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「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

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「○○県」と言えば、日本を47に分画した「地名」を指すと理解するのが現代の常識です。
辞書にも、“地方行政区画の一。地方公共団体のうち最も広い区画で、市町村を包括する。”などと説明されています。
しかし、現在でも「内閣府」などと使われる「府」はもとよりのこと、「県」も「行政組織の名」でした。

元々「○○県管内」と呼んでいた行政区域を、単に「○○県」と呼ぶようになったのは何時からか?
明治19年式戸籍の書式[62667]に使用例がありますが、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制ではないかと思われます。
こうして、19世紀までは広域地名として普通に使われていた「国」がすたれ、代りに「府県」が使われるよになったという物語を綴ってみました。


記事数=12件 登録日:2010年6月21日
記事#記事日付
記事タイトル
発言者
[62778]2007年12月7日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (1)最初は「行政組織名」だった hmt
[62795]2007年12月10日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (2)郡区町村を編制した「府県」 hmt
[62815]2007年12月12日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (3)「郡区町村一覧」と「地方行政区画便覧」 hmt
[62816]2007年12月12日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (4)「郡区町村一覧」 hmt
[62817]2007年12月12日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (5)「地方行政区画便覧」と「市街名邑…戸口表」 hmt
[62856]2007年12月15日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (6)郵便制度の影響? その1 hmt
[62857]2007年12月15日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (7)郵便制度の影響? その2 hmt
[62881]2007年12月18日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (8)明治時代、地図出版人の住所表記 hmt
[62886]2007年12月19日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (9)「住所表記」は「地名」とは限らない hmt
[62889]2007年12月20日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (10)広域地名としての「国」と「府県」 hmt
[62906]2007年12月22日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (11)陸軍は「府県」、海軍は「国」で管轄 hmt
[62924]2007年12月23日
「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (12)むすび hmt


[62778] 2007 年 12 月 7 日 (金) 21:35:32 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (1)最初は「行政組織名」だった
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

「東京都千代田区内幸町2丁目2番3号」。日比谷シティ こと 日比谷国際ビルの住所です。
「都道府県 + 市区町村 + 町字 + 番地」という地名の書式は、現在では何の疑問もなく使われています。

「シティ」を名乗る施設に「住所」という言葉を使うのがふさわしくなければ、「所在地」と呼んでもよいでしょう。
「ところ番地」という呼び方もありますが、住居表示が実施されているので、正確に言えば「番地」ではなくなっています。

この地には、1938年から1973年の代々木移転まで日本放送協会があり、「千代田区内幸町」は、いやというほど聞かされた地名でした。

もっと遡ると、ここから西側(現在は内幸町1丁目)にかけて、慶応4年(1868)から明治27年(1894)の丸の内移転まで 「東京府」 の庁舎がありました。(町名の変更あり。町名由来板ガイド 参照)
住所の書式例としてこの地を取り上げたのは、実は、この「東京府」を持ち出したかったからです。

慶応四年戊辰秋八月十七日幸橋御門内元柳沢邸ヲ以テ東京府トス
ここは柳沢吉保の後裔・大和郡山15万石 柳沢家上屋敷の跡です。ついでに、駒込の六義園は下屋敷。
江戸の中で大きな面積を占めていた武家地には「町名」がなかったので、「幸橋御門内」[49243]で位置を示しているわけです。
そして、ここで強調したいのが、この文脈でわかるように、「東京府」というのは「地名」でなく「役所」、「行政組織」(国家の出先機関)を指していたということです。

「府県」と「地名」との上記のような関係は、例えば第一次府県統合を記した 法令全書の頁 において、神奈川県の欄外に記された下記の注記からも窺うことができます。
(神)5年…武蔵国多摩郡中野村外31村を東京府に属す。9年…足柄県管地相模国を併す。
法令全書巻頭の「編纂例」によると、明治20年12月までの改廃消滅が記されているとのことなので、明治21年当時までは、このように「府県は地名でない」使い方をしていたことがわかります。

明治15年に内務省に設けられた 函館県・札幌県・根室県 も、農商務省北海道事業管理局 と併せて「3県1局」と呼ばれるように、北海道を分割統治する行政組織の名でした。

しかし、明治の中頃になると、政府の中で「府県を住所に使う」例が出てきます。
その初期の例と思われるものが、明治19年式戸籍登記書式 [62667]です。
ここでは、 “何県何郡何村何番地”、“何府何区何町何番地”のように、「府県」を住所表記に使っています。

しかし、戸籍簿の書式に使われはしたものの、「府県を使った地名表記」は、政府内部にさえ普及するには至らなかったようです。
ましてや、人々の日常生活に縁の薄い戸籍簿書式「府県 + 郡区 + 町村」が地名表記の主流になることはありませんでした。
20世紀になって書かれた「坊っちゃん」においてさえも、「宮崎県の延岡」という言い方はされず、「日向の延岡」でした[47036]
仮に「宮崎県」という役所の管轄区域を指す必要がある場合には、「宮崎県管内」だったでしょう。

本来は行政組織だった「府県」が広域地名に転用され、最終的には、明治になってからも使われ続けていた「国」を地名表記から駆逐した事情と、その時期とが気になります。
もちろん、突然「国」から「府県」に変ったわけではなく、次第に新しい表記法が広がっていったのでしょうが、どんなストーリーがあったのでしょうか?

[62795] 2007 年 12 月 10 日 (月) 22:30:39 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (2)郡区町村を編制した「府県」
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

少し間が空きましたが、[62778]の続編です。
最初は近代国家の「行政組織」として設けられた「府県」が、現在使われているような「地名」になった事情を探ります。

明治初期に試みられた「府県−大区−小区」という地方統治システムは、従来から馴染んできた「国−郡−村」という地理的な区分を一変させるものでした。
しかし、新しい行政区分は長続きせず、明治11年の「郡区町村編制法」によって、「郡」と「町村」とが行政区画に復活します。

明治以来の地方制度に関する 88 さんの一連の記事 中の まとめ版[59148]を眺めると、明治5年からの数年間、近世以来の村の時代から近代国家地方制度への移行期での「試行錯誤」として存在した大区小区時代の姿が浮かび上がります。

それはさておき、
大区小区時代にも「地名」としては使われ続けた従来の「郡」や「町村」が、この制度によって近代国家の「行政区画」にもなったということは、「郡区町村」の上位の行政組織である「府県」という言葉の性格にも影響を与え、純然たる「役所の名」から「役所の管轄区域を指す広域地名」へと向かわせたものと思われます。

[62778]では、府県を住所に使う事例の初期のものとして、「明治19年式戸籍」の書式を挙げましたが、その淵源は明治11年に遡るとも言えそうです。
明治11年の太政官第17号布告はいわば骨組だけで、具体的にどのような郡区が編制されたのかは記されていません。

それがわかるのが、明治13年の 太政官第22号布告別冊 です。
リンクした68コマには、東京府武蔵国の(従来の)「豊島」郡の内に“麹町区、…、深川区”の15区(傍点付)が新設され、かつ(従来の)「豊島」郡には、“北豊島郡と南豊島郡”とが設けられたことが示されています。

同じ東京府武蔵国の郡区欄に“南葛飾郡、南足立郡、東多摩郡”もあります。これは複数の府県にまたがって存在していた葛飾郡、足立郡、多摩郡(従来の地名)のうち、東京府武蔵国の管轄下に設けられた新しい行政機構には、南や東を付けた郡名を採用したことを意味しています。

次の69コマを見ると、埼玉県武蔵国北葛飾郡と北足立郡、埼玉県下総国中葛飾郡、千葉県下総国東葛飾郡、茨城県下総国西葛飾郡も同様の理由で新郡名が表示されています。神奈川県武蔵国の部には、この地域内の(従来の)「多摩」郡が、新しい行政機構では、いわゆる三多摩に分割統治されることになったことを示しています。

こんな具合に、“区”(当然のことながら、すべて新設)と、“新しい名が付けられた郡”とを各府県について列挙して 71コマに至ります。同名(従来の地名のまま)で府県の下に編制された郡は、この布告には記されていません。
郡の下には町村が編制されたわけですが、これに関する布告は、全国レベルではなく各府県で出されたのかもしれません。

明治11年7月の「郡区町村編制法」から2年近くを要しましたが、ともかくも明治13年春には、全国ではたいへんな数になる“郡区町村”が、府県の下の新しい行政機構として編制されたようです。
その結果を集成した資料が、明治14年に内務省地理局から発行された「郡区町村一覧」でした。

長くなるので、以下は別記事にしますが、その前に、今回から近代デジタルライブラリーのリンクを、JPEG2000表示に変えたことをお断りしておきます。

従来のJPEG表示では、URLの末尾が「0」になっていたのを「1」に変えただけですが、プラグインをインストールしておけば、快適な閲覧が可能です。
初めての方へ に説明があるとおり、拡大・縮小が容易であり、資料の特徴をつかめばサムネイル表示によって所望コマ番号の見当を付けてジャンプすることもできます。

先に[62517]
最初から「大サイズ画面」が出る書式にした方が読みやすいと思うので、ご存知の方は教えてください。
と書いたのですが、拡大の容易な JPEG2000表示ならば、こんな悩みはなかったのでした。

[62815] 2007 年 12 月 12 日 (水) 18:33:08 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (3)「郡区町村一覧」と「地方行政区画便覧」
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

いきなり大きな表を出して失礼しますが、近代デジタルライブラリーで見ることができる 明治時代の地方行政区画一覧表 のINDEXです。別記事で説明する予定です。

表 府県別コマ番号 「郡区町村一覧」(明治13年) 「地方行政区画便覧」(明治19年1月)

コマ明治13年区数郡数町数村数------------明治19年第2表郡役所第3表戸長役場
4東京府1561368378東京府528
10京都府31520381280京都府640
20大坂府47541504   大阪府661
24神奈川県1152201208   神奈川786
29兵庫県1334222980   兵庫県896
39長崎県120129911   長崎県9118
43 新潟県1177774178   新潟県9124
函館県9155
57埼玉県018391874   埼玉県10157
63群馬県0171091106   群馬県10187
67千葉県0211092371   千葉県11171
74茨城県018632048   茨城県11197
81橡木県010521144   栃木県12212
85堺県1354702225
94三重県0212611559   三重県12220
100愛知県1193681942   愛知県13233
106静岡県0211671824   静岡県13253
112山梨県0937283   山梨県14266
114滋賀県0173381734   滋賀県14271
120岐阜県0251361197   岐阜県14282
125長野県01622685   長野県15293
128宮城県117305708   宮城県16301
132福島県022871697   福島県16308
138山形県0113391221
143秋田県09392925
147巌手県019642   岩手県17320
150青森県08180828   青森県17325
山形県17332
秋田県18343
福井県18352
153石川県12011165693   石川県18365
富山県18380
鳥取県19395
171島根県0341382041   島根県19403
178岡山県1311271642   岡山県20410
184広島県1221311064   広島県20425
188山口県11261620   山口県21438
和歌山県21445
徳島県22456
191愛媛県0302591371   愛媛県22463
197高知県0754985   高知県23478
200徳島県01037610
202和歌山県194371207
207福岡県1312751787   福岡県23486
214大分県012641134   大分県24501
佐賀県 24511
218熊本県11517651347   熊本県24516
宮崎県25527
223鹿児島県0271091193   鹿児島25530
沖縄県537
札幌県26541
根室県27546
合計367061354258146

[62816] 2007 年 12 月 12 日 (水) 18:40:11 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (4)「郡区町村一覧」
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

前記の表[62815] に関連する内容です。

旧幕府の直轄地を支配する役所“奉行所”や“代官所”などを引き継いだ“府”と“県”。
やがて廃藩置県によって旧大名支配地にも“県”が生まれましたが、“府県”は依然として“役所”のことでした。
ところが、明治11年になると、古くから慣れ親しんだ「地名」であった「郡」や「町村」が、行政機構たる“府県”の下に“編制される”ことになりました。このことが、“府県”をも「地名」に変化させる淵源ではないかというのが、この議論の第一段階です[62795]

“3府36県”の下に36の“区”と約700の“郡”、そして7万以上に上る“町村”。その具体的な編制作業にあたっては種々の調整が必要であったと思われますが、ともかく明治13年までには一応完成したと思われる行政機構の一覧表が、「郡区町村一覧」というタイトルで、翌明治14年3月に内務省地理局から出版されました。

表の左側6列は、この「郡区町村一覧」のINDEXです。
この資料には目次がないので、3府36県(徳島県を含み沖縄県を含まず)について、コマ番号と府県名の対照表を作ったわけです。ついでに、区・郡・町・村の数も記しました。
府県名は、該当するコマにリンクしています。次々に見るときは、プルダウンで該当するコマにジャンプするのが便利です。

この本の例言には明治12年12月調査とあるのですが、兵庫愛知滋賀石川愛媛堺の6県については明治13年調査であり、明治13年3月2日に高知県から分立した徳島県も記載されているので、明治13年の資料としておきます。
郡区町村編制法は、既に北海道でも施行(おそらく明治12年7月23日 開拓使乙第4号布達)されていた筈ですが、この本にはありません。

検索してみると、この本についての最初の言及は [56671] 88さんでした。
近代デジタルライブラリーで閲覧可能なことは [57484] okiさん の紹介がありました。
[62371] むっくん さんによるリンクもありました。

私はというと、上記の記事を読んでいながら、この資料を見ていませんでした。
今回、主題とは少し外れるのですが、[62795]のような経過でこの資料を見た結果、約6年後の「地方行政区画便覧」と共に、もっと使いやすい形で皆さんに紹介しておく価値がある基礎資料であると感じて作成したのが、今回の表です。

これまでの記事では、本文への直接リンクによる紹介がなかったので、今回は、所望のコマを直接に表示するURLを例示します。
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40006319&VOL_NUM=00000&KOMA=4&ITYPE=0

上記のURLの中にある「40006319」という文字列が本の番号です。
「書誌情報」(画面右上にボタン)で確認できるように、“タイトル:郡区町村一覧”,“出版事項:内務省地理局、明治14.3”,“全国書誌番号:40006319”です。この番号を使えば、他の本も同じ要領で指定できます。

1冊ものは、「VOL_NUM=00000」。法令全書のように何冊にも亘るときは冊番号が入ります。「KOMA=4」は4コマ。
最後の「ITYPE=0」がJPEG表示で、「ITYPE=1」ならJPEG2000表示です。

ここでお詫びしておきますが、 [62795]で宣言したJPEG2000表示への変更は、いささか自己中心的なやり方でした。
JPEG2000表示への準備ができていない一般のパソコンでURL末尾が「ITYPE=1」になっているリンクを見ようとすると、注意書きが出て断られてしまうのですね。私は従来のJPEG表示が出るのかと思っていました。
注意書きの画面からJPEG表示に切り替えることもできますが、その場合は1コマ目の画面になってしまい、アドレスバーのコマ番号を参照して移動したりする手間が必要になります。

…ということなので、一般読者の立場を考えて、従来どおりのJPEG表示リンク方式に戻します。
プラグイン準備済みのPCならば、バーに表示されたアドレスの末尾「0」を「1」に修正入力すれば、今度はJPEG2000表示がされます。

[62817] 2007 年 12 月 12 日 (水) 18:55:45 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (5)「地方行政区画便覧」と「市街名邑…戸口表」
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

[62815]の表 右側3列は、「郡区町村一覧」の約6年後、明治19年1月のデータを記載した「地方行政区画便覧」のINDEXです。
この6年間に堺県が消滅し、福井・鳥取・富山・佐賀・宮崎の5県が分立し、沖縄県(第3表のみ)と北海道3県も集録対象になったので、3府44県になっています。現存する県は、奈良県と香川県を除いて出揃いました。

第1表 は、「府県庁及其所在地並所轄郡区役所戸長役場町村戸口の数及有税地の積」というタイトルであり、[62815]の表で明治13年のデータを表示した府県別の区・郡・町・村数の明治19年初の値は、この表にまとめられています。

「第2表」は第1表と同様のデータの郡役所ごとの集計、「第3表」は同じく戸長役場ごとの集計です。
「戸口の数」つまり「戸数と人口」とのデータもありますから、その方面の方にとっては、有用な資料なのでしょうね。

…と書いたら、既に同じ明治19年に調査された人口表:「市街名邑及町村二百戸以上戸口表」に言及した記事[61293] がありました。

この資料は、「市街名邑…」に限定されていますが、本籍と現住とを比較して詳しいですね。
対象とされた町村は、3ランクに分けられています。(甲表=集計表、乙表=類別表のコマ番号を記す)
第一表は市街及び市街の体裁をなしたる名邑を記載す(甲表2、乙表5)
第二表は市街の体裁をなさざる名邑を記載す(甲表23、乙表25)
第三表はそれ以外で200戸以上の町村(甲表33、乙表34)

第1ランクの都市を示した第一乙表(市街戸口)の 愛媛県 で三本松を確認。

なお、近代デジタルライブラリーで「市街各邑…」となっているのは、「市街名邑…」の誤記です。
「名邑」という言葉は知りませんでしたが、「有名集落」というぐらいの意味でしょうか?

[62856] 2007 年 12 月 15 日 (土) 17:50:45 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (6)郵便制度の影響? その1
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

埼玉県南埼玉郡岩槻町以下の町村名が列挙された 明治13年「郡区町村一覧」の 埼玉県
現在の視点からすると、これは「地名」のリストに見えるのですが、実は「郡区町村編制法」によって「編制」された「地方行政組織」のリストなのでした[62795]

「地方行政組織」であることは、明治11年の布告名だけでなく、明治19年1月のデータを記載した「地方行政区画便覧」というタイトルにも現れています。こちらは、 対応するページ を見てもわかるように、郡と町村の間に「戸長役場の所在地」という欄が設けてあり、行政組織表であることがより明らかになっています。

脱線しますが、約6年を隔てたこの二つの表を見て気がついたこと。
明治13年には「南埼玉郡」が埼玉県の筆頭に掲げられていましたが、明治19年では郡を記す順番が、浦和町のある北足立郡から始まる時計回りに改められました。現在も使われている順番です。
これは、埼玉県の県庁所在地が最初は「埼玉郡岩槻」とされ、県名もこの郡名によりましたが、実質的には旧浦和県の県庁舎(足立郡所在)が使われ、そのまま浦和に居座ったためです。関係記事

なお、武蔵国北足立郡浦和町が埼玉県庁所在地になったのは、正式には 明治23年の勅令 によりますが、地方行政区画便覧の時代には、既に既成事実になっていたと理解できます。

明治19年の表には、岩槻町の右肩に小さく「岩槻」とあり、それに続く太田町右肩には「同」とあります。これは、両町の総称として冠されたもので、正式には「岩槻岩槻町」なのでしょう。

ここで 静岡県静岡静岡宿[51150] のことを思い出して確認してみたら、確かに 静岡県有渡郡静岡誉田町戸長役場管内 の「静岡宿」の右肩に(静岡を意味する)「同」の文字がありました。

本論に戻り、最初は「行政組織名」だった「府県」[62778]が、どのようにして「地名」になったのか?

過去の発言中に次のような記事がありました。
[47066] ゆう さん
国にかわる地域単位としての都道府県名は、住所表記が「道府県名+(郡名)+市町村名+字など」という形式が普及する過程で一般化したのではないかと思います。とりわけ、郵便制度の影響が大きかったのではないでしょうか。
住所表記に「国名」を使っていれば、今でも「県」は役所の名前に過ぎないままだったかもしれません。

たしかに、郵便は日常生活に密着していること、戸籍の比ではありません。
住所表記の「府県+郡市町村+町字+番地」という書式が定着すれば、郵便の宛先で「府県」を地名として使う機会が多くなります。
でも、その前に「国+郡区町村…」から「府県+郡市町村…」になったのは、果たして郵便制度の影響でしょうか?

[62857] 2007 年 12 月 15 日 (土) 18:04:53 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (7)郵便制度の影響? その2
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

「国+郡区町村…」から「府県+郡市町村…」になったのは、果たして郵便制度の影響でしょうか?

[46255] 北の住人 さんによると、次のようにあります。
支庁設置で行政区画としての意義を失った北海道の「国」(中略)ですが、郵政と鉄道には位置を示すために残った様です。

「府県」のない北海道に90近くもあった「郡」。しかも 同名の郡 がいくつもあります。
郵便番号のなかった時代、郵便局員が郵便物を仕分けるためには、「北海道」と「郡名」の間に中間区分が欲しいところです。
そんな特殊事情によって、北海道だけは「国」を残したのかもしれません。

どうも北海道の郵便制度は、住所表示から「国」を排除する方向でなく、逆に温存するように働いたように思われます。
私も、「北海道天塩国…」と書いた昭和初期の郵便物を見た記憶があるのですが、確実な証拠は持っていません。

そんなわけで、郵便局が「国」をどのように取扱ったかを知るために、明治の法令を探してみました。
明治19年の二等三等郵便局及電信分局(逓信省令第8号) は、当時の主要地名リストとして興味深いものですが、国名、郡区名、地名という構成になっており、郡区の上位にある広域地名は、まだ「府県」でなく「国」であることがわかります。

参考までに、一等電信分局は 武蔵国東京、摂津国大阪、山城国京都、武蔵国横浜、摂津国神戸、肥前国長崎、渡島国函館、越後国新潟、つまり3府5港の8局であり、一等郵便局は この8局に尾張国名古屋、肥後国熊本、安芸国広島、陸前国仙台を加えた12局です(同年閣令第8号)。
福岡でなく長崎、札幌でなく函館が入っていますが、これが当時の日本国内主要拠点だったのでしょう。

これらを、あえて「12大都市」と呼ばなかったのは、二等郵便局の中に小笠原島、月形、市来地があったためです。
月形と市来地は、それぞれ樺戸集治監と空知集治監の所在地です。北海道開拓の拠点には相違ないが、都市ではないですね。郵便局の等級は都市の大小よりも、5港のような拠点性を重視したのではないかと推察しました。
三笠市HP によると、市来知(いちきしり)という地名のようですが、これが郵便局では市来地に変わってしまったのでしょうか。

少し脱線しましたが、郵政当局が「府県」でなく「国」を使っていたことが確認できた明治19年は、戸籍の住所に「府県」が現れた年でした[62667]

私としては、郵政当局はこの後、戸籍と歩調を合わせて「府県」を用いた住所表示を積極的に推進した事実はなかったのだろうと推察しています。さりとて、北海道のような格別の事情のある地を除けば、積極的に「国」を温存する意味もなく、世の流れに従って徐々に「国から府県へ」と宛名の書式は変って行ったのではないでしょうか。、
郵便制度説の当否は、もっと後の年次の資料により判明するかもしれませんが、まだみつかっていません。

[62881] 2007 年 12 月 18 日 (火) 22:50:58 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (8)明治時代、地図出版人の住所表記
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

[62867] むっくん さん
廃藩置県以降の書物発行で、書物の最後に記される発行者・出版社の住所表記は「府県 + 郡区 + 町村」の形式をとっていたようです。府県が略されることはありはしましたが。。。
#ちなみに大区小区時代には「府県 + 郡 + 大区小区 + 町村」の形式をとっていたようです。

なるほど。出版社・出版人が記した住所表記は、住所表記の変遷を知るのに役に立ちそうですね。
近代デジタルライブラリーの書物を探してみてもよいのですが、とりあえず、手元にある古地図に記された住所を調べてみました。

廃藩置県よりも前ですが、既に「神奈川県」が存在した明治三年「横浜明細之全図」出版人の住所は、「横浜弁天通五丁目」。
明治四辛未年秋八月改正と書いてある「東京大絵図」では、「東京馬喰町四丁目」。いずれも府県名など無関係です。
金鱗堂尾張屋[56610]の切絵図では、「江戸麹町六丁目」と記していました。その「江戸」が「東京」に変っただけです。なお、金鱗堂の切絵図には「東都麹町六丁目」、「麹町六丁目」の表記も見えます。

次は大区小区の時代。
明治八年「東京大区小区分絵図」発兌書林の住所は、第壱大区六小区通壱丁目拾五番地。明治十年「改正大阪区分細見図」は、第二大区六小区心斎橋筋壱丁目第七番地。東京・大阪いずれにも「府」は使われていません。
明治十年「愛知県名古屋明細図」は、愛知県第一区住吉町壱丁目二十四番屋敷。ここで「県」が住所に登場した例が出ました。そして「番地」でなく、「屋敷」つまりハウスナンバー[62738]です。

郡区町村編制法の時代。
明治十三年「兵神市街之図 全」は、神戸区元町通二丁目弐百廿六番屋舗。
[54297]では、既に「神戸区」が誕生しているのに、「神戸区市街之図」でないのかと指摘したのですが、住所にはちゃんと「神戸区」が使われていました。「兵庫県」は使われず、番地でなく「屋舗」。
明治十五年「函館真景」函館区末広町七十八番地。箱館から函館に改称された直後、開拓使時代末期。
明治十六年「改正再刻 京都区組分細図」上京区第廿八組大恩寺町二拾一番戸。明治十八年「改正銅版横浜地図 全」横浜野毛町二丁目四十二番地。
北海道・京都府・神奈川県いずれも表記されず。

市制以後になると、明治二十八年「改正東京全図」東京市神田区橋水町二丁目九番地、明治四十五年「最新番地入東京市全図」東京市神田区今川小路二丁目十七番地のようになります。

結局 12例のうち、「府県名」が使われていた住所は1例だけでした。
出版社という性格上、大都市の住所に集中した故かもしれませんが、「府県 + 郡区 + 町村」形式が一般的という裏付けは取れませんでした。
明治十年、十三年、十六年の例では、出版人を「大坂府平民○○」のように記し、その左に住所を記すので、改めて府県を記す必要がなかったのかもしれません。
# 明治十年の地図のタイトルは「…大阪…」ですが、出版人表示は上記のように「大坂府」です。

付言すると、この「本籍地府県名 + 族籍 + 氏名」という書式も気になります。
東京に住所がある「鹿児島県士族 大久保利通」は、西南戦争で薩摩のサムライを敵にしたが、その本質はあくまでも「鹿児島の武士」なのだという、本籍地への帰属意識が強調された名乗り方のように感じます。
族籍の表示こそ消滅しましたが、現在の免状などにも「本籍地府県名 + 氏名」の書式を見ることがあります。

[62886] 2007 年 12 月 19 日 (水) 22:50:01 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (9)「住所表記」は「地名」とは限らない
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

これまで「住所」と「地名」の区別について曖昧にしたまま記してきましたが、このへんで考え直してみます。

今尾恵介氏の「住所と地名の大研究」11頁には、次のように記されています。
基本的に地名を大から小へ並べるのが日本の住所表示の原則である。

従来の私も、「住所」を構成する「都道府県」「郡市区町村」「町字」「番地」などは、それぞれが「地名」であり、これらを連ねて住所を表現すると考え、本来は「住所」と書くべきところにも「地名」と書いていた箇所がありました。

ところが、明治10年「愛知県名古屋明細図」に使われていた「愛知県第一区住吉町壱丁目二十四番屋敷」という「住所表記」[62881]
これは、「愛知県第一区」という「行政区画」、「住吉町壱丁目」という「地名」、「○番屋敷」という「家屋番号」という要素で構成されています。

地図のタイトルである「名古屋」という地名が住所に使われていないのはショックでした。
昔の住所は、「地名」だけを並べたものではなかったことを、改めて認識しました。
# そういえば、現在の「住居表示」(住所表示でない!)に使われる「○号」という「住居番号」も「地名」ではないですね。

この時代(明治5年〜11年)にも、「地名」としての「国、郡、町村」は存在していましたが、「住所」として使われたのは、このような従来型の地名ではなく、戸籍事務を中心とする「行政の都合で設けられた区画」(大区小区)なのでした。

周知のように、現在でも衆議院議員選挙という行政事務のために、「愛知1区」というような「区画」が設けられていますが、これは選挙事務専用で、住所に使われることはありません。
しかし、明治初期には、本来は戸籍事務用だった「愛知県第一区」が、住所の構成要素として使われたのです。

このような「行政区画 + 地名(町字) + 家屋番号」という構成の「住所表記」は、もちろん戸籍簿の記載にも用いられたと思います。
そして明治11年の郡区町村編制法が施行されると、上記書式の「行政区画」の部分は、「府県 + 郡区 + 町村」と改められます。家屋番号から番地への変化が何時なのかは知りませんが、少なくとも明治19年式戸籍登記書式 [62667]では、“何県何郡何村何番地”、“何府何区何町何番地”となっています。

戸籍以外の分野でも、住所表示に関しては同じ書式が使われます。例えば、明治20年の 所得税納入地届
“何府県何郡区何町村居住  何の誰”
但し、住所表示に「国」を併用した事例(函館商船学校長あての学費上納確認書)もあります。

[62889] 2007 年 12 月 20 日 (木) 22:47:47 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (10)広域地名としての「国」と「府県」
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

戸籍制度における「住所」(本籍地や寄留地)の表示として、戸籍行政を取り扱う組織が設定した区画である「府県」や「大区小区」(明治11年以降には「郡区町村」)が使われたのは、当然のことと言えるでしょう。 [62886]参照
そして、この「住所表示」は、出版届制度においても適用されていたことがわかりました。[62881]

しかし「住所表示」を離れると、一般的に広域の「地名」を指示する「国」は、ずっと後まで健在でした。
郡区町村編制にあたり、新設された郡区の位置を示すのに使われた[62795]のは勿論のことですが、 郡制施行時には 埼玉県下国界変更及郡廃置法律(明治29年)など[59173]を制定して、わざわざ「国」の領域を「県の管轄区域」にマッチさせる努力までしています。

例えば次のような表現はずっと後の時代まで使われました。
“福岡県の管轄区域:筑前国1市9郡・筑後国1市6郡・豊前国2市4郡” (大正元年10月現在)
戦時中に学習した「初等科地理」巻末表の記載も“福岡県:筑前国の全部、筑後国の全部、豊前国の一部”という形式であったと記憶します。

しかし これは「建前」としては広域地名として「国」が用いられた という話で、現実には鉄道[61378]によって密接に結ばれた炭田地域は、田川(豊前国)も直方・飯塚(筑前国)も共に「福岡県」に形成された「筑豊」という新たな経済地域として認識されるようになってきたものと思われます。
同様に、豊前国企救郡にあった門司・小倉と、筑前国遠賀郡にあった若松・八幡・戸畑などは、「北九州工業地帯」を形成し、ここでも豊前と筑前との「国境」意識を遠ざけました。
結局のところ、現在の福岡県は、北九州・筑豊・福岡・筑後の4地域圏に大別されているようで、「筑後」だけが「国」の名残を留めています。

もちろん、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」[47061]と、異なる自然条件を実感させる「国境」もあります。

参考までに、「国」という区画の歴史と現状に関する記事 を集めてみました。

行政的には1都2県に分断され、広域的には相模や下総も含む首都圏の一部になって、地域としてのまとまりを表すのに適当な区域でなくなった「武蔵国」。
筑豊や北九州という新たな経済ブロックの形成により福岡県内での地域区分としての価値を失った「筑前国」。
その反面、「加賀」「能登」「若狭」のように現代に生き続ける国もあります[59238]

「日常に残る旧国名」に関しては地域的な温度差があるということで、一概に広域地名の「国」が「府県」に変ったという言い方は正しくないようです。
しかし その一方で、始めは「行政組織」だった「府県」が、「住所に用いられる行政区画」を経て、独立した「広域地名」としての地位を確立してきたことは、まぎれもない事実であると感じられます。

「府県の地名化」について考えると、郡区町村編制によって確立した「府県 + 郡区 + 町村 + 町字 + 番地」(明治22年以降は区に代って市)という「住所表示」が影響していることは確かでしょう。
郵便の宛先として「住所」を記すことも、「府県の地名化」の促進に一役買っていると思われます。

しかし、府県が「独立の地名」になった決定打は、「府県の性格」の変化にあったと私は考えたいのです。
それを制度面で裏付けるのが明治32年の改正府県制です。
この法改正により、「府県」は「国の出先機関」である単なる「行政機構」から脱皮して、(首長はまだ官選でしたが)直接選挙で選ばれた議員による議会と法人格とを具えた「自治体」の性格を強め、地理的にも「○○県」と呼ばれるに足る独自の領域を確保するに至ったのではないでしょうか。

[62906] 2007 年 12 月 22 日 (土) 16:27:24【1】 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (11)陸軍は「府県」、海軍は「国」で管轄
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

維新政府が幕府時代の奉行所や代官所に代る「行政組織」として設けた「府県」。
兵庫奉行所を前身とする (第一次)兵庫県の県域 を見ると、バラバラの支配地の寄せ集めです。こんな「兵庫県」では、とても「地名」として通用するものではありません。

[54430]でも記したように、明治4年と明治9年の統合を経て「まとまった県域」になります。
この時代になると、戸籍法が制定されて「○○県第○大区○小区…」という「住所表示」が使われ、明治11年の郡区町村編制法が施行された後は、「○○県○郡○村…」という現在に近い表示になり、明治19年の内務省令にもこれが明記されています。

しかし、これは「住所」を表示するのには、戸籍事務のために作られた「行政区画」を使うという約束事であり、必ずしも「○○県」が「地名」として通用するようになったことを意味するものではありませんでした。

実際に、政府当局は管轄区域や所在地を示すのにどのような表現を使っていたのか。
例えば、明治23年勅令204号による 税関管轄区域 は、次のように「国」を使って示されています。

税関管轄区域左の通之を定む
横浜税関管轄区域 陸前磐城常陸下総上総安房武蔵相模伊豆駿河遠江十一箇国及小笠原島の沿岸
大阪税関管轄区域 三河尾張伊勢志摩紀伊和泉摂津西成郡以東七箇国の沿岸
神戸税関管轄区域 摂津川辺郡以西播磨備前備中備後安芸周防長門石見出雲伯耆因幡但馬丹後隠岐伊予土佐阿波讃岐淡路二十箇国の沿岸
長崎税関管轄区域 肥前肥後筑前筑後豊前豊後日向大隅薩摩壱岐対馬琉球十二箇国の沿岸
新潟税関管轄区域 若狭越前加賀能登越中越後羽前羽後佐渡九箇国の沿岸
函館税関管轄区域 陸奥陸中渡島後志石狩天塩北見根室千島釧路十勝日高胆振十三箇国の沿岸

せっかく国名と国数が列挙されているので、合計してみると71(摂津の重複を除く)。これに内陸13ヶ国(岩代下野上野甲斐信濃飛騨美濃近江伊賀山城大和河内美作)を加えると、明治元年〜2年の布告[59112]による増加後の84ヶ国という数字に一致します。

それはさておき、同じ政府の中なのに、「府県」と「郡区」による指定をしているのが陸軍管区表 です。明治21年勅令32号だから、税関よりも早い時期です。
徴兵制度によって本籍地で兵士を管理する陸軍の場合は、戸籍制度とリンクした府県システムの方が使いやすいという事情があるからでしょうか?

では海軍の場合は?と見たら、 明治26年の勅令による海軍区 は「国」による海域指定でした(第一条)。それぞれが、横須賀・呉・佐世保・舞鶴・室蘭の各軍港に対応しますが、その所在地名も“相模国三浦郡横須賀”という調子です(第二条)。

第一海軍区 陸中国南九戸北閉伊郡界より紀伊国南牟婁東牟婁郡界に至るの海岸海面及小笠原島の海岸海面
第二海軍区 紀伊国南牟婁東牟婁郡界より石見長門国界に至り又筑前豊前国界より九州東海岸に沿ひ日向国南那珂南諸県郡界に至るの海岸海面及四国の海岸海面並内海
第三海軍区 筑前豊前国界より九州西海岸に沿ひ日向国南那珂南諸県郡界に至るの海岸海面及壱岐対馬沖縄諸島の海岸海面
第四海軍区 石見長門国界より羽後陸奥国界に至るの海岸海面及隠岐佐渡の海岸海面
第五海軍区 北海道陸奥及陸中国北九戸南九戸両郡の海岸海面

室蘭に軍港? 聞いたことがないですね。
調べてみると、10年後、明治36年改正 では第四海軍区までになっており、室蘭軍港の設置は取り止められたものと思われます。日露開戦が近づき、そこまでは手が回らなくなったのでしょう。

陸軍の「行政的な」管区に対して、海軍は「地理的な」管区と言えるでしょうか。

[62924] 2007 年 12 月 23 日 (日) 17:47:14 hmt さん
 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る (12)むすび
hmt 「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探る

帝国憲法発布があり、地方制度を含む種々の法令が整備されてきた明治20年代。
当局も、役所により「国」を使ったり「府県」を使ったりと不統一ですが、明治23年公布の(旧)府県制・郡制の施行を進めていたこの時代は、まだ「広域地名としては国を使う」というのが主流であったと思われます。

興味の赴くまま、郡区町村のリスト・郵便局のリスト・住所表示の変遷などに立ち寄り、なかなか本題が進まなかった「府県」が「地名」に使われるようになった事情を探るシリーズですが、そのポイントともいえる考えは、既に(10)[62889]の末尾に記しました。

すなわち、「府県」が地名化した決定打は、明治32年の改正府県制 だったということです。
中央集権国家の行政区画としての性格が濃厚だった「府県」が、「自治体」へと脱皮することになり、それにより「○○県という行政組織の管轄区域」だったものが、「○○県という自治体を構成する領域」=「○○県と名乗る地名」へと変化しました。

そして、「府県」が地名としても通用するようになった結果、これ以後は府県の領域との整合を目的とした「国界変更」は不必要になり、「国」を公式に使用する機会も次第に少なくなったものと考えます。

# 古い法令の一部修正、例えば裁判所の移転改称に関する司法省令を見ると、ずっと後まで「国」が出てきます。
移転ではないのですが、こんな改称もありました。明治44年 ですから、日露戦争によって南樺太が日本に戻ってきてから数年後に、「地名の日本語化」が実施されたようです。
樺太地方裁判所管内ウラジミロフカ区裁判所コルサコフ出張所を豊原区裁判所大泊出張所と改称す

それはさておき、
上記の考察は、当然のことながら明治32年の(新)府県制が及ばない北海道には通用しません。
というか、「北海道」に関しては、行政組織から出発した「府県」と違って、もともと「地名先行」なのでした [62763]

そして、明治19年(1886)から昭和22年(1947)まで北海道を管轄した行政組織の名は「北海道庁」。
「○○県庁」という役所が正式には「○○県」であるのと違い、地名の「北海道」と役所の「北海道庁」とは区別されていました。
行政組織の中でも「地方団体」の性格をもつ部分については、「北海道地方費」という呼び名もあったようです[53601]
戦後(1946年)、府県制が北海道にも適用されて、北海道が府県と同様に地名と役所とを兼ねるようになりました。

20世紀になると府県が地名化したために必要性の薄れた「国」ですが、北海道の場合は、その部分地名として公式に使われ続けました。
例えば 明治39年勅令第139号 は、
北海道十勝国当縁郡を廃止し其の区域に属する…以西を十勝国広尾郡に、…以東を十勝国十勝郡に編入す
と記しています。

余談
「府県」は「役所」から「地名」に変身しましたが、北海道の「支庁」が「支庁管内を意味する地名」に変身することはなく、「住所」に使用されることもなかったようですね。

[2330] 紅葉橋律乃介さん
住所に「支庁」を使うことは、絶対にありません。
「支庁」は「北海道庁(=本庁)」の「支庁」ですから、住所に使えるわけがありません。

「支庁」が地名に転用されなかったのは、「本庁(=北海道庁)」が存在するために、「府」(これも本来は大宰府の例が示すように役所の意味)以上に「役所」という観念が強かった歴史があるからでしょう




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