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市街地乗り入れに成功した鉄道

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記事数=15件/更新日:2016年9月7日

1874年に開業した初代大阪駅の所在地は 大阪府西成郡曽根崎村(町村制を経て 1897年大阪市)でした。
1886年に開業した初代名古屋駅の所在地は 愛知県愛知郡広井村笹島(那古野村を経て 1898年名古屋市)でした。
何を言いたいのかというと、鉄道駅が作られた場所は 大阪や名古屋の「街外れ」であり、後に 市制町村制の時代になっても まだ「郡部」であった ということです。京都駅も、ずっと後の 1917年の地形図 でさえ、市街地と農地との境界にあります。

1872年の初代新橋駅は 例外的に市街地に入り込んだ 形ですが、これは 芝浦の海中築堤[42889] という手段により 実現しました。

鉄道にとり 既存の都市中心部に 駅を設けることが好ましいのは 当然です。
しかし、現実には 用地手当は困難であり、街外れの駅になるのはやむを得ません。
このことは、更に厳しい空港の立地条件から類推すれば、現代の私達にも よく理解することができます。

それでも、鉄道の場合は、諦めずに この壁を乗り越え、なんとか市街地に乗り入れることを試み、ある程度の成果を得ています。
現在、最終的な解決手段と目されているのは 地下鉄方式 ですが、そこに至るまでには 既存の水路など、都市空間を何とか利用して、市街地に鉄道を乗り入れる努力がありました。

この特集では、そのようにして実現した市街地ターミナルに関する記事を集めました。
その代表として、東西南北4方向からの市街地乗り入れを簡潔に記した部分を、[15527]から引用しておきます。
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東海道線は,品川(実は高輪)から海岸から少し沖合いに土手を築いて,ようやく新橋まで入ることができました。
甲武鉄道(中央線)は四ツ谷から外濠の中を通ることで飯田町へ,さらに万世橋まで忍び込むことができました。
日本鉄道(東北線)は,戊辰戦争後縮小された寛永寺の上野山下の用地を転用することで,何とか上野駅まで到達することができました。
少しでも都心へ近づきたい総武鉄道は,本所駅から東京では最初の高架線を建設して「両国橋駅」(現両国駅)を開設しました。
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★推奨します★(元祖いいね)


[15527] 2003年 5月 19日(月)18:59:34Issie さん
墨東ターミナル
[15508] 雑魚さん
[15512] kenさん
[15513] N-H さん

帰りは決まって両国始発の「勝浦行き」でした。最初のころは、なんとSLが牽引しておりました。

蒸機牽引の列車は,両国口に最後まで残った客車普通列車ですね。1960年代末まで朝夕に残っていたものです。地平時代の市川駅や津田沼駅のあたりで私も見ているはずなのですが,記憶にはないなあ。総武線を走っていた「茶色い電車」は乗ったおぼえがあるけれど。

ですが、先ごろ廃止された業平橋駅地上部の状況が、明治~昭和6年までの「始発駅業平橋」の状況を留めていたものなのかは、ちょっと良くわからないのですが。

先ごろ廃止された地平ホームは,創業時代のターミナルのホームには直接つながりません。
浅草雷門駅への乗り入れで旅客輸送についてのターミナル機能を失った後,業平橋駅の地平部構内は貨物ターミナルとして整備されました。
1980年代,通勤輸送需要が逼迫した状況に対応するには列車の増発が必要だけれども,北千住で日比谷線に流すことはできず,かと言って浅草駅はホームが少なく,それ以上にホームが短くて10両編成の列車を折り返すことができない。そこでとりあえず,曳舟折り返しの列車を設定したけれど,さらに1970年代以降の貨物輸送の縮小で余裕のできた業平橋駅構内に地平ホームを“新設”し,都営地下鉄の押上駅と接続することで「第2の都心ルート」として北千住の乗り換え駅機能を分散させることも期待して,1990年から使用が開始されました。
このたびの半蔵門線乗り入れの実現で,結局は暫定的な措置であった地平ホームの役割が終了して廃止された,ということです。

隅田川の渡河が侭ならなかった当時を反映しているとか。

隅田川を渡る以前に,東武鉄道や総武鉄道の開業当時,すでに本所地区の市街化が完了していて後から建設された鉄道が入り込むことができなかったのです。
総武鉄道は初め「本所駅」をターミナルとしていました。現在の錦糸町駅です。駅東側の横十間川は当時の「東京市本所区」と「南葛飾郡亀戸町」との境ですね。ここが当時の本所地区のはずれなのです。
このロケーションは東武鉄道の吾妻橋(→浅草→業平橋)ターミナルも,さらにお隣の京成電軌の押上ターミナルも同じですね。
これより隅田川方面へは,すでに密集した市街地が形成されてしまっていて,そのままでは鉄道が入り込む余地がないのです。
東京のほかの鉄道ターミナルも同じですね。
東海道線は,品川(実は高輪)から海岸から少し沖合いに土手を築いて,ようやく新橋まで入ることができました。
甲武鉄道(中央線)は四ツ谷から外濠の中を通ることで飯田町へ,さらに万世橋まで忍び込むことができました。
日本鉄道(東北線)は,戊辰戦争後縮小された寛永寺の上野山下の用地を転用することで,何とか上野駅まで到達することができました。
けれども,それより内側の密集市街地へ鉄道がそのまま入ることはできなかったのです。
(このあたり,大阪も同様です。梅田~天神橋筋六丁目~天満橋~片町~上本町~天王寺~恵美須町~難波~湊町~汐見橋 というのが,当時の大阪市街の輪郭というわけです。)

少しでも都心へ近づきたい総武鉄道は,本所駅から東京では最初の高架線を建設して「両国橋駅」(現両国駅)を開設しました。国有化されるまで,東武鉄道もこの駅をターミナルとして共用し,そのための連絡線として現在の亀戸線が敷設されました。
総武鉄道の国有化によって両国橋ターミナルの共用は終了し,東武鉄道は再び吾妻橋(業平橋)をターミナルとします。そして,独自に隅田川へ架橋して浅草区へ直接乗り入れることを考えたわけです。
一方,鉄道院(官鉄→国鉄)の方では,上野-東京-新橋・万世橋-東京・両国(橋)-御茶ノ水のそれぞれの区間により大規模な都心高架線を建設して,東京の国電体系の基礎を形作りました。
大正から昭和に入ると,都心へのアプローチ手段は地下鉄で,という時代になります。

※この書き込みのタイトル,「ぼく」には“さんずい”を付けたいところですが,この漢字,あったとしてもユニコードまで行かなければ無理でしょうね。
[35062] 2004年 11月 13日(土)23:04:04【2】hmt さん
♪ 新宿駅より甲武線― 電車唱歌で巡る100年前の東京(4)
[33135][35013][35034]に続いて、新たな2社の路線が登場します。

【33】《新宿駅より甲武線 四ッ谷 市ヶ谷 牛込や 飯田町をばうち過ぎて その名も清きお茶の水》
【34】《その道すがら右左 目に入るものは青山の 練兵場や学習院 士官学校 八幡宮》
甲武鉄道の市街線は、最初にもっと北のルートを計画したようですが、日清戦争のために青山練兵場 [神宮外苑] と新宿を結ぶ軍用線が先行しました。《その道すがら…青山の練兵場》は、必然の結果というわけです。

このルートだと、その先の市街地に達するのに赤坂御所や学習院の下を抜けなければなりません。当時としては「恐れ多いこと」でしたが、川上操六大将が皇室に掛け合ってトンネルを掘る了解が得られました。兵員輸送が一段落した後で牛込(駅跡はJR飯田橋駅南西)までが開通、翌1895年飯田町まで完成しました。

最初は汽車だけでしたが、1904年に飯田町―中野間で電車併用運転を開始しています。こうして「電車唱歌」には、電鉄・街鉄・外濠線の3社に伍して、路面区間のない甲武線も登場することになりました。4輪単車ながら定員58人の大形で、空気ブレーキや連結運転用の総括制御器も備えていたあたり、やはり国電の元祖です。
電車唱歌の1905年には 既に御茶ノ水まで複線の電車専用線が開通しており、更に都心のターミナルを予定した万世橋まで工事中でした。(翌年 甲武鉄道は国有化され、中央線のターミナルも1919年には万世橋駅[33135]の【3】から東京駅に移ります。)

夏目漱石の「三四郎」は 国有化後の1908年ですが、“甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗った”と書いています。

【35】《外濠線は四ッ谷より 市ヶ谷見附 神楽坂 砲兵工廠前をすぎ お茶の水橋 駿河台》
「外濠線」は、路面電車3社の中で最後 1905年に登場した「東京電気鉄道」で、通称の通り、千代田城の外濠沿いに走る環状線でした。
「神楽坂」は神楽坂下の牛込見附交差点で、現在は有楽町線飯田橋駅の出入口があります。なお、都営大江戸線の「牛込神楽坂駅」や東西線の「神楽坂駅」は神楽坂の坂上から更に先で、全く違う場所です。
「砲兵工廠」は、水戸徳川家上屋敷の跡地 [後楽園]。都電時代は飯田橋までが3系統、その先お茶の水橋まで13系統。
お茶の水橋を渡って駿河台の坂を下ります。戦後の都電ではこの区間は廃止されていましたが、学生時代、橋の上にレールが残っていたことを覚えています。

【36】《小川町より錦町 鎌倉河岸より常盤橋 左に高き建物は 日本三井の両銀行》
外濠線の小川町[駿河台下]・錦町は、街鉄線[33135]の同名停留所【3】よりも約400m西の通りです。
常盤橋界隈や日本銀行になった金座については[33433][33573]で書きました。

【37】《呉服橋より鍛冶橋と すぎ行く道は八重洲河岸 帝国ホテルを対岸に 見つつ土橋の停留所 》
外濠に沿って南下します。東京駅開業までの一時期存在した院線電車呉服橋駅は1910年開業ですから、まだありません。
東京駅に東口が開設されたのは1929年。
「八重洲」という地名の由来となったリーフデ号の船員オランダ人ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインが徳川家康から与えられた屋敷は現在の千代田区丸の内二丁目で、明治の地図には八重洲町とあります。八重洲町の北西、外濠に架けられていた八重洲橋と更に北の呉服橋との間にできた東京駅東口が八重洲口と呼ばれるようになったのは戦後でしょう。その八重洲口からできたと思われる地名・現在の中央区八重洲一丁目は、ヤン・ヨーステンの居た場所から東京駅をはさんで約1kmも北西に動いてしまいました。
《帝国ホテルを(外濠の)対岸に見つつ》ということは、視界を遮る高架線のアーチが、まだ烏森駅(1909)[新橋駅]から北に伸びていなかった時代ということです。

【38】《右に曲りて程もなく 内幸町とおりつつ なお行く先は虎の門 議事堂近く建てるなり》
土橋で右折すると、およそ現在の銀座線、新橋から赤坂見附へのルートです。
虎の門の議事堂とは、現在の経済産業省の地にあった第2次仮議事堂です。ベックマン・エンデプラン[35034]の議事堂予定地は、現在の国会議事堂と同じ永田町でしたが、多大の費用を調達できず 実現困難であったため、虎の門付近に仮議事堂を建設して1890年の第1回帝国議会に間に合わせました。
ところが、これが会期中に早くも焼失。第2次仮議事堂は震災には残りましたが1925年に再び焼失。第3次仮議事堂が1936年に現在の国会議事堂が完成するまで使用されました。

余談ですが、震災後の1923年末、この第2次仮議事堂で開かれる第48帝国議会の開院式に向かう摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃するテロ事件が発生。この虎ノ門事件で辞職した警視庁警務部長・正力松太郎が転身して、翌年読売新聞を買収したことが、現在のプロ野球やテレビ放送の歴史にまで大きな影響を及ぼしたことになります。

【39】《赤坂区へと入りぬれば 溜池田町たちまちに 弁慶橋もうちすぎて 四ッ谷見附に至るなり》
虎ノ門から先、赤坂見附・四谷見附・市ヶ谷見附を経て飯田橋までは都電時代の3系統(戦前は33系統)で、「外濠線」の名がずっと生き残っていました。
溜池は、[33199]で記したように明治になってから水がなくなり、埋め立てられていました。
赤坂田町の向いには閑院宮邸 [赤坂東急]、弁慶橋の北に北白川宮邸 [赤坂プリンス]・伏見宮邸 [ニューオータニ] と、当時の宮邸がホテルに変っていることがわかります。もちろん江戸時代は大名屋敷(松江藩・和歌山藩・彦根藩)です。紀州家・井伊家と尾張家[上智大学]の屋敷があったことから紀尾井町の地名ができました。
電車は外濠沿いの低い専用軌道を通り、喰違見附から紀之国坂上へと外濠を横切る土手を、短いながら東京の路面電車で唯一のトンネルで貫いてから四谷見附に上がりました。
電車唱歌は【35~39】で外濠沿いの一周を完成。

# リンクの誤記修正。外掘となっていた個所を外濠に統一。なお、[33135]の「外掘線」も「外濠線」の誤記です。
[39140] 2005年 3月 30日(水)16:15:47【1】hmt さん
東京にもあった「○○電車」
[39079]スナフキん さん
関西では私鉄のことを「電車」と言うのですよね?!

昔は、東京でも「○○電車」と呼んでいました。
電通古今東西広告館に京王電車・玉川電車・東武電車・京成電車・湘南電車のパンフレット。
別に東横電車目蒲電車沿線案内もあります。
その他、西武電車、トシマヱンのある武蔵野電車、都電荒川線になった王子電車、錦糸堀を中心とした城東電車などもありました。
「○○電車」という呼び名を聞いた覚えがないのが、東上線と小田急。後者は、♪いっそ小田急で逃げましょか(東京行進曲1929)の昔から「オダキュー」でした。

[39124]KMKZ さん
鉄道路線を○○電車と呼ぶ例ですが、関西では私鉄路線の総称として使っているようですね。
関東では東海道線だけは路線の愛称として湘南電車(中略)最近は使われなくなってしまいましたね。

国鉄の「湘南電車」は、戦後の復興期(1950年)に東京~沼津・伊東間に投入した80系電車の愛称でしたが、公募で決まった当初の愛称は「湘南伊豆電車」であったとか。この長い名前は事実上使われることなく、短縮された湘南電車が電車化された区間の路線愛称にも使われました。現在では「新宿湘南ライン」にその名を残しています。

ところで、国鉄の公募愛称に「伊豆」が入っていた理由は、三浦半島を走った私鉄の「湘南電車」があったためでしょうか。
もっとも上記「湘南電鐵」パンフレットのタイトルは、他社のものと異なり「湘南電車」になっていません。
また1933年には、乗り入れ先を東京市電から湘南電鉄へと方針転換した京浜電気鉄道が標準軌に改めて、品川~浦賀間の直通運転を開始していますから、京急の路線の一部という現在の感覚とあまり変らなくなり、私鉄の「湘南電車」という概念がどの程度に確立していたのかは疑問です。

私鉄の「京浜電車」の使用例も挙げておきますが、これも国鉄の「京浜線電車」があり、紛らわしかった筈です。

東京と横浜の間は、日本最初の鉄道路線であり、明治5年5月17日の品川~横浜(現・桜木町)間仮開業時の所要時間は35分というから、意外なスピードに驚きます。但し新橋まで開通して途中駅に停車するようになったら53分。

この区間、しばらくは官鉄の独占でしたが、1905年の末に京浜電気鉄道が品川~神奈川間を全通させ、頻繁運転の競合路線が出現しました。
負けてはおれない国鉄(当時は鉄道院)は、東京駅の開業に合わせて東京~横浜(高島町)間に専用線を作り、電車運転を開始することになりました。
ところが、東京駅開業式典に併せて行なわれたこの「京浜線電車」の試乗会で、電車が途中立往生するという失態を演じ、さすがの豪傑[34522] ・仙石貢鉄道院総裁も新聞に謝罪文を掲載する羽目におちいりました。参照記事

こんなトラブルもありましたが、院線の「京浜線電車」運転は本格的な高速電車時代の幕開けであり、電車の奇数・偶数の区別もこの3両編成の電車に由来します。
京浜線は、省線時代に東北線へも延長されて「京浜・東北線」になり、戦後の国鉄時代に中黒のとれた「京浜東北線」の名が定着しました。

初期故障といえば、後の湘南電車も試運転の架線事故で2両が全焼し、「遭難電車」と皮肉られたものですが、これも長距離列車電車化の先駆けとなった画期的なものでした。
[42889] 2005年 7月 7日(木)23:07:48【1】hmt さん
品川の海
[42842] EMM さん
海岸線に張り付いている「Sinagawa Wan」なんかもあるのですが、品川湾という名称はいつ頃まで使われていたのでしょうか???

Google Earthで、東京湾内において水色の表示が出てくる湾は、湾口から Otu Wan, Yokosuka-ko, Nagaura-ko, Negishi-wan とあり、その右に「Tokyo-wan」。そして、中央防波堤内外埋立地の上に「Sinagawa Wan」ですね。

はじめに、自然地形としての湾を確認しておくと、古川の川口と目黒川の川口との間が弧状の湾入をなしています。これが、本来の「品川湾」でしょう。大きな道路では、第一京浜がほぼこの旧海岸線に沿っています。なお、「旧海岸通り」は、ずっと後、昭和初期の海岸です。

例えば、「蝦夷地航路開拓と測量に向けて、堀田仁助が江戸の品川湾を出航(寛政11年)」、「慶応4年正月、鳥羽伏見の敗戦を知った徳川慶喜は、開陽丸で大坂を出て品川湾に到着」、「同年8月、榎本武揚は4隻の幕府艦隊を率いて品川湾を脱出」という具合に、江戸と外海を結ぶ品川湊がありました。

この海は、幕末に黒船の脅威が現実になると、大砲の台場が築造された江戸の防衛線でもありました。
♪窓より近く品川の 台場も見えて波白く…と、鉄道唱歌に歌われていますが、明治になって敷設された鉄道は、この品川湾岸に沿って海中に築いた土手の上を走りました。

品川湾南端は品川宿[38442]です。当時の目黒川口だった北品川の海岸には地付台場跡があり、その沖には、四番、一番、五番、二番、六番、三番、未完成の七番の順に2列の台場跡が並んでいました。この内、四番は陸地に取り込まれた天王洲アイルになり、六番はレインボーブリッジの横に残り、三番は台場史跡公園になっています。

そして、品川湾北端の芝浦は漁師町でした。「芝海老」の名や落語の「芝浜」でおなじみ。
からくり儀右衛門こと初代田中久重の田中製作所(電信機)が新橋から移転して来たのは明治15年で、芝浦製作所と地名を名乗りました。マツダランプの東京電気と合併して合成社名の東京芝浦電気→東芝と、「芝」の地名を伝えています。

明治中期になると、近代的なインフラ整備が検討されます。東京市史稿 港湾篇には、
品川湾及隅田川地質調査 1889(明治22)年10月16日
などと、品川湾も登場し、また、漢語風の「品海」という用例も現れています。
品海築港方案討議 1889(明治22)年2月19日

この「品海築港」は、田口卯吉、渋沢栄一、福沢諭吉らによって主張されたのですが、近代港湾の建設は横浜が先行することになり、明治20年(1887)からの東京は、隅田川河口の浚渫による「築島」(つきしま=月島)の造成[33296]という、築港よりも土地造成が主体の工事になりました。

20世紀になっても、「明治43年11月29日、白瀬南極探検隊の開南丸出航」の地は、(「芝浦」と書いてある記録も多いのですが)「品川湾」とも記されており、まだ使われています。

品川湾に近代的な埠頭を建設する「東京築港計画」は、明治33年に立てられたものの、遅れに遅れ、震災復興事業でようやく急ピッチで進み、大正14年に日の出埠頭が、続いて芝浦埠頭、竹芝埠頭が昭和初期に完成しました。東京港の正式開港は、昭和16年(1941)5月20日。
さすがにこの時代になると、「品川湾を出航」という用例はなくなったと思います。

東京湾の赤潮の記事を見ると、
内湾の赤潮の発生は1939年までは、品川湾から横浜沿岸の湾奥西部にとどまっていたが、1950年ごろから湾奥東部へ拡大し…
とありますから、東京湾内を詳細に区別する必要のある「海の視点」では、現代でも「品川湾」という呼び名は存在するのかもしれません。

でも、陸上の一般人にとっては、埋立が進み、レインボーブリッジが架けられた現在、「ウォータ-フロント」という言葉の方が幅を利かせ、「品川湾ってどこ?」という感覚になっています。

なにしろ、東京モノレール沿線がすっかり海から離れた風景になってしまっているのですから、品川湾は地理的な存在としても消滅した言わざるを得ないでしょう。
1964年、東京オリンピックに合わせて開通したモノレールの開業当初は、92年前の鉄道開通時を再現するが如くに、さえぎるもののない海上の高架橋を走っていたのです。
[67076] 2008年 10月 20日(月)22:01:56【3】Issie さん
「都市内交通」は軌道の役目
[67068] ペーロケ さん
松山電気軌道

松山周辺は,三津(浜)~松山市内~道後温泉 間でかつて複数の路線が競合関係にあり,それを伊予鉄道が統合する過程でいくつかの路線が整理されたり経路変更をしたりして,その痕跡が現在でもあちらこちらに見られること,そして「昭和」になって初めて省線鉄道(国鉄)が乗り入れて(1927:昭和2年),つまりは歴史的に国鉄の影がとても薄かったことから,“歴史派”の「鉄」にはとても興味深い話題の多いところです。

さて,「松山電気軌道」は,その名前の通り,ある立場から分類した場合の「鉄道」ではなく「軌道」であって,だから“あの原則”に当てはまるか否かを論ずる以前に“対象外”の存在です。
むしろ「軌道」であればこそ,「街の真ん中を走るもの」という“逆の原則”の典型例というべきものかもしれません。

この“分類”の基本的な発想は,「鉄道」が自前の線路敷を確保してその上にレールを敷設することを大前提とするのに対して,「軌道」とは“道路の上”にレールを敷設することを原則とする,というものです。
法律上で「鉄道」と「軌道」が区別される理由は,もともと道路の上を走る「軌道」の敷設と運営が,その道路を管轄する 内務省(のち 建設省) の所管行政と深く関わる部分があることにあるのでしょう。ただし,当初は 内務省 が監督官庁であった「軌道」は,1908年の 内閣鉄道院 設置後はこれとの共轄となり,以後,鉄道省→運輸通信省→運輸省 と道路側の 内務省→建設省 がともに管轄していました。運輸省と建設省が合併して初めて,国土交通省の単独管轄となったのですね。

そんなことは措いておいて…,
要するに,すでに家屋が密集している既存市街地の中にレールを敷こうとした場合,それができるのはまず道路上に限られます。「鉄道」は,(日本では)法律上,道路の上に敷設することができないので(よく使われるたとえですが,鉄道の道路との併用区間は「長ーーーい踏切」として“大目に見てもらって”いるのです),市街地の中に入り込むことができません。
それに代えて,道路上に敷設されて既存市街地内の交通を担当したのが「軌道」だったのです。
日本では「鉄道」よりも早く,東京の市街地内に「馬車鉄道」が現れ(←「鉄道」と呼ばれますが,上記の分類では「軌道」です),やがてそれが電化されて「路面電車」となりました(もちろん,初めから路面電車であった都市の方が多いのですが)。
こうして,街外れに駅を設置してその都市の外との交通を担当する「鉄道」と,駅と都市の中心部を結ぶ,あるいは都市内の交通を担当する「路面電車(軌道)」という,1960年代末までは多くの地方都市でおなじみの構造ができあがりました。現在でも,広島や熊本,鹿児島などが典型例として残っていますね。JR松山駅と松山市中心部との関係も,そう。
ただし,都市そのものは当時よりも遥かに拡大していて,今ではそれらの都市でも「鉄道」が近郊輸送を担う部分が増えています。

ただ,東京や京阪神のような大都市周辺では特に大正~昭和初期にかけて,当時の法律上の規定が制約となって「鉄道」と「軌道」の境の曖昧な路線が多く建設されています。これらの多くは,戦後,社名も法律上の位置づけも「軌道」から「鉄道」に変更されています。
東京では,京成,京王,京浜(京急)がこれに当たるのですが,これらは当初,「軌道」として建設され,東京市内の路面電車と同じ1372mmゲージを採用しました(京王線は現在も)。しかし,「鉄道」と同じく多くの区間は道路とは別の新設軌道(専用軌道)で,当時の東京市街地の縁辺部にそれぞれターミナルを置いていました(押上,四谷新宿,高輪[品川])。そして,そこから路面電車に乗り入れて都心へ入ることを考えていたようです(京浜は,横浜側でも 神奈川ターミナル を介して市内=関内方面へ入ろうとした)。結局この3社では実現はしませんでしたが,この形態は,ロサンゼルスを筆頭に当時のアメリカ合衆国で大いに流行っていたものでした。彼の国では,その後,急速に廃れましたが。

「鉄道」が都市内部に潜入することを可能にしたのは地下鉄です(その前に「高架鉄道」という手段も試みられたのですが,既存市街地内への潜入という点では,その効果は限定的でした)。
当初は「路面電車が地下に潜った」だけに過ぎなかった地下鉄が大きく変貌する第1歩となったのが,1960年に開通した都営1号線(浅草線)が京成電鉄と相互乗り入れを始めたこと。以後,多くの路線で当たり前の姿になります。さらに,1972年には国鉄自身が“地下鉄”(総武快速線)を開通させて,新しいルートで都心に潜り込むようになりました。後の大阪で開業した JR東西線 もこのパターンですね。
こうして,今では「鉄道」が“地下鉄”という形で大都市の既存市街地の真ん真ん中に潜り込んでいるのは,日本ではおなじみの姿になっています。昨日もまた,そのような路線が新たに1つできた,というわけです。

で,話を戻って…
現在の 松山市内線(路面電車) の(城北線を除く)前身が 松山電気軌道 ですね。もっとも,多くの区間でルートが変更されていて,そのまま現在につながっているわけではないのですが。
後発の 松山電気軌道 がライバルの 伊予鉄道 に対抗する上で選択したのが,既存道路上を走る「軌道」という形で市街地の中心部を通り抜ける,というルート設定であったのはないか,と思います。
[67094] 2008年 10月 22日(水)14:15:08hmt さん
「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”を破って市街地に入った鉄道
[67076] Issie さん
「鉄道」は,(日本では)法律上,道路の上に敷設することができないので(中略),市街地の中に入り込むことができません。
「鉄道」が都市内部に潜入することを可能にしたのは地下鉄です。

それでも東京の場合は、なんとか市街地に入り込んでいますね。
既に Issieさん ご本人が[15527]で書いておられることですが、
東海道線は,品川(実は高輪)から海岸から少し沖合いに土手を築いて,ようやく新橋まで入ることができました。
甲武鉄道(中央線)は四ツ谷から外濠の中を通ることで飯田町へ,さらに万世橋まで忍び込むことができました。
日本鉄道(東北線)は,戊辰戦争後縮小された寛永寺の上野山下の用地を転用することで,何とか上野駅まで到達することができました。

その後は「高架鉄道」の時代になります。
[67076]には“その効果は限定的でした”と書いてありますが、東京の場合は、 1925年には南北の鉄道が、そして1932年には東西の鉄道が、いずれも市街地貫通を果たしています。

1910年に烏森から呉服橋[35062]への電車線が先行して開業した後、1914年には本線の新橋-東京間も開通。この東京駅開業に合わせて運転を開始した「京浜線電車」は、本格的な高速電車時代の幕開けでした[39140]
1919年、中央線も万世橋から東京駅へと乗り入れ、当時の東京市の区域を、西から南へと鉄道路線が貫通することになりました。電車は京浜線・山手線に乗り入れて、中野~東京~品川~池袋~上野と「の」の字を描く経路で運転されました[38388]

そして 1925年になると、関東大震災の影響で工事が遅れていた東京-上野間の高架鉄道がようやく開通し、南北の鉄道が結ばれました。「『の』の字運転」だった山手線も、現在のような「環状運転」に変りました[34120]
総武線の本所からは1904年に両国橋までが開通。
1932年になると御茶ノ水までの高架線が完成し、「高架の上を高架が越える」都市景観[47265]が出現しました。

書いているうちに気がつきましたが、上野-秋葉原間には、日本鉄道時代の明治23年に貨物線が開業していました。
高架線に先立つこと35年、神田川舟運との結節点まで鉄道が入り込んでいたわけです。

このようなわけで、東京は例外的な存在なのかもしれませんが、「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”を破って、東西南北四方面からの鉄道が市街地に入り込んだ町でした。

ここで昭和40(~50)年代に行なわれた国鉄の「五方面作戦」という言葉を思い出しました。
常磐線はこの「五方面」の一つですが、隅田川を渡った後、南千住から南進するルートが東京の市街地に阻まれています。
西に進んで三河島と日暮里の間で異常な急カーブを形成、上野に至る不自然な線形。

歴史的な経過をたどれば、南千住-三河島間は上記のような迂回ルートがその趣旨ではなく、日本鉄道が水陸の結節点として作った「隅田川貨物駅」(1896)と田端とを直結する線であったことがわかります。土浦線(1896-1901年の名称)は隅田川=南千住から北へ進みますが、旅客列車は上野起点のため、とりあえず田端でスイッチバック。

日本鉄道としては、当然上野から日光街道沿いに入谷・三ノ輪を経由して南千住に至る旅客列車線の建設を考えたことと思います。しかし、まだ田園が広がっていた 明治10年代 と違い、既に用地買収は困難になっていました。
土浦線開業の9年後、1905年に海岸線と呼ばれていた日暮里-三河島間に急カーブの短絡線が作られました。これは、鉄道は容易なことでは市街地に入れないという現実を、ようやく受け入れた結果であると考えられます。その翌年には日本鉄道国有化。

時代は移り、地下鉄直通により郊外からの路線が東京市街地に入るようになると、南千住からも日比谷線が上野に通じました。しかし、直通した電車は東武鉄道。常磐線から直通する千代田線は、上野を通らない別ルートになりました。

横浜の場合も、原則の通り“町はずれの地”に設けられた初代横浜駅(現・桜木町駅)。
そしてその先、市内交通の主役は市電(軌道)である状態が、長い間続いていました。
もともと、東西両京を結ぶ中山道幹線鉄道とは別の支線のつもりだった新橋-横浜間が、西に伸びる幹線鉄道としての役割を負わされることになり、スイッチバック→神奈川-程ヶ谷間短絡線→高島町の2代目横浜駅→震災復興後の3代目横浜駅と変遷したことは[49808]で記しました。
横浜市街地を貫通する高架鉄道・根岸線の開通は、はるかに後の1964年です。
[67098] 2008年 10月 22日(水)23:09:49Issie さん
高架の効果
[67094] hmt さん
東京の場合は、 1925年には南北の鉄道が、そして1932年には東西の鉄道が、いずれも市街地貫通を果たしています。

大阪では,開通当時は市街地を遠巻きにして敷設された 西成線(1898年開業)と貨物線(大阪臨港線;1928年開業)に挟まれた既存市街地の間を高架でまたいで結びつけて「大阪環状線」とする(1961年)という“荒業”が行われていますね。

日本で最初の“本格的な高架鉄道”は,1904(明治37)年に 総武鉄道 がそれまでターミナルとしていた 本所駅(現錦糸町駅) から1歩都心に近い新ターミナル 両国橋駅(現両国駅) へ入り込むために,本所の住宅密集地上に建設された高架線だとされています。
東京の省線電車の“大高架鉄道”と同じ時期の大正後期から昭和初期にかけて,東京や大阪・神戸などでは私鉄が盛んに高架線で都心に乗り入れようとしていますが,その中で比較的に距離が長いのは,1931(昭和6)年に開業した京成上野線の 日暮里~隅田川橋梁 間。ほかは都心側ターミナルに近い短距離区間を高架で乗り入れている例が多いですね。

既存市街地の中に“全く新しいルート”で入り込んできた高架鉄道としては,名古屋市南部の住宅密集地に入り込んできた東海道新幹線の 笠寺~名古屋 間があります。新大阪東方も現在では市街地の中に埋もれていますが,当時はまだ“街外れ”…だったかな?
逆の西方に山陽新幹線として延伸された1972年には,もう市街地化は完了していましたかね。とすれば,既存市街地をまたぐ高架鉄道の面目躍如ということになるでしょうか。
東北・上越新幹線および埼京線(1985年)もそうですが,最近の高架鉄道は「既存市街地への突入」というよりも「連続立体化による道路交通との分離」という方に重点が置かれているのでしょうね。

そう。日本の場合,高架鉄道の多くは元々地面の上を走っていた“既存の鉄道路線”をほぼ同じ場所で高架化するものがほとんどですね。
既存市街地へ入り込む,というよりも,都市が膨張したために,本来は“街外れ”を走っていたはずの鉄道が市街地に呑み込まれ,結果として線路の両側の交通を遮断するに至ってしまい,それを解消するために高架化する,というのが一般的なパターンです。

アメリカ合衆国では19世紀後半から20世紀初めにかけて,いくつかの大都市で鉄道が都心に入り込む手段として盛んに高架鉄道が建設されました。典型的なのは,ニューヨークの都心で何本もの道路の上に建設された高架鉄道。しかし,これも路面電車同様,20世紀半ばに急速に廃れ,ニューヨークでは1950年代までに撤去されてしまいました。シカゴには今でも残っていますが。

道路や川の上に高架線を建設するというと,日本でも首都高などのように道路では常套手段なのに,鉄道ではあまり採用されていませんね。…というより,思いつくのは運河の上に高架線を設けることで横浜の都心部を突き抜けた根岸線(1964年;[67094] hmt さん)くらい。あとは,[67097] の 玉野市営電鉄 か…。
もちろん,モノレールや新交通システムではこちらが当たり前ですけどね。
[74436] 2010年 3月 25日(木)18:22:47hmt さん
「新橋駅烏森口」と その前身の「烏森駅」
[74400] かぱぷう さん の書き込みの主テーマは、「新宿西口駅前」や「新橋烏森口駅前」といった「(駅名)(改札口名)駅前」の表記に対する違和感でした。
この本筋へのレス[74416]もあったものの、反響の大部分は「まくら」に使われた「むさこ(武蔵小杉)」関連。
私のこの記事は、本筋へのレス的な要素もありますが、主題は別の視点からのものです。

「新橋烏森口駅前」について
JR新橋駅の北側には自由通路があり、その西側が日比谷口、東側が銀座口です。
同様に、南側自由通路の西側が烏森口、東側が汐留口……と思っていたのですが、駅構内図 で確認したら違っていました。

「新橋駅○○口」というのは、駅構内への出入口ではなく、改札口の名として使われており、自由通路に面した南側唯一の地上改札口が「烏森口」で、「汐留口」は1976年 横須賀線の地下移設時にできた東側の地下改札口でした。

してみると、新橋駅烏森口を出て、自由通路を西の烏森方面に出ても、東の汐留方面に出ても「新橋烏森口駅前」? 
そんなバカな。 やはり、この表記はおかしいのかもしれません。

よく知られているように、1872年に開業した ♪汽笛一声新橋を… の(初代)新橋駅は、汐留にあった終端型の地平駅でした。

山手線の汽車は日本鉄道時代から官鉄に乗り入れていましたが、買収後の 1909年(明治42年)12月16日に電車化されました。
これを機に、品川-新橋間には電車専用線が作られ、新橋駅の西側に、北に延長可能な高架線構造で新設された電車駅は、「烏森駅」と名乗りました。

この駅は単なる電車専用駅ではなく、後に「汽車」も停る駅になるのですが、とりあえず電車で先行開業したわけです。

烏森駅の由来:松林のある武蔵国桜田村の海岸には烏が群れていて、平将門の乱を平定した藤原秀郷(田原藤太)が、神烏の群がる霊地に 烏森稲荷を祀った と伝えられます。ビルの谷間に烏森神社が現存。「烏森」の名は、1932年まで東京市芝区の町名に使われていました。

この電車専用線は翌年には市内に伸び、中央停車場(東京駅)の完成に先んじて呉服橋[35062]まで開通しました。位置的には、現在の東京駅日本橋口に近いものと考えます。
この段階で、「鉄道が通るのは街外れ」という“原則”を破って 市街地に入る[67094]ことを可能にしたのは、高架鉄道[35106]の建設 という新技術でした。

1914年からは、東海道線の起点も開業した東京駅に移され、「汽車」も停る駅になった烏森駅は、高架線上の「2代目新橋駅」になりました。貨物と(旅客の)荷物とを取り扱うことになった初代新橋駅は「汐留駅」と改称。

電車専用線は、東京駅開業と同時に鉄道院が開通させた「京浜線電車」[39140]と 山手線乗り入れ電車との共用になりました。
この3両編成の電車こそは、後の「省線電車」「国電」のスタイルを確立した 本格的な都市間電車[61549] だったのでですが、品川-高島町間に作った電車専用線と パンタグラフとの不具合という 初期トラブルにより、電車が途中で立往生したのは 大失敗でした[39140]

港区新橋と中央区銀座の境界をなす汐留川には、埋め立てにより 首都高速道路になる前は、「新橋」という橋がありました。江戸時代の地図では「芝口橋」。慶長年間に東海道を整備したときに作られた橋とのことなので、鉄道開通の頃の「新規の架橋」ではありません。

人手が加えられて すっかり江戸城外濠の一部に利用されていた汐留川は、徳川家康の江戸入りよりも前には、四谷方面から流れていた 自然の川に由来し、この水系の「溜池」[33199] は、江戸における最初の上水として利用されました。「汐留」は、上水に対する「海水の逆流対策」を意識した地名でしょう。

「汐留」という地名は 1965年住居表示で東新橋になり町名からは消えましたが、近年の再開発によって耳にする機会が多くなりました。
[79735] 2011年 12月 13日(火)18:26:14【1】hmt さん
その名は「万世」、しかし短命に終った橋や駅もあった
[79717] 伊豆之国 さん 幻の銀座線「萬世橋駅」
[79721] Issie さん 省線万世橋駅

子供の頃に住んでいたのが 牛込区納戸町[41218]でした。
現在、都営地下鉄大江戸線が走る大久保通りですが、当時は飯田橋まで同じルートの路面を走っていた「東京市電」13番系統の上り方面行先が「万世橋」でした。
下り方面の行先は 「角筈」 で、こちらは大久保車庫専用軌道区間手前の抜弁天までが大江戸線ルートになっています。

戦後の「都電」時代も 13番でしたが、行先は少し先の秋葉原東口で、更に水天宮[10805]まで延長されました(1958)。1970年に廃止された時の終点は岩本町だったようです。

多少の変遷はありますが、万世橋近辺は 神田川の水運、馬車鉄道→路面電車、高架鉄道、都市計画道路、地下鉄道と、時代に応じた路線が集中する都内交通の要地でした。
以下、現代の地図 を見ながら、神田川の両岸に亘る交通結節点につき、少し語ります。

鉄道の駅としては、日本鉄道時代の明治23年(1890)に設置された「秋葉原貨物停車場」[34120][67094]が最初ですが、現在の高架線電車駅はずっと後の 1925年です。
路面の軌道としては、1882年開業の東京馬車鉄道→1903年東京電車鉄道の万世橋停留場がありますが、1903年に 東京市街鉄道が 神田川の南に作った停留場が、電車唱歌[33135]に ♪乗りかえしげき須田町や♪ と歌われている 一大ジャンクションでした。

「万世橋」という名は、解体された「筋違御門」の石垣に使われていた石材を利用して明治6年(1873)に作られた2連アーチ橋として登場します。当時の東京府知事・大久保一翁の命名は「万世(よろずよ)橋」で[51807]、従来の見附門付属の木橋と違う永久橋であることを誇示したものでしょう。

これが音読みされるようになったのは、似たような意味の「永代橋」(隅田川)が音読みされていた為かもしれませんが、何故か「バンセイ」でなく「マンセイ」なのですね。新潟の 萬代橋【2004年重要文化財指定】は、「よろずよばし」から「バンダイばし」に転訛したようです。

場所は 現在よりも少し上流 昌平橋との間ですが、広幅の幹線道路ではなく、西洋式の架橋技術のテストという意味合いが大きかったのではないかと推察します。常磐橋(1877)[33433]や日本橋(1911)[63949]に先立つ存在です。

幹線道路の昌平橋が洪水で流出した後、現在の万世橋付近に代替の木橋が架けられ、これが明治36年に鉄橋に変った時に 「万世橋」を名乗った とあります。そして「元万世橋」になった石橋(めがね橋)は、明治39年に解体されたとか。

万世橋駅は、明治45年(1912)4月1日に、中央線【1906年甲武鉄道国有化[61304]】の始発駅として開業しました。
これは、神田川の南岸、リンクした地図の中心マークです。南側の駅前広場に面して、ルネッサンス式の立派な赤煉瓦造の駅舎がありました。幻の万世橋停車場へ行く に掲載されている写真で見ることができます。東京駅を思わせる姿であるのも道理、後に東京駅を手掛ける辰野金吾の設計で、お手本はアムステルダム中央駅とのこと。

けれども、万世橋駅の栄光の時代は、ほんの僅かでした。万世橋駅衰退の原因として、1914年に東京駅が開業し、東京駅への電車線開通(1919)により中間駅になったことが挙げられている資料もありますが、そうとは言えないでしょう。上野駅も 1925年の都心高架線全通で中間駅になりましたが、その後も北に行く列車の始発駅の地位を長く保ったからです。

大正14年4月『汽車時間表』【JTB時刻表第1号】によると、中央本線列車の始発駅は飯田町で、万世橋は主として東京-中野(一部は吉祥寺、国分寺)間を運行する電車の中間駅になっています。
このように、万世橋駅が列車始発駅の地位を失った決定的な原因は、大正12年(1923)の関東大震災による 豪華な駅舎の焼失であったと思われます。

昭和初期の震災復興にあたっては、万世橋駅付近の道路も変りました。神田駅から直進して万世橋駅前を通り昌平橋に向っていた電車道は、現在のように神田駅を出ると少し東側に振れて、万世橋から御成道へとつながる現在の中央通りになりました。小川町から万世橋駅前の広瀬中佐銅像のある(旧)須田町交叉点に向かっていた電車道も、少し南に振れて現在の靖国通りになりました。これにより電車道の交わる須田町交叉点は、少し南東の現在位置に移動しました。要するに、万世橋駅は関東大震災により駅舎を失っただけでなく、市内電車の一大ジャンクションに面するという道路立地からも少し外れてしまったわけです。

国有鉄道の市内高架線は、神田川を渡る区間の工事中に関東大震災が起り、予定よりも少し遅れたものの、1925年には完成し、東京駅と上野駅の間が省線【注1】電車で結ばれました。秋葉原駅も旅客扱いをするようになり【注2】、立地が近接する万世橋駅の存在意義は、ますます小さくなりました。
【注1】1920年に鉄道院が鉄道省になり、国有鉄道線は「省線」と呼ばれるようになりました。
【注2】秋葉ヶ原の停車場に「あきはばら」の駅名標が出現。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。[34120]

1927年開業の浅草-上野間から南に線路を伸ばしてきた東京地下鉄道が、神田川の下に開削工法のトンネルを作り、一時的に北岸の万世橋仮駅が使われたのは、1930~1931年のこと[79717]
万世橋も、この時に鉄筋コンクリートと石材とを併用した現在の橋に架け替えられました。

最初は地上線だった貨物の秋葉原駅も 1932年迄にはすべて高架線に移り、同時に総武線の両国-御茶ノ水間が延長され、3層立体構造の駅になりました。
昭和通り側の入口から総武線プラットフォームに通じるエスカレーターは、少し前の時代の鉄道駅では珍しい施設でした。

震災によりターミナル駅としての役目を終えた万世橋駅は、東京駅の神田寄り高架下にあり震災被害を受けた鉄道博物館の再建に利用されることになり、1936年に博物館用の新館も作られ、移転開業。
万世橋駅廃止は、戦時中の1943年11月1日でした。同日付で鉄道省→運輸通信省。入場無料だった鉄道博物館が有料になったのも、同じ頃と思います。
戦後は日本交通公社を経て交通文化振興財団の運営になり、自動車や飛行機(アンリ・ファルマン機[57213])の展示もある「交通博物館」として親しまれていましたが、大宮に鉄道博物館が開業する前年(2006)に閉館されたことは、記憶に新しいことです。

言うまでもなく、今回話題にした地域の元々の地名は「神田」です。
「須田町」や「万世橋」が神田を代表する地名となった時代もあり、神保町など独自の分野で知られる地域もありますが、現代の世界に通用する地名は、何と言っても「AKIHABARA」です。
つくばエクスプレスのターミナルになったこの地名こそ、交通路を通じて発達してきたこの地域を語るにふさわしいものになりそうです。
[79942] 2012年 1月 4日(水)21:58:41Issie さん
山手線に新駅
…という ニュース が流れています。本質的には関東ローカルですが,全国ニュースなんでしょうかね。
山手線の中で最も駅間距離の長い 品川-田町間 というわけで,厳密には「山手線」(品川-新宿-田端)ではなく「東海道本線」(東京-神戸)の駅なのですが,“普通の人”の感覚ではグルリと一周する“山手線の駅”でいいのでしょう。読売新聞の記事では「並走する京浜東北線も停車する」なんて書かれています。

これは,新幹線用地への流用で分断された「東北本線」の東京-上野連絡汽車線を復活させて,東海道の湘南電車と東北(宇都宮)・高崎線の中距離電車をスルー化する事業の一環で,田町-品川間に広がる車両基地が不要になるのでここを再開発するのに関連した計画なのだとか。
記事に添付された写真によると,品川-田町間の線路全体を海側(新幹線側)に移転して再開発用地を生み出すものであるようです。実はこの区間は1872(明治5)年の最初の鉄道開業に際して陸上の用地を確保できなかったために“海の上に土手を作って”その上を通した区間です。今ではその痕跡はほとんど消えているのですが,このルート自体が歴史的な遺跡。
だから,このルートが変わってしまうのは鉄道史上の事件かもしれません。

※ちなみにもう1つの“海上区間”である 神奈川-高島町間 は,関東大震災後の1928(昭和3)年に横浜駅が“3代目”として2代目の高島町付近から現在位置に移転した際に,やや西に移設されました。現在の京浜東北・根岸線と箱根駅伝のルートにもなっている国道1号線にはさまれた 万里橋 を通る道路がかつての“海上鉄路”です。

もう1つ,鉄道史上のできごとになると思われるのは,これで上野駅の地位が決定的に下がってしまうであろうこと。
すでに昼間の長距離列車のほとんどが新幹線に移転してしまった今,8~9割方中距離電車のターミナルとなっている上野駅は,その中距離電車が東京・湘南方面へスルーしてしまうようになればその役割も失うことになります。恐らく,その頃には「あけぼの」の寿命も尽きているでしょうから(北海道新幹線の開業で並行在来線が3セク化されれば,「カシオペア」はともかく,既にJRが全く投資を放棄している「北斗星」も微妙),残るは新幹線網から取り残された常磐線の特急「ひたち」だけ。もはや,地平ホームはほとんど必要ないですね。
上野駅も両国駅の運命をたどるのかもしれません。
まさか,完全に消滅した飯田町駅や万世橋駅までは行かないとは思いますが。

とは言え,現行の山手・京浜東北線のルート上に駅を新設するのならともかく,記事に添付の写真の通りにルート変更を伴うのであれば,品川駅の抜本的な改造が必要であり,早ければ来年着工とは言え,そうすぐにできることではないようにも思います。
「山手線31番目の駅」ができるとき,周囲の景観だけでなく,東京近郊の鉄道ネットワークはどのようになっているのでしょうか。

※余談:
先日,すごく久しぶりに八王子駅へ行ったら,駅の南側にあった八王子機関区がなくなって更地になっていたのにとても驚きました。貨物輸送体系の変更や新型機関車の登場で既に八王子駅の役割は大幅に低下していて,その結果だということらしいのですが,今まで当たり前に見慣れていた風景が突然なくなってしまうのはさびしいものです。
[79961] 2012年 1月 5日(木)18:01:30hmt さん
芝浦の新駅
[79942] Issie さん
“普通の人”の感覚ではグルリと一周する“山手線の駅”でいいのでしょう。読売新聞の記事では「並走する京浜東北線も停車する」なんて書かれています。

運賃計算に 「東京山手線内の駅を発着する場合の特例」 と記されています。
もっとも、JR自身によるこの用例は「山手線内の駅」であり、「山手線の駅」ではありません。
「山手線内の駅」は、山手線(品川-新宿-田端)・東北本線の一部(田端-東京)・東海道本線の一部(東京-品川)で構成されるループ線に加えて、ループ線で囲まれた中央本線の一部(神田-代々木)、総武本線の一部(御茶ノ水-秋葉原)に関係する合計 36駅です。昔は「東京電環」という呼び名が使われていました[28537]

運転系統としては、上記のループ線が「山手線」と呼ばれており、乗客への案内にも使われています。
「運転系統としての山手線」に、30番目の駅ができることになります。
1周約 60分に 30駅ですから、大局的には 2分間隔ダイヤで、電車が各駅ごとに居るという形になります。

要するに、「山手線」という言葉は「線路名称」だけでなく、「運転系統としての山手線」や 走っている「山手線の電車」[38388] にも使われ、運賃計算上の用法もあるなど 多義的です。[38397]

読売新聞記事の「並走する京浜東北線も停車する」は、大先輩の「東京横浜間鉄道」[49808]の後身である京浜線電車[39140]に対して礼を失する感もありますが、おそらく 日中の快速も停車する というメッセージを伝えているのでしょう。

陸上の用地を確保できなかったために“海の上に土手を作って”その上を通した区間です。

西南戦争前の陸軍は鉄道の価値を認めておらず、軍事上の要地の高輪に、測量隊が入ることさえ拒否しました。
高輪海岸の土地を手放さない陸軍に対抗した大隈重信の策が、海上鉄路の建設だったそうです。

鹿島の軌跡 にも地図がありますが、フランス式迅速測図 をリンクしておきます。
図の中央でずれている継ぎ目の下に「泉岳寺」があり、その東の海上を鉄道線路が南下して品川の「乗車場」で上陸します。

現在の鉄道は、少し北の「札の辻」【注】の近くで元々の線路から東側に新幹線が離れます。
「東京横浜間鉄道」のルートを引き継いできた在来線も、再開発計画によって 新幹線と並走するように 東にルート変更され(地下の横須賀線は既に東側)、昔の地図だと 泉岳寺海岸の更に沖に 新駅できるのですね。
東京都下水道局芝浦水再生センターの隣接地(港区港南二丁目)で、港区芝浦四丁目にもかかるのかもしれません。駅名としては 著名な地名「芝浦」[42889] が適当なのではないでしょうか。
【注】札の辻
迅速測図では 品川湾[42889]と記載してある付近の交差点です。ここには、江戸時代初期に高札場が設けられましたが、高札場は その後 数百m南の 高輪大木戸に移され、地名だけが残りました。

※ちなみにもう1つの“海上区間”である 神奈川-高島町間
迅速測図 こちらもリンクしておきます。
右の方を見ると、「象の鼻」や不自然な「ずれ」を示す中華街の区画[65179]を 既に見ることができます。
[80026] 2012年 1月 9日(月)10:44:07Issie さん
光る東芝,東京芝浦電気
[79961] hmtさん
東京都下水道局芝浦水再生センターの隣接地(港区港南二丁目)で、港区芝浦四丁目にもかかるのかもしれません。駅名としては 著名な地名「芝浦」[42889] が適当なのではないでしょうか。

[80022] グリグリ さん
でも、やっぱり私も芝浦がいいなぁ。元々芝浦は港南や海岸も含んだ広域地名だった訳ですから。

[80024] 白桃 さん
泉岳寺

それはたぶん,操車場をつぶして造成される再開発区域の名前によるのではないかと思います。ズバリ,「さいたま新都心」みたいにね。
だから,ここは開発主体(JRか?東京都か?それとも大手ゼネコンか?)があまり変な名前をつけることのないよう,お祈りしましょう(←過去の例から,本当に“お祈り”したい気分)。

ところで,「芝浦」。
昨年末に亡くなった談志師匠が得意としていた演目に「芝浜」というのがありますね。
舞台は「芝の浜辺」だから,「芝浜」。ちょうど,京浜間鉄道が“海上”を走っていた海岸線。
「芝浦」とは本来,その前に広がる海の呼称だったんでしょうね。
それが明治末に始まった埋め立てて陸地になり,「芝浦」も陸地の地名になったわけで,その意味では今,町名として存在する「芝浦」「西芝浦」に限る必要はない。
そう言えば,「品川駅」だって本来の「品川」ではなく,「芝」のはずれの「高輪」にあるというのは,“古典的”な話題です。

だから,やっぱり変な名前が出て来ないようお祈りを。

※ところで今,「麻布」「赤坂」「新橋」「高輪」「芝浦」なんかに対して「芝」という地名の影がとても薄い気がします。
それはそうと,今朝の朝日新聞の1面左上に「千葉県人口減」という見出しが。
昨年1年間で千葉県の人口が1920年以来初めて減少したのだとか。
東部や南部だけでなく,東京に最も近い松戸・市川・浦安の3市が減っているのですね(まあ,市川は高齢化していそうですが)。ついでに都県境をはさんだ葛飾区と江戸川区も。
これについては,追って“その筋”から詳細な報告がなされることでしょう,たぶん。
[80215] 2012年 1月 27日(金)23:10:15【1】hmt さん
田町・品川周辺地域 184haを「特定都市再生緊急整備地域」に指定
「山手線に新駅」というお正月ニュースを発端に、話題になった 田町品川間新駅 ですが、政府が 1月20日に発表した「特定都市再生緊急整備地域」に指定されたとのニュースが入っています。

読売新聞にあるように、国際競争力強化【注】のための重点開発地域で、税制支援などがあり、184haが指定されたとのこと。
【注】
国際競争力強化施策については、過去にコンテナターミナルやバルク貨物に関する 国際港湾 の話題でも登場。

今回の一連の動きのきっかけは、 [79942]に示されているように、「中距離電車スルー化事業」→「車両基地用地の再開発」です。そして、田町車両センターの広さは 20haほどで、スルー化に生み出される再開発用地は 約15haとされています。

今回指定された 184haとの違いが気になったので、昨年9月の東京都による 指定申入れ資料 に付けられた 地図 により、指定範囲を確認してみました。
鳥のような形の頭の部分が田町駅周辺です。首から南が車両基地で、品川駅周辺へと続きます。JR関係以外にも、東側の下水処理場、西側のホテル地区が指定地域に含まれていることがわかりました。

なお、指定地域は 東京の4地域を含めて 全国で 11地域あり、2012/1/20 国土交通省発表資料 の添付資料1で見ることができます。

[79942] Issie さん
実はこの区間は1872(明治5)年の最初の鉄道開業に際して陸上の用地を確保できなかったために“海の上に土手を作って”その上を通した区間です。今ではその痕跡はほとんど消えているのですが,このルート自体が歴史的な遺跡。

海上の築堤上を単線で通った『新橋横濱之間鉄道之圖』(地図)は [80065]でリンクしました。
今回紹介するのは、東京都立図書館デジタルライブラリー所載の東京名所写真帖(1913) 品川海岸を走る列車の写真 です。

新橋~品川間は、早くも明治9年(1876)12月に複線化。
列車が走っている上り線よりも手前にある線路は、明治32年12月25日に開通した市街地用ローカル列車専用線で、山手線からはこの線に乗り入れました。
国有化3年後の明治42年(1909)12月16日には 烏森停車場【現在の新橋駅】が開設され、烏森発上野行の山手線は電車運転【赤羽行きは汽車】になりました。

掲載写真には架線が写っておらず、1909年以前の写真であると思われます。
写真集の発行日自体は、京浜間の電車専用線[39140]開通(中央停車場 = 東京駅 開業と同時 1914年)の前年です。

線路の曲り具合から、撮影地は 札の辻付近の海岸と推測しました。
今回の再開発計画によると、京浜東北・山手線の新ルートは、現在の新幹線沿い、つまり札の辻付近から東側に移るとのことなので、この写真では画面背景の海上に出て、そこに新駅ができることになります。
今度できる駅の位置は、海岸を意味する「芝浜」さえも通り越した、正真正銘の「海」(Shinagawa bay[42889])の中だったことを、約100年前の写真で実感した次第です。
[81955] 2012年 10月 15日(月)14:06:27hmt さん
市街地乗り入れに成功した鉄道
地下鉄建設技術が進んだ現在、鉄道の市街地乗り入れは、地下線方式が一般的になっています。
これは戦前にもあり、京阪京都(1931年、現在の阪急大宮)や京成電気軌道の上野公園(1933年)あたりが古い事例でしょうか。

戦後は国鉄を含めた地下新線による乗り入れが行なわれています。東京駅乗り入れは 総武快速線が 1972年、京葉線は 1990年でした。そして、東北新幹線上野駅は 1985年。
それよりも前に、郊外路線から都心部に路線を持つ地下鉄へという乗り入れが実現しました。代表例は、京成→都営浅草線が 1960年、東武→営団日比谷線が 1962年、国鉄→営団東西線が1966年から。

地下鉄方式が使えるよりも前の時代 ということになると、何よりも 線路用地の確保 が問題になります。

明治5年の新橋横浜間鉄道で使われた 海上築堤 は極めて例外的なケースであり、江戸城外濠など 市街地内にある水路沿いの土地が、築堤や水路上の高架橋の形態を含めて、可能な限り利用されました。

中央停車場(東京駅)の立地については、江戸時代の大名屋敷跡が 明治になっても 官有地として確保されており、土地買収の問題が少なかったことが 都心部のターミナルを実現させることに 貢献している と思われます。
上野駅の立地は、元の社寺地が利用できたからでしょう。江戸の絵図では、寛永寺の塔頭と思われる寺院が並んでいます。
余談ですが、台東区役所は 「びっくり下谷の広徳寺」 (これは禅寺)の跡地です。

神田地区の場合は、既存の市街地内に高架鉄道が作られました。
この高架線が実現したのは、関東大震災によって生じた大火災のもたらした「怪我の功名」ではないかと思われます。
秋葉原駅より北は 震災前からあった 貨物線用地の拡幅ですが、神田川から南の 内神田(神田駅付近)の地図を見ると、高架線が 街を斜めに分断している様子を 窺うことができます。

前書きが長くなりましたが、過去記事の中からこのテーマに該当するものを選び、hmtマガジン の 特集:市街地乗り入れに成功した鉄道 を まとめました。

最初に言及した地下線方式は、みなとみらい21線(2004)・京阪中之島線(2009)・阪神なんば線(2009)など 最近まで多数の事例があることと思いますが、これれに関係する記事は除外しました。
[91353] 2016年 9月 7日(水)18:25:59hmt さん
品川新駅(仮称)
昨日、JR東日本から「品川開発プロジェクトにおける品川新駅(仮称)の概要について」の 発表がありました。

ニュースでは駅舎デザインが話題になっているようですが、オリンピックを考慮した 2010年春の仮開業、品川開発プロジェクトの街びらき時の 2024年頃の本開業 というスケジュールも、今回発表の目玉でしょう。

2012年の新駅計画発表時から議論沸騰が伝えられる「駅名」については、今回の発表では全く触れておらず、「品川新駅(仮称)」と呼んでいます。

参考までに、この新駅開設に関係する過去の「いきさつ」を簡単に記しておきます。

上野以北と東京駅以南に直通する中・長距離旅客列車の運転は、占領下の専用列車[51787]に始まり、その後「湘南日光」などの観光列車や高崎線・東海道線の中距離電車なども運転されました。しかし、線路容量の制限から極めて不十分な状態のままで、東北新幹線の上野・東京間延伸工事を迎えることになり、1970年代には事実上この区間の直通列車はなくなりました。
その後、東北新幹線も東京駅に達し(1991/6/20)、乗換は必要なものの、新幹線による長距離列車の南北連絡を実現しました。
在来線の中距離電車も、【東京・上野は通らないものの】湘南新宿ライン開通により南北間直通を実現しました(2001/12/1)。

新幹線工事前に細々と行なわれていた上野・東京間の中距離電車直通。これの再開ではなく、改めて本格的な直通を初めて実現させたのが、2015/3/14に開業した上野東京ラインです。
その影響の及ぶところは、乗客の利便向上【旧始発駅利用者の利便は低下】だけではありません。

東海道の湘南電車と東北(宇都宮)・高崎線の中距離電車をスルー化する事業の一環で,田町-品川間に広がる車両基地が不要になるのでここを再開発するのに関連した計画
この点が重要なわけです。
2012年正月の第1報を伝える 落書き帳記事をご覧ください。
その後で発表された「特定都市再生緊急整備地域」[80215]に指定された品川地区は勿論のこと、上野の地位にも影響します。

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