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[99985] 2020年 7月 14日(火)20:04:52【1】hmt さん
東京都島嶼部 町村がある島の名
[99984] ekinenpyouさん
東京都支廳ノ名稱等(S18.6.29 内務省告示第470号・中央下部)

リンクしていただいた文書には、管轄区域として 21村 7島の名が列挙されています。

東京都の支庁、それ自体は 「郡」とは異なり、都道府県市区町村変遷情報の対象外とされています。
現在の町村名は 大部分が「島名」と一致しているので、あまり不都合を感じないのですが、このような古い資料を見ていると、東京府の島嶼部にあった中郷村はどこ? というような疑問を抱き、八丈支庁管内をヒントに探すことになります。

「昔の村があった島」については、「村名」よりも むしろ「島名」の方が役に立つ。
これが実感です。

思えば、私達のサイト・変遷情報に記載された市町村についても、同じような問題点があるようです。

島嶼に存在する町村については、変遷情報に「島名」を記録しておく必要があると考えました。

東京都限定ですが、島嶼部地域の管轄区域表を見た機会に、市町村変遷情報の収録状況 と対比してみました。

下記の表。「島名」欄は、変遷情報内の 島名情報不足を 補う目的でを加えたものです。
小さな無人島まで含めると伊豆諸島だけでも約 100島あるらしいが[24286]、主要な島以外は記載を省略しています。

グリグリさん、これを利用して、市区町村変遷情報を補強していただけないでしょうか。

支庁名区域名村設置日__島名(面積km2)
大島元村 岡田村 泉津村 野増村 差木地村 波浮港村1908/4/1大島(90.73)
大島利島村1923/10/1利島(4.12)
大島若郷村 【新島】本村1923/10/1新島(22.97) 、式根島(3.67)
大島神津島村1923/10/1神津島(18.24)
三宅【神着村 注1】伊豆村 伊ヶ谷村 阿古村 坪田村1923/10/1三宅島(55.20)
三宅御蔵島村1923/10/1御蔵島(20.51)
八丈大賀郷村 三根村 樫立村 中郷村 末吉村1908/10/1八丈島(69.11)
八丈小島【鳥打村 宇津木村】1947/5/3八丈島の離島(3.07) 1969年無人化
八丈青ヶ島【青ヶ島村】1940/4/1八丈島の離島(5.96)
八丈鳥島【南方四島[22460]の一つ】-鳥島(4.78) 1902年噴火で無人化
小笠原小笠原島1940/4/1父島(23.45)・母島(19.88)
硫黄島は[56162]などの記事あり・硫黄島(23.73)
小笠原小笠原島その他1968/6/26日本復帰地域に小笠原村設置
小笠原西之島【噴火中】-西之島(2.89)2020年1月面積調
小笠原南鳥島(1.46)・沖ノ鳥島・中ノ鳥島 注21968/6/26
 注1:「著」は「着」の本字であるが、村名の表記は 神着村と思われる。
 注2:「中ノ鳥島」は存在しない[65212]
[99982] 2020年 7月 12日(日)18:04:23【1】hmt さん
変遷情報 小笠原(3)小笠原支庁
[99980] ekinenpyouさん
小笠原に関する情報源の紹介、ありがとうございます。
特に、これまで見落としていた 東京都小笠原支庁のサイト。2件共に多数の情報を含んでいました。

都道府県市区町村からは「仲間はずれ」にされている 中途半端な存在のように感じられる「小笠原支庁」。
しかしながら、小さな村役場だけでは人手が足りない事柄について、東京都という大組織の中で、それなりの仕事をしていることを改めて認識しました。

…というわけで、村の変遷情報には直結しないのですが、ご紹介いただいた東京都小笠原支庁の管内概要 から拾った記録を 一つ引用しておきます。

明治10年、内務卿・大久保利通により建てられた「開拓小笠原島之碑」です。

それより前、幕府による小笠原回収の翌年には 八丈島からの移民 30人が送られました。[26683]
しかし、その後で生麦事件など英国との確執があり、実質的な日本の領有・開拓・統治は休止状態に。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国でした。再度にわたり 小笠原の所属を質問。
ここに至り明治政府は 1875年に外務省の 田辺太一らを 明治丸で小笠原に派遣。
神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。

石碑の原文は 24コマ、下記の訓み下し文は 25/250コマです。【表記の一部 省略】
乃ち外務省 田辺太一等を遣し、往いて之を視さしむ。太一等還り具状を以聞す。
九年内務省 小花作助に命じて土民を勧誘し、【耕作・植林・漁業・牧畜を通じ】全島を統轄せしむ。
初め文禄二年、小笠原貞頼 始めて此の島を検出し、木標を建てて以って我が版図たるを表せり。
勿論、証拠になる木標が残っておらず、そのように言っただけでしょう。
因りて小笠原と名つく。
延宝三年、幕府島谷某を遣し其の地を巡視せしむ。
享保十二年貞頼曾孫【と自称する】貞任、祖志を紹ぎ自ずから請いて往き、漂流して還らず。
既にして内民稍々移住し、外人も亦来り駐まる者有り。
文久元年、水野忠徳を遣し、居民を撫輯し法令を頒布し、碑を建て顛末を記せり。

小笠原貞頼の名は、hmtマガジン小笠原諸島の第5回に登場しており、それ以降の数回にわたり、発見と命名に関する記事が続いています。

[78725]で「詐欺まがいの話」と書いたように、その根拠は必ずしも明確でない話なのですが、文禄2年(1593)という年代は、オランダ東インド会社による 1639年に先んじるもので、島谷探検隊 1675年の事績[68669]を補強する「先発見」の伝承として、1861年の「小笠原回収」の際に行なわれた住民に対する説得だけでなく、各国への説明にも利用されたのでしょう。

このようにして、「回収」によって「無人島」から 新時代の Frontier に変った島は、その名も「小笠原島」が定着しました。
利用された 甲斐国巨摩郡小笠原 という名については、[78750]に記してあります。

『巽無人島記』を根拠に、先祖の小笠原貞頼が南海の島を発見し、「小笠原島」と命名したという宮内貞任の話は、[78720]にも記していました。

改めてWebを調べてみると、同じような話がありました。前編後編

漂流して戻れなかったのは甥であり、貞任本人は後に罰せられたと伝えているなど、今回の石碑と少し違う結末ですが、元々の 小笠原貞頼伝説 自体が「怪しい話」なので、追求するのは無意味でしょう。
[99978] 2020年 7月 11日(土)16:21:20hmt さん
世界人口デー
今日、7月11日は「世界人口デー」World Population Day だそうです。

世界人口は、20世紀初頭に 約16億5000万人 であったと伝えられます。

20世紀には 二度の世界大戦があり、多くの命が失われました。
その一方で、兵士を含む 全ての人々(pandemic)を襲った疫病の蔓延もあり、これが第一次大戦を終らせるブレーキ役としても機能したというエピソードも伝えられています。

凶作による飢饉に見舞われることもあり、対象を絞った殺戮政策ホロコーストまでありました。

それでも 20世紀の間に 増加を続けた世界人口。

世界の人口が 50億人になったのは、1987年7月11日 とされています。
20世紀になって 90年足らずで 約3倍増。

世界人口の 50億人到達を機会に、世界の人々の 人口問題への関心を深める。
そのための活動として、1989年に 国連人口基金(UNFPA)が定めたのが「世界人口デー」でした。参考

限りある地球上で生きてゆく私達。

世界的には 食糧の生産や加工、医療・衛生環境の改善など 技術的進歩が期待される分野も残されています。
しかし、それ以外にも多くの問題があるようです。

このサイト内にある 市町村人口研究所 とは 研究分野が異なる問題であるとは思います。
しかし、世界人口デーを意識した日に、一筆 したためておきました。
[99973] 2020年 7月 9日(木)17:46:10【1】hmt さん
国勢調査百年(1)先駆者たち
[99914] ekinenpyouさん
牛塚虎太郎
統計局ホームページ-国勢調査100年のあゆみ【第一部の】PDF (4コマ左中ほど)に記載があります。
※大正6年提出の意見書は下記より閲覧可能です。

記事の日付を見ると 2020/6/14。少し遅くなりましたが、有用な情報と考え、フォローします。

統計局文書の第一部は下記の「講談・国勢調査はじまり物語」3題プラス付属資料でした。
その壱:国勢調査前史 日本統計【スタチスチック】のはじまり
その弐:国勢調査の実施まで 欧米諸国に於ては前世紀の初以来施行する調査なり
その参:第一回国勢調査 大正九年十月一日 国を挙げてのお祭り騒ぎ

今回は、先駆者4人の紹介です。
1 杉 亨二【すぎ こうじ】3コマ右
国勢調査先駆者の最初は、日本近代統計の祖とされる 杉亨二です。
約150年前の明治4年、徳川家に従い静岡に移っていた 元幕臣の杉亨二は、明治政府にスカウトされました。その際に、我が国が一等国になるために把握しておくべき仕事として提案したのが、国の情勢を 全数調査により実体把握すること でした。

ぬしは わがまま、わたしは きまま、国勢調査は ありのまま

これは、後の国勢調査キャンペーンで使われた都々逸ですが、納税や徴兵のための戸籍制度も整備されつつある時代に、「ありのまま」の実態を全国漏れなく把握する調査は、如何程の予算が必要になるか? 

それを知るための資料として、杉が実施したのが「甲斐国現在人別調」【明治12年(1879)12/31】でした。[76291]でも言及。

これが、明治14年(1881)の統計院設立につながりました。院長は明治政界の大物・大隈重信です。

しかし、杉の構想は 直ちに国家制度として実現するには至りませんでした。
日清戦争の頃 1894年(M27)に スイスの万国統計協会から、1900年の世界人口センサスへの参加要請がありましたが、日本は見送りでした。

それでも、明治35年(1902)には「国勢調査に関する法律」が制定されました。
1905年に最初の国勢調査を実施して、世界の人口センサスに参加することが予定されたのですが、1904年に日露戦争が始まり、流れてしまいました。

更に 10年後の機会 1915年も、欧州で始まった大戦に伴う政治情勢は 日本の参戦(1914)を招き入れることになりました。国勢調査は またも お流れ。
もっとも、第2次大隈内閣は、1916年 内閣訓令第1号「統計の進歩改善に関する件」により、国勢調査への積極姿勢を示しています。

あゆみ第一部 3コマ右に示されている「寸多 知寸 知久」という見慣れない文字。
「スタ チス チック」は、統計局の URLに使われています。stat.go.jp

2 大隈重信 4コマ右
言うまでもなく明治政府の一角である肥前出身の大物政治家[76315]で、落書き帳にも多数登場。
大隈重信関係文書を引用した記事も多数ありますが、国勢調査や統計院・内閣統計局に関連した記事では、[76291]あたりが代表的な記事でしょうか。
統計Today No.14 に、大隈重信が 明治14年(1881)に建議した 「統計院設置の件」という文書がありました。
「国勢」とは、「国の情勢」という意味で、私たちが国勢調査票に書き込む「人と世帯の実態」だけでなく、産業・経済・社会制度・軍事などより広い分野に係るデータを対象とするものと思われます。

大隈は Population Census に国勢調査という言葉を用い、統計の重要性を訴えた人物です。

3 牛塚虎太郎 4コマ左
牛塚虎太郎[99914]は、第一次大戦中の 1916年に 臨時国勢調査局次長となり、第1回国勢調査の実現にを目指しました。
大隈重信から変った寺内正毅総理に対して、「国勢調査実施に関する意見」を提出したのは 1917年5月でした。[99914]にリンクされている文書【全208コマの長文】をダウンロードしたのですが、画面が不鮮明であり、次頁以降が読めませんでした。

それはさておき、牛塚らの尽力により「国勢調査施行ニ関スル建議案」が7月に衆議院で可決され、大正9年(1920)の 第一回国勢調査 実施が決定しました。
大正7年度予算に、国勢調査に関する予算が組み入れられました。
予算案公表の日に、国勢調査の先駆者 杉亨二は、息を引き取ったとか。

なお、牛塚虎太郎が「岩手縣」への表記統一 を行った岩手県知事になったのは、国勢調査成功の後で、引き続き東京市長になるまで、府県の知事を歴任しました。

4 原敬(はら たかし) 5コマ右、4コマ右下
平民宰相、大正デモクラシーなどの言葉と関連する話題で登場する人物であり、『原敬日記』を残しています。
1885年からのパリ在勤時に フランスの国勢調査を経験し、早くから その価値を認識していた人物です。
総理大臣時代の 1920年5月に 国勢院を設置して、牛塚虎太郎に 第一回国勢調査を実施させました。
1921年11月、東京駅で暴漢に襲われ、国勢調査の結果発表を知ることができなかったのは残念でした。
[99962] 2020年 7月 5日(日)18:36:37【2】hmt さん
変遷情報 小笠原(2)1940年 東京府に設置された 小笠原諸島の旧5村
小笠原諸島の村について、変遷情報の見直しをお願いした [99957]の続編です。
前回は、1945年の敗戦から約23年間の米軍統治を経て日本に返還され、特別法により新たに設置された「東京都小笠原村」[53386]【注】に関する情報を記しました。
【注】「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(昭43/6/1 法律第83号)
(村の設置)
第十八条 地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第五条第一項及び第七条第一項の規定にかかわらず、この法律の施行の日に、東京都に属する小笠原諸島の区域をもつて小笠原村を置く。

今回は、戦前の 1940/4/1 の東京府時代に設置された(旧)5村です。
[78644] hmt
戦前に遡ると 1940年4月1日に 小笠原に町村制が施行され、 5村が設置 されています。
二見港のある父島北部が大村で、兄島などの離島も管轄していたと思います。父島南部は扇村袋澤村【併称地名でしょうが、村という字を2つ残しているのは珍しい】。
母島は 沖港がある南部が 沖村で、北部が北村。硫黄島には もちろん 硫黄島村[56162]です。

市区町村変遷情報東京府では、昭和15年(1940年) 4月1日 小笠原諸島,八丈島(青ヶ島) 町村制 6村設置の#2~6として5村が記録されていますが、詳細欄を開いても 父島北部【二見港所在地】などの地理的情報の記載がなく、不十分と思われます。母島2村の間に硫黄島がある順番も不自然です。

一次資料を探したら、当時の ndl官報に「島嶼町村制は之を廃止す」【昭和15年勅令238号】とありました。従って、町村制施行でOKと思います。

同じ官報の続番 勅令 昭和15-239 には、次の記載がありました。
東京府管下小笠原島中硫黄島に村の名称を附す
父島・母島の4村については、村名を確認することができませんでした。

変遷情報から離れますが、明治13年(1880)東京府移管の 50年前。
1830年 ハワイ王国のホノルルで結成された 25人の移民団。

第二次大戦後の 1946年 統治者のアメリカによって帰島を許された「欧米系島民」は、1830年移民団の子孫のようですが、「欧米系」という言葉は必ずしも正確ではないようです。
Original Settlers には クロアチア出身のイギリス人と称するマザロ団長など英米人(4人)とデンマーク人も居ましたが、ポリネシアの島々からの人が多かったとか。

マザロ等が去った後、事実上の首長になったのは アメリカ人のナサニエル・セボリーで、ペリー[26683][78654]や 1861年に 咸臨丸による「小笠原回収」に赴いた水野忠徳[78725]と面談しています。
子孫は今も父島に在住。ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載。[26683]

それはさておき、「さかのぼり小笠原史」[78654] 1830年の移民団。
英国領事が関係していたものの、英国の支援は、領有宣言(1827 ビーチー)を裏付けるには不十分。
入植者は自力で自給自足のコミュニティーを創り上げ、米英露仏の捕鯨船などに飲料水・食料を供給しながら 税金のない「南海の楽園」を夢見ました。しかし、警察力の及ばない島のままでは婦女拉致事件も起り、安心できません。

その後、小笠原をハワイのような太平洋海運の基地にする構想を抱いたペリーも登場しました。
しかし、結局のところ 小笠原に近く、1675年の島谷隊による探検実績も持つ国は 日本でした。

日本は、無人島(ぶにんじま:Bonin Islandの語源)という名で放置していながらも、小笠原の存在を西洋に知らしめた国です[26683]
1785年(天明5年) 林子平の『三国通覧図説』(無人島之図)[78665]

ペリー来航による刺激を受け、「決定せず・行動せず」の幕府も、1861年に咸臨丸による小笠原回収に踏切りました。
生麦事件の影響による一時的撤退はあったが 1875年明治丸で再回収[78654]

変遷情報から離れた 過去記事の紹介が多くなりましたが、本筋に戻ります。

1940/4/1に設置された小笠原旧5村の消滅を、変遷情報に記載してください。
[79760] 中島悟さん の末尾、[79266][79773] hmt、 [83624] むっくんさん(16)

[85063] グリグリさん に続いて、[85081][85082] hmt も意見を記しています。
[85081]に記した 「[79266]でリンクした小笠原村沿革」の代りに、現在閲覧できる同名のページ をリンクしておきますが、当時リンクしたページに巧く辿り着ける自信はありません。


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