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[81765] 2012年 9月 2日(日)12:43:29【1】Issie さん
ねば
[81764] k_ito さん
稲武-根羽はどんぐりバスです。コミュニティバスで県境越えできるというのはかなり珍しいケースのような気がしますから、目に留まらなかったのかもしれませんね。

ああ,これは私,知っていました。
交通公社…,じゃなくてJTBの時刻表にも載っていますしね。
一方で,“同じ県内”に向かう飯田方面へのルートが載っていません(途中の阿智までコミュニティバス,阿智からは信南交通)。
いずれにせよ,番組的には飯田から先,伊那谷をどう北上するかが問題になったはずです。最後には,前の発言のとおり,善知鳥峠も塩尻峠もバスでは越えられないので歩くしかなく,その意味では結果的にトンネルで鳥居峠を越えたあのルートで正解だったのだと思います。

※そう言えば,いま読み返して思い出したのですが,確か第1回の 横浜→富山湾 の「列島横断」の回で伊那谷から松本平に入る際に「善知鳥峠にバスがない」ということを一行(のうちの太川と蛭子)は経験しているのでした。その割には,今回も中津川のあたりで伊那谷ルートも模索していましたが…。

根羽村と稲武町には“総選挙後の政権交代”で盛り上がっていた頃,…と言っても今回(3年前)ではなく“前回”の1993年の夏に行ったことがあります。ただしその時は飯田まで車で迎えに来てもらって,路線バスを利用したわけではないのですが。
その頃は確かまだ,稲武まで名鉄バスが来ていました(たぶん,根羽まで)。
それにしても根羽村,飯田からとても遠いです。そもそも飯田自体が東京から極めて遠いのでなおさらでした。名古屋から見た稲武・根羽はどうなんでしょうね。

聞くところによれば,根羽村は元々は三河の加茂郡の一部だったとか(設楽郡ではないのですね)。16世紀末に信州に編入されたそうで,その意味では中世初期に美濃の恵那郡から信州の筑摩郡に編入された 鳥居峠以西の木曽谷 よりも信州にとっての“新参者”。
そういう経緯もあって,いまだに稲武との結びつきの方が伊那谷方面よりもずっと強いと聞きました。JTB時刻表の扱いもその表れでしょうか(…と言いつつ,JTBの取捨選択もそれほど根拠のないものであるようにも感じます)。
結局,木曽谷の最下流部は2段階の合併で岐阜県に「帰って」行きました。
根羽村もそれにならって三河=豊田市への合併を望まない保証はないわけで,もしかしたら次に長野県からこぼれ落ちるのは根羽村かもしれませんね。

しかし豊田市のコミュニティバスはなぜこんなに細かく分かれているのでしょう。

ざっと見てみましたが,それはたぶん,自治体の管理に移るまでの経緯とか,目的や路線の性格,運行形態の違い,あるいは市役所内での管轄部署の違いなどによるものなのだろうと思います。
[81750] 2012年 9月 1日(土)21:53:19【2】Issie さん
川中島など屁の河童! ああ松電,松電バス
久しぶりにやっていました。東京12チャンネルの「路線バスの旅」。
今回は,前回(徳島→伊勢神宮)を引き継いだのか,松阪→松本というルート。
普段は7時からの番組でそのつもりでいたら,今夜はスペシャル版で6時半からだったんですね。おかげで「1日目」の分を見そびれて,一行はすでに桑名に着いていました。
それにしても,路線バスの状況は年々悪くなっているようで,確か5年ほど前に私は長島スパーランドから名古屋まで国道23号線を路線バスに乗ったはずなのですが,今は廃止されてしまったとのこと。一行はとにかく岐阜県に入るまでの区間で相当苦労したようですね。

実は私が一番興味を持っていたのは,一行がどうやって松本平に入るかということでした。
私が松本市民だった30年近く前,すでに木曽路(鳥居峠,国道19号)はもちろん,善知鳥峠を越えて辰野方面に向かう路線バスもなかったはずです。峠向こうの 小野地区 の「半分」は旧松本藩領でずっと前から塩尻市だったんですけどね。でも,塩尻峠を越えて上諏訪に行くバスはまだありました。そこから伊那谷へ抜けるルートは,岡谷から天竜川沿いに直接辰野へ抜けるのは微妙にしても,昔NHKの「新日本紀行」で取り上げられた“諏訪(諏訪市)と伊那(辰野町)にまたがる”上野地区でバスを乗り継いだり,茅野から“国鉄バス”で杖突峠を越えて高遠から伊那へ出る,というのが使えたはずです。いずれも,今は使えません。それどころか,番組のお終いで出てきたように,松本から塩尻に(直接)行くバスさえありません。
ともかく,あとは伊那谷を何とか縦貫しさえすれば,飯田からは 根羽→稲武→足助 と乗り継いで名古屋まで路線バスで行くことは訳なかったはずです(この部分,図らずも松本視点になっていますね。番組的には逆方向です)。
実は,当時は木祖村の藪原駅から上高地へ行くバスが運行されていて,つまり“木曽谷ルート”で奈川村(現松本市)を通って,梓川に合流する 奈川渡 で新島々方面のバスに乗り継ぐというルートもありました。ただし松本電鉄の営業政策上,松本から新島々までは登山・行楽客が電鉄線を利用するように誘導するために,島々までの並行バス路線はわざと走らせていなかったはずです(現在は“高速バス並み”の松本-高山間のバスがここを通っています)。ただ,梓川左岸(北岸)の梓川村(現安曇野市)最奥集落の 八景山 まで松本駅からバスが来ていましたから,安曇村(現松本市)最下流部の橋のたもとからわずか2kmほど歩けば乗り継げましたか…。

とはいえ,これは全部30年前の話。
その頃からは想像もできないほどバス路線が痩せ細ってしまった今,一行がたどったのは木曽谷ルートで,結局 鳥居峠 は徒歩で越えることになりました(国道19号のトンネルを通りましたが)。ただ1つだけプラスだったのは,“日本海斜面”でありながら「木曽」(木曽郡=旧西筑摩郡)に属していた 旧・楢川村 が塩尻市に編入されたおかげで 奈良井 から 塩尻駅 まで塩尻市のバスで直行できたこと。昔は松電(松本電鉄)バスのエリアだったんでしょうが,それが手を引いた後,楢川村単独では並行する中央西線に対抗して塩尻までバスを走らせることはなかったのではないかと思います。その意味では「塩尻市奈良井」になったおかげではないか,と。
結局,一行は塩尻・松本市境の少しの区間を歩いて,何とかゴールの松本城に到達しました。
ナレーションやメンバーが語る通り,途中の展開からはほとんど「無理。失敗。」の気配が漂っていたんですけどね。

最後は,松電バスに乗ってお城に到着,と。
ところでこの書き込みのタイトルは,私が松本所在の某大学の学生だった頃,松電バスでアルバイトをして持ち帰ったのか,それともその某大学で創作されたのか(まさしく私が学生であった頃にドンピシャな内容[浅間温泉線の“ビデオの姉ちゃん”とか]なので,“代々受けて継がれてきた”ものではなくリアルタイムで作られたのでしょう),ともかく同級生が寮祭で披露した「松電バスの歌」の一節。地域独占の地方交通企業としては“競合相手”ではないのですが,善光寺平の西半分をエリアとする 川中島バス(川バス) は,やはり松電にとってはライバルで,そんな気持ちが表れているのでしょうね。しかし,それ以前から川バスの営業状況は最悪で,結局は松電資本に吸収されました。今では松電,川バスだけでなく,以前から松電傘下であった 諏訪バス も含めたグループ全部を合わせた「アルピコ交通」の名前で営業しています。
リンク先の歌詞は,私がこの歌を聴いた頃よりもずっと最近のものですね。川バスは「倒産」しちゃっています。

ともかく,この番組で再認識したこと。
……馬篭は「岐阜県」なんですね。
[81722] 2012年 8月 28日(火)21:57:15Issie さん
分断された郡
[81720] 白桃 さん
それはともかく、この海部(あま)郡ですが、むじながいりさんのパラパラ地図をご覧いただければおわかりになると思いますが、当初、名草郡によって3つのブロックに分断されております。

「海部郡」という郡は,紀州のほかにも尾張(愛知県)や阿波(徳島県),豊後(大分県),さらに異表記の「海士郡」という形で隠岐(島根県)にもありました。ただし,尾張の海部郡は中世に分割されて大正に再統合されるまで「海西郡/海東郡」に分かれ,さらに海西郡は木曽川の流路の変化による濃尾国境の移動によって美濃にもまたがり,こちらは明治後期の郡の統合により岐阜県の「海津郡」の一部になりました(「津」は統合相手の“下石津郡”)。
漢字表記が表すように,海での活動を生業とする集団である「あま部」に由来する郡で,だから全部が海のそば。
紀州の海部郡の場合,名草郡との境界のラインは古代からは少なからず変わっているだろうし,紀の川の河口デルタや和歌浦あたりの地形もかなり変わっていて,沿岸に点在する海部郡郡の領域の“陸地”からの隔絶性は今よりも高かったかもしれません。あるいは,後に名草郡の領域が陸地から拡大してきてそうなったのかもしれませんが,やはり「海人集団の郡」ではあるのでしょうね。

このような郡の分断例は結構珍しいのではないでしょうか?

珍しくはありますが,“2分割”であるならほかにもいくつか例がありました。
たとえば,「海津郡」を経て今は「海津市」の一部になっている前出の「下石津郡」。当然,“上”があるわけで,1878年の郡区町村編制法によって「上石津郡」と分割されるまでは両者合わせて「石津郡」でした。上石津郡に相当する区域は大垣市に編入された2006年まで丸ごと「上石津町」でしたが,下石津郡 とは隣接しておらず,間に 多芸郡 がはさまっていました。海西郡+下石津郡 で「海津郡」ができたとき,上石津郡はその多芸郡の大部分と合わされて「養老郡」となりました。

間に別の郡がはさまって分断された分かりやすい例が,武蔵(埼玉県)の 入間郡。ここでたびたび話題になるように,奈良時代の初めに朝鮮半島からの渡来民とされる人々を入植させた「高麗郡」が入間郡内に設けられて,その高麗郡が間に割り込んだせいで入間郡は2つの領域に分断されました。この状態が解消されるのは,高麗郡が入間郡に編入された明治半ばのことです。
※地図をよく見ると,両入間郡はその付け根部分で蝶番のようにわずかにつながっていなくもないのですが,現実にはほぼ無視してよいでしょう。

伊豆(静岡県)の北西隅にあった「君沢(きみさわ/くんたく)郡」も2つ領域に分かれていました。
三島市の大部分と,旧伊豆長岡町(現伊豆の国市),旧修善寺町西半(現伊豆市)と沼津市の内浦地区から旧戸田村,そして伊豆市の旧土肥町にかけての区域。間にはさまる函南町(田方郡)で分断されています。ちなみに,函南町のうち狩野川左岸の 日守地区 のみは 駿河国駿東郡 からの編入です。
実は 君沢郡 という郡は古代には無く,近世初頭までに田方郡から分割された郡であるようで,わざわざこの形にしたのには何か面白い話があるのかもしれません。

安芸(広島県)の「豊田郡」も2つの区域に分断されていました。
広島県では1956年に 豊田郡 と 賀茂郡 の町村の間で所属の交換を行い,以降は 豊田郡 が島の部分も含む沿岸部,賀茂郡 が内陸部の呼称となりましたが,それまでは 豊田郡 は内陸部も含めて東側の沼田川流域,賀茂郡 が 竹原 以西の沿岸部・島も含めた黒瀬川流域までの区域を領域としていました。
この「賀茂郡領域」の中で,現在の竹原市南西端の 吉名地区 と,それに隣接する東広島市(旧安芸津町)南東端の 木谷地区 だけが豊田郡に属していました。一見,この部分が“豊田郡の飛び地”であるようにも見えます。ただしもう少し広く見ると,この“飛び地”部分の対岸の 大崎上島・下島 および 豊島 も豊田郡で,そうして見ると逆に 竹原周辺 が「豊田郡領域」に割り込んでいるようにも見えます。ちなみに,上・下蒲刈島 は元は賀茂郡の島。

まだほかにもあるかもしれませんが,とりあえずはこれだけ。
ただ,確かに3つに分割される紀州の海部郡は珍しい例でしょうね。
[81717] 2012年 8月 28日(火)01:52:16【1】Issie さん
播磨と飾磨
[81713] グリグリ さん
飾磨という郡名そのものは、播磨国の「磨」との関連があるのでしょうか。

ちょっと調べてみたのですが,とりあえず「磨」という漢字自体にはあまり意味がないように思います。

「はりま」については,6世紀以前に「国造」が配置された段階では「針間国造」,あるいはそれから分かれたとされる「針間鴨国造」というのが見られ,つまり早い段階では「針間」という表記が行われていたようです。「針間国造」や「針間鴨国造」の“縄張り”は今の播州平野のあたりなんでしょうが,それぞれがどの領域に当たるか,今ここでは確認できません。
(※「鴨」というのは後の「加西郡/加東郡」のもとになった「賀茂郡」のことなんでしょうね。そうすると「針間鴨」の方が東播地方で,「針間」の方が西播地方ということになるのでしょうか。)

一方「しかま」の方は,たとえば“いわゆる大化の改新”期に全国に「評(こおり)」が編成されたときには「志加麻評」という表記が行われていたようです。「しかま」という地名自体は播磨以外にもわりと多く分布していて,たとえば「色麻」なんて表記も行われていますよね。
「播磨」「飾磨」という表記に固定されてくるのは律令による国郡の編成が進んでいく過程のことであるようで,たとえば「多磨郡」という表記もあり得るように(よく見かけるのは「多麻」「多摩」という表記ですが),ここでは単純に「ま」という音にあてた漢字,いわゆる“万葉仮名”の一つと見た方がいいように思います。

あるいは漢字による表記以前に“語源論”的なレベルで「ま」という音自体に何らかの意味がある,という分析をすることが可能かもしれませんが,そこまでさかのぼると最早「播磨/飾磨」という枠を超えたもっと根源的な議論になってしまいそうです。
さしあたり,「播磨の一部という意味合い」を読み取るのはかなり飛躍しすぎかな,と考えます。

参考までに,こんなページ がありました。ここでは日本書紀や風土記にかなり忠実に播磨・飾磨の古代について説明しています。
[81710] 2012年 8月 27日(月)19:59:18Issie さん
択捉焼山
先ほどNHKの「7時のニュース」でやっていたのですが,択捉島の「択捉焼山」という火山がやや大きめの噴火をしているのだとか。
たとえば ここの記事 によれば今月の15日に噴火が始まったことが,17日には伝えられていたようですね。しかし,私は先ほどのニュースまで気がつかなかった。
「わが国の領土」でありながら,やはりこちら方面の情報が入りにくいのは致し方ないところでしょうか。とりあえずググってみても,初めの方でヒットしたのはここにリンクをするのが憚られるようなページばかり。かなりめくって,やっと時事通信の記事にたどり着いた次第です。

でも,「択捉焼山」って聞いたことがない。「単冠山」(←やっぱり一遍には変換されません。戦記物に詳しいIMEなら一発?)とか,「散布山」なんて山なら聞いたことがあるような,ないような…。国後島の「爺爺岳」はよく聞く名前ですが。
そこで地図を見てみる…。
改めて見ると,択捉島は特に,一列に並んだ火山の複合体なのですね。細長い島の北から南まで点々とそびえ立つ山のほとんどが火山であるらしい。そのたくさんの火山の中から最初は「焼山」という字を見つけることができませんでした。何回か島の上を往復して,やっと真ん中へんの「小田萌山」を中心とする山の塊の中に見つけました。
現実にはほとんど意味のない地名呼称ですが,島の中部を占める「択捉郡留別村」に属するようです。

参考までに 気象庁のページ も。こちらでは今回の噴火はまだカウントしていないようです。ちなみに,ロシア名は「イワン雷帝山」というそうで…。
※島の名前は「イトゥルップ島」。ほぼ日本語と同じ名前だけど,これをもっとロシアっぽい名前にするなんて話が最近あったけど,どうなるのだか。
[81693] 2012年 8月 25日(土)21:29:21【2】Issie さん
狸の××
[81692]
…というわけで,アップし直し。


[81674] 白桃 さん
下関といえば、
♪お萩がお嫁にいくときにゃ・・・
という「リパブリック賛歌」の替え歌を思い出しました。

[81690] hmt さん
でも、私は ♪お萩がお嫁に…という替え歌の「存在」を知りませんでした。

そうですね。私も知りません。
地域に加えて世代の違いもあるかもしれません。

権兵衛さんの赤ちゃんが…、
一人一人が腕組めば(阪田寛夫作詞『ともだち讃歌』)、

これは小学校で教わりました。俗謡的な「おたまじゃくし」に対して,“学校公認”というところでしょうか。

学校で教えてくれなかったけどいつの間にか子どもたちの間で教わっていたのが,「狸の××」の歌。近年,池袋からヨドバシカメラの牙城に進出して競争著しいビックカメラがCMソングに使っているやつですね。
これはプロテスタント系のキリスト教会が持ち込んだ讃美歌が元歌なのだそうですが,間に昭和初期の流行歌である「タバコ屋の娘」(作詞・薗ひさし、作曲・鈴木静一。ただし,「薗ひさし」というのは 鈴木静一 の別ペンネームなので,実は作詞・作曲は同一人物らしい)がクッションとしてはさまっているかもしれません。

「権兵衛さんの赤ちゃん」は今ここで話題の「リパブリック讃歌」バージョンとは別に,「烏の赤ちゃん」に変わっていますがほぼ同じ内容の歌詞に“+α”部分を加えて「パイノパイノパイ」(東京節)の節で歌うバージョンもあって,男声合唱曲に編曲されてグリークラブなんかが歌っています。
私たちの世代ではドリフターズが「バイノバイノバイ」と歌っていた(←よく聞いてみると“半濁音”ではなく“濁音”に変わっている)のが記憶にあるのですが,「パイノパイノパイ」は大正期の流行歌。すでに東京駅が開業して「東京の中枢は丸の内」になっている一方,浅草には「十二階」がある(=つまり,関東大震災前),というわけで年代が割と絞られそうな歌です。元歌は開国後わりと早い時期にアメリカから持ち込まれた「ジョージア・マーチ」という軍歌で,これも南北戦争がらみ。

南北戦争はアメリカ国内だけで終結せずに,そこで使用された兵器の中古品が大量に輸入されてそれが幕長戦争から戊辰戦争で使用されたというのはよく指摘されることですが,南北戦争の頃にアメリカで流行して輸入された歌が日本人にとって初めての「洋楽」だったからか,讃美歌のように格調の高い歌から「狸の××」のように学校で教えてくれないくらい下品なものまで(私も含めて,小学生は「下品」なものが大好きです),

孔子や孟子が酒飲んで

のような軍歌・学生歌(これは軍歌に詳しい同僚に教えてもらいました)から,果てはいわゆる“春歌”(「下関」はこのジャンルに入るでしょうかね)まで,さまざまな替え歌の素材を提供してくれました。
※ちなみに,「下関」に類するような歌,私も学生時代にいろいろ教えてもらいましたが,今の学生さんはどうなんでしょうね。「セクハラ」と言われれば,それまでなんでしょうが。

【追記】改めて歌詞を見に行ったら,どうも考え過ぎていたみたいですね。「下関」はどちらかというと,“大人の男性の歌”というより「狸の××」に近い“子どもの歌”でしょうか。
…ま,そんなとこで。

そんな南北戦争の時代に生まれた歌の一つに "Tramp, Tramp, Tramp" という歌があります。
私は学生時代にエスペラントを教わったのですが,その時に教えてもらった歌の一つに "La fluanta tajdo"(潮の流れは)という歌がありました。今船出をしようとする若者たちに「潮の流れは君たちにある」と言ってこれからの航海の幸福を祝う内容でエスペラントの歌詞がつけられていて,その調子の良さと歌詞の内容が気に入って好きになった歌の一つでした。その当時,私はエスペラント・オリジナルの歌と思っていたのですが,ある年末,新宿の地下街で救世軍の楽隊がこの歌を演奏しているので驚いてしまいました。キリスト教関連の歌なのかな,その時はそう思っていました。けれども,なかなかその“原曲”に出会えずにいました。
ところがある日,ネット上をさまよっていくうちに,これと同じ曲に出会いました。それは 北海道大学の校歌
北大の歌といえば恵迪寮の「都ぞ弥生」が有名でそれは私も知っていましたが,この“校歌”は知りませんでした。私たちの仲間に北大の学生がいればエスペラントの歌と一緒に教えてもらえたのでしょうが,東大や京大,東北大,そして弘前大までは仲間にいても残念ながら北大の学生はおらず,以後四半世紀,この歌の別バージョンを知る機会が得られませんでした。
その意味で,やっぱりネットは便利です。
元歌の "Tramp, Tramp, Tramp" というのは兵士たちの足音の擬音で,南軍に捕えられた北軍の少年兵が友軍によって救出されるのを待っている心情を歌ったものなのだそうです。それが(たぶん,いろいろなクッションを通過して)明治期の日本に持ち込まれて札幌農学校,そして北大の校歌になったのですね。
この歌は日本とは別にアイルランドに持ち込まれて“準国歌”の地位を得ました。"God Save Ireland"(神よ,アイルランドを護らせたまえ)という歌。「イングランド」の“国歌”と似たようなタイトルですが,これはイングランド,つまりは“連合王国”からの独立を唱えて“反乱”を起こした首謀者たちが処刑される直前に叫んだ言葉なのだそうです(…ということを,この歌は歌っています)。
独立後のアイルランドではもう少し“おとなしい”歌が国歌に制定されましたが,この“準国歌”は依然として人気が高く,たとえばサッカーの試合の中継の際にパブなどで高唱されるのだとか。歌詞の中身はかなり凄惨なのですけどね。

なお,ここでリンクしたのはいずれも「ようつべ」のページ。
著作権上少なからず問題があって,リンクが切れてしまうかもしれないので,悪しからず。
[81692] 2012年 8月 25日(土)21:05:02【1】Issie さん
削除
ごめんなさい。
まだ途中なのですが,誤って確定ボタンを押してしまいました。
なので,正しいものはまた後ほど。
[81472] 2012年 8月 15日(水)12:01:14Issie さん
わ・ちべん
[81313] 白桃 さん
和智弁?

これは「和歌山の智弁」って意味じゃないかなあ。
たぶんこちらの方が「智弁和歌山」という名前よりも“部外者”の感覚に近いのではないかと。

いや,そんなことより,この手の略称は主催者や球場サイドが勝手に決めているものではないだろうと思います。
硬式野球(高野連)の方は経験がないのですが,水泳部(日水連)の場合,春に選手登録をする際に正式な学校名にあわせて略称も一緒に申告します。そして大会の掲示等にはその申告した略称が基本的に使用されます。もちろん,その都度略称を改めて申告するのではなくて以前(加盟時)に決められた略称を申告するのですけどね。少なくとも,自分の学校がどのような略称であるのかは当該校も諒承していることです。

たぶん野球も同じであって,「和智弁」というのも“関係者”は十分承知しているのではないか,と推察したりもします。
[81431] 2012年 8月 14日(火)20:07:16Issie さん
丸い校舎
[81305] 菊人形 さん
・宮城県)大崎市田尻総合支所 旧:遠田郡)田尻町役場
こちらは本当に見事な”円型”です。昭和33年竣工とのことですから、今から半世紀以上前の庁舎ということになりますが、まだまだ現役のようです。

これはもしかしたら,ちょうどその頃に流行した(一部で?)意匠なのかもしれませんね。
というのも,役場の庁舎ではないのですが,千葉県の習志野市ではそれと同じ頃に津田沼地区で建てた市立の小学校と高校の校舎がほぼ完全な円形をしているからです。
高校は硬式野球部が甲子園で2度優勝したのでよく知られている学校なのですが,2度目の優勝の頃に移転して,ごくありふれた普通の形の校舎になってしまいました。ということは,円形校舎はあまり使い勝手がよくなかったのかもしれません。
小学校の方は,移転も改築もされることなく現在もほぼそのままの形で使用されているようです。
ちなみに高校。上で述べた事情から,去年もこの高校の校歌が何度か甲子園で流れたのですが(今年は残念!),“東習志野”に移転した今も校歌は昔通りに「ここ津田沼の」と歌っているようです。
ま,校歌の歌詞はそうそう変わらないか。

ググってみると「円形校舎」で少なからずヒットして,やはり1955年前後に全国的に流行したようです。
というわけで,旧田尻町役場庁舎の1958(昭和33)年というのも,この“流行”にからむものなのでしょうね。
[81290] 2012年 8月 10日(金)21:45:12Issie さん
草島
私は来週の前半が夏休みの前半3日分。明日から事実上の夏休みということで,今日は午後3時間分の年休を取っちゃいました。夏休み残り2日分は,また後日ということで。
※つまりね,お客さんたちはお休みでも教員は夏休み中も普通に学校に出勤しているんですよ。…昔と違って。

お休みを取って何をしたかというと,一連の話題についてちょっと確認しようと図書館に行ってきました。――つまりね,図書館に行ってちょっと資料をあさりさえすれば,以下のような情報は簡単に手に入るということです。

さて,「草島」。
[81287] で私は

私には草島を分けるラインが見えてくる気がしますよ

と書いてみたのですが,どうやらそのラインは「幻」であるようです。
どうやら 草島村 は全体で一つにまとまった村落であり,それを加賀藩と富山藩が分け合って,加賀藩領分が新川郡,富山藩領分が婦負郡に属していたということです。

まず繰り返しですが,神通川が婦負郡と新川郡の境界であることはその通りです。
そしてその神通川の最下流部は,江戸時代の初めまで現在よりも西を流れており,問題の草島村は川の右岸(東側)にありました。その点では,大きな目で見ると 新川郡側 にあったと言えるかもしれません。
寛永16(1639)年,加賀藩領のうち越中婦負郡・新川郡,加賀能美郡のそれぞれ一部が分知されて「富山藩」が成立します。当初,母藩・加賀藩領内に分散していた富山藩領は,後に婦負郡・新川郡内の一部に集約され,10万石の藩領が成立します。そして,その際に 草島村 は両藩で分割され,前述のとおり,加賀藩領分が「新川郡草島村」,富山藩領分が「婦負郡草島村」となりました。
しかし,もともと一つの村を分割したものですから,両者間の境界は集落内でも耕地でも極めて錯綜していたようで,その後くりかえし郡境争いが起きているようです。
なお,神通川は江戸時代初期の大洪水で何本かに分かれていたうちの東の流路に本流が移っていき,江戸時代半ば以降は草島村は左岸(西側)の村になっていました。それでも富山藩領が婦負郡,加賀藩領が新川郡という状態は,そのまま廃藩置県まで続きました。
そして郡区町村編制法以降も,「婦負郡草島村」と「上新川郡草島村」の並立状態は1889(明治22)年の町村制施行で両村および周辺の村を合わせて「草島村」に統合されるまで続きます。この“統合された草島村”は神通川左岸にあるので 婦負郡所属 となりました。
ところで面白いことに,この統合された“婦負郡草島村”は,ほかの多くの町村と同様に合併前の旧村をほぼそのまま大字に編成しましたが,婦負郡草島村を引き継ぐ「大字(婦負郡)草島村」とは別に旧上新川郡の区域で「大字上新川郡草島村」という大字を編成しました。自治体村としては統合されても,大字としては両村併存状態が継続していたのですね。両大字が統合されて「大字草島」となったのは1911(明治41)年のことだそうです。ちょうどおよそ百年前。

だから結論を言えば,草島で正確な郡界のラインを確認するのは極めて困難。やっぱりここは大ざっぱな線で我慢するしかありません。
実際,平凡社・角川いずれの地名辞典の付図についても,このあたりの処理は実に大ざっぱで,少なからず不正確です。
そんな程度でいいんですよ。
で,問題はその“錯綜度”ですが,たとえば極端な例では以前に話題になったことのある神奈川県鎌倉市(相模国鎌倉郡)の 腰越村・津村([34676][34719])のように錯綜の極みに達していまだにゼンリンの住宅地図でさえ大字界を記入できずに一軒ごとに「腰越」か「津」を個別に記載しているものもありますが,ここの場合は“郡境争い”ができる程度には一応ラインが決まってはいるのでしょうね。
でも,精度的にはそこまでこだわる必要もないだろうと,開き直ってしまいましょう。

ところで,以下は副産物。
一連の説明(平凡社版・角川版ともに)を読んでいく中で「あれっ?」と思ったのは,草島村のうち,“西側”に位置するはずの 婦負郡側 が富山藩領で,“東側”の 新川郡側 が加賀藩領という点。だって,富山城下そのものは新川郡じゃないか…。
要は,新川郡のうちの神通川右岸最下流部は“富山藩に分知された新川郡”に含まれないわけで,東岩瀬 を中心とするこの区域は加賀藩領なのですね。で,“新川郡草島村”は加賀藩領。
一方,婦負郡の大部分は富山藩に分知されて,だから“婦負郡草島村”は富山藩領,というわけ。
つまり,“富山城下の外港”である 東岩瀬 は,実は富山藩領ではなく加賀藩領なのですね。
ちなみに婦負郡に属する 西岩瀬 は富山藩領。
前述のとおり,元は神通川の本流は西の方に偏っていて,その河口にあったのが 西岩瀬 でした。この段階では 西岩瀬 の方がメインの港で 東岩瀬 はワンランク下。富山藩立藩時は当然,自藩領内の 西岩瀬 が富山藩の外港だったんでしょうね。
ところが,これも前述の江戸時代初期の大洪水以降,神通川の本流は東に移動し,さらに相次ぐ洪水や高潮被害によって 西岩瀬 は衰退し,代わって神通川本流の新しい河口となった加賀藩領の 東岩瀬 に繁栄が移った,という話であるようです。
そして併せて,富山藩の外港の地位も 東岩瀬 に移ったのでしょうね。“親戚”と言えど他藩領なのですが。
[81287] 2012年 8月 9日(木)19:47:40Issie さん
月はおぼろに東山
[81286] グリグリ さん
娑羅の木(ナツツバキ)

娑羅の木,つまり娑羅双樹と言えば思い出すのはやっぱり「平家物語」。ここで出てくる「祇園精舎」とはお経に出てくる本来のインドの祇園精舎(ジェータヴァナ・アナタピンダダシヤ・アラマ)なんだろうけど,やっぱり京都の祇園が頭に浮かんできちゃいます。
その平家物語ならぬ,今年の大河ドラマの「平清盛」,視聴率的に苦戦しているようですね。私には面白いのですが。いや,裏で女子マラソンをやっているなんて知りませんでした。

[81280] 皿 さん
1889年まで草島村は婦負郡と新川郡に2つありました。

以前のご質問も含めて,求める精度によってお答えは変わってきます。
ですから,皿 さんがどの程度の精度の情報を必要としているのか,そして何を目的としてそれを集めているのか明らかにされた方が有用な情報が集まるだろうと思いますが,とりあえずこれまでの話の流れからは,それほどの精度は求められていないのではないかと推察されます。もしそうであるならば,…
その程度の違いは無視しましょう。

まず基本的に,婦負郡と新川郡とは古くから神通川を境界としてきたと思われます。
ところが神通川は富山平野の中でしばしば流路を変えており,そのせいで現在の富山市街の西方で新川郡の草島村が神通川の左岸(西岸)に,逆に婦負郡の牛島村(現在の富山駅周辺)が右岸(東岸)にそれぞれはみ出してしまったように見える。本当は旧流路で引かれた郡界が,流路の変更後も取り残されたのだけど。
だから,とりあえず旧村を引き継ぐ大字や住居表示地区では新町名に見え隠れする旧村名の“かけら”を丹念に拾って根気よく郡界を復元していけば,おおよそのラインが見えてくるだろうと思います。
で,2つだった草島は今は1つになってしまっていますから何の手がかりもないのですが,そこは前後関係(…というか,ここの場合は最下流の村なので,上流側からのつながり)で,エイヤッと線を引いてしまう(草島に隣接する旧(上)新川郡の金山新と旧婦負郡の古川の境界をよく見ると,私には草島を分けるラインが見えてくる気がしますよ)。

そうして引いた線が正しいかどうかは分からない。でも,それはそこをきちんと検証できる資料に出会ったときに修正すればいいのであって,今でここで求められていると思われる精度であるなら,そんなに気にするほどの誤差ではない,
…と,ここでは開き直ってしまいましょう。

[81234] hmt さん
作品の目的からして、無視できる程度の規模であると判断すれば、無視(又は保留に)すればよいだけです。

という言葉に尽きます。

もし極めて精度の高い「正確な」境界線の位置を知りたいのなら,それはとにかく自分で出来る限り資料をかき集めてくるしかありません。

[81280] 皿 さん
わたしは全部探す暇がありません。

などと言っている「暇」さえないはずです。
でもね,
たぶんそれほどの精度の作業をしている人がこのような質問をされることはないだろうな,と私は推察しています。
[81269] 2012年 8月 7日(火)22:55:31Issie さん
外港2
[81263] 白桃 さん
外港都市

以前に話題になったことがある 飫肥 と 油津 のペアーはどうですか?
あと,高田 対 直江津 とか。
津軽藩は内陸の 弘前 が城下町なわけですが,岩木川が注ぐ十三湖の出口の 十三湊 や 鰺ヶ沢 が外港の役割をしていたようです。
外港としては,本当は 首里 と 那覇 のペアーも外せないところだと思うのですが,明治以降になると“主都”としての機能も那覇の方に移ってしまいますから,ちょっと微妙かも。

もう一つ。
これは内陸の河川交通についてのものですが,伏見 は“京都の外港”として発達した都市ですね。
[81255] 2012年 8月 4日(土)10:07:25【1】Issie さん
凍み豆腐
[81253] 白桃 さん
そういえば、高野山を訪れた際にお寺での昼食に出された高野豆腐、はっきり言って四国の田舎で食べていたものより美味しくなかったです。

今思い出してみると,ところてんを凍結乾燥させた保存食品の生産県として有名だった某寒冷地県の大学に通っていた頃,生協の学食で出てくる味噌汁に入っているのは決まって凍み豆腐,つまり高野豆腐でした。記憶にある限り,“生の豆腐”が入っていたことはなかったような。
それまで凍み豆腐を食べたことってほとんどなかったんですけどね,だから学生時代にはほぼ毎日凍み豆腐を食べていたわけです。

※朝ご飯を食べながら思い至ったこと:
…そういえば,“お寺の町”だもんね。
[81254] 2012年 8月 4日(土)10:01:07Issie さん
Re:変遷情報図書室について
[81236] グリグリ さん
上記の情報提供においても、総務省の報道資料や那覇市の計画書など、変遷情報に関わる資料が公開されています。このような資料を確保し後世に残すための図書室を作れないかと考えています。

たぶんほかにも保存されている方がいらっしゃるだろうと思うのですが,2004(平成16)年11月10日付以降の合併関係の総務省告示,および政令指定都市・中核市・特例市の指定に関する政令が掲載されている「官報」の当該ページ(pdfファイル)は当方で集めています。少なからず抜けがありますが。
すでに“平成の大合併”も後半戦に入っていて数はそう多くなくなくなってきているのですが,一応ご参考までに。

ちなみにその2004年11月10日付に掲載されているのは (平成16年)総務省告示第861~881号。
佐賀県唐津市(861),同みやき町(862),石川県白山市(863),同能美市(864),同宝達志水町(865),同中能登町(866),同能登町(867),同鳳珠郡新設(868),同志賀町(869),愛媛県松山市(870),同砥部町(871),同内子町(872・873),同鬼北町(874),同大洲市(875),同今治市(876),宮城県登米市(877),同栗原市(878),北海道函館市(879),群馬県伊勢崎市(880),同太田市(881)のそれぞれに関する告示。
「総務大臣 麻生太郎」という署名が懐かしいですね。
[81250] 2012年 8月 4日(土)02:16:07【1】Issie さん
豆腐から碧梧桐
[81242] 白桃 さん
豆腐の名産地ってあるのですかね?

神奈川県では丹沢の大山(“だいせん”ではなく“おおやま”,伊勢原市)の豆腐が有名です。いわれは いろいろある ようですが,そもそもは仏教,なかでも精進料理と関係の深い食品ですから,「お毛が無くておめでたい」というオチの落語で有名な大山・阿夫利神社の門前町であることが成立・流布の基盤となったのでしょう。

ところで,私の母方の伯母夫婦は“チャーザァ村のも少し奥”で豆腐屋をやっていました。村の“二大姓”の1つで(1つは新潟県を代表する姓)当然に屋号があるのですが,一族の間ではその屋号では呼ばずに,すでに伯母夫婦は亡くなってとっくに廃業しているにもかかわらず「豆腐屋」と呼んでいます。
その「豆腐屋」の目の前が長岡駅からのバスの終点でした。
越後交通の長岡地区の幹線の1つであるので,多くの枝線のように廃止も分社化もされることなく,今でも直営で割と多くの本数が運行されています。もちろん,以前よりも回数は減っていますが。で,ウチの田舎はこのバスの終点だったので,地方としては割と交通の便に恵まれていて,いつもこのバスを利用していました。
さて,数年に一度しか行かないので子どもの頃の私にはよくわからなかったのですが,このバスはいつも行き先表示に併せて「川西」または「川東」という表示を掲げていました。
実はこの路線,長岡駅から信越線の塚山駅を通って渋海川に沿ってさかのぼり,小国盆地に入るわけですが,ちょうど盆地の入口の 千谷沢(=チャーザァ) を過ぎると盆地の西側の集落を通るルートと東側の集落を通るルートの2つに分かれて,つまり真ん中の渋海川をはさんで「川西廻り」と「川東廻り」の2つのルートがあるので,それを区別するために掲げていたのでした。
その後,盆地北半の“下小国”のほぼ中央部(渋海川沿い,川西・川東の両集落群の間の田んぼの真ん中)に置かれた町役場周辺の道路が整備されてバスの経路も変更され,今では「川西」「川東」のルートの違いはずっと小さくなったのですが,それでもこの区別は現在も行われています。
で実は,この路線はこの地区のバス路線としては非常に古いものの1つで,1934(昭和9)年のジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTBの遥かな前身)の「汽車時間表」にも掲載されていて,そこには今と同じく「川西廻り」「川東廻り」の注記が入っています(当時は塚山駅からの路線でした)。
小国盆地の村々が「刈羽郡小国町」に統合されるのは“昭和の大合併”の時期のことで,つまり当時はまだ盆地内はいくつもの“行政村”に分かれていたのですが,その頃にすでに「川西」「川東」という呼称が行われていたのですね。もちろん,これはバスに限っての用法なのかもしれませんが。
ちなみ現在は“平成の大合併”の結果,旧郡境を越えた長岡市の一部。旧町役場はそのまま長岡市役所の支所として使われているようですよ。

さて,「かわひがし」。
私の学生時代の先輩にこの苗字の人がいましたが,一番印象深く残っているのは中学校の国語の時間に俳句の所で登場した「河東碧梧桐」。何か“引っ掛かり”の多い名前でね。
やっぱり5拍の「かわひがし」というのは,こういうところでは少しシックリ来ないものなのでしょうかね。
[81204] 2012年 7月 29日(日)18:04:50Issie さん
Re:町と字、福島県矢吹町の事例
[81198] 皿 さん
矢吹町の町名変更に関しては、どこも探しても見つかりません。

「どこ」というのは,どこを探されたのでしょう。

とりあえず,比較的容易に手に入る情報から探してみることにしましょう。
角川の地名辞典にはお説の通り,「矢吹(町)」の項に「昭和55(1980)年に大字が廃止された」旨が記載され,各大字(明治の大合併以前の旧村・新田)ごとの項でもその末尾で「大字が廃止された」と述べられています。後半の(編纂当時の)現市町村ごと,現行大字町の「現況」について述べた部分でも,矢吹町についてはあえて「廃止前の大字」単位で記載されています。これでは大字廃止後の現況がどうなっているかがわからない。
そこで,現況についてはたとえば昭文社の「県別マップルシリーズ」あたりが便利。これで福島県の矢吹町の地図を見てみると,なるほど,町内の区分の単位が周辺市町村よりも細かい。つまり,大字が廃止されて,その下にあった(小)字が表面に出てきたのでしょう。そのそれぞれが元のどの大字に属していたのかは,もちろん,この地図ではわかりません。

ところで,地名辞典シリーズとして角川と双璧をなす 平凡社 のそれ,「福島県の地名」を見てみると,「矢吹町」の項の総論末尾に同じく「(昭和)五五年国土調査の実施に伴い大字を廃し,字の合併整理を行い現在に至る」と記載してあります。角川よりほんの少しだけ詳しい。
以下,旧村すなわち旧大字ごとの説明があるのですが,そのそれぞれの冒頭に(やはり編纂時点での)現町字名との対応が記載されています。これを見ると,確かにいくつかの現町字名が複数の旧村に重複して記載されていますから,少なくない場所で現町字の境界が旧大字の境界と一致しないであろうことがわかります。やはり,1980年の大字廃止と字の再編で少なからず複数の旧大字にまたがる町字が編成されたことがあったのでしょう。
とはいえ,元の大字どうし,あるいは大字の下位にあった(小)字の境界が相互に激しく錯綜していたわけではないではないかと思います。一部の現町字が複数の旧大字にまたがっていたとしても,それぞれの位置を突き合わせればおおよその位置はわかるのではないでしょうか。
少なくとも

福島県矢吹町の現行町名と江戸時代にのちの現在の矢吹町にあった村の位置が全然わかりません

「全然わからない」ということはないと思います。

また,そもそも大字の廃止は1980年。わずか30数年前のことです。
この程度の「古さ」であれば,それ以前の地図を手に入れるのはそれほど難しいことではないかもしれません。いよいよ,より本格的にというのであれば,国土地理院に かつて刊行された地図のコピーを申請する という手もないではありません。これを見れば旧村の位置はすぐにわかるはずです。

ただし,旧村(大字)間の境界の位置を正確に知りたいとなると,ハードルはグンと高くなります。
もっともこれも,わずか30数年前のことですから,すでに ゼンリンの住宅地図 が刊行されているのではないかと思います。何らかの方法でそれを閲覧できれば,そのハードルを越えることも難しくはないでしょう。
ただ,どこでそれを閲覧できるか,私は情報を持ち合わせていません(国立国会図書館の地図室あたりなら可能か?)。必要であるなら,ネットで検索されることをお勧めします。
[81200] 2012年 7月 29日(日)08:28:22【1】Issie さん
Re:むじながいりさんについて
[81197] 皿 さん
どうにか、このサイトの各都道府県の市町村変遷の一覧が完成したことをむじながいりさんに伝えて、是非この資料を参考にむじながいりさん本人のサイトで全47都道府県のパラパラ地図を完成させてください。

それは無理じゃないかなあ。
よそのサイトの運営に口をさしはさむ義務も権利も誰も持っていないと思いますよ。
もしそのようなご要望があるなら,たとえ返事が返ってこなくてもご自身で直接お伝えするしかありません。
そしてサイトを運営する側からすれば,そのようなご要望にお応えしなければならない義務は全くないし,見知らぬ人からの一方的なメールに返事を返さなければならない義務もありません。もちろん,公的機関や企業が“業務”として行っていることであれば,話は別ですが。
私も自分のサイトを持っていますが,極端な話,「これで飯を食っている」わけではありません。普段の生活の合間を縫ってサイトを運営しているわけですから,傍から一方的に「早めに」とお願いされても,それに応えられるかどうかは周りの状況次第です。もちろん,情報を発信する側として,その情報の「正しさ」を保証する責任があるのは当然ですけれども。
実際に私も「早く更新を」というようなお願いをされたことがありますが,そのような時にはこう答えることにしています。
「そのうちにね。」
[81170] 2012年 7月 22日(日)23:22:52Issie さん
基準の“河”は?
[81159] グリグリ さん
そう言えば、かほく市も参考データにすべきでしょうね。

この市の発足当時に話題になっていると思いますが,これはこの市自体が“川(河)の北”にあるのではなくて,旧所属郡の「河北郡」に由来するのでしょうね。
その 河北郡 は加賀4郡の最北の郡で浅野川以北を区域としたので,“浅野川の北”という意味で理解してよいようにも思いますが,若干保留すべき点が無きにしも非ず。
「河北郡」という呼称が現れるのは中世後半の室町時代のことで,この郡はもともと「加賀郡」という呼称でした。古代を通じて「越の国」はその区分がめまぐるしく変遷し,その都度各国間の境界が移動し,最終的に823年に 越前国 のうちの北部2郡(加賀,江沼)を分けて「加賀国」が設置され,そののちまで続く5国体制(越前・加賀・能登・越中・越後)となりました。そのうちの1郡が 加賀郡 であったことが「加賀国」の国名の由来ですね。合わせて,加賀・江沼両郡がそれぞれ2分割されて,加賀・石川・能美・江沼の4郡を治める国となりました。
で,以来何百年も経ってから“おもむろに”「加賀郡」から「河北郡」に郡名が変わっていくわけですが,単純に“浅野川の北”という意味なのかどうか。むしろ,“加賀国の北”の「加北郡」から表記が変わってしまったということも考えられないか。実際に近世(場合によっては明治)までの過程で郡名の漢字表記が換わってしまうことは珍しくないことですから。

[81164] hmt さん
北海道河西郡、同河東郡

これも意外に難題。
河西郡の芽室町が十勝川左岸を合併してしまったために現在の 河西・河東 両郡の境界は北に移動してしまっているのですが,もともとは十勝川が両郡の境界でした。だから“十勝川の西/東”という意味だ,と言いたいところですが,この区間の十勝川はほぼ西から東へ流れています。素直に考えれば「河南郡/河北郡」とした方が自然です。
河東郡の場合は,より上流の 上川郡 との間で十勝川がほぼ南へ向かって流れているので“河の東”と無理やり解釈することもできそうです。一方,河西郡の方も“東”の 中川郡 との境界が川とは関係なくなっていますが,これは 中川郡幕別村 の一部が編入された結果であり,少なくとも十勝川との合流点に近い区間では 札内川 が両郡の境界であったようで,その意味では“札内川の西”という意味であるのかもしれない。
とすると,「河西郡」と「河東郡」は実はお互いに“対になる郡”ではないのかもしれません。
いや,もっと単純に,北海道に国郡が設置された1869(明治2)年の段階では十勝平野の内陸まで実測が行われてはいないでしょうから方位の測量も完全ではなく,やっぱりサックリと“十勝川の西と東”ということなのかもしれませんが。

[81151] グリグリ さん
島根県 1951(S26).4.1 那賀郡 江東村 新設 1954(S29).4.1 江津市 新設/市制

これも一瞬,“江の川の東”という意味かと思いましたが,この区域は江の川とは山一つ隔てた北の日本海岸で,川とは関係ないようです。地図を見ると現・江津市の北東端に当たり,しいて言えば「江津町の東」という意味であるのかもしれません。

ところで「“江”シリーズ」にはもう一つ,“拡大新潟市”の「江南区」があります。
この区も直接には大きな川を“北の境界”にしてはいないのですが,位置関係からするとこの“江”はやっぱり 信濃川 なんでしょうかね。
区名選定の際にどんな議論をしていたんでしたっけ。
[81158] 2012年 7月 21日(土)18:14:14Issie さん
川東の河南町
[81149][81151] グリグリ さん
なぜ「川西村」が圧倒的に多いのか?
河東、河西、河南、河北
江東、(江西)、江南、江北

こうして並んでみると結構面白いですね。
それぞれの名前には当然個々の事情があるわけで,その辺に「川西」が多い秘密があるのかもしれません。
ところで,

大阪府(南河内郡)河南町

これは“河川の南”という意味ではありませんね。「河州(河内)の南」という意味。
実際は 石川 とその支流の 千早川 の東で,その意味では「川東町」という名前もあり得たかもしれない。

その意味で,滋賀県に「江北」「江南」がないのも興味深いですね。この場合は“濁点”のついた「ごうほく,ごうなん」と読むのでしょうが。江州(ごうしゅう=近江)の北や南ではなく,実際に創作された地名は“琵琶湖の南”の「湖南市」。
東近江市が「江東(ごうとう)市」になることはなかったのでしょうかねえ。

そして実際に“川”に関連する地名の場合。
東京都の「江東区」も含めて,それが“川”なのか“江”なのか“河”なのか,その選ばれ方にも何か傾向があるのでしょうかね。
[81139] 2012年 7月 18日(水)23:17:44【2】Issie さん
揖宿郡
[81134] 88 さん
M22.4.1付け市制町村制施行時から、揖宿郡指宿村と、「指」であったと判断し、修正しました。

「指宿町」の表記の当否については言及しません。それに言及するだけの材料を持っていないので。
ここでは,その前提にある「いぶすき郡」について。

まず,「揖」という字。
常用漢字,あるいはその前身の当用漢字外の文字であり,現代の日常生活にはなじみのない漢字ですが,“軽く会釈をする”という意味の「一揖」(いちゆう)という言葉がとりあえずは身近でしょうか。ここにある通り,現代音は「ユウ」(または「シュウ」),旧仮名遣いの字音表記では「イフ」(または「シフ」)と表記されました。
もちろん,「指」(シ,ゆび)という字とは全く別の漢字であり,ここではこの「イフ」という旧表記が大事です。

平安時代初期に編纂された『和名類聚抄』(和名抄)には,当時(律令制後期の“国郡郷制”)の地名が列記され,それぞれの国郡,さらに一部の郡の郷の読み方が万葉仮名で表記されています。
その「薩摩国」(散豆萬:さづま)の項にあるのは「揖宿郡」という表記。読みは「以夫須岐」と記載されています。後代の“かな”とは違って万葉仮名は“清濁の違い”をきちんと書き分けるのですが,「夫」という字があらわすのは「濁点がついた“ぶ”」という音。したがって,「揖宿郡」の読みは現代と(ほぼ)同じ「いぶすき」であると考えられます。
この郡名に漢字を宛てるにあたって,日本語に「イフ」という音で受け入れられた「揖」という字がちょうど適当な文字として選ばれたのでしょうね。そうして「揖宿」という表記が成立した。

「イフ」という音は,元になった中国語の中古音では ip に近い音であったのでしょう。このような“母音+破裂音”という発音を漢文の音韻学では「入声:にっしょう」と呼びますが,この破裂音は現代のベトナム語や韓国語の“パッチム”がそうであるように,たとえば英語やフランス語の音節末の破裂音のようにしっかりと発音はせず,飲み込んでしまう「内破音」であったと思われます。で,この音を,はるかに単純で貧弱な音節構造(子音+母音)しか持たない“列島”の人々は,この破裂音に無理やり母音( u または i )を加える(そうすると,「イフ」とか「リキ」という日本語の漢字音になる)か,あるいはその破裂音を落として「イ」のように読むことにして日本語の表記に応用しました。
この「イ」という読み方を用いたのが播磨国の「揖保郡」。後ろに「ホ(保)」という音が続く前の部分でわざわざ「揖(イフ)」という字を選んだのは,「フ」の響きが残っていたせいかもしれませんね。
中世になって 揖保郡 は東西に分割されて「揖東郡」と「揖西郡」になります。これを「ゆうとう郡」ではなく「いっとう郡」「いっさい郡」と読むのは,「十本」を「じっぽん」(<ジフ+ホン)と読むのと同じ理屈で,武蔵国の 入間郡 が東西に分割されて「入東(にっとう)郡」「入西(にっさい)郡」となったのと同じですね。

話を戻して「揖宿郡」。
和名抄にあるように,この郡名は少なくとも平安時代前期には「揖宿」と表記されて「いぶすき」と読まれていたのでしょう。もちろん,それ以外の表記や読み方を排除するものではありませんが,少なくとも記録として残っているのはこちらの方。

指宿町一帯は温泉随所に湧出し、温泉量の豊富なことは別府附近以上とも称されているが、古来この地域は「湯豊宿(ゆはしゅく)」、即ち「湯の豊かなる宿」として世に知られていたが、今を去る約千三百年前、天智天皇薩摩大隅地方の巡幸の砌、高須(鹿屋市の海岸)より海路この地へ向われたのであるが、天皇が「人の宿程遠い」と云われたのに対し、案内の者が対岸をさして「湯豊宿」という所がもうすぐそこですと答えたところから「湯豊宿」が転化して「指宿(ゆびしゅく)」さらに「指宿(いぶすき)」と称えられるようになったことが伝えられている。

「言い伝え」は言い伝えとして,これは「事実」なんでしょうかね。
私には,「国引き」を終えた神様が「おゑ」と一息ついた(出雲国意宇郡。←これを某ネット百科事典は「終える」という意味だと説明してますが,「をへる」とは発音が違いすぎる気がします)とか,永年の征服の旅に疲れてヤマトタケルノミコトの足が「三重」に曲がってしまった(伊勢国三重郡)というのと同類の“語源説”であるように思えます。天智天皇が出てくるあたり,「出雲風土記」や「古事記」よりは新しい話であるようですけどね。

そもそも「揖宿」に対する「指宿」という表記がいつ現れてきたのか,というのが興味のあるところです。

ついでに関連して,

[81137] グリグリ さん
ポリネシア語源の説明

これについての当否についても,言及する材料を私は持ち合わせていません。
でも,正直な気持ち,私はこの手の語源説をあまり信用していません。私は門外漢ですが,比較言語学にはこのような単語どうしのつながりを検討する厳密な手順があるそうです。これらの語源説はそのような手続きに則っているのでしょうか。
ずっと以前にも表明したことですが,私は地名の語源については詮索しないことにしています。よほど明確な由来がある(それでも,たとえば有名な「岐阜」と織田信長の関係も厳密に検討すると微妙なところがあるようです),あるいは地形などのような地物と直接のつながりがあるような場合を除けば,“地名の由来”として伝えられているものの多くはかなり疑問があるものではないか,と思うけれども,それを補強することも反証することもできないからです。

ちなみに,これも以前に触れたことがあるかもしれませんが,「道志」という言葉は本来,平安時代の官制に由来するものでもありました。
平安時代中期,都の警察を担当する 検非違使(けびいし) が設置されます。これは“令外官(りょうげのかん)”,つまり律令の規定外の官職ですが,役所の官人は律令にならって長官(かみ)・次官(すけ)・三等官(じょう)・四等官(さかん)の4ランクにわけられ,検非違使ではその“さかん”を「志」(し=四)と呼びました。四等官の“さかん”は官庁において実務を担当する役人であり,検非違使ではその役柄から“武力系”と“事務系”の「志」がそれぞれ配置されました。武力系の「志」に任命されるのはもちろん武士ですが,事務系の「志」には法律の専門家として“明法道”を修めた者が任命されました。この“事務系の志”を「道志」と呼びました。
…長くなりました。
つまり,これが「道志村」ないしは「道志集落」に関係あるかどうかはわかりませんが,「道志」とは本来このような意味の単語であった,ということを申し添えておきます。
[81105] 2012年 7月 14日(土)22:32:01【2】Issie さん
にっぽん列島横断ローカルバス乗り継ぎの旅
実は1996年に公開を開始した 私のサイト の当初のメインコンテンツは相模原・津久井地区の主要駅・バス停留場の列車とバスの時刻表を提示する,というものでした。掲載したのは以下の通り(行政区画は当時のもの):

 相模原市:橋本駅,淵野辺駅,上溝
 津久井町:三ヶ木,東野,関,鳥屋
 相模湖町:相模湖駅
 藤野町:藤野駅
 清川村:宮ヶ瀬
 愛川町:半原
 上野原町:上野原駅,本町三丁目,四方津駅
 道志村:月夜野

情報収集の手段は,鉄道の時刻に関しては東京圏の全列車を掲載する時刻表が市販されていましたからそれによりましたが(最近,書店への配本数が減っているのではないかという印象を受けます),バスについてはもっぱら人力による現地取材によりました。すでにデジタルカメラは所持していましたが,それで時刻表を撮影するという発想は持たず,ひたすらバス停の時刻表を筆写していました(その後,上溝や三ヶ木のようなターミナルでは営業所窓口で印刷された時刻表を入手するようになりましたが)。
このコンテンツは2002年頃に更新を停止して,その後正式に廃止しました。
一番大きな理由は,2001年頃から神奈中グループが自身のサイトでバス時刻表の開始したことです。逆に言えば,その頃まではバス事業者によるバス時刻情報そのもののネット公開さえなされていなかったのですね。
やがて私の職場が相模原から横浜に移ってしまい,リアルタイムで情報の更新ができなくなってしまったので,この分野からは完全に手を引きました。
だからこの手の情報を個人で提供し,それを随時更新していくことの困難さは十分に理解しています。
そしてその困難さは本質的に,行政をはじめとする公的組織でも,当の事業者自体でもそれほど変わらないのではないかと,思ってもいます。

[81087] グリグリ さん
NHK総合で土曜日の夕方「路線バスの旅」という番組がありますが

[81099] みかちゅう さん
路線バスを乗り継ぐのをメインとした番組として古いのは、TBSの「そこが知りたい」でしょうか。

最近では“12チャンネル”(テレビ東京。地デジ化後は“7チャンネル”ですが…)が数ヵ月おきに「土曜スペシャル」枠で表題の番組を制作していますね。最近では4月28日放送の これ。どこまで事前リサーチしているのか,「失敗」することもしばしばあって(最近では前々回,2011年12月3日放送の この回),少なくとも“予定調和”の番組作りはしていないようです。
このシリーズの初回放送は2007年10月20日の この回,横浜駅西口から 神奈川→山梨→長野→岐阜→富山 と5県をわたって太平洋岸の横浜から日本海岸の氷見をめざすというものでした。
初日は 横浜駅西口→鶴間駅→町田駅→橋本駅→三ヶ木→月夜野→道志 という,ほぼ前述のわがサイトのホームグラウンドを通過したのですが,5年前に可能であったバス乗継はいくつかの区間で現在では不可能になっています。

[81099] みかちゅう さん
私が房総半島の乗り継ぎをやった際も、市川→千葉はきちんとたどれていません。

たとえば国道14号ルートでは(旧道も含めて),すでに私が小学生であった40年前の時点で市川・船橋市境(正確には 鬼越-西船橋間),船橋・習志野市境が切れていて,習志野市東端の幕張IC以東には全くバス路線がありませんでした(ただし,幕張駅入口バス停から海浜ニュータウン稲毛地区を結ぶ路線が暫定的に国道上を運行していましたが,当該区間はノンストップ。国鉄稲毛駅と当該埋立地を直結する道路が開通して役割を終えたので廃止されました)。私が高校生であった30年ほど前には内陸の東金街道を通過して津田沼駅と千葉駅を結ぶ路線が残っていましたが,モノレールが開通したころに分断されてなくなったようですね。
12チャンネルの番組も,特に県境や峠を越えるバスがなくて何時間も歩く苦労をしています。この手の旅は年々ハードルが高くなっているようです。
何より,鉄道よりもずっと簡単に路線の改廃ができるバス交通は,情報の変化を細かく捕捉するのは容易なことではないでしょうね。面白いネタではありますが,「足がはやい」のが何にも増した課題だろうと思います。
[81097] 2012年 7月 14日(土)10:20:11【1】Issie さん
武士の都は土の下
[81095] 白桃 さん
”かがわ”より「な」のある”かながわ”の一部である相模国で、「鎌倉」の名が見当たらないのも不思議ですが、当時は総称としてではなく、区画された街の名称を用いられることが一般的だったのでしょう。

一言でいえば,当時の鎌倉に「町」と呼べる集落など存在しなかったからです。総称されるほどの町でもなかった。
「明治13年共武政表」で鎌倉郡の項目をみると,格段に戸数が多いのは東海道沿いの 戸塚駅 (郡役所所在地)と 腰越村 でそれぞれ400戸あまり。
せまい意味での「鎌倉」にあるのは,表の中では 長谷村・坂ノ下村・雪ノ下村・大町村 がそれに当たります。山ノ内村 は,切通しを越えた現在の北鎌倉付近。いずれも100戸台で,4村を合わせても千戸には満たないですね。
文部省唱歌に「鎌倉」という歌があります。1910(明治43)年の作品ですが,その最初の2節めと3節めは以下の通り。

 極楽寺坂越え行けば/長谷観音の堂近く/露座の大仏おはします
 由比の浜辺を右に見て/雪ノ下村過ぎ行けば/八幡宮の御社

すでに行政上は町村制施行により 西鎌倉村(長谷村・坂ノ下村ほか)・東鎌倉村(雪ノ下村・大町村ほか) を統合して1894(明治27)年に「鎌倉町」となっているのですが,それ以前の状況を知ってこの歌を聞くと,まだ「村」が散在しているような印象を受けます。

鎌倉時代,もちろん鎌倉は「武士の都」で,相模だけでなく関東を代表する“都市”でした。幕府が京都に移った室町時代も,その前半は鎌倉には「鎌倉府」が置かれて引き続き“東の中心都市”としての役割を持ちました。ところがその鎌倉府の主である 鎌倉公方 と 関東管領 との対立,さらに公方の足利氏,関東管領の上杉氏それぞれの分裂と抗争によって関東は一足早く“戦国時代”に入り,戦乱の中で都市・鎌倉は衰退してしまいました。
やがて関東を統一した後北条氏が拠点を置いた 小田原 が相模,そして関東全体の中心都市となります。そしてその後北条氏が滅ぼされると徳川家康が入封した 江戸 が関東の,そして頼朝以来の「武士の都」の地位を獲得するわけです。
江戸に近い相模東部は幕府によって徹底的に支配が細分されたので,相模国全体を代表するような都市は発達せず,西部・小田原藩の城下町の小田原が首位に立つのみでした。幕府は江戸湾入口の 浦賀 に奉行所を置いて,防衛と物流管理の拠点としました。ペリー来航の地を「浦賀沖」と表現するのはこのことによります。
 ※ちなみに,徳川家康は浦賀を長崎に代わる海外貿易の拠点としようとした,という話があります。しかし,これは日本側,そしてスペイン・ポルトガル双方の事情で実現しませんでした。

[81089] hmt さん
讃岐で7つあった「戸数一千以上」の地名は、相模では小田原、横須賀、藤沢駅、浦賀の4つしかありません。

…に浦賀が入っているのも,このことによるのでしょうね。

こうして衰退してしまった鎌倉には江戸時代,鎌倉時代以来の寺院は引き続き散在しても,“都市・鎌倉”は存在しませんでした。松尾芭蕉は平泉を「つはものどもが夢のあと」と詠みましたが,鎌倉も全く同じ状況だったのでしょう。江戸時代後期になり,物見遊山の旅が庶民に広く浸透するようになると,大山詣でや江の島詣でを組み合わせた周遊ルートに鎌倉の古寺も組み込まれ,多くの参詣客を集めるようになります。長谷観音や大仏の前の長谷村や,鶴岡八幡宮前の雪ノ下村は,そのような門前町としての機能を持つ集落ですね。
それでも前述のとおり,1889(明治22)年の町村制施行の段階でも,鎌倉は 西鎌倉村 と 東鎌倉村 のそれぞれにまとめられただけ。「全鎌倉」として統合されるのはそれから5年後のことです。
今,私たちが目にしている“都市・鎌倉”は,明治後半になって保養地として注目されたことと,軍港・横須賀の後背地として海軍の高級将官の邸宅地とされたこと,そして1889(明治22)年に横須賀線が開通して東京および横須賀と直結したこと,…によって成立・発展してできあがった“新しい都市・鎌倉”です。鎌倉町の市制施行は1939(昭和14)年。横浜,横賀,川崎,平塚に続く県内では5番目のことですが,ずいぶんと遅い印象を受けませんか。

つまり,今ある「鎌倉市」と「頼朝の鎌倉」は都市としては連続していません。その点,応仁の乱以降の戦乱で都市構造が根本的に変わっても“千年の都”であり続けた 平安京(京都) や,平城京全体は衰退して消滅しても「南都」興福寺の門前町として生き続けた 奈良 と違うところです。
「明治13年共武政表」に鎌倉が見えないのは,こうした“2つの鎌倉”の間のすき間,ここに“都市”も“町”も存在していなかった時期にちょうどあてはまるものであることによるのだろうと思います。
[81051] 2012年 7月 8日(日)19:04:09【2】Issie さん
バスターミナル
いつの間にかもう30年近く前になりますが,学生時代に当時まだ軍事政権下にあった韓国に行ったことがありました。何しろ初めての海外旅行ですから,いろいろ印象に残ったことが多かったのですが,韓国ではずいぶんと高速バス交通網が発達しているんだな,というのもその1つでした。
某団体関係の日韓学生交流行事なので集団行動でプサン→チョナン→ソウル→キョンジュ→テグ→プサンという移動のほとんどを高速バスで行いました。「鉄」としては最後のテグ→プサン間の移動だけが鉄道だったのがとても残念だったのですが(就活の関係で途中で帰った先輩はソウルからプサンへ「セマウル」に乗れると喜んでいました),バスターミナルや高速バス網の充実ぶりに驚いたものです。30年前の,特に東京周辺と比較して。
たとえば,高速バスのターミナルは基本,高速道路のIC近くにありました。だからたとえば,キョンジュでは郊外にある歴史遺跡をまわったのですが,結局キョンジュの中心市街は見ずじまいでした。

[81049] グリグリ さん
駅に直結する大規模なバスターミナルってどこかな。

形としては 高山駅 なんかが当たりそうですが,地方都市相応の大きさですね。あるいは,伊予鉄の 松山市駅。
一般に大規模なバスターミナルが整備されているのは地方中核都市が多く,それが駅のそばにあるのはあまり多くないように思います。恐らくは,
・面的な広がりを持った地域圏内の交通の大部分を民営の長距離路線バスが担ってきたこと
・もともと鉄道は建設当時の既存市街地を避けて敷設されるものであり,必然的に鉄道(特に国鉄・JR)の駅は(その当時の)町外れに設置されること
・既存の道路を利用するバスは市街中心部に乗り入れることが容易であり(これが鉄道に対する優位性でもある),都心部にターミナルを求めたこと
・バス事業者間に,しばしば行政も関わってターミナルが整備される際に,町外れの鉄道駅ではなく都心部に立地を求めることが多かったこと
…などが理由にあるのではないかと思っています。
広島のバスセンターなどが,その典型的な例ではないか,と。
高速バスは結局,既存のバスターミナルに乗り入れてくることが多いですね。長野のように,バスターミナルがバスターミナルとして利用されず,ただの一般停留所に過ぎない例もありますが(長野バスターミナルは,“バスターミナルの失敗例”ではないかと思っています)。

東京の場合,まずは都市の規模が巨大すぎて都心をターミナルとした“長距離郊外路線”が発達する条件がなかったこと(むしろ,戦後10年ほどの間に発達した都心発着の長距離路線が,その後の渋滞の深刻化で衰退してしまった)から,1ヵ所に集中したバスターミナルが整備される条件がなく,各方面に高速道路が整備されて高速バスが運行されるようになっても,それぞれの事業者が個別にターミナルを設けて現在のように分散した状態のまま,ということになっているのでしょう。その中では,東京駅八重洲口と新宿駅西口(ヨドバシカメラ前)が比較的に路線の集中するターミナルになっているわけですね。

京成系、関鉄系、JR系が中心ですが、都市交通の重要な一翼を担いつつあるんじゃないかなぁと、期待を込めて考えています。

高速バスそのものは東京圏内では東名や中央道方面の路線の開設が早かったわけですが,どれも“都市間交通”の性格が強く,国鉄(JR)の補完的な立場をなかなか脱しきれなかったのに対して,通勤輸送も含めた“都市内交通”としては東関道や常磐道沿いの北東方面が立ち上がりが早かったですね。まずは足元の高速道路(東関道と常磐道)が整備されたことと,それに加えて“首都機能の一部”を分散させた 筑波研究学園都市 と 鹿島臨海工業地域 の存在が大きいのではないかと思います。必然的に東京都心部との頻繁な往復を生み出すという点で。そしてもう1つは,これに対抗する鉄道交通があまりに弱すぎたこと(だから,TXの開通が大きな脅威だったわけですが)。
筑波や鹿島と結ぶ“幹”が太くなれば,そこから“枝”を広げるハードルは比較的に低くなる,という事情もあるのかな,と思います。
ひるがえって,たとえば南西方面にあたる神奈川県内の場合,東急や相鉄,神奈中がその担い手になるのでしょうが,まだ様子見でしょうかね。田園都市線や小田急の混雑具合を見れば十分に需要はあると思うのですが,問題は「東名+首都高3号線」のみというルートの“細さ”かもしれません。
それは,はるか西の山梨県内にまで及ぶ「中央道+首都高4号線」もたぶん同じ。

東京駅に首都高と直結するバスターミナルを作るなんて考えないですかねぇ。

とりあえずは今,新宿駅南口の甲州街道の反対側で整備中の新南口がそれに近いですかね。ここでも首都高には直結できませんが。
[81044] 2012年 7月 7日(土)21:22:56【1】Issie さん
Re:船橋橋
[81034] 白桃 さん
見ていない方は全くわからない一番勝負

見てないので全くわかりません。
でもきっと人名なのだろうな,というのは何となく。
「神戸」は普通,人名では特に「かんべ」と読んで,「こうべ」と読むのは極めてイレギュラーですから(でも,実際に「こうべさん」と読む人に会ったこともありますよ)。
何も知識がないと,小野田さん…って,やっぱり「少尉」が後ろに続いちゃいます。

[81041] 白桃 さん
船橋橋

たぶん地デジになって地域外にはますます視にくくなったローカルUHF局ですが,tvk(テレビ神奈川)で人気があるらしい「saku saku」という番組があります。
たまたま「ようつべ」をさまよっていて遭遇したのですが,この番組に「みんなでうた」というコーナーがあって(時期によってタイトルが少しずつ変わる),その人気シリーズにそれぞれの土地を歌った「○○のうた」というのがあります。当然,神奈川ローカルの番組ですから,まずは(津久井郡編入以前の)県内全市町村+横浜・川崎両市の全区(相模原市は区制実施前)のうたがそろっているわけですが,さらに県外の歌もいくつか作られています。その一つが「船橋のうた」で,そこにしっかり歌われています。なぜに「船橋橋」という橋があるのか,という主旨で。
いや,“船橋の歌”といえば,関東ローカルですがビンちゃん(楠トシエさん)の歌う船橋ヘルスセンターの歌(長生きチョンパ)以上のものはないんですけどね。

[81037] グリグリ さん
通勤高速バス

ああ,京葉道路経由ではないんだ。
花輪とか,首都高7号線で渋滞していそうだから当然ですが,
何分,私は東関道は宮野木から,という感覚でいるもので…。
[81012] 2012年 6月 30日(土)11:18:42Issie さん
Re:スカイツリー関心度
ずっと以前に話題になった「国一/一国」ネタでも触れましたが,私の職場は「二国」(第二京浜=国道1号)を見下ろす位置にあります。
そこでも触れられたかどうか,その「二国」に架かる橋に「響橋」(横浜市鶴見区東寺尾)という橋があります。第二京浜国道が整備されたのと同じ頃に“1940年の東京オリンピック”の準備が進められていて,マラソンコースに予定されていたのが第二京浜でした(ご存知の通り,1964年のオリンピックでは甲州街道がコースとなったわけですが)。その折り返し地点に予定されていたのが鶴見区の東寺尾付近で,響橋はそのランドマークとして優美なアーチ橋とされた,といわれています。
前置きが長くなりましたが,毎日の通勤で利用するバスで渡るその響橋からスカイツリーが見えるそうなのです。いや,そもそもウチの職場からも見えるらしいのですが,まだ確認はしていません。
以前に武蔵小杉にあるNECの超高層オフィス(玉川ルネッサンスタワー)を見学したときにその屋上に上げていただいたことがるのですが,そこからは建設中のスカイツリーがよく見えました。
地上156mというのは文字通り,スカイツリーの足元にも及ばない高さですが,それでもこの高さからの眺望はとても印象的でした。地上における地理感覚がすべてリセットされてしまうという点で。高い所から見下ろすと,地上での距離感が全く利かなくなるのですね。地上の感覚で頭の中に描いている地図とズレが生じて混乱する。…そんな感覚を覚えました。
スカイツリーの高さであれば,その混乱はもっと大きなものになるでしょうか。

で,実は昨日,午後の仕事をサボって(ちゃんと有休とりましたよ),ふと思い立って足元のソラマチまでは行ってきました。京急に乗れば押上まで乗り換えなしで行けますからね。実際は京急内で乗り換えましたが。時間の関係もあってタワーに昇るまではしなかったのですが。
それにしてもソラマチ,人が一杯です。平日の午後なのにね。公務員には期末手当支給日の金曜日ですが,まだお仕事中だろうし。

そのスカイツリーのロケーションですが,東京の西側から見るとやはり,

・感覚的に遠い

というのが正直なところです。“こちら側”からだと「やまて線の向こう側」は遠いのですね。まして“隅田川の向こう”なら,なおさら。
 …※ずっと以前に開かれた「御徒町の会合」も,まあ,そういうことです。
習志野や市川に住んでいた頃はこの辺りは普通に行動するエリアだったし,特に市川からなら少しその気になれば自転車で楽に行ける所ですから何も思わないのですが,その頃は逆に新宿や渋谷が遠く感じました(池袋には行ったこともありません)。今はちょうど,その裏返しなわけで。
最近は“秋葉原より東”に行くことがほとんどありません(厳密な経緯度ではなくて,メンタルマップ上の東,ね)。

同じようにそういう感覚を持っている人も少なからずいるんじゃないだろうか,と思っています。
[80984] 2012年 6月 20日(水)22:37:32Issie さん
市川市
[80982] 白桃 さん
本八幡あたりの人も、TDRに遊びに行くの、面倒ではないですか?

私は2度ほど市川市民だったことがあって,通っていた高校も本八幡にあったのですが(今は移転しちゃいました),思い出せば 浦安“町” から通ってくる同級生,確かに面倒くさそうでした。東西線で西船橋へ出て,そこから本八幡へ…。ちょっと面倒ですね。
その頃は京葉線はないし,「ねずみの国」などというものは影も形もありませんでした。

職安のある本八幡と年金事務所のある市川、どちらが市の顔???。

電話局と郵便局は両方の中間にあったりしてね,市川と(本)八幡の関係はかなり微妙です。

まずもって、「しもうさなかやま」駅って、てっきり市川市かと思いきや、船橋市なんです。

これは少し前に「分割地名・中山編」で話題になっていましたね。

ちなみに浦安の“旧市街”からなら,本八幡駅南口までバスが走っています。
(旧)江戸川に沿った昔むかしの行徳の街道筋を通る伝統ある路線で,時間はかかるけどそれなりに車窓が楽しいバス旅行愛好者にはお奨めの路線です。
終点の本八幡駅(実は駅から離れています)から市役所まで結構遠いですけどね。
[80981] 2012年 6月 19日(火)23:43:34Issie さん
房総半島横断ならず
[80977] JOUTOU さん
白岡町や大網(白里)町が県庁所在地と隣接していたとは・・・!?。

[80980] N-H さん
ちなみにそのころから大網白里町は千葉市と隣接してましたね。

そうですね。
「違和感」とまでは言いませんが,私はむしろ JOUTOU さんの“違和感”に「おやっ?」と思いました。
私が小学校4年で千葉県の地理を教わった時,すでに千葉市と大網白里町は隣接していましたから。その数年前に間にはさまっていた土気町が千葉市に編入されたせいですね。
ちなみに,この時点では君津市も富津市も成立済み。東京湾の南東岸に沿って千葉市,市原市,君津市,富津市と,(当時としては)サイズの大きい市が並んでいて,県内の市町村区画図がややつまらなくなっていました。もう少し上のお兄さん・お姉さんたちは君津郡にたくさんの町村のある地図で教わったんでしょうけどね。

で,その頃から期待していたのが,千葉市が残り大網白里町と一緒になれば房総半島のくびれたところで半島横断が完成する,つまり兵庫県のミニチュア版ができあがるのにな,ということでした。
でもすでに合併を繰り返して(その当時としては)十分に膨れ上がった千葉市はそれ以上の合併を行わず,そのまま政令指定都市になってしまいました。その後,四街道市との合併話も出たけれど,それもポシャってしまったのは,ここの皆さんにはおなじみの話ですね。
そしてとうとう大網白里町は単独で市になる道を選んだわけで,「半島横断の夢」はひとまず潰えたことになります。
もっとも将来にわたって大網白里“市”が千葉市と合併しないと決まっているわけではないのですが。
[80925] 2012年 6月 2日(土)12:21:28Issie さん
コザ in 紀州
そういえば,沖縄に続き,紀州の「コザ」も自治体名としては消滅していたのでしたね。

[80922] 白桃 さん
古座DIDの怪

DIDのことはよくわからないので,スルー。

余談ですが、古座中学校は隣の古座川町にあり、この辺りなかなかややこしいです

古座中学校 は,1951年の開校当初は当時の(旧)古座町と高池町による“組合立”の中学校として設置されたようですね。1956年にそれぞれの町が合併した結果,(新)古座町と古座川町の組合に引き継がれました。なので,両町の境界付近の古座川町(旧高池町)側に「古座」中学校があるのでしょうね。
2005年に古座町が串本町と合併して,この中学校にかかわる“組合”は解散して古座川町単独の中学校になりましたが,学区はそのまま串本町(旧古座町)の古座地区に及んでいて,ここの子どもたちは従来通り町境を越えて“隣りの町”の中学校に通っているようです。
旧西向町は,1947年に単独で(?)「町立西向中学校」を設置しており,これはそのまま 古座町立 → 串本町立 と移行しているようです。
なお,新制中学校の開設は 西向中学校 がそうであるように1947年ですから,「古座中学校」の場合も1951年の“組合立”による設置以前に,(旧)古座町単独の時期があったと思われます。恐らくは,「古座国民学校(→小学校)」の「高等科」がそのまま新制中学校に移行する形で。

地図の通り古座川を挟んで西側が西向、東側が古座ですが、古座駅や旧古座町役場(現:串本町役場古座分庁舎)は旧)古座ではなく、西向にあったのですね。

紀勢“中”線の古座駅が開設されたのは,当該区間が開通した1936年。この路線の規格(乗ってみると感じることですが,紀勢“本線”を称していてもこの路線の規格はとても低いです)と,それに見合った当時の建設技術では古座川を河口に近い所で渡って古座集落を経由するよりは,今現在のルートを採る方が合理的であるように思われます。なので,駅は“川向う”の(旧)古座町や高池町も照準に入れた西向町の現在地に設置されたのでしょう。

参考までに1920年と1940年の西向町,(旧)古座町,高池町の国勢調査データを比較すると,

1920年1940年
世帯数人口世帯数人口
西向町6713,3857623,682
(旧)古座町7133,2437733,368
高池町5062,3214902,216

少し河口からさかのぼる 高池 がほかの2町からやや引き離されていますが,1920年の段階で既に「町」となっていた(1900年に町制施行)ことを考えると,「双子」というより「三つ子」と考えてもいいかもしれません。
1951年の“昭和の大合併”で 西向町+(旧)古座町+ほか1村 で(新)古座町,高池町+ほか4村 で古座川町となったわけですが,こうなるまでには,ついこないだの“平成の大合併”がそうであったように,あるいはそれ以上の紆余曲折があったと思われます。「古座」という地名をめぐる綱引きも。

恐らくは,「古座」という地名は本来,古座川流域の広い範囲を示す地名であって,その川の河口に“ピンポイントな地名”としての「古座集落」ができたのではないか。あるいは,その逆に河口に立地した古座集落からさかのぼって川全体が「古座川」と呼ばれるようになった,という2方向のシナリオが考えられますが,いずれにしても「古座」の地名が「古座集落」あるいは「(旧)古座町」の独占物でなかったことは確かであろうと思われます。
その表れが,「西向町」に設置された「古座駅」ということであろう,と。
または,(旧)古座町を取り込むことができなかった 高池町ほか4村 が「古座川町」という名前を選んだということにも表れていそうです。
でもモータリゼーション以前の時代,鉄道駅の存在は大きいですね。合併前の旧3町村のうちで一番西の西向に役場が置かれたのも駅のもたらす町勢の差が反映しているようにも思うのですが,実際はどうなのか。
[80914] 2012年 5月 30日(水)21:26:39Issie さん
西関東
[80911] いさ さん
西関東というのも何か聞き慣れない言葉です。

確かに日常会話ではあまり聞かれない呼称ですが,古代史などではよく「西関東」という地域呼称が行われているようです。
東山道(の元になった街道)が碓氷山を下りて関東平野に出てきた辺りの「(上・下)毛野」から「埼玉」にまたがる地域,境界である利根川を中心に現在の群馬・埼玉・栃木3県にまたがる辺りは古墳が多く集中し,関東平野の中でも早くから開発が進んだ地域の1つと考えられていて,この地域を指す呼称として「西関東」というものが行われています。

もう1つ,方言研究の分野でも「西関東方言」という用語があって,この場合はもう少し広くて,関東地方のうち栃木・茨城両県からさらに福島県へと続く地域の“アクセントの無い”方言と東京都心および近郊の「共通語」(標準語)に非常に近い方言とを除いて指すもので,したがって基本的にはアクセントがある千葉県の大部分の(地元民の)方言もこちらに分類されるようです。

今回は山梨と神奈川で西関東ですが

これに千葉県を加えると,衆議院の比例代表選挙ブロックの「南関東」になりますね。
このブロックから千葉県を除けば正しくは「南西関東」ないし「西南関東」となるのでしょうが,ここは大雑把に「西関東」。

結局のところ,たとえば「東関東」や「北関東」のように地域ブロックとして一応の共通認識らしきものがある(埼玉県が北関東に含まれるか否かという〔問題ではなく〕話題がありますが)のに対して,「西関東」にはそのような共通認識が無いから却って必要に応じて自由に使えるのでしょうね。
こうして多くの人が色々な場面で使っていくようになれば,やがて「西関東」にもある種の共通認識ができあがることだろうと思います。
[80878] 2012年 5月 20日(日)12:23:31【2】Issie さん
京葉道路
「ジャンクション」への反応ではありません。

[80875] グリグリ さん
MasAkaさんが例示されている京葉道と館山道の接合点も機能的にはジャンクションであるとするなら

こちらに反応します。
そう。最近,「京葉道」という表現をよく聞くようになりました。
けれども,あの道の名前は「京葉道路」だったと理解しています。「高速自動車国道」ではない“有料の自動車専用道路”。そういう位置づけでの「○○道路」という呼称である,と。
この辺りを通過する「高速自動車国道」は,私が住んでいた頃にはまだ“宮野木ジャンクション”から先しかなかった 東関東自動車道(東関道) ですね。
本質的には“国道14号のバイパス”に過ぎない京葉道路は,私には記憶がないのですが,現在は有料自動車専用道路となっている区間でも船橋以西の地平部分では一般道路との交差も(江戸川区の一般道路区間同様に)あったかのように当時の地図には描かれています。それも含めて,特に幕張以西では明らかに規格の低い道路ですが,それでもこれに接続する「東関道」や「館山道」など本物の高速自動車国道からの“類推”で「京葉道」という呼称が行われるようになってきたのでしょうかね。
習志野市内の埋立地の公団住宅の3階に住んでいた子どもの頃,家の窓から毎日“京葉道路”とその向こうの海を眺めていた自分としては,「京葉道」という呼称には何となく居心地の悪さを感じます。

ところで,

#junctionの語源にはjointが関係しているのかな?

御明察。どちらもラテン語の iungo に由来する単語です。
名詞の joint は 動詞の join の分詞と関係があり,英語の動詞 join は,ラテン語の動詞 iungo(←これは1人称単数形) が古フランス語を介してノルマン・コンクェスト以降,イングランド語(つまり英語)に入ったものです。junction は,iungo のラテン語段階での分詞 iunctum に由来します。
ちなみに,英語の文法用語 conjunction は「接続詞」という意味ですね。

※…あっ,忘れていました。
ラテン語・英語辞典によると iungo に対応する英語は join です。
[80559] 2012年 4月 28日(土)10:12:40Issie さん
お大師様の御利益
[80558] 白桃 さん
武蔵○○が4連続する川崎市の人口は、一時の勢いが無くなったとはいえ順調に増加しております。

数字は見ていないのですが,職業柄,1月・2月の「イベント」(来年から制度が変わって2月だけ)と3月末の新年度開始準備で“あるデータ”を入力するたびに,特に川崎区の大師線沿線の工業地区への人口流入を実感しています。京浜工業地帯衰退の裏返しの現象ですね。
うちの“営業所”の商圏は主に鶴見・神奈川・港北・川崎・幸の2市5区なのですが,同じ住所で最後の3ケタ(時には4ケタ)の番号だけが違う“お客様”が増えていて,その中には昔ここに工場があったよねとか,ここって工場地区の真っただ中じゃん,と思うことがよくあります。
一時,川崎市は勢いを失っていた記憶があるのですが,この勢い,いつまで続くものか。
人口減少の御時勢,「順調な増加」はほかの地域の「順調な過疎」の裏返しでもあります。
[80555] 2012年 4月 23日(月)20:00:15Issie さん
ハチの「武蔵」は死んだのさ
[80553] 白桃 さん
そこからもう少し行くと同名の市が愛知県にあり

ここも読み方が違いますね(たぶん)。
[80545] 2012年 4月 21日(土)13:12:24【2】Issie さん
電子地図の図法
[80540] futsunoおじ さん
「ウォッちず」で見ると北の「宗谷岬」は南の「石垣島」より長さで30%大きく表示されており、計算上もこれに近い値になります。

[80544] グリグリ さん
「スケール・ものさし」は、地図を垂直方向にスクロールすると連動して変化していますね。今まで気付いていませんでした。

なるほど,これは私も気づいていませんでした。
参考までに,今では“旧版”になってしまった「2万5千分1地図情報」を見てみたら,こちらも「100m」スケールの長さが違いますね。つまり,これは“紙の2万5千図”をそのままスキャンして電子化したものではないということです。紙の地形図なら緯度によって100mの長さが違うはずがありません(ここが違ったら,紙地図のお約束の大前提が崩れ去ってしまいます)。
少し意外に感じましたが,考えてみれば当然で,今は地図の作成作業はかなり初めの方から電子化されているでしょうから,電子データ化された地理情報を紙地図の投影法に合わせて出力したものを製版・印刷しているのでしょう。

で,つまり,「ウォッちず」(電子国土基本図)の投影法(図法)は,紙の地形図のそれ(ユニバーサル横メルカトル図法)とは違うということです。
ご承知のように,紙の地形図の場合,どの地図も南北方向の緯度幅,東西方向の経度幅はすべて同じです(例外的に,はみ出るものもある)。だから,緯度が高い「宗谷岬」と緯度が低い「石垣島」とでは地図の“正味部分”の面積が違います。欄外の凡例とともに掲載されている“図の寸法”も,よく見れば上辺と下辺では長さが違う。つまり,地形図の図郭は“長方形”ではなくて“台形”。だから狭い範囲ならともかく,広い範囲にわたって地形図を隙間なく“同一平面”上に敷き詰めることはできないはずです(たぶん)。
それを電子画面上ではやっちゃっているのだから,同じ国土地理院の地図でも電子地図の図法は紙の地図のそれとは違うのでしょうね。

地図の上に緯線・経線が引かれていれば,それを頼りにどのような図法が採用されているかがある程度推測できるのですが,残念ながらそれが記載されていません。でも,恐らくはみなさんがおっしゃる通り,正軸の円筒図法(円筒の中心軸と地球の自転軸の方向が同じ)で投影されているのでしょう。たぶん,地図上すべての位置で緯線と経線が直交している。
けれどもそうすると,長方形に切り取った地図画面の上辺と下辺は緯線,左辺と右辺は経線となり,左辺と右辺の間の経度差は上辺でも下辺でも同じとなる。
しかし,実際は紙の地形図がそうであるように,上辺と下辺の長さ(距離)は違います。それが画面上では同じ長さで表示されているのだから,ここに既に「歪み」が現れています。逆に紙の地図の場合は,上辺・下辺の長さは実際と同じかもしれないけれど,そもそも図郭が“台形”であるということが,「歪み」そのものです。実際の地球上では緯線と経線は必ず直交しますから,図郭は“長方形”でなければなりません。でも,それを実現するのは不可能です。
つまりは,曲面上の情報を平面上に写そうとすれば必ずどこかに歪みが生じるわけで,わずか1枚の地形図や何平方ピクセル(?)かの電子画面上でもそれが既に始まっているのです。

とりあえず,北緯20度から45度の中緯度帯に位置する日本の地図であるなら,まだ我慢できる歪みかもしれません。けれども,高緯度地帯ではどうなんでしょうね。
最初の索引図として世界全体の小縮尺図を使うのならメルカトル図法のような円筒図法でも,とりあえずは構わない。
けれども,大縮尺で各地域の詳細な地図を描くのに,あるいはそれ以上に中程度の縮尺である程度広い範囲の情報を,あくまでも赤道上“だけ”が「正しい」正軸の接円筒図法を高緯度地方に適用し続けるのは,やはり不適切です。Google マップで北極“点”や南極“点”は記載できるのでしょうか。

[80540] futsunoおじ さん
ソフトウエア上で表示する緯度に連動した縮尺補正機能があってもいいと思います。

だから本当は,縮尺の補正だけでなく,緯度帯や縮尺に応じて「適切な」投影法が選ばれる(あるいは“選べる”)システムがあってもいいかなと思います。実際のところ,コンピュータの中では緯度・経度の座標データを一定の計算に従って変換されたディスプレイ画面上の座標にプロットするという作業をしているのでしょうから。

…既に,そういうシステムになっているのかもしれませんが。
[80538] 2012年 4月 19日(木)00:17:12【4】Issie さん
ややこしい図法の話
[80536] グリグリ さん
スケール表示がない理由としては、ネット地図は正距図法ではないからなんですかね。

「縮小された“ものさし”そのもの」という意味での“スケール”は,電子国土基本図でも,たとえば Googleマップ でも画面上に表示はされていますね。けれども,「縮小率」という意味での“スケール”は表示されていません。
これは,使う側の環境によってディスプレー画面やプリンタの解像度が違えば“同じ範囲”を表示したり印刷したりしてもその大きさが違うわけで,「結果物の縮小率=縮尺」を指定することができないせいではないか,と考えているのですが,…違うかな?

以下,たぶん地図投影法に関しては専門の方もいるのではないかと思うし,たとえば「正角割円錐図法」なんて言葉が出てくると私も正直ついていけないのですが,とりあえず高校の「地理」の時間で扱うような範囲内で…。

まず,メルカトル図法は「正距図法」ではありません。
たとえば,メルカトル図法で描かれた長方形の古典的な世界地図を考えましょう。
この地図にも普通,“ものさし”“縮小率”双方の意味での「縮尺」が両方とも記載されています。けれども通常,そのものさしと縮小率の数字が表しているのは“赤道上”のそれです。つまり,長さ4万キロの赤道をどれだけ縮小しているかを表しています。
しかし,地球上にひかれている緯線のうちで長さが4万キロもあるのは赤道=緯度0度線だけです。たとえば,北緯60度線の長さは2万キロしかありません(cos60度 は 0.5 ですね)。けれども地図上の緯線の長さは赤道と同じです。ということは,実際の緯線の長さの2倍に引き伸ばされているわけで,距離が「正しく」表されていません。通常,普通のメルカトル図法の地図で距離が正しく表されているのは赤道上の任意の2地点間だけで,ほかの2地点間の距離を正しく表すことができず,したがって,メルカトル図法は「正距図法」ではないのです。
ではメルカトル図法で何が「正しい」かというと,「角度が正しい“正角図法”」に分類されます。この「角度が正しい」というのをすぐに頭に入るように説明するのはとても難しいので省略して結果だけ言えば,「地球上に同じ大きさの小さな円がたくさんあると仮定した場合、正角図法で投影された地図上でも全ての円がほぼ真円で表される」という地図です。つまり,狭い範囲であれば「形が正しく」描かれる,という性質を持っています。
ところが,普通のメルカトル図法では「赤道上の距離が正しく表される」ように描かれていますから,たとえば日本のように赤道から緯度にして30度も40度も離れている場所では距離や面積の歪(ひず)みが大きくなって正しく表示することができません(上の説明で言えば,“真円”が赤道付近よりも大きくなっている)。
そこで発想を変えて,地球を“横”にして赤道ではなく“特定の経線”上の距離が正しく表されるように描くようにした地図の作り方を「横メルカトル図法」と言います。基準の経線から離れて歪みが大きくなりそうになったら,別の経線を基準にすればいい。そうすれば,全体として歪みの小さい地図を広い範囲にわたって作ることができます。
繰り返しますが,メルカトル図法も横メルカトル図法も「正距図法」ではありませんから,距離も,したがって面積も正しく表すことができません(つまり,「正積図法」でもない)。でも,5万分の1,あるいは20万分の1くらいの縮尺で実際に刊行されている大きさの紙に収められる範囲内なら気になるほどの誤差は生じないので,「形が正しく」表示される(横)メルカトル図法がこの縮尺の地図には採用されています。

ところで,縮尺2万5千分の1でも5万分の1でも「地形図」の四辺のラインは緯線および経線です。作図の便宜上,この線は直線で引かれているようです。この5万分の1地形図を16枚貼り合せて4分の1に縮めたものが「20万分の1地勢図」ですが,この地図では元になった16枚の地形図の境目に黒い細実線が引かれています。そこで地図上の“東西方向”に引かれている線にものさしを当ててみてください。実はこの線が“直線”ではなく,少し湾曲した大きい半径の円周に近い線であることが分かります。
この大きさ(縮尺)になると,(横)メルカトル図法での歪みがそろそろ気になりだすのですね。つまり,メルカトル図法では無理が生じ始める。ついでに言えば,国土地理院が刊行している50万分の1“以下”の縮尺の地図は,使用している紙のサイズ自体がずっと大きいから,なおさら歪みの大きさが気になる。そこで,これらの縮尺の“小さい”地図はメルカトル図法よりも歪みが小さく広い範囲を表すことができる「正角円錐図法」の1つである「正角割円錐図法」が採用されています。
「円錐図法」というのは,“丸い地球”上の情報を紙に写し取るに当たって,その紙を円錐状に丸めてそれを地球にかぶせ,たとえば地球の中心に光源を置いてそれで紙に映った影をなぞって写し取った,と仮定して地図を描く方法です。
ちなみに,メルカトル図法は「円筒図法」。紙を筒状に丸めてそれで地球に巻き,紙に映る影をなぞって地図を描いています。古典的なメルカトル図法の世界地図は,この紙を赤道で地球に接するようにして巻いたもので,だから赤道上の距離(だけ)が正しい。横メルカトル図法は,それが赤道ではなくて“特定の経線”で,というわけです。
円筒図法であるメルカトル図法では,紙が地球表面に接している赤道または特定経線から離れるにしたがってその“紙面”が地球表面から急速に離れていきますから,歪みがだんだん大きくなります。
一方,地球(半面)にすっぽりとかぶさる“円錐”なら,円筒よりは広い範囲で地球表面に密着させることができます。つまり,それだけ歪みが小さい。北極または南極を上にして円錐をかぶせた場合,特に中緯度で円錐面が地球表面に近接するので,中緯度地方について歪みを小さく写し取ることができる。だから日本のような中緯度地域を広く描く場合に,この「円錐図法」が好んで用いられます(たとえば,新聞やテレビの天気図でも使われています)。そのうち,「角度が正しく」表されるように調整したものが「正角円錐図法」です。
この時,円錐を地球表面に密着させて特定の緯線(または地球を周回する線)で接するようにしたものを「接円錐図法」,円錐を地球表面に食い込ませて2本の線で地球表面と交わるようにしたものを「割円錐図法」と呼びます。円錐面と地球表面が近接する範囲が広い「割円錐図法」の方が歪みの小さくなる範囲が広いので,こちらを国土地理院が採用しているのでしょうね。円錐図法について詳しくは こちら をどうぞ。地図投影法一般については こちら地図投影法 のページで詳しく説明されています。

ところでこれは“紙の地図”の話。
ディスプレイ上の電子地図はまた少し違った投影のしかたをしているような気もするのですが,どうなんでしょうね。
[80533] 2012年 4月 17日(火)21:56:48Issie さん
Re:使いづらいよデジタル地図
[80531] グリグリ さん
昨日の東京新聞朝刊のこちら情報部の特集記事のタイトルです。国土地理院の電子国土の国土基本図が使いづらい点を取材したものです。

この東京新聞の記事は“周回遅れ”でしょうかね。
3月28日の朝日新聞(東京本社版夕刊)には,この「使いづらい」という声を受けて問題の送電線や記念碑などの掲載を“復活”させることにした,という記事が載っていました。こちらのブログ では当該記事とそれに関するイギリスやドイツの例について述べてられています。
批判の声の中には「戦時改描」なんて物騒な言葉も出てきているようです。
現に見えているものを載せるのは当然だというのは至極もっともで私も同意見なのですが,東電が協力しない理由が「テロ対策」というのが御時勢ではあるのでしょうね。前シリーズから「ブラタモリ」もモザイク画面が増えました。現地を知っている人にはバレバレのような気もしないでもありませんが。
この話,「軍事情報としての地図」という地図の本質の1つにかかわる話題なのかもしれません。

私はほとんど利用しないのでよくわからないのですが

私もほとんど利用していません。「電子国土」に限らず,googleマップのような民間のものも含めて。
理由はやはり,「使いづらい」からです。
紙の地図とは違って“シームレス”であるというのは,何より電子地図の優れたところです。
けれども如何せん,ディスプレイ画面は狭い。紙地図は多くの場合,折りたたむか丸めなければ持ち歩けない大きさで,にもかかわらず“紙の大きさ”という描写範囲の限界があるのですが,その範囲内において“一覧性”という点で狭いディスプレイ画面に勝ります。
縮尺を小さくすれば狭い画面でも広い範囲が描写できるわけですが,その分,情報が減ってしまいます。
そして,この縮尺が自由に変更できるという点。これも紙地図にはない電子地図の極めて優れた特長ですが,使う場面によってはむしろ致命的な欠陥になる。
つまり,たとえば「4cmで1km」という“縮尺の概念”が通用しないわけで,地図の上で距離や面積を把握することが非常に困難です。
実際の使用場面において,私は「地図は消耗品」と割り切って使用しています。必要のある都度,同じ地図を購入してたくさんの線を描き込み,色を塗りたくり,ハサミで切り刻む。
このような使い方も電子地図では難しそうです。いや,そういう使い方のできるソフトがないわけではないのかもしれませんが,私には紙地図の方が使いやすい。

というわけで,何か「電子国土」じゃなくて電子地図そのものに対する愚痴になってしまいました。
当たり前のことですが,紙地図にも電子地図にもそれぞれ優れた点とそうでない点があって,それが向いている場面と不向きな場面とがあるわけで,要は必要に応じて使い分ければ良い話です。特にほかの電子情報と関連付けて利用する,つまりGISの基盤として電子地図は不可欠なものです。が,とりあえず私の使い方では紙地図の方が使いやすいことが多い…という,それだけのことです。
[80518] 2012年 4月 10日(火)20:15:25【3】Issie さん
市会/市議会
[80515] グリグリ さん
五大都市では今でも市会と呼んでいるんですね。

以前,県議会の事務局に勤めていたことがあるのですが,そこは当然に他都道府県議会や市町村議会事務局とのお付き合いがあって,その際に「五大市」の議会は「市会」と呼ぶ習慣だよ,と教わりました。
政令指定都市が20もある今,こんな所にまだ生きているんですね,「五大市」という言葉。

落書き帳でも過去の議論になっているかと思いきや

[80429][80430] で少し触れようかと思いましたが煩雑になるのでやめました。でも,あの文章の中では意識して使い分けています。「市会/市議会」ではなく,「町会/町議会」という言葉ですが。

ごく単純に言えば,現行憲法・地方自治法下の呼称が「市議会」,明治憲法・(法律としての)市制下の呼称が「市会」ということになります。
これはそのまま,「町議会/町会」,「村議会/村会」,「府議会/府会」,「県議会/県会」にも当てはまります。ただし,「府会」「県会」はさらに古く,1878(明治11)年の“地方三新法”の1つ,「府県会規則」,「町会」「村会」は1880(明治13)年の「区町村会法」以来の呼称です。「市会」は,「市」という地方区分自体が1888(明治21)年の「市制」で“初めて”現れるわけですから,それ以降(施行はもちろん,1889(明治22)年)のものです。
ちなみに北海道の場合は1901(明治34)年の「北海道会法」により,やはり「道会」という呼称でした。

だから,少なくとも“制度上の呼称”は1947年5月3日の現行憲法と地方自治法の施行時に「市会」等から,「市議会」等に変わっているのですね。これについては,上の「北海道会法」について検索してヒットした 北海道議会のページ で触れられています。
ところがなぜか,「五大市」だけが「市会」という呼称に固執したわけです。道府県を含め,ほかは素直に切り替えているのに。どんな理由なのかわかりませんが,これはやはり当時“区のある市”がこの5つだけだったということと関係があるのでしょうか。

ところで,これよりも一足早く「×議会」という呼称を採用したところがありました。
「東京都議会」。
1943(昭和18)年の法律「東京都制」で,議会の呼称は「都議会」と規定されています。だから,ここだけは最初から「都議会」なのですね。
ほかと同じフォーマットにすると「都会」になってしまう,…からでしょうかねえ。

さらに早いのが,実は国レベルの議会。
明治初め以来の議会開設をめぐる一連の動きの中で,民権派からも,時には政府側からも広く用いられていた「国会」という言葉に対して,1889(明治22)年の明治憲法が採用したのが「帝国議会」という呼称。それが,1946(昭和21)年の現行憲法では「国会」という呼称になりました。ま,「帝国」じゃまずいもんね。
結果として,市会→市議会 という地方議会に対してこちらは 帝国議会→国会 という逆の形の呼称変更になったわけで,面白いものがあります。

横浜市に住んでいたこともあるのですが、これまで意識したことがなかったです

いずれにしても市民にとっては関係のない,どうでもいいことですから。
ここの初期の頃に話題になったように,一般呼称としては「市役所」と呼ばれている建物やその中にある行政機関を横浜市は勝手に「市庁」と呼んでいるようなものかしら。
神奈川県議会と横浜市議会,…もとい,横浜市会,県と市の関係がそうであるように,こちらの関係もどうも微妙なようで…。

※後からよく読んでみたら,論点が少しずれているようですね。でも,まあいいや。
[80476] 2012年 3月 31日(土)21:33:34【1】Issie さん
南三原
[80475] の続きです。
実は [80441] で hmt さんが紹介されたリンクで一番うれしかったのは,各年の国勢調査報告にアクセスすることができるのがわかったことでした。
結構前に紹介したことですが,野毛山の横浜市立中央図書館には敗戦前の国勢調査報告の復刻版が配架されていて,それで1920(大正9)年の“第1回”と1940(昭和15)年の報告書の人口表部分は丸ごとコピーして持っているのですが(著作権法的には微妙ですが,図書館の方では容認しているみたいです),残念なことにこれには各市町村の読みが記載されていません。
ローマ字という形ではあるけれど,それが記載されるようになるのが1950(昭和25)年の報告書なのです。しかも「昭和の大合併」の直前回ということで,(私は人口のデータには関心がありませんが)非情に興味深い。けれども,これを読みに国会図書館に行くというのもなかなか機会を得ることができず(1960(昭和35)年の回はそうして,その結果がうちのHPに反映しているわけですが),だからこうした旧データが電子情報化されてweb上で公開されることを切望していました。
ああ,いつの間にか,やっと実現していたのですね。そのままではたとえば表計算ソフトの表に取り込むことのできない pdf(というか,画像)ファイル ではあっても。

そこでさっそく,1950年の千葉県の表を見てみました。
当時の表では現行の地方自治体コードの配列とは違って,千葉県の郡部は“県南”(←千葉県ではあまり聞いたことがない)の 安房郡 から並んでいます。
その中でふと目についたのが,現在では 鴨川市 の一部になっている「南三原村」。
そこに記載されているローマ字表記をみると Minamimibara-mura ,つまり「みなみみばらむら」と濁音で読むように記載されています。
この「南三原」という地名には,これをそのまま読んだ「みなみみはら」と国鉄の駅名に採用されている「みなみはら」の両方の読みがあって,その間に揺れがあることは知られているのですが(件の『市町村名変遷辞典』では「みなみみはら」を採用しています),そこに濁音の「みなみみばら」という読みもあるのか? ちなみに,隣接する「北三原村」のローマ字表記は Kitamihara-mura となっています。
国勢調査報告のローマ字表記による読みがしばしば地元自治体が公式に定めているものと違っている,あるいは国勢調査報告自体で年によってその表記に変動があるというのは,うちのページ を作っていく過程で十分確認されていることなので別に驚くことでも何でもないのですが,
まあ,やはり「そういうこと」はあるのですね。
[80475] 2012年 3月 31日(土)21:08:51Issie さん
三宝
[80473] グリグリ さん
いかがでしょうか、Issieさん。おそらく濁音の方がより正しいように思うのですが。

あそこのページは基本的に 地名情報資料室・編『市町村名変遷辞典 三訂版』1999年,東京堂出版 に依っているのですが,今改めて見ると当該の項目の読みは濁音で「さんぼう」ですねえ。半濁音は私の思い込みで間違いであったということですね。

ところで,その次の項目は新潟県岩船郡の 旧山北村→山北町 なのですが,こちらの読みも濁音で「さんぼく」となっています。旧町の公式の読み方では半濁音の「さんぽく」だったはずですが。参考までに [80441] で hmt さんが紹介されたリンクをたどって各年の国勢調査報告を見ると,1955(昭和30)年の初登場以来,ここでは一貫して Sampoku と表記されています。
まあ,「そういうこと」なのでしょう。
[80472] 2012年 3月 31日(土)18:45:40Issie さん
区の順番
[80468] グリグリ さん
まだちょっと早いのですが、熊本市の中核市から政令指定都市への移行、豊中市の特例市から中核市への移行、および、松江市の特例市指定に関連して、市区町村のデータ、公式HP、ランキング、雑学などを更新しました。

細かいことですが,熊本市の区の公式の配列は

中央区(101),東区(102),西区(103),南区(104),北区(105)

という順番であるようです(カッコ内は明日から適用される地方自治体コード)。[80460] で紹介されている熊本市のガイドブックでも最初のページにその順番で記載されています。

この配列,実は結構面白いですね。
たとえば旧東京市の35区,そして現在の東京23区は,“中心”の千代田区から時計回りに並んでいます。横浜市の場合は,最初に区制を実施した1927年当時の5つの区を北から順番に 鶴見→神奈川→中→保土ヶ谷→磯子 と並べた配列が出発点になっています。
たいていの政令指定都市は,このどちらかのパターンで区を並べていますね。3つしか区がない相模原市は北の緑区から始める横浜パターンです。
ところが熊本市は,地図上における区どうしの隣接関係は無視して「中央区」を最初に置き,次は日常の口頭に上る「東西南北(とうざいなんぼく)」の順で並べているのですね。これが麻雀の「東南西北」ならまだお互いに隣りどうしになったのですが。
何か珍しいな,と思ったら,
…浜松市と堺市に先行例がありました。
[80471] 2012年 3月 31日(土)18:17:30Issie さん
梅田雲浜
[80461] 白桃 さん
(福井県)雲浜(うんぴん)村・・・・・現:小浜市

[80464] グリグリ さん
雲浜は海岸由来でよいのかどうか(想定)

“幕末おたく”だとすぐに 梅田雲浜 を連想するでしょうね。
小浜藩出身の儒学者で安政条約反対と攘夷を訴え,安政の大獄で獄死。
町村制施行のための明治の大合併で新しい村が編成された時にこの 梅田雲浜 を記念して「雲浜村」としたのか,と一瞬思ったのですが,梅田雲浜の方が出身地の小浜海岸の別称を自分の号にしたようですね。
つまり,小浜海岸の別称が「雲浜」らしい。
何でこういう別称がついたかについては,それなりの謂れがあるのでしょう。

[80466] グリグリ さん
県北共同試験場

意外なところに使用例がありましたね。
私も石川県は県北部についてもっぱら「能登」を使うだろうと思っていました。
[80462] 2012年 3月 30日(金)21:50:38【1】Issie さん
いっぽんでもニンジン
「半濁音の自治体名」の話題にちょっと便乗します。

私が小学校6年生の冬,爆発的に流行した曲がありました。あの,「およげ!たいやきくん」。
あの頃,お昼の校内放送では毎日のようにこの曲が流れ,家に帰宅すればちょうど「ひらけ!ポンキッキ」の再放送時間(朝の本放送は登校時間に当たるので視ることができない)に当たって,最後のオチで釣り人がたい焼きを食べるアニメーションを毎日のように視ていました。
ところで,この「およげ!たいやきくん」のレコードの裏面にあったのが なぎら健壱 の名曲「いっぽんでもニンジン」でした(ものの本によると両A面という扱いだそうですが)。これも校内放送で毎日のように流れたものです。
この歌,リアルタイムでは「たいやきくん」の裏面という意識しかなかったのですが,実は日本語教育上,とてもよく考えられて意識して作られた歌です。つまり,日本語教育上のポイントの1つとなる“助数詞”の使い方を歌った歌なのですね。そもそも,その頃の「ポンキッキ」には数年前に(他局だけど) ウルトラの母 を演じたペギー葉山の“道徳コーナー”があったように純然たる「教育番組」でした。
そこで数える対象によって助数詞が変わる,というのを教える歌がこの「いっぽんでもニンジン」だったのですね。

そんなことを思い出したのは,週末のこととてお酒を飲みながら視ていたNHKの某番組で「県北」という字を見たからです。
実は「いっぽんでもニンジン」ではスルーしてしまっているのですが(いっぽんでもニンジン,ろくわでも七面鳥,しちひきでも蜂,きゅうはいでもジュース…と,そのまま歌っている),「は行」がからむ助数詞は状況に応じて濁点や半濁点がついたり,「わ行」に移ったりと,外国の日本語学習者には非常に難しかろうと思われる子音交替現象が見られます。特にともに“唇の音”であるPとBの交替はともかく,そこに“喉の音”であるHや半母音のWが絡むというのは,日本語話者には当たり前であっても,外国語話者にはわかりにくいことだろうと思います。
この現象の難しさは「いつでも必ず起こる」ことではなく,時によって起こったり起こらなかったりするすることにあります。

要は,「県北」。
この語は,濁らず清音で「けんほく」と読んだり,濁音で「けんぼく」と読んだり,半濁音で「けんぽく」と読む3つの読み方が実際に行われ,しかも全く不規則に,それぞれの地域での慣習によって読まれている,逆に言えばよそ者には「正しく」読むことの難しい地域呼称です。
つまるところ知りたいのは,各県で「県北」をどのように読んでいるか,ということです。
もちろん,「県北」という地域呼称が45の県のすべてで行われているわけではありません。
まずどれくらいの県で「県北」という地域呼称が行われ,次に「県北」をどのように読んでいるか,という疑問です。

ちなみに,神奈川県では「県北」は濁点なしで「けんほく」と読まれます。
その範囲は使用する主体によって様々ですが,県行政では一般に旧津久井郡,あるいは相模原市の旧市域を加えた範囲(つまり,現・相模原市)を指しています。
よその県ではどうでしょうか。

ついでに京都府・大阪府について,「府北」という表現はあるか。
東京都の場合,島嶼部を除いた“本土部分”が東西に長いために「都北」という表現はあまり聞いたことがありませんが,「都南(となん)」という表現は町田市について行われることがありますね。
[80431] 2012年 3月 25日(日)17:38:53【2】Issie さん
旧座間町の分離について: 「隋書」では
[80430] の続き

以上,相模原市側の「正史」によって座間分離の過程を見てみました。
冒頭で申し述べたとおり,これは1960年代後半に編纂された旧版を引き継ぎ,2004年の市制施行50周年を機会に編纂が進められている新版市史によるものです。わが国の正史になぞらえれば「日本書紀」に対する「続日本紀」とでも言えましょうか。
実際に国家が編纂した正史では,現政権の正統性を強調するために前政権に対する記述に政治的配慮を加えることがよくあります。645年の宮廷クーデタ(乙巳の変,いわゆる大化の改新)および672年の王位継承をめぐる内戦(壬申の乱)という2度の王位簒奪事件を経て成立した政権(天武・持統朝)で編纂が始まった「日本書紀」における蘇我氏に関する記述や,皇統が天武系から天智系に移ったのを受けて即位した桓武天皇の命令で編纂された「続日本紀」における孝謙・称徳女帝と“怪僧”道鏡とのスキャンダラスな関係なんかは幾分割り引いて読む必要がありそうです。
市史程度のものであれば,そこまで読み込む必要はないと思いますが,それでも40年前に編纂された旧版の方で座間分離問題を扱っていたら,その書きぶりは新版のそれとは少し違っていたかもしれません。何より,まだ通史編が刊行されていない座間市側の「正史」でどのように記述されるか,とても楽しみです。

ところで,倭国が派遣した使節が隋の皇帝・高祖文帝の前で演じた不調法を恥じてか,わが国の正史に記載のない600年の遣隋使をしっかり記載している『隋書』に相当する(?),県史ではこの辺りをどう記述しているか,『神奈川県史 通史編5 近代・現代(2)』(1982年)も見てみました。
当然ながら,市史と県史とでは関心の対象が違い,敗戦後の地方制度改革で最も関心を寄せているのは横浜市も対象となる「特別市」問題ですが,あわせて分離を含めた市町村の「区域変更」をめぐる問題を取り上げています。長くなりますが,ほかの興味深い事例についても触れているので,1節の前半分を以下に引用します。

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 特別市問題は新しく作られる地方制度の枠組との関連で県を二分するか否かの大問題であったが,県内にはそれとは異なる型での区域変更をめぐる争いもこの時期に登場した。その一つは横須賀市内の旧逗子町の分離独立問題で,戦時中の1943(昭和18)年4月に軍の要請で横須賀市に編入された旧逗子町の町民の有志から戦後になって編入の意義は失われたとして従来の如く逗子町として独立しようとする運動が活発になってきたのであった。また,高座郡相模原町でも旧座間町の分離独立問題が動き始めていた。座間では相模原への合併後,住民生活の不便,経済負担の不均衡等を理由に,分離独立の意向を強くもっていたが,相模原町会ではこれを認めると大野・相原等が相次いで独立することをおそれてこれを承認しなかったために問題化し始めていたのである(地方課『昭和22年3月知事事務引継書』)。
 当時の地方制度では,そして制定されることとなる新地方自治法においても,市町村の配置分合は関係市町村会の議決を経て,内務大臣の許可を得たうえで知事が定めることとなっていた。しかし,住民の意思を尊重するという雰囲気が強まってくるなかで,区域の変更に関しても住民の意思を直接に聴する手続が採られる動きも見られたのである。鎌倉郡片瀬町の場合がそうであった。片瀬町と隣接する藤沢市との合併問題は戦前からあったが,敗戦後の財政の窮乏と食料の確保のため合併の気運が強くなり交渉が進められた。一方同市に隣接する鎌倉市も大鎌倉市の構想をもち隣接町村との合併を希望し,片瀬町が藤沢か鎌倉との合併を希望するとの誘いをもちかけた。同町ではこの問題を決定するために町民による町民投票を行って方向を決めたのである。1947年1月に行われた町民投票では有権者の57パーセントの3463名が投票し,結局藤沢市への合併を希望するものが,現状維持・鎌倉合併派をおさえて多数派を占め,これを基礎として両市町は合併を内務大臣に奏請した結果,同年4月1日から片瀬町は藤沢市に編入されることとなったのであった。このように“首長公選”の時と同様に法制上の裏づけはないが,住民の意向を確かめるための住民投票を経て事実上の決定を行い,それを法制に結びつけて運用するということが,過渡期の地方制度運営の現場でみられるようになっていたのである。ちなみに,逗子町の横須賀市からの分離の投票は1949年3月に行われたが,これは48年の地方自治法一部改正による法的根拠をもった投票であった(『横須賀市政時報』昭和24年2月22日)。(p.575~576)
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というわけで,住民投票の行われなかった旧座間町のその後については実は触れられていません。
ところで,「県史」のこの巻が刊行されたのは1982年。当時の神奈川県は“長洲県政”の下,「革新自治体」の代表として情報公開条例の制定に取り組んでいました(これが山形県の小さい町に先を越されてしまった件,昨日(24日)の朝日新聞・夕刊に取り上げられています)。ここに引用した節の書きぶりにも,そんな県政の雰囲気が漂っているような気がします。

当たり前のことですが,県レベルの視点から見れば座間の分離問題は逗子の分離問題とも連動する案件です。結果的に,両者は違った手続きで分離・再独立を勝ち取りました。
ここで大きな働きをした「地方自治法の一部改正」は,社会・民主・国民協同3党の連立政権である芦田内閣の下で進められましたが,国会で実際に審議を進めたのは衆議院の治安および地方制度委員会委員長であった野党・自由党の 坂東幸太郎 であり,彼が座間の分離問題に積極的に関わったのは前述のとおりです。また,これも最初に登場した元県議の地元選出衆議院議員 岩本信行 も,一連の記述には登場しないけれども大きな働きをしたことでしょう。前述の通り彼は,占領下の戦後第1回衆議院議員選挙で採られた大選挙区制を1947年の新憲法準備総選挙に備えて元の中選挙区制に戻す選挙法改正審議での手腕を 吉田茂 に買われて,昭電疑獄による政権交代で成立した第2次吉田内閣で,解体された内務省から地方行政事務を引き継いだ 地方財政委員会委員長(国務大臣) に抜擢されます。「地方政治のプロ」としての抜擢ですが,それが内務官僚ではなく,長く県会の首領として君臨してきたという意味での「地方政治のプロ」なのですね。
町議会で座間分離案が可決して再独立の実現に大きく進んだとき,町議会からは分離に向けての具体的な手続について,先行して分離(というより解体)が実現した埼玉県の旧志紀町へ代表を派遣して調査してきたりもしています。

座間の分離独立は,こうしたさまざまなつながりの中で実現したのですね。
[80430] 2012年 3月 25日(日)17:37:11【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (2)
[80429] の続き

このように,なかなか上手く進まない座間の分離問題。その風向きを変えたのが

[80415]
「昭和23年法律第179号附則第二條」という地方自治法改正

です。
「市史」では,1947年12月に衆議院で前年8月に請願書を提出した座間分立を求める請願が認められ,翌48年2月にこの請願書を仲介した前出の衆議院議員で当時衆議院治安および地方制度委員会委員長を務めていた坂東幸太郎から上記の地方自治法改正につながる指令がGHQから出るという情報がもたらされたことが転機になったとしています。この地方自治法改正に関する記述は以下の通り。

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 戦時中,軍の要請で合併させられた市町村を,従来の市町村議会の議決ではなく,住民投票により元の状態に戻すという,地方自治法の改正案は,4月15日,衆議院に提出された。審議は同月27日から,治安および地方制度委員会で始まる。委員長の坂東幸太郎は地方自治法の改正案をめぐる状況について,座間側にその都度知らせていた。分立実行委員の山田和夫に宛てた葉書のなかで,坂東は座間側が関心を寄せる改正案の提出時期と中身に関して触れている。
 審議が進むと,5月には,稲垣俊夫・山田和夫の二人が坂東議員を訪問した。かれらは今回の地方自治法の改正に,相模原町の事例も含まれるのかどうか聞いたところ,坂東から「該当する」というお墨付きを直接得ている。地方自治法の改正案は6月19日に衆議院本会議,同月28日に参議院本会議でそれぞれ可決され,7月20日に公布された。(p.324~325)
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この一連の動きの中でキーパーソンであったのが衆議院議員の 坂東幸太郎 や 岩本信行 であったわけです(ともに自由党)。そして,この地方自治法改正に座間分立問題も深く関連していたことがわかります。
これに対して地元の座間・相模原では,

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 国政の動向が座間にとって有利に働いたことで,座間分離問題は再燃した。48年5月には,座間地区選出の六人の町議と座間支所長が相模原町の関係者を訪問し,改正後の地方自治法を適用して分町を強行するよりも,改正前に町議会の議決で円満に独立したいという意向を伝えたという(『神奈川新聞』1948年5月5日付)。座間側は強気の姿勢に変化し,改正案の成立を待たずに解決することを急いだ。
 地方自治法の改正案の成立が確実視されると,相原・大野地区の町議との連携も進む。座間地区六人と大野地区五人の合わせて十一人の町議が,6月2日に共同で,座間の分離問題に関する臨時議会の招集を求めた(議会史 資料編II)。これまで,町議会でたびたび分離実現の機会を逸してきたが,今度は,相原・大野との共同歩調が事前に採られる。6月8日,相模原町議会が開かれると,「座間地区分離独立の件」が提案され,19対11で可決された(議会史 資料編II)。ここで,座間地区は独立する権利を手にする。(p.325)
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ということになりました。
あえて“特別措置”は行使しないことを表明しながら,むしろそれを条件に町に承認を迫った,とも言えそうですね。

こうして町議会は座間の分離を承認しましたが,前年の選挙で分町派の候補を破って当選した町長の小林與次右ヱ門は,「分町問題は町発展のブレーキ」と認識し,町議会の解散権行使をちらつかせながら消極的な態度をとりました。しかし結局,7月7日の町議会全員協議会で(分町派でない5地区を含む)各地区選出の町議一人ずつと正副議長から成る「旧座間町地区分離準備委員会」の設置が決定され,同委員会でまとめられた分離に伴う財産処分案を含む具体的な座間町分離方針が8月6日に町議会に上程,「9月1日から座間町を設置する」ことが全会一致で承認されたのを受けて,8月11日に小林町長が 地方自治法第7条による町分離処分 の申請を県知事に行いました。県議会は8月30日に座間分離案を可決,翌31日に

[80415]
昭和23年神奈川県告示第360号
「座間町設置に関する県告示」

が出されました。そして翌日,1948年9月1日に座間町が再置されたわけです。

一方,座間と共同歩調をとっていた相原・大野の両地区は結局,分離を選択しませんでした。
座間が分離の実現に向けて積極的に動き出した5月半ば,両地区選出の町議は「相模原町分町問題に関する申合」を取り交わしました。その中で,両地区は相模原町に残り市制施行の実現に努力する。それに当たっては,(3段の河岸段丘である相模原台地の“中段”に位置する)上溝にある町役場などの諸施設を“上段”の横浜線沿線に移転することを求めています。それが認められなければ,座間に続いて両地区も分離をめざす,ということです。
この「申合」は座間町の分離が議決された6月8日(「市史」ママ。8月6日か?)の町議会に緊急動議として提案され,可決しました。
実際に町役場が上段の 旧相原村清兵衛新田 の現在地に移転するのは1954年4月29日。これは相模原町発足からちょうど14年めの記念日,そして同年11月20日の市制施行の7ヵ月前のことです。
現在,市役所や警察署,郵便局などが集積する相模原市の中心業務地区(CBD)となっている 中央・富士見地区 は旧上溝・相原・大野3町村の境界が交わる場所に当たります。ここをCBDとすることは「軍都計画」当初からの既定方針であったようですが,現実には相原・大野両地区の分離を思いとどまらせることの交換条件として実現したとも言えそうです。

以上が,「市史」の記述による「協議離婚」([80411] )の経緯です。
現実の「離婚」がそうであるように,たとえ円満に見える協議離婚でも,それが実現する経緯は紆余曲折があるのですね。

(続く)
[80429] 2012年 3月 25日(日)17:34:59【1】Issie さん
旧座間町の分離について: 「正史」における記述 (1)
[80411] 以下 hmt さん
戦時合併 と その解体 続編

昭和16年の合併には「座間町」も加わりましたが、戦後に分立。
日付から判断すると、おそらく臨時措置による手続き[55656]によらず、相模原町との「協議離婚」が成立したものと思われます。

[80415]
【追記】
逗子町再置が 前記改正法“附則第2條第5項の規定”によることは、昭和25年総理府告示第191号 に明記されていました。
そこで、座間町の場合も 再置告示確認によって、臨時措置によるものか否かの区別がつくであろうことに気づきました。
調査の結果は、通常の手続きによる分立のようでした。昭和23年神奈川県告示第360号 【追記終】

この辺りの経緯について,「正史」である市史ではどのように記載してあるか,確認してみようと思いました。
本来であれば双方の記述にあたるべきなのですが,座間市側では現時点で「通史」の刊行は近世まで,近現代については「資料編」の刊行にとどまっている(その代り非常に詳細で,後の引用の通り相模原市側の記述の多くもこれに依っています)ので,以下は相模原市側の『相模原市史 現代通史編』(2011年,以下「市史」)によります(なお,この刊行年にあるように相模原市側でも1960年代後半から70年代初めに編纂された旧版市史は1945(昭和20)年8月15日で終わり,「相模原市」の時代が丸ごと入る戦後の記述は今回の“新版”に送られていました)。

さて,「市史」ではまず,座間町分離の前提状況として次のように記載しています(なお以下,年月日や数を表している漢数字は原則として算用数字に改めます)。

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 「相模原町旧座間町地区分立嘆願書」によると,町制施行の過程において,座間町は最後まで反対であったが,県と軍の指導により,不本意ながら重圧に屈して賛成したという(『座間市史4 近現代資料編2 240』)。合併前の座間町の人口と面積は,大野村に次ぐ規模であった。1940(昭和15)年時点で田の面積は231町歩,二ケタ止まりのほかの七か町村にくらべて広く,生産価額でみても最上位に位置している(『昭和十五年 神奈川県統計書』)。農業を基軸に,旧七か町村(引用注:ママ)のなかでトップクラスの生産力を誇っていた座間町は,合併に消極的であった。
 合併後,交通網の不便さから,座間は上溝に置かれた町役場まで遠く,半日を要する状況であった。また,税金を多く払っているにもかかわらず,地元の老朽化した校舎や道路は放置される。軍都建設の要請のもと,最初から財政不均衡な八つの町村が合わさって生まれた相模原町で,各地区まんべんなく施設の充実を図ることはできなかった。
 こうした要因を背景に,相模原町では敗戦を契機として,旧町村を単位に合併前の状態を求める分離運動が起こった。「軍都」という共有の目標を失うと,合併の意義そのものが疑われ,ほころびを見せ始めたのである。(p.317)
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敗戦直後の1945年9月に分離を求める地区の有志が当時の町長に申し出を行うことで具体的な分離の動きが始まるのですが,この時に動き出したのは旧座間町だけでなく,旧相原・大野両村も加わっていました。旧相原村は現在の緑区東部の橋本・相原地区および中央区の小山・清新・相模原地区,旧大野村は現中央区の矢部・淵野辺地区および南区の古淵・相模大野・上鶴間・東林間地区で,つまり国道16号線とJR横浜線,および小田急線沿いの,要するに現相模原市で人口と産業の集積の最も高い地域です。以後,この座間・相原・大野の3地区が分離運動の主役となります。
この3地区の中で特に動きが早かったのがやはり座間地区で,住民の幅広い支持を集めて分立のための「実行委員」まで選出して町会議員や地元選出の県議・岩本信行(長く県会議長を務め,1946年の衆議院議員選挙で国政に進出,のち吉田茂に抜擢されて第2次吉田内閣の国務大臣・地方財政委員長),地元選出ではないけれども県内の鵠沼に住んでいた衆議院議員(北海道選出)・坂東幸太郎らへの働きかけを積極的に進め,坂東を仲介に帝国議会(国会)への請願も行っています。これに対して相原・大野両地区では住民の意向がまとまらず,動きが鈍かったようです(ちなみに,岩本は旧大野村の上鶴間の出身です)。
こうした動きを背景に,1946年10月4日の相模原町会全員協議会に座間分離問題が上程されましたが,その場で妥協点を見出すことができず結論は先送りになりました。結局,同年11月30日に開かれた町会で分町を求める意見書が緊急動議が提出され,断続的な休憩の後,意見書は6対11で否決されました。
これに対して,座間地区では12月5日に「座間町民大会」を開き分立を求める決議文を全会一致で採択し,相模原町役場の座間出張所長までをも含めた地域の有力者を新たな分立実行委員に選び,さらに運動を強化して,衆議院議員となった岩本を仲介に県や内務省への陳情を進めました。意見書を否決した町議らへの再考要請も行っています。
こうした動きに対して,町議の多くは個人的な理解は示しましたが実際の分離には消極的であったようです。それは当然で,座間が分離した後,相原と大野がそれに続けば「相模原町」として残るのは現在の相模線沿いの地区だけで,これは事実上の「相模原町の瓦解」です。だから,1947年の新憲法施行準備の町議会議員選挙で定数36のうち20議席を分町派の座間・相原・大野地区選出議員で占め,正副議長ポストを押さえても,なかなか事態は進展しませんでした。なお,町議会議員選挙に先立って行われた町長選挙(初の住民による公選)では分町派が擁立した候補が落選しています。

(続く)
[80409] 2012年 3月 17日(土)12:52:17【1】Issie さん
布団は「しく」のか,「ひく」のか
[80406] 般若堂そんぴん さん
東北で「し」と「す」は区別しないか?

これを検討するには,最低3つの問題を区別しなくてはならないように思います。
1つは,実際にどのように発音しているのか,という「音声学」的な視点。
2つめは,それらの音声を全体の体系の中でどのように捉え,単語の区別に利用しているか,という「音韻学」的な視点。
3つめに,それらの音声または音韻を文字体系の中でどのように表記するか,という「正書法」の問題。

実際にどのように発音しているかという点については,巷間よく言われる「東北では「し」と「す」が区別されない」というステレオタイプとは違って,同じ東北内(のみならず新潟県下越や北関東も含めて)でもかなりの幅やバリエーションがあるように思われます。
本当に「し」と「す」の母音をほぼ同じく発音する地方もあれば,「し」が単語の中のどの位置にあるかによって微妙に母音の発音が変わってくる場合もあるかもしれません。一般的に多く見られるのは「し」の母音を“中舌化”して「ウ」に近づけて発音する(ロシア語の ы や,中国語の si(四) や zi (子)の母音が近いかもしれません)というものですが,共通語(標準語)を含めた“東日本方言”では元々「ウ」を唇の丸めを伴わずに中舌化して発音している(トルコ語で言えば u よりも“上に点のない i ”に近い)ので,「し」の母音も中舌化してしまえば“よその方言話者”には区別がつかなくなってしまうのですね。
でも,「し」と「す」の母音を実際に“違って発音”していれば,「音声」としては別の音です。そしてそれを“聞き分け”,それによって単語の区別がなされるのであれば「音韻」としても別の音です。逆に違って聞こえてもあえて区別はせず,状況の有無にかかわらず自由に入れ替わることができるのであれば,「音声」としては別でも「音韻」としては“同じ音のバリアント(変種)”と理解されます。

それらの音を文字でどのように表記するかというのは,さらに別の問題です。そしてこれは社会的な慣習(さらに公式化された制度)の問題ですから,そこには“特別な学習”が必要です。その学習は必ずしも学校教育による必要はないのですが,それでも現代社会では学校教育により,そこでは「標準化された“国語”」の学習が行われるのが普通です。そして,そこで“学習”するのは「標準語」の“標準化された単語”の対する“標準語による表記”です。
ここでは「方言の発音をどのように文字表記するか」ということは学習,あるいはそれ以前に“関心”の対象外なのですね。それでも,たとえばイタリアのように各地域言語(方言)についてある程度標準的な表記体系が普及していたり,旧ソ連におけるチュルク(トルコ)系諸語のように個別の表記体系と文法を固定化して“各共和国”ごとの公用語にしてしまった例もありますが,中央集権的な近代日本の教育政策や文化状況ではそのような動きは小さいようです。

確かに,19世紀生まれの祖母(故人)はカナ表記においても「し」と「す」の区別があいまいでした.

ずっと以前に話題にした記憶があるのですが,私の母方(“チャーザァ村”の)祖母も,同じく19世紀末の生まれですが,カナ表記上で「ゆ」と「よ」の区別が曖昧で両者の混同がよくありました。
林家こん平がよく言っているように越後方言では語頭の「い」と「え」の区別が曖昧なのですが,それとともに新潟県中越地方から長野県北信地方北部(奥信濃)にかけての信濃川/千曲川中流域では「ゆ」と「よ」の区別も曖昧で,年配の方の中には「雪」を「よき」のように発音している例が今でも見られます(長く東京で暮らして某教育系国立大学の教授をされていた方ですが)。
「国語教育」を十分に身に着けていれば当然にカナを“正しく”表記できるはずです。私の祖母を含めて“正しい”書き分けができていないのは,それが不十分であった結果でしょう。何より,学校で教わるのはあくまでも「標準語の表記」であって,自分たちが実際に口にしている言語(方言)の表記ではありませんから。

方言のステレオタイプの1つに,東京の下町では「し」と「ひ」の区別がない,というのがありますね。
さすがに現在ではそのようなステレオタイプな発音をする人は非常に少なくなっているでしょうが,区別の曖昧さは残っているようで,たとえば布団は「しく」ものか,「ひく」ものか,悩む東京人は少なくないようです。車に「しかれる」のか,「ひかれる」のか。
…で,どっちが“正し”かったんでしたっけ?
そして,東京とは逆のパターンですが,岐阜県の「七宗町」(ひちそう/しちそう)の問題も出てくるのでしょうね。

奥羽方言を表記することができるか

もう20年ほど前に最初の発表をされて以来,忘れた頃に間欠的に話題になっていますが,山浦玄嗣 さんというお医者さんが岩手県気仙方言(ケセン語)の文字化に取り組んでおられます。20年前には独自のローマ字表記体系を発表されましたが,最近は「日本語読者」用にカナ表記のケセン語版聖書抜粋を文庫化されいますね。
東北音のカナ表記では,たとえば宮沢賢治(「風の又三郎」など)や井上ひさし(「吉里吉里人」など)が有名ですが,私にはあまり成功しているようには思えません。伊奈かっぺいの津軽方言詩なんかもいいかもしれませんが,東北諸方言の中でも津軽方言は音の変異(独自の発展・進化)が大きいのでしょうかね。
方言(地域言語)の文字化という点で一歩進んでいるのは,やはり琉球語圏の首里・那覇方言だと思われます。
首里方言には,かつて「おもろさうし」に見られるような本土とは違った独自のカナ表記体系ができあがっていました。ただし,それは「おもろ」のような韻文や王府発行の辞令などの一部文書に使用が限定されていたため(公式の正文は漢文であり,私的領域でも本土の和文があるから),琉球処分によって首里王府が廃止されたのと一緒に廃れ,近代語の表記体系として発展するチャンスを失いました。
代わって,口頭語の首里・那覇方言(ウチナーグチ)を表記するために表音的なカナ表記が独自に発展していますね。ただ,繰り返すように“標準化された文字表記体系”はあくまでも「標準語」のものですから,ウチナーグチの統一された表記体系は確立していません。
それ以上に,伝統的な“本来のウチナーグチ”と,現実に那覇の街角で話されている言葉(ウチナーヤマトグチ)との乖離も小さくないようですね。
[80351] 2012年 2月 28日(火)22:18:50Issie さん
Re:市外局番
[80350] N-H さん
なお、実際に都道府県の境界を越えて同じ市外局番で市内通話でかけられる地域は少数ながら存在します。

たびたび話題になりますが,ウチんところもその例ですね。
細かく見ると都県境・市町村境と一致しない部分がたくさんあるのですが,4ケタ局番の時代から神奈川県相模原市の旧市域と旧城山町・津久井町の区域は東京都町田市と同じ(0427),旧相模湖町・藤野町は八王子市と同じ(0426)。現在はどちらも3ケタ(042)になっているけれども,相模原・町田エリア(042-7)と八王子エリア(042-6)相互は相変わらず市外扱いです。
だから同じ“緑区”でも旧津久井町最西端の青根地区は町田市内と,旧藤野町南西端の牧野(まぎの)地区は八王子市内と“市内通話”扱いになるのに,道志川をはさんで同じ区に属する青根地区と牧野地区の間は“市外通話”扱いになるのですね(厳密には,牧野地区のうち道志川沿いの集落は相模原エリアに属するようです)。
一方,さらに県境を越えた山梨県道志村のうち,最東端の月夜野地区は相模原エリアに属し,つまり県境を2つ越えて町田市内と“市内通話”ができます。つまり,「042-7」は東京・神奈川・山梨の3都県にまたがるのですね。
そして,八王子エリアの旧相模湖町・藤野町は当然ですが,相模原エリア自体も「042」という“神奈川県らしくない”局番が表すように(神奈川県内は横浜市(045)・川崎市(044)以外は「046X」というのが標準です)神奈川支店ではなく東京支店の管内に属するようで。

こうした行政界をはさんだ局番エリアの錯綜はご紹介のページを見ればほかにも多くあるわけで,結局は電話線がどうつながっているか…,そう,そろそろ1年前になるあの計画停電で痛感した電線つながりのエリアの錯綜と通じるものがあるのでしょう。
[80310] 2012年 2月 19日(日)17:01:11Issie さん
新八犬伝
ここではずいぶん初期の頃に話題になったことのある人形劇「新八犬伝」が今日のNHKアーカイブスで放送されていました。
今見ても面白いですね。
放送当時は小学生でしたからただ面白いと思って見ていただけですが,この歳になって見ると実にたくさんのことが盛り込まれていてとても凄い番組であったことがわかります。
何より,“とある事情”で当時見ることができなかった最終回を今,見ることができて感慨無量です。
ただ一つ。関東地域では番組のお終いで緊急地震速報が響き,九ちゃんがまさに「これにて一巻の終わり」と言おうとするその瞬間に地震のニュース画面に変わってしまったことですが…。

さて,番組前半で流された「前半総集編」のエピソードは,だいたい記憶していたのですが,最初に放送された「第1回」の内容は全く覚えていませんでした。
改めて見て,ふと気になる表現が…。
この手の物語の通例として,番組冒頭で物語の舞台の説明が行われるわけですが,最初の舞台である 富山(とみさん) について,「安房国長狭郡(ながさのこおり)富山」と言っていました。
明治後期の郡制施行に際して「安房郡」に統合されるまで,安房国には 平,安房,朝夷,長狭 の4郡がありました。
このうち 平(へい)郡 は旧名「平群(へぐり)郡」で鋸南町保田から館山市北西部にかけての浦賀水道沿い,長狭郡 はほぼ現在の鴨川市から南部の江見地区を除いた区域,朝夷(あさい)郡 は,その江見地区から南房総市白浜にかけての太平洋岸,残りの館山市の大部分+αが 安房郡 です。
で,問題の 富山 は,この区画では完全に 平郡(平群郡) に属するはずで,実際に山の“東側”(内陸側)に「平久里(へぐり)」という地名があります。
にもかかわらず番組冒頭で流れた「長狭郡富山」という表現。本来,「長狭郡」は峠を越えた太平洋斜面の加茂川(鴨川)流域の郡名であって,これは正しくないはずなんですけどね。
これは原作の「南総里見八犬伝」にまでさかのぼる表現なのかどうか。少なくとも曲亭馬琴の時代,富山周辺は間違いなく 平郡 なのですが。
もっとも,このお話(原作),実際のところは時代と人名と地名を借りているだけで,史実的にも地理的にもかなりメチャクチャです。
[80307] 2012年 2月 19日(日)00:05:37Issie さん
都の西北ワセダの隣り
[80305] ペーロケ さん
中区・中央区基準って微妙ですね。そのような現象は各地で見受けられます。

今度「区」ができる熊本市の場合はきれいですね。
札幌市の場合も,東区の位置が微妙ですが,まあ納得できる範囲でしょう。
広島市の東区は,お城基準でしょうかねえ。名古屋市の場合もお城基準に見えます。
新潟市の北区の場合は…,
最“東”端の区であることも事実ではあるけれど,やはり最“北”端の区であることは確かなわけで,中央区の東に直に隣接する区を「東区」とした以上,残っているのは「北区」しかなかったんでしょうね。
ほかの区の名前からも想像されるように「豊栄」は何としても避けたかったろうし,新潟市民が新発田の位置を“頭の中で”どちらの方角と捉えているかによりますが,やがて“北”へ伸びる海岸線を思えば,地図上の厳密な緯度の問題ではなくてメンタルな地理感覚の中では「北」と捉えることができるかもしれません。

ちなみに,以前に話題になったように相模原市では合併前の旧市域内の区分が念頭にあって「中央区」「南区」と相成りました。旧市域内での位置関係だけ考えれば,これは至極順当な呼称です。
もう1つの区は「緑区」となったわけですが,いまだにくすぶっているように「北区」にという意見がありました。ところが,この「北区」ならぬ「緑区」は広大な旧津久井郡を丸ごと含むわけで,現在の市の南端はこの緑区。全体としては「西区」がふさわしい位置にあるのですが,一部の意見の通り「北区」であったとしても,中央区中心のメンタル・マップ的にはそれほど変なネーミングではないかもしれません。

結局のところ,私たちはふだん地図を見てそれぞれの地点や区域の位置関係を捉えているわけでないので,頭の中の位置関係は実際の厳密な位置関係とはズレが生じてきて,それがそのまま“地名”として固定化されることがあるということなのかもしれませんね。
[80303] 2012年 2月 18日(土)12:03:26【1】Issie さん
西戸部町の「西」,南太田町の「南」
[80294] N-H さん
さきほどの「はまれぽ」記事の最後に答え(?)が書いてありますが、本当ですかね?

この時代に何か謎があったら,これを持ち出せばたちどころに解けた気になってしまう呪文のようなものですが,どうなんでしょうね。
私は眉唾物だと思いますが。

と言って,私も答えは持ち合わせていないので地図を見て“憶測”してみます。
確かに,お互いの接続部分だけを見ると

中区から見て南区は南にはなく、西区は西にはありません

と見えるわけですが,旧中区エリア全体で見ると「西区」「南区」もまあ妥当かなという気もしてきます。
「南区」の方は,より簡単。
旧中区エリアの西南部分が分区されたわけですが,当時は現在の 港南区(1969年に南区から分区) までがその対象でしたから,そうやって見ると,“西”よりもずっと“南”へ伸びています。既に南の臨海部に 磯子区(現・金沢区を含む) があってこれが邪魔ですが,そこには目をつぶって,まあ「南区」と…。

「西区」の方はねぇ…
市役所や県庁のある The Yokohama 地区,つまり中区の中心部から見ると,“北”にあるのはあくまでも「港」ではないか,と。
あるいは“北”と言えば,港をはさんだ臨海部の 鶴見・神奈川両区 の背後を編入した区域に既に「北区」ならぬ「港北区」というオリジナリティあふれる“創作新地名”を与えている。
そこへ,旧西戸部町エリアに「北区」という呼称を与えるのは何となく妙で,むしろ“港の西”にあるのだから「西区」でいいのではないか…。

…そんな感じですかねえ。
もちろん,これは今ある「西区」「南区」の地名からさかのぼって勝手な推測をしているだけで,実際の選考過程とは順序が逆転しているわけですけど。
ところで「港北区」といえば,“ライバルの神戸市”にも「湊西区」「湊東区」という区がありました。こちらは,湊=神戸港 が基準なのではなくて,“忠臣・楠木正成”の物語で当時の国民には一般常識であった(でも,これが強調されるようになったのは「昭和」の狂信的な時期でしょうかね)「湊川」によるものでしょうね。残念なことに,地名としては消滅してしまいました。

ちなみに,タイトルの 西戸部町 と 南太田町 は,それぞれ 西区 と 南区 の主要部分の町名。分区当時以来,多くの新町が分立して今はだいぶ面積を縮小してしまいましたが。
どちらも元の戸部村(町)や太田村が,早く市街地化して 横浜町→横浜区 を経て“オリジナル・横浜市”となった区域内に設けられたり,取り込まれたりした 太田町 や 戸部町 に対して,当時は“郊外”で別に「戸太村→町」を作った後,1901年に横浜市に編入された際に既存の両町と区別するために「西」「南」の接頭辞をつけたものですが,これが「西区」「南区」に符合していますね。
もちろん,それが区名の由来ではないでしょうが,少し面白く感じました。
[80280] 2012年 2月 12日(日)00:20:44Issie さん
絵にも描けない美しさ
[80279] k-ace さん
神奈川県横浜市神奈川区に気になる地名が。横浜市神奈川区浦島町/浦島丘/新浦島町/亀住町。浦島小学校、浦島保育園、浦島丘中学校もある。

神奈川県の公立高校は来週が後期入試。
そんなわけで,お仕事の上で「浦島丘中学校」という文字を再三ならずPCに打ち込む日々です。
亀住町の「浦島公園」や浦島丘の「浦島小学校」は,今は亡き「空から日本を見てみよう」ネタだったかと思いますが,何にしろ辺りは京浜工業地帯のまん真ん中。余所者としてこの話を初めて聞いたときは信じられない思いでいっぱいでした。

ただ、浦島町/浦島丘/新浦島町/亀住町に浦島伝説の寺等が全くないとは…。

今は“宿場”としての面影が全くかけらほども残っていない神奈川宿(程ヶ谷=保土ヶ谷はもちろん,川崎の方がまだ少しは残っています)。それでも,町名としては宿場本体としての「神奈川」「本町」「新町」の方が優先されたのではないでしょうかね。「浦島町」,「亀住町」,「浦島丘」はいずれも“神奈川町”としては東の外れ,隣りの 子安村 との境ですね。
浦島丘中学校のある 白幡東町 は完全に隣村(白幡村)の領域です。
埋立地の「新浦島町」はもちろん,他の浦島地名ともども,現物のない“周辺地域”が,むしろ現物がないからこそ隣接区域の現物にちなんだ名前を“わざわざ選ぶ”という在り勝ちなパターンのようにも思います。
まあ,個々の“浦島関連町”が…,ということではなくて,地域全体で浦島伝説にちなんでいるということなのでしょう。
要するに,「品川」ではなく「高輪」にある「品川駅」,「目黒区」ではなく「品川区」にある「目黒駅」というわけで…。
[80251] 2012年 2月 4日(土)23:38:42Issie さん
Re:加積郷
[80249] 白桃 さん
本落書き帳の「自治体越え地名」に収録されていないところを見ると、「○○加積」という名前が大字や字として残っていないのでしょうか?

とりあえず,そういう大字はないようですね。
むしろ一連の「加積」地名は大字よりもランク1つ広い範囲の地名であるようです。

こちらの「区市町村変遷情報」の 当該ページ を参照すると,たくさんの「加積村」が1889年の町村制施行に際して行われた「明治の大合併」で一斉に誕生したことがわかります。恐らくは“近世村”をそのまま引き継いだ合併前の旧村に「加積」を称するものはありません。したがって,各「○加積村」の大字で「加積」を称するものはなく,そのまま現在まで現れることもなく,収録対象となっていないということなのでしょう。

「加積郷」という地名は中世,あるいはそのもう少し前からのものかと思われるのですが,近世に広域的地名として「加積郷」が残ったとしても,より小さい範囲で“百姓”の自治単位(合わせて年貢負担の請負単位)としての「村」を編成するに当たっては,それぞれ個別の集落名が採られたのでしょう。それがそのまま「郡区町村編制法」下の“村”となり,「町村制村」としての 各加積村 の大字となり,現在に至る。
で,明治の大合併でその「町村制村」を編成するに当たって新しい村の名前を“創作”しなければならなくなったとき,かつての「加積郷」の記憶がよみがえり,それぞれで「○加積村」という名前を分け合ったということではないか,と。

「町村制村」の名前は,さらなる合併でその村自体が消滅してしまえば一緒に消えてしまいます。所詮,新しく“デッチ上げられた”地名に過ぎない,ということなのかもしれません。
その記憶をとどめるのは,その村ごとに設置された郵便局や小学校,そして公民館の名前。運良く鉄道が通って駅を作ってくれれば,その駅名に保存してもらえるかもしれない。「浜加積駅」や「早月加積駅」のように。
そういうわけで,今となっては見つけにくい地名になってしまっているのですね。
[80247] 2012年 2月 4日(土)10:05:22【1】Issie さん
イチバン南
[80242] 白桃 さん
一方、地球最南の都市はアルゼンチンにあるようですが、ハンメルフェストに比べそんなに有名ではありませんね。また、いずれにしろ最北よりは低緯度に位置しているようなので、「あったかい」という回答もあながち馬鹿には出来ないかもしれません。でも、あのあたりに暖流が流れていたっけ?

「ウシュアイア」という町だそうですね。
南アメリカ大陸の南端からマゼラン海峡をはさんでさらに南にあるフエゴ島の東側。ちなみにこの島は西半分がチリ領で,マゼラン海峡の中にある プンタアレナス という町の方が大きいのだけど,少し北にあるのでアルゼンチンの勝ち。
だいたい南緯55度くらいというから,日本の辺りで言えば北樺太かカムチャツカ辺りになりますか。やっぱり寒そうです。ちなみにヨーロッパだと,モスクワやコペンハーゲン,北アイルランドのロンドンデリーがだいたい同じくらいの緯度です。スカンジナビア半島の南端が北緯55度よりもやや北ですね。
南アメリカは思っているよりも南に伸びていて,すぐ先には南極半島があります。

実際の気候統計を見ると,一番“暖かい”2月の平均気温が9.4度。東京ではそろそろ「寒さ」を感じなくなる3月下旬から4月初めの気温に相当しますから,私たちの感覚で言うそれから後の春・夏・秋がないということに。
日本ではなぜか人気の高いケッペンの気候区分では“最暖月”の平均気温が10度に達しないのでE気候(=寒帯)に属してしまいます。
ただし,一番“寒い”6月と7月の平均気温が0.0度(←もちろん,小数点以下2位以降まで出せば差が出るはずで,どちらかが“最寒月”です)と,意外に冬は暖かい。札幌だって一番寒い1月の平均気温は-3度を割ります(だから札幌はC気候=温帯ではなくD気候=亜寒帯)。
つまり,2月の平均気温があと0.6度高かったら,区分上 ウシュアイア は「亜寒帯」を飛び越えて「温帯」になることができました。実際に,フエゴ島の一部は温帯の「西岸海洋性気候」に属します。だから,基本はノルウェーの沿岸部と同じような気候なのでしょう。
ただし,近くを流れているのは暖流ではなく寒流なので,教科書に載っている北西ヨーロッパの西岸海洋性気候とは違って,気温と降水量で判定したらそう出た,ということですね。

いずれにせよ,「南」という言葉で連想する“暖かさ”はないにしても(日本の方が暖かい),緯度の割には“暖かい”ところではあるようです。
[80228] 2012年 1月 30日(月)20:09:02Issie さん
浦和並みの「鳥島」
[80227] k-ace さん
日本の排他的経済水域(EEZ)基点で名称の無かった39離島の個々の名称が内定したとのこと。

内定した新島名を一瞥すると、「かもめ島」とか「トド島」とか…。何か埋立地に造成された団地にありがちな地名のような印象を受けたのですが,考えてみれば「鳥島」なんてとても安易な名前を,しかも「南‐」「沖ノ‐」「中ノ‐」と次々に使いまわしていたり,かつての(南)樺太にも「海馬島」(ロシア名:モネロン島)とか「海豹島」(同:チュレニー島)なんて島があったりして,結局のところ,名づけのセンスというものがそう変わるわけではないのでしょう。
一方で,たぶん昔から“関係者”の間で使われてきたであろう“見たこともない漢字”(←PC画面上に表示できるのか?)を使うものもあったりして,やっぱり面白いものです。
何にしろ,自国の領土と主張しても国際社会の中で他の国が認めてくれないと何の意味もありませんから,やることはやって,きちんとアピールしないとね。
[80216] 2012年 1月 28日(土)00:10:45【2】Issie さん
せこう
[80214] N-H さん
たとえば、「架」と一文字書いてなんと読むか?

これへの解答ではないけれど,昨日の「ブラタモリ」(←もう,おとついになっちゃいました)。
鉄道総研の専門家の前でタモリは「架線」を何て読んでいたかなぁ。

ただし、こういうのは誤読と言うものとはまた違って、業界用語として特殊な読み方が半ば認知されているといっていいのかもしれません。

ずいぶん前に話題になった「首長」を「くびちょう」と読むのもこの例ですね。今日(これも昨日)の国会でも連発されたようです。彼らは「法律を施行する」の「施行」も「せこう」と読みますね。「施工」でもあるまいに。こういったお役所用語も,いわゆる業界用語。

[80213] 実那川蒼 さん
実はこれはつくりの「番」に引きずられた誤読が定着してしまったものです。

地理ネタから離れるけれど,「消耗」を「しょうもう」と読むのも有名な“誤読”ですね。
「耗」の正しい音は「コウ」。この字は本来「耕」と「毛」の組み合わせによる会意文字だそうで,「毛」の方が意味を表し,「耕」の「井」を省略した「耒」の部分が音符なので「コウ」と読むのだとか。ややこしいことに,音符となった「耕」は「耒」と「井」の会意文字なのだけど,こちらでは「井」の方が「ケイ」と読んでその延長で「コウ」という音を表しているそうで,意味を表す「耒」の部分自体の音は「ライ」で「すき(犂)」という意味。
それはともかく,だから「消耗」は“正しく”は「しょうこう」と読まなければならない。実際に,「心神耗弱」は「しんしん“コウ”じゃく」と読みます。
ところが,「毛」の方が音を表し「モウ」と読むと誤解されて「しょうもう」となったのですね。「消耗」を「しょうこう」と読む人は普通いません。でも,そのような“誤読”が定着したのがそう古い話ではなさそうなのは,「耗弱」という読みを見ればわかりそう。
高校の政治経済の教科書に「固定資産減耗」という用語が出てきます。GNP(国民総生産)からこれ(減価償却とも)を引いたものがNNP(国民純生産)。さらに間接税を引いて補助金を加えたものがNI(国民所得)…。この「減耗」に教科書では「げんもう」という振り仮名が振ってあるのですが,これも本来の読み方は「げんこう」。漢字辞典などには両方の読み方が書いてあります。今まさに,「げんこう→げんもう」という“誤読の定着”が進行中なのでしょう。

なぜ播磨国に関する単語だけ誤読が定着してしまったのかは謎です。

まずは最初に播磨国を中国風に呼んだ「播州」が現れて,そこから「東播」以下の呼称が派生したのだろうと思うのですが,「播州」を“正しく”「はしゅう」と読むのでは,何か座りが悪いと感じられたのでしょうかねえ。
日本語一般のクセとしては「房州」や「信州」のように“2音+州”というのが座りがいいのですが,「武州」「紀州」「土州」のように“1音+州”だって例外とは言えないくらい普通にあります。そうすると「播」という字,あるいは「播磨」という読みにわざわざ「ばん」と読ませる秘密があるのかもしれません。

古い時代の中国語,あるいは漢字の音を“復元”(もちろん推定ですが)したことで知られる藤堂明保博士が編纂に携わった学研の漢字辞典によると,「播」という字の上古(秦・漢代)音は puar ,それが隋・唐代の中古音では pua となり,これが音韻体系の極めて貧弱な日本語に入って「ハ」(←実際の発音は“唇をかまないファ”)と読むようになりました。
ちょうどその時代である奈良時代,従来は「針間」などと表記してきた ハリマ という地名を“おめでたい漢字2文字”で表記するに当たって,「ハ」という音の「播」という漢字に“聞こえないはず”の r の音を無理やり聞いて「ハリ」と読み,「磨」と合わせて「播磨」という表記が律令国家の公式表記とされました。「播磨」のどこが“おめでたい”のか,全然わかりませんが。
“聞こえない音を無理やり聞く”というのはこの時に多用された手法で,たとえば「相摸」(2文字目は本来“手へん”)を「さがみ」と読むのも,「相」sang(サウ)の語尾に無理やり a という母音を聞いて「サガ」と読んだからです。山城国(京都府)の「相楽郡」は,さらに「楽」lak(ラク)の語尾にも a を聞いて,だから「さがらか郡」(現代の読みは「そうらく郡」)。

奈良時代,ハリマに漢字を当てる際に「播:ハ」という字に無理やり r を,ついでに i という母音まで聞いて「ハリ」としたことが後の世に「ばん」と読ませることにつながったと結論づける根拠は何もないので,そのような主張をするつもりもないのですが,やっぱり「はしゅう」では何となく物足りなくて,それで“つくり”の「番」に引きずられて「ばんしゅう」となったのかも。
で,こちらは「播州赤穂」のように,少なくとも「消耗:しょうもう」よりはずっと前から行われていたのでしょうね。

※【お詫び】
上の文章の中で「会意文字」とあるのは,いずれも「形声文字」の間違いです。
久しぶりに使って間違えてしまいました。お恥ずかしい限り。
以上,謹んで訂正させていただきます。
[80202] 2012年 1月 23日(月)20:47:12Issie さん
勝安房守義邦 改メ 勝安芳 海舟ト号ス
[80194] 星野彼方 さん
下総だから房総でいいんだろうけど、ん~、房総って私的には安房+上総ってイメージ。

[80197] N-H さん
それはおそらく「房総半島」から来るのでしょうね。
ちゃきちゃき房総っ子の私も、どうも「千葉からあっちは房総じゃない」的な感覚を持ってました。

この感覚は私も同じ。
九十九里の少なくとも北半分や成田空港の辺りは「房総」かなあ…。
結局は“くびれ”よりも南が「房総」というのが,しっくり来るような気がします。だから,まあ,上総+安房。それで,下総は「北総」。
もっとも,「房総」という言葉は旧国郡よりも現在の県域を前提とした呼称なのかもしれませんが。
いずれにせよ,“茨城県領下総”の利根川以北の区域が「房総」であるはずがなく,こちらは 常陸 と合わせた「常総」。まして,“武蔵国”の北葛飾郡に吸収されてしまった埼玉県の旧中葛飾郡域(江戸川以西の下総)は問題外。
ともかく,“くびれ”より北の下総国,旧千葉郡の習志野辺りだと「房総」という自覚はなかったなあ。

[80191] 伊豆之国 さん
習志野 千葉県船橋市■ 新京成電鉄 津田沼 ぎりぎりで市内だか、栄えているのは船橋市側。京成津田沼のほうが適切?

京成津田沼は市役所が近いと言っても,せっかく30年前に作った再開発ビルに入っていたホテルにも出て行かれて地元商店街も寂れる一方ですからねえ。それこそ,近隣の津田沼地区の住民の一部の外に,たぶんわざわざ京成津田沼周辺に買い物に行く人はいないでしょう。
賑やかな総武線津田沼駅北口側のうち,新京成の新津田沼駅側の半分は一応習志野市だし,南口側で長らく農地が広がっていた“習志野市領”の区画の開発も始まったようなので,やっぱり津田沼駅の方が適切であろうかと思います。
[80190] 2012年 1月 22日(日)20:55:53【2】Issie さん
ああ播磨灘
…ってお相撲さんの漫画がありましたね。

[80187] 白桃 さん
明石市は旧国名でいうと播磨なんですが、どうも「摂津」と言う感じが強くて

ここの所は [80188] k-ace さんのご説明の通りで,つまり須磨の浦・一ノ谷までが摂津の国で,親不知のような崖下の海岸を抜けた垂水区の塩屋から先が「播磨」。元々あまり大きくない明石郡の大部分が神戸市に取り込まれて海岸部だけが明石市として残っているから,そのような印象が強くなるのでしょうね。
この辺りは奇しくも,“武蔵国”に属する横浜市のうち,権太坂を越えた先の西南部(瀬谷・泉・戸塚・栄区および港南区の西半)が“相模国”で,しかもその“相模国鎌倉郡”の過半が横浜市に吸収されてしまったこととパラレルな関係ですね。ただし,神奈川県の場合は大部分が相模国で,源氏の鎌倉や後北条氏の小田原があるその「相模」のイメージの方が強くて,むしろ横浜・川崎が「武蔵」であるということの方が忘れられ勝ちのような気がしますが。また,鎌倉市が「京浜」である(←県の行政では,多くの分野で県の管轄外のこの2市の範囲をしばしば「浜川(はまかわ)」と表現します)と捉える人もあまりいないでしょう。
ちなみに,県の行政では北半分を失った 旧鎌倉郡(鎌倉市) は,その一部を吸収した藤沢市を中心とする 旧高座郡南部(藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町) とともに「湘南」とすることが多いです。

須磨・一ノ谷と言えば源平合戦。
さっきまでやっていた今年の大河ドラマ。やっぱり今年も去年に負けず劣らず思いっきりファンタジーですねえ。
でも,面白いからいいや。
[80165] 2012年 1月 20日(金)00:39:40Issie さん
Re:センター試験
何かとトラブルの多いセンター試験でも,今回最大のトラブル源となった「地歴・公民科」。何しろあまりに複雑な実施方法,1回聞いただけではわかりません。
今のセンター試験は色々な要求に対応しようと増設を繰り返した温泉旅館のようで,複雑怪奇。一度きちんと整理した方がいいと思うのですけどね。
で,「地理B」の問題。一応,お仕事の関係もあるので解いてみたのですが,個々の問題は極めてオーソドックスで,ごく基本的。それぞれの分野について一通りの知識と,それを応用する力があれば行けるかな。ただし出題範囲が余りに膨大で(要するに,これが地理Bで扱う範囲の広大さということです),たとえば高校3年生になってからの1年足らずで全部をカバーしようとするのは難しいかもしれませんね。
私立の個別入試や国公立の2次試験はともかく,センター試験は学習指導要領のしばりが強く,要するにこれが文科省が高校に求めている「地理B」の内容です。もはや,をぢさんたちが30年以上前に教わった“国別の産物地理”ではないのですね。「世界地誌」という別名がついていた30年前の「地理B」とは全く別の科目です。さらに同じ現行の学習指導要領の中でも「地理B」と「地理A」は,かなり違う科目です。センター試験では一部に共通問題があって,あまり違いがわかりませんけどね。

[80160] k-ace さん
地理B第6問

この大問の問3,大井川上流の山村集落と牧之原台地の農業の特徴を問う問題。写真と説明文を読めばすぐに正解できそうな問題ですが,山村集落の方の(と思われる)説明文を読んで「おやっ?」と思いました。

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近世には焼畑と組み合わせた労働集約的な茶栽培が営まれ……
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別に次のような点に突っ込まなくても正解できてしまうので受験生たちはスルーしてしまうでしょうが,「焼畑」と「労働集約的」という言葉の組み合わせには少し違和感を感じたのでした。
普通,地理の教科書で出てくる「焼畑」は,主に熱帯雨林気候の地域で伝統的に行われてきた「粗放的」(で,いくぶん原始的)な農業として登場するからです。それ以前に今の受験生には,温帯の先進国である日本と「焼畑」とが結びつかないかも知れない。実際は,ほんの数十年前まで東北以南の山村の多くで焼畑をやっていたのですが。
「労働集約的」というのは焼畑よりも「茶栽培」の方にかかるのだろうと思うのですが,焼畑を維持するには雑草取りなどに結構手間がかかり,そういう意味では「労働集約的」かもしれない。

…この問題を見てそんなことを考えました。
というのは,たまたまその直前に 佐々木高明 という人の『稲作以前』という本を読んでいたから。初版が1971年という,その意味では「古典」と言えそうな本ですが,それを洋泉社が一部改訂の上,昨年末に新書(“歴史新書y”)に復刻しました。この人は元々,人文系の地理を専門としていて,40年以上前の日本の山村をフィールドとして研究するうちに,弥生時代の稲作受容以前,縄文時代末期に主に西南日本で焼畑による雑穀(とイモ)栽培を中心とする農耕が稲作に先行して行われていたのではないか,ということを文化人類学(←広い意味で地理学の一部,あるいは隣接学問ですね)の立場と方法で検証したものです。
この学説には発表当初から,主に文化人類学とは違った視点と方法でアプローチをする考古学者を中心に強い批判があり,今でもそのような意見はあるようです。私にはこの学説やそれに対する批判の当否は判断できないのですが,とても面白く読みました。
いや,この本の本題とは別に,ときどき出てくるいくつかのキーワード(「焼畑」という意味の「コバ」(九州)・「サシ」(関東)とか,収穫作業に関連する「穂刈」など)から現実に存在する諸々の地名が思い浮かんできて,そういう意味でも面白かったのでした。

ま,センター試験からは離れちゃいましたが,これが今年のセンター試験問題に関する感想です。
[80113] 2012年 1月 14日(土)22:56:03Issie さん
栗きんとん
[80106] 白桃 さん
[80110] にまん さん

京成電車の沿線に看板が林立していたりして千葉県内では有名な成田山参道の和菓子屋,米屋のこれまた有名な「栗むし羊羹」には栗の実がゴロゴロ入っています。

ところで,「栗きんとん」という食べ物がありますね。みなさんは,どのようなものを連想しますか?
我が家ではおせち料理なんかに入っているのですが(家で作らずにお店で買ってくるのですが), それは栗の甘露煮とサツマイモの煮たものを水飴で練ったものを合わせたもので,実は“芋きんとん”に栗の実が入ったもの。高級なものになると,この芋きんとんが栗餡になるんでしょうかね。
…なんて感覚でいたら,栗と砂糖だけで作った餡を茶巾しぼりにした「栗きんとん」があるのですね。栗は完全に粒というか粉状の餡になっていて,甘露煮のような丸のままの形を失っている。「栗100%」でおいしそうです。
そう言えば,栗の産地として有名な信州の小布施にも似たような,というよりほぼ同じお菓子がありました。
残念ながらまだ食べる機会に接していないのですが,一度食べてみたいものです。
[80108] 2012年 1月 14日(土)20:55:29Issie さん
メロンパン
[80106] 白桃 さん
四国で食べていた「栗まんじゅう」は外観が栗の形をしているだけのものでした。

メロンの成分が全く入っていない「メロンパン」みたいなものでしょうか。
一説には網目の入った様子がメロンに似ているからだそうですが,最近のものは本当にメロン果汁が入っているようですね。
ところで,栗饅頭については私は「オバさん」に全く同意見です。
[80027] 2012年 1月 9日(月)10:57:05【1】Issie さん
廃村
[80021] グリグリ さん
過去にもこのような災害などによる合併の事例があったのではないかと考えますが、どうでしょうね。

1906(大正5)年7月1日に「強制廃村」されて同じ郡の 藤岡町 に合併された 栃木県下都賀郡谷中村 が今回想定される例に最も近いかもしれません。
原因が自然災害でなく,国策に近い企業による人的災害であり,さらに廃村そのものも国の政策によるものであるという点でも。
[80026] 2012年 1月 9日(月)10:44:07Issie さん
光る東芝,東京芝浦電気
[79961] hmtさん
東京都下水道局芝浦水再生センターの隣接地(港区港南二丁目)で、港区芝浦四丁目にもかかるのかもしれません。駅名としては 著名な地名「芝浦」[42889] が適当なのではないでしょうか。

[80022] グリグリ さん
でも、やっぱり私も芝浦がいいなぁ。元々芝浦は港南や海岸も含んだ広域地名だった訳ですから。

[80024] 白桃 さん
泉岳寺

それはたぶん,操車場をつぶして造成される再開発区域の名前によるのではないかと思います。ズバリ,「さいたま新都心」みたいにね。
だから,ここは開発主体(JRか?東京都か?それとも大手ゼネコンか?)があまり変な名前をつけることのないよう,お祈りしましょう(←過去の例から,本当に“お祈り”したい気分)。

ところで,「芝浦」。
昨年末に亡くなった談志師匠が得意としていた演目に「芝浜」というのがありますね。
舞台は「芝の浜辺」だから,「芝浜」。ちょうど,京浜間鉄道が“海上”を走っていた海岸線。
「芝浦」とは本来,その前に広がる海の呼称だったんでしょうね。
それが明治末に始まった埋め立てて陸地になり,「芝浦」も陸地の地名になったわけで,その意味では今,町名として存在する「芝浦」「西芝浦」に限る必要はない。
そう言えば,「品川駅」だって本来の「品川」ではなく,「芝」のはずれの「高輪」にあるというのは,“古典的”な話題です。

だから,やっぱり変な名前が出て来ないようお祈りを。

※ところで今,「麻布」「赤坂」「新橋」「高輪」「芝浦」なんかに対して「芝」という地名の影がとても薄い気がします。
それはそうと,今朝の朝日新聞の1面左上に「千葉県人口減」という見出しが。
昨年1年間で千葉県の人口が1920年以来初めて減少したのだとか。
東部や南部だけでなく,東京に最も近い松戸・市川・浦安の3市が減っているのですね(まあ,市川は高齢化していそうですが)。ついでに都県境をはさんだ葛飾区と江戸川区も。
これについては,追って“その筋”から詳細な報告がなされることでしょう,たぶん。
[79942] 2012年 1月 4日(水)21:58:41Issie さん
山手線に新駅
…という ニュース が流れています。本質的には関東ローカルですが,全国ニュースなんでしょうかね。
山手線の中で最も駅間距離の長い 品川-田町間 というわけで,厳密には「山手線」(品川-新宿-田端)ではなく「東海道本線」(東京-神戸)の駅なのですが,“普通の人”の感覚ではグルリと一周する“山手線の駅”でいいのでしょう。読売新聞の記事では「並走する京浜東北線も停車する」なんて書かれています。

これは,新幹線用地への流用で分断された「東北本線」の東京-上野連絡汽車線を復活させて,東海道の湘南電車と東北(宇都宮)・高崎線の中距離電車をスルー化する事業の一環で,田町-品川間に広がる車両基地が不要になるのでここを再開発するのに関連した計画なのだとか。
記事に添付された写真によると,品川-田町間の線路全体を海側(新幹線側)に移転して再開発用地を生み出すものであるようです。実はこの区間は1872(明治5)年の最初の鉄道開業に際して陸上の用地を確保できなかったために“海の上に土手を作って”その上を通した区間です。今ではその痕跡はほとんど消えているのですが,このルート自体が歴史的な遺跡。
だから,このルートが変わってしまうのは鉄道史上の事件かもしれません。

※ちなみにもう1つの“海上区間”である 神奈川-高島町間 は,関東大震災後の1928(昭和3)年に横浜駅が“3代目”として2代目の高島町付近から現在位置に移転した際に,やや西に移設されました。現在の京浜東北・根岸線と箱根駅伝のルートにもなっている国道1号線にはさまれた 万里橋 を通る道路がかつての“海上鉄路”です。

もう1つ,鉄道史上のできごとになると思われるのは,これで上野駅の地位が決定的に下がってしまうであろうこと。
すでに昼間の長距離列車のほとんどが新幹線に移転してしまった今,8~9割方中距離電車のターミナルとなっている上野駅は,その中距離電車が東京・湘南方面へスルーしてしまうようになればその役割も失うことになります。恐らく,その頃には「あけぼの」の寿命も尽きているでしょうから(北海道新幹線の開業で並行在来線が3セク化されれば,「カシオペア」はともかく,既にJRが全く投資を放棄している「北斗星」も微妙),残るは新幹線網から取り残された常磐線の特急「ひたち」だけ。もはや,地平ホームはほとんど必要ないですね。
上野駅も両国駅の運命をたどるのかもしれません。
まさか,完全に消滅した飯田町駅や万世橋駅までは行かないとは思いますが。

とは言え,現行の山手・京浜東北線のルート上に駅を新設するのならともかく,記事に添付の写真の通りにルート変更を伴うのであれば,品川駅の抜本的な改造が必要であり,早ければ来年着工とは言え,そうすぐにできることではないようにも思います。
「山手線31番目の駅」ができるとき,周囲の景観だけでなく,東京近郊の鉄道ネットワークはどのようになっているのでしょうか。

※余談:
先日,すごく久しぶりに八王子駅へ行ったら,駅の南側にあった八王子機関区がなくなって更地になっていたのにとても驚きました。貨物輸送体系の変更や新型機関車の登場で既に八王子駅の役割は大幅に低下していて,その結果だということらしいのですが,今まで当たり前に見慣れていた風景が突然なくなってしまうのはさびしいものです。
[79786] 2011年 12月 29日(木)20:26:24【1】Issie さん
北国の春
[79785] グリグリ さん
おっと、ひねってきましたね。正解です。

なるほど。ルールを理解しました。
そこで,別解。

解答1

御夫君はこの御一族だそうです。
ちなみに現在の長野電鉄の創業者もこの一族。同電鉄が開発した(後から西武に乗っ取られた)「志賀高原」の名前も一説には一族の本拠地である 北佐久郡志賀村(現佐久市) に由来するのだとか(別説もありますが)。
さらに蛇足ながら,北佐久郡ではこの一族が名族であるのに対して,南佐久郡では「井出姓」が有名です。
関連項目:三木内閣の官房長官,北国の春,北風小僧の寒太郎。

※蛇足の追加。
それにしても,牧場のソフトクリームは美味しいですね。
最近は,秋葉原デパート(旧称)1階のマザー牧場の出店に必ず立ち寄っています。
[79779] 2011年 12月 29日(木)11:20:19Issie さん
お寺が答えじゃないよ
[79778] グリグリ さん
ここはどこ?

たとえば,こういうことですか?

問題2(湖名を答えてください)

解答2
[79768] 2011年 12月 24日(土)21:10:30Issie さん
メナム川
[79765] [79766] N-H さん
同感なのですが、京急の特急、金沢文庫より北はそれなりに俊足ですし通過駅も多いですよ。
それに昨今快特のほうが停車駅がどんどん増えてきて、特急との差異が少なくなるというあまりうれしくない状況です。

私は時折帰宅時に京急を利用するのですが,その時間帯には(エアポート)急行の運転がなく,利用駅の京急鶴見,仲木戸の双方に特急も快特も停まらないので全然嬉しくありません。生麦と神奈川新町で2度も追い越し待ちをさせられるからです。

第一「ガッ」をどうアルファベティカルに記載するのだろうか。

一応,ローマ字表記には「訓令」の想定外ですが語末の促音をアポストロフィで表記する慣例があるようです。音声学上の習慣でグロッタルな(喉に詰めるような)音をしばしばアポストロフィで(本当は逆向きのアポストロフィ)で表記することによるのでしょうか。したがって,この場合は Mt. Ga'。
とは言っても,こんなものを普通の人が期待通りに読んでもらえるはずもないから(「小さい“っ”」という音の捉え方自体,日本語独自のものですから),ここはやはり“っ”を大きくして Mt. Gatsu とするのが妥当な落としどころではないかと思います。Gas-san と発音するのは,-san という語尾に接続する際の音韻変化と理解しちゃえばいいですから。
でも結局のところ,日本語であっても「月(がつ)」だけ取り出してもそれでは何の意味も持たない。「月山(がっさん)」という形にして初めて山の名前としての意味を持つわけで,「月」と「山」を切り分けることはできない。つまり,「月山」は不分離の名前であって,ローマ字でも Gassan としなければ無意味。だから,“山”であることをあえて明記しようとすれば,冗語的表現ではあるけれども Mt.Gassan とするべきだろうと,私は考えます。
つまりは,「メナム川」(もっとも,最近は「チャオプラヤ川」と呼ぶのが一般的です),「モンブラン山」方式。大事なことは,それぞれの言語においてそれが山や川の名前であることを知らせることにあるのですから。「そもそも,その言語ではね…」というウンチク話は一般の人には無関係。

だから,これも以前に表明していることですが,たとえば「荒川」は「荒(あら)」だけ取り出しても“独立した単語”として意味をなさないのであるから Ara River であるよりは,冗語的な Arakawa River の方が適当である,というのが私の意見です。
ただ,その線引きは結構難しいのですが(たとえば,「江の川/可愛川」はどうしましょうか。「江の川」は現在は“ごう”の川と読みますが,元は“え”の川だったと思われます。「可愛(えの)川」はその異表記でしょうね)。
[79763] 2011年 12月 24日(土)12:18:01Issie さん
赤い急行 緑の急行
[79761] グリグリ さん
ところで、新聞記事には上智大学の英国出身の教授の言葉が引用されています。
>一番私たちにも分りやすいのは『ku』です。制度が違うのに英語に当てはめようとすることに無理があると思います。

確かに東京で暮らしていて,Metropolitan Tokyo の中に ku という区画があることを知っている人には無理して訳し分ける必要はないかもしれませんね。結局,ward であるか city であるかというのは,実は外国人向けではなく自治体側の“国内に対する”政治的なアピールですから。
けれども,たとえば私たちが外国の地方区分について,いきなりカタカナで「カウンティー」とか「デパルトマン」とか「オブラスチ」と言われてもそれがどれくらいの大きさの単位か,全く見当がつきません。同じように,外国人がいきなり ku なんて言葉に出会っても,それがどんな区画であるかわからないだろうから,やはり何らかの訳語は必要でしょう。
とは言っても,英語に訳そうとしても,たとえばイギリスとアメリカで,さらに同じアメリカでも州によって地方制度が違うわけで,1対1に対応するような訳語を見つけようと言うのはナンセンス。
そもそも同じ漢字由来の区画を用いている日・中・韓(朝)・越であっても,同じ語(たとえば県)の重み,あるいは大小がかなり違うのですから。

これはだいぶ以前に紹介した話かもしれませんが,横須賀の米軍関係者の間では地元を走る京浜急行の「特急」と「快特」をそれぞれ Red Experss, Green Express と呼んで区別しているという話を聞いたことがあります。
国鉄(JR)にならって「特急」を Limited Express と訳すとして,次に「快特」をどう訳すか困惑してしまうでしょう。
むしろ,そのような無意味な訳し分けをせずに,一律 Express(急行)として,駅の時刻表や発車案内で用いられているカラーで呼び分ける方が遥かに合理的です。
もっとも,それは以前の話で,今の京急のダイヤでは日中は「快特= Green Express」しか走っていませんから,呼び分けの必要もないのですが。

※蛇足
橋下前知事・新市長の「大阪都」構想がらみで,なぜか某経済系全国紙から府県の変遷に関して取材を受けてしまいました。こんなド素人でいいんでしょうかねえ…,と言いながら質問に答えましたが。大阪支社の方なので,きっと大阪ローカル面にでも載るのでしょう。東京版には載らないだろうし,そもそも我が家では購読していない新聞だから,まあ身近な範囲にバレることはないでしょう。
[79721] 2011年 12月 10日(土)13:05:52【1】Issie さん
万世すき焼きおいしいよ、みんなそろっていらっしゃい,万世~
[79717] 伊豆之国 さん
♯やはり同様に廃駅となった国鉄の萬世橋駅、こちらも森田氏の番組で以前にやっていたはずですが、最近中央線に乗って見ると、ホームの跡は残っていたものの、面影を残していた交通博物館の建物は既に取り壊されて跡形もなくなっていました‥。

交通博物館閉館前の特別公開で省線万世橋駅を見てきました。ホームへの階段の途中まで上がれるのですね。ホーム上の階段出口に蓋をしている上屋とホームの隙間から中央線電車が見えました。
関東大震災で焼失した後に簡素化されて再建された駅舎も敷地を鉄道博物館に明け渡した後,戦争中に廃止されるまで高架下の部分で営業をしていたそうですが,こちらは高架橋の構造物そのものと一体ですから交通博物館の建物が撤去されてもきれいに残っているようです。

それにしても,ある部分のコンセプトがカブるせいで,どうも今は亡き12チャンネルの“あの番組”と内容や映像が頭の中で錯綜しています。
上野の地下鉄車庫の踏切から本線へのトンネルに入るあの場面,こちらの番組では「初めて」と言っていたけど見た記憶がある。タモリよりも前に「くもじい」が乗ったんじゃなかったかなあ。
少し前の上野動物園内の藤堂家のお墓も,あちらの方が早かったような。出てきたお坊さんも同じ人じゃなかったかな。
もちろん,その逆もいっぱいあって…。
お互い意識していたのかどうか,結果的に両方の番組で内容のキャッチボールをしていたようですね。

今回,エンドタイトルロールの中に出ていた「協力 肉の万世」の文字。
ああ,あの場面は万世の建物から撮影したのかな。
[79691] 2011年 12月 1日(木)23:26:05Issie さん
キャサリンの記憶
[79690] 伊豆之国 さん
今夜の「森田一義氏」の番組で、「浮間」界隈の荒川の改修関連の映像が出たのですが、残念なことに「浮間が”元埼玉”だった」ことには触れられていませんでした‥。

そうでしたねえ。
“あのお婆さん”は戸田橋を渡ってお嫁にいらしたと言っていたけど,“あのお宅”自体が元々埼玉県なわけで。まあ,行政区画の変遷は今回のテーマではありませんからスルーでもしかたないですが,実際のところ,“埼玉県の痕跡”ってあの辺りに残っていないんでしょうかね。
行政区画と言えば,先週の「荒川放水路に消えた“大木村”」というのも惜しかった。木根川橋と木根川薬師までは行ったんですけどね。

柴又にまだ残る農地が紹介されていたけど,どうも私の記憶が曖昧なのですが,よく京成電車を利用していた1970年代前半,今は住宅に埋め尽くされている高砂の車庫から京成小岩駅の間には農地が広がっていた(少なくともたくさん残っていた)記憶があるのですよね。
何かの記憶違いかなあ…。

先週の日曜日は横浜に用事があったついでに,ふと思い立って元町から中村川沿いに蒔田まで“昔の道”と思われる道を歩いたのですが(思い立った原因は,“同番組”に出てきた元町公園),今度は久しぶりに柴又にでも行ってみようかな。何年か前に小菅駅から歩いた旧水戸(陸前浜)街道と佐倉街道の高砂駅以遠がまだ未踏だし。
[79685] 2011年 11月 30日(水)02:16:28【1】Issie さん
「都」とは言うものの
お久しぶりなので近況報告。

1;やや旧聞に属するのですが,9月にメガネを作りました。“遠い方用”ではなく“近い方用”。実は5年ほど前から地形図の境界線をなぞる作業に苦痛を感じ始めていたのですが,そういうことだったのですね。
で,今日(既に昨日)は職場にそれを忘れてきてしまって,いや,実に不便です。
坂を転げ落ちるよう。あっという間ですね。

2:最近足が遠のいているのは以下のような事情です。
最近,20年近く使用してきたMDデッキの調子が悪くなり始めました。この夏には本家本元のSONYがMD再生機から撤退しましたね。いよいよ手持ちのMDデータの将来に不安を感じ,PCに移植する作業を開始しました。まさかこうなるとは思わず去年の夏に購入していたMDウォークマンが役に立つとは(もう売っていませんからね)。
何分,中3の時から四半世紀以上にわたって録り貯めた延べ3300曲余り。20年ほど前に一度カセットテープからMDに移植したものも含めてMD150枚余り,というわけでこの半月ほど,夜の時間をそれに割いている次第。
ようやく3分の1ほどが終了というわけで,今年いっぱいこの作業は続くかな。

そんな中で,にわかに話題となった「大阪都」の話。

[79684] 白桃 さん
東京都23区だけを行政的に統括する責任者というか「長」というのが、果たして実在しているのかどうか理解できない私にとっては、当然ながら、「大阪都」というのが良くわかりません。大阪市長や堺市長がいなくなる、ということですか?
ということは、大阪市、堺市の2市が消える、ということですか?

橋下さんの言っていることを聞くと,「都」あるいは「特別区」という言葉を使っていてもどうも現行の「東京都」のそれとは微妙に違うような気がします。
東京都の「区」はご案内の通り結局のところ“市未満”の地位からいまだ抜け出していないわけですが,橋下さんが言う大阪市や堺市等を再編した「区(?)」には広範な自治権を与えるようなことを考えているみたいですね。「特別」の意味合いが“市未満”というより“市以上”の方に向いているような気もします。
いずれにしろ,まだかなり荒削りで具体的な制度設計はこれからなんじゃないでしょうかね。

かねがね「政令指定都市制度」の悪口を言って,実際いまだに自分の市がそうなって何が嬉しいのか全く理解できない私としては,橋下さんの言う政令指定都市批判に興味を持って聞いているのですが,それがどちらの方に進むのか。
で結局,この制度を変えるための法律を作る権限は大阪府や大阪市ではなく国会だけに与えられているわけですから,国政政党がどう受け止めるかにかかわってくる。
まだ当分,様子見の段階だと思います。

※むしろ気になるのは,橋下さんがどうこうということではないけれども,二大政党が全然有権者の支持を集められず,言っていることの中身は実際甚だ曖昧なのに見た目だけ元気なことを言っている勢力に支持が集まってしまう状況。
日本は一度,外の勢力を引っ張り込みつつお互いを攻撃することで政党が自滅し二大政党制に失敗した前科がありますから。
実に困った存在は二大政党です。
[79640] 2011年 11月 17日(木)21:01:04Issie さん
緑区役所
最近夜なべ仕事が続いてこちらに来るのは久しぶり。皆様,いかがお過ごしでせうか。
さて,

[79634] むじながいり さん
まっさきに思い付いたのが、相模原市緑区役所です。イオン橋本店の入っている「シティプラザはしもと」の中にあります。

ご案内の通りですが,これは一応,単独の区役所庁舎が完成するまでの暫定措置です。
私はつい,開業当初の「ビブレ」という名前で呼んでしまうのですが,職場が変わってしばらく橋本から離れている間に,「サティ」→「イオン」と名前が変わっていたのですね。
これも むじながいり さんがご案内の通り,1990年代後半から進められた橋本駅北口地区再開発事業によるビルで,下層階の商業施設(ビブレ→サティ→イオン)と上層階の市の公共施設とが同居しています。この公共施設階に移転してきた 橋本出張所 が区制実施に伴って 緑区役所 に衣替えしたもの。このビルに移転してくる前の橋本出張所は,1941年の合併以前の 相原村役場 以来の位置にありました。
冒頭に述べたとおり,緑区役所は橋本駅から少し離れた「国鉄」(←JRではない)の工場跡地の再開発区域に新設される庁舎に移転する予定です。だから,将来にわたって商業施設と同居,というわけではないのですね。

ちなみに,残る2区の区役所ですが,中央区役所は市役所本庁舎の一画を区役所に模様替え,南区役所は従来の大野南出張所がそのまま区役所に使用されています。
[79576] 2011年 10月 29日(土)12:10:52【1】Issie さん
三文字繁華街
[79572] ペーロケ さん
東京 秋葉原

「繁華街」のイメージにズレがあるかなあ。
アキバは,あまり「夜の町」というイメージがない,最近は昼間の“お子様”(←色んな意味で)の町というイメージ。
ずっとうらぶれて,錦糸町 とか 新小岩 なんてのはいかが?

それは措いておいて…
・川崎:銀柳街
・横浜:馬車道,六角橋
・富山:総曲輪(そうがわ)
・岐阜:柳ヶ瀬

…というわけで,(大小にかかわらず)「ヶ」はあり?
[79573] 2011年 10月 29日(土)02:36:14Issie さん
僕は特急の機関手で
[79552] futsunoおじ さん
「うなぎ県」

[79568] いろずー さん
あなたが言っているのはおそらく「静岡県」のことでしょう

[79571] ペーロケ さん
浜名湖のうなぎは有名ですが、かといって、鰻の生産は浜名湖周辺に限った局所的なもので、静岡県が「うなぎ」の県というイメージは結びつきづらいんですよね~。

実は私は静岡県を連想しました。
「ウナギ養殖→浜名湖」という刷り込みが強烈にあるのですね。
現在の現実の統計データは ペーロケ さんが紹介されたとおりでしょう。けれども,これは現実の統計データの話では必ずしもありません。ある程度強いイメージが植えつけられていれば,統計上の数字なんて何の意味もありません。何よりも非常に早い段階でウナギ養殖を産業として確立して全国に名を馳せた事実は,今はトップかもしれない“新出来”の産地が勝るものではないでしょう。しかしほかの産地と競合する中で,浜名湖のウナギ養殖は最盛期の何分の1までに縮小しました。たかだか一昨年の統計データは,そうした縮小の果てのものです。
だから,私には「ウナギ → 静岡県」という連想が成り立つ。

けれども,逆に「静岡県 → ウナギ」という連想が成立するかというと,それはしない。ペーロケ さんのおっしゃるとおりです。
「ちびまるこちゃん」でさえ歌っている ディック・ミネ の「旅姿三人男」を持ち出すまでもなく,大井川流域から清水港(しみずみなと)辺りであれば“お茶”を措いてほかになかろうし,「湯の町エレジー」に誘われて伊豆まで来ればそれは“温泉”と“ワサビ”かもしれない。
そのせいかどうか,(もちろん私が生まれるよりもずっと前の流行歌である)「僕は特急の機関手(士)で」という歌の最もメジャーなバージョンでは

・金色夜叉の熱海海岸から丹那トンネル
・富士山と駿河湾の間を走る優雅な一等展望車と,“沼津”食わずの三等車(←おお,三等級制の時代だ!)
・浜松のハモニカ娘と浜名湖のウナギ

と,静岡県だけで3コーラスも歌われているのですね。神奈川県は横浜が歌われていたような気がするのですが(ハモニカ娘が出てくるなら,崎陽軒のシウマイ娘ではないよな),通常バージョンでは“通過”です。名古屋で“あの娘のあんよ”を守口大根にたとえたら,一気に京都に行って(明治の鉄道唱歌ではじっくり京都を回るのですが),次のコーラスでは大阪に着いちゃいます。
この静岡県に対する手厚さは何でしょう?…

さて,話の発端となった 香川県 と「うどん」のように両者のイメージがほぼ完全に重なるから,ああいう宣伝が成り立つのでしょうが,多くの場合はそれが重ならない。
たとえば,「リンゴ」と言えば 津軽(←決して青森県全域ではない)と行きたいところですが,私は自分の経験からここは是非「信州」と言いたい。
けれども,長野県全域でリンゴが栽培されているわけではなく,下手したらまた 北信(長野)vs南信(松本) の地域対立を生み出しかねない。いや,リンゴは松本周辺でも栽培されているけれど,やはりメジャーなのは善光寺平ですから。
「リンゴ → 長野県」は成立しても,「長野県 → リンゴ」となるわけではないのは,静岡県のウナギと同じ。

たぶん,ここに「うどん県」のコピーが成立するカギがある。よその県がそれを真似しようとしても無理があるのですよ。
[79570] 2011年 10月 28日(金)21:20:20Issie さん
山寺
[79569] N-H さん
野暮を承知で考察してみますか。

ベタなつぶやきに,おつきあいありがとうございます。
そう。実に“大阪全開”な歌ですが(何より,ちゃんと関西弁に聞こえるところがすごい。「大阪で生まれた女」や「悲しい色やねん」は歌詞がそうでも関西弁に聞こえませんから),「わさびを利かせたら何ぼかおいしかろ」と言ってる“お鮨”は江戸前の握り鮨でしょうね。

単に言葉遊びで「東京ブギウギ」にひっかけて「ネギ」を入れてみただけなのか。

まあ,タネを明かせばそうなんでしょう。ほかにも「ボタンとリボン」とか「人の気(持ち)も知らないで」なんてのも登場しますから。

あ、もちろんリアルタイムでは笠置さんは「カネヨン」のおばさん、もしくは「家族そろって歌合戦」の審査員としてしか知らない世代ですので念のため。

私もそうです。で,笠置さんの隣り(?)に座っていて毎回“芭蕉の俳句”(と言われている別の作者の狂歌)のパロディを詠んでいたトボけたお爺さん(高木東六さん)が昔はとても洒落た曲を作っていた(軍歌でさえも)と後で知って,「へええっ」と思ったものです。

服部良一先生も笠置シヅ子さんもすごすぎます。

私は「山寺の和尚さん」もすごいと思います。
去年の今頃,コロムビアが明治・大正のレコード黎明期から“昭和末期”まで自社のレコードを中心に集めた「流行歌大傑作選」というCDシリーズを発売したので迷わず買ったのですが,その第1集の「明治・大正・昭和初期」版(COCP-36449)に「山寺の和尚さん」が収録されていました。コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ の演奏で1937年4月の録音。前後の歌が実に「戦前!」という感じの歌が多い中で,これは全然古びていない。逆にこれが「昭和12年」の演奏,というので驚いてしまいました。
一世代前なら,ダークダックスやボニージャックス,デュークエイセス辺りがよくカバーしていたのですが,今の世代のコーラスグループなんかはどうでしょうね。

ところで,この「山寺」とは?
[79566] 2011年 10月 26日(水)22:11:20【1】Issie さん
ねぎ焼き
まあ,ただのお遊びに過ぎない県の名前は措いておいて…

[79561] いろずー さん
「ねぎ焼き府」

恥ずかしながら「ねぎ焼き」なる食べ物を知りませんでした。
そこで検索してみたら,予想に反して“青々”していますねえ。
そう,ネギが違うのでした。
普通,私が「ネギ」と聞いて連想するのは,白くて太いネギ。
だから「ねぎ焼き」というのは,関東的には焼き鳥みたいにそのネギを串に刺して焼くものですが,関西でお好み焼きの仲間ならその白いネギをみじん切りにしてメリケン粉で焼くものだと思ったら…
関西のネギは青くて細いんでしたね。
駅の立ち食いうどん屋でも(←こちらでは専ら駅でそばを食べるけど,関西の“色のない汁”で東京風にそばを食べても美味しくなさそうなので,関西に行ったら駅ではうどんを食べる),入るネギはアサツキみたいな青くて細いヤツで,これを見ると「ああ関西だ」と思うのでした。

笠置シヅ子の「買い物ブギ」に登場する「東京ネギネギブギウギ」…。
あれは関東風のネギなんでしょうかねえ。
[79557] 2011年 10月 23日(日)11:28:54Issie さん
「かもしれない」では…
[79556] デスクトップ鉄 さん
皆様方の投稿を拝見すると、「駅名も由来の一つである自治体名」=「駅名が由来の自治体名」と考えられているのではないかと...

まあ,そうですね。
このイコールが成り立つのかどうかわかりませんが,少なくとも私は「由来の一つ」などという曖昧なものではなくて,「由来と断言できる」もののリストであるべきだと思っています。
[79551]

そろそろ検証が必要かも

と言ったのを別の言い方に換えれば,

もう「…かもしれない」で集める段階は過ぎ去っている

と言いたいのです。繰り返しですが,検証の上で“明らかに違うもの”は排除されなければならない。そういう時期に来ていると,私は考えています。

…と書いていると長くなるので,最後に1つだけ。

「相模原市」の市名選定に当たっては『相模原市史』に詳しく記述されているのですが,そこに「(小田急)相模原駅」の存在を意識した発言はありません。
市名候補として,陸軍士官学校にちなむ「相武台市」,いわゆる広域地名である「相模市」などとともに「相模原市」が挙がってくるわけですが,それは小田急の駅などというものに由来するのではなくて,すでに高座郡北部一帯の台地平坦面が「相模原」と呼ばれるようになっていた事実によるものだと思われます。
上の候補のうち,「相模市」はそれなりに有力だったのか,たまたま「軍都計画区域」内を通過していた相模鉄道(現JR相模線)が当該区域内にあった駅の名前を,新田集落(清兵衛新田)内の小集落名に由来する「大河原」から「相模町」に改称しています。その後,相模線が国有化されたときに「南橋本」というつまらない名前に再改称されてしまいましたが。
「相武台市」は,「相武台」は天皇陛下が士官学校に下しおかれた名前である,と陸軍が強く反対してポシャりました。で,結局は当たり障りのない「相模原市」になった,と。
ところが,ロクに市街地もないくせに…,と内務省の横やりが入って“市”になれず,「高座郡相模原町」となった,というのは前回発言の通り。
ちなみにこの際,当時の最大集落で,「相模原町」時代の大半を町役場所在地として過ごした「上溝」は市名候補として挙がることはなかったようです。
当然ですね。
今,話題にしているのは,広大な相模野(相模原)の上に“新しく建設する一大軍都”の名前であって,上溝なり,座間なり,橋本なり,淵野辺なりといった昔からの集落とは別の都市だからです。行政上は,それらの旧集落もその領域内に入るわけですが。
現在の相模原市は旧集落の 上溝 が発展したものではありません。したがって,「上溝市」では決してあり得ないのです。
そして,小田急の「相模原駅」とは「由来の一つ」とも言えないほど“ほとんど全く”無関係。
[79551] 2011年 10月 22日(土)11:17:53【1】Issie さん
そろそろ検証が必要かも
[79548] デスクトップ鉄 さん
駅名も由来の一つである自治体名・再考

やはり「駅名も由来の一つ」というコンセプトで線引きするのは、無理があるのかもしれません。

地名コレクションの編集を始めるか始めないかの頃,私は「とにかく思いつくまま集めてみて,それから検証したらいい」という趣旨の発言をしたことがあります。
私は何もしていませんが,皆さんのご協力で地名コレクションはさまざまなジャンルにわたってたくさんのデータが集まることになりました。
その中で,「(由来にかかわらず)○という字を含む」系のコレクションは,現にその地名にその文字が含まれているかどうかが問題になりますから,検証の必要はありません。「ロータリー」のような“現物”系もそうですね。
けれども「由来」系のコレクションは違います。
一見そうは見えても,由来をきちんと検証していくと実は全く違う由来だった,という例は少なからずあるものと思います。そもそも,その由来の“正当性”の線引きをどこで行うのか。

今回話題になっている「駅名由来自治体名」については,担当の 星野彼方 さんが

[79379]
まず、私の考えですが、基本的にすべて採用しようと考えています。

ごちゃごちゃ書いてきましたが、自治体名に関しては、明確に駅名は由来ではない、と断言できるような場合以外は採用するつもりです。

という方針でいらっしゃいますから,この方針そのものにあえて異論を唱えるつもりはありません。
ですが,“一般的な話”として,そろそろこれらのコレクションに収録されたデータについてきちんとした検証が必要なのではないかと思います。そして,明らかに適当でないと判断されたものはリストから削除する。
もしかしたら,線引きが難しくてテーマそのものが成り立たないコレクションもあるかもしれない。

巷にあふれている新書サイズの雑学本程度の“言葉遊び”で済ますならそれでよいかもしれませんが(何でこんなしょうもない本が次々出版されるのか理解不能),それなりに“真面目な立場”で情報提供をするのなら,それなりの検証はなされた方がいいように思います。

※追加
[79550] EMM さん
##ところで、私の担当しているある地名コレクションの、とある項目の備考に書いた「私が起こした文章」とほぼ同じ内容が書かれているwikipediaの文章に行き当たったことがあります。

地名コレクションではないわけですが,私もほぼ同じ経験をしています。
一応,出典明記のルールはあるけれど,それを“不特定多数”で要は“誰だかわからない”書き手に徹底させることは無理でしょう。
不特定多数が自由に書き込み,自由に修正できて,その積み重ねで「真実」に近づくであろう,という理念は理念として,出典明記の問題も然り,「査読」が十分に行き渡るはずもない下での内容の信憑性も然り,結局“あそこ”に書かれている内容は「その程度のもの」でしかないと,私は“諦めて”つきあっています。
…って,また“あそこ”の悪口を言っちゃいました。自分も書いているのに(…で,出典問題に関しては自分も同じことを犯しているかもしれない)。
[79513] 2011年 10月 14日(金)00:45:44Issie さん
ブラちい途中下車の旅
[79508] みかちゅう さん
自分の家が映っていたよという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

2年前でしたっけ,レギュラー化第1回の放送が「東京湾一周」で,そのときはこちらにも報告した覚えがあるのですが,昔住んでいた我が家,…というか我が団地が映らないかと期待して視ていました。でも残念,確か習志野市上空はほとんどスルーしてしまって映らなかったような。
次に海岸埋立地の公団住宅から総武線の津田沼駅近くに越したので,こちらは「総武線の回」に期待したのですが,こちらも映ったか,映らなかったか…。津田沼には新京成の多重大Sカーブという面白いネタもあるのだけど,西船橋近傍の“円形道路”(海軍の送信所跡)の方に行ってしまって,やっぱり津田沼はスルー。どうもこの番組は習志野市とは相性が悪かったようです。別の機会に新京成上空を飛んでくれないか,と期待していたんですけどね。

[79509] にまん さん
ただ、制作費的にはどうなんでしょう。空撮ってそれなりに費用がかかりそうな気もするんですが、意外と安いのかな?

テレビの制作現場というのをよく知らないので,お金の面でどうなのかもよくわかりませんが,単に上空から撮るだけじゃなくて意外に地上でのリサーチも結構してるんじゃないでしょうか。タレントをスタジオに並べて楽屋落ちの無駄話をさせているだけの“バラエティ様番組”よりは,少なくともずっと手間はかかっている気がします。ギャラは声の2人+解説の1人分だけで済むのかもしれませんが。
「ブラタモリ」ほどではないけど放送が飛び飛びだったのも,その辺の手間の問題もあったんじゃないかと。

というわけで,これからは「ブラタモリ」と,“地理度”はずっと下がるけど「ぶらり途中下車の旅」(←ナレーターが代わってしまって残念ですけど)と,普段は仕事で視られないけど「ちい散歩」に期待しましょうか。
…ごめんなさいね。みんな実質“関東ローカル”で。
[79507] 2011年 10月 13日(木)21:38:08Issie さん
Re:空から…
[79506] いろずー さん
今日BSのチャンネルカチャカチャ変えたら
「空から~」が入っていましたが…

これ,再放送なんだよね。
この枠でこれから新作をやるのかなあ。
[79505] 2011年 10月 13日(木)20:57:16【1】Issie さん
空から日本を…
本来は関東ローカルなのですが,全国ネットで中継もしているようなので…
木曜の夜8時(ちょっと前)と言えば,東京12チャンネルの「空から日本を見てみよう」だったのですが,先月,長めの夏休みが終わった途端に唐突に終わってしまって,次は何だろうと思ったら…
公開放送の歌謡番組,なんですね。
こんな番組にツブされたのか…。

いやや,別に「こんな番組」が悪いわけじゃなくて…,
番組の中で某大物演歌歌手が言っていたように「今はこういう番組がなくなってしまったから」,確かにこういう番組はそれなりに貴重で,さすがは12チャンネルと言えなくもない。きっと私も来週以降もこの番組を視ているのだろうと思うのですが(“裏”がつまらないからね。ただし,NHKの裏番組が来週で終わるので,その次の番組次第だけど)。
それにしても,ねえ…。

まあ,来週から「ブラタモリ」が復活するようで,とりあえず2週分は昨年度のものを再放送して,本格的な“シーズン3”は来月から始まるそうですが。
とは言っても,いろんな意味で“シーズン3”で終わりにした方がいいような気が。タモリ自身もそうだし,相棒のアナウンサーも。タモリと言えば,「タモリ倶楽部」のように同じテンションで延々と続いている番組もあるけれど。

結局,「地理オンリー」の番組は作りにくいんでしょうかねえ。
[79503] 2011年 10月 13日(木)19:40:24【1】Issie さん
何というか…
どうもコミュニケーションが成立しないようなので,一方的な無駄話。

同じ「ゆとり教育」を受けていたのなら,自分だけが志望校に行けなくてもそれは「ゆとり」のせいじゃないよね。だって,志望校に行けてる奴だっていっぱいいるんだから。他人の言うことを理解しようとしないのも,それは自分の努力不足のせい。「ゆとり教育」なんかのせいじゃない。できてる奴はできてるんだから。

そもそも「ゆとり教育」というのは,一部のマスコミが当時の教育政策を批判するために使いだした用語。あまりに面白い表現だったのでみんなが飛びついて誰もが知っている言葉になったけど,それでは何が「ゆとり」なのか,どれだけの人が理解しているのかな。
たとえば当時,ある受験産業が「ゆとり」の実例として挙げた“円周率=3”。「およそ3」と教えることと「3.14」と教えることと,どれだけ本質的な違いがあるのか説明できるのだろうか。
大事なことは,そこで子どもたちに何を教えたい,どんな「学力」を身に着けてほしいのか,ということにあるのだけど,そこはスッ飛ばして表面的なことがらだけつまみ食いしてそれを大げさに煽り立てる。歴史の中で自分に“おいしい”ところだけ取り上げて,「日本はこんなに素晴らしいんだ」と言い立てる“自慰史観”大好きな某マスコミらしい手口だが。

「ゆとり」というけれど,それではそれでどれだけ「学力」が下がったのか,それは誰も検証しない。そもそも「学力」として求められる視点はたくさんあって,1つのモノサシで測れるものではないんだよね。
日本の学校教育は戦後どころか,明治の初めに学校制度が始まって以来,「ゆとり」(←当時は別の言い方をしたが)と「詰め込み」の間を幾度も行ったり来たりしているんだけど,それで「学力」が下がったという話はあるのかどうか。もし本当に下がったことがあるとするならば,それは授業そのものをほとんど行わなかった大戦末期と,教科内容自体が大混乱に陥った敗戦直後の子どもと生徒たちだろうけど,でもちゃんと社会生活ができてるよね。

コミュニケーションができないことの理由が「ゆとり教育」だなんて,そんな話は成り立たないと思うけどね。
ちなみに蛇足ながら,1960年代末の学習指導要領で小・中・高の教育を受けたあたしたちは,要するに過去の学校教育の歴史の中で一番の「詰め込み教育」を受けた世代だけど,その実,何てことぁないよ。

※…というわけで,誰かを相手にということではなく,「ゆとり教育」などというマスコミの“煽り文句”を使いたがる皆さんに向かって,思うところを書いてみました。
[79484] 2011年 10月 11日(火)20:06:35【1】Issie さん
国道の踏切追加?
[79477] 今川焼 さん
ところで、せっかく集めたデータなのでと、Googleマップにしてみたのがこれ→国道の踏切-Googleマップ

これ,面白いですね。
京急が品川を出ていきなり微妙な形で国道15号(第一京浜)と平面交差するのは,さすが元路面電車であった名残ですね。ここは元々,国道の上を走っていたのでした。
京急蒲田の空港線との平面交差は,今は半分だけ。立体化工事が完了すれば,ここの平面交差は解消します。あと何年でしょうか。

さて,八ツ山橋際の微妙な平面交差がありなら,こちらもご検討ください。

*国道16号・JR横浜線 相模原市緑区橋本

ここは“本線”はやや南の国道413号との分岐交差点ともども立体交差化されて陸橋で横浜線を乗り越していますが,側道の踏切が残されています。
16号は踏切の北側で御殿峠を越える“旧道”と八王子バイパスに分かれるのですが,この旧道につながっているのは側道の方です(ただし,内回り:横浜方面のみ)。先の交差点の状況から,16号で八王子方面から津久井方面へ国道413号線に入るためには,陸橋を通らず旧道から側道の踏切を通らなければなりません。実際,橋本駅北口から津久井方面に向かうバスはこのルートで413号線に入っています。
要は側道も立派な国道,ということで,こちらの踏切も仲間に加えていただければ,というお願いです。

※もう1つ追加。
その16号の旧道が御殿峠を越えて八王子市内に入った後,片倉の横浜線と京王高尾線との交差は国道の方がアンダーパスしているのですが,その先の中央線との交差は,こちらは正真正銘,橋本の踏切のような微妙なものではなく100%完全な混じり気なしの踏切です。
是非,こちらは追加を。
[79454] 2011年 10月 9日(日)12:02:30Issie さん
十鉄
…と呼ばれているそうですね,十和田観光電鉄。“正書法”(かなづかい)的には「とおてつ」であるはずですが,「とうてつ」とカナをふるらしい。

[79425] 山野 さん
東北新幹線・「七戸十和田駅」が開業し、利用者が減少、東北大震災で観光客が激減が原因らしいですが。

[79428] hmt さん
確かに十和田市を走っていますが、十和田湖の観光客は利用しているのでしょうか?

[79450] まかいの さん
ルートをあれこれ検討しましたが、十和田観光電鉄ルートはまったく上ってきませんでした。

もうだいぶ前,東北線の交流区間にまだ客車普通列車が走っていた頃,その列車で三沢を通りかかった時にここから分かれていく十鉄の様子を見て,何でこんなところにこんな路線が生き残っているのだろうと不思議に思った記憶があります。南部縦貫鉄道もまだ残っていたっけ。
要は,十和田湖観光のアクセス路線として盛況であるとはとても思えない状態。
恐らくは新幹線の開業を待つまでもなく,まかいの さんの感覚が普通の感覚なのではないかと思います。
たとえば,現在とは違って自家用車での観光などあまり考えられなかったであろう1968年10月の時刻表(いわゆる,国鉄“ヨンサン・トオ”白紙ダイヤ改正号)を見てみると,十和田湖へのアクセスのメインとなっているのは青森駅からの国鉄バスで,1~2時間に1本という実に頻繁な回数のバスが運行されています。
もう1つのメインは,国鉄バスと秋北バスが共同運行する花輪線の 十和田南駅 から(一部は大館駅から)の路線。
だから,観光客の多くは青森駅と十和田湖の間の往復,もしくは 青森駅~十和田湖~十和田南駅~盛岡または大館 というルートをとっていたのではないかと思われます。
もちろん,十鉄を利用した 三沢~三本木(現十和田市)~十和田湖 というルートもあって,三本木乗り換えのバスも午前中は1時間に1本と,青森ルートに引けを取らない回数が運行されているのですが,マイナーな感じは否めません。もっとも,それはこの時刻表(交通公社版)が「国鉄監修」であるせいかもしれませんが。

たぶん,十鉄は「十和田観光」を社名として謳っているし,事実それも少なくない比重を占めてはいたのだろうけれども,基本的にこの鉄道は十和田市内(三本木周辺)と東北線とを結ぶ“フィーダー”(培養線)としての役割を担ってきたのだろうと思います。
これが弘前のようにある程度の都市圏を形成していれば弘南鉄道のように生き残る余地もあり得るでしょうが(ここも,もとは2社競合であったものが一方(弘前電鉄:大鰐線)が維持できずに弘南鉄道(弘南線)に吸収されたものです),十和田市がそれだけの都市圏を持っているようには思えません。さらに三沢との間に「鉄道」を維持できるような流動があるかどうか。
だから十鉄が鉄道として存続していることの方が不思議,という最初の感想に至るわけです。
やはり新幹線の開業が“最後の打撃”になったのは確かでしょうが,それは「観光客の減少」というよりももっと日常的であった 三沢~三本木 間の数少ない乗客流動も奪ってしまった,ということだろうと思います。
そういうわけで,十鉄の廃止は惜しむべきことではあるかもしれませんが,結局は“必然”あるいは“当然”のことだと私は考えています。
[79433] 2011年 10月 7日(金)20:02:21Issie さん
実に失礼
[79431] いろずー さん
とりま失礼

「とりま」ではなく,本当に失礼です。
ここが“上品な言葉遣い”で“高尚な”お話をするサロンである言うつもりは全くありません。
でもその場にはその場に相応しい言葉遣いというものがあるだろうと思います。そして,それは普通の人ならば普通にできるはずのことです。実際に,小学生(当時)もそのようにしてこの場所に加わってきました。
いろずー さんは,ここにどんな話題を提供したいのですか。どんな情報が欲しいのですか。
いろずー さんの書き込みを読んで,残念ながらそれが全く伝わってきません。
「説明不足」以前の問題です。

説明不足で申し訳ない!

その後に「説明」らしきものが書いてあるけれど,ますます意味不明です。その前の N-H さん([79430])の指摘に全く答えていません。
さらに言うに事欠いて「テロ朝」とは何事か。ここは 2ちゃんねる でも ヤフコメ でもありません。この放送局をそのような名前で呼ぶなら,それに足るだけの十分な根拠を挙げてください。

そして本題。

[79429]
十番勝負のネタ

設問の前提条件が極めて不正確です。
N-H さんが指摘されているように,

NHKと朝日新聞社が主催する合唱コンクール

というものが存在しない以上,これは問題として成立していません。
問題を作成するときには,その前提となる事実確認はきちんとしなければなりません。答える側も当てずっぽうに言っているのではなくて,事実に基づいて考えているのです。
だから,いろずー さんの“十番勝負らしきもの”には誰も答えることができません。
もし,真面目な気持ちで「十番勝負のネタ」を提供したのであれば,きちんと事実確認をしたうえで,“本物の十番勝負”の「メダリスト」たちから細々としたツッコミが入れられることのないような,完璧な問題を作って提供してください。
[79418] 2011年 10月 1日(土)21:32:18【1】Issie さん
がっかり門
[79384] hmt さん
「日本三大がっかり名所」として列挙されていたのは、札幌時計台・はりまや橋・名古屋テレビ塔・京都タワー・守禮の門・長崎オランダ坂 でした。

週明けから3泊4日で沖縄へ行きます。残念ながらお仕事で。
最終日は定番の「首里・那覇班別自主行動」なのですが,時間が許せば首里城門前の広場で記念撮影をする予定。昔だったら,その「がっかり門」が撮影スポットだったんですけどね。
班別自主行動の間,私たちは“お客様たち”の様子をそれとなく見守るため,首里と那覇の町を手分けして歩き回ります。今回,残念なことに私は記念撮影の後,首里城内に入らずに那覇の町へ下りて国際通り辺りを回るグループに当てられてしまいました。
実は前回(6年前)にお仕事で行ったとき,是非,復元なった首里城を見に行こうと那覇のホテルでの打ち合わせ終了後速攻で首里に向かったのですが,時間切れで有料ゾーンへは入れず,残念な思いをしたのですが,今回もまた無理そう。
私にとって,首里城内への壁はかなり高いようで。

さて,その守礼門。
私が初めて沖縄を訪れたのは学生だった1981年の夏休みなのですが,その頃は城内がまだ琉球大学のキャンパスに使われていて,とりあえずお城の石垣の復元は進んでいたけれど後は住宅街の中に守礼門がポツンと建っているような雰囲気で,「がっかり」と言われるのもムベなるかな,というものではありました。
でもまあ,あの場所の歴史を考えればしかたないよなあ,と思わずにはいられません。
むしろ,戦争で灰燼に帰する前の戦前には旧王宮は一応“神社”にはされていたけれど荒れ放題だったそうで,だからその頃訪れた方がガッカリ度は高かったかもしれません。
門が再建されたのは1958年。奇しくも東京タワーと同じ年ですが,米軍統治下で高度経済成長の蚊帳の外にあった沖縄でこれを復元するのは多くの困難があったのではないかと推察します。とりあえず,これを復元できたことだけでも大きな成果であり,だから長年,首里城が復元されるまで沖縄のシンボルであり続けたのだろう。
そう思うと,やっぱり「がっかり」は酷だよな。

…でね,ほかの「ガッカリ地点」も多かれ少なかれそうなのではないかと思うのですよ。
[79395] 2011年 9月 27日(火)21:57:59Issie さん
岐阜駅は動く
[79386]
手許に市町村制施行後の1891(明治24)年当時の岐阜周辺の地図がありますが,岐阜駅を通過する東海道線の南側のラインが 岐阜市 と 上加納村 の境界になっています。

と書いたのですが,某所を見るとどうも岐阜駅はこの後1913(大正2)年にもう一度移転して現在位置に来たらしいということがわかりました。
そこで地図を見比べてみると,なるほど,1891年当時の東海道線は岐阜駅付近で現在よりもやや北に膨らんだ経路を通っていて,現在の名鉄岐阜駅(←新岐阜だと思っていたら,いつの間に…)あたりのラインを通っていたのですね。
その某所では,当初の「加納駅」が現在の名鉄岐阜駅付近にあって,1889(明治22)年に「西に移動した」とあり,それが1891年当時の岐阜駅なのですが,どうもこの時の移転はそれほど大きなものではなかったらしい。踏切をはさんで反対側に移動した京成高砂駅や京王調布駅程度のものでしょうか。
いずれにしろ,1891年当時の東海道線ラインは今よりも北の長住町の通りの南側にあったようで,長住町と問屋町の境辺りが当時の岐阜市と上加納村の境界に当たるようです。
1913年に岐阜駅がやや南の現在位置に移転することで岐阜旧市街から伸びる駅前市街地がさらに南に広がったことになるのですね。
そんなわけで,今の岐阜駅はますます“岐阜ではなくて本来は加納”と言える場所にあるわけです。
[79394] 2011年 9月 27日(火)20:49:56【1】Issie さん
年中サマータイム
[79390] 水魚 さん
時差は4時間まき戻し。

[79393] hmt さん
訪問地は「マー・ワランナフル」ですね。

なるほど,どうも時差の計算が合わないと思ったら,この国はサマータイムを実施していないのですね。
もっとも,この国がもっと大きな国の一部だった時代から年中サマータイムを実施しているようなものでしたが。その“大きな国”では夏にはさらにサマータイムを実施していたので日本からすぐ近くのところに行くだけでも時差がすごいことになっていました。その大きな国から分かれた最も大きな国では今年から冬の時刻も“夏のサマータイム”に合わせる形でサマータイムを廃止してしまったらしいですね。
これは知らなかった。何か,“あのお方”がまた大統領になるらしい国っぽい話です。

で,肝心のこちらの国ですが…,久保田早紀が歌ったカラーテレビのCMソングが聞こえてきます(←本人はそんなイメージで作ったわけではないそうですが)。
[79386] 2011年 9月 26日(月)22:40:30Issie さん
「日本橋」とは首都高の高架橋のこと?
[79382] ペーロケ さん
お江戸日本橋に播磨屋橋以上のガッカリを覚えました。

[79383] N-H さん
日本橋については、川を埋め立てまくった都心の中で暗渠にならなかっただけでもまだましだと思うことにしています。

まあ,評判悪いですよね,日本橋。
私も,頭の上を高速道路に押さえつけられている日本橋がかわいそうに思えてきます。
さらには「日本橋」のネームプレートが首都高の高架橋についていてこれが目立つので,ちょっと見,高速道路の方が日本橋に思えてしまいます。
確かに日本橋の惨状はその通りなのですが,一方で首都高の高架橋自体は捨てたものではないという見方もないのではないかとも思います。いや,建設以来半世紀近くも経って高架橋の塗装も色あせてしまった今ではなくて,首都高が建設された1960年代半ばには。
子供の頃,親に買ってもらった学習百科事典。買ってもらったのは70年代に入ってからですが,「上越線」の項目で“清水トンネルの湯檜曽ループに差し掛かる「下り」特急とき”の写真が掲載されているので,編集されたのは60年代半ばなのでしょう。
その美術特集巻の中に“現実世界の中に見られる美”の一つとして,日本橋のお隣の江戸橋JCTで首都高の高架橋が幾重にも重なる曲線美が紹介されています。私は幼すぎてこの当時の空気をリアルタイムでは全く記憶していないのですが(私の記憶の中には渋谷の道玄坂上を走る玉電がぎりぎり含まれています),「高速道路」はオリンピックを控え,本格的なモータリゼーションが始まる直前の東京では東京タワーとともに「現代化」の象徴の一つだったのではないかと想像しています。
それが日本橋の上を覆いかぶさるように建設されても,必ずしも否定的な受け取り方ばかりではなかったのではないかと思います。
その辺り,高度経済成長真っ只中の半世紀前と20年にわたり景気の良さを実感できない現代とでは感覚が違うのではないか,そんな気がします。
だからもう一度言うと,日本橋の上に覆いかぶさる首都高というのも必ずしも悪い評価ばかりではないのではないか,と。

[79385] むっくん さん
#上記の内、岐阜駅及び浜松駅は、当時はそれぞれ岐阜市内及び浜松町内にない可能性が有ります。

手許に市町村制施行後の1891(明治24)年当時の岐阜周辺の地図がありますが,岐阜駅を通過する東海道線の南側のラインが 岐阜市 と 上加納村 の境界になっています。東海道線の北側も含めて周りが 上加納村 の領域である中,北の岐阜市街から駅前に伸びる街路ともう一本東の街道(←当時は大きな街道でしたが,大正以降拡張されることもなく現在は周囲の市街地に埋没しています)に沿った区域だけ 岐阜市 に編入されたのは明らかですね。
1889(明治22)年7月1日の市制施行の際,“岐阜51町”に隣接4村と“上加納村の一部”で「岐阜市」が発足していますが,その“上加納村の一部”というのがこの部分なのでしょう。
1891年の段階で既に岐阜市街から駅前へ続く市街地が形成されつつあります。やがて「岐阜」が「加納」を完全に飲み込んでしまうのですが,最初の位置から移転してきたという現在位置でも,岐阜駅は“本来の岐阜”ではなく,“本来は加納”にあるということになるのでしょう。
[79374] 2011年 9月 25日(日)12:02:59【4】Issie さん
かかみがはら
[79369] デスクトップ鉄 さん
駅名も由来の一つである自治体名

これを見て最初に思ったのは「拡大解釈」なんじゃないかなあということだったのですが,それは後に回して…。

各務原市があるなら,これも入れてよ,と言ってみましょう。

市名市名誕生日旧市町村名駅名駅名誕生日開業日開業時駅名
相模原町1941/04/29高座郡上溝町,座間町ほか相模原1938/03/01-相模原→小田急相模原

「現・相模原市」ということで…。
一番右の欄にあるように,この「相模原駅」は現在の「小田急相模原駅」。1941年4月29日の「相模原町」発足直前の4月5日に省線(国鉄)横浜線上に開設された「“軍都”の中心駅」に召し上げられ,民間の小田急は駅名の改称を余儀なくされた,というのはここで何度か触れたお話です。何しろ,「お上」には逆らえない時代ですから。
これも何度か触れられた話ですが,この「(小田急)相模原駅」は同じ頃に近くに開設された 臨時東京第三陸軍病院(戦後,国立相模原病院を経て,現・独立行政法人国立病院機構相模原病院) の最寄駅として開業しました。この頃,多くの陸海軍施設が相模原周辺に移転・開設されているのですが,それらは「原町田」とか「高座」「相模」という地名を冠していました。その中で「相模原」を最初にメジャーな呼称として用いた最初の例が,小田急のこの駅だったようです。
だから,その論法で言えば,「相模原市(←相模原町)」も小田急の駅名に由来する自治体名,と言えなくもない。でも,たぶんそれは違う。
「軍都」を中心とした高座郡北部9町村での合併交渉の過程(途中で大和村=現大和市北部が脱落)で新市名として「相模市」「相武台市」などの候補の中から「相模原市」が選ばれました(ロクな市街地もないくせに「市」を名乗るとは…,と内務省に呆れられて「相模原町」となったのはご愛嬌)が,その過程で小田急の駅名の存在は話題にはなっていないようです。すでに軍都の呼称として「相模原」は広く定着していたようで,何も小田急の駅名が始まりという意識はどこにもないのでしょう。少なくとも「相模原」が小田急の造語でないことは確かで,そうすると「小田急の駅名由来」と考えるのは難しい。

「各務原市」の場合,高山線の「各務ヶ原駅」開業(1920年)よりも前の1917年に陸軍が「各務原飛行場」(現・航空自衛隊岐阜飛行場)を開設しています。
「各務原」(←高山線の駅は「かがみがはら」なんですね。よくある“揺れ”というやつで,地名自体としてどちらが「正しい」か詮索するのはナンセンス。国鉄はたまたま“濁っている”方を使い,自治体名としては“濁っていない”方を採用している,それだけのことです。あるいは「ヶ」の有無も同様)という地名がいつ頃から行われていたのかわからないのですが,少なくともそれをメジャーな形で用いたのは鉄道省(高山線)よりも陸軍の方が先。で,「習志野」がそうであるように,地名を広めるうえで陸軍の宣伝力は圧倒的です。あえて言えば,「各務原」は“陸軍由来”とした方がいいかもしれない。
むしろ,JR・名鉄の両「各務(ヶ)原駅」前の町名「鵜沼各務原町」こそ駅名由来かもしれません(←「大字鵜沼」から分立?)。

町名・字名という狭い区画の呼称であれば,そこに駅があってその駅名が町名字名の由来である蓋然性が高そうだ,という共通理解は成り立ちやすいのですが,自治体名レベルの広域の呼称になると,駅というピンポイントな施設がじかにその名前の由来となった,というのは,たとえば神奈川県の 山北町 のなどの「鉄道の町」のような例を除けば,「そうは言えるかもしれないけれど,確証はできないよね」となるのではないかと思います。
「会津若松市」や「富士吉田市」,「近江八幡市」,「大和高田市」などの場合は,ほかの市との同名回避の手段として,おそらくはその名前の鉄道駅名がなくても自然に出てくるものでしょう。
だから,リストの中の多くの市名は拡大解釈なんじゃないかなあ,と思った次第です。
[79324] 2011年 9月 9日(金)01:23:50Issie さん
でこしな
[79322]般若堂そんぴん さん
福岡県民の多くが真っ当な人たちであることを願いつつ.

[79323] 有明つばめ さん
できれば、そこは福岡市民(もしくは福岡都市圏民)と書いて欲しかった‥‥。

気持ちはわからないでもないが,ちょっと違うような気が…。
「福岡県民」が戸惑いを感じるように,「福岡市民」だって同じことを言いたくなるのではないかなあ。

元々この話題に限らず,どんな時でも,どんな所にも,どんな話題でもそういうことをする輩はいるのではないかと思います。だからと言って,別にそれが「○○の住民」「○○の県民」「○○国人」の大多数の属性ではないでしょう。
某大型ポータルサイトのコメント欄は好んでそういうレッテルを貼る意見ばっかりですけどね。そしてそれが反射を繰り返しながら“傾き”の大きな声ばかりが席巻する。悪貨が良貨を駆逐する典型例(このたとえ,本当は意味が違うのだが)。

話を元に戻して,
ここにあがった2つの反応のどちらもどうもピンと来ない。“そういう輩”の行為にその都度反応することも,「うちは違う」的な反応をすることも…,と反射的に思ったのでした。

※何かいいタイトルが浮かばなかったので,さきほど見たNHKの番組以降,頭を離れないフレーズを流用。
[79280] 2011年 8月 29日(月)21:47:22【3】Issie さん
津田沼駅は船橋市
[79277] k-ace さん
微妙なのが山県市(山縣)

私的には全然オッケー。だって,もともと「山縣郡」でしょ。
歴史上の人名・地名は基本的に常用漢字体に書き換えて構わないと思います。ちなみに,“あの育鵬社”の中学校歴史教科書でさえ「山県有朋」の表記です(←“文部科学省の圧力”というのかも知れない)。

で,その「野田市」。このままいけば,きっと総理大臣になるのでしょう。
初の「千葉県選出」の総理大臣。
いや,“千葉県出身”の総理大臣と言えば 鈴木貫太郎 がいるじゃないか,という意見もありますが,少なくともこの人は“国民から選ばれた”総理大臣ではない。帝国議会の議員として総理大臣になったわけではないですからね。
それに関宿藩士の家の出身で,だから千葉県出身と言うのだけど,この人の家は下総の関宿本藩ではなくて,泉州の飛地領勤務。その赴任地で生まれたこの人が関宿にいたのは,まだ幼かった廃藩後の数年間だけだったようです。だから「千葉県出身」と言っても,かなり微妙。
その点,今度の人は船橋市の出身で,選挙区も船橋市(=千葉4区)。今度こそ“本当の千葉県出身”と言えましょう。

NHKのニュースを見ていたら,この人の「原点」としてJRの津田沼駅前が出てきました。
もっぱら“南口”を利用していた私には少し縁の薄い“北口”。
そう,私にとって津田沼駅は「習志野市の代表駅」なのですが,北口は“船橋市の第2の玄関”なのでした。野田さん,お父さんが自衛隊の空挺団の方だったというので,地盤は船橋市でも“習志野地区”の方なんでしょうね。だから船橋駅ではなくて津田沼駅(ちなみに習志野市は旧千葉郡つながりで八千代市や千葉市花見川区と一緒の千葉2区だから,選挙区が違う)。
…いや,ローカルな話でごめんなさい。

※追加
[79279] BANDALGOM さん
房総各線や、かつては総武線快速でも活躍した紺色とクリーム色の電車

まあ,そうですねえ…。
でも私にはどちらかというと,“途中参加”の総武快速よりもやっぱり,その前から走っていた「黄色い電車」(101系)。もう1つ前の「茶色い電車」はおぼろげに覚えているだけ(千葉以東ではかなり遅くまで走ってましたが)。後は,ステンレス車になる前の京成電車の「青電」と「赤電」かな。
[79251] 2011年 8月 27日(土)13:52:30【2】Issie さん
日田に行ってきた
うちの職場にはこの季節,「夏休み」というイベントがあるのですが,それは“お客様方”のこと。私たちは原則,通常勤務です(実は昔はそのあたりかなりルーズでした。“うるさく”なったのは10年ほど前から)。というわけで,規定通りの夏休み(夏季休暇)が8月の末になってやっととれたので,かねて予定の九州新幹線に乗りに行ってきました。
ともかく,まずは鹿児島まで直行するとして,どうやって帰ってこようか。
そこで,
・肥薩線の矢岳越え(これは17年前に一度乗車済み)
・西鉄電車に乗る(5年前,選挙で選ばれる“偉い人”のお供で太宰府に行ったときに乗りそびれた)
・日田彦山線にでも乗ってみよう(筑豊線は13年前に乗車済み)
というサブイベントを考えました。

で,九州新幹線。わざわざ新大阪乗り換えで「さくら」に全区間乗車。
感想は,「まあ,こんなものか」と。
在来線時代の「つばめ」にビュッフェをつけていたJR九州のことだから「さくら」にも何か工夫が,と期待したのですが,新幹線は「西」や「東海」に合わせる必要があるのでしょうかね。“普通”の設備でした。
乗ってみれば,新しい新幹線の常でトンネルばかり。高架区間は高い防音壁で景色はほとんど見えず。やっぱり新幹線は「旅行」の手段ではなく,飛行機と同じく2地点間を短時間で移動するためだけの手段と割り切るべきなのでしょうね。

矢岳越え。17年前は八代側から越えて,吉松からは吉都線経由で宮崎へ流れたのですが,今回は鹿児島側から。隼人-吉松間が初乗車(国分までは学生だった25年前に乗車済み。このときは国分から今は亡き大隅線と志布志線(これは現存)で宮崎へ行った)。地図も視ずに乗ったのですが,霧島の西側をスルスルと吉松まで行くのかと思ったら,狭い谷間を通って何度も山越えをするのですね。矢岳越えとともに,日露戦争中の艦砲射撃対策と言われてはいるけれども,よくもわざわざこんなに地形の険しい区間を選んで「鹿児島本線」を通したものです。
矢岳越えそのものは……,あちらこちらに乗車体験記があるので割愛。一つだけ,「観光列車」というのも馬鹿にはできないな。車内が(ある意味)ケバくて居心地悪かったが。

西鉄電車。大牟田から久留米まで乗車。
「久留米」なのは,出発前日に宿の予約をしようと思ったら(ほとんど思い付きに近い今回の旅行なので),博多(福岡)がどこも一杯で予約が取れず,やむなく久留米にしたら一発でとれた,という次第。ま,でも結果的に久留米の町を歩くことにもなって,これは怪我の功名。
大牟田から料金不要の特急に乗ったが,これが速い。30分前に大牟田を発車した各駅停車を柳川で追い抜いたが,これは各停が遅いのか?
柳川付近では筑後平野特有の「クリーク」の断片が車窓からもよく確認できる。こういうものは前政権党以来の農業+土建政策で“きれいな田んぼ”に整備されてしまったと思っていたが,後で地図を見てみると柳川周辺には意外にも昔(白秋の時代?)のまま残っているのですね。この場合,水路を丁寧に拾って“濃い青”で表示している「ウォッちず」がおすすめ。
やはり,柳川駅のあたりで自転車を借りて走り回るのがよさそうです。平坦だしね。

で,日田彦山線に乗るために日田へ。
いや,汽車に乗るためだけじゃなくて,日田自体にも興味があったので。
お昼の日田彦山線列車の発車時刻まで,3時間という駆け足だけど日田の町を歩く。
だって不思議ですよね。何でこんな所に天領があって,西国郡代がいたのか。そして,たとえば江戸時代後期には「咸宜園」という“近代的”な私塾があって,近場の周防の村田蔵六(大村益次郎。塾には違う名前で入門願を出しています)はともかく,奥州出身の高野長英がシーボルト事件の余波とは言え“こんなところ”にいたという。不思議で,魅力的な町です。
日田駅の北西方にある 豆田町 というところが西国郡代の“陣屋前町”で,古い街並みがとてもきれいに残っているのですが,実はこれは何度か大火を経験していて今あるのは明治・大正以降のものだとか。飛騨郡代の高山には陣屋がきれいに復元されているのですが,こちらは敷地が分割されて普通の民家になってしまっているので,復元は難しそうです。
やっぱり3時間では足らなかった。でもこの季節,それ以上歩く気はしなかったな。

日田彦山線に乗って最初に驚いたのは,大分県(豊後)から福岡県に入って直に豊前に入るのかと思ったら「宝珠山」。……??? これって,筑前朝倉郡最奥部の(旧)宝珠山村だよね。何と日田彦山線が通っていたのか…。
これは地形抜きで行政界だけの地図を眺めていては気づかないことでした。
で,筑豊線で「筑豊の“筑”」の方を通った13年前に対して,今回は日田彦山線で「筑豊の“豊”」の方。当たり前ですが,40年以上も経てば“炭鉱の町”の影はだいぶ薄れますね。ボタ山を探してみても,車窓からすぐにそれとわかるものはありませんでした。
そうこうするうちに小倉に着いて。また新幹線。
新横浜に着いたら関東は大雨で,少し前には横浜線が停まっていたとか。家に着いたら今度は新幹線が運転見合わせとかで,私自身は遅れに遭うことなくダイヤ通りの電車で帰ってこれたのですが,運のいいことでした。
[79105] 2011年 8月 15日(月)21:08:36【3】Issie さん
「国中」の縄張り
[79097] k-ace さん
一之瀬地区近くを国道411号で通ったことがありますが、柳沢峠ではなく妙なところに甲州市・丹波山村境があったので不思議でしたが、一之瀬地区だと峠越えしても奥多摩方面より塩山方面のほうが近いから? ただいくらか改良されているとはいえきつい峠道ですが…。

この境界(一之瀬川)は単に現代の甲州市(旧塩山市)と丹波山村の境であるだけでなくて,少なくとも近世の山梨郡(現甲州市)と都留郡(現丹波山村)にまでさかのぼる境界であるようですね。それはもっと言えば,甲州を二分する「国中」(山梨・八代・巨摩郡)と「郡内」(都留郡)との境界でもあるということです。
つまり,多摩川流域の最上流部にあたる一之瀬川以西の区域は「郡内」ではなくて,甲府盆地側の「国中」の縄張りだということを意味します。

私もずいぶん前に国道411号線を通ったことがあります。確か,塩山側から。
柳沢峠を越えてもちろん山ばかりの場所なのですが,面白いことに峠を越えたばかりの一之瀬地区よりも下流に行くほど谷が深く険しくなっていく印象がありました。
実は,これは南に並行する笹子川・桂川(相模川)の谷を下る中央東線も同じで,笹子峠はもちろん険しく長いトンネルをくぐらなければならないけど,大月辺りまでは谷底にそれなりの広がりがあって中央東線も谷底に近いところを通っている。ところが,大月を過ぎると小仏トンネルを抜けて高尾(浅川)の駅に到着するまで実に険しく深い谷をたくさんのトンネルを連ねて行くことになります。塩尻以東の中央東線でトンネルが連続する“難所”は最高地点の富士見高原区間ではなくて,東京に最も近い大月-高尾間なのですね。中央東線の甲府以東が,丹那トンネルを控えた東海道線の東京口や上越線の清水越え区間とともに,昭和最初期という非常に早い時期に電化された理由の一つです。
これはさらに南に並行する秋山川や道志川の谷でも同じです。桂川(相模川),秋山川,道志川のそれぞれの谷が一番深く険しくなる辺りに甲州(山梨県)と相州(神奈川県)の境界があります。これが丹波川(多摩川)の谷では甲州(山梨県)と武州(東京都),そして国中(山梨郡)と郡内(都留郡)の境界となるわけです。

「国」という区画が成立する以前の“国造”の時代には,後に都留郡あるいは郡内と呼ばれることになる相模川(桂川)の上流域は「相武(さがむ)国造」の領域だったという説もあるようで,その後の甲相国境も移動しているようですが,少なくとも「甲斐国」が編成された時には都留郡は甲斐国4郡の1つに数えられていたわけで,甲府盆地側からの支配が及んでいたことになるのでしょう。この時,桂川流域に対しては笹子峠や御坂峠といった険しい峠が境界となったけど,多摩川最上流域については後に柳沢峠と呼ばれることになる峠の隔絶性よりも一之瀬川合流点よりも下流の谷の険しさによる隔絶性の方が大きかったのかもしれませんね。
ただし,地形が険しく関係各国・各郡にとっては山間僻地の辺境にあたるこの辺りの境界線が実際にどうなっていたかは古い時代であればあるほどよくわからないようです。具体的に境界が確定するのは中世後期,国中の武田氏と郡内の小山田氏の縄張りが確定する辺りまで下るのかもしれません。
いずれにしろ,無理に一般化してまとめれば,たとえばいつも分水嶺が境界線であればわかりやすいのだけど,現実にはそうならないこともとても多い,ということになるのでしょう。
[79085] 2011年 8月 14日(日)00:29:40Issie さん
大多摩
[79084] k-ace さん
さて、「大多摩」とはどこのことなのか?

実は初めて聞きました,「大多摩」。
件の観光連盟のHPを見ると,その前身の「社団法人大多摩施設協会」が設立されたのが1946年とずいぶん古いのですね。その割にはあまり一般的に知られた地域概念ではないように思います。
「大」がつくのは,基本的に「多摩」が“東京都限定”という暗黙の了解が前提になっているのかもしれません(川崎市に「多摩区」がありますが)。多摩川の上流も山梨県内では「丹波(たば)川」ですしね。

山梨県北都留郡2村があるのはやはり多摩川の源流があり、奥多摩町と密接な関係があるからでしょうか。

昔は丹波山村から(というより,奥多摩町の氷川駅から?)塩山方面に向かうバスがあったらしいし,小菅村にはシーズン中の土日限定だけど上野原からのバスが10年ほど前から入るようになったけど,今ではこの2村へのアクセスはもっぱら奥多摩町からで,山梨県本体とのつながりはかなり弱いのではないかと思います。
その意味では,この2村が奥多摩,ないしは西多摩地方と一つの塊をつくるのはごく自然なことではあるでしょう。むしろ北都留地方の大月市や上野原市,あるいは甲州市と一体のまとまりを作ることの方が無理に思われます(ただし,甲州市のうち旧塩山市北部の一之瀬地区は丹波山村とともに多摩川水系に属します)。

ところで「丹波山(たばやま)村」や「丹波(たば)川」の「たば」は「たま(多摩)」との関連が想定されています。で,丹波山村と小菅村の間に「大丹波峠」という峠があります。これと「大多摩」が関係あるかどうか。
ちなみに,奥多摩町の東部にも「大丹波(おおたば)」「小丹波(こたば)」のペアーがあって,「大丹波川」も流れていますね。
[79069] 2011年 8月 13日(土)13:28:30【1】Issie さん
大阪都制
[79065] グリグリ さん
とここまで書いていて、大阪府が大阪都になった場合も「呼称変更」でよいのかどうか疑問が生まれました。

やはり,単なる「呼称変更」では済まないケースであろうと思います。
“二重行政”の弊害を解決するということを主眼に置く「大阪都」構想であるなら,その核心となる内容は「大阪府による大阪市の吸収」ということになるのでしょう。この場合,「村→町→市」あるいは「府→都」という“横”の異動だけでなく,(建前上,上下関係があるわけではないものの)「市→都」という“縦”の異動が起こるわけで,かなり大きな制度変更になり,したがって単なる「呼称変更」の範囲内には収まらない,と考えます。

「東京都」の場合は,東京市の区域について“府県階層”と“市町村階層”の2階層にまたがって行政を担当する“新しい制度”の創設であったわけで,そこで法律であるところの「東京都制」が新たに定められるとともに,「府」ないし「都」は“国の地方官庁”で,その改廃や知事・長官以下の官吏の任免は「天皇大権」の1つ(大日本帝国憲法第10条)でありましたから,この部分については法律ではなく勅令「地方官制」も改正されて実現したものです。
「都制」とは,これら一連の手続きを経て導入された「(東京)都という制度」という意味だと思われます。単に「東京都制」という法律が施行されたという意味ではないだろう。
その後の「地方自治法」では,“既にある制度”として他の道府県と同列に扱われることになるわけですが。

「大阪都」の場合はどうなるか。
知事は国会に足場を持っておらず,国会の二大政党等とも全く無関係に,他の都道府県との連携もなく,あくまでも“大阪府単独”で動いているように見えますから,恐らくは「地方自治法」を変えてということはなく,この法律の範囲内で,ということにならざるを得ないのでしょうが,その中でどうやって「市」を吸収し「都」となるのか。
そう言えば,この人は元々弁護士さんですから“法律の専門家”であるのでしょうが,地方行政法という分野についてはどうなのか。

一連の市制・町制・村制の話題については,みなさんの詳細な考察があるのでそちらに譲るとして,とりあえず私はこう考えます。

・かつて存在し,現行憲法・地方自治法下では効力を持たない「市制」「町村制」という法律があった(←この2つ,最初に1888(明治21)年には“1つの法律”(法律第1号)として公布されていますが,1911(明治44)年の改正で別個の法律(市制:第68号,町村制:第69号)に分離しています)。
・この体制の下では「市」になることは法律「市制」を施行することであり,その意味で「市制施行」という表現は正当である。
・しかし,「村」が「町」になる際に新たに「町制」という名前の法律(←実際には存在しない)を施行するわけではない。その意味では「町制施行」という表現は正当ではない。
・ところで,当時の6大市には「区」が設置され,これを「区制」と呼ぶことがあるが,そのような法律は存在しない。
・一般的に1889(明治22)年に導入された基礎レベルの地方制度を「市町村制」と呼ぶ。しかし,「市制・町村制」とは通常呼ばない。なぜなら,これは法律名による呼称ではなく,全国を「市・町・村」に区分して自治を行う制度,というほどの意味で用いられていると思われる。
・「町制」「村制」「区制」も同様の意味で用いられていると考えられる。「市制」,あるいは「郡制」「府県制」は同名の法律が存在し,その区分が曖昧だが,同様に「市という制度」と捉えることも可能だろう(ただし,単独で「府制」「県制」と呼ぶ例はあまりないような気がする)。
・「~という制度」という意味での呼称であれば,法律である「市制」「町村制」「郡制」「道府県制」(←1946(昭和21)年に「府県制」から改称)「東京都制」が廃止され効力を失っても成り立ち得るものと思われる。
・現行地方自治法下において,それらの呼称は法律上の根拠を持つものではないかもしれないが,慣習的な呼称としては(自治体自身も含めて)広く行われているものであり,「正当でない」わけでは必ずしもない。
・だから,場合に応じては「市制」「町制」「村制」その他の呼称を用いることもあり得るだろう。

……何だか,書いていてさらによくわからなくなりました。
ただ,話の最初の方の「宿」「駅」「浦」等については,少なくとも近代の地方制度(たとえば「郡区町村編制法」以降)としては“そのような制度”があったわけではなく,末尾がどのような呼称であれ,「村という制度(村制)」や「町という制度(町制)」の中に含まれるものだと考えています。
[78878] 2011年 8月 7日(日)10:45:11【1】Issie さん
相模原中央
昨年も同じことを書いた記憶があるのですが,
基本,甲子園からは距離を置いて眺めたいと思いながら,そのたびに自分が,現住地で自分の雇い主である神奈川県よりも千葉県の方に強く帰属意識を持っていることを確認してしまいます。特に今年は「習志野」という文字があるのが素直にうれしい。「横浜」だとか,「東海大相模」には,そういう感情が湧かないなぁ(でも,頑張ってね)。
久しぶりに校歌を聴いて,そう言えば現在リーグ・トップのヤクルト・スワローズの小川監督が前回優勝時(1975年)の投手だったことを思い出しました。

[78876] グリグリ さん
「常陸大宮、日立、鉾田、柏、松戸」という表示があり

気象警報は“市町村どまり”で,区のある政令指定都市も「横浜(市)」や「大阪(市)」(←「市」はあったか,なかったか?)までしか出て来ないのですが(ただし,大阪市は市全域が単独でかつての“二次細分区域”,現在の呼称は“市町村をまとめた地域”で「大阪市」という呼称です),地震の震度を発表する際は政令指定都市でないところも含めて,市町村以下の区分の地名がまま現れますね。
その時は確か,たとえば「相模原中央」のような表記であるように思います。
「市」と「区」が省略されている?
いや,「区」だけ省略して「相模原市中央」だったかな?

NHKのニュースなどでは,基本的にそれぞれの区域の最大震度が発表されますね。第一報は,都道府県をいくつかの区域に分けた単位(基本は気象警報で用いられる“一次細分区域”だけど,以前に hmt さんが指摘されたように,いくつかの県ではやや違った区分になっています)内で一番震度が大きかった“どこか”の震度で代表し,次いで詳細がわかると各市町村単位の最大震度が報じられる。
「相模原中央」と言えば(あるいは「相模原市中央」でも),とりあえずは「相模原市中央区」と捉えることになるでしょうね。恐らくは地震計が置かれている市役所の位置。ここが幸か不幸か「中央区中央2丁目」。だから,これは区名を飛ばして「相模原市(中央区)中央」と読んでも正しい。
でも「中央区」内にはほかにいくつか地震計の置かれている地点があって,そこの震度かも知れない。実際,「中央区中央」よりも「中央区田名」の方が大きく揺れたこともよくあります。このとき,「相模原(市)中央」の震度としてテロップに表示されるのは,中央区中央=市役所ではなく 田名 の震度なのでしょう。「相模原市中央区」と読むのならそれでもいいのですが,「相模原市(中央区)中央」だと不適当。
…ま,こんなことを気にする人はあまりいないとは思いますが。

画面のテロップ表示は「簡潔」を旨としますから,必要に応じて 市区町村 などの“接尾辞”が省略されるのはありだと思うのですが,そこからくる曖昧さが場合によっては混乱を生み出すもとになりかねないことは事実でしょうね。
[78836] 2011年 7月 28日(木)21:10:10Issie さん
1077年,ハインリヒ4世 対 グレゴリウス7世 のできごととは?
1か月ぶりの東京12チャンネル「空から日本を見てみよう」,今回は清里高原。
以前の天竜川では,かなり「自然地理(地形学)」していましたが,……
なるほど,「人文地理」もできるんですねえ。まあ,「観光地理」。
ただ,語り口にしばしば,昔フジテレビで深夜に放送していた「カノッサの屈辱」を思い浮かべてしまったのですが,それはたぶんネタがまさしくあの番組向きだったから。
考えてみれば,あの番組はバブル絶頂期のものだったんですね。
清里の雰囲気もだいぶ変わってしまったけど,今「カノッサの屈辱」を作ったらどんな番組になるんでしょうね。
[78822] 2011年 7月 24日(日)18:36:45【3】Issie さん
吉野駅は「町」
図書館に行く用事があったので,ついでに一連の話題について少しだけ眺めてみました。
見たのは,「吉野駅」が数次の合併の末,最終的に所属することになった 旧・藤野町(現・相模原市緑区)の『藤野町史 資料編・下』藤野町,1994年。

この資料集の p.28 に「明治一八年三月 吉野駅外四ヶ村町村費収支表調整進達」というのが収録されています。

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客年十二月庶第千三百十九号ヲ以テ御照会相成候町村費収支表別紙之通調整進達仕候也
 但 明治十七年度ハ各科目ニ依リ各町村費ヲ区分スルヲ得ザルニ付単ニ連合町村費ノ負担額ヲ掲ケ別ニ連合町村費支出予算ノ科目ヲ添テ参考トナス
     津久井郡吉野駅外四ヶ村
 明治十八年三月七日 戸長 和智保章
  津久井郡長 吉野十郎殿
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以下,各“駅”村の収入・支出の表が掲載されています。各表の題目は,
・吉野駅町費 収入
・吉野駅町費 支出
・日連村々費 収入
・日連村々費 支出
(以下は,町史に収録されていません。)

これは郡区町村編制法下の1885(明治18)年ものですが,固有の自治体呼称としての「吉野駅」に対して(恐らくは全国一律の)会計上の呼称は「町費」であることがわかります。ついでに,“駅”の長の呼称(職名?)は「戸長」。(←※【追加】:これは「連合戸長」ですが,恐らくは“駅”単独の長も「戸長」ではないかと思います。)

※蛇足ながら,「首長」という呼称は,現行地方自治法下において議会とは独立して住民から直接選挙され,相互に牽制しあう(二元代表制)“一方の代表”としての知事・市町村長について,「大統領制」的な性格を踏まえて行われる呼称ではないか,と解釈しています。だから,旧憲法・市制町村制下において議会(市町村会)から独立していない市長・町村長(市町村長は市町村会が選挙する)に「首長」という呼称を適用するのはどうだろうか,という気がします(私の解釈が正しいかどうかは,専門外のこととてわからないのですが)。ちなみに,“官の末端”である 府県知事 および東京都・北海道庁・樺太庁の各長官の呼称は「地方長官」です。

次に p.37 に,1889(明治22)年の町村制施行にともない町村会議員の選挙が行われましたが,それに際して開かれた「吉野駅議員撰挙会」の報告。

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四月十九日吉野駅議員撰挙会ニ於テ左記ノ通当撰相成候条此段及報告候也
     元吉野駅外四ヶ村
  明治廿二年四月十九日 戸長 和智保章
 津久井郡長 吉野十郎殿

(当選議員省略)

   吉野駅町会議員一級定期選挙
本駅町会定期選挙ニ方リ議員四名選挙ノ為メ本月十九日元吉野駅外四ヶ村戸長役場ニ於テ一級ノ選挙会ヲ開キ元戸長ニ於テ大房清左衛門、船橋四郎兵衛、大房平吉,大房伊之助四名選挙掛ニ選任シ、元戸長和智保章選挙掛長トナル、同日午後第一時選挙掛長着席開会ス
午後第三時ヲ以テ投票ヲ閉鎖ス、其投票ヲ開キ之ヲ検スルニ投票総数ノ内有効投票十八票悉皆有効ニシテ其投票ヲ受ケタル人名及投票点数左ノ如シ

(以下略)
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以下,開票結果の後,さらにどのような手順で当選者が決定されたか,非常に具体的に報告されていて,当時の選挙風景が目に浮かぶようでとても面白いのですが,ここに長々引用するのもふさわしくないので,以下省略。
ただ,もう一つつけくわえると,上の文章では“郡区町村編制法”下の旧自治体である「吉野駅」と,“町村制”下の新自治体である「吉野駅」を明確に区別していますね。

この「一級定期選挙」の段の冒頭にある「本駅町会」というのが,この話題の答えを一言で表しているように思います。
すなわち,「町村制」下においても,自治体固有の呼称は「吉野駅」と呼ぶのに対して,議会は「町会」と称しています。ここには登場しませんが,“駅”の長の呼称もまた「町長」であることが推測されます。

まとめると,郡区町村編制法下でも,町村制下でも,自治体の固有名としては「旧ニ依」り(郡区町村編制法)従来の「吉野駅」をそのまま称しているけれども,全国一律の制度としての呼称は「町費」であり「町会」であり,つまりは「町」か「村」かと言われれば「町」として扱われていた,と解釈できるように思います。

吉野駅が「町」として扱われていたとするなら,より繁華な 日野駅 や 府中駅 は当然に「町」であったと思うのですが,どうでしょう。

※せっかくなので追加:吉野駅,「大房さん」が多いですね。
[78817] 2011年 7月 24日(日)12:36:39【2】Issie さん
Re:ちでじ
お昼になったらどうなるかと,ワクワクしながらアナログ放送を視ていたのですが,何も起きずに「お昼のNHKニュース」が…。「なぁ~んだ!」
というのは,我が家が集合住宅で,建物自体が地元の有線放送局から電波の再送信を受けているから。有線放送局が気を利かせて当分の間はデジアナ変換をしてくれているみたいですね。
ただ,有線チャンネルの方でタダで流してくれていた TOKYO MXテレビ の再送信は終わってしまったようです。

さて,県境域の当地ではアンテナを立てれば(上記のように我が家ではアンテナを立てる必要がないのですが)東京“都”ローカルのMXテレビだけでなく,テレビ埼玉なんかも入ってきたようです。位置的には,“県都”の横浜よりも東京都の八王子の方が近いですから。
なので何年か前,最初に地デジも受信できるHDレコーダーを買ったとき,はじめのチャンネル設定で「東京(八王子)」でやってみたら,どうも調子がおかしい。どんなに遠くても,神奈川県のここでは「神奈川(横浜)」に合わせて設定しなけれなならないのですね。自前のアンテナではなく,有線放送局からの再送信なのだから当然です。
「県域単位の地デジ」というものを,これで体感しました。

ところで,我が家に地デジ電波(BS電波も)を再送信してくれている有線放送局は,県境を越えてのサービスはやっていないようで,県境を越えた町田市では系列の別放送局がサービスを提供しているようです。ここでは当然,東京都のチャンネルで再送信をしていて,MXテレビが視られる代わりにTVK(テレビ神奈川)はダメなんでしょうね。
でも有線放送局によっては,県境を越えてサービスを提供しているところもあるんじゃないでしょうか。その場合は,その人の視ているテレビがある(建物がある)県のチャンネル・放送局ではなく,有線放送局のある県のチャンネル・放送局になるような気がするのですが,どうなんでしょう。

※この書き込みのために何度かアクセスしたのですが,なぜかものすごく重いぞ,J:COM…。
[78786] 2011年 7月 17日(日)10:31:15Issie さん
信州松本!
[78780] じゃごたろ さん
東北六魂祭

…というのは,今朝の新聞記事で初めて知りました。残念なことに,あまり名誉あるできごとの記事ではなかったのですが。
いずれにしろ,すでに各県で十分に“商業化”されたイベントをさらに集めようとした商業イベントですね。
「祇園祭」のそもそもを考えれば別に否定することではないのですが,この「6つ」を選んだ根拠は何か,と考えるとやっぱり少なからず“客観性”に疑問が。青森はなぜ「ねぷた」じゃないの? なぜ,わざわざ「わらじ祭り」を選んだの?

[78783] じゃごたろ さん
地域密着のサッカーではというと、確かにチーム名は「AC長野パルセイロ」と「松本山雅FC」と都市名が入っていますが、この両者が対戦する場合は「信州ダービー」と呼ばれ、決して「長野」という単語がつかわれることはありません。

私はプロ・サッカーにはほとんど全く関心を持っていないので(自分でサッカーをすることは嫌いではないが)詳しいことは知らないのですが,何となく「ようつべ」を眺めていたら,たまたまサッカーの試合の開始前に「信濃の国」を歌っている場面に出くわしました。
どうも,この“長野のチーム”と“松本のチーム”の試合前らしい。で,こちらは松本のチームのスタンドで,そこで応援団が「信濃の国」の1番を歌っている。そして,歌った後のコールが「信州・松本!」というもの…。
相手の“長野側”がどうしているのかわからなかったのですが,「信濃の国」がこんな形で使われているのが面白く感じました。「松本山雅FC](←“サンガ”じゃなくて“やまが”と読むのですね)のファンに対する(あるいは,ファンの間の)キャッチフレーズに「スタジアムに行って『信濃の国』を歌おう!」という意味のものがあるようですね。
神宮球場の「東京音頭」みたいなものでしょうか。
別の動画では,よその県のチームとの試合でしょうか,その開始前に歌手(?)が「信濃の国」をアカペラで歌う場面があって,これには失笑してしまいました。(私はスポーツイベントの開始前に“「国歌」なるもの”をアカペラで歌う最近の風潮に良い感情を持っていません。)

「信濃」と「信州」の微妙な違いとかに関してはここでも過去に話題になっていたような気もしますが,何かあまり若者受けしそうもないような「県歌・信濃の国」がこんな形で使われていることが大変興味深く感じた次第。
あるいは,“全体”を「信州」と呼んでも,その中の個々の地点を「信州○○」と呼ぶのはそれほど一般的ではないような気がする(「信州中野」という“駅名”や,「信州新町」という“合併で創作された新自治体名”はあるが)中で,「信州松本!」というコールも意外に新鮮に感じたのでした。
[78781] 2011年 7月 16日(土)22:05:21【2】Issie さん
松本ぼんぼん
[78780] じゃごたろ さん
長野県の場合「諏訪湖祭」は全く知名度がない祭りでしょうが、「諏訪湖祭湖上花火大会」となると第一等のイベントになるのではないかと思います。

「諏訪の祭り」といえば,“7年に一度”(寅と申の年)の「御柱」を措いてこれを凌駕するものはあり得ないと思いますが。
この「御柱祭り」,“総本山”の諏訪大社だけではなくて,その後に順次,諏訪や松本など周辺の関連神社で行われるわけで,長野県県央部(←という呼び方を長野県ではしないけど)ではポピュラーな祭りですね。
ただ,これが「全信州」を代表するかどうか。
松本平では穂高神社の「御船祭り」が地域を代表する格式高い祭りだし,下伊那の遠山郷には「霜月祭り」という伝統のある祭りが受け継がれています。
善光寺平では,諏訪の御柱の前年に同じく“7年に一度”(丑と未の年)めぐってくる善光寺の「御開帳」こそ,一般の「お祭り」のイメージとはずれるかもしれないけれど,神社とお寺の違いだけで,その本質は全く同じ「お祭り」。
そういうお祭りが県内には大小無数にあります。
※私個人は,県内にキャンパスが分散する某大学の学生だったときにたまたま遭遇した松本市郊外神林地区の二子神社のお祭りや,これは学生寮単位でアルバイト参加していた長野市内の妻科神社や新諏訪(しんずわ)神社のお祭りに格別な印象を持っています。

「諏訪湖祭」とおそらく“対等”の位置にあるのが,長野市の「びんずる」や丸子町の「丸子どどんご」,松本市の「松本ぼんぼん」などで,同じようなイベントが県内各地で7月末から8月初めにかけて行われます。
長野の「びんずる」とは,善光寺本堂内に安置されている「おびんずる様」(賓頭盧(びんずる)尊者,ビンドラ・バラダージャ)に由来し,「松本ぼんぼん」は元は松本市内で子どもたちによって行われていたお盆の行事にヒントを得たものですが,今行われているそれはそうした由来とは別の,すぐれて商業的なイベントですね。

先ほど,NHKで京都の祇園祭の中継をやっていました。このお祭りも千年の間に“伝統”を保ちつつも,当然ながら“性格”を変えてきながら続いてきたものですよね。
それに対して,雪捨て場に溜まった雪の“有効利用”から始まった「さっぽろ雪まつり」や,各地で模倣が相次いだ「YOSAKOI」系のお祭りなど,宗教的な背景を持たずに主に商業的なイベントとして最近になって“創作”されたものも少なくない。
それらを同列に扱うのは相当に難しいことだと思います。

つまり,

ところで最近はやりの「都道府県を代表する○○」ですが、「祭り」もどなかた選定したりして。

これは無理だろう,もっと正直に「やめてくれ」と言いたい気持ちがあります。
念のために言えば,私は「商業的“松本ぼんぼん”」や「YOSAKOIソーラン祭り」のような“商業イベント”を否定するつもりはありません。
けれども,それぞれの地域の歴史やお祭りの来歴を,さらに言えばその祭りの存在自体を知らない余所者が,その「無知」の上に何の根拠もない,非常に恣意的な「独断と偏見」で選んだリストに何の価値があるのか,その意義を全く見出せません。
リストアップされるべき「祭り」とは,どのようなものを対象とするのでしょうか。このことは,すでに「山」や「川」でも問題になっていますね。どう定義づけて選択の対象としますか?

少し前に同様の意見があったのでそれに便乗するのですが,私がこの話題にどちらかというと否定的なのは,そのような気持ちがあるからです。

※蛇足
そう言えば「松本ぼんぼん」の歌で思い出したのですが,この歌の1番の歌詞の初めの方に「安曇野」って言葉が出てきます。正確には松本があるのは 安曇野(安曇郡) ではなく,「筑摩野(つかまの)」(筑摩(ちくま)郡)なんですけどね。


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