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hmtさんの記事が10件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[97156]2018年12月23日
hmt
[97097]2018年12月10日
hmt
[97081]2018年12月7日
hmt
[97079]2018年12月7日
hmt
[97051]2018年12月2日
hmt
[97050]2018年12月2日
hmt
[97038]2018年11月26日
hmt
[97012]2018年11月20日
hmt
[97006]2018年11月18日
hmt
[97002]2018年11月16日
hmt

[97156] 2018年 12月 23日(日)18:24:02hmt さん
浜松市浜北区
[97154] 稲生さん
8年ぶりに投稿という稲生さんを歓迎して、一筆記します。
2007年の発足時から7区体制の浜松市が、新3区案を提示。
そして、2019年4月の統一地方選挙の際に住民投票実施とのこと。
政令指定都市としては人口の少ない 浜松市にとって、区役所削減による経費節減は 理解できる施策と思います。
区役所の削減により、住民の利便はある程度損なわれるかもしれませんが、止むを得ないようにも思われます。

私は幸いにも浜北区在住ですので、単独区は温存され、…

部外者なので、ブログに記された事情などには疎いのですが、C案にならず、F案が有力になったことに安堵する気持ちは、理解できるような気がします。

…ということで、これまで殆ど知ることのなかった「浜北区」について、調べた初歩的なことを記します。

浜北区の沿革(Wikipedia)によると、1889年の町村制では7ヶ村。現在の地図で浜北区の中心地と目される区役所付近は、長上郡小野田村・平貴村あたりと思われますが、1896年には浜名郡に編入されました。
その後、小野田村と平貴村(平口+貴布祢)は小野口村と北浜村に組み換えられ、1926年には日清紡績の工場が貴布祢に進出しました。
戦後の1951年には 小野口村が浜名町になり、昭和合併の1956年には 浜名町、北浜村を含む1町4村で「浜北町」になる。
「合併時点での人口52,561人は、町の人口として当時日本最大」と記されています。

浜北区南西部の現在の地図を見ると、小松・内野・平口・貴布祢などの大字地名を発見することができます。
明治時代にできた合成村名に使われた 1889年以前の旧村名ですね。

話 変わって
2010年頃にフェードアウトしてから、8年も経ってしまいました。

前回の記事の日付は 2010/6/17。「hmtマガジン」発足のご挨拶 2010/6/20 の直前でした。
[25159][58458][65372]など、稲生さんの記事も収録されています。訪問をお待ちしています
[97097] 2018年 12月 10日(月)12:24:42hmt さん
平塚市須賀
[97093] ぺとぺとさん
左岸の基本単位区が右岸に組み込まれているとしか思えないのですが、そうだとすると右岸と左岸では町名(大字名)が異なっており(右岸は千石河岸、左岸は須賀)、釈然としません。

平塚の「須賀」と言えば、相模川河口(馬入川)右岸の港町[77631]と心得ていたので、「左岸は須賀」に驚きました。

地図を確認すると、確かに左岸にも須賀がありますが、右岸にもあります。ひらつかタマ三郎漁港を中心とする地域で、河岸沿いに河口まで続いています。

湘南大橋の南側は、人家が「連担」した状態とは見えませんが、左右両岸共に「(大字)須賀」です。
歴史ある漁港地域から連続した大字須賀は相模川の両岸に広がっており、これが「人口密集地域」として扱われているものと思われます。
河口の南、相模湾に突き出た平塚漁港(新港)は DID区域外になっています。

# もともと DIDでいう人口「密集」の対象は地域です。建築用語である「連担」の対象物は人家(建築物)です。
「地域の連続」と「建築物の連担」。両者のモノサシは、本質的に違うのではないか?

千石河岸と大字須賀との関係【住居表示と地籍について】
相模川河口の両側が「大字須賀」だったので、「右岸は千石河岸」問題はなくなったのですが、「千石河岸」は 1965年に実施された住居表示に基づき、「大字須賀」の一部を対象に設置された町名【一部は1981年編入】です。
日常使われる住居表示町名とは別に、札場町など付近の町を含めて、地籍としての「大字須賀」は残っているのではないかと思われますが、この点は未調査。

DID設定範囲に関して、住居表示町名と地籍の大字町丁名とは、どのように考慮されるのか?
[97081] 2018年 12月 7日(金)19:58:11hmt さん
「虎ノ門ヒルズ」駅
[97077] ぺとぺとさん
そういえば、東京メトロ日比谷線の新駅の名称もカタカナつきの「虎ノ門ヒルズ」になったみたいですね。

2020年東京オリンピックまでに供用開始。関連事業の最終完成は2022年度。UR都市機構と東京メトロ

現在の森タワー(2014年開業)北隣にビジネスタワー、南隣にレジデンシャルタワー、そして桜田通り西側にステーションタワーができます。
配置図が示すように、銀座線の通る外堀通りから、南側の「新虎通り」【環状二号線】への移動。

hmtがこの地帯を訪れる機会も遠退きましたが、思い起こせば、通勤先が「芝の金毘羅さま」[73150]の隣のビルだったのは 20年以上前のことでした。

それはさておき、森ビル御用達の「ヒルズ」も出世して、駅名になります。

Akasaka Roppongi Knot から名付けた ARKヒルズ(開業は1986年)に始まり、2003年の六本木ヒルズを経て 、虎ノ門ヒルズ(2014)が開業。その頃に、環状二号線の記事[85227]を書きました。

本家のビバリーヒルズは、丘が連なった住宅地でしょうが、東京の「ヒルズ」は地形とは無関係。

例えば、六本木ヒルズになった港区六本木6丁目の旧名称は麻布日ケ窪町。
江戸時代には長府藩邸があった場所で、日露戦争で有名な乃木希典はこの地で誕生とか。
でも「日ケ窪」という名では、高級マンションは売りにくいのでしょうね。
人工的な高層ビルの町が「ヒルズ」という名になるのも止むを得ないか。

蛇足
[85227]には、虎ノ門ヒルズは「高さは247メートルと都内2位の超高層複合ビル」と記しました。
港区のミッドタウン・タワーより 1m低いのは、実はヘリポートの高さ。普通に使われる最高所の値を使うと 255.5mで都内1位になるのだが それを避けています。なぜ?
謎解き:公共事業の計画変更に必要な審議会の承認を回避するため(開業日2014/6/11の朝日新聞)。
[97079] 2018年 12月 7日(金)14:49:32hmt さん
大田区の最高点
[97065] EMM さん
大田区の最高点は改めて探す必要があります。
ただ、大田区の高い所ってビミョーなでこぼこがある大地の上なので、真の最高点を見つけるのはなかなか難しそうです。

大田区内町丁目別標高一覧によると、田園調布五丁目の最高標高 43.7m が最高のようです。
地理院地図上での位置:私には特定できませんでした。
[97051] 2018年 12月 2日(日)18:19:24hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(2)
前報[97050]で示した連続DID【川越地区】の来歴を記します。
YTさんが昔まとめて投稿した連続DID情報[97027]により、DIDの履歴の大筋が判明したので、登場順に列挙します。

1960年 DID初年に設定されたのは川越市だけで、DID人口全国順位は98位の48,403人、面積は 4.6km2と、今とは比較にならない小規模でした。
1970年になると、川越市DIDは 連続した福岡町と大井町(鶴ヶ岡)に拡大し、42位 142,075人/15.6km2

1975年になると、川越地区の連続DIDは、人口194,318人で全国 30位、面積21.5km2
そして西武鉄道沿線に、狭山市I・入間市・所沢市II(狭山ヶ丘)という名の3つのDIDが連続状態で登場します。
これを【西武地区】と仮称しておきます。全国66位 109,045人、面積 21.6km2
同じ1975年、東上線沿いにも 富士見市Iと三芳町(藤久保)の連続が登場。
【富士見地区】は 104位 61,455人 面積 5.6km2

2つのギャップ:ふじみ野と新狭山【いずれも駅名に基づく仮称】による分断状態ですが、現在の連続DIDの原型である3地区は 1975年に形成されたようです。

1980年 新狭山の工業地域がDIDに組み込まれ、川越地区の連続DID人口は全国 12位 441,360人に躍進しました。1975年の川越地区・西武地区合計に対する増加率 45%。面積 61.3km2の増加率は 42%。
富士見地区は全国91位 4,360人 面積 7.2km2

その後、川越地区DIDには 1985年に飯能市、1990年に鶴ヶ島町II【鶴ヶ丘】のDIDとも連続状態になり、2000年のデータは 川越地区が 全国11位の 人口703,759人 面積89.23km2になりました。
富士見地区は 全国78位の人口 118,402人で、面積 10.01km2

このデータを前報で示した2015年のデータと比較すると、ふじみ野付近の市街地化などで少し増加したのは当然ですが、ふじみ野IIの人口は DID指定から10年以内に ほぼ飽和状態に近づいているように思われます。
年別DID連続地区市町人口面積-全国順位
2000年【富士見地区】1市2町11840210.0178
2000年【川越地区】7市1町7037599.2311
2000年【合計】8市2町82216199.24-
2015年【川越地区】8市1町856050103.96?

[97027]を見ると、2000年のギャップ【DID途切れ】状況が次のように記されていました。
志木市(京浜地区)~富士見市I(富士見地区) 約50 m (接するのは時間の問題?)
大井町I(川越地区)~大井町II(富士見地区) 約30 m (接するのは時間の問題?)

前者【柳瀬川ギャップ】は[97046]のリンク地図で示されるように現存していますが、後者は消滅しています。
後者の「約30 m」というギャップ。その位置は当時のDID地図がないので不明ですが、ふじみ野市誕生と同日の 2005/10/1国勢調査において 旧上福岡市と旧大井町にあった3つのDIDも合体し、一つになったものと推察します。
いずれにせよ、現在のふじみ野の市街地が形成される前に存在していた原野状態(耕作放棄地?)に因むギャップという意味で、ふじみ野ギャップと仮称しておきます。

この2005年国勢調査に際して、ふじみ野駅所在地を含む勝瀬原の区画整理地域にも DID 富士見市II が設定され、それに伴って新河岸川沿いにある水谷東のDID【志木市DIDに隣接】は 富士見市IIIと番号が改められました。

脱線ですが、水谷東は、1961年頃からの高度成長期に志木方面から開発された住宅地です。何度も水害を受けていますが、元々新河岸川沿いの遊水地であったとのこと。
住所は富士見市ですが、浦所道路の東にあり、DIDは以前から【京浜地区】の一部になっていました。
[97050] 2018年 12月 2日(日)17:15:32【1】hmt さん
柳瀬川から飯能まで連続するDID(1)
[97046] YT さん
2015年現在も、柳瀬川を境とするDIDの途切れは健在で、富士見市~ふじみ野市~川越市~狭山市~入間市~飯能市と続く、DID上の隠れ大都市川越は今なお健在

巨大な赤地により DID地図の中で存在感を示す京浜地区から、道路・鉄道沿い四方八方に伸びる触手。
東京の北西に伸びる赤い触手には、御指摘のように 現在も柳瀬川の DIDギャップがあります。

大正9年の国勢調査からずっと使われている「市部」という言葉は、元々は「市街地そのもの」であったのでしょうが[79563]、昭和30年代以降の市町村合併を経た現在、行政上の「市部」は、本来の意味であった「市街地」から乖離しました。

その対策として、都市的地域の特質を明らかにする統計上の地域単位として,昭和35(1960)年国勢調査から新たに設定されたのが「人口集中地区(DID;Densely Inhabited District)」です。

個別自治体や市部の連続に代えて、「DIDの連続」を指標にすれば、柳瀬川の先、飯能まで連続する赤い触手【川越地区】は、最大の「DID衛星都市」なのですね。

「DIDが富士見から飯能まで続いている」と言われても実感はないのですが、それでも 連続DID【川越地区】の住人として関心をそそられ、調べてみました。
2015年国勢調査データで該当する連続DIDを集計した結果は、8市1町に跨る 11個のDID【下記】で、合計すると 人口約 85万6千人、面積約 104km2でした。

冒頭の引用文6市【枝を含めると8市1町】に関係する 連続DID【川越地区】の 2015年版を示します。
DIDを並べる順番は、「柳瀬川ギャップ」を起点として、東上線・西武線沿いに幹を並べ、枝は1文字下げて記しました。右側3列は 来歴関係のデータ[97051]です。

DID公式名参考地名人口-面積2000年DID連続地区登場年-順位
2015年【川越地区】856050103.96
富士見市I鶴瀬・みずほ台823217.31富士見1975104
 三芳町II竹間沢73390.69富士見
 三芳町I藤久保215291.66富士見1975104
ふじみ野市上福岡1039789.33川越/富士見1970福岡町, 大井町
 富士見市IIふじみ野駅126790.76【注】
川越市28065034.53川越196098位
 鶴ヶ島市II鶴ヶ丘209782.12川越1990(11)
狭山市入間川13008622.01川越197566
入間市I豊岡11844914.77川越197566
 所沢市II狭山ヶ丘325213.02川越197566
飯能市I455207.76川越1985(12)

【注】2000年は未指定 指定後の人口:2005年5923、2010年12412なので、指定後10年でほぼ飽和?
[97038] 2018年 11月 26日(月)20:05:38hmt さん
宝塚に関する情報3題
1 初代市長

[97035] グリグリさん
なお、宝塚市の初代市長は田中九右衛門(S29.5.8就任)です。

初代宝塚市長の就任日は リンクされた水道事業資料の 3/17コマにもありますが、宝塚市>選挙の統計情報の中に、候補者別得票数や投票状況の記録がありました。
それによると、昭和29年5月8日執行の宝塚市長選挙は、立候補者4人で、65%と高い投票率。
当選者と次点者とはかなりの接戦でした。

[97002]で引用した『近代宝塚歴史紀行』(ウイルキンソン・タンサン)にも「合併問題の渦」という言葉が使われており、市長選挙が 1954/4/1の合併期日に間に合わず、宝塚市発足当初は、旧・良元村女性村長の岡田さんが「市長職務代理者」を務めたことなどが記されています。
このことから、合併そのものは成立したが、市長の選定問題は難航したことが窺えます。

なお、初代宝塚市長は4年の任期を全うすることなく、2年後に第2回の市長選挙が行われました。

2 行政地名:兵庫県武庫郡良元村宝塚町

[97013] ekinenpyouさん
武庫郡良元村大字伊孑志村の一部を分離してT4.11.10より(大字)宝塚町を設置とありました。

1954年に発足した「宝塚市」は武庫川の両岸に跨っているが、自治体名になったのは左岸の「川辺郡宝塚町」で、1951年のことでした。そのことから派生した疑問「"宝塚"が地名になったのは何時からか?」[97002]に答える調査結果をいただき、ありがとうございます。

今回、1915年まで遡った行政地名「宝塚」のルーツ。それは「宝塚旧温泉」の所在地・武庫川右岸の「武庫郡良元村宝塚町」でした。
1915年(大正4年)11月13日の官報広告欄に記された兵庫県の通知 大字区域変更 并(ならびに)大字新設
武庫郡良元村大字伊孑志(イソシ)の内 左の区域を分離し 来月十日より(大字)宝塚(タカラヅカ)を設置せり  大正4年11月  兵庫県  塚原など7字の全部と3字の一部

宝塚が加わり5大字になった大正7年市町村名鑑
「孑」というのは、珍しい字ですね。漢和辞典では「子部」に「ゲツ」という音で収録されていました。
使用例:「孔」の左側。ぼうふら「孑孑」。

3 近代的な「新」温泉と 伝統的な「旧」温泉

[97013]にリンクしていただいた「宝塚温泉物語第2章」も興味深く拝見しました。
後に炭酸泉に溶食【溶蝕】された新温泉大理石浴室[97002]の写真もありました。
向かい合う武庫川の両岸は 共栄を願いながらも、新・旧温泉で発展への競争。
1915年の「武庫郡良元村宝塚町」と 1951年の「川辺郡宝塚町」という地名争い?も、両岸の温泉が関係。
[97012] 2018年 11月 20日(火)14:47:17【1】hmt さん
女性首長
[97010] グリグリさん
女性首長一覧の更新漏れ:兵庫県良元村の岡田幾村長(1951年就任1954年廃村)[97002]

参考文献:「レジーム再編と女性首長」という論文です。その 6コマに女性町村長の経歴一覧表がありました。
しかし、岡田幾さんの年齢は記載は見当たらず。

なお、この表では 千葉県安房郡神戸村早川村長の初当選が 1947年となっていますが、これはグリグリさんの 女性首長の一覧・冒頭説明にあるように、1948年が正しいようです。[91257]参照

余談ですが、第1回統一地方選挙で当選した前任の村長は、強権発動による米の強制的供出割当がらみにより、僅か1年で失脚辞任。
食料不足時代ならではの事件でしたが、これが5人目の女性首長誕生につながったようです。[91257]の資料(1)参照

上記参考文献(選挙研究29巻 2013年)には、女性町村長だけでなく、女性知事や女性市長の一覧表もあります。
[97006] 2018年 11月 18日(日)17:35:02hmt さん
五重塔
五重塔コレクションのリリース[97001]を知り、真っ先に記憶に甦ったのが、「女人高野」と呼ばれた室生寺の五重塔でした。

大戦後間もない 1949(昭和24年)/1/26の法隆寺金堂火災をきっかけに、作家の山本有三らによる参議院議員立法による文化財保護法が、翌1950年に制定されました。毎日新聞

この法律に基づく基準により 第一次の国宝指定(1951/6/9日)を受けた 181件の中で、法隆寺金堂などの建造物は 37件ありました。

このうち、屋外にある五重塔は、コレクションに収録されているように、法隆寺・室生寺・醍醐寺の3件です。
海龍王寺五重小塔は 屋内にある建造物ですが、これも第一次指定。

「五重塔」ではないので、今回のコレクション対象外ですが、国宝の第一次として指定された「塔」を拾い出してみると、フェノロサが「凍れる音楽」と讃えた西の京の薬師寺東塔(三重塔)、法隆寺と同じく斑鳩の里にある法起寺三重塔、石山寺多宝塔と有名な塔が並びます。

・三重塔や十三重塔はどうするか?多宝塔(事実上の二重塔)は?
というコメント [96947] EMM さん もあります。対象拡張を検討していただければ有り難い と思いますが、「石造」の五重塔までを含んでいる現在の対象のまま 十三重塔に拡張すると、多くなりすぎる?

私としては、「木造」限定でよいのですが、多武峰(とうのみね)の談山神社[13109][76112]にある、世界唯一の木造十三重塔は、この種のコレクション対象としては、是非加えておきたい珍品であると思っています。

室生寺の五重塔に戻ります。
私がこの 小ぶりながら 魅力的な美しさで 人を惹きつける天女 の姿を見たのは 何十年も前ですが、台風で倒れた巨木の下敷きになって大破した というニュースを記憶しています。

その後を気にしながらも そのまま年月が過ぎましたが、今回のコレクション収録で健在を知り、調べました。
被害をもたらしたのは 平成10年(1998)台風7号。なぎ倒された巨木が小さな塔に倒れかかり、初層から五層までが損壊した無残な姿。宮大工たちも言葉を失うような惨状だったとのこと。
重さ6トンもの塔をジャッキで持ち上げ、桧皮葺の屋根の修理には、室生山のヒノキ500本の樹皮7.5トンを使用。修理の際の調査により、塔の建立年代を 800年頃とする従来の定説が裏づけられた。

室生寺の五重塔は、無事に再生できてよかったのですが、幸田露伴の名作『五重塔』のモデルになった東京・谷中・天王寺の五重塔は、1957年焼失したままで、コレクションの対象になりません。

文学作品だけに残る「谷中の五重塔」を作った大工の名は のっそり十兵衛
[97002] 2018年 11月 16日(金)18:54:02【1】hmt さん
地名ではなく、温泉名だった「宝塚」
「宝塚」を話題にした機会に、この名が「地名になった」のは意外に新しいことを記しておきます。

[96956]で紹介されたFAQの回答には、「その近くで物を拾った人には幸運が舞い込むと信じられていた古墳」があり、これが市名の由来という説が記されています。

自治体名としての「宝塚」が出現したのは、宝塚市成立の約3年前、1951/3/15の町制/改称でした。
兵庫県川辺郡小浜村→宝塚町。
変遷情報を明治合併の 1889年まで遡っても、「宝塚」という旧村名は見当たりません。
「宝塚」が地名になったのは何時からか?

古墳の呼び名から地名になる間を繋ぐ名前としては、「宝塚駅」が思い浮かびます。
阪鶴鉄道宝塚駅(国鉄>JRの前身)は 1897年12月開業。阪急の前身・箕面有馬電気軌道の開業は 1910年。

駅名より更に古いのが温泉名でした。阪急の創業者・小林一三が、宝塚音楽学校創設【1913年】の頃を回顧した『宝塚生い立ちの記』を 青空文庫で読んでみると、「四十年前の宝塚風景」として次のように記されていました。
宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく、しかもその温泉は、すこぶる原始的な貧弱極まるものであった。その温泉の位置はやはり現在の旧温泉のある附近…武庫川の岸にささやかな湯小屋…。その湧出する鉱泉を引いて、初めて浴場らしい形を見せたのは、明治二十五年のこと…。
その後、阪鶴鉄道の開通とともに、宝塚温泉は急速な発達を遂げたが、1910/3/10 【阪急の】電車開通当時は、武庫川の東岸【左岸】すなわち現在の宝塚新温泉側はわずかに数軒の農家が点在するのみで、閑静な松林のつづく河原に過ぎなかった。

その宝塚温泉も、明治時代に栄えたのは武庫川西岸の旧温泉側【武庫郡良元村】であったようです。
駅側の 新温泉は、阪急が乗客誘致のために明治末の 1911年に開業したものです。
私は 1950年代末期頃 大理石を使った豪華な大浴場を利用した経験がありますが、炭酸泉に溶食されていました。
炭酸カルシウムの大理石が炭酸水に溶けるのは、ケミストならずとも常識でしょう。
小林一三さんは偉大な事業経営者ですが、材質選定が不適切と実感したのでした(笑)。

それはさておき、宝塚温泉としては、広く事業を展開した新温泉が栄えました。
小林さん本人は「無理にこしらえた新都会」と記していました。
蒸気加熱設備のない室内プールで失敗しても、これを温泉客寄せの 少女歌劇場に転用し、花嫁学校につなげるなど、事業展開の才能には舌を巻きます。

「タカラヅカ」の名は温泉から脱皮し、新しい舞台芸術として 広く知られる名前になりました。
新温泉のある東岸側・川辺郡小浜村が 1951年に「川辺郡宝塚町」を名乗ることになったのも当然でしょう。

変遷情報を見ると、昭和合併時代の 1954/4/1に 宝塚市が誕生しています。
1950年国勢調査人口では、武庫川右岸の武庫郡良元村 21687人、左岸の川辺郡小浜村 15090人で、居住者は良元村の方が多いのですが、新市名は、一足先に小浜村から改名していた 全国区の「宝塚」になりました。

突然ですが、ここで女性首長の情報です。

宝塚市になって消滅した兵庫県武庫郡良元村の 最後の村長は女性でした。
岡田幾(おかだ いく) 1951/7/5当選 1954/4/1良元村消滅 

岡田指月(しげつ)の名で俳誌「白扇」を共宰する女性俳人でした。
合併問題の渦中にあった村長就任時の句:身をすててゆくや茨の夏の道
宝塚市誕生を喜ぶ句:春光に産声高し宝塚
安堵して村長職を辞任する時の句:戦ひは終りて安き日永かな
出典 近代宝塚歴史紀行

【追記】
この記事は小林一三『宝塚生い立ちの記』の冒頭文「宝塚という名称は、以前には温泉の名であって、今日のような地名ではなく」に基づいて書いたものです。
その後、1672年の検地記録に「川面村の小字として宝塚東・宝塚南・宝塚北が記されている。」という異説が記されていることを、Wikipediaで発見しました。しかし、この点については 未修正です。ご承知ください。


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