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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[88843] 2015年 10月 1日(木)18:52:30hmt さん
城南五山
[88842] グリグリ さん
御殿山にも繋がる台地と言うことでググってみたところ、こんなページが見つかりました。

リンクされたのは 品川区の御殿山台地の箇所です。徳川将軍家の御殿があったと言われるのは 北品川3丁目付近で、昔は品川の海を望む景勝地だったようです。しかし、品川台場造成に際して山が崩されて地形が変り[80264]、更に東京港の工事があって 現在の海は更に遠ざかっています。

品川区の地盤図を見ると、上方桃色の淀橋台に、高輪台・白金台などの駅名が見え、台地コレクションに収録されている 淀橋台地・高輪台地・白金台地 に対応することがわかります。

淀橋台南側の緑色は目黒川の谷で、山手線は目黒までこの低地を走ります。
港区・品川区の境界線、つまり1932年までの東京市と荏原郡との境界線は、これよりも少し台地側にずれています。
ここには、南東から御殿山・八ツ山・島津山・池田山・花房山、総称して「城南五山」という地名があります。
明治時代に存在した島津邸・池田邸・花房邸が地名の由来。
城南五山の探訪ルートは、東京凸凹地形案内 に紹介されています。

ついでに、御殿山に関する疑問点を一つ
[88842]のリンクと同じページの下の方には、港区の御殿山台地も記されていました。
「柘榴坂は御殿山台地の南東部分にあたる高輪台を東から上る坂」と書いてあり、島津山の北に別の御殿山台地がある地図が示されています。どうやら、高輪警察署付近を指しているようですが、その存在は不詳。
地図を見ると文久元年に英国公使のオールコックが襲撃された東禅寺が近くにあります。
翌年の御殿山英国公使館焼き討ち事件と混乱しているのかもしれません。

こちらのページに、この付近の台地と低地の地勢が描かれています(どこまでが独自名称なのかはっきりしませんが)。

品川・大井・入新井 の地形ですね。
台地名は、御殿山台地・三ツ木台地・広町台地・戸越台地・大井台地・山王台地・西大井台地・馬込台地で
低地・台地名は独自に付けた。
と書いてあるので、[88840]で採用していただいた荏原台の山王台地も独自名称になりそうです。

まあ地名というのは、こんな具合に必要に応じて独自名称が付けられ、不適切なものでなく、追随者が多くなれば定着する。そういう性格のものかもしれません。
[88837] 2015年 9月 29日(火)11:57:36hmt さん
山王台地・星が岡
[88830] EMM さん
国会議事堂の西側に山王日枝神社がありますが、この日枝神社がある付近の高台のことを「山王台地」または「星が岡」というようです。

「星が岡」という名は、古き東京の名所として記憶に残されていました。
明治時代の政界人・財界人の社交場となった「星岡茶寮」(ほしがおかさりょう)。元々は 日枝山王社の境内地であり、街の明かりで東京の星空が失われてしまう前には、小高い岡の上から星空の美しい景勝地だったのでしょう。

明治10年代後半の社交場というと 政府が作った洋風の鹿鳴館(ろくめいかん)[49243] が知られていますが、同じ頃に三井などの民間資本で作られた和風の高級サロンが 星岡茶寮でした。

鹿鳴館は西洋式のパーティーや社交ダンスを通じて外国要人に文明化した日本の姿を伝え、条約改正[54388][62517]を実現しようという狙いでしたが、星岡茶寮の方は、国内の要人が「赤坂の料亭で 飲みながら 腹を割って話し合う」という伝統的な交渉の場として使われたものと思われます。

デジタル標高地形図を見ると、鹿鳴館の位置は千代田城の南・現在の日比谷公園東側で 内幸町と記されています。
一方、星岡茶寮のあった山王台地は お城の西側の麹町台地が 南に続く先端で、日枝神社の文字が読めます。
内幸町の鹿鳴館と星ヶ岡との距離は、東西に1.5kmほどでしょうか。

山王台地の下は濃い緑色になっています。元々この地にあった溜池は 東に流れる汐留川の水源でしたが、明治10年に干上がって湿地化し、後に埋め立てられました[33199]。東京高速鉄道(後の銀座線)は このような過去を持つ土地の地下を 戦前(1938)から通っていましたが、溜池付近には 60年近くも 駅がありませんでした。
1997年南北線延伸によって、銀座線と交差するこの地に 開設された駅の名は、溜池低地側の港区と 山王台地側の千代田区と 双方の顔を立てた「溜池山王駅」になりました。

星岡茶寮に戻ると、関東大震災後の北大路魯山人による料亭を経て 1945年に空襲で焼失しました。
戦後は五島慶太による東京ヒルトンホテルが作られ、ホテル内に「スターヒルズ」というレストランがあったように記憶します。
そのホテルも老朽化し、21世紀になってから建て替えられました。[88830]の写真6。

キャピトル東急内の 中国料理「星ヶ岡」 は、この地を記憶する名を 今に伝えていました。

参考までに、大森駅前にも 日枝神社 があり、その付近も 山王台地 と呼ばれるようです。
[88832] 2015年 9月 28日(月)16:28:38【1】hmt さん
日を数える
第2次安倍内閣発足からの在任期間が 9/21に 1000日 になったニュースが報じられました。毎日2015/9/21
一覧表から拾い出してみたら、明治18年(1885)の内閣制度発足以来130年、96代の内閣のうち 1000日を越えた内閣は 戦前・戦中の60年間にも5回しかありませんでした。第1次桂、第2次伊藤、第2次桂、原、東條の各内閣。
そして、戦後70年にも 第3次吉田、第2次池田、第2次佐藤と3回だけ。
【以下修正】
今回の第2次安倍内閣は、戦後4代目で戦前からの通算でも僅か9代目という長寿内閣でした。
…と続けたら、「現在は第3次安倍内閣」とのご指摘[88833]を受けました。
リンクした一覧表をよく見たら、現在の内閣を含まない歴代内閣であることに気がつきました。
問題にされた1文は、主語に誤りがあったことを認め、これを削除します。
【修正終】

この数字は 日本の内閣が いかに短命であるかを示していますが、数え方にも問題があります。
小泉内閣のように連続している内閣は、通算した方がよいでしょう。
このように改められた、戦後長寿内閣の順番。
佐藤(1-3次)2798日、吉田(2-5次)2248日、小泉(1-3次)1980日、中曽根(1-3次)1806日、池田(1-3次)1575日。

現内閣は 戦後6位の現状から 更なる長期政権を狙っています。
連続しない第1次安倍内閣を加算しても、今のところ順位は変りません。

こんな政局をよそ目に、私的な日数を数えていたのが 楽隠居の hmtです。
地名の山田が話題になった機会に 筑豊の山田市に目を向け、その人口減少に注目しつつ「三万」と題した記事で 誕生30000日という私的な情報に言及してしまいました。

落書き帳の中で お祝いの言葉をいただくことになり、恐縮しつつ御礼申し上げます。関係記事

グリグリさんのプレゼント 私の記念日 を見て思い出したこと。
50年前の新婚時代、妻の生誕10000日を祝ったことがあります。自分の記念日は過ぎていました。
PCのなかった当時のこととて もちろんエクセルの日付関数を使うこともなく、手計算で日付を求めたのでした。
[88808] 2015年 9月 20日(日)15:20:24hmt さん
Re:御所市・葛城市・河南町・千早赤阪村
[88007] グリグリ さん
確認後の【国土地理院】回答が楽しみになりました。

大和葛城山北方の4市町村境界隣接関係で、地図の違いを最初に示したのは、[87834] N さん の記事だったでしょうか。
【千早赤阪村と葛城市は】Google MapやMapion、Yahoo地図では明らかに隣接していないのですが、地理院地図やMapFanでは隣接しているように見えます。

2系統の情報源があるように思われましたが、[88616]によると 前者グループの旗頭と思われる ゼンリンの「いつもNAVI」では、ズームによる相違があるとのこと。これは意外。
マピオンからの返信はゼンリンに丸投げでした。

2万5千の地形図を元に進化した 地理院地図と、1500分の1?の市内住宅案内地図から出発した ゼンリンとの違い?
その後、自治体からの回答[88690][88748]もありましたが、独自の情報は得られず。

ズーム13の根拠はゼンリンに聞きたいところです。ゼンリンの得意分野とも思われない山岳地帯の独自調査?
私としては、国土地理院から最終的に責任の持てる見解が得られるものと期待しています。
国土地理院は、境界未定箇所については境界線をあえて表示することなく処理するなど【注】、責任ある態度を取っています。


【注】
大和葛城山北方から離れますが、よく似た高千穂峰西方の 4市町【都城市・高原町・小林市・霧島市】境界の事例を示します。
[87838] グリグリ さん には、Google Map, Mapion, Yahoo!地図, 地理院地図, MapFan がリンクされています。

高千穂峰付近は 都城市と高原町との境界の一部が未定で【面積調の a】、地理院地図【リンクが間違っていたので貼り直し】には これが示されています。

しかし、他の地図では 高千穂峰の南側に 都城市と高原町との境界線が記載されています。
Yahoo!地図 や Google Mapでは、高千穂峰付近の登山道がごく一部しか記載されていないなど、地図による違いは かなりあります。
更に細かく見ると、Google Mapでは 宮崎県高原町と鹿児島県霧島市との境界にある短い県境線【高千穂峰と お鉢 の中央】が脱落していることにも気がつきました。
[88806] 2015年 9月 17日(木)18:55:42【2】hmt さん
国勢調査デビュー人口が3万人未満だった 34市
[88803] 白桃 さん
「三万」[88800]にお付き合いいただき ありがとうございます。
国勢調査人口3万未満を記録した市の 7パターン を拝見しました。

最初に、[88805]の訂正に加えて もう1ヶ所。パターンF:枕崎型の次に、またパターンF…。
「パターンG:羽咋型・・・ず~と十両暮らし」なんでしょうね。

さて、この羽咋型の12市とパターンB:石垣型の20市。それに安芸市と中津市を加えた 34もの市が、3万人未満の人口で国勢調査デビューをしていることに驚きました。
3万人のハードルをクリアして誕生したはずの「市」なのに何故? といのが一応の疑問です。

事前の適格審査に使われた国勢調査は、市になった後の国勢調査デビューより1回前であるのが普通だから、人口停滞又は減少傾向にある時にギリギリで3万を確保した後に市になれば 不思議な現象ではないわけです。
この予想を確かめるために、代表例として半世紀以上も十両生活を続けた羽咋市を調べてみました。

事前の 1955年国勢調査における 2町2村合計人口は 30045と ギリギリで適格審査セーフでした。
1958/7/1 羽咋市誕生市後の国勢調査デビューは1960年で、29556人と十両デビュー。
“なっちゃったもの勝ち”[584]なので、市としてデビューした時に3万を越えていたかどうかは、一応無関係ということなのでした。
G組は平成合併10市も 同様な理由でしょう。この時間差が十両デビューを生む原因の一つなんですね。

羽咋市に続いて十両生活が長いのは 1970/12/1誕生のえびの市。これは単独市制ですが、1970年国勢調査において 既に3万を割っていました。
適格審査はそれよりも前の1965年国勢調査で行なわれたのでしょう。この時の合併前3町の合計人口は 33101人ですから 悠々とパス。市になる前後10年間における人口減のため、えびの市の国勢調査デビュー人口は 27241人にまで減っていたのでした。

しかし、パターンB:石垣型【幕内に昇進】では事情が違い、十両デビューの原因も違うようです。
何よりも歴史の古い市が並んでいます。鳥取 尾道 丸亀 は明治、福山 大垣 上田 は大正、海南 飯田 熱海 舞鶴 七尾 館山 洲本 柏崎 多治見 は昭和戦前。
20市のうち、鳥取市から相生市【戦時中】までの 16市は法律「市制」の時代に誕生した市でした。

鳥取市は市制町村制施行により「町村」を経ないで市になった最古参です。「市制町村制理由」 に記されたように、「人口凡二万五千以上の【狭い】市街地」だけを「市制施行地」とする制度でした。
その後、内務省による「人口5万人以上」などの内規はあったようですが、法律上の規定はありません。[75438]
1947年、現行憲法と共に制定された地方自治法第八条により、市となるべき要件として「人口三万以上」が規定されました。[88800]では書き落していますが、これが「人口五万以上」に改められたのは 1954年です。

日本の南西端に近い八重山列島。石垣島に市が生まれたのは 1947/7/10 でした。言うまでもなく 昭和22年という言葉が通用しない米軍占領下ですから、これも地方自治法の人口三万要件とは無関係でした。
国勢調査記録には 1950年 19872人でデビューしています。琉球政府公報27号 4/5コマ
余談ですが、この表の中には 日本に返還される前の奄美 が含まれていることにもご注目ください。

なお、1964年に八重山郡大浜町を編入した石垣市は 1965年国勢調査では4万人台で幕内入り。
1972年日本復帰後の国勢調査では3万人台も記録していますが、1985年以降は4万人台を維持しています。
[88800] 2015年 9月 15日(火)18:45:16hmt さん
三万
一時期、石炭産業などに支えられて「市」になったものの、社会構造の変化により人口が減少した「市」に関する話題が出ています。[88789][88790]
その際の重要な指標になる数字が、「人口 30000人」です。

地方自治法第八条第1項は「市となるべき普通地方公共団体は、左に掲げる要件を具えていなければならない。」として、4要件【2~4号省略】を示しています。
一  人口五万以上を有すること。

それなのに、何故「人口 30000人」が指標になるのか?

言うまでもないことですが、(旧)合併特例法時代から 合併新法にかけ 2010/3/31まで継続していた「三万市特例」[40463]によって多くの「市」が誕生した。その既存事実があるからですね。

市になるための人口要件。この変化を時系列により詳細にまとめた むっくん さん の記事は、hmtマガジン 市と町の違い に収録されています。
なお、省略した4号に関連する都道府県条例については、アーカイブズ があります。

「三万」については、 祝!30000番記念地名編 という じゃごたろ さん の記事があります。
ここで紹介されている「三万谷」は、戦国大名・朝倉氏が本拠とした越前国一乗谷のある 足羽川流域で、「一乗谷」の上流側に隣接する左岸支谷です。越美北線「三万谷トンネル」は、この2つの支谷を隔てる山地を貫く形です。地理院地図

余談:歴史地名として有名な「一乗谷」は、現代の住所地名は「城戸(きど)ノ内町」となっていました。朝倉氏の栄光だけでなく、地名も消滅しているようです。
そう言えば、織田信長に滅ぼされた「一乗谷」だけでなく、織田軍団の中で越前の覇者となった柴田勝家の「北ノ庄」も、江戸時代になると「福井」[64833]に改められ、消滅地名になったのでした。

「三万」地名に戻ります。
前記[30003]の地名表記が 地名コレクションで 平成合併後の表記に改められているのはよいのですが、秋田県男鹿市「払戸三万場」は、Mapionにあるように「払戸三萬場」なのではないでしょうか。すぐ近くには 「福川三萬把」 という地名もあります。

ここで、グリグリさんへのお願いを一つ。
アーカイブズが原則として編集を中止していることは承知しているのですが、グリグリさん提案によるもの でもあり、特別に [30000][30008][30021][30025]などを追加していただけないでしょうか。
特に[30025]は、「全国の市・十番勝負」のきっかけが 落書き帳30000番台突破記念 であったことを示しており、歴史的価値があると思います。

この記事の「落ち」をつけておきます。
実は、hmt誕生30000日の記念書き込みだったのでした。次の目標は 40000日? そりゃ無理だ。
[88789] 2015年 9月 13日(日)13:58:14hmt さん
Re:「山田」考 
[88785] グリグリ さん
「山田」に関する変遷情報検索につき、各種の一覧を挙げていただき有り難うございます。特に
全国の山田郡の一覧

検索文字を入力する部分は単に「自治体名検索」となっていますが、それより前に記された「検索対象」の項目では「自治体名欄」「変更対象自治体名/変更内容欄」「郡名欄」が示されており、「郡名欄」にチェックを入れるように設計されていたのですね。この点を見落としていました。

福岡県山田市の後継・嘉麻市には(中略)上山田と下山田の住所表示(大字?)が残っています。

以下、筑豊の山田 に関する 栄枯盛衰の記録です。

[88764]にリンクされている “「山田」の変遷情報検索結果” を見ると、1889年に成立した「嘉麻郡熊田村」は廃置分合のないまま1955年に「山田市」になっています。
その後も僅かな編入だけで2006年の平成合併に至っていますから、YT さん [84549]で紹介された力作 「市区町村別人口 Ver. 0.10」を見れば、「筑豊の山田の栄枯盛衰」を人口から知ることができます。

1889年の町村制施行時に嘉麻郡上山田村・下山田村・熊ヶ畑村の3村が合併し、合成村名の「熊田村」となる。
1896年穂波郡との統合で郡名が「嘉穂郡」に変る。1898年末の日本帝国人口統計 1999人。YT人口表【このように略記します】No.19375
この時代は筑豊炭田や若松港への石炭積出用の鉄道の発展期であり、筑豊鉄道は九州鉄道への合併後の1901年には 上山田まで延伸されました。
上山田駅の隣には下山田駅もありました。いずれも現存しませんが、山田駅[88786]の仲間です。

九州鉄道[61266] 国有化後20年ほどは 上山田が 筑豊本線 の終点でした。
1929年に原田(はるだ)まで全通した線が筑豊本線になると、飯塚-上山田間は「上山田線」になりました。

時代も目的も違いますが ついでに書いてしまうと、1988年 JR九州の手で全線廃止された上山田線には 上山田-豊前川崎という区間もありました。これは筑豊の石炭を若松港でなく苅田港に輸送する計画で作られた鉄道です。
しかし、1966年という開業時には 既に筑豊炭田が衰退し、時代遅れになった鉄道が本来の目的に使われる機会はありませんでした。

石炭産業に活気があった時代に戻ります。1908年末 3535人、1913年末 8724人、1920年の国勢調査では 15569人という 熊田村の人口増加ぶりは 炭坑の発展を物語っており、熊田町(1924)を経て 1925年に嘉穂郡「山田町」として「山田」が復活した年の国勢調査は 16143人【YT人口表 No.19373】。1940年には戦前最高の 31986人。

戦後の石炭増産時代、1950年山田町の国勢調査人口は 36379人。1954年の単独市制で「山田市」になりました。
しかし、山田市になってからの人口は 1960年には辛うじて市の体面を保つ 30140人【YT人口表 No.19230】だったものの、10年後には半減。2000年国勢調査では歌志内市に次ぐワースト2の 11686人に転落しました。
宮脇俊三さん[88004]が中央公論社の現役編集者であった1975年に、『時刻表2万キロ』の旅で乗車した第3章にも、次のように記されていました。
車内は淋しすぎるほど空いている。山田市は炭坑都市であるが、いまは人口が1万5千に減ってしまい、市制返上の話もあるという。

2006年の平成合併では 稲築町【YT人口表 No.19398, やはり1950年に最大人口44514人を記録し、2000年は19823人】などとの合併により市の体面をやっと保つ形になりました。
しかし、合併の結果 市名については 「山田」から 変わらざるを得ないことになりました。
その名は、1896年統合前にこの地域の郡名であった「嘉麻」の復活でした。嘉麻市の 2010年人口 42589人【YT人口表 No.19252】。
[88788] 2015年 9月 13日(日)11:51:29hmt さん
堺の住所、「丁目」はなく「丁」
[88747] _ さん
60年近く前のことです。新卒の私は 堺の会社に就職することになり、荷物の送り先として会社から連絡された住所を見て、「目がない」ので 驚きました。
新任の日経支局長と同じような経験の記憶が、今回の記事によって甦りました。

この落書き帳では、アーカイブズ ちょっと変わった町名の雑学 に紹介されている 堺市のサイトを知りました。
リンク先のURLが変っているので、現在のページ を付けておきます。
堺市役所に取材した日経記事にも、ほぼ同じ内容が記されています。

最後に、hmt 過去記事集です。 
[88782] 2015年 9月 10日(木)18:23:06hmt さん
「山田」という地名
[88764] グリグリ さん 47都道府県すべてに存在する地名 「山田」
現自治体は岩手県の山田町のみです。

JR東日本による山田線復旧後の三陸鉄道移管については 既に関連記事[86828][87385][88294]がありました。

それはさておき、グリグリ さん による今回の調査のリストで、消滅前自治体の列を見て驚きました。
かつて山田町また山田村であった地域のうち、県内の少なくとも一つの自治体では 「山田」の地名が現代でも住所地名として残されているのですね。例外は香川県など3県のみ。

地形と土地利用の代表例を組み合わせた「山田」という地名は、考えてみれば 地名の王道でした。
市町村名の文字頻度分析でも上位を占めています。
日本中に溢れていた地名だから残ったのだ。そのような解釈もできますが、昔から馴染んだ地名が失なわれつつある現在、これはやはり「類まれな結果」なのでしょう。

しかし、かつて「山田」を代表した地名であった三重県宇治山田市[79347]の後継自治体・伊勢市には、近鉄の宇治山田駅があるものの、「山田という町名」は見当らないようです。
もっとも、[32564]グリグリさんによると、「山田」という名の自治体は 昔から存在しなかったようですが…

福岡県山田市の後継・嘉麻市には山田庁舎の所在地「上山田」などの町名がありました。
しかし、機械化した農作業に適さない「山田」が現実に失われつつあるのと並行して、地名の「山田」も多くは失われてゆくのでしょう。残念です。

三重県と言えば、かつて 山田郡山田村 もありました。
そこで、本題の「47都道府県すべてに存在する地名」からは離れるのですが、市区町村変遷情報に登場する全国の「山田郡」を検索してみようと思いました。しかし、「変遷情報検索」では うまく検索できないようです。

群馬県山田郡は 平成合併で消滅するまで 長い間存続していました。
三重県山田郡香川県山田郡とは、明治期の郡統合で消滅しました。

しかし、冒頭で例外3県とした香川県にしても、昭和合併により「山田」の名は 町名で復活しており、その自治体名が消滅した後も 高松市山田支所山田中学校などに使われています。

yamadaさん ご無沙汰ですね。地名での登場を機会に 落書き帳に書き込んで、こんな色 のタイトルバーを また見せてくださいな。
[88769] 2015年 9月 8日(火)15:27:07hmt さん
1976年に撮影された小幌駅付近のカラー空中写真
[88742] 山野 さん
Wikipediaによると、開業当時(戦時中の1943年)には民家もあり、小幌海岸海水浴場の利用客もいたとのこと
…というのがあるけど、此の当時の画像なんてのは残っているんでしょうか?

「開業当時に民家があった」ことについて、現在のWikipediaは 2015/8/14の朝日デジタル記事を出典として示しています。
既に[88766] k-ace さん のレスに紹介されていますが、そこには「【豊浦】町によると、70年代半ばごろまでに海辺の集落が消滅し」と記されています。この出典の日付8/14は 7/25に記された[88294][88296][88297]よりも後であり、当時のWikipediaには出典が示されていなかったように思われます。

それはさておき、ご質問の趣旨は当時(約40~70年前)の画像の存在です。
国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で小幌駅付近を見ると、周辺も含めて70件の画像がヒットし、小幌駅開業の翌年である1944年撮影の写真もあります。しかし、閲覧すると大部分の写真は不鮮明です。
最も鮮明であると思われた写真は1976/10/28に撮影されたカラー写真(CHO7612- C6A-31)でした。まさに海岸の集落が消滅した頃。
幸いなことに、この空中写真は Wikipediaにリンクされているので、アクセスも容易です。

山の間に挟まれた駅前には青屋根の駅舎らしい建物等が見え、海岸近くにも青屋根が2棟あります。海岸にあった民家【の残り?】でしょうか。海岸は小さいながらも砂浜らしく、これが海水浴場でしょう。
この海岸と駅との間だけは、樹木が茂っていない空間になっています。

[88294] k-ace さん によると、2011年訪問時に「獣道を歩いて海岸に行くと」と記されています。
この35年間に生い茂った樹木によって 駅前と海岸の間にあった空間も 周辺と同じような森になり、秘境駅訪問者だけが通る「獣道」状態に変化したのだと思います。


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