下余談。
先月中旬に四国に出かけてきたのですが,その道中に岡山県をようやく初訪問,そして初宿泊。
生涯経県値が158点になりました。
[74296] 2010年 3月 8日(月)12:59:12hmt さん
都道府県市区町村データベースの過去への遡及
[74273] オーナー グリグリ さん
現在一番過去のデータは2003年9月1日ですが、これも出来るだけ遡りたいと考えています。面積については、国土地理院のサイトに昭和63年(1988年)までのデータがありますので、まずは1988年までを目標にしたいと考えています。人口については白桃人口研究所のデータに期待しています。
[74275] 白桃 さん
1988年というのが、なんか意味有馬すか?

白桃 さんが「有史以前」[19923][21410]という言葉を使って説かれているように、人口データにおける「節目の年」は1920年です。
国勢調査開始というほど画期的なものではありませんが、1988年は 面積データにおける「節目の年」であると考えられます。

[74278] グリグリさんは、“面積調のデータが昭和63年から始まっているため”と説明されています。すなわち、測量法に基づく市区町村別面積の測定が開始され、「現在と同じ面積の測り方」になった年が 1988年でした。
「現在と同じ測り方」のポイントは、2万5千分1地形図基準になったことでした。従来は戦前以来の5万分1地形図基準でした。

戦前は 陸海の境界を満干両潮界の2分の1としていましたが、この点については 昭和30年(1955)以降、満潮時の水涯線 に改められています。[67248]では これも 1988年の変更のように記していましたが、1955年だったようです。統計局
湖沼の面積は、河川と同様に戦前から陸地に含まれていました。

1988年は 面積データの「節目の年」 なのですが、国土地理院の「面積調」データを都道府県市区町村のデータベースに利用しようとすると、「境界未定の問題」にひっかかり、困難を生じることになると思います。
グリグリさんは 既に[611]で この問題に直面されており、「全国市町村要覧」のデータを使用する[639]ことになりました。

この要覧データが 参考値 としてネット上の「面積調」に掲載されているのは、平成14年以降です。
それ以前のデータは、要覧のバックナンバーに あるかもしれませんが、デジタルデータでないと、入力の壁に突き当たります。

[74278] オーナー グリグリ さん
昭和63年以前の市区町村の面積データを安定して得る方法はあるでしょうか。

デジタルデータでないことは同様と思いますが、国勢調査報告書により、5年ごとの市町村面積データを遡って得る可能性があるのではないでしょうか。

一気に戦前まで遡ります。
[73992] YT さんが 昭和10年(1935)の市町村面積を、いずれ表にまとめたい と表明されています。
当然、昭和10年の人口のデータも入力されるはずなので、このデジタルデータを取り込み、「都道府県市区町村」サイトのデータベース検索で活用できるようになれば、戦前の市区町村データの活用という点で、画期的なものになるのではないかと期待しています。

「市区町村」は将来の楽しみに残して、「都道府県」に限定すれば、現在でも利用できるデータがあります。
[67276]でも触れていますが、統計局の長期統計xlsには、大正9年(1920)以来5年毎の 都道府県別面積 があります。
もちろん、人口もあります。明治17年(1884)以来の 都道府県男女別人口
[74295] 2010年 3月 8日(月)02:12:36【1】EMM さん
野々市町が市制施行後の市名を決定した模様
さて、2月中旬頃からしばらく忙しい時期が続いてました。
その間に石川でとあるニュースが流れまして、「書き込みしようかな」とは思ったんですが、その時には結局時間が取れませんでした。
それは何かと言えばタイトルの通りの話でして、ニュースが流れた日付けや細かい中身を失念してしまったのですが、野々市町新市名称検討委員会で市制施行後の名称を決定した、と言うものです。
多分どなたかが書き込みされるだろう…と思ったのですが、ネット上でニュースとして記載されたのがNHK石川のニュースだけだったようでして、しかもここが「新しいニュースが記載されると古いニュースが押し出されていく」上に「URLはそのままで記事を上書きしていく」事もあり、目に留まりにくかったのでしょう。
事実、すでにNHKのHPからはニュースが押し出されてしまって読めないのですが、Yahoo!の検索結果に表示されるクロールされたデータに痕跡が残っているので、とりあえずそれを引用元とします。
(キャッシュを開くと、本文中の日付はクロールされた日と思われるものになっているのに、肝心の記事は最新の記事に置き換わって表示される。キャッシュの意味無いがいね)
まぁ、結局の所「野々市市」で行く方向で決まった、と言うことです。
これで完全に鉄板、と言う訳ではなく、一応町民の意識調査を行い、その結果を以て最終決定するようですが。
検討中には「ひらがな化」とか「現在の野々市町の範囲からすると大きすぎる地名」も意見として出てきてましたが、まぁ無難にまとまったようです。

多分もうしばらくすると会議の議事録が野々市町HPに掲載されると思うのでそれを待って書き込みをしても良かったのでしょうが、「思い立ったら何とやら」と言うことで。
[74294] 2010年 3月 8日(月)01:16:20EMM さん
EMMの地名コレクション編集メモ・第171号 平成21年3月の市町村合併関連
平成21年3月の市町村合併に係る地名コレクション内の検索結果をご案内します。
たくさんあるので2回ぐらいに分けた方が良いかな、とも思ったのですが、どこを境目にするかが悩ましいので一度に行ってしまいます。

(3月8日分)
増穂町での検索結果鰍沢町での検索結果
(3月21日分)
安土町での検索結果
(3月22日分)
七宝町での検索結果美和町での検索結果甚目寺町での検索結果
(3月23日分)
騎西町での検索結果北川辺町での検索結果大利根町での検索結果
菖蒲町での検索結果栗橋町での検索結果鷲宮町での検索結果
印旛村での検索結果本埜村での検索結果
芝川町での検索結果
新居町での検索結果
城南町での検索結果植木町での検索結果
清武町での検索結果
野尻町での検索結果
加治木町での検索結果姶良町での検索結果蒲生町での検索結果
(3月28日分)
六合村での検索結果
(3月29日分)
大平町での検索結果藤岡町での検索結果都賀町での検索結果
(3月31日分)
川口町での検索結果
波田町での検索結果
鹿町町での検索結果
(江迎町については1件も引っかかってきませんでした)

確認の際の参考にして頂ければ幸いです。
検索結果には同一名称の他の自治体、新旧市町村名併記などで合併対応済みのものを含む可能性があります。
(確認した中では大平町が別の所しか引っかかっていませんが、念のためそのまま掲載しました)
また、googleのデータ収集のタイミングにより修正前の内容が検索・表示される場合もあります。
[74293] 2010年 3月 7日(日)22:53:13スカンデルベクの鷲[大龍エクスプレス] さん
これは凄いですね!
皆さん、お久しぶりです。最近は、十番勝負関連のことでしか書き込みをしていなかったのですが、久しぶりにのぞいてみました。
[74292]オーナー グリグリさん
市の変遷
このぺージは、その市がどうやって誕生したか、いつ合併したか、などの市の歴史が分かるいいページですね! 僕にとっても興味深いページです。十番勝負にも活用できそうです…。
[74292] 2010年 3月 7日(日)22:38:01オーナー グリグリ
市の変遷
市区町村変遷情報のデータを活用した新しい企画ページを市区町村変遷情報の新しいメニューとして立ち上げました。市が誕生し、合併などを経て現在の市に至るまでの変遷を都道府県別一覧にしました。

★新規 市の変遷

市名誕生日、市の誕生日、市制施行日なども分かりやすく表示しています。ぜひご覧いただき、ご感想やご意見を頂ければ幸いです。
[74291] 2010年 3月 7日(日)22:20:12オーナー グリグリ
784市 vs 783町
[74288] 2010 年 3 月 7 日 (日) 19:03:08 山野 さん
「伊香郡」は既に消滅しているので、「甲斐市」とのコンビは解消しているのではありませんか。
ご指摘をありがとうございます。訂正漏れでした。さっそく修正しましたのでご確認頂ければ幸いです。東西南北の入った市区町村など一部の雑学については、過去データにも対応しているのですが、こういう雑学もできるだけ対応させたいですね。

[74289] 2010 年 3 月 7 日 (日) 20:14:15 右左府 さん
自国の領有権を主張するなどの政治的意図があってこのような注記を付けたのか、あるいは領土問題の表面化を受けて(対内的に)紛らわしさを取り除くために付けたのか、そのいずれかだと私は思いますが……。
確かにそう言う感じではあるのですが、男女群島、宇治群島、草垣群島などもそう言う位置付けなんでしょうかねぇ。

[74290] 2010 年 3 月 7 日 (日) 21:08:06【2】 あっちゃん さん
市と町、数が逆転=「平成の大合併」進展で
そうそう、[74282]でそのことを言い忘れていました。明日には、市が784市、町が783町になります。
[74290] 2010年 3月 7日(日)21:08:06【2】あっちゃん さん
岡山オフ&地名
お久しぶりです。
岡山オフの際はありがとうございました。
直前の参加表明で大変お騒がせしました。
帰宅報告しなくてすみません。
みなさん遠くから集まられているのに一晩だけで時間が短くてびっくりしました。
僕は人見知りが激しいのでほとんどお話できなかったのが残念です。自分の性格を見直したいです。
あとお酒を飲んでいる人と接することもないのでけっこう戸惑いました。。
でもみなさんと会えて良かったです。石島ツアーも楽しかったです。

ところで、今日mixiのニュースで
市と町、数が逆転=「平成の大合併」進展で
というのが取り上げられていて、山梨の富士川町が明日できるとのことなんですが
地元で富士川町といえばもちろん庵原郡の富士川町のことを指すので、
旧富士川町の住民も増穂町鰍沢町の住民も戸惑っていると思います。
増穂町の方が人口が多いので、町名は増穂にして役場は鰍沢に置くとか(これだともめそうですが)、
他に手段はあったと思います。

地理のことを考えると、これはいかんだろ!っていう地名ばかりで
地名っていうのは、ものすごく大事なのに、一体どうしたらこんな地名に決められるのか、理解に苦しみますし
幸い僕の住んでいるまちは京都市と掛川市で何の問題もないのですが、
そこに住んでいる人はホントにこんな地名で恥ずかしくないのか?
などなど・・・
本当に腹が立ってしょうがないので、最近はあまり考えたくないです。
過去記事を検索してみたら、そういえば昔こんなことを言っていました(笑)
[3834]
僕も「さいたま市」という名前は改称してほしいと思っています。
この目標を達成するため、大学卒業後はさいたま市に住み、
改称のための署名運動をする予定です(本気です)。
しかし、そのころ「さいたま市」という市名が定着してしまうのがこわいです。
でも、この署名運動に参加して下さる方がこのホームページで何人いるのか・・・(汗)

今はさすがに署名活動をする気力はありませんが(笑)、
指扇駅から朝埼京線直通の始発があるので、もし東京の池袋新宿渋谷あたりに勤めることになったら
(行ったことはありませんが)指扇はのどかだし、始発で座って通勤できそうだし、時間もそれほど長くはない
と思って、かなり住みたいまちなのですが、さいたま市ということで、ちょっと考えちゃいますね・・・(笑)

っていう感じで、ここ1年間は、首都圏・関西圏・中京圏の
もしここで働くなら、どこに住んでどの路線で通勤するのがベストか?
という、自分にとって住みやすいまちを探すこと(住みたいまちの研究)がマイブームになっています^^
[74289] 2010年 3月 7日(日)20:14:15右左府 さん
面積調の注記
[74281] グリグリ さん
面積調の特記(所属未定地?)

次のような記述もありました。
根室市の面積には、歯舞群島の面積99.94k?が含まれています。

少なくとも竹島は所属未定地ではないようです。竹島の所属についてまとめられたむじながいりさんのHPによると、昭和14年に五箇村所属となっています。

また、昭和63年の面積調にはこれらのうち歯舞諸島(←当時はこの表記)と竹島の注記しかありません。尖閣諸島の注記は平成元年、他はいずれも平成16年の面積調から記載されています。

自国の領有権を主張するなどの政治的意図があってこのような注記を付けたのか、あるいは領土問題の表面化を受けて(対内的に)紛らわしさを取り除くために付けたのか、そのいずれかだと私は思いますが……。
[74288] 2010年 3月 7日(日)19:03:08山野[山野] さん
片割れの消滅
グリグリさんへ
雑学の頁の内、砺波市をひっくり返すとどうなる?ですが、
2文字のところで
「伊香郡」は既に消滅しているので、「甲斐市」とのコンビは解消しているのではありませんか。
[74287] 2010年 3月 7日(日)17:00:01山野[山野] さん
富士川町HP
まだ未公開ですが
明日、誕生する富士川町の公式HPのアドレスは→ http://www.town.fujikawa.yamanashi.jp/ になるようです。
[74286] 2010年 3月 7日(日)16:20:33なると金時 さん
寒の戻りというか
寒いですねえ。
[74284]伊豆之国さん
JRの特急が全く停まらない(というより特急そのものが来ない)県庁所在地が、JRのない那覇市のほかにもう1つあります。
せんとくん絡みで、新大阪から特急まほろば、てのが一時的に走るみたいですよ。
昔にはあすか、てもあったらしいですが生まれる前です。阪和貨物線経由ってのが必ずウンチクとしてついてきますね。
半田素麺はうまい、と私も以前[53046]で書きました。徳島県には阿波市あたりで食べられるたらいうどんてのもあります。まあいわゆる釜揚げうどんですが、なんか出汁が「ジンゾク(※)」て川魚。30年くらい前に土柱に行ったついでに一度食べたきりなので、全然覚えてません。沢ガニの天婦羅が付いてたことをなぜか今でも思い出します。
※ゴリ、カジカの別称らしいです。
あと、さらに細かい区分で鳴門うどん(やわらかい)てのもあるみたいです。徳島市内にも出店してますが、まだ食べたことはないです。
で、鳴門うどんで検索したら、大分本拠のチェーン店があるんですね。徳島の鳴門とは全く関係なさそうですが。
[74285] 2010年 3月 7日(日)16:00:01hmt さん
川越領福岡村の土地と年貢 (3)Re:石高に関する若干の補足
[74277] oki さん
いろいろと教えていただき、ありがとうございます。
【慶安の石高は】川越藩領だけの数値で、ほかに相給で旗本榊原氏(200石)・同布施氏(188石)の石高があります。

確かに天正19年(1591)に榊原喜平次政成が武州於福岡村之内弐百石を拝領。寛永2年(1625)に布施五兵衛正長が武蔵国高麗郡【誤記?】福岡村之内…合百八拾八石六升を拝領していました。小栗氏への知行宛行状は未確認。
これらの旗本知行地を含めて、正保年間の「武蔵田園簿」にある福岡村742石余だったのですね。
旗本が知行替えになり、福岡村全域がすべて川越領になったのは元禄11年でした。

それよりも前、慶安年間に福岡新田が開かれ、その少し後から川越領武蔵野開福岡新田村御検地水帳が残っています。
承応2年(1653)には下々畑8反ほどですが、延宝3年(1675)になると、畑合14町9反2畝3歩。それでも oki さんの表にある福岡新田の石高に比べるとだいぶ少ないので、まだまだ開発途上だったのでしょう。

福岡村の耕地面積、村高、年貢等に関する表

明細帳の原文は、[74271]に記した“内 廿町…田方、八拾九町…畑方”に続く記載で

此訳ケ
十二上田四町四反九畝五歩   反五斗
  此分米五拾三石九斗
(中略)
八つ上畑拾壱町壱段弐畝五歩   反百拾文
  此分米八拾八石九斗七升四合
(中略)
十 屋敷三町六段四畝拾八歩   反ニ百拾文
  此分米三拾六石四斗九升

のようなスタイルで記されていました。税額欄は私が計算して補ったものです。
ご指摘のように、屋敷を書き落としていたので、[74271]は修正しておきます。

「永」というのは、畑作年貢を金額に換算するための、一種のバーチャル通貨です。
金貨との換算では、永1貫文(1000文)=1両と設定されています。また、永1貫文=畑作年貢2.5石です。

なるほど。寛永通宝の1貫文(1000文)=1分とは異なる、4倍の評価額のバーチャル通貨ということでしょうか。

[74245] における寛文4年の年貢割付状に、村高345石の福岡村(川越領のみ)の年貢が、定納分で米72石、永31貫929文(=31.929両)とありますが、これも以上のような計算から導き出されたものだと思います。

永31貫929文は畑作年貢約80石に相当するので、米の72石と合計して152石。川越領村高に対する定納の税率は44%でした。
oki さんが書き直してくれた宝暦の表で、合計の最後に記された「免 0.42」つまり42%と対応するものですね。
畑合計の税額56.44貫を畑作年貢に換算して141石。これと田合計の税額77石との合計218石。村高525石に対する比が0.42。

以上、建前はまさに四公六民。
実際には[74245]にあるように減税が行なわれ、寛文4年には、米 24.77石と永 28貫400文(米71石相当)とを納税することになりました。
合計納税額 95.77石の 村高に対する税率を計算すると、武蔵野開の分を除外して 28%でした。
[74284] 2010年 3月 7日(日)15:06:23伊豆之国 さん
琵琶湖マラソン&引越しセンター&HandA So-Men
随分と久しぶりの投稿になります‥。

[74260]k-aceさん
(壱)母音を一種類のみ使う市区町村
(弐)母音を四種類以上使い、かつ、母音の被りがない市区町村
この「駅名版」をちょっと調べてみました‥。
ちなみに「元ネタ」は、少し古いですが、国鉄時代の時刻表にあった「物知り」コラム?と、「おもしろい駅名・車窓の歴史・鉄道クイズ」(村石利夫氏著・昭和53年)からです。

・同一の母音だけで連続している駅
 「若狭高浜」(Wakasa Takahama、小浜線・福井県高浜町)の「ア列7連続」がおそらく最多でしょうか。これに続くのは 、やはりア列連続で「阿波川端」(Awa Kawabata、高徳線・徳島県板野町)と「阿波山川」(Awa Yamakawa、徳島線・徳島県吉野川市)の6連続。他の母音では「紀伊市木」(Kii Ichigi、紀勢本線・三重県御浜町)の「イ列5連続」といったところがあります。一方
エ列の該当例は本当に見つかりませんネエ
駅名でも「エ列」だけの駅は、「膳所」(Zeze、東海道本線・滋賀県大津市)と「目出」(Mede、小野田線・山口県山陽小野田市)ぐらいしか思い当たりません。この「エ列」が極端に少ない理由について調べてみたところ、こちらのHPが見つかったのですが、この方面の話はやはりIssieさんが詳しそう‥。

・母音5つ全てを1つずつ使っている駅
 「甲斐上野」(Kai Ueno、身延線・山梨県市川三郷町)。母音が「アイウエオ」の順に並んでいます。

余談ですが、この「甲斐上野」駅の近くには、市川團十郎家発祥の地を記念して造られた「歌舞伎文化公園」があり、歌舞伎に関する資料館もあります。私が二昔ほど前に甲斐路を訪れたとき、下部温泉に泊まったのですが、身延線に乗っているとこの「甲斐上野」駅に「歌舞伎の里」の大看板を見つけ、このときの帰りがけにここに立ち寄っています。「歌舞伎文化公園」には数年前にも再訪したのですが、隣に「お城もどき」の建物がいつの間にか建っていて、これはさすがに興ざめでした。

次に、JR西日本のダイヤ改正情報から。
特急「スーパーくろしお」、「くろしお」
現在6本が停車している鳳駅停車を取りやめます
堺市内で現在JRの特急が停車しているのは、確か鳳駅のみ。これがなくなると、堺市は全国で唯一、JRの特急(新幹線を含む)が停まらない政令指定都市になるわけですが‥。
なお、来月1日から政令指定都市になる相模原市は、週末を中心に運行している臨時特急「はまかいじ」が橋本駅に停車しています。川崎市は、かつてはこのような市の「代表格」だったのですが、昭和55年から特急「踊り子」が川崎駅に停まるようになり、そして今回のダイヤ改正で「成田EX」が武蔵小杉にも停車することになります。
このほか、人口50万人以上でJRの特急が停まらない市には、学研都市線と「おおさか東線」が市域の端っこを通っているだけの東大阪市と、つい最近50万の大台を超えた川口市があります。
ところで、JRの特急が全く停まらない(というより特急そのものが来ない)県庁所在地が、JRのない那覇市のほかにもう1つあります。どこでしょうか?

最後に、ちょっと遅いレスですが、
[74196]今川焼さん
半田素麺
四国へ行って主要駅の売店や高速道路のサービスエリアを覗いても、産地が讃岐うどん、祖谷そば、徳島ラーメンという強者の“麺々”に囲まれているからか、なかなか見つからないのが玉にキズです
その「半田素麺」、地元・町田や周辺のデパートなどの「四国物産展」にも何回か出店していて、以前からその名を知り、そこで実際に買ったこともあります。「常連」になっているのがここ。先月末に町田の小田急で開かれていた「四国物産展」にも出ていて、やはりそこで買ってきました。
「麺」の話のついでに、やはり近頃話題になった「(富士)吉田のうどん」。私も一昨年夏の旅行のときに召し上がっていますが([66626])、このときに入ったのが、こちらの店。
吉田で一番古い店。明治25年頃
という「元祖」の店とあって、一般に知られるところのいわゆる「吉田うどん」とは異なり、つゆと薬味だけで味わう、この店独特の「こだわり」が見られるようでした。
[74283] 2010年 3月 7日(日)14:20:08【1】k-ace さん
市長と市区町村長
こんにちは、k-aceです。

第三回・十番勝負の問十に「市長が鈴木さんの市」がありましたが、日本の市長/市区町村長で一番多い苗字は何なのか調べてみました。

全国市長会と全国町村会のデータに基づき、データは2010年3月6日現在です。
なお、玖珠町は不明でした。それぞれベスト15(それぞれ5市、10市区町村以上)です。

市長

苗字
田中13久喜市、茂原市、南砺市、中央市、犬山市、四日市市、八尾市、四條畷市、江津市、江田島市、四万十市、西海市、人吉市
鈴木10気仙沼市、白河市、君津市、浜松市、富士市、豊田市、東海市、田原市、伊勢市、串間市
伊藤9北上市、大崎市、行方市、五泉市、春日井市、津島市、府中市(広島)、西条市、田川市
佐藤9塩竈市、栗原市、寒河江市、村山市、本宮市、宇都宮市、鹿沼市、阿蘇市、日田市
吉田7本庄市、横須賀市、三浦市、胎内市、大阪狭山市、大和高田市、福岡市
小林6三笠市、八戸市、小平市、厚木市、燕市、都留市
清水6太田市、さいたま市、鎌ケ谷市、立川市、焼津市、大洲市
中村6紀の川市、境港市、松山市、伊予市、筑後市、古賀市
井上5飛騨市、宮津市、赤磐市、春日市、太宰府市
加藤5水戸市、福生市、小田原市、知多市、清須市
橋本5須賀川市、あわら市、城陽市、鳥栖市、豊後大野市
星野5沼田市、富士見市、我孫子市、国分寺市、清瀬市
松本5和光市、安芸市、糸島市、神埼市、大村市
山田5小樽市、諏訪市、可児市、守山市、西宮市
渡辺5岩見沢市、いわき市、多摩市、美濃加茂市、山口市

市区町村長
苗字市区町村
佐藤31塩竈市、栗原市、寒河江市、村山市、本宮市、宇都宮市、鹿沼市、阿蘇市、日田市、森町(北海道)、上川町、津別町、釧路町、村田町、川崎町(宮城)、加美町、南三陸町、三種町、白鷹町、国見町、西郷村、那須町、印旛村、横芝光町、田上町、軽井沢町、川辺町、川根本町、東員町、早島町、産山村
鈴木21気仙沼市、白河市、君津市、浜松市、富士市、豊田市、東海市、田原市、伊勢市、串間市、田舎館村、葛巻町、利府町、朝日町(山形)、金山町(山形)、三春町、大平町、三芳町、南伊豆町、豊山町、御杖村
小林17三笠市、八戸市、小平市、厚木市、燕市、都留市、士幌町、中標津町、上小阿仁村、茨城町、出雲崎町、津南町、鳴沢村、富士見町、小谷村、大治町、若桜町
伊藤16北上市、大崎市、行方市、五泉市、春日井市、津島市、府中市(広島)、西条市、田川市、比布町、和寒町、色麻町、西会津町、下條村、豊郷町、糸田町
田中16久喜市、茂原市、南砺市、中央市、犬山市、四日市市、八尾市、四條畷市、江津市、江田島市、四万十市、西海市、人吉市、中野区、木曽町、江北町
吉田15本庄市、横須賀市、三浦市、胎内市、大阪狭山市、大和高田市、福岡市、利尻富士町、鹿追町、深浦町、六戸町、滑川町、神戸町、三朝町、坂町
加藤14水戸市、福生市、小田原市、知多市、清須市、大槌町、八峰町、大蔵村、新地町、昭和村(群馬)、横瀬町、長久手町、木曽岬町、喜界町
山本13宮古市、天童市、加東市、共和町、軽米町、六合村、清水町(静岡)、吉良町、上郡町、かつらぎ町、小竹町、添田町、御船町
清水12太田市、さいたま市、鎌ケ谷市、立川市、焼津市、大洲市、壬生町、神川町、原村、宮田村、播磨町、愛南町
高橋12留萌市、越谷市、高岡市、せたな町、神恵内村、本別町、金ケ崎町、平泉町、大潟村、最上町、高根沢町、小山町
中村11紀の川市、境港市、松山市、伊予市、筑後市、古賀市、占冠村、朝日村、度会町、阿武町、砥部町
松本11和光市、安芸市、糸島市、神埼市、大村市、葛尾村、永平寺町、笠置町、千早赤阪村、北栄町、多良木町
井上10飛騨市、宮津市、赤磐市、春日市、太宰府市、置戸町、真室川町、奥出雲町、桂川町、新上五島町
佐々木10名取市、南丹市、新居浜市、真狩村、剣淵町、遠軽町、美里町(宮城)、東成瀬村、佐久穂町、阿南町
山田10小樽市、諏訪市、可児市、守山市、西宮市、杉並区、広野町、愛川町、平生町、小値賀町

番外では
・椎葉村の村長が椎葉さん。
・川口市の市長と川口町の町長がどちらも岡村さん。この2市町以外に岡村さんという市区町村長はいない。ただし、川口町は3月31日に合併で長岡市になりますが。
・五十音順で一番最初は「相川」さん(富里市、芝山町)、一番最後は「蕨」さん(佐倉市)。いずれも千葉県。

結果、日本の市長で一番多い苗字は「田中」さん。
日本の市区町村長で一番多い苗字は「佐藤」さん。
「鈴木」さんは市長、市区町村長とも2番目に多い。

なお、
第三回十番勝負当時
三沢市、気仙沼市、多賀城市、湯沢市、富士市、伊東市、磐田市、豊田市、東海市、串間市
現在
気仙沼市、白河市、君津市、浜松市、富士市、豊田市、東海市、田原市、伊勢市、串間市

どちらも10市なのですが、どちらも共通しているのが気仙沼市、富士市、豊田市、東海市、串間市の5市(5市とも市長は変わらず)。
[74282] 2010年 3月 7日(日)11:28:36【1】オーナー グリグリ
山梨県に富士川町が誕生
明日3月8日の山梨県南巨摩郡増穂町と鰍沢町が新設合併して誕生する富士川町(ふじかわちょう)に関連するデータを更新しました。鰍沢町の消滅により動物名の入った市区町村が一つ減りました。富士川町は復活([74107]参照)。
[74281] 2010年 3月 7日(日)10:05:08オーナー グリグリ
面積調の特記(所属未定地?)
国土地理院の面積調のページには、次の記述があります。
#市区町村プロフィールのページにも同様の記述を付記しています。

(1) 小笠原村の面積には、西之島(0.29平方km)、火山列島及び沖ノ鳥島(32.44平方km)、南鳥島(1.51平方km)の面積が含まれている。
(2) 隠岐の島町の面積には、竹島の面積(0.23平方km)が含まれている。
(3) 五島市の面積には、男女群島の面積(4.62平方km)が含まれている。
(4) 南さつま市の面積には、宇治群島の面積(2.40平方km)、草垣群島の面積(0.68平方km)が含まれている。
(5) 石垣市の面積には、尖閣諸島の面積(5.56平方km)が含まれている。
(6) 久米島町の面積には、硫黄鳥島の面積(2.50平方km)が含まれている。

何故、敢えてこのような記述があるのでしょうか。考えられるのは、所属未定地なのだけれども、あきらかに上記の自治体に所属するであろうことが自明であるため、ということですが、それも変な話で釈然としません。そもそも所属未定地とは厳密にはどのような定義になるのでしょうか。興味が湧いてきました。過去に議論がありましたっけ?

「所属未定」で記事検索を掛けると[67286]など言及した記事がいくつか見つかりますが、上記の面積調の特記の趣旨については釈然としないままですね。所属未定とは関係ないのかもしれませんし。
[74280] 2010年 3月 7日(日)09:50:19オーナー グリグリ
市区町村に含まれない面積
面積データ更新の際に書こうと思って忘れていましたが、今回の更新で、十和田湖の境界が確定しました。これにより、青森県と秋田県の面積が増加しています。霞ヶ浦と北浦の境界も確定しましたが、こちらは茨城県内に閉じていますので、茨城県内の関係市町村の面積は増加しましたが、茨城県全体の面積が増えた訳ではありません。

十和田湖のようにどの都道府県にも属さなかった国土はなくなりましたが、境界未定もしくは所属未定のため、どの市区町村にも属さない国土はまだ残っています。市区町村プロフィールの各都道府県別一覧の注釈で確認できますが、ここにすべて列挙してみます。なお、未定地の面積は所属する都県の面積には含まれています。

(1) 風蓮湖の水面(57.74平方km)(北海道)
境界未定のため、根室市、別海町の面積には含まれていない。

(2) 然別湖の水面(3.61平方km)(北海道)
境界未定のため、上士幌町、鹿追町の面積には含まれていない。

(3) 八郎潟調整池の一部(22.02平方km)(秋田県)
境界未定のため、男鹿市、潟上市、五城目町、井川町の面積には含まれていない。

(4) 市川市東浜一丁目および船橋市潮見町両地先の土地(0.14平方km)(千葉県)
境界未定のため、市川市、船橋市の面積には含まれていない。

(5) 江東区および江戸川区にまたがる荒川河口部の水面の一部(1.15平方km)(東京都)
境界未定のため、江東区、江戸川区の面積には含まれていない。

(6) 東京湾内の埋立地(3.65平方km)(東京都)
中央防波堤内側埋立地(中潮橋北側)と、中央防波堤外側廃棄物処理場(中潮橋南側)は、所属未定のため、中央区、港区、江東区、品川区、大田区の面積には含まれていない。

(7) 八丈支庁に属する島嶼(4.81平方km)(東京都)
鳥島、ベヨネーズ列岩、須美寿島、孀婦岩は、所属未定のため、八丈町と青ヶ島村の面積には含まれていない。

(8) 本栖湖の水面(4.70平方km)(山梨県)
境界未定のため、身延町、富士河口湖町の面積には含まれていない。

(9) 浜名湖の水面(64.97平方km)(静岡県)
境界未定のため、浜松市西区、浜松市北区、湖西市、新居町の面積には含まれていない。

(10) 名古屋港口の埋立地(1.14平方km)(愛知県)
境界未定のため、名古屋市港区、東海市、知多市、弥富市、飛島村の面積には含まれていない。

(11) 阿蘇海の水面(4.81平方km)(京都府)
境界未定のため、宮津市、与謝野町の面積には含まれていない。

(12) 児島湖の水面(7.13平方km)(岡山県)
境界未定のため、岡山市南区、玉野市の面積には含まれていない。

(13) 鷹島(甑島南方)(0.04平方km)および津倉瀬(宇治群島北東方)(0.01平方km)(鹿児島県)
所属未定のため、これらの島嶼が面する薩摩川内市、南さつま市の面積には含まれていない。

(14) うるま市および金武町の境界部の地先海面の埋立地(0.18平方km)(沖縄県)
境界未定のため、うるま市、金武町の面積には含まれていない。

以上の14箇所になりますが、内水面の境界未定では浜名湖と風蓮湖が大物として残っています。風蓮湖については境界確定の動きはなさそうですが、浜名湖は過去記事でも話題になっていたように、浜松市、湖西市、新居町の3市町で等距離線主義で合意決着したというニュースが今年始めに流れていました。湖西市の新居町編入が3月23日に予定されていることから、境界画定はその前に官報告示されるとの報道でしたが、すでに告示されたのでしょうか。
[74279] 2010年 3月 7日(日)09:40:33miki さん
5ヶ国語対応日本地図
こういうのを発見しました。
私は結構はまっていますが。
(糸島市、みよし市などには対応してないようです。)
http://www.welcome2japan.cn/index.html
[74278] 2010年 3月 7日(日)08:55:02オーナー グリグリ
昭和63年より前の面積データ
[74274] 2010 年 3 月 6 日 (土) 22:15:00 山野 さん
渡名喜村の統計人口のところが「47人」になっていますが、あまりにも少なすぎやしませんか。
[74275] 2010 年 3 月 6 日 (土) 23:35:19 白桃 さん
475人です。(オーナーから訂正あるかと思いますが・・・)
素早い指摘をありがとうございました。助かります。さっそく修正しました。ご確認ください。
データ処理のミスでした。渡名喜村のデータが一番最後のデータであったために生じたミスなので、他のデータには処理ミスはないはずです。とは言え、他にもおかしな点がありましたらご指摘ください。>皆様

ま、やれるだけやります。と、言いたい常呂はカーリング、1988年というのが、なんか意味有馬すか?
人口と面積をセットでデータベース整備をしたいのですが、面積調のデータが昭和63年から始まっているためです。国土地理院のこちらのページにある第 I 章面積調査の概要(各年共通)(PDF:40KB)という資料によると、「全国都道府県市区町村別面積調」いわゆる「面積調」は、測量法に基づき市区町村別面積の測定を昭和63年に開始したことが分かります。以下一部引用します。
昭和63年10月1日時点での、国土地理院発行の2万5千分1地形図(以下「地形図」という)を基準として、この上で満潮時の水涯線で区画された陸地(河川については、河口周辺の海岸線の自然な形状に従って河口両岸の先端を直線で結んで陸海の境とし、河川及び湖沼の面積は陸地に含める)のうち、市区町村の行政界と水涯線で囲まれる地域の面積を測定して得た数値を市区町村別の昭和63年面積値とした。
平成元年以降については、昭和63年の測定値からの変化を把握することによって算出しています。上記資料には、変化の把握方法についても細かく記述されていますが、合併による変化の場合は単純な足し算によるとしたり、境界変更については関係市区町村への照会による面積を加減算するとしたり、分立・分区の場合は関係市区町村から提供された資料図に基づき測定し直すとしたり、埋め立て地などの増加は地形図で計測し直すとしています。案外、泥臭いやり方なんですね(まぁ、他に有効な手段はなさそうですが)。

昭和63年以前の市区町村の面積データを安定して得る方法はあるでしょうか。これが得られるのであれば、さらに過去に遡ることも検討したいと思います。もちろん、人口データだけでも遡る価値はありますが、データの見せ方など表示処理などを統一しておきたいということです。
[74277] 2010年 3月 7日(日)04:46:42oki さん
武州入間郡川越領福岡村の石高に関する若干の補足
最初に御礼を。
[74211] hmt さん
ご質問のあったデジタルギャラリーの「天保国絵図」の件。
IE環境で JPEG2000版の国絵図が 正常に閲覧できています。
遅くなりましたが、ご回答有難うございます。hmt さんが正常に閲覧できている以上、私のPC環境に問題があることははっきりしているのですが、まだ原因を突き止めることができません。そのため、相変わらずJPEG2000の画像が閲覧できないのですが、国立公文書館はJPEG版が高機能化したので、そちらで閲覧するようにしています。

さて本題。

川越領福岡村の土地と年貢 [74245][74271]  hmt さん

貴重な資料のご提供有難うございます。ただ、補足した方が良いと思われる点が2つほどありますので、以下に述べておきます。

まず、福岡村の石高です。
[74271]
冒頭に記載されているように、松平美濃守こと柳沢保明(吉保)時代の元禄検地で、福岡村は 525.07石になっています。
この数字でも信綱の慶安検地(元禄の50年前) 345.79石[74245]の 1.5倍ですが、詳しく調べるとそれ以上なのです。
とありますが、慶安時点での福岡村の石高は345.79石ではありません。
これは川越藩領だけの数値で、ほかに相給で旗本榊原氏(200石)・同布施氏(188石)の石高があります。また、この時点で中福岡村、福岡新田は分村しておらず、すべて福岡村の石高に含まれています。慶安検地とほぼ同時点の「武蔵田園簿」以降における福岡村関連の石高を整理すると次のようになります。

 田園簿元禄郷帳天保郷帳旧高旧領
福岡村742.1683.9836.8525.1
中福岡村上に含む上に含む上に含む311.7
福岡新田上に含む115.3182.4182.4
742.1799.21019.21019.2
指数100108137137

ここに見るように、慶安時点で川越藩領および旗本2家の石高を合計すると742.1石で、元禄郷帳(1699年)時点では福岡新田を合わせて799.2石ですから、この間の増加率は8%ということになります。
天保郷帳(1834年)では、福岡村だけで837石、福岡新田を合わせれば1000石を越えていますが、この場合でも慶安時点からの増加率は4割に達しません(実際には、この石高に達したのは天保時よりかなり前のはずですが)。
なお、天保郷帳時点では中福岡村が分村していたと思われますが、中福岡村が全国資料に現われるのは明治維新後の旧高旧領取調帳を待たねばなりません。

次に、ご紹介いただいた福岡村の耕地面積、村高、年貢等に関する表ですが、私自身よく理解できない点があったので、少し考えて次のように再整理してみました。

種別反別(反)石盛(石/反)石高(石)租率(石/反)金納租率(文/反)租額(石)租額(両)
上田44.91.2053.900.500022.4500.42
中田33.91.0033.900.400013.5600.40
下田43.30.8034.640.350015.1600.44
下々田86.50.6051.900.300025.9500.50
田合計208.60.84174.340.370077.1200.44
上畑111.20.8088.960.27511030.5812.230.34
中畑111.30.6066.780.2259025.0410.020.37
下畑153.10.4061.240.1757026.7910.720.44
下々畑486.40.2097.280.1004048.6419.460.50
屋敷36.51.0036.460.27511010.044.010.28
畑合計898.50.39350.730.15763141.0956.440.40
合計1107.00.47525.070.1970218.2100.42
(※四捨五入の関係で数値が合わない場合があります)

基本になるのは反別(耕地面積)で、水田が上田~下々田まで合わせて20町8反6畝、畑が上畑~下々畑+屋敷地で89町8畝5畝で、計110町7反あります([74271]の表では、上畑~下々畑の計と畑合計とが合わないので、差は屋敷地と考えて補足しておきました)。
上田、上畑などの種別を決めるのは石盛、つまり1反当たりの米の生産高で、上田の場合1石2斗、下々田では6斗などとされています。
前にも石高に関して議論がありましたが、石盛とは1反当たりの玄米生産量です。したがって、本来なら水田にしか適用できないのですが、畑にも石盛が割り当てられています。上畑で8斗と下田並みの水準であり、畑地の生産水準が低く見積もられていることが分ります。もっとも、畑では米が生産できないのですから、そこに無理やり米の石盛を付けているのは、村高を算定するためのバーチャルな操作、と考えた方が良いかもしれません。
福岡村全体の石高である村高は、Σ(反別×石盛)で算定されます。米が174石余、畑地の高が351石で、計525石です。繰り返しますが、畑地で米は取れませんから、この村高は一種のフィクションです。

次は年貢高(租額)の算定です。西国であれば、村高に免(年貢率)を掛ければ年貢高が算定できます。例えば、以前に話題にした富来地頭町村の場合、村高が330石、免は九ツ(90%~極端な高率です)ですから、330×0.9=297石が年貢高になります(このような年貢の算定法を厘取法といいます)。
しかし、関東では反取法という異なる算定法が適用されます。具体的には、1反当たりの租率を直接に決めます。上記の表では、上田で0.5石/反、下々田で0.3石等となっています。
年貢高は反別×租率であり、上田なら44.9反×0.5石=22.45石、これを各種別ごとに積算すると、77.12石が米の年貢と言うことになります。

少しややこしいですが、水田の年貢は以上のように算定できます。では畑地の年貢はどのように計算されるか。これを考えるためには、「永」という概念を理解する必要があります。

「永」と書いてあるのは永楽銭が通用していた時代からの公式通貨の呼び名で、実際に用いられたのは寛永通宝でしょう。
[74245] に以上のようにありますが、「永」とは寛永通宝ではありません。後北条氏が所領の生産高を測るのに永楽銭を用いたことを起源とするもので、永楽銭の通用は江戸初期に禁止されましたが、「永」という概念、考え方は、関東を中心とする東日本各地で幕末まで残りました。
「永」というのは、畑作年貢を金額に換算するための、一種のバーチャル通貨です。実際に「永」という名の貨幣が存在するわけではありません。金貨との換算では、永1貫文(1000文)=1両と設定されています。また、永1貫文=畑作年貢2.5石です。
上の表では、上畑の金納租率が110文/反となっていますが、この110文は実際には「永110文」です。2.5石=永1貫文(1000文)ですから1石=永400文になります(つまり、hmt さんの指摘されたように、1斗=40文です)。この換算率で永110文を石高に直すと0.275石と計算できます(永110文×(1石÷永400文)=0.275石)。
実は、これは計算が逆で、水田と同様に上畑に対しても1反当たり0.275石という租率を決め、それを「永」に換算したのが110文という金納租率だと考えた方が良いと思います。水田の場合、下々田でも租率が0.3石で、上畑より高いですから、畑地の年貢率が非常に低く設定されていることが分ります。

いずれにせよ、畑地の年貢は米でも麦でもなく貨幣であり、上畑では111.2反×永110文/反=永12,234文と計算できます。つまり永12貫234文=金12.234両です。すべての畑地にこの計算を適用して積算すると、畑地からの年貢は金56.44両となります。

以上から、名目上525石の村高を持つ福岡村からの年貢が、米77石、金56両だとということが分ります。(上記の表では、上畑の租率0.275石/反などを使って畑地からの石高年貢を141石、米と合わせた年貢合計を218石と計算していますが、これは単なる計算値で、実際にこのような年貢を取られたわけではありません)。
[74245] における寛文4年の年貢割付状に、村高345石の福岡村(川越領のみ)の年貢が、定納分で米72石、永31貫929文(=31.929両)とありますが、これも以上のような計算から導き出されたものだと思います。
村高から予想されるより、実際に生産される、もしくは領主が収納できる米の量がかなり少なくなりますが、関東のように耕地面積に占める畑地の割合が高い地域では、名目上の石高に比べ、実際に得られる米は少ない、と考えるべきなのでしょう。
[74276] 2010年 3月 7日(日)02:53:27【1】YT さん
1600年の四国の推定人口の再計算案
江戸時代以前の地域人口といえば、鬼頭宏による推定人口が有名です。以下の論文と本に詳細がまとまっています。

1. 鬼頭宏, 「明治以前日本の地域人口」『上智経済論集』41巻 (1-2号), pp. 65-79 (1996年).
2. 鬼頭宏, 『人口から読む日本の歴史』, 講談社, 2000年.

データについては[57326]でむっくんさんがまとめられていますが、四国に関して改めてまとめると以下の通りです。これらの推定人口の根拠については余り詳しくは流布されていませんが、論文中で引用されている以下の元文献を参考に、数値計算をし直してみました。1桁まで求めた値を「計算値」とします。

1. 澤田吾一, 『奈良朝時代民政経済の数的研究』, 冨山房, 1927年.
2. 社会工学研究所編, 『日本列島における人口分布の長期時系列的分析: 時系列推計と要因分析』, 1974年.
3. Shuzo Koyama, "Jomon Subsistence and Population", Senri Ethnological Studies no. 2, 1-65 (1978).
4. 彌永貞三, 「『拾芥抄』及び『海東諸国紀』にあらわれた諸国の田積史料に関する覚え書 ―中村栄考「海東諸国紀の撰修と印刷」の脚注として―」, 『日本古代社会経済史研究』, 岩波書店, pp. 351-387 (1980年).
5. 小山修三, 『縄文時代: コンピュータ考古学による復元』, 中央公論社, 1983年.
6. 鎌田元一, 「日本古代の人口について」『木簡研究』, 第7号 (1984年).
7. 速水融監修, 『国勢調査以前日本人口統計集成』, 原書房, 1992年.

西暦推定値掌握人口計算値計算の根拠
紀元前6100年200240『全国遺跡地図』(1965年)記載の遺跡数(30)×8 (小山修三による推定)
紀元前3200年400432『全国遺跡地図』(1965年)記載の遺跡数(18)×24 (小山修三による推定)
紀元前2300年200240『全国遺跡地図』(1965年)記載の遺跡数(10)×24 (小山修三による推定)
紀元前1300年2,7002,664『全国遺跡地図』(1965年)記載の遺跡数(111)×24 (小山修三による推定)
紀元前900年500504『全国遺跡地図』(1965年)記載の遺跡数(21)×24 (小山修三による推定)
200年30,10030,128『全国遺跡地図』(1965年)記載の遺跡数(538)×56 (小山修三による推定)
725年275,700275,670『和名類聚抄』記載の郷数(251)×1,052×1.044 (鎌田元一による推定)
800年335,000349,449『弘仁式』の出挙稲数(241万4000束)×0.02707÷0.187 (澤田吾一による推定)
320,848『延喜式』の出挙稲数(272万9688束)×0.02198÷0.187 (澤田吾一による推定)
335,148両者の平均
900年304,600304,594『和名類聚抄』記載の田積数(4万2013町)÷0.16×1.16
1150年320,300320,349『拾芥抄』記載の田積数(4万4186町)÷0.16×1.16
1600年625,000624,9131750年の幕府掌握人口×1.2÷3
1721年1,838,6001,532,1311,838,557幕府掌握人口×1.2
1750年1,874,7001,562,2831,874,740幕府掌握人口×1.2
1756年1,929,0001,607,4861,928,983幕府掌握人口×1.2
1786年1,993,8001,661,5011,993,801幕府掌握人口×1.2
1792年1,989,4001,657,8241,989,389幕府掌握人口×1.2
1798年2,043,1001,702,5602,043,072幕府掌握人口×1.2
1804年2,112,6001,760,5262,112,631幕府掌握人口×1.2
1822年2,235,9001,863,2532,235,904幕府掌握人口×1.2
1828年2,276,3001,896,9482,276,338幕府掌握人口×1.2
1834年2,319,4001,932,8492,319,419幕府掌握人口×1.2
1840年2,260,2001,883,4792,260,175幕府掌握人口×1.2
1846年2,331,8001,943,1462,331,775幕府掌握人口×1.2

なお小山修三の『縄文時代: コンピュータ考古学による復元』では、遺跡数に乗じる係数を、弥生時代57人、縄文時代中期以降24人、縄文時代早期8.5人と紹介していますが、実際の数値計算結果を見る限り、弥生時代56人、中期以降24人、縄文時代早期8人として計算しています。『全国遺跡地図』の実物は読んでいませんが、1978年の小山修三の英文論文から、都道府県別遺跡数を採用しました。『和名類聚抄』、『拾芥抄』の田積数は彌永貞三の『日本古代社会経済史研究』(1980年)収録のもの、幕府掌握人口は『国勢調査以前日本人口統計集成』(1992年)収録のものです。

さて、1600年の人口の求め方について以前[72094]でも紹介しましたが、これは速水融らの学説に基づき、150年間で3倍になるロジスティック関数で1750年の人口から逆算で求めたとされます。すなわち最初の50年間で1.41倍に(年平均0.69%)、さらに50年後の100年目で2.67倍に(50年~100年目の年平均増加率1.29%)、さらに50年後の150年目で3.00倍に(100年~150年目の年平均増加率0.23%)となります。150年間全体の平均人口増加率は0.74%です。畿内やその周辺の先進地区、中進地区では、1500年や1550年に人口増加が開始したと仮定し、他の大部分は1600年から人口増加が始まったと仮定しています。

しかしながら本当に50年間で年平均1.3%という高い人口増加率の維持が可能なでしょうか?今[74268]で示した国勢調査以降の人口でみると、1925年~1926年の人口増加率は1.68%です。また1920年~1935年の15年間では年平均1.43%、1948年~1971年の23年間では年平均1.20%とかなり高い率を維持しています。1920年~1980年の60年間では途中戦争を挟んでいるにも関わらず、年平均増加率は1.24%です。

[74267]で示した国勢調査前では、1884年~1918年の34年間の現住人口の増加率は1.28%です。琉球の隠れ本籍人口が明るみとなった1879年を除くと、1880年~1883年の3年間は1.00%、1872年~1878年の6年間は0.88%の人口増加率です。面白いことに日本の人口増加率がもっとも激しかったのは、昭和一桁の時代で、明治時代も最初の10年よりも、次の10年、その次の10年、最後の十数年の方が人口増加率が高いという結果になっています。いかに「医療」という要素が人口増加に寄与したかを示すといえます。さて1650年~1700年の間の人口増加率1.29%というのは、日本では明治19年以降から始まるもので、明治最初の20年間の人口増加率は大体1%を下回っています。

速水融氏らの人口増加率の仮定は、諏訪の農村の人別改帳の研究によるとされます。元文献を読みましたが、残念ながら生データがグラフで図示されているので、生の数字の人口増加率を検証することができませんが、『竹橋余筆別集』にみられる大藩の人口増加率はこれよりも低いものです。『竹橋余筆別集』によると、徳川吉宗は、10万石以上の大藩に過去の人別改による領民人口を報告するよう命じたそうで、その時の領民人口が以下の通りです。

調査対象期間開始年終了年年平均人口増加率
金沢藩15歳以上1720年→1732年551,754576,7340.37%
鹿児島藩当歳以上1698年→1732年260,961339,9550.78%
岡山藩2歳以上1686年→1706年185,043337,6613.05%
岡山藩2歳以上1706年→1732年337,661396,4690.62%
津藩当歳以上1665年→1694年252,061284,1260.41%
津藩当歳以上1694年→1732年284,126287,2420.03%
徳島藩2歳以上1665年→1688年308,880385,7510.97%
徳島藩2歳以上1688年→1732年385,751470,5120.45%
仙台藩当歳以上1690年→1702年599,241617,3230.30%
仙台藩当歳以上1702年→1732年617,323647,4270.16%
庄内藩当歳以上1694年→1732年126,383131,1640.09%
二本松藩当歳以上1685年→1702年73,35181,3670.55%
二本松藩当歳以上1702年→1732年81,36775,747-0.24%
盛岡藩当歳以上1669年→1703年245,635306,4120.65%
盛岡藩当歳以上1703年→1732年306,412322,1090.17%

岡山藩の事例を除き、年平均人口増加率が1%を超えている例は存在しません。また全体の平均は0.56%です。17世紀に限ると、津藩(1665年→1694年)0.41%、徳島藩(1665年→1688年)0.97%の2例で、少し人口増加率が高くなりますが、それでも1.29%には全然届きません。

今上の表に徳島藩のデータが載っておりますが、当時さまざまな藩が日本各地に飛び地を持っていた中、徳島藩は阿波と淡路二ヶ国の全土を知行とする稀有な藩でした。そこで徳島藩のデータで、1600年の四国の人口を推計してみました。徳島藩に関しては、以下の領民人口が判明しております。

元号西暦蜂須賀氏知行領阿波国淡路国
寛文5年1665年308,880
寛文10年1670年248,375
元禄元年1688年385,751
享保6年1721年447,612342,386105,226
享保17年1732年470,512
寛延3年1750年444,018336,905107,113
宝暦6年1756年470,374363,254107,120
天明6年1786年475,441369,280106,161
寛政4年1792年472,888368,536104,352
寛政10年1798年479,627375,358104,269
寛政12年1800年345,972
文化元年1804年537,753425,304112,449
文政5年1822年565,618446,291119,327
文政11年1828年577,868454,120123,748
天保5年1834年582,744459,244123,500
天保11年1840年550,197431,050119,147
弘化3年1846年571,060448,287122,773
嘉永5年1852年454,120

そこで、徳島藩の人口変遷にロジスティック関数を近似して1600年の人口を求めてみました。寛政12年のデータは疑問があるので除きます。また寛文10年には享保6年の、嘉永5年には弘化3年の徳島藩/阿波国人口比を乗じて全体の藩の人口としました。また調査人口に1.2を乗じた値を徳島藩人口とします。

(1) 単純にロジスティック関数を当てはめると
徳島藩人口 = 1/{0.0000010142+0.110146×exp(-0.00674318×西暦)} (R2 = 0.92)
西暦徳島藩推定四国推定(×3.4085)
1550年238,300812,200
1600年304,3001,037,400
1650年379,4001,293,300
1700年460,5001,569,600
1750年543,4001,852,100

(2) 17世紀の人口に倍のウェイトをかけてロジスティック関数を当てはめると
徳島藩人口 = 1/{0.0000010702+0.358286×exp(-0.0074572×西暦)} (R2 = 0.94)
西暦徳島藩推定四国推定(×3.4085)
1550年222,600758,700
1600年291,700994,400
1650年371,2001,265,280
1700年456,9001,557,500
1750年543,3001,852,000

(3) 一方1750年以降のデータを無視すると相関は良くなりますが、鬼頭宏氏以上にあり得ない数字になってしまいます。
徳島藩人口 = 1/{0.00000156502+8.68425×10^11×exp(-0.0247421×西暦)} (R2 = 0.996)
西暦徳島藩推定四国推定(×3.4085)
1550年48,100164,801
1600年140,100479,484
1650年314,2001,075,494
1700年491,5001,682,400
1750年587,8002,012,000

とまあ、(1), (2)を採用すると1600年頃の四国の人口は大体100万人となり、鬼頭宏、速水融らの推定する63万人の6割増しとなります。
一方でこの計算法だと、1石=1人として慶長石高から日本の総人口を1850万人と概算した吉田東吾の説に、日本の総人口では近いものとなりますが、四国の場合は慶長石高が77万4100石ですので、四国に関しては吉田東吾の概算値よりも多くなります。まあ土佐や讃岐は、慶長石高自体がいい加減のようですが。
[74275] 2010年 3月 6日(土)23:35:19白桃 さん
上海行きの夜は瑠璃色~
まずは、レスです。
[74273]オーナー グリグリ
さらに、現在一番過去のデータは2003年9月1日ですが、これも出来るだけ遡りたいと考えています。面積については、国土地理院のサイトに昭和63年(1988年)までのデータがありますので、まずは1988年までを目標にしたいと考えています。人口については白桃人口研究所のデータに期待しています。
ま、やれるだけやります。と、言いたい常呂はカーリング、1988年というのが、なんか意味有馬すか?
とは言いながら、出来る限りやります。哀しい佐賀です。^l^)~~
[74274]山野 さん
渡名喜村の統計人口のところが「47人」になっていますが、あまりにも少なすぎやしませんか。
475人です。(オーナーから訂正あるかと思いますが・・・)

日本列島を震撼させるような話題、ロングウィークの分散化、経済効果も期待できないし、あまりうまくいくとも思いませんが、トライアルでやってみたらどうでしょうか。単身赴任者がどうなるか、という問題はさておき、個人的には反対です。

明日、超巨大都市に行きます。日本にある、「上」と「海」がつく市町村の人口を足しても到底かなわない街です。それと、そこから日帰りで「南沙織」と「京唄子」が住んでいない都市に日帰り(新幹線)で行くことになります。私、国内旅行は好きですが、海外はどうも・・・、それに仕事ですから、気が重い。

この世のお別れ(の可能性も有田)ですから、クイズを出します。
1.南京市と横浜市はどっちが人口多いでしょう。(どちらとも言えないが正解ダと思うのですが)
2.人口千人にも満たない村3つに接している唯一の市はどこでしょう。(3125の「○○根」)
[74274] 2010年 3月 6日(土)22:15:00山野[山野] さん
人口
グリグリさんへ
渡名喜村の統計人口のところが「47人」になっていますが、あまりにも少なすぎやしませんか。
[74273] 2010年 3月 6日(土)21:02:22オーナー グリグリ
人口と面積データを最新にしました
当サイトの人口データと面積データを、2009年10月1日の推計人口と国土地理院の面積調のデータで更新しました。推計人口については、白桃人口研究所の提供データを利用しています。白桃所長、ありがとうございました。更新が遅くなってすみません。

更新したメニューは、都道府県プロフィール、市区町村プロフィール、ランキングデータ、データベース検索、などです。ランキングデータとデータベース検索については、以下の過去のデータベースについても2009年10月1日の人口・面積データで更新済みです。

2009年10月1日
2009年10月5日
2010年1月1日
2010年1月4日
2010年1月16日
2010年2月1日

以前にも言及したことがありますが、現在の市区町村の過去のデータベースは、合併が行われた日付ごとに履歴を残していますが、これを毎年10月1日のデータに絞り込みたいと考えています。正確に言えば、各年10月1日現在と最新のデータベースです。その上で、人口と面積データについても各年の10月1日のデータに更新したいと考えています。

さらに、現在一番過去のデータは2003年9月1日ですが、これも出来るだけ遡りたいと考えています。面積については、国土地理院のサイトに昭和63年(1988年)までのデータがありますので、まずは1988年までを目標にしたいと考えています。人口については白桃人口研究所のデータに期待しています。
[74272] 2010年 3月 6日(土)18:35:21山野[山野] さん
斐川町の合併話
何方か宛てへの「釣り餌」ではありませんが、1つ。

斐川町議会の3月定例会が5日開会し、住民直接請求の法定合併協設置議案が再提案された模様。
同議案は、12日に採決される予定。
[74271] 2010年 3月 6日(土)13:53:45【1】hmt さん
川越領福岡村の土地と年貢 (2)宝暦五年福岡村諸色明細帳
&KIXふじみ野市上福岡歴史民俗資料館の展示文書から、近世の村の税金や 徴税の基礎になっている田畑についての関心をそそられたので、更なる情報を求めて「上福岡市史」を開いてみました。

上福岡市史資料編第2巻には、[74245]で紹介した展示資料を含め、いくつかの年貢・村明細関係の文書がありました。
その中の宝暦五年(1755)「武州入間郡川越領福岡村諸色明細帳」には、現在の市勢要覧のように、いろいろのデータが掲載されています。その筆頭に記されているのは、やはり土地に関する情報です。

五拾七年以前松平美濃守様御検地
一 高五百廿五石七升  入間郡福岡村
 惣反別百拾町七反拾弐歩
内 廿町八反六畝六歩 田方
  八拾九町八反四畝六歩 畑方

冒頭に記載されているように、松平美濃守こと柳沢保明(吉保)時代の元禄検地で、福岡村は 525.07石になっています。
この数字でも信綱の慶安検地(元禄の50年前) 345.79石[74245]の 1.5倍ですが、詳しく調べるとそれ以上なのです。

元禄検地の後で柳沢吉保が甲府に栄転した際に福岡村の一部は幕府領になり、後に入った秋元喬知の領地である福岡村からは除かれており、宝暦の福岡村にはこの分が含まれていません。
ここは後の加増により再び川越領に戻るのですが、御加増地福岡村→中福岡村として別勘定になったので、慶安の頃の福岡村に対応する元禄石高は、福岡村 525.07石 + 中福岡村311.727石 = 836.797石ということになります。慶安石高の実に2.4倍という驚くべき高度成長を実現していたことになります。

このことから、この落書き帳でも度々話題になった 三富新田 だけでなく、福岡村の付近でも17世紀後半に盛んに新田開発が行なわれたことがわかります。
しかし、耕地に関する高度成長はこの時代に終わったようで、明治政府が引き継いだ資料に基づく 歴博の「旧高旧領取調帳データベース」 [57484]にも、上記の元禄石高と同じ数字が記録されています。

それにしても、元禄の石高が約170年後まで通用していたことにも驚きます。増税につながる土地の再評価に対しては領民側からの抵抗があり、容易に検地を実施できなかったという事情はわかりますが。

それはさておき、福岡村の水田と畑に関するデータを表で示します。単位は、面積が畝、米が升、銭が文です。
種別基準面積収穫量米納金納税額
上田120449.175390502245.8
中田100338.903389401355.6
下田80433.133465351516.0
下々田60865.005190302595.0
田合計2086.2174347712.4
上畑801112.28897.411012233.8
中畑601113.46680.49010020.6
下畑401530.56122.07010713.5
下々畑204863.59727.14019454.1
屋敷100364.63646.01104010.6
畑合計8984.235072.956432.7
合計11070.452507

面積基準で田が 19%に対して畑が 81%、収穫量基準で田が 33%に対して畑が 67%と、福岡村は畑作を主とする村であることが示されています。
上田では1反あたり1石2斗の収穫が見込まれ、年貢は5斗。四公六民と言われた公定相場に近い比率です。
畑の場合は上畑の収穫量を1反あたり8斗と見込み、110文の金納。40文で1斗と換算すると2.75斗で、やや低い比率。
しかし、上田や上畑は少なく、低い等級の田畑が主体でした。

データを省略しますが、他村よりの入作、他村への出作が数十石の規模であり、かなりの比重があります。
「出作」については「飛び地」がらみの 発言 もあり、上福岡における事例は [44818]でも触れています。

「村明細帳」には、耕地以外の情報もあります。例えば用水・堤・橋・道路などの公共施設、神社仏閣関係。
畑方作物之品として記されたのが、麦・粟・稗・大豆・小豆・大角豆・蕎麦・菜・大根・芋・木綿・たばこ。
芋という字はありますが、「川越藷」が有名になる前でしょう。「入間牛蒡」もありません。

当村より江戸へ八里、川越江弐里、岩槻へ九里、騎西江七里、熊谷へ九里、八王子へ八里

惣家数九拾四軒 大部分が本百姓の家で、職人は1軒だけ。別のところに書いてあった商人6軒は百姓の兼業らしい。
人別四百六拾四人(男女童の他に出家・道心) 馬数三拾壱匹(毛色で分類)
人口は、最後になってやっと出てきました。江戸時代の国勢調査は、現在のそれとはポイントが違うようです。
[74270] 2010年 3月 6日(土)09:11:42ピーくん さん
感想
[74261]山野さん
いつも情報提供ありがとうございます。釣られてみます。
「委員を委嘱するか」「設置の上、休止するか」「形だけ設置して県に届けるか」などを討議し、
準備会としては会の設置や届け出などは行わず、自然に消滅させる方向でまとめた。
両首長とも「実質的な必要性は無い」という認識では一致している。
合併協議の必要は無いことは事実だと思いますが、むしろ

法律には設立前の協議会を中止する規定が無い。2日には首長会談で協議したが、形式上であっても法に沿って会を設置したい古沢悦夫町長と「合併しない以上設置は無意味」とする佐藤信市長との隔たりは大きく、方針は未定のままだ。
私は、こちらのほうが下野新聞の記事が伝えたいことではないのでしょうか?合併協議会を設置して協議して休止や解散を決めたい西方町長と合併協議会を設置せず休止や解散をしたい鹿沼市長の意見に食い違っています。
合併協議自体はしない方向ではまとまっているのですが、もう少し合併協議会の設置や解散時期の協議に時間がかかりそうです。間違っていたらすみません。
新・栃木市との合併協議はいつ始まるのかも興味がありますが。

3月8日には山梨県南巨摩郡富士川町が誕生します。ここで、更新されなくても3月21日の滋賀県近江八幡市の誕生以降は合併が大量に控えていますので、でるでるさんの更新作業の復帰をお待ちしています。
[74269] 2010年 3月 6日(土)02:38:36【1】YT さん
東西二つの伊達藩における江戸時代の人口増加
江戸時代の四国における人口増加と、対照的に東北における人口の停滞を端的に示す面白いデータが入手できましたので紹介します。四国の宇和島藩と東北の仙台藩は、ともに伊達家が入り、それぞれに宗門改めによる人口データがかなりの年数存在します。

1. 玉山勇, 「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 73巻(1号), pp. 63-94 (1942年).
2. 安澤秀一 「宇和島藩切支丹類族改・宗門人別改・公儀え指上人数改の基礎的研究」 『史料館研究紀要』 (12号), pp. 1-210 (1980年).
3. 高木正朗, 新屋均, 「近世国家の人口とその趨勢 ―仙台藩郡方・一関藩村方人口の復元: 1668-1870年―」 『立命館大学人文科学研究所紀要』 (87号), pp. 7-39 (2006年).
これらの論文から宇和島藩と仙台藩の人口データを拾ってきました。

まず17世紀末におけるそれぞれの藩の身分別人口です。

宇和島藩仙台藩(一関藩を含む)
年号元禄4年(1691年)元禄8年(1695年)
武家・奉公人7,202205,916
町方4,25422,706
寺社方1,0132,884
郡方(在浦方)73,140588,251
総人口85,609819,749

仙台藩には20万人以上の武士がいることになていますが、仙台藩には半士半農の郷士階級が大量におり、これらの人口が武家・奉公人階級含まれます。これが19世紀初頭の享和2年(1802年)には

宇和島藩仙台藩(一関藩を含む)
武家・奉公人6,628143,208
町方3,42413,302
寺社方1,7334,496
郡方(在浦方)103,575478,064
その他2,196
総人口117,556639,070

と、100年以上の間で仙台藩が22%も人口が減少している(武家階級すら減っている)のに対し、宇和島藩では37%も人口が増加しています。

以下、それぞれの藩の農村部人口(宇和島藩では在浦方、仙台藩では郡方と呼ぶ)に限っての人口変動を比較していみます。というのは宇和島藩では他の階級の人口史料もかなり残っておりますが、仙台藩の方はかならずしも十分な数の武家階級、町方等の人口統計が残っているわけではありません。また仙台藩は、近江、常陸、下総にも飛び地を持っておりますが、ここでは陸奥の知行領(支藩の一関藩領を除く)のみの郡方人口を取り上げます。宇和島藩の方も支藩の伊予吉田藩領の在浦方人口は含まれておりません。

年号西暦宇和島藩在浦方(1690年を100.00)仙台藩陸奥領内郡方(1690年を100.00)
寛文8年1668年428,95184.46
延宝2年1674年473,89293.30
貞享3年1686年538,697106.06
元禄3年1690年71,567100.00507,900100.00
元禄4年1691年73,140102.20
元禄7年1694年539,855106.29
元禄8年1695年542,268106.77
享保2年1717年551,951108.67
寛保2年1742年559,204110.10
延享4年1747年556,887109.65
寛延元年1748年551,796108.64
寛延2年1749年550,158108.32
寛延3年1750年551,875108.66
宝暦元年1751年551,000108.49
宝暦2年1752年551,367108.56
宝暦3年1753年550,001108.29
宝暦4年1754年541,110106.54
宝暦6年1756年539,036106.13
宝暦7年1757年534,901105.32
宝暦8年1758年517,263101.84
宝暦9年1759年515,430101.48
宝暦10年1760年514,576101.31
宝暦11年1761年95,041132.80512,641100.93
宝暦12年1762年95,319133.19513,625101.13
宝暦13年1763年530,252104.40
明和元年1764年525,391103.44
明和2年1765年525,067103.38
明和3年1766年524,845103.34
明和4年1767年525,595103.48
明和5年1768年524,023103.17
明和6年1769年522,759102.93
明和7年1770年520,485102.48
明和8年1771年96,442134.76519,557102.30
安永元年1772年96,303134.56522,346102.84
安永2年1773年96,065134.23519,714102.33
安永3年1774年96,387134.68518,691102.12
安永4年1775年96,333134.61516,062101.61
安永5年1776年96,713135.14516,481101.69
安永6年1777年96,018134.17510,249100.46
安永7年1778年96,652135.05509,112100.24
安永8年1779年96,781135.23505,79899.59
安永9年1780年96,757135.20503,93199.22
天明元年1781年97,243135.88502,12498.86
天明2年1782年97,449136.16
天明3年1783年98,161137.16493,24597.11
天明4年1784年98,475137.60478,89494.29
天明5年1785年97,748136.58413,19181.35
天明6年1786年96,988135.52411,49681.02
天明7年1787年96,547134.90410,97480.92
天明8年1788年96,127134.32410,19680.76
寛政元年1789年95,730133.76409,63280.65
寛政2年1790年95,907134.01410,40180.80
寛政3年1791年96,669135.07411,17380.96
寛政4年1792年97,278135.93
寛政5年1793年97,828136.69
寛政6年1794年98,915138.21
寛政7年1795年99,803139.45411,82381.08
寛政8年1796年100,650140.64415,05481.72
寛政9年1797年101,604141.97423,07483.30
寛政10年1798年101,923142.42425,78683.83
寛政11年1799年102,992143.91431,48884.96
寛政12年1800年102,563143.31437,20486.08
享和元年1801年102,982143.90439,12586.46
享和2年1802年103,575144.72440,79986.79
享和3年1803年104,170145.56440,76986.78
文化元年1804年103,769145.00436,76385.99
文化2年1805年438,23786.28
文化3年1806年438,65886.37
文化4年1807年436,46885.94
文化5年1808年435,96785.84
文化8年1811年453,07089.20
文化9年1812年457,30190.04
文化10年1813年458,87690.35
文化11年1814年463,72491.30
文化12年1815年468,14992.17
文化13年1816年472,03092.94
文化14年1817年475,48193.62
文政元年1818年477,01393.92
文政2年1819年478,65494.24
文政3年1820年478,37294.19
文政4年1821年479,21194.35
文政5年1822年477,63794.04
文政6年1823年480,67094.64
文政7年1824年482,20094.94
文政8年1825年481,19094.74
文政9年1826年482,88495.07
文政10年1827年486,64095.81
文政11年1828年490,57196.59
文政12年1829年495,74497.61
天保元年1830年494,08097.28
天保2年1831年495,50197.56
嘉永元年1848年137,681
嘉永2年1849年139,046194.29
嘉永5年1852年140,902478,61394.23
嘉永6年1853年140,902196.88486,60995.81
安政元年1854年492,98897.06
安政2年1855年500,14998.47
安政6年1859年146,414204.58
万延元年1860年147,422205.99
文久元年1861年148,333207.26
文久2年1862年149,109208.35
文久3年1863年148,006206.81540,176106.35
元治元年1864年148,032206.84
慶応元年1865年148,936208.11
慶応2年1866年149,671209.13
慶応3年1867年150,707210.58556,983109.66

とまあ、宇和島藩は約180年間で人口が倍増したのですが、仙台藩では天明の大飢饉で人口の2割が減少するという事態が起こっているというわけです。しかしながらそれでも幕末には仙台藩も人口増加に転じています。ペリー来航の直前の弘化3年(1846年)から明治3年(1870年)頃までの約25年間は、全国的な人口調査が欠落していますが、人口の方は3000万人から3300万人へとわずかに増加していると推測され、江戸時代の人口横ばいの時期を脱したと評価する人もいます。

宇和島藩に限らず西日本全般は人口が増加しています。それに対し、近畿、関東、陸奥は人口が横ばいか、減少しています。明治維新の原動力は西南諸藩における人口増加と国力増大、東日本諸藩や幕府天領における人口減少と国力衰退にあると評する人もいるわけです。

【追記】1690年の人口を100に正規化して宇和島藩と仙台伊達藩の人口を比較しましたが、高木正朗らの論文では1690年の郡方人口は怪しいとして採用されていません。
[74268] 2010年 3月 6日(土)01:41:26YT さん
享保から平成までの四国の人口変動 (II)
(4) 国勢調査以降
1947年以前は現在人口、1948年以降は常住人口。また国勢調査、臨時国勢調査(1947年10月1日)、人口調査(1944年2月22日、1945年11月1日、1946年4月26日)、常住人口調査(1948年8月1日)以外の10月1日付の人口は、統計局のサイトにある公式に補間された推定人口です。

西暦徳島県香川県愛媛県高知県四国全国割合(%)
1920年10月1日670,212677,8521,046,720670,8953,065,67955,963,0535.478
1921年10月1日673,300677,2001,056,300679,9003,086,70056,665,9005.447
1922年10月1日680,300681,3001,067,600678,8003,108,00057,390,1005.416
1923年10月1日685,100693,6001,085,000681,2003,144,90058,119,2005.411
1924年10月1日688,900696,3001,089,300686,3003,160,80058,875,6005.369
1925年10月1日689,814700,3081,096,366687,4783,173,96659,736,8225.313
1926年10月1日692,000709,4001,111,900694,5003,207,80060,740,9005.281
1927年10月1日696,700715,6001,120,100699,0003,231,40061,659,3005.241
1928年10月1日701,000721,8001,128,300703,5003,254,60062,595,3005.199
1929年10月1日707,000726,5001,134,100708,2003,275,80063,460,6005.162
1930年10月1日716,544732,8161,142,122718,1523,309,63464,450,0055.135
1931年10月1日720,900746,5001,169,400728,2003,365,00065,457,5005.141
1932年10月1日723,300758,5001,167,100733,6003,382,50066,433,8005.092
1933年10月1日728,100760,7001,160,600733,5003,382,90067,431,6005.017
1934年10月1日729,200751,2001,163,900723,5003,367,80068,308,9004.930
1935年10月1日728,748748,6561,164,898714,9803,357,28269,254,1484.848
1936年10月1日729,500735,7001,176,600715,5003,357,30070,113,6004.788
1937年10月1日728,300732,5001,182,000718,0003,360,80070,630,4004.758
1938年10月1日716,100731,7001,162,300706,2003,316,30071,012,6004.670
1939年10月1日706,200725,8001,143,300697,7003,273,00071,379,7004.585
1940年10月1日706,700716,2001,159,400697,6003,279,90071,933,0004.560
1941年10月1日699,100708,7001,158,500690,7003,257,00071,678,0004.544
1942年10月1日699,700710,0001,167,500691,6003,268,80072,386,0004.516
1943年10月1日701,100711,1001,177,700691,9003,281,80072,887,7004.503
1944年2月22日703,260713,1341,186,491693,0533,295,93873,064,3164.511
1945年11月1日835,763863,7001,361,484775,5783,836,52571,998,1045.329
1946年4月26日829,405872,3121,380,700797,8763,880,29373,114,1365.307
1947年10月1日854,811917,6731,453,887848,3374,074,70878,101,4735.217
1948年8月1日869,290934,1231,481,106866,3854,150,90480,216,8965.175
1948年10月1日872,200931,3001,475,000862,3004,140,80080,002,5005.176
1949年10月1日872,500940,2001,499,300869,4004,181,40081,772,6005.113
1950年10月1日878,511946,0221,521,878873,8744,220,28583,199,6375.072
1951年10月1日874,000944,0001,523,000871,0004,212,00084,541,0004.982
1952年10月1日874,000940,0001,526,000872,0004,212,00085,808,0004.909
1953年10月1日874,000938,0001,526,000874,0004,212,00086,981,0004.842
1954年10月1日876,000939,0001,531,000879,0004,225,00088,239,0004.788
1955年10月1日878,109943,8231,540,628882,6834,245,24389,275,5294.755
1956年10月1日874,000943,0001,541,000883,0004,241,00090,172,0004.703
1957年10月1日865,000936,0001,532,000875,0004,208,00090,928,0004.628
1958年10月1日860,000930,0001,524,000871,0004,185,00091,767,0004.560
1959年10月1日856,000928,0001,516,000866,0004,166,00092,641,0004.497
1960年10月1日847,274918,8671,500,687854,5954,121,42393,418,5014.412
1961年10月1日839,000911,0001,488,000845,0004,083,00094,287,0004.330
1962年10月1日832,000904,0001,474,000835,0004,045,00095,181,0004.250
1963年10月1日826,000904,0001,462,000828,0004,020,00096,156,0004.181
1964年10月1日820,000902,0001,451,000821,0003,994,00097,182,0004.110
1965年10月1日815,115900,8451,446,384812,7143,975,05898,274,9614.045
1966年10月1日808,000896,0001,437,000805,0003,946,00099,036,0003.984
1967年10月1日804,000898,0001,432,000801,0003,935,000100,196,0003.927
1968年10月1日798,000899,0001,425,000796,0003,918,000101,331,0003.867
1969年10月1日794,000903,0001,421,000791,0003,909,000102,536,0003.812
1970年10月1日791,111907,8971,418,124786,8823,904,014103,720,0603.764
1971年10月1日791,000916,0001,423,000787,0003,917,000105,145,0003.725
1972年10月1日794,000926,0001,431,000792,0003,943,000107,595,0003.665
1973年10月1日797,000938,0001,440,000798,0003,973,000109,104,0003.641
1974年10月1日801,000951,0001,452,000802,0004,006,000110,573,0003.623
1975年10月1日805,166961,2921,465,215808,3974,040,070111,939,6433.609
1976年10月1日809,000970,0001,476,000814,0004,069,000113,094,0003.598
1977年10月1日813,000979,0001,486,000819,0004,097,000114,165,0003.589
1978年10月1日818,000986,0001,493,000824,0004,121,000115,190,0003.578
1979年10月1日822,000993,0001,500,000829,0004,144,000116,155,0003.568
1980年10月1日825,261999,8641,506,637831,2754,163,037117,060,3963.556
1981年10月1日827,0001,005,0001,512,000833,0004,177,000117,902,0003.543
1982年10月1日830,0001,010,0001,517,000836,0004,193,000118,728,0003.532
1983年10月1日831,0001,014,0001,522,000838,0004,205,000119,536,0003.518
1984年10月1日834,0001,018,0001,526,000839,0004,217,000120,305,0003.505
1985年10月1日834,8891,022,5691,529,983839,7844,227,225121,048,9233.492
1986年10月1日835,0001,024,0001,528,000838,0004,225,000121,660,0003.473
1987年10月1日835,0001,024,0001,525,000836,0004,220,000122,239,0003.452
1988年10月1日834,0001,025,0001,522,000833,0004,214,000122,745,0003.433
1989年10月1日833,0001,023,0001,519,000830,0004,205,000123,205,0003.413
1990年10月1日831,5981,023,4121,515,025825,0344,195,069123,611,1673.394
1991年10月1日831,0001,023,0001,513,000822,0004,189,000124,101,0003.375
1992年10月1日830,0001,024,0001,511,000819,0004,184,000124,567,0003.359
1993年10月1日831,0001,025,0001,508,000817,0004,181,000124,938,0003.346
1994年10月1日830,0001,026,0001,508,000817,0004,181,000125,265,0003.338
1995年10月1日832,4271,027,0061,506,700816,7044,182,837125,570,2463.331
1996年10月1日831,0001,027,0001,505,000816,0004,179,000125,859,0003.320
1997年10月1日830,0001,026,0001,503,000816,0004,175,000126,157,0003.309
1998年10月1日829,0001,025,0001,501,000816,0004,171,000126,472,0003.298
1999年10月1日827,0001,025,0001,496,000815,0004,163,000126,667,0003.287
2000年10月1日824,1081,022,8901,493,092813,9494,154,039126,925,8433.273
2001年10月1日822,0001,022,0001,490,000812,0004,146,000127,316,0003.256
2002年10月1日820,0001,020,0001,485,000810,0004,135,000127,486,0003.243
2003年10月1日818,0001,018,0001,481,000806,0004,123,000127,694,0003.229
2004年10月1日814,0001,016,0001,475,000802,0004,107,000127,787,0003.214
2005年10月1日809,9501,012,4001,467,815796,2924,086,457127,767,9943.198
2006年10月1日805,3271,009,0861,460,027789,4504,063,890127,769,5103.181
2007年10月1日799,9161,005,7031,451,976781,5854,039,180127,770,7943.161
2008年10月1日794,1281,002,5141,443,927773,4364,014,005127,692,2733.143

高知県(73万人)は1932年、香川県(76万人)は1933年、徳島県(73万人)は1936年、愛媛県(118万人)は1937年に最初の人口の極大を迎え、人口が減少に向かいます。四国全体の人口は1933年を極大(338万人)に減少に転じます。

四国の人口は1941年に326万人まで低下しますが、開戦とともにすべての県で人口が増加に転じます。四国人口の全国に占める割合も1943年の4.5%まで低下しますが、太平洋戦争の終戦期に四国の人口が再び爆発的に増加に転換し、1945年には四国人口の全国に占める割合は5.3%まで回復します。また終戦の1年で60万人以上の人口増加が起こります(330万人→384万人)。

その後徳島県(88万人)は1950年に、香川県(95万人)は1951年に、愛媛県(154万人)・高知県(88万人)は1956年に人口極大を迎え、四国全体では1955年を最大(425万人)として人口減少に転じます。

その後香川県(90万人)は1966年に、徳島県(80万人)は1967年に、愛媛県(142万人)・高知県(77万人)は1970年に人口極小を迎え、四国全体では1955年を極小(391万人)として人口増加に転じます。

その後愛媛県(153万人)と高知県(84万人)は1985年に、徳島県(84万人)は1987年に、香川県(103万人)は1995年に、人口極大を迎え、四国全体では1985年を極大(423万人)として人口増加に転じます。香川県だけ人口減少に転じる時期が若干遅れます。
[74267] 2010年 3月 6日(土)01:39:46YT さん
享保から平成までの四国の人口変動 (I)
[74259] hiroroじゃけぇ さん

先月のことですが、香川県の推計人口(2月1日現在)で、100万人割れの99万9515人となりましたね。これも、香川県ではニュースとなっていました(岡山でも、勿論流れています)四国の人口減少が進んでいるということに、改めて気づかされました。

江戸時代からの四国の人口をまとめてみました。

(1) 江戸時代
キリシタン取り締まりの目的で宗門人別改制度が成立しますが、徳川吉宗以降江戸幕府は各藩が実施した人別改を国別、男女別に分けて報告させ、その結果を集計しました。なお原則として武家人口が除かれています。そこで参考までに最後の列に、幕府が掌握した領民人口に1.2を乗じた値を「推定人口」として載せます。

四国が全国人口に占める割合は、1721年の5.9%から1846年の7.2%に増えています。
またこの125年間の間、日本の人口はほとんど変動がなかった(3.2%増加)のに対し、四国自体の人口は、推定180万人から230万人へと、27%も増加しています。

年号西暦阿波讃岐伊予土佐四国全国割合(%)四国推定人口
享保6年1721年342,386334,153504,045351,5471,532,13126,065,4255.8781,838,600
寛延3年1750年336,905357,326499,860368,1921,562,28325,917,8306.0281,874,700
宝暦6年1756年363,254362,874508,592372,7661,607,48626,070,7126.1661,929,000
天明6年1786年369,280384,851514,773392,5971,661,50125,086,4666.6231,993,800
寛政4年1792年368,536386,062516,186387,0401,657,82424,891,4416.6601,989,400
寛政10年1798年375,358396,122531,378399,7021,702,56025,471,0336.6842,043,100
文化元年1804年425,304395,980529,829409,4131,760,52625,621,9576.8712,112,600
文政5年1822年446,291409,815563,669443,4781,863,25326,602,1107.0042,235,900
文政11年1828年454,120422,508574,847445,4731,896,94827,201,4006.9742,276,300
天保5年1834年459,244432,648585,651455,3061,932,84927,063,9077.1422,319,400
天保11年1840年431,050419,969580,589451,8711,883,47925,918,4127.2672,260,200
弘化3年1846年448,287433,880599,948461,0311,943,14626,907,6257.2222,331,800

(2) 明治時代、四県成立前
1883年1月1日以前は本籍人口、1884年1月1日以降は現住人口でまとめました。なお1876年1月1日以前の5ヶ年分は、名東県に淡路国が含まれており、四国の合計より除外しました(1872年:164,939人;1873年:165,485人;1874年:165,962人;1875年:166,806人;1876年:166,925人)。
明治9年(1876年)、四国は全国人口の7.4%を占め、もっとも四国の存在が高い時期でした。
西暦徳島県名東県香川県愛媛県石鉄県神山県高知県四国全国割合(%)
1872年3月8日名東県750,985559,712石鉄・神山県418,561357,413524,5112,446,24333,110,8257.388
1873年1月1日名東県755,533564,351石鉄・神山県420,303358,253526,2852,459,24033,300,6757.385
1874年1月1日名東県1,335,364名東県786,408愛媛県愛媛県528,7282,484,53833,625,6787.389
1875年1月1日名東県1,349,672名東県791,522愛媛県愛媛県531,8632,506,25133,997,4497.372
1876年1月1日名東県787,160591,584793,214愛媛県愛媛県534,0702,539,10334,338,4047.394
1877年1月1日高知県高知県愛媛県1,394,091愛媛県愛媛県1,160,2352,554,32634,628,3657.376
1878年1月1日高知県高知県愛媛県1,403,693愛媛県愛媛県1,164,7232,568,41634,898,5767.360
1879年1月1日高知県高知県愛媛県1,432,627愛媛県愛媛県1,185,7642,618,39135,768,5567.320
1880年1月1日高知県高知県愛媛県1,438,895愛媛県愛媛県1,179,2472,618,14235,928,8217.287
1881年1月1日637,550高知県愛媛県1,453,472愛媛県愛媛県550,6862,641,70836,358,9947.266
1882年1月1日642,172高知県愛媛県1,472,680愛媛県愛媛県546,6422,661,49436,700,1187.252
1883年1月1日649,616高知県愛媛県1,491,614愛媛県愛媛県549,1842,690,41437,017,3027.268
1884年1月1日651,109高知県愛媛県1,511,820愛媛県愛媛県546,9772,709,90637,687,6457.190
1885年1月1日651,731高知県愛媛県1,527,562愛媛県愛媛県548,6382,727,93137,975,0697.183
1886年1月1日656,064高知県愛媛県1,529,375愛媛県愛媛県552,5132,737,95238,276,3767.153
1886年12月31日661,548高知県愛媛県1,533,988愛媛県愛媛県557,7762,753,31238,833,4157.090
1887年12月31日670,963高知県愛媛県1,557,257愛媛県愛媛県562,0662,790,28639,510,1467.062

(3) 明治時代四県成立以降、大正時代国勢調査開始前まで
人口は現住人口でまとめました。四国の人口は増加していますが、全国からみると人口増加率が平均以下で、四国人口の全国に占める割合は低下しています。
西暦徳島県香川県愛媛県高知県四国全国割合(%)
1888年12月31日676,154660,484906,414569,8742,812,92640,105,4797.014
1889年12月31日681,863668,548921,708575,8522,847,97140,692,8086.999
1890年12月31日683,994672,557926,972577,9372,861,46040,968,8356.984
1891年12月31日682,225673,004933,510580,3302,869,06941,268,7326.952
1892年12月31日682,398675,940940,009584,5692,882,91641,696,8476.914
1893年12月31日679,046675,237942,632587,4282,884,34342,060,9766.858
1894年12月31日670,745671,638945,101590,8752,878,35942,430,9856.784
1895年12月31日674,976674,600956,166598,0112,903,75343,048,2266.745
1896年12月31日675,570673,378964,079600,8652,913,89243,499,8336.699
1897年12月31日676,694676,681971,955609,0052,934,33543,978,4956.672
1898年12月31日688,123694,280995,441622,9503,000,79445,403,0416.609
1903年12月31日707,545711,6031,034,962646,0083,100,11848,542,7366.386
1908年12月31日720,888729,5631,057,547670,9103,178,90851,742,4866.144
1913年12月31日742,320759,5561,097,989693,5483,293,41355,131,2705.974
1918年12月31日744,088714,3741,128,039708,7103,295,21158,087,2775.673
[74266] 2010年 3月 6日(土)00:23:14笠津前浜 さん
フェリーはいいですねぇ。
[74259]hiroroじゃけぇ さん
しかし、今後この航路の存続がうまくいけば、他の航路も存続の方法が見つかるかもしれません。

宇高航路の乗船経験はありませんが、フェリーは14~5路線ほど利用してきました。広島~別府を2輪車で渡ったことも。ともかく、休んでいるうちに距離が稼げるのはありがたいのです。とは言え航路の維持がなされるかどうか、は経営判断でしょうから、外野としてできることは、意見することぐらいでしょうか。

それにしても、高速道路会社には数兆円も渡しておいて、他の交通機関の存続を危ぶませてしまう国の政策には納得ができません。これは前政権における政策によるものですが、現政権がどのような対応をとるのかは見ものだと思います。

昨年の選挙前に、現政権を担う方々が高速道路の無料化を公約し、前政権が対抗措置として打ち出した政策が制限つきの土日料金1000円だったと思います。現政権が公約を守るならば、この先さらに高速道路会社にお金が渡されることでしょう。
[74265] 2010年 3月 5日(金)23:01:18まがみ さん
遅ればせながら
[74226]白桃さん
ご指摘のとおりでした。長尾村2,013人を足したあとの数値でした。
新潟市+巻町のケースには気付きましたが、神戸市の方は調査不足でした。

[74227]稲生さん
ご指摘ありがとうございます。数値をコピーするときに間違ってしまったようです。
正しくは
--------------------
昭和45年国勢調査人口
札幌市1,010,123
川崎市973,486
福岡市853,270
--------------------
でした。

訂正期限を過ぎてしまいましたので、自戒を込めて元の記事[74225]はそのままにしておきます。
[74264] 2010年 3月 5日(金)22:34:50BANDALGOM さん
放蕩
[74262]小松原ラガーさん
河口湖駅前で馬鹿正直にほうとうを買ったのですが、ひょっとしてまがいものだったのかなぁ・・・。(謎)

拙稿[74256]の「県Aで最もメジャーな麺類(ほうとう)とは違う種類の麺類が有名なところ」を受けたものかと推察しますが、まぁ、「山梨県=ほうとう」のイメージは強いですからね・・・。

「町Bの隣の市」、つまり富士吉田市は「吉田のうどん」が有名ですが、首都圏でもやっと知られるようになったところで、全国的にはまだまだでしょう。
私がこれを知ったのも、ここ3年かそこらではないかと・・・。

私が初めてほうとうを食べたのも、富士河口湖町(旧足和田村)でのことですし、本栖湖へ3回行った時もほうとうを買い、昨年8月には本栖湖でほうとうを食べています。

ということで、まがいものではないでしょう。
お買い上げのほうとうの製造元にはたぶん、山梨県内のどこかの住所が書いてあると思いますし。

むしろ、「吉田のうどん」も食べてみたいですが、富士吉田市以外ではお目にかかれないのかもしれません。
本栖湖の食堂にもなかったですし・・・。
[74263] 2010年 3月 5日(金)22:21:49みかちゅう さん
宇高航路、とりあえず存続
[74259]hiroroじゃけぇさん
深夜も40分間隔で運行されていた宇高航路でいきなり廃止届を提出したというのは、フェリー業界の高速道路ばかり優遇する政治への不満が現れたものであり、「このままでいいのか」と一石を投じる意味もあったのでしょう。実際、岡山・香川のマスコミにとどまらず全国版で報道されたこともあり、その面では成功したとも言えます。この1年間で本四航路は他にも廃止されたものがありますが、ここまで話題にできたのはさすが宇高航路というべきなのでしょうか。

さて、廃止届を撤回した国道フェリーは「高速無料化などが実施されれば「自助努力では無理」と再度の撤退を示唆した」とのことですが、今後の見通しはどうなのでしょう。
(1)自動車(トラック)の航送は継続するのか?
トラックをたくさん乗せることを前提に運航してきたフェリーなので、トラックの利用が大幅に減った現在では輸送力が過剰になっています。当面の存続が航路廃止を前提とした激変緩和措置なのか、「どうせ高速料金は政治のおかげで安くなっているだけ(民間企業の価格競争の一環ではない)だから、いずれ元に戻される」と見込んでそのときまでしのいでおこうという考えなのか。
(2)24時間運航は継続するのか?
深夜運航はトラック輸送のためにあるものです。生活航路として残すのであれば、長くても午前6時~午後9時の運航があれば十分です。それ以外の時間帯に移動したいのであれば瀬戸大橋線が走っています。高松発4:30・岡山発24時過ぎというのは、新幹線との接続とはいえ地方都市間の輸送にしては破格といえるでしょう。
(3)フェリー運賃値上げの可能性は?
ここで値上げすると更なる客離れは確実ではないかと思われるでしょうが、ヒトの輸送に関しては連絡船時代の慣習からか、他の離島航路よりも安めに設定されているようです。そこで他の離島航路並みに値段を上げて存続を図るというわけです。値上げを嫌って乗客が大幅に減るようであれば、別に航路がなくても差し支えなかった=安いから使われていただけ、と判断されて廃止はやむなしでしょう。

今後も本四の貨物輸送を担う航路として存続を図るのか、大幅に縮小して宇野~高松のローカル輸送のみを行う形にするのか、果たしてどうなっていくのでしょうか。
[74262] 2010年 3月 5日(金)17:17:49小松原ラガー さん
いや、富士山はすばらしい眺めでした・・・
小松原ラガーです。

[74253] Issie さん
[74255] 千本桜 さん
[74256] BANDALGOM さん

レスありがとうございます。はい、実は東京に行ったついでに富士河口湖町まで行ってまいりました。

土曜日の朝に神戸を出て伊丹から飛行機で羽田へ。そこから京急に乗って隣の【区1】のとある駅で降りて人と待ち合わせ。そこで最初の用事を済ませたあと、車で都内を移動。第一京浜は通らずに、なんだかカタカナ交じりの駅が2つほど続く鉄道路線の近くの道を北上。【区2】に入って「ノックアウトされそうな名前の大学」の近くを通って、赤いタワーを正面に見ながら首都高速沿いに左折。むむっ、「丘たち」を左に見ながら更に進み、車は御用地を右に見ながら右折して隣の【区3】に。お堀と思われる水路が見えてきたら、ほどなくこの日の2つ目の目的地。日本の守りの要の場所が近くにあるのかな?2つ目の目的地で用事を済ませたあとは、同じ【区3】の中を西に進んでヴィッセル神戸のFWの選手と同じ名前の駅の近くで韓国風の料理を食らう。そのあと、前述の2つ目の目的地に戻って車で一緒だった人たちとは解散。そのあと一人で地下鉄に乗り、3駅目の駅で降りた。ここは【区4】なのだが、ここから数分歩いたところがこの日の最後の目的地。この目的地は微妙だが【区5】。ということで【区4】と【区5】を行き来することに。そういえば近くに女子大があったような・・・。

と、ここまでは読み流して頂いて結構です。とにかく、とある用事で昼間都内をうろうろしておりました。で、午後4時過ぎに予定通りフリーになり、そのあと何とか都営新宿線に流れ込み新宿へ。面倒なのでそのまま京王に乗って八王子まで。一旦下車して、再度北野経由で高尾まで。そこから県A=山梨県は大月までJRにのり、途中で県C=神奈川県を通過しました。更に富士急行で富士吉田の折り返しを経験しながら町B=富士河口湖町の河口湖駅まで。実は笹塚で電車が地上に出たときからもう既に薄暮状態で、景色は楽しめず。河口湖駅到着は既に午後8時を過ぎていたかな?宿もドミトリータイプの相部屋だったのですが、さっさと飯を食って風呂に入って寝るだけ。
しかし、次の日に朝風呂を浴びに行ってビックリの3乗くらいビックリしました。共同風呂の湯船から外を眺めると視界一面に富士山!!いや、湯につかって足を伸ばして見る雄大な富士山の眺めは最高そのものでした。

で、ゆっくり河口湖観光でもしてくりゃよかったのですが、銀座でどうしてもしておきたいことがあったため、そそくさと来た道を帰っていきました。ただ、新宿には戻らず、なぜか明大前で乗り換えて渋谷に向かい、そこから副都心線で池袋まで行き、丸の内線で銀座まで戻るというアホみたいなことをしてしまいました。で、生まれてはじめての銀座の歩行者天国体験となりました。

少々疲れていたこともあり、そこからはさっさと羽田に向かい、空港のラウンジで帝京vs東海のラグビー大学選手権の決勝を見ながら休息。夕方の飛行機で帰ったという次第です。

さて、「読み流していただいて結構です。」とは言ったものの、興味のある方、上述の【区1】~【区5】の名称は?^^;
って、隣接している区ですからだいたいお分かりかと思います。羽田のある大田区から、隣のS1区、更に隣のM区、更に隣のS2区と移動して昼飯。そこからはB区内に移動してT区との境目をうろうろしていたのですが・・・。

P.S.
河口湖駅前で馬鹿正直にほうとうを買ったのですが、ひょっとしてまがいものだったのかなぁ・・・。(謎)
[74261] 2010年 3月 5日(金)14:05:21山野[山野] さん
合併協、未設置のまま「清算」へ?
昨年の住民投票の結果、栃木地区との合併を選択した西方町。
未だ設置されていない法定協の取り扱いをどうするのか、準備会にて話が浮上したのだが、結果は(以下の通り)
「委員を委嘱するか」「設置の上、休止するか」「形だけ設置して県に届けるか」などを討議し、
準備会としては会の設置や届け出などは行わず、自然に消滅させる方向でまとめた。
両首長とも「実質的な必要性は無い」という認識では一致している。
(元記事:下野新聞より)
…だとか。(詳細は記事をお読み下さいませ。)
[74260] 2010年 3月 5日(金)01:06:51【5】k-ace さん
母音と香川
こんばんは、k-aceです。

古いネタを持ち出しますが、[8736]深海魚[雑魚]さんの類似ネタの2010年3月1日版を。ただし、4月1日までの分の新設、消滅分も反映。

今回調べたのは
(壱)母音を一種類のみ使う市区町村(北方領土六村、政令指定都市の区も含む)
(弐)母音を四種類以上使い、かつ、母音の被りがない市区町村(北方領土六村、政令指定都市の区も含む)

母音は「a」「i」「u」「e」「o」で「エイ」は「ei」,「オウ」は「ou」,「キョ」はky「o」,「ッカ」はkk「a」,「オオ」は「oo」でカウントとしました.
一種類のみだと途中に母音を含まない「ン」が入るものがあり、それが私としては見た目が気になるんですけどね。ということで一応分けてみました。

(壱)母音を一種類のみ使う市区町村(北方領土六村、政令指定都市の区も含む)
[8769]オーナー グリグリさんの形式を参考させていただきました。[8769]の「あ行」等ですが、正しくは「行」ではなく「列」ですね。
八幡浜市は相変わらず唯一の5文字連続ア列の例です。エ列の該当例は本当に見つかりませんネエ。郡まで範囲を拡大すれば岩手県に「気仙郡」があるんですが。
【ア列】
・市
朝霞市、あま市(3/22新設)、阿波市、あわら市、加賀市、笠間市、金沢市、嘉麻市、鎌ケ谷市、佐賀市、酒田市、篠山市、座間市、狭山市、高浜市、高山市、田川市、田原市、多摩市、玉名市、那珂市、長浜市、中間市、那覇市、奈良市、浜田市、柳川市、山鹿市、山形市、山県市、八幡市、八幡浜市、和歌山市
(以下、「ン」も含む)
阿南市、安中市、三田市、丹波市、南丹市、半田市、阪南市
・町
阿賀町、浅川町、海士町、綾町、綾川町、川棚町、川俣町、香春町、坂町、佐川町、佐々町、多可町、多賀町、高畠町、高浜町、太良町、那賀町、中川町、那珂川町(栃木・福岡)、中山町、長柄町、長和町、楢葉町、芳賀町、波田町(3/31合併で松本市に)、塙町、浜中町、早川町、葉山町、矢巾町、山田町、若狭町、若桜町
(以下、「ン」も含む)
阿南町、河南町、苅田町、神流町、甘楽町、北谷町、南関町、嵐山町
・村
赤村、川場村、相良村、紗那村、高山村(群馬・長野)、丹波山村、玉川村、多良間村、中川村、原村、山形村
・区
荒川区(東京特別区)、神奈川区(横浜市)、金沢区(横浜市)、早良区(福岡市)、多摩区(川崎市)、中区(横浜市・浜松市・名古屋市・堺市・岡山市・広島市)、中川区(名古屋市)、長田区(神戸市)、中原区(川崎市)、灘区(神戸市)、博多区(福岡市)、若葉区(千葉市)

【イ列】
・市
壱岐市、志木市、新見市、氷見市、三木市
(以下、「ン」も含む)
日進市
・町
石井町、一色町、仁木町、錦町、日出町、三木町、利尻町
(以下、「ン」も含む)
金武町、新地町
・区
西区(札幌市・さいたま市・横浜市・新潟市・浜松市・名古屋市・大阪市・堺市・神戸市・広島市・福岡市)

【ウ列】
・市
珠洲市、津市、都留市、福津市、府中市(東京・広島)、富津市、むつ市、由布市
・町
雨竜町、玖珠町、寿都町、府中町
・村
留寿都村

【エ列】
無し

【オ列】
・市
大野市、小野市、小諸市、曽於市、遠野市
・町
大豊町、大野町、大淀町、小野町、菰野町、豊頃町、豊能町、能登町
(以下、「ン」も含む)
与論町
・村
本埜村(3/23合併で印西市に)


(弐)母音を四種類以上使用し、かつ母音の被りがない市区町村(北方領土六村、政令指定都市の区も含む)
滝上町が唯一の五種類使用し、かつ母音の被りがない例です。五種類使用のみ(母音の被りあり)なら四條畷市も該当。
●五種類
・町
滝上町

●四種類
【a無し】
・市
嬉野市、下野市、瀬戸内市
・町
喜茂別町、聖籠町、瀬戸内町、東栄町、北栄町、妹背牛町、苓北町
・村
長生村
・区
住之江区(大阪市)、天王寺区(大阪市)、名東区(名古屋市)

【i無し】
・市
浦添市、東金市
・町
湯前町
・村
初山別村

【u無し】
・市
小金井市、八戸市
・町
おいらせ町、清武町(3/23合併で宮崎市に)、竹富町、日之影町

【e無し】
・市
あきる野市、安曇野市、倉吉市、西条市、静岡市、下妻市、大東市、東海市、徳島市、二本松市、藤岡市、武蔵野市、八代市
・町
愛荘町、海陽町、熊取町、神崎町、下諏訪町、庄内町、八丈町、藤岡町(3/29合併で栃木市に)、藤里町、丸森町、与那国町、輪之内町
・村
王滝村、黒滝村、嬬恋村、東海村
・区
上京区(京都市)、大正区(大阪市)、台東区(東京特別区)

【o無し】
・市
芦別市、藤枝市
・町
愛別町、今別町、岩舟町、久米島町、別海町、松茂町


別ネタ。
[74259]hiroroじゃけぇさん
香川県の推計人口(2月1日現在)で、100万人割れ
香川県によると10か月ぶりのようですが、10か月前といえば昨年4月1日(人口流動が大きい時期)。ついに、4月1日ではない時期に100万人割れになってしまったのですね。
[74259] 2010年 3月 4日(木)23:18:22hiroroじゃけぇ さん
宇高航路と香川の人口
先月から話題になっていた「宇高航路の廃止」ですが、宇高国道フェリーの存続が報道されました。6月の高速道路政策によっては、再度廃止も検討するとのことです。今後は、減便などの自助努力で運航する予定だそうです。

ここ数週間、様々な人の意見により、必ずしも必要ではないということが垣間見えました。今回の存続についても、それを大きく反映していると感じています。しかし、今後この航路の存続がうまくいけば、他の航路も存続の方法が見つかるかもしれません。「宇高航路の廃止」については、国土交通大臣からも「国策によって追い詰められた」との表明もあり、今後の存続方法については国も交えて検討する予定でした。今回の自助努力による存続は、今後の国からの何らかの支援があるということの含みがあるようです。それにしても、高速道路会社には数兆円も渡しておいて、他の交通機関の存続を危ぶませてしまう国の政策には納得ができません。これは前政権における政策によるものですが、現政権がどのような対応をとるのかは見ものだと思います。


上の話題と全くの無関係ではない話題。先月のことですが、香川県の推計人口(2月1日現在)で、100万人割れの99万9515人となりましたね。これも、香川県ではニュースとなっていました(岡山でも、勿論流れています)四国の人口減少が進んでいるということに、改めて気づかされました。
[74258] 2010年 3月 4日(木)20:46:41山野[山野] さん
アンケートの結果
でるでるさんへ
アンケート実施期間→先月19日頃~昨日(3日)まで。
<安土町のアンケート結果>
反対:62%
賛成:37.9%
また、新市名の結果は「安土八幡市」が最多だったという。
京都新聞
[74257] 2010年 3月 4日(木)12:53:39【1】ペーロケ さん
町外れ?
[74255]千本桜さん
町外れの農地と家屋が入り混じるこの場所では
航空写真から見たら「町外れ」のように見えますが、実際に運転すると、国道56号の内子町内で最も元気がいい場所のような気がします。内子の中でも五十崎寄りなので、位置的に「内子町の中心」に位置するこの地、インターも近いためか、この辺りだけ4車線道路が整備されていて、郊外型店舗も増えてきました。ということで、この地を「町外れ」と言うにはかなり違和感を感じてしまいます。あえて言うならば、旧市街に対して、「新市街形成中の地」と言うべきか。。。
[74256] 2010年 3月 4日(木)00:31:14BANDALGOM さん
Re:実は・・・
[74252]小松原ラガーさん
いくら隣接していると言っても東京都から県Aへ行くには県Cを通るのが一般的なルートではないでしょうか。
県Cを通らないで行こうとすれば、マイカーで山道を走るしかないところですからね。

町Bの隣の市は、平成の大合併前には県Aで第2の都市だったこと、県Aで最も有名な農産物は取れず、県Aで最もメジャーな麺類とは違う種類の麺類が有名なところですね。
[74255] 2010年 3月 4日(木)00:14:07千本桜 さん
愛媛県内子町VS北海道釧路市
愛媛県内子町(人口18,546)と、その10倍の人口を持つ北海道釧路市(人口184,492)の路線価を単純比較します。人口は2008年10月1日の推計人口。路線価は平成21年分の評価額です。
内子町で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり79,000円。町外れの農地と家屋が入り混じるこの場所では66,000円です。一方、釧路市で最も評価額が高いのはこの場所で、1平方kmあたり66,000円。内子町の町外れと釧路市の中心街が同額とは・・・。

[74252]小松原ラガー さん
この町の中心駅?
その駅は、北島三郎♪「終着駅は始発駅」ですか?
[74254] 2010年 3月 4日(木)00:07:56【1】hmt さん
やっぱりおかしい「日本海中部」
[74244] 右左府 さん
青森県にも被害があったのに「秋田県沖地震」では、秋田県だけ被害があったような印象を受けるから……
[74247] Issie さん
地震や浄波の害は8道府県と韓国におよんだので,上記の公式名称もうなずけよう.

ご紹介していただいた資料に記された理由は、いずれも被災地域が原因地震の発生地域よりも広範囲であることを考慮し、広域地名である「日本海中部」が地震の名に使われたという趣旨のものでした。

しかし、「日本海中部」を地震の名に使ったことは、次の2点において、“やっぱりおかしい”と言わざるを得ません。

その第一は、原因地震を的確に説明すべき発生地域と、結果として生じた被災地域とを混同していることです。
チリで発生した 1960年の地震により、日本でも死者・行方不明者合計142名という大きな津波被害を出した事例を引くまでもなく、災害原因の発生地域と被害地域とは一致しません。

そのことは、誰でもわかっているはずなのですが、ついつい報道される 「地震名に使われた地名」 が、すなわち 「被災地域」 であるような印象を与えてしまうために、“地震の名を秋田県に独り占めさせたくない”という奇妙な感情が生まれてしまうのでしょうか。

災害原因と被害とを 別の名で呼ぶことで、両者の地域差を区別した例もあります。
1995年の「兵庫県南部地震」。
「兵庫県南部」では姫路の方か?とも思ってしまいますが、「阪神・淡路大震災」という名で、被災地域はもっと東であることがわかります。

しかし、芦屋など阪神間の都市における被害に配慮して 広域化した「阪神」という地名を使い、更に「淡路」も加えたので、最大の被害都市「神戸」の名は 大阪の「阪」に続く「神」の1文字だけになりました。
「阪神・淡路」と4文字の内「神」1文字だけに埋もれてしまったことにより、「神戸震災」という言葉のような、強い印象を残さない結果になりました。

1960年チリ地震による津波被害は、岩手県大船渡市(死者53)、宮城県本吉郡志津川町(現・南三陸町)(死者41)など三陸地域が主でした。しかし、これを昔の「島原大変・肥後迷惑」[9212] [23960]にならって「チリ大変・三陸迷惑」又は「チリ地震・三陸津波」と呼んでも、霧多布(死者11)【北海道釧路支庁管内厚岸郡浜中村(当時)】の被害が落ちてしまいます。さりとて「…日本津波」では広域化しすぎて被害地が特定されません。

“やっぱりおかしい”第二の理由、それは 主な理由 でもあるのですが、震央の位置が日本海の「中部」でないことです。

震央地名 (pdfの62コマ)を眺めると、1983年の地震の震央は 「秋田県沖」という区域の北辺付近であり、「日本海中部」は東経138度30分以西です。
もっとも、これは現在の区域図によるもので、1983年当時はもっと東まで日本海中部だったのかもしれません。
現在の区域図では、日本海の東部及び南部に相当する日本列島沿岸は多数の区域に分かれており、その外側に「日本海中部」「日本海北部」「日本海西部」などの区域があります。

当時の区域図は現在のものと異なるかもしれず、実際問題として、地震の名は、発生後短時間に決めることが求められます。
従って、後出しジャンケンのような立場から“やっぱりおかしい”と論じたこの記事の説は、当を得たものではないかもしれません。

批判はさておき、地震の名を秋田県に独り占めさせず、地震発生地域と被災地域との両方を盛り込んだ地震の名にしたい という意見はあると思います。
その場合、誰もが納得できる命名であるかどうかは疑問ですが、例えば「秋田県青森県西方沖地震」という折衷名が考えられます。
また、陸上の気象予報区分を利用した「能代山本津軽沖地震」も候補にすることができるかと思います。

【追記】
上の記事に少し修正を加えたついでに、日本海中部地震を機に注目されるようになった「北アメリカプレート」につき書いておきます。

1983年の日本海中部地震。実はこの地震の後で余震観測が行なわれました。北大・島村英紀
その結果、ここでプレートの押し合いが疑われ、従来北海道中部を通るとされていた北アメリカプレートとユーラシアプレートとの境界を見直した新説が生まれたようです。この新説では、東日本全体が北アメリカプレート上にあるということになりました。参照図

「東日本は北アメリカ」という新説を聞いた当時は驚いたものですが、ユーラシアと北米の2大プレートは、シベリアの北極圏にある軸を中心に回転していて、大西洋中央海嶺へと続いているそうです。
なるほど、日本から遠く離れた場所だと思っていましたが、上記 北大のリンク頁 にある地球の姿を見ると、糸魚川静岡構造線から北に伸びる線は、日本海の東縁、シベリア・北極海を通ってアイスランドから大西洋を縦断する「地球の割れ目」に続いていたのですね。
普通の見方では気が付きにくい地図の楽しみでした。

この北アメリカプレート境界付近と思われる日本海東縁には過去の地震発生地域と、その間に残された空白域とが列をなしており、注目されています。2004年の新潟県中越地震も、ここで起きたのでした。地震情報日誌
[74253] 2010年 3月 4日(木)00:06:00Issie さん
[74252] 小松原ラガー さん
町B、県C

隣の自治体との境にまたがって,スケート選手で有名な遊園地がありましょうか。
なぜか最近,県Cの県庁所在地の中心を系列のバスが走っています。
[74252] 2010年 3月 3日(水)22:46:45小松原ラガー さん
実は・・・
小松原ラガーです。

[74248] かぱぷう さん
「え!?」という方が多いでしょうが、渋谷のハチ公を初めて見ました。銀座のホコ天も初体験。

実は小松原ラガーも今年の1月9日までは銀座のホコ天は未体験でした。9日にとある用事で東京に行き、その日は東京都と接するとある県Aの、ある町Bまで、別の県Cを経由して移動して宿泊し、翌10日の朝に名峰を見てから都内まで戻ってきて銀座のとある店に行ったのですが、丁度休日で初めてホコ天を経験しました。銀座6丁目あたりで「すみません。ここからだとJRの有楽町と新橋とではどちらが近いですか?」と問掛けたら「いや、私も土地の者ではなく今朝札幌から来たところで・・・。」との返事。私含めてホコ天ならぬおのぼりさん天国かな?とちょっと笑っちゃいましたが、ま、思わぬ形での初ホコ天でした。因みに、この日は初副都心線でもありました。

さて、上記の文中の県A、町B、県Cはどこでしょうか?

って、いくらなんでも・・・なんでちょっとヒント。いくら隣接していると言っても東京都から県Aへ行くには県Cを通るのが一般的なルートではないでしょうか。後、町Bですが、鉄道の乗りつぶしも兼ねて行きましたが、いや、この町の中心駅?の駅前のホテルで朝風呂に入ったのですが、名峰の見事のなこと、見事なこと。そういえば、町Bまで行くのに、例えば新宿からだと・・・直通というか電車一本でも行けるのかもしれませんが、私は私鉄、JR、私鉄と乗り継いで行きました。そうそう、湖もきれいなのでしょうが、今回は湖はオミットしました。

てなところでしょうか。^^;
(ま、東京に用事があったとはいえ、普通宿泊をあんなところにはしないっすよね。)

[74249] 白桃 さん
突然飛躍いたしますが、これから、東かがわ市の生きる道といたしましては、そういう大病院をこしらえる歯科内科?

いやぁ、どこかの企業の社長さんのように白桃さんのポケットマネーで報奨金を出せば・・・。^^;
[74251] 2010年 3月 3日(水)22:13:30BANDALGOM さん
官報告示
千葉県印西市・印旛村・本埜村の合併が、5日付の官報に告示されます。
2月19日に県議会で可決された後、22日に知事による合併決定と総務大臣への届出が行われたということですが、それから2週間足らずでの告示です。

最低2週間はみるとして、来週から再来週に告示されると予想していましたが、意外に早かったなぁ・・・。

あとは中之条町・六合村だけです。
[74250] 2010年 3月 3日(水)18:13:31山野[山野] さん
「賛否を問う」住民投票
でるでるさんへ
東出雲町議会は昨日、法定協設置の賛否を問う住民投票としていたものを合併の賛否を問うものに変更し可決されたとの事。
合併反対派議員から修正動議が出されたとかで変更となった模様。
[74249] 2010年 3月 3日(水)00:50:36【2】白桃 さん
なんとか病院
ここんとこ、落書き帳に書き込みをしなかった、祖谷、神戸の1955年人口に口をはさみましたが、ともかく、久しぶりに落書き帳
作家?として・・・。
♪てんてんてんまの天狗さん
茅野市出身、信州大学卒、なんとか病院(松本市)スタッフ、と書けば、皆様、お分かりでしょうけど、私、こういう人、応援したくなります。
でも、彼女がお勤めの病院、スタッフが1500人もいるそうな。その数凄すぎます!
人口1500人に達していない「村」、結構ありますですよ!ハイ、ハイ
突然飛躍いたしますが、これから、東かがわ市の生きる道といたしましては、そういう大病院をこしらえる歯科内科?
文珍さんの落語じゃないですけど、元気なお年寄りがいっぱいきて賑わいそうです。
[74248] 2010年 3月 2日(火)23:50:26かぱぷう さん
東京に行っとったとです。
そろそろ年末年始の食材の発注を掛けんといかんねぇ…なんて職場の連中と話をしていた昨年12月中旬、上司が勤務先にやってきて「かぱぷう、異動ね。」

・・・え?
「いつからですか」「21日から」
「は?今月?」「おう、そうたい」
「…で、どこになるんですか?」「○○(わが社がフランチャイズで数店経営しているチェーン店)のどっかの店」
あゥ…
「知っとうとは思うけどさ、○○の現場責任者になるためには本部で4週間研修受けんといかんけん」
本部、東京です(^^A
と、いうわけで2月はまるまる東京にいました。

そのため「しばらくメンバー紹介編集作業休みます」という私信をグリグリオーナーに送ったところ、「せっかくの機会ですから会いませんか」というありがたいようなこそばゆいような返信が。おかげさまで楽しいひとときを過ごしました。ありがとうございました。


1ヶ月も福岡を離れるのことなんて滅多にないことですから、(住民票を移すわけではないので)東京都を経県値の居住ランクにはしませんが、こっそりメンバー紹介欄の居住地を「東京都中央区」としてみました。会社がよりによって銀座なんかにウイークリーマンションを借りるもんだから、おそらく落書き帳メンバーの中で一番地価の高いところに住んでいたのではないかと(笑)

1ヶ月もいると、さまざまな発見がありました。
「え!?」という方が多いでしょうが、渋谷のハチ公を初めて見ました。銀座のホコ天も初体験。特別区の英語表記が“City”なのも新鮮な驚きでした。

研修も無事終えて、昨日我が家に帰ってきました。やっぱり我が家がいいなとシミジミ思った次第です。
[74247] 2010年 3月 2日(火)23:03:39【2】Issie さん
日本海中部地震
ずっと以前,「湖南市」が話題に上った頃にも書いた記憶があるのですが,
「コナン」というと私が連想するのは「名探偵…」ではなくて1978年にNHKが放送した「未来少年…」の方です(「名探偵…」は視たことがない)。あ,シュワルツェネッガーの映画も,あったっけ。
それはともかく,この「未来少年…」の後半,“転”から“結”への節目に当たるところで大津波のエピソードがありました。
2008年7月(←もう過ぎている…)の戦争で使用された“超磁力兵器”によって「世界の半分が一瞬にして消滅」させられ,大地殻変動に襲われた地球の「地軸はねじ曲がり,五つの大陸はことごとく海に沈んでしまっ」てから20年,地球は青くよみがえったけれども,まだ地殻変動は繰り返されていて,物語の冒頭は“絶海の孤島”であった島が物語の終わりには“大陸の一部”になったりしています(←この間,恐らくはわずか1年足らず。通常の地球活動では起こりえないことですが,ま,お話ですから)。
で,大津波。はるかかなたで起きた地殻変動による津波が主人公たちが暮らしている島を襲う,という場面です。舞台となっている島では地震は発生しておらず,突然津波が襲う,というのは「チリ地震津波」と全く同じタイプのものと言えるでしょう。全く情報がない,という点では,今回の「平成度」よりも1960年の「昭和度」の方により近いかも。
いつの間にか潮がずっと沖まで退いていて,気がつくと沖から立ち上がった波の壁が押し寄せてくる。波が島を洗い,干上がった湾に(爆破されて)沈没していた大型船が波に乗って島を取り巻く丘の中腹まで打ち上げられる。5mか10mくらいの大津波でしょうか。
描かれる津波は,この「第一波」のみ。この後つづいて「第二波」「第三波」…があったのかどうかは語られないのですが,ストーリー展開からすると「第一波」だけで終わったのでしょう。
(実は,物語の中ではもう1つ別の津波が登場します。そしてこの2つの大津波は主要登場人物の1人の心理描写の上で極めて重要な働きをしています。)

ここに登場する津波の描写,何か私たちが一般的に持っている津波のイメージがそのまま投影されているように思います。
ところが,1960年のチリ地震津波,そして1964年の新潟地震による津波以後,1983年の日本海中部地震で津波が発生して犠牲者が出るまで,“現実の津波”を目にすることは多くの日本人にはなかったのではないか。少なくとも私自身は日本海中部地震で初めて“本物の津波”の話題を耳にしました(ただ,当時の私はテレビのない環境にいたので,これを映像で見ることはありませんでした)。そのような中で醸成されていった私たちの“津波のイメージ”が現実のものとは離れてしまったのではないか,という気がしています。
というのも,今回の「チリ地震津波」,そして2004年のインド洋大津波の映像を見て,津波に対するイメージを大幅に改めなければならないのではないか,と感じているからです。
今回,「未来少年コナン」に描かれたような“波の壁”が押し寄せるような場面はなかったようです。いや,震源に近く高い津波が押し寄せたチリではそのような場面があったかもしれませんが。少なくとも画面に見えたのは高い波の壁ではなく,ジワジワと海面が上がって,やがって岸壁を乗り越えて街に流れ込む,というもの。ザッバーン!と一発で打ち砕けるものではなく,“長い周期”で何度も何度も押し寄せる。
今朝(2日)の朝日新聞の「天声人語」が,昭和のチリ地震津波を題材にした吉村昭の『海の壁』から,津波を目撃した漁師の「海が膨れ上がって,のっこ,のっことやって来た」という言葉を引用しています。「のっこ,のっこ」…,じっくり考えると怖い表現だなあ,と思いました。

[74243] hmt さん
なぜ「日本海中部地震」なのでしょうね?

お茶の水女子大学のサイトに掲載されている紀要「お茶の水地理」(そういえば,ここも地理学の研究では定評のあるところでした…)に 「地震の命名」という記事 (pdfファイル)がありました(諏訪彰,第26号,1985年)。こんなことが書いてあります。

--------------------------------------------------------------------------------------
地震名は,震源地ないしは震災地の名にちなんで付けられるのが常であるが,その命名は当事者達の頭を悩ますことが多い.地震名が災害復旧費の獲得などに影響しがちだからである.「北美濃地震」と命名されたのは,震央が岐阜県北西端部で,当初は同県だけの被害が東京へ速報されたためであった.しかし,後日,福井・石川両県でも,同等以上の被害を生じたことが判明し,両県から大いに恨まれたのである.一昨年5月26日の「昭和58年(1983年)日本海中部地震」は,震源地からみて,「秋田県沖地震」などの方が妥当ではないかとの批判が強かった.しかし,北海道-島根県の日本海岸全域に津波予報が出され,地震や浄波の害は8道府県と韓国におよんだので,上記の公式名称もうなずけよう.
--------------------------------------------------------------------------------------

[74244] 右左府 さん
地元では「青森県側への配慮」という話をよく聞きます。青森県にも被害があったのに「秋田県沖地震」では、秋田県だけ被害があったような印象を受けるから……

と同じような趣旨ですね。
[74246] 2010年 3月 2日(火)22:18:07【1】k-ace さん
市の数は増えたのに…、甚目寺町
こんばんは、k-aceです。

[74228]オーナー グリグリさん
微妙な変更です。どこが変わったか分かりますか?)
自分色変更ありがとうございます。また、お手数おかけしましてすみません。本来なら前回の自分色変更の際にちょっと注意しておればこの自分色変更は必要なかったのですが。
前回の自分色変更は、背景色にはこだわっていたのですが、文字色は「とりあえずすべて白でいいや」と思い、そうしたのですが、いざ変更してみると記事タイトル欄の文字がちょっと見にくい。しかし変更したばっかりだったので躊躇していたのですが、月日流れ1年2か月が過ぎ、やっぱり「ちょっと見にくい」と思い、見やすいように記事タイトル欄の文字を黒に変更申請したのでした。以上が微妙な変更の顛末です。

居住地・出身地の都道府県分布(市区町村版)ができたんですね。姶良市誕生後、このページの、加治木町は自動的に姶良市になるのか、加治木町は存在しないので一覧から除外されるのかどっちなんだろうと、ふと思ってしまいました。

さて、本題。
第二回・十番勝負の問七の共通項は
読みの最初と最後が同じ文字の市
なのですが、2010年3月1日現在ではどうなっているのか市区町村に範囲を拡大して調べてみました。
【市】
印西市、貝塚市、笠岡市、亀岡市、北茨城市、杵築市、志布志市、白石市、竹田市、津市、富里市、松山市、瑞浪市
第二回・十番勝負の時は想定解数:14市だったのですが、現在は13市と減っています。第二回・十番勝負開催時は695市で現在は784市と市の数は増えているのですが、該当市は減っています。
当時該当した岩井市、上福岡市は、合併でそれぞれ坂東市、ふじみ野市となり該当しなくなり、その後新たに誕生したのが志布志市のみということで減少となりました。
【町】
石井町、市貝町、岩内町、雨竜町、江迎町、木曽岬町、肝付町、雫石町、白石町、甚目寺町、高畠町、津別町、豊郷町、松島町、みなかみ町、美波町、南大隅町、利尻町
江迎町、甚目寺町は合併で、それぞれ佐世保市、あま市になり、今月中に該当町ではなくなります。
甚目寺町は現在唯一の濁音での該当例なのですが、甚目寺町消滅(あま市誕生)により濁音該当例がなくなってしまいます。
【村】
北相木村、田野畑村、水上村
【区】(東京特別区+政令指定都市の区)
右京区(京都市)、葛飾区(東京特別区)、白石区(札幌市)、南区(札幌市、さいたま市、横浜市、相模原市(4月1日から)、新潟市、浜松市、名古屋市、京都市、堺市、岡山市、広島市、福岡市)

清音、濁音関係なしなら、加賀市、春日市、佐々町、珠洲市、白馬村も加わります。
[74245] 2010年 3月 2日(火)22:14:22hmt さん
川越領福岡村の土地と年貢 (1)寛文四年 河越領福岡村 年貢割付
季節の話題として、税金の話を取り上げてみます。…と言っても、所得税確定申告に役立つようなお話ではありません。

都道府県市区町村を名乗るこの掲示板において、現存する自治体の基礎を作った「近世の村」への関心も深いものがあります。
藩政村・近世の村については、既に88さん、okiさんその他の方による記事もありますが、今回は村の姿を探る資料の一つとして、年貢に関する記録を紹介してみます。

最初に紹介するのは、ふじみ野市上福岡歴史民俗資料館で展示中の古文書です。
2005年9月までは近世の村の名「福岡」を残す 「上福岡市」 を名乗っていましたが、平成の大合併の結果、不動産屋さんが付けた地名 が市の名になってしまいました。

枕噺はこのくらいにして、17世紀の徴税令書を見ましょう。

河越領福岡村辰之年貢可納割付之事
一高三百四拾五石七斗九升 田畑屋敷野共
 米七拾弐石壱斗七升
  内四拾七石四斗 小検見引
  残弐拾四石七斗七升 可納分
此取
 永三拾壱貫九百弐拾九文 定納
  内五百六拾文 定引
   拾五文 卯辰苗木留ニ引
   弐貫九百五拾四文 検見 但壱貫文ニ付百文引
  残弐拾八貫四百文 可納分
一高弐拾九石九斗八升七合 武蔵野開
此永弐貫八百拾四文 定納
 内弐百八拾四文 損免 但壱貫文ニ付百文引
 残弐貫五百三拾文 可納分
右如期相定上者拾月十日ヲ切而急度可致皆済、若其過於無沙汰者以譴責可申付者也因如件
寛文四年
辰十月十八日(印)  右名主百姓中

寛文四年は 1664年。この徴税令書を発行した川越藩主は、2年前に死去した松平信綱の長男・松平輝綱です。
年貢とは無関係ですが、この家は 徳川家光の小姓[73680]から大名になった信綱以来 代々が伊豆守ですが、2代の輝綱だけが甲斐守でした。
「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱は、老中として国政にあたり、島原の乱を鎮圧した功績で 1639年に川越藩主になりました。
川越城下町、舟運の新河岸川、野火止用水の整備など、藩政でも治績を残しています。
父と共に従軍した折に「島原天草日記」を書いた 松平輝綱が継いだ川越藩は 7万5000石。

年貢割付状を見ると、福岡村の石高は 345.79石。これは 信綱時代の慶安元年(1648)検地 による値です。
川越の殿様の支配地 7万5000石とは 村々の石高を合計した値ですから、領内には 数百の村があったことになります。

江戸時代の税制は、現在の個人単位でなく村請制です。
上記の年貢割付状の受取人である名主百姓は、納税の連帯責任を負うことになります。
割付状には、“此御割付小百姓迄不残見申候也御年貢ノ致上納候、…”と 28人が連判裏書をしています。

村側では個人割当・収納により、怠け者の存在を許さない仕組みを作っていました。納税(10月18日の書面なのに、納付期限が「拾月十日」となっているのは読み違い?)が完了したら、領主側から年貢皆済目録が発行されます。

現在の地方自治体は、国からのおすそ分け(地方交付税)を頂く状態ですが、近世の村は自らが納税者として統治システムの基礎を支える「真の主権者」であったことがうかがえます。

所定の年貢米 72.17石は村高の 21% にあたりますが、この年は凶作だったのでしょうか、「検見」によって、約 3分の1の 24.77石に減額されています。
年貢米そのものは、ずいぶん少ないと思ったら、米納以外に金納が割付られています。

福岡村は[19388]に記したように新河岸川に臨む段丘周辺に形成された村で、少し下流の下福岡近辺を含む水田地帯もありますが、名前の通り段丘(岡)の村です。
段丘上に開いた畑作地帯の税金は金納ですから、年貢米だけで負担が軽かったと考えてはいけないのでした。

「永」と書いてあるのは永楽銭が通用していた時代からの公式通貨の呼び名で、実際に用いられたのは寛永通宝でしょう。
こちらにも「検見」の文字がありますが、一割引ですから定率減税程度で、納税額は 28貫400。
この他に武蔵野開拓地分の金納もあります。

この文書だけでは、田畑の全貌をとらえることができないようなので、別の文書を調べることにします。
[74244] 2010年 3月 2日(火)22:04:59右左府 さん
日本海中部地震の命名
[74243] hmt さん
なぜ「日本海中部地震」なのでしょうね?

地元では「青森県側への配慮」という話をよく聞きます。青森県にも被害があったのに「秋田県沖地震」では、秋田県だけ被害があったような印象を受けるから……と。真偽のほどはわかりませんが。

ちょうど4年前の「白神市」騒動の時、“秋田・青森間の名称問題の事例”として新聞のコラムなどでたまに採り上げられていました。
[74243] 2010年 3月 2日(火)12:09:04hmt さん
気象庁の津波予報区に使われた地名 付:日本海中部地震の謎
津波警報に関連して、気象庁の津波予報区 66区を 眺めてみました。

津波予報区に使われている地名に 府県名がかなり多いのは、「わかりやすさ」を狙ったものでしょうが、やはり気象区分における「府県予報区」とは異なる 海洋特有の観点 を見ることができます。

その一つは、内海・内湾に関する予報区が存在することです。これは比較的津波の直撃を受けにくい地域と考えてよいでしょう。
その例が「陸奥湾」であり、今回、青森県太平洋沿岸に大津波警報、青森県日本海沿岸にも津波警報が出たのに対して、両者の間にある陸奥湾は、津波注意報でした。

もっとも今回のチリ地震津波では、内海・内湾に関する予報区であっても、「東京湾内湾」,「伊勢・三河湾」,「有明・八代海」の3区には、津波警報が出たし、瀬戸内海も 9区中2区 (岡山県と大分県)は津波警報でした。

太平洋沿岸は、北海道(3) + 本州(12) + 伊豆・小笠原(2) + 淡路・四国・九州(7)、それに東シナ海にも面する南西諸島(5)の合計 29区。いずれも今回は 津波警報以上 が出ました。

そして、東シナ海沿岸は 鹿児島県西部が警報、熊本県天草灘と長崎県西方とが注意報でしたが、佐賀県北部になると注意報もなし。

壱岐・対馬から東の日本海沿岸。オホーツク海沿岸までの20区のうち、注意報以上が出たのは 「福岡県日本海沿岸」と青森県以北の3区だけでした。それらも、28日21時過ぎには「福岡県…」を除いて解除されました。

なお、津波注意報で使われた「福岡県日本海沿岸」という言い方については、次の記事があります。

[42058] トライランダー さん
福岡県における当該海域は、通称「玄界灘」と呼ばれ、日本海と呼ばれることは皆無に近いです。
福岡県に住んで4年になりますが、福岡県の日本海・・・という言葉は始めて聞いたように思います。

このような特殊分野では、陸上の感覚とは異なる地名が使われることがあります。

記憶に残っているのが 1983年の「日本海中部地震」なのですが、その震央は 秋田県男鹿半島沖(北緯40度、東経139度の北北東)で、日本海の「中部」という命名にはずいぶんと違和感を覚えたものでした。

そこで、改めて 地震・火山月報(防災編)平成22年1月号pdf の 64コマ を確認してみたのですが、上記した震央位置は 「秋田県沖」に該当し、「日本海中部」という海域は、東経138度30分以西であるようです(広域図は62コマ)。

なぜ「日本海中部地震」なのでしょうね?
[74242] 2010年 3月 1日(月)12:20:09じゃごたろ さん
デジタル・ギャラリー
こんにちは、じゃごたろです。

[74238] 88 さん
2.天保国絵図

リンク先が、残念ながら本日から変更になったそうです。
リンク先の修正をした方がよいと思います。
[74241] 2010年 3月 1日(月)09:25:29【2】BANDALGOM さん
Re:「推進」・「中止」どちらでしょう?
[74234]山野さん
どちらが真実なのだろうか。

「法定協議会」という表現は、合併ウォッチャーにとっては紛らわしいものですが、法定協議会とは、「法律の規定に基づく協議会」なので、何も合併協議会に限ったことではないのです。

2月16日付の記事をよく読んでもらえれば分かりますが、ここには合併のがの字も入っていませんし、最後の段落には「広範囲の行政の分野について連絡調整機能の強化を狙った法定協の設立」という記述もあります。

また、これまでの「任意団体」(任意合併協議会ではない)も1962年度に発足し、
2市1町で図書館の広域利用などを推進。2008年度からは連携強化へ、各首長が定期的に懇談し、電気自動車普及やレジ袋削減などの「湘南エコウエーブ」プロジェクトに取り組んできた。
とあるので、合併を目的に、「何時の間にか任意協を設置」したものではないというわけです。

さらに、
法定協への衣替えにより、国や県からの権限移譲も受けられる。パスポートセンターの開設計画はその一つ。
とありますが、合併協議会がパスポートセンターを開設するはずがなく、合併協議会が国や県から権限移譲を受けるということもありません。

ただ、こうした市町村の共同の取り組みは、合併の前段階ではないかと考えても不思議ではないわけですが、2月26日付の記事は、茅ケ崎市が「合併を視野に入れて事務事業を統合するための調整を行おうとしているものではない」との見解を示したものです。

というわけで、両方の記事とも「真実」ということになります。


私も似たような誤解をしたことがあります。

今月23日に「姶良市」が誕生する一方、地域性が似通ったところで、2度にわたる合併協議が破談となった大河原・柴田・村田3町の合併構想は、私が合併ウォッチャーになるきっかけとなった、1992年の朝日新聞の記事([17863]般若堂そんぴんさん)に掲載されていたものですが、当時、3町では病院運営などを目的とした「共同推進協議会」が設立されました。

合併構想について、柴田町に問い合わせた時、担当者がこのことを指して、「協議会のことですか」というので、合併協議会が設立されたものと思い、「協議会が設立されたんですか」と返したのです。
しかし、1年近く経って再度問い合わせた時、真相が分かったというわけです。

【1】加筆
【2】「カナロコ」「毎日新聞」を日付に修正
[74240] 2010年 3月 1日(月)00:14:48ペーロケ さん
宇高航路について
 [74205]88さんが香川からの意見としておっしゃってますが、私も元愛媛人として一言。

 愛媛から見ると、宇高航路は「数多くの瀬戸内を渡る航路の一つ」という認識でしかありません。また、高松はともかく、宇野が交通の要衝とは言えない立地ゆえ、おそらく瀬戸大橋開通以前であっても愛媛県人が頻繁に利用するとはとても思えません。
 もっとも、瀬戸大橋が開通後は、鉄道利用が便利だから瀬戸大橋を経由する人が増えたのでしょうが、開通前は松山から広島、もしくは今治から三原に渡って新幹線というルートが一般的だったと思われます。また、関西方面へは直接、関西汽船やらダイヤモンドフェリーがあります。早かれ遅かれ船に乗らないといけない経路であれば、あえて高松から宇高連絡船を利用するルートを選択する優位性はありません。四国内移動は不便ですから、なるべく短いに越したことはありません。

 ちなみに、私自身は、1度だけ宇高国道フェリーを利用したことがあります。確か岡山で用事があり、その後高松の友人宅に泊まるときに、「行きと違うルートで渡りたかった」という理由で利用しました。乗船時間がちょうど1時間と、瀬戸内を横断するフェリーとしては異例の短さに、備讃の近さを感じた覚えがあります。今は亡き波方~竹原より短いのかな?ただ、おそらく高松に行く用事がなければ利用する機会が無かったでしょう。

 愛媛県人としては、[70305]阿賀堀江航路の廃止の方がダメージが大きいですね。あと、今は亡き今治三原国道フェリーに何度お世話になったことか。宇品以上に新幹線に近くて便利だったんですけど、橋と競合するルートは厳しいですね。
[74239] 2010年 2月 28日(日)23:03:18ペーロケ さん
岡山県の津波警報
 学生の頃、津波よりも波長がはるかに長い波である「潮汐」の数値シュミレーションをされていた方がいました。その方の研究によると、あるモデル空間に瀬戸内海の地形データ、海底の水深などをインプットし、豊後水道と紀伊水道、関門海峡から大潮の「波」を流入させ、どのように動くのかというのを解析されていたような。ま、途中の計算方法などはうろ覚えですが、結論として、最も潮汐が大きい場所は来島海峡付近になったそうです。ただ、実際は風の影響など、他の考えないといけない条件もあるので、このとおりになるとは限らないようですが、興味深い研究だなと非常に印象に残っています。

[74231]Issieさん
両方から入ってきた水(表層だけの波ではありません。台風の高潮とは本質的に違います)が集まってくる,ということが想定されているのではないかと思います。そこがちょうど岡山県沿岸なのかしら?
 単に両側からの重複波で振幅が2倍になるというのであれば、対岸の香川県でも同じことが言えますし、それだけではないような。
 一つ忘れていたことがあります。それは、児島湾の存在。急に浅くなる場所は波高が高くなることが言えます。特に児島湾は、鳴門海峡の方を向いて開いており、奥行きもある。他の瀬戸内の浅瀬よりも多くの波が流入しやすく、数値計算上、瀬戸内でも有数の数値を出してしまったのでしょうね。
 警報を出す仕組みまでは判りませんが、おそらくある区間内での数値計算上、最大値が1mを超えると、その区間に「警報」が出されるのでしょうか。某国営放送では宇野港ばかり中継されますが、上記の理由から、「数値計算上の最大値」は宇野港じゃないような気がします。
[74238] 2010年 2月 28日(日)21:44:44【1】88 さん
市区町村変遷情報 苦悩日記 No.19 市区町村変遷情報の対象について ~どの時代まで遡るか
[74139] oki さん
市町村の一部区域にかかる廃置分合の表記方法についてのご意見、ありがとうございます。
この本筋の件については、また他の方からもさらにご意見があろうかと思いますので、少し後で回答させていただきます。

今回は、少し別の件で。
最初の前提として、88さんが市区町村変遷情報を整理・入力されている基本的な目的は、「確実な資料をもとに、全国の自治体の廃置分合の変遷を明らかにする」ことだと思います。そして、現時点では明治大合併期が起点になっていますが、全国統一の史料が存在する天保郷帳(天保国絵図)の時点までは遡ることが可能である、と考えています。
この場合、常に天保郷帳時点の近世村に立ち戻って考えることが可能な状態にしておく、ことがベストであると思っています(これはかなり難しいことですが)。
叱咤激励、ありがとうございます。
oki さんには、[58109]でも次のようにもご意見をいただいておりました。
・・・市区町村変遷情報における「藩政村」は「天保郷帳」記載の村とする、というのが妥当な線だと思います。「地名研究必携」の基礎資料が天保郷帳であるのも、このような考えに基づいているのではないかと思われます。
ただ問題は、天保~明治間で増加村数が7550にものぼるということで、この中には江戸期中に独立村になったものもあれば、明治初期に独立村として認められたものもあると思いますが、その区分が私にはよく分かりません。
天保郷帳以降の全国的な村名資料は旧高旧領ですが、これには以下で示すような欠点があります。その後は「郡区町村一覧」で、これは1979年(明治 12)12月時点となっていて、「幕末」の資料というのは無理があります。
「幕末以降・・・」の依拠資料を知らないので何とも言いようがないのですが、以上を前提とした上で、幕末期と明治期を区分けしているのであれば、基礎資料として天保郷帳より相応しいでしょう。
このときも、天保郷帳にまで遡ることができることを示していただいていました。

市区町村変遷情報の対象をどの時期まで遡るか、に関連して、まず、[57484] oki さんにこの時代の変遷を調査するのに有益な資料として次の7種類をご紹介いただきました。
1.天保郷帳
2.天保国絵図
3.地名研究必携
4.旧村旧高取調帳
5.郡区町村一覧
6.地方行政区画便覧
7.新旧対照市町村一覧
私個人としては、市区町村変遷情報の対象とする期間については、市制町村制施行時で完了するとは思っておらず、明治初年までは遡るつもりでした。あわよくば、近世村まで・・・とも漠然とは思うものの、それ以上深くはまだ考えていませんでした。市制町村制施行前にも、府県によってはかなりの町村の廃置分合があり、資料も手持ちの文献やネット上にもかなりあることから、明治初年までであれば遡ることは可能であろうと思われました。[62959][68442]で、この野望について触れています。
一方、[55583]拙稿でも少し触れたように、明治初期は「藩」→3府302県→3府72県→3府42県(+北海道、沖縄県)と府県の変遷が盛んな時期でもあり、現在のような都道府県別変遷一覧として表記することは困難を伴います。(参考:都道府県の変遷(むじながいりさん(ご自身のサイトではエイちゃさん)のつかんぼやと)内)
少なくとも、現在の表示方法とは異なる手法を検討しないと困難でしょう。ということは、市区町村変遷情報のデータベース構造の見直しをも含むこととなり、グリグリさんのお手を煩わせる必要があります。もっとも、将来的には、データベース検索を含めさまざまな市区町村変遷情報の発展を見据えて検討を続けていることは、今までにも述べてきています。

[57484] oki さん でご紹介を受け、市区町村変遷情報のトップページにも掲げている「地名研究必携」(2003年5月 谷川健一:監修 滝澤主税:編著 日本地名研究所)。私はその後、購入し所有しています([57608]拙稿参照)。この図書が到着した頃、編著者の滝澤主税氏から電話がかかってきて、「88先生はどういった研究がご専門ですか?」というような質問を「参考のために」と聞かれました。どこかの大学の教授か何かと思ったのでしょうか。「都道府県市区町村で市区町村変遷情報を担当していますので、そのために必要です」と言ってもよかったのですが、さすがに自重し、「地名に興味があって単なる趣味です」とお答えしておきましたが。
[63569][63570] で、第十八回十番勝負問七に関してこの図書を資料として過去に存在した「旭」村等を調査したことがあります。

この「地名研究必携」が、まさしく、天保郷帳登載の63,795の村名を網羅しているとのことです。
一方、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧 改訂版1」(2、索引)(東洋書林)は、名前のとおり「幕末以降」、具体的には明治初年以降の変遷が記載されています。
[58109] oki さん
「幕末以降・・・」の依拠資料を知らないので何とも言いようがないのですが、以上を前提とした上で、幕末期と明治期を区分けしているのであれば、基礎資料として天保郷帳より相応しいでしょう。
この「幕末以降・・」の巻頭に「参考資料一覧」として、次のものが掲げられています。ちょっと数が多く、既出の資料も多いですが、そうでないものもありますので、今後の参考もかねて以下に記します。(旧字体は新字体に置き換え)
郡区町村一覧内務省地理局明治14年
地名索引内務省地理局明治18年
地方行政区画一覧内務省地理局明治20年
大日本地名辞書吉田東伍明治33年
帝国地名辞典太田為三郎明治45年
市町村大字読方名彙小川琢治大正12年
市町村別日本国勢総覧(3巻)昭和9年
日本地名大辞典(7巻)朝倉書店昭和43年
全国市町村名変遷総覧日本加除出版昭和54年
日本歴史地名総索引日本地名学研究所昭和55年
現代日本地名よみかた大辞典(7巻)日外アソシエーツ昭和60年
市町村名変遷辞典東京堂出版平成2年
角川日本地名大辞典(全50巻)角川書店昭和53年~平成2年
日本地名体系平凡社昭和54年~既刊分
全国市町村要覧自治省行政局振興課各年
国勢調査報告総務庁統計局各回
官報
各県編市町村合併誌
さて、「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」では、明治初期の変遷は施行日が「明治○○年」のみの表記であるものの、廃置分合や改称が記載されています。詳細な情報は、例えば近代デジタルライブラリーでも、法令全書や各府県令はかなり発見されていますから、月日を補強したり、情報の精度を高めたり、信憑性を確かめたりすることは可能でしょう。
「地名研究必携」と「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」の2つの文献間の齟齬さえなければ、うまく変遷をつなげて時系列的に把握できます。しかし、具体的にはまだ確認していませんが、実際には齟齬は多数あるでしょうから、他の文献・ネット上の資料を基に総合的に「判断」するしかないと思われます。困難ではあり、何らかの「判断」を積み重ねる必要はありますが、一定レベルの正確性は確保されることと思います。皆様のご協力により、知恵・情報をいただきながら、少しずつ遡り、天保郷帳・天保絵図(「地名研究必携」)まで対応したいと目論んでいます。
もっとも、前述のように、市区町村変遷情報データベースの見直しも伴うことが見込まれますので、グリグリさん、でるでる編集長とも協議が必要であると思います。
なお、市制町村制施行時も、それ以外も、編集方針を随時検討を加え、あわせて内容も充実させながらの作業としたいと考えます。

ちなみに、現在の諸々の作業の進捗状況を、参考までにアピールを兼ねてお知らせします。
市制町村制施行時の直接の入力作業は、沖縄県・北海道を除く全45府県中、25府県目の京都府に差し掛かっています。
手元での準備作業は、近世村・城下町等の入力作業(とりあえず「幕末以降市町村名変遷系統図総覧」を基礎資料として近世村等をひたすらExcelに入力する)は、新潟県以降(建制順、つまり都道府県コード順と同じ)で完了しました。新潟県は約5,000の近世村・城下町があり、なかなか骨が折れました。
また、市制町村制時の廃置分合の整理(ひたすら打った近世村等を、府県令や「幕末以降」を元に組み合わせる)も、三重県以降は完了しています(静岡県を飛ばして長野県も完了)。これらは、コピー・ペーストすれば、すぐにでも京都府同様に直接の入力作業に着手できるということです。

【1】[74242] じゃごたろ さん のご指摘を受けてリンク先を修正。
[74237] 2010年 2月 28日(日)21:30:10右左府 さん
小字の有無
[74206] oki さん
[74210] にまん さん
疑問にお答えいただきありがとうございます。御二方とも同様の見解で、私も納得できました。

住所の確定に必要がないにもかかわらず、(小)字単位の地名を記入している事例
前回の書き込みの後に、今回の疑問の発端であるマクドナルドの店舗所在地表記を一通り調べてみたのですが、他にも同様の事例がいくつか見られました。
小字不使用の地域があるという事実を最初知った時も驚きでしたが、今回のような事例もまた字地名に対する認識を象徴しているようで興味深いですね。
[74236] 2010年 2月 28日(日)17:37:35N-H さん
Re:そこまでいわなくても・・・
[74222] inakanomozart さん
そこまで言う必要があるのでしょうか。ちと疑問です。

もしや、inakanomozartさんは、私が稲生さんのことを「ずいぶん見当違いなような気がします」と申し上げたものと勘違いをなさっておいでではないでしょうか?
もし、そのように受け取られたとしましたら、それは私の意図ではありません。
私は、稲生さんではなく、当日の様子を報告したブログの主に対して上記のような感想を申し上げたのです。
当のブログの書き手はどうやら「主務者印をマニアのために残せ」というご意見のようなのですが、それはお願いとしてはありえても、今となっては実用上意味のない役所的な習慣を残しても郵便局の手間と費用増になるだけなので、廃止と決定されたのであればそれはそれでいたし方のないことだと考えます。
さらには、当時に比べてこの趣味をしている人はむしろ増加しているようにも感じています。
そのうえで、マニアがさほど集結しなかったのは、その主務者印廃止にも原因があるかのような言い方は、やはり私としては「ずいぶん見当違いなような気がする」といわざるを得ません。
[74235] 2010年 2月 28日(日)16:58:21ゆー さん
気象警報・注意報の細分区域変更
3月2日13時より、各地の二次細分区域の名称等変更があるようです。
5月27日からの市町村単位での発表に向けての改善と思われます。
各気象台のHPより情報を入手しましたので、過不足があるかもしれませんが。。


☆岩手県内陸 「水沢地域」(奥州市・金ヶ崎町) 

→ 「奥州金ヶ崎地域」(名称変更)


☆新潟県上越地方 「上越東頸城地域」(上越市の板倉区・中郷区を除く) 

→ 「上越市」(上越市全域、名称・区域変更)


☆新潟県上越地方 「妙高地域」(妙高市・上越市板倉区・中郷区) 

→ 「妙高市」(妙高市、名称変更・区域変更)


☆新潟県上越地方 「糸魚川地域」(糸魚川市) 

→ 「糸魚川市」(名称変更)


☆新潟県中越地方 「魚沼北部地域」(魚沼市) 

→ 「魚沼市」(名称変更)


☆新潟県中越地方 「魚沼南部地域」(南魚沼市・湯沢町) 

→ 「南魚沼地域」(名称変更)

 
☆福井県嶺南 若狭町(嶺南東部…旧三方町区域、嶺南西部…旧上中町区域) 

→ 若狭町(嶺南東部)


☆山口県山口市(旧阿東町)…山口県北部 萩・美弥 

→ 山口県中部 山口・防府



このほか、3月31日には北海道で予報区の変更があるようです。
[74234] 2010年 2月 28日(日)15:55:18【1】山野[山野] さん
「推進」・「中止」どちらでしょう?
あまり「ネタ」も無く、大した用は無いのですが、1つ。

茅ヶ崎市と藤沢市、寒川町の3市町が、何時の間にか任意協を設置されていたようですが、
カナロコ(2月16日付)では
15日、2市1町の各首長が藤沢市役所で共同会見し法定協設立を発表した。
(中略)
広域行政を一層推進するため、任意協廃止と法定協設立を検討してきた。法定協議書の調印式は3月30日、藤沢市役所で行う。
と、この記事で掲載されている。

ところが、こちらの記事では
茅ケ崎市の服部信明市長は26日、藤沢、寒川との2市1町で構成する任意団体「湘南広域都市行政協議会」が
4月に法定協議会に移行することについて、
「合併を視野に入れて事務事業を統合するための調整を行おうとしているものではない」と述べ、
あくまで広域連携の強化などが目的との認識を強調した。
という、1週間前とは食い違う内容。
どちらが真実なのだろうか。
[74233] 2010年 2月 28日(日)15:05:48じゃごたろ さん
一言居士
こんにちは、じゃごたろです。
当初の私のメンバー紹介に「一言居士」を用いられたことにクレームをつけた過去があるのですが、今となってはそれが正しかったようですね。

[74232] 桜トンネル さん
津波&清瀬市

何の理由があるかはわかりませんが、以前からどうやらタイトルに市名を入れるポリシーがあるようですね。その辺については過去にも(皮肉をこめて)指摘されていたとおもいますが、このような内容の書き込みにもそのポリシーを適用するというのはどうかと思いますが、ご自身はどう思ってるのでしょうか?

私は津波経験者ではありませんが、過去のチリ地震津波については県内の報道で知っています。また、三陸海岸沿いを車で通過した際に、10m以上もある防潮堤を見たことがあります。それだけ津波の威力は強力であり、その被害を防ぐためにはそのような防潮堤を必要とする、という津波に対する認識が必要です。

名は体を表すということばがありますが、タイトル名というのはその人のセンスがもろにでると思っています。ご自身のポリシーを続けるのも結構ですが、内容によっては使い分けてもらいたいものです。
[74232] 2010年 2月 28日(日)13:57:04【1】桜トンネル さん
津波
みなさん、お久しぶりです。約1ヶ月ぶりの登場で、2月初書き込みになります。でも今日が2月最後なんですね・・・。

では本題です。

[74229] ぺーロケさん

兵庫県の摂津国沿岸だって南海地震の際に津波被害があったと聞いた記憶もあります。

兵庫県摂津国沿岸に住む桜トンネルです(笑)。
まだ津波が三陸沿岸などに来たというニュースはしてないみたいですね。でも、神戸では何も変わったことはまだないみたいです。高潮時などにする門扉は閉めてないみたいでしたし、人の行き来もまだありました。ただ、神戸付近は午後4時に津波予想が出てるので、まだしていないだけかもしれませんが・・・。
[74231] 2010年 2月 28日(日)13:25:46Issie さん
Re:大津波警報
今,南鳥島で10センチの津波を観測した,という第一報が流れています。

神奈川県内ではJR東海道線・伊東線の藤沢-伊東間,横須賀線の逗子-久里浜間,根岸線の桜木町-大船間,そして南武線浜川崎支線と鶴見線の全線が運転を見合わせています。
正直,「鶴見線」というテロップを見て驚いてしまったのですが,確かに「海に一番近い駅」,ホーム下の海面との高さの差もあまりなかったような。
でも,京急は動いているような(もっとも,海に近いところは高台を走っています)。

「平成のチリ地震津波」となるのでしょうか。
前回,1960年の「昭和のチリ地震津波」のときは不意打ちに近い状態だったようだけど,事前にある程度の情報が流されている今回,被害が少なくて済むとよいのですが。
日本近海で発生した地震による津波と違って,昔マゼラン一行が航海したように太平洋を「斜めに“横断”」して1昼夜かけて到達する津波は,実に半世紀ぶり。JRの運転見合わせ措置には「?」という気もしないではないのですが,実際どのような状況になるのかわからないところもあるのでしかたないこともあるのでしょう。
ちょうどチリ沖から何も遮るものがないまま動いてきた太平洋の水が全部集まる位置に日本列島があるのだから,途中の島々で波の高さが低くても安心はできないわけで。

[74229] ペーロケ さん
何故か岡山県のみ津波警報。鳴門海峡から押し寄せてくることは容易に想像つきますが、じゃあ山口県南岸も豊後水道から来そうな気がします

両方から入ってきた水(表層だけの波ではありません。台風の高潮とは本質的に違います)が集まってくる,ということが想定されているのではないかと思います。そこがちょうど岡山県沿岸なのかしら?
[74230] 2010年 2月 28日(日)13:22:23hmt さん
津波警報発令中
日本時間2010年2月27日15時34分頃に、チリ中部沿岸(南緯36.1度、西経72.6度)で発生した地震による津波警報が、9時33分に発令されました。

「高いところで2m程度」という警報の出た海岸は 太平洋側全域に及び、特に宮城県・岩手県・青森県太平洋沿岸は、「高いところで3m程度以上」という「大津波」の警報になっています。

更に詳しく見ると、青森県日本海沿岸や有明・八代海にも及び、大分県は瀬戸内海沿岸に及んでいます。
そして、大部分は「高いところで0.5m程度」という津波注意報の領域になっている瀬戸内海の中で、なぜか岡山県だけは、津波警報の対象になっていました。
紀伊水道と豊後水道とから襲来した津波が、このあたりで重なるからでしょうか。

津波というと、第一に考えるのは海岸ですが、巨大な地震によってもたらされた海面上昇は、「波」という言葉から思い浮かべる短期的な変動ではなく、もっと大規模なものであり、川を逆流させて内陸に及ぶ可能性があります。

今回に比べてははるかに小地震の規模であった 1979年の宮城県沖地震で発生した津波でさえ、北上川を遡上して、河口から 17kmの北上大堰に達したことが確認されています 資料pdf 。川沿いも注意が必要です。
日本海中部地震の津波では、内陸で田植えをしていた方が亡くなったとかいうことも聞いています。

地震津波というと、1993年の奥尻島も忘れることができません。こちらは、チリと違い、ごく近い海で発生した地震のため、あっという間に津波に(火災にも)襲われました。

チリ地震津波というと、1960年に起きた(マグニチュードの記録では)世界最大M9.5の地震に伴う津波。
地球の裏側で起きた地震に伴なう海水の動きが、太平洋を越えて22時間後に日本を襲い、三陸地方に大被害をもたらしたことを知った時には仰天したものです。

日本ではチリ地震津波から奥尻島津波までの教訓を活かして それなりの防災対策が講じられています。
しかし、そのような対策は全世界に及んでいるわけでなく、2004年末のインド洋大津波[36355]では、沿岸諸国に大きな被害が出ました。

なお、大津波の原因は、巨大地震だけだけではありません。
1998年にはパプアニューギニアにおける海底地滑りによる大津波がありました。
地滑りの起きたきっかけは 陸上を震源とする地震でしたが、それはM7という程度でした。

地震以外に、注目する必要がある津波の原因は火山活動です。
わが国における火山災害記録[23960]を見ても、死者15188人という日本歴史上最大の噴火災害をもたらした島原大変・肥後迷惑(1792)を始め、渡島大島の噴火津波でも 1467人の溺死者を出しています。

世界的に、そして将来的な視点からすれば、更に巨大な火山崩落津波の可能性を秘めた地があります。
[74229] 2010年 2月 28日(日)12:36:58【1】ペーロケ さん
大津波警報
チリで地震が発生し、やはり津波が日本に押し寄せてくるようです。
[66612]でもさらりと書きましたが、宮城県あたりは満潮時の海面との差がわずか数10cmのところに家があったりして、本当に心配です。被害が甚大でないことを祈ります。

ところで、瀬戸内は無関係かと思いきや、NHK津波情報によると見事に注意報が出ています。しかも、何故か岡山県のみ津波警報。鳴門海峡から押し寄せてくることは容易に想像つきますが、じゃあ山口県南岸も豊後水道から来そうな気がしますし、兵庫県の摂津国沿岸だって南海地震の際に津波被害があったと聞いた記憶もあります。このあたりは大丈夫なんだろうか?波の動きは不思議です。
[74228] 2010年 2月 27日(土)20:19:03オーナー グリグリ
メンバー登録更新ほか
メンバー登録の更新です。
更新日ニックネーム更新内容
10.02.27k-ace さん自分色変更(微妙な変更です。どこが変わったか分かりますか?)

さて、ご無沙汰しています。このところ仕事が忙しくなかなか時間が取れません。落書き帳書き込みは一通り目を通していますが、ふぉろ~したり反応したりすることができなくて申し訳ありません。

ところでご報告が遅れてしまいましたが、先日、2月12日の金曜日の夜、新橋で落書き帳メンバー9名が集まりました。きっかけは、かぱぷうさんが上京するという話を私がお聞きし、お会いしましょうかという話からで、仲間が増えて最終的には9名もの方が集まりました。急な予定だったので、落書き帳にはアナウンスしなかったのですが、前回の公式オフ会時のメーリングリストで急遽話をふってみたところ、あっという間にプチオフ会になってしまったというものです。落書き帳で事前にお話しせずに申し訳ありませんでした。参加された方、お疲れさまでした。相変わらずの異様な集団の集まりでしたが、盛り上がりましたね。

忙しいとは言うものの、都道府県市区町村の改善作業は細々と進めています。アーカイブズのリニューアルを最優先にと考えていますが、週末の空き時間を使いながら少しずつ進めています。その他には、北海道の支庁の扱いを含めた市区町村データベースの改善強化なども進めたいと考えています。人口、面積データの更新なども溜まっているのですが。
[74227] 2010年 2月 27日(土)19:08:06稲生 さん
RE:政令指定都市の並び順
[74225]まがみさん

札幌市・川崎市・福岡市の昭和45年時の人口がちょっと多すぎるのではないでしょうか。どうも[34419]における昭和30年国調の大阪市・名古屋市・京都市の人口の数字が入ってしまっているようです。

訂正されましたら、この投稿は削除します。
[74226] 2010年 2月 27日(土)18:50:33白桃 さん
1955年神戸市国勢調査人口
[74225]まがみ さん
昭和30年国勢調査人口
神戸市 981,381
お久しぶりです。
記述内容の本質にはあまり関係ありませんが、
昭和30年国勢調査で神戸市の人口は979,305人です。これは約2週間後の10月15日に編入した長尾村の人口を加算した981,318人の転記ミスではないでしょうか。
[74225] 2010年 2月 27日(土)18:13:06まがみ さん
政令指定都市の並び順
[74207]hmtさん
最初に指定されたのが五大都市であることは、初代と変りないのですが、順序が異なっています。名古屋市が二位に躍進。
大阪市 名古屋市 京都市 横浜市 神戸市
[74208]Issieさん
これは何の順番なんでしょうね。

一般的に、法律や政令などで市町村を順に並べる場合、地方公共団体コード順に並べることが多いように思います。

しかしこの順番は地方公共団体コード順ではありません。おそらく、直近(昭和30年)の国勢調査人口の多い順ではないでしょうか。
--------------------
昭和30年国勢調査人口
大阪市2,547,316
名古屋市1,336,780
京都市1,204,084
横浜市1,143,687
神戸市981,381
--------------------

地方公共団体コードが制定されたのは昭和43年なので、昭和31年の政令ではそもそも「コード順」という概念がありませんでした。

しかし、昭和43年以降に政令指定都市となった市は、地方公共団体コード順に並んでいます。たとえば、昭和47年に同時に政令指定都市となった、札幌市、川崎市、福岡市がそうです。
もっとも、昭和45年の国勢調査人口も、札幌市が最も多く、川崎市、福岡市と続きますが。
--------------------
昭和45年国勢調査人口
札幌市2,547,316
川崎市1,336,780
福岡市1,204,084
--------------------

平成19年の新潟市、浜松市も、コード順。
直近の、平成17年国勢調査人口は次のとおり。
--------------------
平成17年国勢調査人口
新潟市785,134
新潟市+巻町813,847
浜松市804,032
--------------------
新潟市の方が浜松市よりも人口は少ないですが、「地方自治法第252条の19第1項の指定都市の指定に関する政令」では、新潟市、浜松市の順です。地方公共団体コード順とみていいでしょう。

蛇足ながら、新潟市と巻町を合わせた人口は浜松市よりも多いです。巻町は国勢調査直後の平成17年10月10日に新潟市に編入されています。


類似例として、中核市や特例市の指定に関する政令を見てみますと、「地方自治法第252条の22第1項の中核市の指定に関する政令」、「地方自治法第252条の26の3第1項の特例市の指定に関する政令」の両方とも、地方公共団体コード順に並んでいます。

中核市について、途中「…高槻市 東大阪市 富山市 函館市…」という並び順があり、同日に中核市になったはずの東大阪市と富山市が地方公共団体コード順になっていません。これは、先に東大阪市が中核市に指定されていたところに、既に中核市に指定されていた富山市が合体によって新設合併したので追加で再指定されたものです。


#過去に同じようなことを書いた記憶がありましたが、ありました。[34419]に…
[74224] 2010年 2月 27日(土)10:18:59【2】Issie さん
ルテニア:蛇足
[74220] YT さん
ルテニア (「ロシア」のラテン語名

ちなみに「現代ラテン語」では現代のロシアを Russia と呼ぶようです。そして,「Ruthenia ともいう」。
「ルテニア」をロシアの意味で用いる場合は,私たちの言葉の「をろしや」に近い呼び名になるのかもしれません。

※でも,元素名は「現代ラテン語」である必要はありませんから,「化石」でも十分。実際,そんな地名のオンパレードだし。
[74223] 2010年 2月 27日(土)09:12:39なると金時 さん
クイズ的な話
結構久々の書き込みになりました。
ルテニウムとルテチウムはややこしいんですよね~
おまけに元素記号がRuとLuでまたややこしい。
でも、Issieさんの解説を読んでわかりました。
「ロシアだからRu」、これで覚えた!
[74222] 2010年 2月 27日(土)08:34:46inakanomozart さん
そこまで言わなくても・・・
[74216] 2010 年 2 月 26 日 (金) 16:18:19 N-Hさん

ずいぶん見当違いなような気がします。
そこまで言う必要があるのでしょうか。ちと疑問です。
[74221] 2010年 2月 27日(土)00:42:20【1】Issie さん
ルシン人
[74220] YT さん
ルテニアといえば、自分の中ではロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語と並ぶ、東スラヴ語の系統に属する第4の言語(方言)としてルテニア語がウクライナ西部の国境地域で話されているという認識でした。

「ルシン人」と呼ばれる人々がいます。彼らの言葉では Русины(ルシーヌィ),ウクライナ語では Русини(ルスィーヌィ)。ガリツィアをはじめとするハプスブルク帝国支配下の地域で東スラブ語を話す人々のうちでロシアおよびウクライナとは違うアイデンティティを持つ人々が自称したことに始まります。
さらに彼らの多くは,正教徒でありながらポーランドの支配下でローマ教皇の指導を受け入れカトリック教会との合同を宣言した「合同派」(ユニエート教会,東方典礼カトリック教会)を支持しました。この点でも正教会にとどまっているウクライナ人と違うアイデンティティを主張しています。
ハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー)の中では自国領内に住む彼らをロシア人ないしはウクライナ人とは別のグループである,という捉え方も広く支持されていたようです。で,実は「ルテニア人」とは,ハプスブルク帝国内でこの「ルシン人」をラテン語風に呼ぶ呼び方でもありました。だから少し古めの資料ではこの地域の少数民族について「ルテニア人」と呼んでいるものも少なからず存在します。そもそもラテン語形の Ruthenia の直接の原形は「ルシン」である,という説明も見られます(ルシン Русины の語源はもちろん「ルーシ」Русь です)。

第2次大戦後,東ヨーロッパが社会主義化しソ連圏に組み込まれる中で,この「ルシン人」に対する扱いは各国で微妙に違ったようです。少なくとも,旧ハプスブルク帝国領の「ルテニア」を併合したソ連(ウクライナ)としては「ルシン人」の独自性は認めたくない。実際,ルシン語とウクライナ語の間の差は“方言としての差”に過ぎないとも言われます。どれくらいの差異なのかはわかりません。が,そもそもロシア語とウクライナ語の差異も,お互いに自分の言葉で話しても相手の言葉に「ひどく訛りがある」と感じるだけで意思疎通は可能と言われていますから,「琉球語」と「日本語」の差よりは小さいのかもしれません。関東方言と関西方言ほどの違いか?… まして,ウクライナ語とルシン語の違いならば…。
この「ルシン人」と「ルシン語」の“独立”を認めたのが当時のユーゴスラビア。チトーとスターリンの対立から“ソ連グループ”を追い出された結果でしょうか。現在でもセルビア北部のボイボディナ自治州の公用語の1つだそうです。ちなみにボイボディナの人口の過半数はセルビア人で“少数民族”の最大多数派がマジャール人。その他,多様な民族が混在するために,チトーのユーゴスラビア時代から「自治州」とされ,セルビア語・ハンガリー語・スロバキア語・ルーマニア語・ルシン語・クロアチア語がいずれも公用語に指定されているそうな。

だから,「ルシン人」「ルシン語」を独立の民族・言語と認めるならば,YT さんのご認識は必ずしも間違いではないのです。
[74220] 2010年 2月 26日(金)22:53:31【1】YT さん
学術用語に見られるラテン語から英語への移行
[74217] hmt さん
誤記を2つ指摘。
100 カリホルニウム → 98 カリホルニウム
イッテリウム → イットリウム

すみません。校正を十分していませんでした。

一応“元・ケミスト”[42163]を自称し

自分の表の顔は、有機金属分野で飯を食っています。さすがに放射性元素は触れたことはほとんどありませんが、周期律表に載っている元素の半分以上を扱ったことがあります。特に
タングステンは スウェーデン語で tung sten(重い石)ですが、元素記号は別の語源のドイツ語 Wolfram由来。
この辺は自分の学位に縁の深い元素です。

さて、hmt さんならよくご存じでしょうが、化合物の命名に関する国際的な標準化ということで、第一次大戦前後に設立されたIUPAC(国際純正・応用化学連合)が推し進めた化合物命名に関する決まりが、「IUPAC命名法」です。IUPACは、自分はアイユパックと呼んでますが、人によってはユーパックとも呼称します。命名法の詳細に関しては、個人サイトとして有名な化合物命名法談義の方に詳しく紹介されています。このIUPAC命名法の中で一番重要な有機化学命名法に関して、1993年に決定的に重要な変更がなされました。

1979年版の有機化学命名法では、「化合物名は異なる言語に適応できるもの」とし、例えば日本語で「2-ブテン」、ドイツ語で「Buten-2」、イギリス英語で「but-2-ene」、アメリカ英語で「2-butene」と書くことが許容されていました。ところが1993年の勧告案では化合物の固有名(unique name)は英語によると規定され、英語では「but-2-ene」が標準とされました(なおcis-、trans-異性体は(E)-,(Z)-表記が優先)。日本語での表記はさしずめ「ブト-2-エン」となるでしょうが、1993年勧告以降、現在まで日本語での命名法や字訳に関する新しい本は、日本化学会などから出版されておりません。

本来元素記号はラテン語での表記の略称から発生したものです。しかし今となってはラテン語という縛りがなくなり、英語での表記・発音がますます勢力を伸ばし、ほぼ標準化してしまいました。最近日本でもこういった化合物名を英語での発音で表記した方がいいという議論も起きていますが、こういう英語帝国主義的な発想には自分は反発を感じています。そもそも英語でのこういった学術用語の発音というものは、いくつか覚えると綴りからある程度類推が可能です。

[74219] Issie さん
ルテニアといえば、自分の中ではロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語と並ぶ、東スラヴ語の系統に属する第4の言語(方言)としてルテニア語がウクライナ西部の国境地域で話されているという認識でした。ただルテニウムはロシア人が自国のラテン語名から命名したという話も聞いたことがあり、
ルテニア (「ロシア」のラテン語名)
と表記するべきでした。

ところでルテニウムは最近私がお世話になっている元素です。

【訂正】
すみません。「化合物命名法」という本が何度も改訂されながら出版されていました。ただ内容は、
有機化学命名法では、IUPAC1979年規則を原則とし、一部には1993年IUPACガイド(A Guide to IUPAC Nomenclature of Organic Compounds,1993)による修正を脚注として取り入れている。さらに、CA方式も一部ではあるが付記している。
とあり、完全には1993年改訂に従っていません。

出版されていないのは、1993年大幅改正のオリジナルの有機化学命名法本体の日本語訳です。
[74219] 2010年 2月 26日(金)22:24:24【1】Issie さん
ルテニア
[74215] YT さん
44 ルテニウム ruthenium ルテニア (ウクライナの地名)

現在では使われない地名かもしれません。少なくとも,現在のウクライナの公式行政区画には用いられていないようです。

ルテニアとは,現在のウクライナ南西部あたり,広い意味ではウクライナからベラルーシにかけての地域を指す名前です。その範囲は必ずしも明確ではありません。
9世紀後半から10世紀にかけて,スラブ人の東方グループ(東スラブ人)がキエフ(ウクライナ語ではキーイウ)を都とする国家を形成しました。これを彼らは「ルーシ」Русь と自称しました。現在の「ロシア」Россия,Russia の語源ですが,元はスウェーデン人の一派の名前だったと言われています(フィンランド語で「ルス」とはロシアではなくスウェーデンを意味するそうです)。この「ルーシ」のラテン語形が「ルテニア」Ruthenia です。
キエフ・ルーシは12世紀に入ると分裂・衰退し,モンゴルの侵攻により崩壊してしまいました。その結果としてモンゴルの支配下に入った地域の中から成長したのがモスクワ,後のロシア帝国です。そのために,ルーシの中では北東の辺境が「ルーシ(ロシア)」の本家筋を奪う形になりました(「ロシア」はルーシのギリシア語形 Ρωσια を再輸入したものとされています)。モスクワの優位は初めから約束されたものではありません。特に,モスクワの北西方のトベリとの競争は熾烈であったようです。

さて,解体したキエフ・ルーシのうち北西部は13世紀までに“異教徒”であったリトアニアの支配下に入ります。これが現在のベラルーシ(白ロシア)。支配層であるリトアニア人は,しかし文化的には“素朴”な人たちで,国家運営に関しては“征服”されたはずの東スラブ人(ベラルーシ人)の方が優勢で,行政用語は当時のベラルーシ語でした(ちょうど清朝における満洲族と漢民族の関係に似ているかもしれません)。このリトアニア大公国の“公用語”となった中世官庁ベラルーシ語を「ルテニア語」と呼ぶこともあります。この時点では「ロシア語」はまだ確立していませんでした。こののち,モスクワが成長していく過程で「ロシア語」も形成され,19世紀初めの文豪プーシキンによって現代ロシア語が確立することになります。
14世紀末,リトアニア大公国はポーランドと合体します。これ以降,リトアニア,そしてベラルーシはポーランドの強い影響下におかれます。支配階級の公用語はポーランド語となりました。現在のベラルーシ語は同じ“東スラブ語”であるロシア語と文法上は“方言的”な違いしかないけれど,随所に“西スラブ語”のポーランド語の影響が見られるのだそうです。

現在のウクライナも同様にポーランド・リトアニアの支配下に組み込まれました。「ウクライナ」とはこの時の併合地域に対する呼称としても用いられるようになったものであるようです。特に西部はポーランドの強い影響下におかれます。文化面,特に言語と宗教についてのポーランドの影響はとても強いものでした。キエフ・ルーシは10世紀にキリスト教のうちの「正教」を受け入れました。同時にキリル文字と教会スラブ語も。これが現在の「ロシア」の文化の基盤となります。ところが,ポーランドの影響の強かったウクライナ西部ではポーランドと同様にカトリックが優勢となります。
一方,ポーランド・リトアニアから見て南東の辺境に当たるウクライナ東部には17世紀,コサックの首領たちによる自治国家が成立します。次いでこの自治国家をロシアが保護下に置き,やがて上手に併合してしまいました。その結果,ウクライナはドニエプル川(ウクライナ語でドニプロ川)を境にロシアが支配する東部とポーランドの支配する西部に分割されました。東に行くほどロシアと正教の,西に行くほどポーランドとカトリックの影響が強くなります。
そうして見ると,「ルテニア」とはポーランド支配下のウクライナ西部からベラルーシにかけての地域を意味するようになりました。

そのポーランドは18世紀,3次にわたってロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアにより分割され,消滅します。ウクライナ北西部からベラルーシ,リトアニア,そしてポーランド北東部はロシアの,ポーランド南部とウクライナ西部がオーストリアの支配下に入ります。このオーストリア支配下のウクライナ西部(ガリツィア,ウクライナ語でハリチナ)を特に「ルテニア」と呼ぶこともあります。

第1次世界大戦とロシア革命によってロシアとオーストリア・ハンガリーの両帝国が解体されると(ここには関係ないけれどドイツとオスマンの両帝国も),リトアニアが独立し,ベラルーシとウクライナの西部はポーランドの領土となりました。ただし,ウクライナ南西部の一部である下カルパチア(主都はウジゴロド,ウクライナ語でウジホロド)はチェコスロバキア,北プゴビナ(主都はチェルノフツィ,ウクライナ語でチェルニウツィ)はルーマニアの領土。
これらは第2次世界大戦中にソ連に併合されます。戦後,ソ連・ポーランド国境が西へ移動し,ほぼ同じだけポーランド・ドイツ国境も西へ移動したためにポーランドの領土がゴッソリ西へ移動したことはよく知られていますが,ソ連はチェコスロバキアとルーマニアからも領土を奪っているのですね。そしてソ連邦構成共和国の1つである白ロシア(ベラルーシ)とウクライナがそれぞれ西へ領土を拡大しました。
(これに比べればずっと規模の小さい話ですが,リトアニアも南東に領土を拡大しています。現在,リトアニアの首都となっているビリニュスは,それまでポーランド領でした。第2次大戦中にリトアニアとソ連の“協力”で占領,リトアニアに併合したものです。それまでのリトアニアの首都はカウナスでした。ユダヤ人の脱出に協力したことで突然有名になった外交官 杉原千畝 が勤務していたのはここの領事館です。)

ウクライナの東部には大規模な炭田があったこともあってロシア,そしてソ連の支配下で多くのロシア人が流入しました。ブレジネフの民族籍はロシア人ですが,東ウクライナの出身です。一方,ウクライナの西部は60年余り前までポーランドの領土でした。カトリックという点でも“西”とのつながりが強い。
東のロシアへと西のヨーロッパという全く逆方向の引力が働く中でどうやって「統一」と「自己のアイデンティティ」を確立するかがウクライナにとって最大の課題であると言われています。この“東西の断絶”は先日の大統領選挙にも大きく影響したようですね。一応決着がついて,前大統領のユシチェンコ氏は何とか退任したようですが。

で,こうして見た時,「ルテニア」という西の世界からこの地域を呼んだ名前が現代の地理の中で登場する舞台は,もはやなくなっているようです。
[74218] 2010年 2月 26日(金)20:58:33YASU さん
ゾロ目イベント
[74214] 稲生 さん
亀山井田川郵便局に集合
飯田風越の時には参加できなかったので、今回は参加してみました。
11年前の混乱の教訓を生かしたのか、整理券配布、臨時駐車場完備、局員大幅増強といった万全の体制だったようです。
そのおかげと暖かい日和ということもあって、並んでいる方々と情報交換などしながらの和気藹々とした雰囲気でした。
とある方は、この後02222の海老名郵便局を目指すとか。どの世界にも上には上がいるものだと思いました。
同じ亀山市内の関郵便局は22022なので、こちらに行かれた方も多いようでした。
この趣味も「少しは」市民権を得てきたのかな?

[74216] N-H さん
その違いは一目瞭然です。
日付に0が入ってしまうため、エレガントではないんですね。
そのため「より美しい」定額小為替を購入しました。
こちらの発行日付印は22.2.22となり、その下にコード番号22222が入ります。
こちらは9時前でも発行できるため、事前に注文を取りトータルの待ち時間を減らしていました。郵便局の方でも色々と考えてくださったようですね。民営化の賜物かな??昔から気分を害するような対応をされたことがないので、伝統的なものかな。

ゾロ目局番としては、あと1局だけあります。
44444の山城南加茂郵便局も同じ関西線沿線にあるので、私はこちらを訪ねることとしました。
こちらは「当然ながら」いつもと変わらぬ状況でした。
[74217] 2010年 2月 26日(金)16:50:14hmt さん
元素名
[74176] YT さん ウンウンビウム
ちょっと自分の表の顔の話題が入ったので

超ウラン元素のことなど 何も知らないのですが、一応“元・ケミスト”[42163]を自称し、[42326]アーカイブズ の提案もしているので、ちょっとだけ話題に参入します。

アテネオリンピックの頃ですが、[32480] 実那川蒼さんの記事に、111番元素(ウンウンウニウム)つまり レントゲニウム が登場していました。

金メダルと銀メダルの間ですが、金・銀・銅と同じ11族ということで、レントゲニウムメダルを差し上げます(危ないって)。

周期表11族の順位(111Rg>79Au>47Ag>29Cu)からすると、金メダルよりも上位になると思われますが…

[74215] YT さん
列挙していただいた英語名が「…um」でないものが、マンガンと銅。但し銅は cuprumも辞書にあります。

地名と離れますが、かなり古くから知られた物質には、「…um」でない在来名称が存在します。
もっとも、普通に使う英語では「…um」でない鉄 Ferrum・コパルト Cobaltum・亜鉛 Zincum・銀 Argentum・アンチモン Stibium・金 Aurum・水銀 Hydrargyrum・鉛 Plumbum・ビスマス Bismuthumも「…um」のラテン名がありますから、残る金属元素は マンガン以外では ニッケルとタングステンだけ。

マンガンは ラテン語で magnesia nigra(マグネシア 黒い)という複合語由来。
現在は重要な金属であるニッケルは、昔は 「悪魔の銅」 と呼ばれました。その悪魔だったニコラスも、現在は 聖ニコラス→サンタクロースとして歓迎される存在になっています。
タングステンは スウェーデン語で tung sten(重い石)ですが、元素記号は別の語源のドイツ語 Wolfram由来。

誤記を2つ指摘。
100 カリホルニウム → 98 カリホルニウム
イッテリウム → イットリウム
[74216] 2010年 2月 26日(金)16:18:19N-H さん
11-11-11 と 22-02-22
[74214] 稲生 さん
しかしながら、結果は10年ほど前の飯田風越郵便局 の2600件(取扱件数)に比べると、その10分の一ほどの賑わいだったようですね。

そりゃあそうでしょう。10年前の通帳の記載は、

11-11-11 11111 飯田風越郵便局

だったのに対し、今回は

22-02-22 22222 亀山井田川郵便局

ですから、その違いは一目瞭然です。それを、稲生さんご紹介のブログでは、「主務者印廃止の影響」だとか「民営化でゆうちょ銀行がマニアを大切にしなかった影響」とまで可能性に言及し、「部内でも真剣に分析してみてください」とのことなのですが、ずいぶん見当違いなような気がします。
[74215] 2010年 2月 26日(金)02:15:15【1】YT さん
112番元素の名称(日本語名称)の決定
112番元素の日本語名称が「コペルニシウム」となることが正式に決まりました。

 ■【コペルニシウム】112番元素の名称(日本語名称)が決定しました。

  お待たせいたしました。2月19日付のメール配信で112番元素の名称(英名)
  が決定したとお知らせいたしましたが、日本語名称が決定しましたので、
  お知らせいたします。
  
  元素名(日本語名称):コペルニシウム
  元素名(英名):copernicium
  元素記号:Cn
  原子番号:112

というニュースを某学会からのメール配信により知りました。

これだけでは何ですので、これまでIUPACが認めてきた元素名のうち、英語名が地名に由来するものを以下まとめます。

番号日本語名英語名語源
12マグネシウムmagnesiumマグネシア (マニサ(トルコの地名)のギリシャ語名)
21スカンジウムscandiumスカンディア (「スウェーデン」のラテン語名)
25マンガンmanganeseマグネシア (マグネシウムと元の語源が同じで、ドイツ語での「マンガナス」鉱石を経て)
29copperキプロス (銅の産地として古代より知られた)
31ガリウムgalliumガリア (「フランス」のラテン語名)
32ゲルマニウムgermaniumゲルマニア (「ドイツ」のラテン語名)
38ストロンチウムstrontiumストロンティア (スコットランドの地名)
39イットリウムyttriumイッテルビー (スウェーデンの地名)
44ルテニウムrutheniumルテニア (ウクライナの地名)
63ユウロピウムeuropiumヨーロッパ
65テルビウムterbiumイッテルビー
67ホルミウムholmiumホルミア (「ストックホルム」のラテン語古名)
68エルビウムerbiumイッテルビー
69ツリウムthuliumテューレ (スウェーデンの地名)
70イッテルビウムytterbiumイッテルビー
71ルテチウムlutetiumルテティア (「パリ」のラテン語古名)
72ハフニウムhafniumハフニア (「コペンハーゲン」のラテン語古名)
75レニウムrheniumレヌス (ライン川)
84ポロニウムpoloniumポロニア (「ポーランド」のラテン語名)
87フランシウムfranciumフランス
95アメリシウムamericiumアメリカ
97バークリウムberkeliumバークリー (アメリカ)
100カリホルニウムcaliforniumカリフォルニア (アメリカ)
105ドブニウムdubniumドゥブナ (ロシア)
108ハッシウムhassiumハッシア (ドイツ「ヘッセン」のラテン語名)
110ダームスタチウムdarmstadtiumダルムシュタット (ドイツ)

スコットランド近郊のイッテルビーという地名が、形を変えて「イッテリウム」「イッテルビウム」「エルビウム」「テルビウム」という4つの元素名の語源となっておりますが、これはイッテルビーで採掘されたガドリン石から、次々と新しい元素が分離されたからで、「ツリウム」「ホルミウム」なども同じ石から分離されました。スカンジウム、イットリウム及びランタノイド元素は一括して「希土類」「稀土類」rare earth metals/elementsと呼ばれますが、地殻内の埋蔵量は決して「希」ではありません。お互い混ざり合って単離にコストがかかるため「希」と呼ばれるようになったのです。

【追記】
と思ったら、[22262][22273]で既にhmt さんが纏められていました。
上のメールの発信日は平成22年2月25日付です。
[74214] 2010年 2月 25日(木)22:51:34稲生 さん
ゾロ目の日
稲生です、こんばんは。

今回は、平和な国のお気楽なお話です。
三日前は平成22年2月22日ということで、たとえば鉄ちゃんなどはその日の記念乗車券を収集したり、自己満足に浸っている方も多かったのでしょうが、一部の郵趣家の仲間は三重県の亀山井田川郵便局に集合したのでした。

ゆうちょ銀行の貯金通帳を開いていただくとよくわかるのですが、左から年月日・取扱店・お預り金額・お支払金額・現在高となっており、亀山井田川郵便局の場合、取扱店の5桁の番号がちょうど22222となっていて、ここで貯金すると(払い戻しでもいい)ゾロ目が並んで大変おめでたいことになるのでした。
その時の様子をほぼリアルタイムで自分のブログに掲載されたのが こちら
それ以外にも この方の2.22の日記 や この方の2.22のブログ が参考になります。

ところで、亀山井田川局の局番号が、なぜ22222なのかということですが、最初の2桁は、ほぼ都道府県ごとに付けられている番号で、三重県がたまたま22でした。下3桁は、その県内での郵便局の概ね設置順となっており、たまたま222番目の番号を亀山井田川局が与えられただけのことです。
偶然のこととは言え、近隣の職員の応援を頼んだり、臨時駐車場を用意したり、当事者である郵便局の苦労は相当なものだったと想像します。

しかしながら、結果は10年ほど前の飯田風越郵便局 の2600件(取扱件数)に比べると、その10分の一ほどの賑わいだったようですね。
ちなみに、私・稲生は参加しませんでした。
[74213] 2010年 2月 25日(木)01:26:54興田小 さん
お詫びとお礼
落書き帳の皆さま、こんばんは。

地名コレクション更新履歴
今川焼さま
作々さま
それぞれのコレクションを拝見させていただきました。[74190]の反映をありがとうございました。
また、作々さまにおかれましてはお名前を間違えてしまい誠に申し訳ございませんでした m(_@_)m
[74196]また、情報があればお寄せください。
実際にコレクション内に情報提供者として名前が載ると嬉しいものですね。これからも微力ながらお役に立てればと思います。

[74192] k-aceさま
個人的には「群島」より「諸島」「列島」のほうが馴染みがあるんですけどね。
わたしも同じで「群島」より「諸島」という響きの方がよりしっくりと感じます。
「群島」か「諸島」かという問題について、YTVアナウンサーの道浦俊彦/とっておきの話には、今回の『奄美』ではなく『歯舞』の際に取り上げられております。少し長くなりますが引用いたします。
ちなみに、「諸島と群島の違い」は、
『精選版日本国語大辞典』(電子辞書)によると、「諸島」=多くのいろいろの島。また、地理学で、ある区域内に散在している島々をいう。「群島」=群がった多くの島。地理学では「諸島」の旧称 とあります。あれ?そうすると、歯舞は「旧称」が「新称」になったの?
『三省堂国語辞典』を引くと、「諸島」=海洋の中の、ある場所(一帯)にある、多くのしまじまの呼び名。群島。「群島」=海洋の中の、ある場所(一帯)にある、多くのしまじまの呼び名。(今は「諸島(ショトウ)」という)
ありゃ。やはり、「群島」は古く、「諸島」の方が新しいという解釈ですよね。というより、一字一句、違わない、同じじゃないの?
『広辞苑』では、「諸島」=二つ以上の島の集団。「群島」=まとまりをもって群がっている島々。。
うーん、これだと「諸島」と「群島」の差は「島の数」で、「諸島」<「群島」 のようですね。それでいいのかなあ?
ある小説家曰く『国語辞典』と呼ばれる出版物は50種類以上を数えるそうです。それだけ多くの解釈ができ得るということこそが日本語の特性の一つでしょうから、「通称」「法令」もそのように柔軟に考えるべきなのでしょう。
もちろん、わたしは各々の日本語や考えは尊重いたしますので、「広辞苑」を引用している各記事、各コレクションを否定するものではありません。
k-aceさまの記事により、改めて単語の意味付けを考えるきっかけとなりました。ありがとうございます。

[74196]hmtさま
「標準地名」改め「決定地名」で「奄美群島」に統一
およそ2年間ほどの期間でしたが、『奄美群島政府』と呼ばれていた時期は何らかの影響を及ぼすこととなったのでしょうかね (?_?)
hmtさまに補足していただいた結果、[74190]の記事に奥行きが増したように思います。つたない投稿者のふぉろ~をどうもありがとうございます。
[74212] 2010年 2月 24日(水)17:54:48むっくん さん
御礼
[74198]にまんさん
S22年法の附則第2条と施行令の附則第2条は本件の検討に当たっては、無関係
とはまさしくその通りでした。別の法令に頭が行き過ぎており、難しく考えすぎていました。
単に法第7条の変遷を追うだけで、良かったようです。
このことを踏まえ、もう一度考え直してみます。

遅くなりましたが、どうもありがとうございました。
[74211] 2010年 2月 23日(火)23:37:55hmt さん
Re:国立公文書館デジタルアーカイブ・システム
[74209] oki さん
早速のご教示ありがとうございます。
教えていただいたように、「PDF」ボタン>右クリックによるポップアップメニューにより、「リンクアドレスをコピー」を選ぶことができました。

ご質問のあったデジタルギャラリーの「天保国絵図」の件。
IE環境で JPEG2000版の国絵図が 正常に閲覧できています。
[74210] 2010年 2月 23日(火)22:13:46にまん さん
小字を書く理由
[74199] 右左府 さん
[74206] oki さん

必要もないのに字地名を記載する理由ですが、確か、登記簿上は小字の記載はあったかと思いますので、単純に登記簿のデータを住所表示として使用している人がいるというだけではないでしょうか。
一般の人は、ここに出入りしている我々のように、「地籍」と「住所」を区別する感覚は持ち合わせていないでしょうから、特に会社のように、必ずしも地域の実情を知らない人が作業する場合は、そのような可能性は十分にあると思います。
[74209] 2010年 2月 23日(火)18:55:32oki さん
国立公文書館デジタルアーカイブ・システム
[74207] hmt さん
この記事を書く作業を通じて、国立公文書館デジタルアーカイブ・システムの検索により、多くの法令にアクセスできることを実感しました。
それは良いのですが、検索→閲覧では、画面にあるURLボタンが有効になっていません。
[74182] むっくんさん の記事で使われたURLを得る方法を教えていただきたいと思います。

本来はむっくんさんから回答があるのでしょうが、私もこのシステムを使っているので、私自身が採用している方法をご紹介します。

hmt さんがやったように、「地方自治法第百五十五條第二項」をキーワードとして検索すると、「地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令」について2つの書類が該当します。一つは「公文類聚」所載のもの、もう一つは前天皇の御名御璽が入った政令原本です。
どちらも画像での閲覧が可能になっているので、例えば公文類聚の方を選んで「閲覧」ボタンを押すと、5ページ建ての閲覧画像が立ち上がります。これはJPEG2000の画像ですが、hmt さんが仰るように、URLボタンが有効になっておらず、国会図書館の近代デジタルライブラリーのようにはリンクが張れません。
そこで、右上にある「PDF」というボタンを押すと、PDF画像がDL可能なページに切り替わります。このページには次のような記載があります。

このPDFファイルは4143KBあります。
ブロードバンド環境でも、ダウンロードに数分から数十分かかることがあります
ダウンロードを開始してもよろしいですか?(「はい」または「いいえ」)をクリックしてください。
はい いいえ
ここで、「はい」を左クリックすればPDFファイルがDLできます。
一方、「はい」の上で右クリックすると、いくつかのポップアップメニューが表示され、その中に「ショートカットのコピー」があります。これを左クリックすればURLがクリップボードにコピーされるので、エディタなどにペーストできます。例えば以下のように。
http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S57B0307620000/071200458359.pdf

以上はIEでの手順ですが、ほかのブラウザでも同様だと思いますので、お試し下さい。

国立公文書館デジタルアーカイブ・システムからは、近代デジタルライブラリーに掲載されていない資料が得られるので、時によって非常に有用です。
私は今のところ、明治維新から市制町村制施行時までの廃置分合に関するデータを入手するためにいろいろ作業を行なっています。ある程度まとまれば、こちらで公開する予定なのですが、いつになることやら。
また、このシステムに含まれる資料は、すべてがネット上に公開されているわけではなく、現時点で閲覧不可のものも多数あります。ただ、それらの資料も、竹橋にある国立公文書館に出向けばマイクロフィルムで閲覧可能です。また、ネットに公開される資料は順次拡大されているので、今後も閲覧可能な資料が増えていくものと思われます。


それから、国立公文書館の資料に関して皆さんにご質問があります。
「天保国絵図」は国立公文書館のデジタルギャラリーで公開されているのですが、私の環境では、2~3ヶ月前からJPEG2000版の国絵図が閲覧できなくなりました。閲覧しようとすると、ブラウザがフリーズしてしまいます。IE、サファリなど、ブラウザを問わず同じ現象が生じます。国絵図以外の画像も同様です。異なるPCでも同じ現象が起きます(もちろん、プラグインはインストール済みです)。
一方、JPEG版だと問題なく表示されます。ただ、JPEG2000版の方が何かと便利なので、こちらで見たいと思っているのです。皆さんの環境でも同様の現象が生じているか、教えていただければ有り難いです。
[74208] 2010年 2月 23日(火)17:57:23Issie さん
五大市の並び順
[74207] hmt さん
京都市 大阪市 横浜市 神戸市 名古屋市

五大都市の序列は、戦前の公式配列とされた三府五港…順でしょうか。

も,そうなのですが,「市」ということであれば,1889(明治22)年4月1日以降に「市制」(明治21年法律第1号)を施行するにあたって,その対象となる“最初の市”を一挙36市指定した内務省告示(明治22年第1号,1889年2月2日付)の登載順とした方が良いかもしれません。以下,括弧内が登載順位。

 京都市 (2),大阪市 (3),横浜市 (5),神戸市 (6),名古屋市 (12)

じゃあ,何でこの順番に並んでいるの? と言えば,それは結局,上位区画の府県が“三府五港…”の順に並んでいるからです。
この告示において筆頭の位置にあるのはもちろん 東京市。しかし,東京市の市制施行は 5月1日 であり,4月1日,最初に市になったのは 京都市 でした。

参考までに,この告示における市の配列は以下の通り。

 東京市 京都市 大阪市 堺市 横浜市 神戸市 姫路市 長崎市 新潟市 水戸市 津市 名古屋市
 静岡市 仙台市 盛岡市 弘前市 山形市 米沢市 秋田市 福井市 金沢市 富山市 高岡市
 松江市 岡山市 広島市 赤間関市 和歌山市 徳島市 高松市 松山市 高知市 福岡市 久留米市
 熊本市 鹿児島市

この後,3月18日付の 告示第10号 で 佐賀市 が指定され,4月1日に市制施行。東京市は佐賀市にも追い越されてしまいます。

最初に指定されたのが五大都市であることは、初代と変りないのですが、順序が異なっています。名古屋市が二位に躍進。
大阪市 名古屋市 京都市 横浜市 神戸市

これは何の順番なんでしょうね。
[74207] 2010年 2月 23日(火)16:58:51hmt さん
「初代政令指定都市」
[74182] むっくんさん の記事に、昭和22年制定当時の地方自治法がリンクされていました。
そこで、[72887] じゃごたろ さん の記事を読んだ時に気になっていたことを調べてみました。
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第百五十五條第二項に規定する市

pdfファイル の 50コマを見ると、第1項は現行法とほぼ同じで、第2項は次のようになっていました。なお、第4項は現行法第2項とほぼ同じです。
政令で指定する市は、市長の権限に属する事務を分掌させるため、条例でその区域を分けて区を設け、区の事務所を置くものとする。

この種の資料は 国立公文書館 のデジタルアーカイブ・システムに集録されているようなので、「地方自治法第百五十五條第二項」をキーワードとして検索してみると、すぐに該当する政令が見つかりました。

地方自治法第百五十五条第二項の市の指定に関する政令(昭和22年政令第17号)
地方自治法第百五十五条第二項の市を左の通り指定する。
京都市 大阪市 横浜市 神戸市 名古屋市
附則
この政令は、公布の日から、これを施行する。
明治44年勅令第239号は廃止する。

末尾に添付された手書き文書には、「理由」と題して、次のように記されていました。
地方自治法の施行に伴い、従前の市制第六条及び第八十二条第一項の規定により指定せられた市を地方自治法第百五十五条第二項の市に指定する必要があるからである。

五大都市の根拠になっていた法律「市制」【勅令市・省令市に関する条文は[72201]にあります】が廃止されるので、地方自治法とこの政令により穴埋めをしたわけです。五大都市の序列は、戦前の公式配列とされた三府五港…順[34038] でしょうか。

今更言うまでもないことですが、現在の「政令指定都市」は、昭和31年法律第147号による改正で設けられた 地方自治法第二編第十二章第一節【大都市に関する特例】 に基づくものです。
「特別市」[369][370] になれなかった初代政令指定都市とは別物です。

同じ「政令指定都市」であっても、現在は、
地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令(昭和31年政令第245号)
という名の、全く別の政令で指定されています。いわば「二代目政令指定都市」です。

最初に指定されたのが五大都市であることは、初代と変りないのですが、順序が異なっています。名古屋市が二位に躍進。
大阪市 名古屋市 京都市 横浜市 神戸市

なお、「五大都市行政監督ニ関スル法律」(元は六大都市…[53841])も、昭和31年法改正を受けて廃止されました。

昭和31年の政令には、昭和38年の北九州市、昭和46年の札幌市・川崎市・福岡市から、平成20年の岡山市[66973]、平成21年の相模原市[72498]に至るまで追加指定改正が積み重ねられて、本年4月には19都市なること、ご承知の通りです。
東京を加えれば遂に「20大都市」というインフレ状態になるのですね。

この記事を書く作業を通じて、国立公文書館デジタルアーカイブ・システムの検索により、多くの法令にアクセスできることを実感しました。

それは良いのですが、検索→閲覧では、画面にあるURLボタンが有効になっていません。
[74182] むっくんさん の記事で使われたURLを得る方法を教えていただきたいと思います。
[74206] 2010年 2月 23日(火)03:34:35oki さん
小字について
[74199] 右左府 さん

関東あたりの町名地番整理未実施の住所表示は「大字-地番」のみで、小字は日常生活では用いない……というのが通例だと思います。

確かに、小字を使うことはあまりないと思いますが、まったくないわけではありません。私は、業務または趣味で、住所データのアドレスマッチングを行なうことがたま~にあります。要は、番地レベルの住所データを収集し、既存の地図データをもとにその経緯度を求める作業です。
この作業を行なう際、住所に字(または小字)が付いていると、往々にしてアドレスマッチングに失敗します。というより、東北各県や徳島県といった小字単位での番地起番が一般的な地域以外の都道府県では、ほとんどの場合失敗します。
マッチングに使う地図はグーグルマップ(アース)もしくはヤフーマップなのですが、これらに番地レベルの経緯度情報を提供しているゼンリンやアルプス社のデータベースで、大字単位で起番している地域では字レベルの情報を受け付けない仕様になっているのではないかと思います。

逆に言うと、大字単位で起番している地域で、住所の確定に必要がないにもかかわらず、(小)字単位の地名を記入している事例が少なからず存在する、ということです。
手元に千葉県の宗教法人名簿があるのですが、そこに掲載されている6648件の住所のうち、字地名のあるものが10件あります。比率にして0.15%ですが、その程度は大字起番の住所でも字地名を記載することがある、ということになります。
なぜ、必要もないのに字地名を記載するのかはよく分りません。上の宗教法人名簿でも、字地名を記入している住所について、同じ大字に所在する他の住所を見ると字は記載していません。たぶん、どこかの時点で字のついた住所が採用され、それが修正されることなく使い続けられているのだろうと思います。
ご指摘の「印西市草深字原」に関しては、千葉ニュータウンで商業施設の管理等を行なっている株式会社千葉ニュータウンセンターという会社があり、その印西牧の原地区担当である牧の原モア管理事務所の住所が印西市草深「字原」2029―3になっています。おそらく、テナント入居している店舗の一部が、これをそのまま踏襲して「字原」を付した住所を採用しているのだろうと思います。


宮古島の方は、沖縄の地名変遷について不勉強なので、何も言えません。
ただ、1908年(明治41)の沖縄県及島嶼町村制の時点で、以前の「間切」が「村」、「村」が「字」とされたようですが、実質的には、島嶼町村制以前の沖縄の村はヤマトの近世村と同等の存在と考えて良いと思います。したがって、字(かつての村)の下に小字に当たる地名があっても不思議ではないでしょう。
実際には、宮古島市のサイト内を検索して見つけた小字は、「城辺字比嘉にある野加那泉(ヌガナガー)が小字野加那佐事に所在する」という記事だけなので、小字が正式の住所として存在するとは考えにくいと思いますが。
なお、右左府 さんの行かれた「史跡 マムヤの墓」の所在地が「城辺字保良1221-1(小字平安名)」だったということですが、「平安名」はかつて保良村の東隣にあった「平安名村」のことだろうと思います。歴史地名大系によれば、平安名村は1873年(明治6)の「琉球藩雑記」には存在するものの、1880年(明治13)の「県統計概表」には村名が記されていないということで、この間に廃村になったのでしょう。ただ、正式なものかどうかは分りませんが、地名としては残存し、使われる場合もあるのだと思います。
[74205] 2010年 2月 23日(火)00:40:2388 さん
本四間航路と本四架橋について
宇高航路関連記事の皆様
[74148][74157] みかちゅう さん
[74151][74170] hiroroじゃけぇ さん
[74152] Issie さん
[74154][74175] oki さん

現在私は、業務上フェリー会社と間接的に、ちょっと(ほんとにちょっと)つながりがあり、今回の宇高航路撤退の件、私は第一報をそのルートで知りました(と言っても同じ日で数時間早いだけですが)。聞いた第一感は、まず「業務との関連」が気になってしまい、落ち着いた後にやっと諸々のことを考えたという次第です。本音としては、もう少し感慨にふけりたかったところです。
しかし、全体としては、「来るべきものが来た」「やむを得ない」というところです。もちろん、感傷的になる面はありますが。

今回の宇高航路撤退表明への受け取り方は、皆さん、かなり個人差があるようです。
・hiroroじゃけぇ さんは、岡山(児島)在住でありながら、高松へ瀬戸大橋経由で通学経験があると言う、岡山県民としては本四間移動にかなり縁がある少数派です。あと、何よりも重要と思われるのは、世代的に、「瀬戸大橋があるのがあたりまえ」という状況の上での本四間航路をご承知であること。
・oki さんは、徳島南部のご出身で、岡山-香川の異動ではなく、徳島・小松島から本州への航路が念頭にあること。宇高航路を利用した経験は少なそうです(後に[74175]ではっきり言及がありました)。世代的には私よりは少し上でしょうか。
・みかちゅう さん、Issie さん は、直接は本四航路・宇高航路にご縁はないようですから、一般的な公共交通機関への観点でしょう。

私自身は、と言うと、学生で県外(大阪府)在住中に瀬戸大橋開通を迎え、(1)宇高航路(国鉄・JR連絡船を含む)全盛期、(2)瀬戸大橋開通時、(3)現在、を経験しており、学生時代の4年間以外はずっと高松市の在住です。

私にとっては宇高航路・瀬戸内海は「原点」や「レゾンデートル」(存在意義)に近いものがあり、落書き帳においても何度も触れております。
[44704]では、高松市から岡山市へ行くのに、敢えて宇高航路で宇野へ渡り、宇野線経由で岡山駅へ、あるいは、宇野-岡山の路線バスに乗ることもある旨ご紹介しました。
[46874] では、岡山県と香川県の間を航路により県境越えをした幾つかの例をご紹介したました。
[47220] では、瀬戸大橋開通前後の、宇高連絡船の最終運航日・瀬戸大橋の一番列車にまつわる私の昔話をご紹介しました。
同じく[47220] では、現在の宇野-高松の航路の一般客の利用例をご紹介しました。
[51793] では、宇高連絡船の貨車・客車航送について、[51789]EMM さん、[51790]hmt さん にレスする形で述べました。
[65371] では、宇高連絡船のデッキで食べたうどんについて、熱く語りました。
[66012] では、宇高航路には限りませんが、「瀬戸内海」について、太平洋や日本海のような「外洋」(と敢えて言いますが)との違いについて述べました。
この話題には、瀬戸内海にご縁のある、[66039]にまん さん、[66040] hiroroじゃけぇ さん、[66044] かぱぷう さん に、後追いをしていただきました。

[47220]に書かなかった、宇高連絡船にまつわる究極の思い出があります。
昭和63年(1988年)4月9日をもって国鉄-JRの宇高連絡船は終焉のときを迎え、翌4月10日に瀬戸大橋が開通しました。この4月10日に、前日役目を終えた、阿波丸・土佐丸・伊予丸・讃岐丸の4隻が揃って、高松港・宇野港出発のクルージング船として運航され、開通したばかりの瀬戸大橋(与島付近)方面を周遊航海しました(2時間くらい)。私は高松発の便に乗船しましたが、途中、4隻が横一列に並んで航行し、一斉に汽笛を長く鳴らして「最後の主張」をしました。このときのことを思うと、今でも懐かしく、本投稿を書くのにも目頭が熱くなります。
奇しくも、今年は宇高連絡船航行開始100周年でもあります。
――――――――――――――――
既に遅れ気味のレスになってしまい、また、皆様の書き込みの中に「我が意を得たり」のコメントが多数ありますので、その引用を中心とさせて頂きたいと思います。
[74157] みかちゅう さん
「宇野の住民が岡山ではなくあえて高松に行く目的」も「高松の住民が岡山ではなくあえて宇野に行く目的」もいまいち思い浮かばないのですが、意外と通勤や通学の需要があるのでしょうか? 岡山ではなく「宇野(の周辺)」と高松間の需要が一定以上なければ、瀬戸大橋経由で代替可能と判断されて当然でしょう。
[47220]で触れた、宇野から高松への移動例は、少数派でしょう。例えば買い物の例で見ても、わざわざ時間のかかる高松へ来なくても、バス等で岡山市内へ向かう方が、品揃えも店舗も、豊富で魅力的であり、優位です。高松市は、近年では郊外型店舗が発展し、中心部に位置する全長2.7kmの日本一長いアーケード街は、空き店舗が増えています。

[74154] oki さん
行政と住民が本四架橋の建設を選択した時点でフェリー会社の命運は尽きていたのであり、開通後は地域経済や利用者、そして従業員に与える悪影響を最小限に保ちながら、一定の時間をかけて会社の安楽死を図るのが、Issie さんの仰る「総合的な交通政策」というものではなかったかと思います。本州と四国との連絡を陸上交通化するのが本四架橋の本来的役割であり、それが両者間の海上交通を無用のものにするのは当然ですから。
(中略)
本四架橋は、四国の行政と住民が強く望んだ結果建設されたものです。
瀬戸大橋を最初に提言したのは、明治22年5月23日、讃岐鉄道(現在のJR予讃線・土讃線の丸亀-多度津-琴平)開通式典での大久保・珪・香川県議会議員)と言われています。
「塩飽諸島を橋台として山陽鉄道に架橋連結せしめば、常に風波の憂いなく、実に南来北向、東奔西走、瞬時を費さず。其国利民福、是より大なるはなし」(参考HP)
そして、昭和30年5月11日の「紫雲丸事故」。168名(うち修学旅行中の小中学生100名)の尊い命を失いました。
これらを踏まえ、航路に代わる交通手段として熱望された本四架橋です。

そして、開通当初、乗用車の場合片道で約5千円程度の料金を要し、「高速道路だと東京から静岡県あたりまで乗れる」との話題も出るほどの料金の差で、物流面の利便性への寄与は限定的でした。また、観光客も開通当初のブームが過ぎると激減しました。このため、地元経済への活性化への施策として、また、生活の向上のために、地元自治体らが料金引き下げ要望を行ってきたことも確かです(あわせて本四公団への出資金の積み増しも行ってきました)。
その一方で、この高い瀬戸大橋の料金との兼ね合いで、並行する宇野-高松の航路が、便数を順次減らしながらも開通後20年間、航路を維持できていたこともまた事実で、結果的に激変緩和となっていました(瀬戸大橋開通直前はJRの連絡船を除くフェリー3社がそれぞれ20分おきに運航していました)。

私自身は、瀬戸大橋開通時にJRの宇高連絡船が廃止となったのと同様に、他の宇高航路も廃止になるものと思っていました。実際には、同時に廃止になったのは児島-坂出航路だけで、その後は福山-多度津などが順次廃止・縮小となりました。高松-東神戸(青木)のジャンボフェリーも、瀬戸大橋開通前は1日15便ほど運行していましたが、今では1日5往復です(現在は神戸は三宮発着、会社HP)。

[74175] oki さん
高松-宇野間の流動人口
現在、岡山県各所から高松市への通勤・通学として考えられる主な駅と、所要時間・運賃を示します。
区間交通手段所要時間運賃
(1-1)岡山-高松JR54分1,470円
(1-2)岡山-宇野-高松JR+船104分(44分+60分)960円(570円+390円)
(1-3)岡山-宇野-高松バス+船101分(51分+60分)1,030円(640円+390円)
(2-1)茶屋町-高松JR39分1,140円
(2-2)茶屋町-宇野-高松JR+船83分(23分+60分)710円(320円+390円)
(3)児島-高松JR30分930円
(4)宇野-高松60分390円
乗り換え時間は含んでいません。念のために触れておくと、宇野駅は玉野市、茶屋町駅・児島駅は倉敷市です。
最初は、岡山市や、倉敷でも玉野から遠い地域では宇高フェリーを使わないだろうと思っていたのですが、このフェリーの運賃が宇野-高松間で大人片道390 円と信じられないほど低額なため(JRだと岡山-高松間1,470円)、会社が定期代を払ってくれる就業者(通勤者)はともかく、687人の通学者はすべて宇高フェリーを利用している可能性があります。
宇高航路への乗換え等を鑑みると、例えば岡山-高松は約2時間かかります。倉敷市でも宇野に最も近い茶屋町でも、約90分。JR宇野駅から四国フェリーの宇野港は至近ですが、国道フェリーの宇野港までは約800mありますし、自宅から駅まで・駅から勤務先や学校までの移動を加えると、通学でもフェリー利用はごく僅かでしょう。現に、私はJR高松駅発7時過ぎの岡山行き快速に平日に乗車する際、岡山市方面へ通学する高校生を何人も見ました。
これらから考えると、現在、宇高航路を利用する通勤・通学客は、宇野駅周辺を発着する玉野市-高松市の通勤・通学客に限定され、岡山市-高松市、倉敷市-高松市の利用者は、所要時間を鑑みると通勤者はもちろん、通学者もほとんどはJR利用者で、航路利用者はほとんどいないと思われます。[47220]拙稿でも、同じ職場で茶屋町からJRで通勤する人のご紹介をしました。

――――――――――――――――
一部繰り返しになりますが、私の意見は概ね次のとおりです。
本四架橋は、(特に)四国の住民が望んだものであり、当時の架橋技術の英知を集め国策として四国という離島を解消する施策である。陸続きになる以上、必然的に航路への影響が生じることはやむをえない。
直轄事業で国土交通省が整備する一般国道(もちろん当初から無料)との差があまりに激しいことを鑑みると、また、せっかくの「陸続き」が、高い料金という障壁によって商品流通等や通勤・観光面等の「モノ・ヒトの動き」への影響を見ても、本四架橋(道路)の料金値下げ要望は、地元としては自然である。
「有料道路方式」である以上、料金収入をもって建設費の償還を図る制約があるのは承知している。
本四架橋は一般国道があった上での「2本目の道路(有料道路)」ではなく、「1本目の道路」である、との観点があると考える。
日本道路公団と本四公団が別組織であったことは、建設時には本四架橋推進には寄与したのかもしれないが、建設後の料金体系(プール制)及び公団のあり方の見直しの際には、別の側面を感じる。例えば、本四公団と言う組織がなく、日本道路公団の一部であったとしたら、割高感はなく、料金体系その他は現在とは異なっていたはずである。現に、現在の土日の「1,000円高速」は、本四架橋は別途1,000円を要する。もっとも、本四公団には鉄道を含んでおり、既に瀬戸大橋ではJR在来線が開通時から走り、新幹線のスペースも確保している。大鳴門橋も、新幹線のスペースを確保している。
本四公団の組織見直し時等に、「400万人の人口しかいない四国へ3ルートもあるのは過剰投資」と言う議論があり、今でも潜在的にはこの意見はかなりあるように感じる。私としては、過去の「離島」であることによることによる悲哀、また、ハブ空港の路線網にも似て本四間に複数の陸路があることによる循環型交通による活性化(1ルートしかなく出入口が1箇所というのは、東西にも長く対岸の本州にもそれぞれに年が存在している四国の地勢からも適当ではない)からも適切であると考える。
現時点での宇高航路が、宇高間のローカル航路となっている点は否めない。瀬戸大橋の強風等による代替手段としての機能を有していることは否定しないが、そのためだけに税金を投入して航路を常時維持する必要があるかどうかは別問題である。必要なときに借り上げることも可能であり、大型重機等も同様。備讃瀬戸に停船勧告が出ているときに瀬戸大橋が通行可能ということもある。
航路は、長距離トラック等の運転手にとって休憩できるメリットがあることも否定しないが、東北-関東や九州-関西など、長距離運送ルートは多数あり、必要に応じSAやPA等で休憩しているのが実態であり、本州-四国間だけが過去の慣行から別扱いになっているだけであると考える。また、ルートにもよるが、航路利用による所要時間のロスも、現在の流通業界では選択しにくい点がある。
瀬戸大橋開通から20年を経過し、激変緩和も徐々に進行して来たと見るほうが自然。フェリー業界で従事する人々(船舶乗務、陸上勤務とも)も、高齢化も進んだと思われる。
[74204] 2010年 2月 22日(月)23:55:07らるふ さん
たまには地名コレクション
[74196] 今川焼 さん
盆地情報ありがとうございます。半田盆地を盆地コレクションに追加しました。
今回も含めて盆地コレクションには旧市町村名を記載しているケースが多いのですが、今年は市町村合併も区切りなので、そろそろ旧市町村名は外して行こうかと考えています。

さて、たまには私も地名コレクション情報を。

みやこ♂さん
珠洲市にある蛸島交差点(地図です)は「七差路」コレクションにいかがでしょうか。「蛸島」なので八差路だったらもっと良かったのですが。ポストマップに交差点の写真がありました(まあ、これではよく判りませんが・・・)。
[74203] 2010年 2月 22日(月)20:56:39【1】千本桜 さん
飫肥駅
[74200] Issie さん
もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
軽便鉄道は昭和6年、吾田村大字星倉から飫肥町大字本町まで400mほど延伸しています。酒谷川を渡ったのですね。でも、どのようなルートで走っていたのかは不明です。 Issieさんがおっしゃるとおり、市街地が密集しているので鉄道を突っ込む余地がなさそうです。また、Yahoo! の地図や写真を見ても、鉄道跡らしき形状が見つかりません。酒谷川に鉄橋を架けたのなら、両岸にルートの痕跡が残っているはずなのに、その痕跡が無いのが不思議です。ここから先は推測で書きます。推測と言っても全くの当てずっぽうではなく、むかし大河原駅前通りを走っていた軽便鉄道を念頭に置いての推測です。思いますに、吾田村星倉の飫肥駅から飫肥町本町の新駅までは、現在の国道222号と同じルートを走っていたのではないか。道路橋の稲荷下橋を利用して酒谷川を渡り、そのまま本町通りの路上に突っ込んだのではないか。400m延伸ですから、新駅の位置は現在の飫肥一丁目と二丁目を区切る本町通りの道ばたではないか。軽便鉄道ですから、道路の上を走れたのではないか。鉄道ルートの痕跡が無いのは、道路上を走っていたからではないか。そのようなことを考えてみました。間違っていなければ良いのですが、また、はらはらドキドキです。推測することを楽しむお遊びですので、間違っていたら笑って許して。

書込み訂正機能を使って書込みです。
直前に今川焼さんからの書込みがありました。軽便鉄道の新駅は本町通りの少し南になるのですね。間違いまして失礼しました。実際のところ、本当は酒谷川をどのようにして渡ったのだろうと気になっていました。大河原の軽便鉄道は道路橋の尾形橋を使って白石川を渡りましたので、「飫肥 稲荷下橋 軽便鉄道」で検索しましたところ、日南の今昔というサイトにヒットしました。これを見ると、稲荷下橋に沿って鉄橋が架けられていたようです。サイト内の昔と今の写真を見比べて思ったのですが、本町通りは拡幅されていますね。昔の家並は残されているのでしょうか。素朴な疑問です。
[74202] 2010年 2月 22日(月)20:55:58今川焼 さん
飫肥と油津の旧駅
[74200]Issieさん
今の地図を見ても,この“2代目飫肥駅”がどこにあったのか,よくわかりません。開業20年後の延長とは,もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。
鉄道廃線跡を歩くVI(JTBキャンブックス)によると、軽便鉄道時代の東飫肥駅は現在の飫肥駅とほぼ同じ場所ですが、駅南側の新しい住宅地のあるあたりにあったようです。そこから線路は先へ延びて、酒谷川を渡り飫肥の市街地に入った(このあたり)に軽便鉄道の終着飫肥駅があったようです。土手のレベルに築堤を築いてその上に駅が設けられましたが、廃止後は築堤は崩されその跡に商店などが建てられたためほとんど痕跡は残っていないようです。
鉄道廃線跡を歩くVIには昭和12年の沿線地形図もあり、それで油津付近の線路も確認できました。軽便鉄道の油津駅は、Issieさんの言われるように山形屋付近(地図)にあり、山形屋と宮崎銀行の間を南へ向かうアーケード道路がちょうど駅前通りあたるようですね。この付近の当時の地図は油津の町並みと堀川運河の中にある昭和9年油津港平面図で確認できます。
[74201] 2010年 2月 22日(月)03:15:59駐車場 さん
2010年1月1日現在の推計人口
はじめてこの掲示板に書き込みます。
自分で各都道府県の人口を調べてて、最後まで出なかった岡山県が発表しましたので
ようやく全都道府県の2010年1月1日現在の推計人口が揃いましたのでこれを貼っておきます。
(北海道と高知県は2009年12月31日現在の住民基本台帳人口です)

北海道  5541598
青森県  1380834
岩手県  1339386
宮城県  2340748
秋田県  1095676
山形県  1178474
福島県  2041051
茨城県  2967203
栃木県  2010201
群馬県  2005055
埼玉県  7174179
千葉県  6187319
東京都  12991242
神奈川県 9008132
新潟県  2382134
富山県  1094390
石川県  1166436
福井県  808027
山梨県  868497
長野県  2158549
岐阜県  2085118
静岡県  3784856
愛知県  7414977
三重県  1861149
滋賀県  1402418
京都府  2630802
大阪府  8841767
兵庫県  5599549
奈良県  1400154
和歌山県 1004467
鳥取県  590713
島根県  719493
岡山県  1943284
広島県  2866527
山口県  1455508
徳島県  788523
香川県  1000027
愛媛県  1436700
高知県  775776
福岡県  5069206
佐賀県   852613
長崎県  1431740
熊本県  1815958
大分県  1196460
宮崎県  1132296
鹿児島県 1710987
沖縄県  1388739
[74200] 2010年 2月 22日(月)02:00:32Issie さん
油津のこと:補足
[74167] 千本桜 さん
現在、誰もが油津そのものだと思っている市街(油津駅・山形屋・油津小学校などのエリア)は、かつての吾田村大字平野に形成されたことになります。

飫肥と油津について,もう少しいろいろと眺めていたら,1つ重大な(かもしれない)ことがわかりました。

現在,JRが「日南線」と呼んでいる路線にはかなり複雑な歴史があります。ここでその全体について述べることは避けますが,今話題にしている 油津・飫肥付近 の区間は元は宮崎県が敷設した軌間762ミリの軽便鉄道(宮崎県営鉄道)でした。これを1935年に国有化し,孤立していた路線を油津で志布志から延長した路線につなぎ,志布志線経由で日豊本線に接続したものです。
なお,(南)宮崎側からの路線は1963年に開通し,これで初めて宮崎から飫肥・油津まで他県(志布志)を通過せずに鉄道で来ることができるようになりました。JR移行後に志布志から都城や鹿屋・国分方面の路線が廃止されたため,現在では1963年以前とは逆に日南線経由で宮崎方面にしか鉄道がつながっていません。
さて,前述の通り,元・宮崎県営鉄道飫肥線であった 油津-飫肥 間は762ミリゲージの軽便鉄道でした。これが国有化と同時に省線(国鉄)標準の1067ミリゲージに改軌されるわけもなく,しばらくは孤立した状態が続きました。1937年に志布志から1067ミリゲージの路線が油津まで延長されますが,このとき 油津駅 は軽便鉄道以来の 油津駅 とは別に,やや西の位置に設置されました。これが現在の 油津駅。同時に従来の油津駅は 元油津駅 と改称されました。油津-飫肥 間の改軌も含めて 北郷 まで1067ミリゲージでの路線が開業するのが1941年。このときに油津や飫肥周辺では大きな路線変更が行われ,元油津駅 は 油津駅 に統合されました。ただし,その際に 旧・元油津駅 は 油津駅 の貨物扱い所に転用され,油津駅との間に連絡線が新設されました(もちろん,1067ミリゲージで)。

つまり,当初の油津駅は現在の油津駅とは別の位置にあったのです。
油津駅周辺の地図をよく見てみると,油津駅から北側の堀川公園に向けて“それらしい曲線”が見られます。恐らくはこれが油津駅から元油津駅への貨物側線の跡でしょう。そうすると,元油津駅(軽便鉄道の油津駅)は現在の山形屋の近くにあったと思われます。
今よりも油津の港町に近いですね。それでも“旧吾田村”の領域ではあったでしょうが。

大幅な路線変更は 飫肥駅 周辺でも行われています。
現在の路線は西側から飫肥駅に入り東へ抜けて北郷・宮崎方面に向かいますが,軽便鉄道時代は酒谷川に沿って東側から飫肥駅にアプローチしていました。現在の国道222号線と同じルートです。
で,実は現在 飫肥駅 と呼んでいる駅は,改軌による路線変更の直前までは 東飫肥駅 と呼んでいました。元々,1913年の開業時点では現在と同様に 飫肥駅 だったものが国有化前の1931年に400メートルほど延長されてこちらに 飫肥駅 の名を譲り,東飫肥駅 と改称していたものです。
改軌・路線変更と同時に 東飫肥-飫肥 間が廃止されて,東飫肥駅 が元の 飫肥駅 に戻ったのですね。
ただし,これは当時の地図を見ないままでの考察なので,現在の 飫肥駅 と軽便鉄道開業時の 飫肥駅(のちの東飫肥駅) が全く同じ位置であるのかどうかはわかりません。
現在の 飫肥駅 は酒谷川をはさんで本来の飫肥とは対岸の星倉,つまり旧飫肥町ではなく旧吾田村の領域にあります。でも,これは 新潟,小千谷,厚木,津山 などなど,全国いたるところに幾らでもある例で珍しくも何ともありません。
気になるのは県営鉄道時代の 東飫肥-飫肥 間400メートルの延伸です。今の地図を見ても,この“2代目飫肥駅”がどこにあったのか,よくわかりません。開業20年後の延長とは,もしかしたら酒谷川を渡って飫肥町の領域に乗り入れていたのかもしれません。ただ,今町も本町(飫肥1~10丁目)も川のそばから市街地が密集していそうで,それならどこに突っ込めたのか。
当時の地図による確認が必要ですね。


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