落書き帳アーカイブズ等に示された事例を興味深く拝見しました。
私は上下の意味付けは命名者の立場で異なるものと考え、次のようにまとめてみました。
先ず、支配者の内裏・都を基準にする上下。まさに「お上」の感覚で名付けた官製地名ですね。
[17469]両毛人さんの上京・下京、
[17485]上野・下野(東山道)
[17496]Issieさんの上総・下総(武蔵国編入前の東海道)、
[18420]上関・中関・下関(瀬戸内海)
[17590]U+3002さん 相模・武蔵(知りませんでした)
いずれも
[17599]Issieさんご指摘の通り広域地名です。
大部分を占める地元密着型の「上下地名」の代表は、発端となった
[17468]三丁目さんや
[17496]Issieさんのご意見にあった河川の上流・下流と考えます。
[18505]ありがたきさん、
[18517]Issieさんにより多数の例が挙げられた武蔵野台地は西高東低であり、おおまかな理屈では川の流れだけでなく、土地の高さでも、京都の方角でも 西=上 を説明できます。
しかしこれらの例における「上」と「下」の高低差は極めて僅かで、川の流れにより結果的に土地の高低がわかる程度でしょう。まして京都の方角など、東国の人々にとっては考慮外のことと思われます。
神田川水系の高井戸・井草、石神井川の石神井・板橋、仙川の連雀と流れの方向は西→東から少し北、南に振れていますが、いずれの例も川の流れの向きと上→下の向きは一致します。北沢川緑道という南東に流れた川の遺跡も日大の近くにあるようです。
河川による「上下地名」は、川越付近の地名でも実証できます。
ここには川越から南東に流れる荒川・新河岸川と、それと直角に南西から流れ込む入間川・不老川(「としとらずがわ」だったのですが、役人が「ふろうがわ」にしてしまったようです。)があります。前者の流域には老袋・古谷・新河岸・福岡・南畑等、後者の流域には奥富・寺山・赤坂・松原等の「上下地名」があり、いずれも川の流れと上下の向きが一致することから、単純な西=上でなく、流れに沿った上下であることが明白です。
ところがこの付近で、上記の規則性に反する実例を見つけてしまいました。
それは上富・中富・下富で、東から西へと並んでいます。見た目には平らですが厳密には西に向って僅かに高くなる筈です。川はありません。
実は、この地は柳沢吉保が川越藩主の時代に開拓させた三富新田であり、ローカルながら“官製地名”なのです。
http://www.pref.saitama.jp/A02/BH00/santome/santome-history.htm
「上」は川越の方角でなく、江戸の方角です。柳沢吉保は将軍綱吉の側近で六義園に住んでいたから、江戸基点も当然かもしれません。江戸時代の支配者にとっては、基点は京都でなかったわけです。
[18502]ゆうさん 東京を基点にした上下の例。
[18506] 上=東という用法 にも該当。
「いざ鎌倉」の時代にできた鎌倉基点の官製上下地名もあるかもしれませんね。
地元密着型の「上下地名」に戻ると、第2類型は
[18537] Issieさんが示された垂直方向の上下地名です。
例示(上田名・下大島・上原・下原)から、「うえ(うわ)・した」と読む場合は、上下揃っていない場合も含めてこれに該当する地名と思われます。上野原は駅のある桂川の谷から数十m高い段丘上に市街があり、代々木上原も本来は駅から坂を登った台地上です。
駅で思い出したが、「上野」と「下谷」は熟語の上下ペアすね。「上野の山」の別名は「しのぶがおか」(鶯谷駅近くに忍岡中学校)で、しのばずのいけ=不忍池とペア。これは上下から脱線。
[18247]ゆうさん を発端とする上福岡市の「上」問題については、市名の直接のベースになった上福岡駅が、
[18524]スナフキんさん指摘のように、中福岡・下福岡のある低地との間に明らかな段差のある台地上にあることから、第2類型の垂直方向上下地名という解釈の余地はあります。
しかし、「うえ」と読まないこと、江戸時代や地形図に「上福岡」の使用例がある(
[19388] hmt参照)福岡村本村地区が新河岸川の上流に位置することから、第1類型である河川説の方がより妥当と思われます。
アーカイブズ未収録ですが、上諏訪・下諏訪も奥の深そうな地名です。
[18142][18143]kenさん指摘の通り京都基点の街道沿いとは逆で、諏訪大社の上社・下社起源が妥当と思われます。
では、なぜ上社が「上」か? 地図で見ると諏訪湖南岸の上社は、北岸の下社よりやや低い標高のようですから垂直説も否定。河川も無関係。残るは
[18158]じゃごたろさんの 本家(本宮)=「上」 説ですか。
この本家説は福岡村本村=上福岡にも使えると言い出すと、また議論再燃になりますね。
親戚に山際(地名)の「かみ」という家があり、隣家は本家なのに「しも」と呼ばれていました。本家よりも河川の論理が優先された例です。