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[96430] 2018年 8月 23日(木)19:12:11hmt さん
台東区はお台場の東?
台東区。ekinenpyouさんの記事を発端になり、その読み方が話題になっています。記事集

中心になっている中国語の読み方については、私は全くの無知であり、議論に加わることができません。
そこで 初心に戻り?、落書き帳の古い記事を検索してみました。

その結果、とんでもない 誤解記事を発見してビックリ。
[1933] mikiさん 地名+方角の区
東京都...江東区(江戸川の東)、台東区(お台場の東)

さすがに、投稿直後に Issieさんによる修正意見[1996]が出ていました。
「江東区」は“隅田川の東”,「台東区」は“台地(具体的には本郷台かな)の東”という意味です。

台東区には上野公園になっている台地があり、「上野の山」と呼ばれています。
江戸時代は、この台地の全域が 東叡山寛永寺の境内でした。
戊辰戦争では、江戸で唯一の戦場になりました。新政府軍の指揮官は西郷隆盛。銅像は何故か着流し姿。
「台東」の意味は、“台地の東”よりも、“上野の台地と、その東に広がる低地【下谷・浅草】”と理解するのが適切ではないでしょうか?

下谷区と浅草区とが統合されて台東区になったのは、敗戦直後の大都市改革[74935]の一環でした。
具体的には 1947年3月15日に 都心部の区を中心に統合が行われて、35区が「22区」になりました。
昭和22年東京都告示第127号
左側に3月5日施行とありますが、ごれは誤記で、右側の昭和二十二年三月十五日施行が正しい。

台東区について言うと、既に当用漢字表は1946/11/26に公布されているのですが、これが新字体になる「当用漢字字体表」の告示は1949/4/28ですから、「臺東区」で告示されていると推察します。
告示の原文を確認したいと思いましたが、不成功。

[96417]伊豆之国 さん
「台」と「臺」は、本来はそれぞれ別の字で、どちらも中国に古くからある漢字です。

…というわけで、Wikipedia台東区>名称由来に記された
康煕字典にめでたい意味で載る瑞祥地名でもある。
のは、「臺東区」であろうと推察しました。

そこで、ekinenpyouさんに存在を教えていただいた康煕字典で、至部8画の「臺」を覗いてみました。
東という字は末尾から3行目にありましたが、「臺東」という地名は未発見。
念の為、略字の 「台」にも「台東」は見当たらず。

あまりパッとしないレポートですが、読み方とは無関係に「台東」を調べた結果でした。
[96402] 2018年 8月 19日(日)11:26:02hmt さん
海と島(31)ユルリ島の馬
時折綴っている「海と島」シリーズです。島の人口とか無人島とか居住者の有無に関係したトピックスも多いのですが、今回の「居住者」は 人ではありません。

日曜日朝のNHK「さわやか自然百景」。今朝のテーマは、根室沖3kmに浮かぶ双子の無人島、ユルリ島とモユルリ島でした。

「鵜の島」を意味するアイヌ語と根室沖という場所から連想するのは歯舞群島ですが、歯舞群島の勇留島(ゆりとう)は根室半島の東にあります。
これに対して、ユルリ島【2km2】と より小さなサイズのモユルリ島【0.3km2】とは、根室半島の南にあり、いずれも周囲を断崖で囲まれた平坦な台地の島です。地理院地図

遠目には同じように見える平らな無人島ですが、上陸してみると草の丈が大違いです。
ユルリ島には、以前に昆布漁師が持ち込んだ馬が野生化して、背丈の高い草を食べるため充分な光を浴びた花々が草原に咲き乱れます。

昆布漁が盛んだった1950年代のユルリ島には人が住み込み、馬を使って昆布を引き上げた断崖上の平地を、昆布干場として使っていました。

時代が変わり干場としての利用が終わると、人々は島を去りました。
しかし、馬は食肉として売られることなく、積雪も少なく、水と草の豊富なユルリ島に残されました。山のない島ですが、ミズゴケによる貯水能力があり、雪の下で 馬の命を支える環境があったのですね。
最盛期には30頭にも増殖した馬。近親交配を防ぐためにオス馬の入れ替えも行われたそうです。

2006年、漁師の高齢化に伴い全てのオス馬を引き上げ、14頭のメス馬が残され、馬の数は少しずつ減少。
北海道ファンマガジンによると、2011年8月に12頭いたのが、2014年2月に6頭と2年半で半減。そして、2018年の今回取材時には3頭。

人間の都合で連れて来られ、野生化への道をたどった居住者の馬がゼロになるのは時間の問題でしょう。
そうなると 当然ですが、植生への影響があります。
海鳥たちとオジロワシとの攻防も、その行方は如何。
島という限定された世界でも、自然の姿は移り変わっているようです。
[96393] 2018年 8月 17日(金)17:30:10【1】hmt さん
横綱朝潮の出身地
[96392] うっかりじゅうべえ さん
兵庫県   8 朝潮太郎(初代)
鹿児島県  5

スポーツは不得意分野なのですが、1953年のクリスマスに、鹿児島県への復帰が実現した奄美群島[56304]のことにも関係するので、ちょっと口を出しておきます。

1956年から1961年までの間の大相撲で、幕内優勝5回を記録した朝潮太郎。
本名の「米川」から始まり「朝汐」も使ったようですが、太い眉毛と立派な胸毛の大柄な姿で記憶に残る力士。
その名は「朝潮太郎」です。大阪場所での活躍が特に目立つ力士でした。

1959年の大阪場所後に 46人目の横綱に昇進。深川・富岡八幡宮境内の「横綱力士碑」にその名が刻まれる際、既存のスペース満席のため、初の 「張出横綱」にされてしまった。そんなエピソードを新聞で見た記憶があります。

問題になるのは、この朝潮の出身地です。
Wikipedia は、その冒頭に「鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)」と記しています。
そして、来歴の箇所の記載。「1948年(昭和23年)10月場所、本名の米川で初土俵。当時奄美は米軍の占領下にあったので兵庫県の親戚、大沢徳城を頼って貨物船に忍び込み密航、奄美が返還されるまで兵庫県(神戸)出身と番付に書かれていた。」と記しています。

奄美が鹿児島県に返還される前には、出身地を兵庫県と名乗っていた時代もあったのかもしれません。
Wikipediaの出生地:兵庫県など、古い情報の影響が残っているのかもしれない説の真偽はさておき、朝潮が奄美の徳之島で育ち、日本復帰後は「鹿児島県徳之島出身」であることを公称していたことに間違いはないと思われます。

してみると、出身地:兵庫県に該当するのは、増位山(父:大相撲では姫路市)2回と貴闘力1回の合計3回だけ。
出身地:鹿児島県に該当するのは、[96392]の5回【注】に朝潮5回を加え、合計10回ということになると思います。
【注】私なりの理解では、次の通りです。
若嶋津 2回(1984/3と1984/7)、霧島(1991/1)、30代横綱で西囎唹郡西国分村(現・霧島市)出身の三代目西ノ海嘉治郎(1925/5)、25代横綱で種子島出身の二代目西ノ海嘉治郎(1916/1)。
【追記】
16代横綱初代西ノ海嘉治郎の記事[96397] ekinenpyouさん を見て、西ノ海嘉治郎の代数と、三代目出身地を追記。
[96390] 2018年 8月 15日(水)21:44:57hmt さん
「山の日」に思う(2)
[96381] MasAka さん
山の日ということで、とりあえず近所の山にと思い立ち、今住んでいる川崎市の最高地点を目指して

都市化されつつある猛暑の多摩丘陵を脳裏に描きながら、「山」に関する 47都道府県ランキングを眺めてみる。
これが、体力のない hmtにとっては、精一杯の夏課題でした。

2016年の第1回「山の日」に作った表を少し修正。
傾斜地【山地+丘陵地】vs 平坦地【台地+低地+内水域】という対比で作ってみた結果が[96384]です。

山地と丘陵地とで約93%を占める高知県を筆頭に、42府県は 50%以上という山国の日本。
平坦地が半分以上を占めた「平坦県」は、大阪府50.8%、東京都53.2%、埼玉県61.5%、千葉県61.7%、茨城県69.1%だけでした。

茨城県は、台地率37%で首位、低地率27%も4位。これに 霞ヶ浦・北浦の内水域が加わっています。
[91185]では数値を挙げていませんでしたが、山地率23.7%の茨城県は、実は千葉県(7.6%)に次ぐ下から2番目だったのでした。
それでも、富士山の反対側から関東平野を見守る筑波山を擁し、お盆の墓参では稲田石の世話になっています。

石材、石炭、金属など特殊な「山の恵み」はさておき、最も一般的な資源は森林です。
前報の末尾にも記しましたが、都道府県データランキング 可住地面積の中に「森林面積」があり、首位の高知県83.30%と、末尾5都府県の顔ぶれは、偶々ですが[96384]と一致していました。

まんざら無関係でもないと思われるので、このリストの 森林面積(2009)と、前報の検討で用いた傾斜地【山地+丘陵地】面積との比率を都道府県別に求めてみました。

その結果、ランキング上位は 殆ど1。
北海道が1.048と1を越えている理由は、平地林の存在でしょう。以下 秋田 福井 茨城 青森 京都 岐阜 宮崎 山形 富山(0.927)。

注目したのは、今回も ランキング下位の都府県。
47位の大阪符0.631 を始めとして、45位 神奈川県0.725、44位 福岡県0.764、42位 東京都0.784。40位 愛知県0.791 は、大都市の領域が平坦地だけでなく 傾斜地に及び、丘陵地が 森林以外の都市施設に利用されつつあることを示しています。

そんな中で 41位 熊本県0.790を見ると、阿蘇の草千里のような、都市とは異なる利用形態も目に浮かびます。
そして、43位 広島県0.781と 39位 愛媛県0.796、そして 36位 山口県0.813 と並ぶと、先日の西日本豪雨災害との関連を考えたくなります。

森林面積が小さいデータが示している花崗岩の禿山。
森林保全によるメンテナンスが十分でない山は、豪雨により恐ろしい牙を向けてくる。
ごく大雑把なデータランキングですが、こんな教訓の材料にも。
「山の日」を機会に、そんなことを考えた次第です。
[96384] 2018年 8月 12日(日)18:53:46hmt さん
「山の日」に思う(1)
「海だ山だ、祝日多すぎる」慎重論もあった「山の日」 

引用した記事は、祝日法改正が行なわれた4年前に 産経新聞上で発表されたもので、「根拠が薄い」、「日航機墜落事故【今日で33年目】を考えると祝日に違和感」などの慎重論もあった「山の日」について、その意義をいかに浸透させるかが、今後の課題としています。

2016年の第1回には 私も[91185]の記事を書き、昨年夏には十番勝負[93880]にも取り上げられました。
しかし、課題と指摘された「山の日」の意義について、社会の議論は進んでいるでしょうか?

言うまでもなく、「山」はレジャーの対象や健康保持の場として役立つだけでなく、国土保全・林業を始めとする産業上の利用など、多目的の社会的意義があります。
日本の国土は、地形的な要因から「山」抜きでは語ることができません。

日本の「山」はその気候条件と相俟ち、世界的には稀とも言える量の水資源を恵んでいます。
この水資源の利用と防災とは、この国土で社会生活を営む私達にとり欠かすことのできないものです。

都道府県データランキングでは、地理・気象系に 総務省統計局の [可住地面積、森林面積、自然公園面積、田面積、畑面積、宅地面積が示されており、森林面積については 林野庁が実施している森林資源の現況調査のデータもあります。

利用目的を離れた 都道府県別の自然条件については、少し古いデータですが、日本統計年鑑に掲載された「昭和57年度国土数値情報作成調査」による [地形・傾斜度別面積:www.stat.go.jp/naruhodo/dl/zuhyou/c1s_origin/y0108000.xls] の表があり、[91185]では これを利用し、「山地の多い県」のランキングを作ってみました。

山地、丘陵地、台地、低地、内水域等の5種に分け、47都道府県ごとの面積がkm2単位で示されていますが、北方領土は未分類のままなので、計算から除外。また「内水域等」にも問題がありそうでした。

それはさておき、[96381]を拝見した機会に、山地だけでなく、つまり丘陵地の区別に拘らず、47都道府県別のランキングを作ってみることにしました。

1位から3位は 山地と丘陵地で 90%以上を占める県で、高知県、広島県、奈良県の3つ。
4位から10位は 85-90%が山地・丘陵地の県。島根 和歌山 愛媛 山口 鳥取 岐阜 山梨。
11位から18位が 80-85%で、 岩手 長野 徳島 岡山 大分 宮崎 福島 群馬。
19位から23位が 75-80%で、石川 熊本 静岡 京都 山形。 
24位から31位が 70-75%で、福井 兵庫 新潟 秋田 富山 三重 長崎 鹿児島。
32位から36位が 60-70%で、佐賀 北海道 青森 宮城 栃木。 
37位から42位が 50-60%で、福岡 沖縄 滋賀 香川 神奈川 愛知。

山岳と丘陵を合わせても50%に満たない少数派は僅かに5都府県のみでした。
大阪 東京 が40%代、埼玉 千葉の後、約31%は茨城県で、これは5%近い内水域が効いていました。

台地・低地・内水域で半分になる利根川の中・下流域4県は、山国の日本では珍しい地域であることを再確認しました。

次回は、地形だけでなく、都道府県データランキングの森林面積データも利用してみます。
[96375] 2018年 8月 10日(金)19:45:02hmt さん
港湾地区の橋
[96374] 今川焼さん
江島大橋に関して、多くの情報をいただき有難うございました。
2009年撮影の写真、ダイハツのCM、大根島最高地点からの遠望写真など、興味深く拝見しました。

遠望写真には、江島大橋の奥に 境水道大橋も写されています。
じゃごたろさんによる [96370]の紹介文で
境港市の 0m地帯から 松江市美保関の丘陵部に繋がるこの橋も かなりかなりの勾配
と記された 白いトラスの片勾配 が目を惹きます。
このトラス橋も、航路確保のために 中央部が下路構造 になっており、東京ゲートブリッジ[80265]との共通点がありました。

[96374] 今川焼さん は、更に記しています。
大阪市大正区・港区の間に架かる〝大阪のベタ踏み坂〟こと「なみはや大橋」へ今年の春行ってきました。

早速 WEB記事 で見学したところ、
西側に目を転じると赤色の塗装が鮮やかな世界最大級のゲルバートラス橋である港大橋(全長982m)
とあり、リンク先が変更されてしまった[80265]の代りとなる港大橋の写真もありました。

「港湾地区の橋」と言えば、これも日本海側の 2015年氷見オフ会のことも、ふと思い出しました。
この時は、新湊大橋を始めとする 斜張橋 が話題になりました。
[96369] 2018年 8月 8日(水)10:49:01【1】hmt さん
天に昇るような急勾配の坂
先ずは 写真をご覧ください。
島根県松江市江島の八束町と鳥取県境港市渡町とを結ぶ「江島大橋」です。

「ベタ踏み坂」と名付けられた急坂が有名で、テレビCMにも登場したそうです。
中海の水面から最上部までの高さは 45m。5千トン級の船が下を通ることができます。

側面図【中国地方整備局】からでは、なかなか想像することができませんが、松江側正面からの写真を見るとビックリしますね。

鳥取県観光案内 には、撮影地点【島根県側】を3箇所変えた写真がありました。
冒頭の写真は、大根島の海岸からの正面遠望により、坂道の距離感を失わせた作品 ということでしょうか。
[96361] 2018年 8月 5日(日)17:51:12【1】hmt さん
駿河
久しぶりのメンバー登録名変更[96337]を機会に、「駿河」という地名についての雑談を記します。

言うまでもなく、「駿河」は 東海道に属する旧国名です。
ごく初期の落書き帳[82]でも、旧国名を漢字一字で表記する場合「駿」という字を使うと記されています。「駿州」。
「駿」は 「すぐれた」【つまり足の速い】馬ですから、富士川の急流を当てた文字使いでしょうか?

最近の記事に「駿河小山」という駅名【御殿場線】[96345]が登場しました。
この駅の経歴を少し記します。

駿河小山駅は、明治22年の開業時[61303]には「小山駅」を名乗りましたが、日本鉄道[61225][61304]の国有化により栃木県の小山駅との同名回避[39241]が必要になり、1912年東海道本線「駿河駅」に改称しました。

駅付近には、富士絹で知られた紡績工場もでき、大正時代を中心に それなりに繁盛した 駿東郡小山町でした。
しかし、1934年に丹那トンネルが開通すると、御殿場回りのルートは ローカル線に転落。

そんな「駿河駅」の存在を知ったのは約70年前。
中学生時代の私は、神奈川県管内図を眺めているうちに、県境を越えた静岡県側に発見しました。

駿河国には相違ないが、静岡から遠く東に離れた地の「駿河駅」に違和感を覚えながらも、そのまま。

落書き帳に出入りするようになってから知ったのが
[39351] Issieさん の記事でした。
「駿東郡」というのは近世以降の呼称で,古代には「駿河郡」という呼称であったようです。
本来はこちらの「駿河」から「駿河国」という国名が起こったのであって…

国名の起源が駿東郡にあったのならば、御殿場線に駿河駅があったことも納得できます。
でも、1952年には 既に駿河駅→駿河小山駅への再改称が行なわれていました。

「駿河」の起源が、7世紀 珠流河(スルガ)国造の根拠地> 後の駿東郡であるとすると、「奔馬に見立てた急流」も富士川ではなく、酒匂川の上流・鮎沢川かもしれません。


2005年に静岡市が政令指定都市になり、旧静岡市の南部に「駿河区」が誕生しました。
区名候補公募を見ると、A区に駿河、B区に駿河、するが が選ばれていました。
旧国名由来の「駿河」の他に、もう一つの「駿河」が誕生して、ややこしくなりました。

2年後の2007年には、次のような記事が落書き帳に登場。
[59305] inakanomozartさん
最近は「駿河」を「静岡市駿河区」又は「駿河区役所」を指す人(狭い範囲の人か?(笑))が出現しているようです。

[59308] YASU さん
危惧されていたことが。葛飾と同じ道を歩んでしまいそうな・・。
ただ「スルガ銀行」の本店が沼津にある限り、大丈夫でしょうね。

別件
「駿河の民」さん というニックネームから自然に思い出したのが「讃岐の民」さんです。
高校生時代の2005年度[50103]までに多数の記事があり、2006年度は SANUKI-Impact と改名。
最終記事[58438]では地名コレクション作業再開の意思表示をしていたが、続報なし。
[96348] 2018年 8月 1日(水)20:11:48【1】hmt さん
ふるさと納税 「黄色い会社」のある忍野村の事例
[96342] グリグリさん
都道府県データランキングの政治・行政系に示されている「ふるさと納税」の説明文が、誤記されています。

それはさておき、市町村版の記事[96341][96342]も拝見しました。
確かに、「ふるさと納税」の性格からして、都道府県よりも市区町村が相応しい分野のようですね。

グリグリさんの記事を読み、私が特に着目したのは、寄付受領側を主とした市町村[96341]ではなく、この制度を支えている納税者側の自治体【区市町村】です。

納税者の負担を示す「差引赤字額」トップ50の中に 20区もランクインている東京都23特別区に敬意を払うために、あえて慣れない言葉を使いましたが、これは東京都用語です[75424]
政令指定都市は、20市中 17市もランクインしており、上位独占に近い状態。これも立派です。

この2種を除くと、残るは 23位の西宮以下、吹田、豊中、市川、船橋、川口、藤沢、八王子、松戸、浦安、町田、姫路、武蔵野の 13市ですが、いずれも限られた大都市圏の市です。

ところが[96324]を見たら、大都市圏外であるにも拘らず、ふるさと納税の多い町村が登場していました。
山梨県忍野村や京都府精華町。(中略)自治体の中で ふるさと納税を促進する何らかの動きがあるのではと思われます。

「自治体当局」が自らの財務体質に不利な動きをするとは考えにくいので、ご指摘の動きは、「自治体の住民」による自主的なものと推察されます。

山中湖畔の山梨県南都留郡忍野村。その自然環境[43001]はさておき、経済環境として注目に値するのは、何と言っても 黄色い会社 FANUC の存在です。
工場自動化 Factory Automation に使われる「NUmerical Control(数値制御)による工作機械装置」のメーカーとして定評があります。

富士通の1部門として始まり 1972年に分社。1980年代に約10年の歳月をかけて、東京都日野市から現在地への移転が行なわれたとか。
言わば 何もなかった富士山麓 に新設された ハイテクの会社です。

忍野村のハイテク会社で、それに相応しい収入を得ているこの会社の社員たち。
「ふるさと納税制度」は、忍野村住民として所得のあるファナック社員たちにとり、彼らが生まれ育った日本各地の「ふるさと」と、忍野村とを結ぶ絆として 活用する価値のある制度であると評価されているようです。

データランキングの出典として記された 平成30年度ふるさと納税に関する現況調査から、各自治体のふるさと納税に係る住民税控除額等の excel表【市町村税額控除一覧】で、山梨県忍野村のデータ【862行】を拾ってみました。
 
私は制度もよく理解していないなので、膨大な表の中から拾った数値やその処理が妥当か否かの自信はないのですが、右端6列【BAからBF】の数値【千円未満記載省略】を使いました。

人数【ふるさと納税者数】(BA=BD列)462人【総人口の約5%】、寄付金額(BB=BE列) 1億1645.7万円、村民税控除額(BC列) 5032.1万円、県民税控除額(BF列) 3354.7万円
寄付金額から村民税と県民税との控除額を引いた 3258.8万円を差引赤字額【納税者にとっての実質的なコスト】と考えました。

忍野村に居住するふるさと納税者1人あたりの平均値を計算してみます。
ふるさと自治体への年間寄付金額は 25万円。[96350]によると 全国で 24位とのこと。
寄付したことによる減税額は 村税 11万円と県税 7万円を合わせて 18万円。
差引 ふるさと納税のコスト 7万円をかけていますが、それよりも大きな満足を得ていると思われます。

小さな村ですから、[96341]の赤字総額が番外になるのは当然です。
しかし、「1人当り赤字(円)」を総人口概数9000人で計算してみると、3621円で[96342]の 8623円と大きく異なります。計算違いが出た原因は不詳です。

[96342]の ふるさと納税者率 10.12%について。
私は、村民税(BA列)と県民税(BD列)の 462人を同一人と考え、上記のように計算しました。
従って、ふるさと納税者率は 忍野村総人口約9000人の 約5%と考えています。
しかし、これを別々に数えれば、総人口に対する割合としては 約10%になります。
[96343] 2018年 7月 28日(土)19:10:20hmt さん
間違って「隆盛」になる前の「西郷隆永」のサイン
85歳になった hmt が記す 約13年前の落書き帳記事への自己レスです。
先日、脳梗塞で入院しましたが 生還し、[96304]で落書き帳に復帰しています。

本題に入ると、2018/7/27放送のBS3・新日本風土記【明治維新への旅1】の一部で、西郷隆盛と庄内藩との絆が取り上げられていました。
そのTV画面中に、「西郷隆永のサインがある文書」がチラリと出現したのを見かけました。

「西郷隆永」と言えば、[43834]で言及した西郷吉之助の「名乗」【実名】ではありませんか。
明治5年5月 太政官布告第149号による「従来通称名乗両用相用来候輩自今一名タルベキ事」への対応。

[43834]では、
西郷吉之助は、名乗の「隆永」を選ぶつもりが、代理で届けた友人【吉井友実】が間違えて 父親の名乗の「隆盛」を届けてしまったのだそうです。
と記しています。

本人の自筆と思われるサイン「西郷隆永」が記された書類は、彼の生涯のどんな時代だったのか?
どうでもよいことですが、気になって調べた結果を記します。

出羽庄内国際村で行なわれた 2017年の講座記録の中に、次のようなことを伝える記載がありました。

明治4年9月に菅実秀が庄内に帰る際の送別会。西郷から贈られた漢詩が記されたメモ。
落款はないが、“西郷隆永拝”とあり、「西郷隆永と本名で書かれた非常に珍しい書です」というナレーションが付けられていました。

「…自今一名タルベキ事」という前記布告は明治5年でしたから、対応を間違って「隆盛」になってしまう前のサインだったことが確認できました。

仕事上では役職名なども使われていたかもしれませんが、口語では通称の「吉之助」を使っていた時代です。
西郷隆永という本名で書かれた書類が残っているとすれば、借金証文などが考えられますが、やはりナレーションにあったように、「非常に珍しい書」なのでしょう。

「おなまえ」に便乗した雑談レスはこれだけです。
しかし、ここは地理のサイトなので、山形県メールマガジンから「西郷どんと山形県」の前編後編をリンクしておきます。

前編には、漢詩が記されたサイン入りのメモを贈られた 庄内藩の菅実秀の事績以外にも、西郷銅像のモデル、なぜ西郷は庄内藩に寛大だったのか? などが記されています。
後編は、南洲神社、兄弟都市関係、鹿児島の山形屋百貨店、三島通庸[79710]のことなど。


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