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小笠原諸島

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記事数=19件/更新日:2016年6月29日

東京都に属する 南の島々 は、伊豆諸島 と 小笠原諸島(この特集) とに大別されます。

2011年6月、パリで開かれたユネスコ世界遺産会議で、小笠原諸島が世界自然遺産に登録されました。
この特集の大部分[78644][79266]は、その機会に連載したシリーズですが、小笠原群島の島々に関するそれ以前の記事も収録しました。

「小笠原諸島」という地名は、第二次大戦後の日本復帰(1968)の際に、火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島まで拡大されました[79228]

この特集には、主として、世界遺産がある小笠原群島に関する記事を集め、南硫黄島の自然にも触れました。
硫黄島は原則として別特集に譲りましたが、この特集の[79266]でも扱い、更に南鳥島にも触れるなど、島ごとに特集を完全に分離することはできていません。

【2016/6/29】 変遷情報見直しに関連する[85081] [85082]を追加しました。

★推奨します★(元祖いいね)

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[53248]2006年8月10日
hmt
[53386]2006年8月15日
88
[53392]2006年8月15日
hmt
[75948]2010年8月11日
実那川蒼
[75957]2010年8月12日
Issie
[78644]2011年6月26日
hmt
[78654]2011年6月28日
hmt
[78665]2011年6月30日
hmt
[78669]2011年7月1日
hmt
[78720]2011年7月6日
hmt
[78725]2011年7月7日
hmt
[78750]2011年7月10日
hmt
[78765]2011年7月13日
hmt
[79228]2011年8月22日
hmt
[79238]2011年8月24日
hmt
[79245]2011年8月26日
hmt
[79266]2011年8月28日
hmt
[85081]2014年2月10日
hmt
[85082]2014年2月10日
hmt

[53248] 2006年 8月 10日(木)14:41:16hmt さん
小笠原村の「設置」と「村制」の日付
[52770] 88 さん
小笠原村の入力の件も話題にしました

最初に、平成の大合併からスタートした自治体変更情報が、過去へと着実に遡及して、有用なデータの蓄積になっていることに敬意を表します。

さて、「合併以外の自治体変更情報」の中にある、“1968.06.26 小笠原村 村制” との記載に関するコメントを少々。

1968年6月26日は、米国から日本に返還された日であり、この日に「小笠原村」が新たに「設置」されました。[39017]
問題は、これを「村制」と表現して良いかどうかです。

この時に設置された「小笠原村」は、「地方自治法上の通常の地方公共団体」ではなかったのでした。
村長等の執行機関も、村議会も教育委員会もありませんでした。
東京都小笠原支庁長が「村長職務執行者」として村政に当たった行政区画であり、「地方自治体」ではありません。

村長と村議会議員が選出され、「地方自治体としての小笠原村」が実現したのは、1979年4月22日です。
東京都公式HP の中でも、都内島しょ地域の歴史的特性についての項目の中に、
戦後は米国の委任統治下におかれたが、昭和43年(1968年)6月に日本に返還された後、昭和54年(1979年)に実質的な村制が確立された。
と、「返還」と「実質的な村制」とを区別して書かれています。

これらの事実をふまえると、次のように区別して、両方の日付を入力しておくのが良いのではないかと考えます。

変更変月日自治体名変更種別変更対象/変更内容
1968.06.26(小笠原村)(村設置)小笠原諸島復帰に伴う暫定措置
1979.04.22小笠原村村制地方自治体としての発足


なお、村政が実質的に動き出したのは翌4月23日(月)ですが、ここでは選挙で選ばれた村長等の任期の初日を「村制」施行の日付としました。 http://homepage1.nifty.com/Bonin-Islands/sakusaku/3_1.htm 参照

時間的には前後しますが、1968年の「小笠原諸島返還」よりも前の概略は、次の記事に記してあります。
[26683] hmt  「無人島」が日本領になるまで
[53386] 2006年 8月 15日(火)14:03:1388 さん
小笠原村
[53248] hmt さん
[53310]で予告した、小笠原村の経緯のまとめです。
各種資料を再確認・年表式に整理すると、以下のようですね。
1968(S43).4.5「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」(以下「協定」という。)調印
1968(S43).6.1「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(以下「法」という。)制定
1968(S43).6.26協定発効、復帰、法施行、法第18条の規定により小笠原村を設置
ただし、法第20条の規定により、村議会議員選挙及び村長選挙は留保
法第21条の規定により、東京都知事が任命した職務執行者(村長の代替)及び村政審議会(村議会の代替)を設置
1979(S54).3.5法第20条(村議会議員選挙及び村長選挙の留保)の解除の自治省告示、即日施行
1979(S54).4.22村議会議員選挙及び村長選挙投票日、名実共に小笠原村発足

関係資料等は末記しますが、ご指摘のように、1968(S43)年の復帰時点では、「小笠原村」とはいうものの、他の自治体のような体制は十分満たしていないことを確認いたしました。
あとはこれを、「合併以外の情報」にどう反映させるか、ですが、
――――――――――――――――――――――――――――――
変更変月日自治体名変更種別変更対象/変更内容
1968.06.26(小笠原村)(村設置)小笠原諸島復帰に伴う暫定措置
1979.04.22小笠原村村制地方自治体としての発足
――――――――――――――――――――――――――――――
とのご提案をいただきましたが、プログラム上、データの自動認識機能も含めての入力項目・表示となっているようですので、具体的な表現についてはちょっと保留させてください。備考欄(詳細情報欄)での補足は必要かと思いますが。
貴重なご指摘・情報提供ありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

――――――――――――――――――――――――――――――
「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」(昭和43年6月1日法律第83号)(抜粋)
何回か改正されているので、官報検索情報サービスから、制定当初のものを抜粋して転記。

第四章 村の設置
(村の設置)
第十八条 地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第五条第一項及び第七条第一項の規定にかかわらず、この法律の施行の日に、東京都に属する小笠原諸島の区域をもつて小笠原村を置く。
(旧村の権利義務の帰属)
第十九条 旧大村、旧扇村袋沢村、旧沖村、旧北村又は旧硫黄島村に属していた権利義務は、小笠原村に帰属する。
(設置選挙の特例)
第二十条 小笠原村の設置による議会の議員の一般選挙及び長の選挙に関する公職選挙法第三十三条第三項の規定の適用については、同項中「地方自治法第七条第六項((市町村の設置の告示))の告示による当該市町村の設置の日」とあるのは、「自治大臣の指定する日」と読み替えるものとする。
(機関の特例)
第二十一条 小笠原村の長が最初に選挙されて就任するまでの間においては、東京都知事が自治大臣の同意を得て任命した者をもつて村長の職務を行なう者(以下この章において「職務執行者」という。)とする。
2 職務執行者は、この法律及びこれに基づく政令で定めるもののほか、村長及び収入役の権限に属するすべての職務を行なう。
3 小笠原村は、議会が成立するまでの間においては、政令で定めるところにより、執行機関の附属機関として村政審議会を置かなければならない。
(議会の議員及び長の任期の特例)
第二十二条 第二十条の規定により読み替えて適用される公職選挙法第三十三条第三項の規定に基づいて自治大臣が指定した日から起算して四年を経過した日の前日までの間において選挙される小笠原村の議会の議員及び長の任期については、地方自治法第九十三条第一項及び第百四十条第一項の規定にかかわらず、政令で特別の定めをすることができる。
(条例の制定手続の特例)
第二十三条 小笠原村においては、議会が成立するまでの間は、地方自治法第九十六条第一項第一号の規定にかかわらず、職務執行者が村政審議会の意見をきいて、条例を設け又は改廃することができる。
2 小笠原村の長は、最初に招集された議会において、前項の規定による条例の制定について、その承認を求めなければならない。
(議決事項の特例)
第二十四条 職務執行者は、議会が成立するまでの間においては、その事務を管理し及び執行する場合において、地方自治法その他の法令により議会の議決を要することとされているときは、これらの法令の規定にかかわらず、当該議決に代えて村政審議会の意見をきかなければならない。
(政令への委任)
第二十五条 第十八条から前条までに定めるもののほか、小笠原村の組織及び運営に関し必要な事項は、政令で定める。

附 則
(施行期日) 
第一条 この法律は、南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定の効力発生の日から施行する。ただし、附則第三条第二項の規定は、政令で定める日から施行する。
――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――
○ 外務省告示 第百三十号
 昭和四十三年四月五日に東京で署名された南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定が日本国によりその国内法上の手続に従つて承認された旨の通知は、昭和四十三年五月二十七日に東京で行なわれた。よつて同協定は、その第六条の規定に従い、昭和四十三年六月二十六日に効力を生ずる。
  昭和四十三年六月十二日      外務大臣 三木 武夫
――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――
○ 自治省告示 第五十八号
 小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律(昭和四十三年法律第八十三号)第二十条の規定により読み替えて適用される公職選挙法(昭和二十五年法律第百号)第三十三条第三項の自治大臣の指定する日は、昭和五十四年三月五日とする。
昭和五十四年三月五日
自治大臣 澁谷 直
――――――――――――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――――――――――――
公職選挙法(昭和二十五年四月十五日 法律第百号) (昭和二十九年十二月八日に当該箇所訂正)
(一般選挙、長の任期満了に因る選挙、定例選挙及び設置選挙)
第三十三條 地方公共団体の議会の議員の任期満了に因る一般選挙又は長の任期満了に因る選挙は、その任期が終る日の前三十日以内に行う。
2 地方公共団体の議会の解散に因る一般選挙は、解散の日から四十日以内に行う。
3 市町村の設置に因る議会の議員の一般選挙及び長の選挙は、地方自治法第七条第六項《市町村の設置の告示》の告示による当該市町村の設置の日から五十日以内に行う。
――――――――――――――――――――――――――――――

「小笠原諸島の復帰に伴う村の設置及び現地における行政機関の設置等に関する政令」(昭和43年6月24日政令212号 )もあります。詳細は割愛しますが、村制審議会の構成、国の出先機関としての「小笠原村総合事務所」の機能、都・国の職員の兼務可能、などが述べられています。
[53392] 2006年 8月 15日(火)18:25:37hmt さん
小笠原返還・南方諸島
[53386] 88 さん
[53310]で予告した、小笠原村の経緯のまとめです。

詳細な調査、有り難うございます。
1967年11月の佐藤首相訪米で「1年以内に小笠原返還」という日米共同声明が出され、翌1968年4月に通称「小笠原返還協定」が結ばれ、6月に返還実現という歴史は知っていても、「暫定措置」までは、なかなか知りません。

この1968年は、「明治百年」でしたが、学園紛争などで世情はさわがしかった年です。
なお、後に残った大物「沖縄返還」は、小笠原返還の翌年11月の佐藤首相訪米で「日米安保堅持・沖縄1972年返還」の日米共同声明が出されて道がつきました。

ところで、「小笠原返還協定」こと「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」の第1条第2項に
この協定の適用上,「南方諸島及びその他の諸島」とは,孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島,西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいい,これらの諸島の領水を含む。
と記されています。

これよりも22年前の「OCCUPIED JAPAN」時代のこと、1946年3月22日に
連合国最高司令官の布告(SCAPIN第841号)によって日本に対する行政権排除の対象が「修正」されて,「伊豆諸島及び嬬婦岩を含むそれ以北の南方諸島」は日本に含まれることになった
と書かれている[24274] とのことなので、伊豆諸島、嬬婦岩などの「南方四島」[22460]、それに小笠原諸島を総括した「南方諸島」という言葉は、どうやらアメリカ由来の外交用語のように思われます。
地図帳に関しては、小学館「日本列島大地図館」の日本全図の中で見つけたのが唯一の掲載例なのですが、一応は「島群」コレクション にも採用していだいています。

小笠原返還協定の定義によると、沖の鳥島(沖ノ鳥島と字が違う)及び南鳥島は小笠原群島などの南方諸島とは別建てです。

便宜上、行政的には小笠原村に属しており、「島群」コレクションでも南鳥島・沖ノ鳥島を「小笠原諸島」に含めているのですが、地形的には、沖ノ鳥島[26266]は大東諸島の延長線上にあり、「小笠原諸島」に含めることにいささか疑問があります。

小笠原村と無関係ですが、88 さん 宛てのついでに
名古屋市天白区が昭和区から分かれた日付は誤記ではないでしょうか。
[75948] 2010年 8月 11日(水)16:14:08【1】実那川蒼 さん
旧国に属したことがない小笠原諸島
旧国版経県値を見ていてふと思ったのですが、現在の日本の領土の中で唯一、小笠原諸島だけが歴史上どの旧国にも属したことがありません。したがって、小笠原諸島を訪問しても(ほぼ必然的に「宿泊」でしょうが)旧国版経県値は全く増えないことになります。なんだかかわいそうですね。

廃藩置県が明治4年で、北海道の旧国設置は明治2年だから廃藩置県よりも前です。琉球は廃藩置県と同時に旧国としての琉球国が設置されていますが、これは琉球王国を形式上引き継いだものと考えたほうがよさそうです。これに対して、日本が小笠原諸島の領有を宣言したのが明治9年。明治政府はこの時点で新たに旧国を設置(あるいは既存の旧国へ編入)する意味がないと考えていたのでしょう。

現在の日本の領土の中では伊豆諸島と共に郡が存在しないという点でも特異ですが、伊豆諸島は伊豆国の一部だったという点が異なり、小笠原諸島の特異さが一層際立ちます。

※削除した[75940]から一部の趣旨を抽出の上、全面的に書き換えて再投稿しました。
[75957] 2010年 8月 12日(木)02:47:37【2】Issie さん
小笠原にも行かれなかった
今週,NHKのBSで「銀河鉄道999」の特集をやっています。で,PCに録画したものを視ていたら(我が家のテレビはすべてアナログのブラウン管なので,デジタルチューナーを入れたデジタル液晶画面のPCが最も画質が良い),こんな時間になってしまいました。ま,今週は私自身が夏休みなので大丈夫なのですが。
1980年ごろの作品ですね。リアルタイムで視ていたけど,オープニングの画面が記憶とちょっと違っていて…,まあ,そんなものではあります。今視ると,いろいろ考えるところがあって…。今,こういう内容の作品を作って電波に乗せることができるか(商業的に)とか。
1980年までの30年間で日本は大きく変わったというけれど,いつの間にか経ってしまったこの30年間も,私たちが感じている以上に変わってしまっているのでしょうね。

[75952] ペーロケ さん
小笠原は行こうと思えばいつでも行けます。

その小笠原にも行かれない時期がありました。1945年から1968年まで米軍による占領・統治下にあったためです。この間,「普通の日本人」は小笠原に行くどころか,住むことさえできませんでした。連合国軍総司令部(そして米国)が居住を許したのは,欧米系の旧島民とその家族だけ。調べてみると,旧島民の墓参が初めて実現したのは1965年。敗戦・占領開始から20年,島民が強制的に疎開させられたのが1944年だから,それから数えて21年目。
日本人が排除されたという点では,樺太や千島(南千島=北方領土も含む)と同じといえるかもしれません。米軍統治下に置かれたのは沖縄よりも4年短いだけです。
小笠原の「返還」が日米間で合意されたのは1967年。この時点では沖縄が「還ってくる」かどうかは全くわかっていませんでした。その合意前は小笠原もそうだったでしょう。「北方」だけでなく,「南方」だって本当に日本に戻ってくるかどうかわからなかったのです。
…といっても,沖縄が「還ってきた」のが私が小学校3年のとき。こちらはおぼろげな記憶があるけど(南沙織もフィンガーファイブもそんなところから来たんだ,なんて思ってました),米軍統治下の小笠原について私は全く記憶がありません。

かなり以前に似たことをやった記憶があるのですが,こんなまとめをしてみました。

国設置郡設置市町村設置備考
本州・四国・九州7~8世紀7~11世紀1889年市制・町村制
北海道・南千島1869年1869年1900年,1902年一級町村制,二級町村制
中千島・北千島1875年1875年(設置せず)(各種)町村制未施行
(南)樺太(設置せず)1915年1929年樺太町村制
伊豆諸島7世紀?(設置せず)1923年島嶼町村制
小笠原(設置せず)(設置せず)(設置せず)1968年に地方自治法施行
奄美1879年1879年1908年島嶼町村制。1879年大隅国編入
沖縄1871年?1896年1908年島嶼町村制
台湾・朝鮮(設置せず)(設置せず)(設置せず)旧所属国の制度を一部改編して適用

そろそろ面倒くさくなってきたので,とりあえず表だけ(面倒くさいので,細かいところは無視しています)。
要は,「辺境」(←という呼び方には少なからず問題があるのだけど)についての制度は一律ではないし,中心(本土)から“遠く”なるにしたがってある項目から順番に抜け落ちていく(同心円状に“本土性”が薄れていく)というわけでも必ずしもない。結局は,それぞれの地域について,そのときどきで最も適当であると思われる制度が適宜採用されていることが“示唆される”ようにも思われる,というところでしょうか。

小笠原に国も郡も設置されていないことについての考察の一助になれば幸いです。
[78644] 2011年 6月 26日(日)16:23:21【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (1)今日は日本に戻って 43周年
6月19日からパリで開かれている UNESCO世界遺産委員会は、24日に 小笠原群島を世界自然遺産リストに登録する と決定したと伝えられています。日本の世界自然遺産は、屋久島(1993)、白神山地(1993)、知床(2005)に続いて4番目です。

一般には「小笠原諸島」の名で報道されているのに、「小笠原群島」という表記を用いた点に違和感のある方も多いと思います。
そこで、あえて表記を変えた地理的こだわりを、最初に説明しておきます。

UNESCO によると Ogasawara Islands は、30以上の島々で3グループ、面積7393haとあります。
これは、現在全域が東京都小笠原村になっている「小笠原諸島」の面積 10441haよりも小さく、地理的には 「小笠原群島」(北から聟島列島・父島列島・母島列島の総称)を意味していると解釈されます。両者の差は、硫黄列島などです[29851]

通常は、小笠原群島に「Bonin Islands」、小笠原諸島に「Ogasawara Islands」が使われている例が多いと思っていたのですが、様子が違います。

文化庁資料 には、平成22年(2010)1月 「小笠原諸島」として ユネスコへ推薦書を提出(3/18コマ) とあります。
これから判断すると、文化庁(文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会)が担当している 世界遺産関係の国内手続では、小笠原群島 Bonin Islands と呼ばれる 地理的慣習に従わず、3列島を「小笠原諸島」 Ogasawara Islands という名で推薦し、UNESCOでも そのまま認められたようです。

念のため、「日本国政府」(国土地理院と海上保安庁)による地名集日本2007 の 60/97を見たら、「Ogasawara Gunto」と「Ogasawara Shoto」でした。
地図や海図の担当部局と、文化財の担当部局との 認識の不一致が招いた 呼び名との「ずれ」であると思われます。

登録地域は、地理的な「小笠原諸島」の全域でないとしても、その主要部なのですから、あえて異を唱えるほどでもないのですが、地名に こだわりを持つ皆さんのフォーラムなので、あえて小理屈をこねてみました。
ここから先は単に「小笠原」と書きます。

貴重な固有生物種の存在などから 「東洋のガラパゴス」と呼ばれる 小笠原。
「インド洋のガラパゴス」と呼ばれる ソコトラ諸島 も、2008年に世界自然遺産に登録されています。

世界遺産への登録により 観光熱も高まると思いますが、生態系への悪影響もあります。
本家筋の ガラパゴス諸島 も一度は「危機遺産」に指定されました(2010年解除)。そのような問題を起こさぬことを祈ります。

今日6月26日は、小笠原返還から 43周年です。
落書き帳過去記事 と共に、この島を振り返ってみます。

変遷情報 には “1968(S43)年6月26日 東京都小笠原村 村制” とありますが、一番下の行に “1979/4/22 村議会議員選挙及び村長選挙投票日、名実共に小笠原村発足” と書いてあります。詳しい経緯は[53248][53386]を御覧ください。

このようになった背景は、もちろん第二次大戦で、1945年の敗戦により 小笠原を含む 「外周領域」 が日本から政治的行政的に分離されたためです。
大戦中には 父島・母島も空襲と艦砲射撃を受けましたが、一般島民は本土への引揚げを強制されており、沖縄のような民間人を巻き込む悲劇は回避されました[56162]

戦前に遡ると 1940年4月1日に 小笠原に町村制が施行され、 5村が設置 されています。
二見港のある父島北部が大村で、兄島などの離島も管轄していたと思います。父島南部は扇村袋澤村【併称地名でしょうが、村という字を2つ残しているのは珍しい】。
母島は 沖港がある南部が 沖村で、北部が北村。硫黄島には もちろん 硫黄島村[56162]です。

町村制よりも前の行政機構は、明治13年(1980)から東京府小笠原出張所の直接統治で、1886年に小笠原島庁、1926年に小笠原支庁に改称されています [71888]
[78654] 2011年 6月 28日(火)14:47:45【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (2)1830年の移民団から 1876年に国際的に認められた領有まで
小笠原は 明治13年10月8日太政官布告第44号 で東京府の管轄になり、現在も東京都に属しています。

何を今更?と思われるかもしれませんが、小笠原に最も近いのは静岡県で、県庁所在都市にしても、静岡や横浜の方が東京よりも近くにあります。
実現の可能性は小さかったでしょうが、[76048]の末尾に記したように、小笠原が琉球所属となる可能性さえありました。

それなのになぜ東京府? その答えは [339]Issieさんの記事にあります。
伊豆諸島や小笠原が「東京都」なのは,一言で言ってしまえば「どこも面倒を見てくれなかった」からです。
伊豆諸島は【足柄県を経て】“伊豆の一部”として「静岡県」に編入されました。けれども静岡県はこの離島を管轄することを嫌がって,結局,当時の「東京府」にお鉢が回ってきたわけです。
当時の東京府は,(中略)「府」の権限が弱く,政府の影響力が強かったせいもあったのか,伊豆七島や小笠原を管轄するハメにもなったのかもしれません。

南の島がなぜ「東京」なのか という副題の記事[71887] でも、とりあえず内務省直轄にした小笠原を 「本国化」するために 引き取らせる府県を 選んだ事情に触れました。
内務省直轄以前を更に遡った経緯は、前回リンクした 記事集 のトップ[26683]に記してあります。

明治13年(1880)東京府移管前 50年間の「さかのぼり小笠原史」

明治9年(1876) 小笠原諸島規則を制定し各国にも通達 日本の小笠原領有が国際的に確立
明治8年(1875) 明治丸による小笠原「再回収」
文久3年(1863) 生麦事件(1862)賠償問題による緊張の影響で、日本は小笠原から撤退
文久元年(1861) 小笠原回収の方針を決め、駐日各国公使に通告[10121]→咸臨丸を派遣[26683]
嘉永6年(1853) ペリー、次いでプチャーチンの日本来航[77717] いずれも小笠原経由
天保元年(1830) 欧米人とオアフ島民からなる移民団が定住 無国籍の「南海の楽園?」時代

最終的には日本領になることが確定した幕末~明治初期ですが、最初に定住したのは日本人ではありませんでした。
1830年に 25人の移民団がハワイ王国のホノルルで結成された背後には、英国領事が関係していました。
しかし英国の支援は、英国の領有宣言(1827 ビーチー)を裏付けるには不十分な状態でした。
入植者は自力で自給自足のコミュニティーを創り上げ、米英露仏の捕鯨船などに飲料水・食料を供給しながら暮しました。

捕鯨船という言葉が出てきましたが、当時の夜間照明の主流は鯨油ランプでした。
ドレークが石油の機械堀りに成功したのは 1859年で、原油を精製した灯油の普及はそれ以後のことです。
鯨の漁場は、大西洋の資源が枯渇した後 太平洋に移り、沿岸から太平洋全域へと拡大。
ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』も、この時代のものでした(1851)。

小笠原に人が定住するようになった背景は、このようにクジラ抜きでは語ることができませんが、ここは 税金のない「南海の楽園」だったのでしょうか? 
そうありたいところですが、警察力の及ばない島では来航する船乗りの勝手気ままな行動を取り締まることもできません。例えば 1850年に米国軍艦が父島を訪れた直前に 婦女拉致事件が起きており、島民たちは海賊的な船乗りからの保護を求めていました。

この時に来た米国軍艦は 14年ぶりでしたが、3年後に琉球から江戸に向う途中のペリーが、英国人がピール島 Peel Island と名づけていた 父島のロイド湾に寄港しました。彼は、ハワイ・小笠原・琉球・台湾等を結ぶ 海上ルートの設営を目指しており、小笠原には その拠点として石炭補給所を設け、この基地の 安全保障も提供する という構想を抱いていました。

ペリーは、短い小笠原滞在中に 島の指導者セボリー Nathaniel Savory([26683]ではセボレー)と会談し、石炭置場用地を 50ドルで購入。島民自治組織ルール作成にも協力。牛4頭など家畜も提供。

[26683]で“領有宣言”と書きましたが、エルドリッヂ著 『硫黄島と小笠原をめぐる日米関係』 37頁の記述は 少し違っていました。すなわち、ペリーは日本訪問後に部下を派遣して 母島諸島(ベイリー島)を調査させ、「合衆国の名の下に正式にボニン諸島を占領し」と記された銅板を掲げたとのことです。
当面は小笠原を占領する姿勢だったペリーですが、後には日本の潜在主権を認める発言をしています(同書p.38)。

小笠原をハワイのような太平洋海運の基地にする構想を持ったのは米国のペリーです。
1854年の条約で下田と箱館、1858年の条約で神奈川・兵庫・長崎・新潟・箱館の五港が約束された 日本の開港、ペリーの死去(1858)、米国の南北戦争(1861~65)と時代が進むと、ペリー構想自体は立ち消えましたが、彼の『日本遠征記』は小笠原を放置していた幕府に その価値を教える結果になりました。

「決定せず・行動せず」の幕府が、文久元年(1861)に ようやく決めた 小笠原回収[26683]
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
一時的には撤退、再回収という経過はありましたが、幕府老中安藤信正による 1861年の決定が、潜在主権に留まっていた小笠原を、国際的に認められた 正式の日本の領土[10121] にした 第一歩だったのでした。
[78665] 2011年 6月 30日(木)16:32:25hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (3)19世紀の再発見・英国の領有宣言から 18世紀の「無人島之図」に遡る
[78644][78654]に続き、更に小笠原の歴史をさかのぼった年表。

1827年(文政10年) 英国軍艦ブロッサム号が来航して領有宣言 この時、島には長期滞在者が居た
1824年(文政7年) 英国捕鯨船の船長(米人)コッフィンが 小笠原再発見(母島列島)
1785年(天明5年) 林子平の『三国通覧図説』(無人島之図)が 1817年と 1826年に 西洋の学者に伝わる
1727年(享保12年) ケンペルの『日本誌』がロンドンで刊行 日本人の小笠原発見が西洋に伝わる
1727年(享保12年) 小笠原貞頼の文禄2年(1593)発見説登場 『巽無人島記』→小笠原島の名の起源
1675年(延宝3年) 島谷市左衛門が「富国寿丸で」調査し、「此島大日本之内也」と記す立札
1670年(寛文10年) 紀州の蜜柑船が小笠原母島に漂着後、父島も探検 下田奉行所に報告
1639年(寛永16年) タスマンらのオランダ船が小笠原群島を発見したが上陸せず

既に18世紀には、オランダ東インド会社の医師ケンペル[72964]の『日本誌』により、日本で発見された「無人島(むにんしま)」の情報がヨーロッパに伝えられ、19世紀になると、林子平が『三国通覧図説』に付けた 無人島之図 が、パリの東洋学者レミューザの論文(1817)や そのライバルのクラプロート(1826)による翻訳で伝わり、小笠原は 「Bonin Islands」の名で呼ばれるようになりました。

このような情報の存在と、盛んになった太平洋の捕鯨とを背景として、広大な太平洋の孤島・小笠原にも、立ち寄る船が急増する時代が到来したのが19世紀です。

1824年に英国の捕鯨船トランシット号が、東洋からの文献で伝えられていた「Bonin Islands」を 久しぶりに「再発見」しました。
到着したのは母島列島でしたが、船長の コッフィンは、ブリストルにある会社の名にちなみ、1番大きな島に Fisher's Island、湾には彼自身(米国人)の名前Coffin's Bayなどと命名しています。

その3年後の 1827年には、太平洋・北極地域を調査中の英国軍艦ブロッサム号が やってきました。
前回ちょっと出した ピール島(父島)や ベイリー島(母島列島)は、この時に艦長のビーチーが付けた名です。
驚いたことに、ここには前年に難破した 英国船の乗組員2人が 長期滞在していました。

ビーチーは、日本が発見した「無人島 Bonin Islands 」のことを文献で知っていましたが、それが この島であることは信じないで、英国王の名で この島々の領有を宣言する銅板を、父島洲崎の樹木に打ち付けました。
この銅板は、現在 オーストラリア国立図書館 に現存しています。

翌年に来たロシア軍艦は、まだ滞在していた難破船員2人から 英国の領有宣言に遅れたことを聞かされ、がっかり。
2人は ロシアの学者の調査に協力した後で 島を離れ、島は 1828年に無人島に戻りました。

しかし、ハワイからの移民がやって来て、小笠原最初の定住民になる 1830年は、すぐ先のことでした。

捕鯨船による小笠原再発見の 19世紀から 18世紀に遡ると、『三国通覧図説』などの著作を通じて 外周地帯に注目し、我が国の海防を説く人物が現れました。
しかし、鎖国体制化の日本では、小笠原の基地化はもちろんのこと、現地調査さえも実現しません。
なお、林子平の『三国』とは、朝鮮国・琉球国・蝦夷国のことですが、無人島は「おまけ」に付いています。

北海道大学北方関係資料の 無人島大小八十余山之図 を見ると、「無人嶋」の横に“本名小笠原嶋ト云”とあります。
父島は“北の嶋ト云…又本嶋トモ云”、母島は“南の嶋ト云”、兄島瀬戸付近に“此嶋ヲ和蘭ノ書ニ ウーストエーランド と云”とあり、特徴的な家族関係の島名は 使われていません。

なお、「無人島」の読み方は、東條信耕(琴台)の小冊子『伊豆七島全図 附無人島八十嶼図』(嘉永元年出板)の
無人島 ムニンシマ. 一名 小笠原島 ヲカサワラシマ. 八丈島辰巳方位タツミノカタ 一百八十里二アリ
という書き出しから、「むにんしま」又は「むにんじま」であり、「ぶにんじま」ではないとされます。文献
[78669] 2011年 7月 1日(金)12:35:33【2】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (4)1675年の島谷探検隊
小笠原村の父島では、水不足が深刻化 しているようです。
落書き帳において、水不足の話題で最も多く登場したのは四国でしょうが、沖縄本島[58819]、更にはより懐が小さくて雲を生み出す高山もない離島は、水問題で苦しめられることが多いのだと思われます。

昔は、天気予報でよく聞いた「小笠原高気圧」という言葉。最近は聞く機会が少ないと感じたので、気象庁HP を見たら、予報用語から外され、△印の解説用語になっていました。
備考 小笠原高気圧を、特に強調する必要がある場合に用いるが、通常は太平洋高気圧とする。

それはさておき、[78644][78654][78665]に続く さかのぼり小笠原史。
前回の年表(約 200年間)の後半に至り、いよいよ「日本国幕府」による 最初の調査団 が登場します。
それは、幕末の 小笠原回収(文久元年 1861)から 186年も前のことでした。

きっかけは、紀州宮崎村(有田市)から江戸に向う蜜柑船が、寛文10年(1670)に母島に漂着したことでした。
この漂着事件は、同じ紀州、宮崎村に近い 広村の 濱口儀兵衛(初代)[57891]が 銚子に渡って、醤油作りを始めた正保2年(1645)の25年後。湯浅出身の紀伊国屋文左衛門が 江戸で名を馳せることになる 20年ほど前と思われます。
江戸は、紀州生まれの食材を 大量に消費する都市になっていました。

それはさておき、生き残った船員は、島を探検して 食料や資材を確保しながら、ともかくも船を修理して 帆を上げ、父島、聟島、八丈島を経て下田に帰り着き、奉行所に漂流の顛末を報告しました。

この時代は、河村瑞賢により東廻り航路・西廻り航路の開設された頃で、幕府の外洋航海用大船建造禁止方針が ゆるんでいた頃です。
島谷市左衛門は、泉州堺出身の人ですが、朱印船貿易に携わった父の影響で、航海術を受け継いでいたようです。幕府は、彼を使って長崎で唐船をまねた 500石積みの外洋航海船「富国寿丸」を完成させていました。

延宝2年、幕府はこの船を使って 蜜柑船が漂着したという、南海の肥沃な島を 探検させることにしました。
伊豆代官・伊奈忠易も乗船した 島谷市左衛門の「富国寿丸」は、2度の失敗を経て、翌 延宝3年(1675)春に 下田から伊豆諸島に沿い南下し、閏4月29日に小笠原に到着しました。

島の緯度【注】や地形を調べて 地図を作成し、動植物・鉱物などの標本も採集。
【注】西洋では木星の衛星食観測を利用した経度測定法(カッシーニ[45211])が開発された時代ですが、日本の技術では緯度しか測れなかったでしょう。

島谷探検隊の船は 6月5日に出帆して、無事に江戸に帰着。調査報告書を 幕閣に提出したとのことです。

ところで、小笠原の島々というと、家族の名が付いた特徴的な島名が気になります。

国土地理院の 島面積 と 地図とを用いて、主な島とその面積(km2)を拾ってみました。北から
聟島列島が、聟島(ケーター島)2.57、媒島(なこうどじま)1.37、嫁島<1
父島列島が、弟島5.20、兄島7.87、父島23.80
母島列島が、母島20.21、向島(むこうじま)1.38、姉島1.43、(東へ)妹島1.22、姪島<1

向島を唯一の例外として、見事に列島ごとに「家族の名」になっています。位置的にも、媒島は、聟島と嫁島の間。

これらの島名は、「大村」「奥村」などの地名と共に、島谷探検隊の命名と言われています。

日本人が住んでいなかった小笠原の地名には、統治者による「官製地名」が多く存在します。
そして、幕末の文久年間に行なわれた 小笠原回収の際に、「古名」とされたものがあり、延宝年間に命名された名が 現代に復活している と理解されているようです。

しかし、小笠原学ことはじめ 第4章によると、兄島は「島谷氏無人島之図」に記載されていなかったようです。
嶋谷市左衛門は無人島の地図を作り、幾つかの地名を付けた。今日、「島谷氏無人島之図」(木村)等何枚かの小地図が伝えられている。しかし、兄島については(中略)島名は付けていない。今日の親族名による島名の命名を嶋谷とする説(田畑1993)は根拠がない。

明治7年に外務省で編纂された 『小笠原島紀事』巻之二 には、島谷探検隊の事績が記録されています。
この記述中には父島・母島(17コマ)の他にも弟島(16コマ)・姉島・妹島(18コマ)も見出すことができます。
しかし、居住者のいない多くの島の存在と位置を確定し、現在の「家族の名」が完成したのは、後の文久巡視(水野)から明治の海図整備事業までかかったのかもしれません。

なお、天明5年(1785)の「無人島之図」[78665]には、父島・母島の名さえも記されていませんでした。
[78720] 2011年 7月 6日(水)18:06:21hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (5)文禄2年 小笠原貞頼発見?
世界自然遺産になる小笠原の島々につき、先週は 1675年の島谷(しまや)探検隊まで歴史を遡り、父島・母島等個々の島の名に及びました[78669]。今回はこれに続いて、これらの島々を総称する「小笠原島」という名について記します。

島谷市左衛門をして延宝3年(1675)の探検を行なわせ、伊豆代官管轄地とした後も、幕府はこれらの島々の開拓は行なわず、「無人島(むにんじま)」の名で処理していたようです。
しかし、普通名詞かと疑われる「無人島」という名は、正式の「地名」としては、いかにも奇妙です。

「正式名を付けない」ことは、「当面は 幕府領としての開拓を行わない」という、内向きの意思表示だったのかもしれません。

ところが 110年後、“天明5年(1785)秋 東都 須原屋市兵衛梓 仙台 林子平図”の『無人島大小八十余山之図』には、“本名小笠原嶋ト云”と記されています[78665]

更に 76年後の「小笠原回収」[26683]に際して、「伊豆国附島々備向取調且小笠原島開拓」と公称しています。
これは、列強諸国に対して「国内問題」であることを主張したい幕府の都合でしょうが、今度は“伊豆国附島”や“小笠原島”という言葉を使い、186年前の 内向きの処理を一変させました。

外国公使たちへの通告文
書簡を以て申し入れ候。我が南海属島 小笠原島 渡航中絶の所、今般外国奉行水野筑後守、目付服部帰一等差遣わし、追々開拓の挙に及ばんとす。然るに 真偽は計り難く候え共、近来 貴国人移住のもの これ有由 伝聞に及び候間、念の為 申し入れ置き候。拝具謹言

民間の出版物である林子平の地図はさておき、幕府の公式の呼び方が17世紀の「無人島」から、19世紀の「小笠原島」へと変化したのは、この間に何が起きた為か?

もちろん、これらの島々には、「原」コレクションに収録できるような地形「小笠原」が存在するわけではありません。
「小笠原島」という名が付いた発端は、享保12年(1727)にありました。さかのぼり年表[78665]参照

この年、宮内貞任と名乗る浪人が江戸に現れ、自分の先祖に 信濃深志城主 小笠原長時の曽孫である小笠原貞頼という人物がおり、文禄2年(1593)に南海の島を発見して「小笠原島」と命名していると主張しました。
発見の根拠とされたのが、『巽無人島記』 という本です。

残されている抄録を見ても あまり要領を得ないのですが、家康配下だった小笠原貞頼は、文禄の役の後に“南海へ出帆、伊豆八丈の南 三つの島国を見立巡見、地広く人家なし”(5コマ)という記述があります。

宮内貞任 は、“小笠原島は(祖先の)所賜の領地にて、以て永く島名と為すべしとの台命ありしより 小笠原島の名ある事は 天下衆庶の所也”と主張し、このような 祖先の偉業を継ぐために 島に渡る許可を幕府に申請しました。
その結果 一度は許されて、甥が出航したものの消息不明。
そのうちに家系疑惑(20コマ)が出て、小笠原の本家から出自を否定され、偽りの由緒書と系図を根拠とした貞任は、大岡越前守忠相により重追放処分を受けるに至りました(36コマ)。

このように、16世紀末に小笠原貞頼がこの島を発見したという説が極めて「怪しい話」であることは、この説が現れた 18世紀前半から既に明らかにされていました。
しかし、スキャンダルが大きなニュースになったことは、かえって「小笠原島」の名を世の中に知らせることになりました。

これだけならば、「小笠原」が現代社会の正式名になることはなかったかもしれません。
しかし、実はもう一つの事情があり、そのために この伝説は意図的に利用されたのではないかと思われます。
[78725] 2011年 7月 7日(木)22:27:15【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (6)オランダ人は 最初に小笠原群島を見つけたが…
1856年に出版されたペリーの『日本遠征記』は、(ハワイからの移民の存在を知りながら) 「無人島」として放置していた幕府に 小笠原の価値を教える結果になりました。

幕府老中安藤信正は、文久元年(1861)に外国公使たちに対し「小笠原回収」を通告[78720]
我が南海属島 小笠原島(中略)追々開拓の挙に及ばんとす。然るに 真偽は計り難く候え共、近来 貴国人移住のもの これ有由 伝聞に及び候間、念の為 申し入れ置き候。

安藤が意識した“貴国人”とは 米国出身でハワイから来た移民のことで、この件については、米国公使ハリスから事前の了承を得ていたと思われます。ハワイ王国と日本との国交はなかったはず。

この 1861年というのは、アメリカで南北戦争が始まった年であり、既に開国の要求を受け入れた日本との間で、太平洋の小島の領有を争う気が起こらない、今から思うと絶妙のタイミングでした。

米国が争わない以上、やるべきことは 咸臨丸で現地に渡った 外国奉行水野越後守忠徳が、住民の代表セボリーに会って、日本統治の根拠を説得することです。
水野は、米国公使館書記官ポートマンからのセボリー宛書簡も持参し、日本に対する米国の好意的態度も証明しています。

この時に、通訳として同行したのが中浜万次郎。井伏鱒二の『ジョン萬次郎漂流記』で知られる彼は、少年時代に土佐国中浜村から漁に出て、鳥島に漂着。救助された米国捕鯨船の船長に可愛がられ、米国で学んだ後に捕鯨に携わったが、やがて自力で小舟を購入して 琉球経由で帰国した という経歴を持ちます。

31年前の セボリーたちの入植と、更にその3年前の 英国領有宣言に対しては、186年前に 日本がこの島を発見・調査した[78669]という事実を伝え、今後は 日本人の移民も 島に送ることにするが、先に入っている住民の 既得権は保護することを説明しました。

この時に、水野が ついでに 持ち出したのが、文禄2年の小笠原貞頼伝説[78720]です。
こんな 詐欺まがいの話を わざわざ持ち出したのは、『三国通覧図説』などを通じて 欧米にも知られていた話 であることと共に、幕府が 最大の拠り所とする 1675年の探検よりも 早い時期の発見 に対抗する手段として 活用する目的があったのではないかと思われます。

南蛮人が 日本近海に現れた記録として 有名なのは、ポルトガル人による 天文12年(1543)の種子島 鉄砲伝来ですが、同じ年に フィリピンから北に進んだ スペイン船サン・ホアン号のトーレ船長が、日本の近海域 北緯25度あたりで 火山島を発見したとされます。硫黄島と思われるこの島は、探検されませんでしたが、広い意味では 「小笠原諸島」の最初の発見です。

スペイン船は、フィリピンとメキシコとを結ぶ海域をよく通っていたはずです。
しかし、結果的には火山列島(硫黄列島)を発見しただけ。スペインは小笠原群島発見の機会に 恵まれませんでした。

南蛮人に次いで現れたのが紅毛人です。ユトレヒト同盟から 1581年に独立宣言したオランダ。驚異的な勢いで海外進出し、1602年に設立された オランダ東インド会社 VOC は ジャカルタを本拠地としました。日本との出会い 第1号は リーフデ号の漂着(1600)[77689]

1639年7月21日、オランダ東インド会社の クワストとタスマンによる 北太平洋探検船は、新しい島を発見し、2人がそれぞれ指揮した船の名から、エンゲル島とグラフト島と 名付けました。
船を停泊させる場所を見つけられず上陸しなかった とのことですが、これが母島と父島であったと伝えられます。

よく探せば、良港(父島の二見港)があったのに、詰めが甘く、オランダは小笠原を確保することができませんでした。

もっとも、このタスマンという探検家。1642年に発見した島により、その名が知られていますが、タスマニアも後にイギリス領。
更に東に航海して発見した ニュージーランドも、2つの大きな島であることを認識できず。
オーストラリア大陸で 最も豊かな南東部も 見逃したままで、イギリスのキャプテン・クック[45308] の手柄になりました。
オランダとイギリスの 国力の違いもあるのでしょうが、どうも詰めが甘く、結果的には イギリスに してやられた という印象です。

小笠原回収の時代に戻ると、上陸・探検こそしていませんが、オランダ人による小笠原発見(1639)は、1675年の幕府探検よりも明らかに前です。
オランダ人の話を持ち出された場合、これに対抗するのは、文禄2年(1593)の小笠原貞頼伝説しかない。
こう考えて予防線を張ったのが、水野の真意だったのではないでしょうか。
[78750] 2011年 7月 10日(日)17:02:18hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (7)甲斐国巨摩郡小笠原
世界自然遺産「小笠原」の地名の由来になった小笠原貞頼発見説[78720]
これを持ち出した宮内貞任は、出自詐称などで処罰されましたが、伝説そのものは生き残りました。

小笠原村HP歴史 冒頭の記載は次の通りです。
小笠原諸島は1593(文禄2)年、信州深志城主の曾孫、小笠原貞頼により発見されたと伝えられています。

小笠原村教育委員会の 発掘された小笠原の歴史 6~7/32コマは、発見史の後に“架空の話なのですが”として、地名の由来に関わるこの伝説を紹介しています。
貞任の主張では、父島は26里×90里、母島は10里×27里あるというのですが、実際には最大でも2里強(父島)、3里強(母島)しかありません。つまり架空の話なのですが(中略)
幕末になって、幕府が小笠原回収に向った時にも、「故事」として引き合いに出されています(→小笠原新治碑)。

3コマの小さい写真では文面がわかりませんが、水野巡検隊[78725]は、住民への説明に利用しただけでなく、本土から持ち込んで建てた「小笠原新治碑」にも、文禄2年の小笠原貞頼発見説を刻み込んでいたようです。

明治政府が編纂した『小笠原島紀事』[78669]も、小笠原貞頼発見伝説を正面から否定するわけではなく、日本の領有権を裏付ける根拠の1つとして、意図的に利用する姿勢だったのではないかと思われます。

もちろん、これらの島々には、「原」コレクションに収録できるような地形「小笠原」が存在するわけではありません。
[78720]で書きましたが、小笠原貞頼伝説によって 地名→人名→地名 を遡ると、小笠原氏のルーツである甲斐国の地名「小笠原」に行き着きます。

[1628] Issie さん
武田氏は甲州に移って大発展して今度は地元甲州の地名から小笠原とか南部とかいった分流を生み出すことになる。

甲斐国巨摩郡「小笠原」にあたる現代の地名は、北巨摩郡明野村→北杜市と、中巨摩郡櫛形町→南アルプス市の2ヶ所があり、明野を「山小笠原」、櫛形を「原小笠原」と呼んで区別されたようです。

明野の「小笠原」は、古代の官制御牧があった山腹で、まさに見通しのよい地形名「原」だったでしょう。
長清寺には小笠原氏の始祖長清の墓と伝えられる五輪塔があり、こちらが小笠原氏発祥の地とされています。
約15km南の「原小笠原」。こちらは甲府盆地の西端で釜無川の西にあった荘園でした。現在は南アルプス市の中心市街地になっています。

小笠原氏は、鎌倉時代に信濃に本拠を移し、室町幕府体制下では信濃守護になりました。
武田信玄により信濃を追われたものの、1583年松本城に復帰。
小笠原貞頼による南海の無人島発見が伝えられる 1593年当時の 小笠原秀政は 古河に移封されていました。
この本家は、松本復帰後、明石を経て 小倉15万石の譜代大名として 幕末まで継続。
宮内貞任と小笠原家との関係を否定したのは、小倉藩の時代です。
小笠原家は、室町時代以降、武家社会で有職故実に詳しい家柄として重きをなしていました。
歴史的にも、弓術、馬術、茶道などいろいろな「小笠原流」がありますが、最も知られているのは「小笠原流礼法」でしょう。現代のサイト
[78765] 2011年 7月 13日(水)16:01:14【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (8)世界自然遺産区域 海図に使われる広域地名
小笠原村HPに世界自然遺産特設ページが作られ、その中に 世界自然遺産区域 が示されていました。
世界遺産の区域となっているのは、聟島列島、父島列島、母島列島、火山(硫黄)列島のうち北硫黄島、南硫黄島、西之島です。父島、母島では、集落を除いた区域と一部周辺の海域が世界遺産の区域となっています。

“世界遺産になる小笠原群島”という 今回のシリーズ のタイトルは、UNESCO資料の記述
The property numbers more than 30 islands clustered in three groups and covers surface area of 7,393 hectares.
から、世界自然遺産区域を 「3列島」の総称である「小笠原群島」と解釈したからですが、火山列島を含む「4列島」だったようです。但し、第二次大戦の激戦場になって自然が徹底的に破壊された火山列島の主島(硫黄島)は、父島・母島の集落区域と共に除外されています。

林野庁資料 の 3/18コマにも、推薦区域地名と面積とが記されていました。世界遺産の評価基準は(viii)地形・地質【ボニナイトの露出など】、(ix)生態系、(x)生物多様性が挙げられ、最終的には(ix)生態系が認められました。

小笠原の森林生態系は、父島・兄島の乾性低木林と 母島の湿性高木林という 異なる生態系の固有樹種に 特徴があるようです。320mの中央山を持つが 渇水に悩む父島 [78669]に対して、一段と高く 雲を呼ぶ力のある 463mの乳房山を持つ母島の森林は、様変わりした姿を見せるのでしょう。

そして、調査はまだまだですが、916mという東京都島嶼部の最高峰[75152]があり、手付かずの自然状態の 南硫黄島
ここには、やはり世界遺産に値する動植物があると思われます。

世界遺産区域は小笠原群島だけでなく、その西側の火山列島に及ぶことが明らかになりましたが、上位概念の「小笠原諸島」という広域地名は、南鳥島や沖ノ鳥島も含み、行政上の「小笠原村」と同じ範囲に拡がってしまいます。

広域地名ついでに、伊豆大島・南鳥島・沖ノ鳥島を結ぶ巨大な三角形の海域にある島々、つまり「伊豆諸島プラス小笠原諸島」を指す広域地名に触れます。

海洋情報部技報 Vol.27,2009 「我が国の広域な地名及びその範囲についての調査研究」 2/9コマによると、「海図」においては、明治24年(1891)刊行のものから、この海域の島々を一貫して「南方諸島」と表記しているそうです。参考
しかし、私たちが目にする市販地図でこの名を見ることは少なく、私の知るところでは、小学館の「日本列島大地図館」が唯一の例【[33445]に記したように、平凡社の「日本大地図帳」と書いた[29851]は誤記】です。

地図を作る国土地理院と、海図を作る海洋情報部との間で地名等の統一に関する連絡協議会が設けられ、統一作業が進められていることは既に[53057]で触れました。
ところが、我が国の南方及び南西方に位置する諸島・群島・列島の名前とその範囲については、未だ統一に至らず保留状態であるとのことです。

今回の文献の6/9コマによると、3列島を含む小笠原群島、西之島【注】から南硫黄島に至る火山(硫黄)列島、それに沖ノ鳥島・南鳥島を含む小笠原諸島については合意済。
合意ができていないのは、伊豆諸島と小笠原諸島とを総称した「南方諸島」とのことです。

「南西諸島」も 水路部(海洋情報部の前身)が、遅くとも 明治40年(1907)の海図から使い始めた名称です。
こちら は1965年の連絡協議会で国土地理院との間の合意が成立しています。
しかし、その構成要素である個々の諸島・群島・列島の地名は、まだ統一されていません(3コマ、7コマ)。

【注】
西之島は、孤立島として扱われる例 もありますが、地形的には火山列島を北に延長した一部分であると理解されます。
[79228] 2011年 8月 22日(月)14:38:30【2】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (9)返還後の「小笠原諸島」という地名は、法令に由来
1ヶ月以上の間が開きましたが、世界自然遺産登録と 返還43周年とを記念して始めた 小笠原シリーズ を続けます。

今回のシリーズは、あえて「小笠原諸島」でなく、「小笠原群島」という地名でスタートしました。
これは第1回の記事を書く際に、UNESCO の Ogasawara Islands に記された“clustered in three groups”という説明文から、指定区域が、聟島列島・父島列島・母島列島の3列島【総称・小笠原群島】であると誤解し、地名へのこだわりから選んだ確信犯的な行為でした。

しかし、後で調べたところ、世界自然遺産区域 は 火山列島を含む4列島【一部を除く】でした[78765]
[78644]で こねた小理屈(地理的こだわり)は 根拠を失い、当初の「確信」は 揺らいでしまいました。

世界遺産になった地域は、聟島列島・父島列島・母島列島・火山列島【西之島を含む】の4列島。
こうなると、この4列島を総称する「地名」が欲しいところです。

しかし、地図の元締めの国土地理院も、海図の元締めの海洋情報部も、隣接した小笠原群島と火山列島だけでまとめず、上位概念として使う「小笠原諸島」には、南鳥島と沖ノ鳥島を含ませています。海洋情報部技報2009 6コマの Fig.10参照。

諦めかけたところで 気がついたのが 「法令用語」です。
電子政府の総合窓口イーガブ の 法令用語検索 で「小笠原群島」を指定してみると、7件の法令がヒットしました。

現在使われている【沖の鳥島・南鳥島まで拡張された】「小笠原諸島」の定義は、昭和44年の「小笠原諸島振興開発特別措置法」【制定題名:小笠原諸島復興特別措置法、通称:小笠原法】第二条にも使われていますが、この定義が 最初に現れたのは、昭和43年の「小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律」第一条であると思われます。
この法律は、小笠原諸島(孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島をいう。以下同じ。)の復帰に伴い、法令の適用についての暫定措置その他必要な特別措置を定めるものとする。

ここで使われている“孀婦岩の南の南方諸島”。 これが「世界遺産になった4列島」を総称しています。
【追記】
“孀婦岩の南の南方諸島”という言葉は、暫定措置法の前に米国との間で結ばれた 小笠原返還協定 の中で、返還対象である「南方諸島及びその他の諸島」の定義の一部として出てきます。国内法により、後者が「小笠原諸島」と言い換えられたわけです。
【追記終】

「南方諸島」が出てきたので、これで検索すると 17件。その末尾にある昭和21年大蔵省令を見ると、“伊豆諸島及び 孀婦岩以北の南方諸島における 法及びこの省令の適用に関しては…”のように使われています。
つまり、法令用語においては、日本列島南方の島々は 次のように5区分されていたと理解できます。

伊豆諸島【大島から青ヶ島まで】
孀婦岩以北の南方諸島【ベヨネース列岩、須美寿島、鳥島、孀婦岩】[22460]
孀婦岩の南の南方諸島【小笠原群島(聟島列島・父島列島・母島列島)、西之島及び火山列島】
沖の鳥島【地図や海図では沖ノ鳥島と表記】
南鳥島

先の引用文献にあったように、「南方諸島」という用語は、海図ではこれらの島々すべてを含む名称としてを使われており、戦後の国土地理院地図では全く使われていません。
法令用語で使われた“孀婦岩以北の南方諸島”も、地図・海図では伊豆諸島の一部に含まれています。

このように、政府機関により使い方がまちまちな「南方諸島」という用語は、私としても あまりお勧めできません。
しかし、「世界遺産になった4列島」地域が、「南方諸島」を使って総称された事例がある ということを ご紹介しておきます。

法令や海図での使用例はあるものの、通常の社会生活で「南方諸島」という地名に触れる機会は殆んどありません。
しかし、「小笠原群島」と「小笠原諸島」は、共に使われ、地名集日本2007 にも収録されています[78644]
島群コレクション の為に書いた[29851]において、私は 小笠原諸島を 伊豆諸島と並ぶ第2階層とし、小笠原群島は第3階層としました。これは 前記海洋情報部技報 Fig.10の見方と一致します。

新版日本国勢地図(1990) 2自然 の3/3コマ(自然地域の名称)右下隅には「小笠原群島」が描かれています。
しかし、「小笠原諸島」の記載はありません。
一方、多くの人が目にする社会科の地図帳には「小笠原諸島」と記されています。

ここで、「小笠原群島」と「小笠原諸島」とは、範囲の違いだけでなく、性格の違いがあることに気が付きました。

教科書検定基準 によると、“我が国の地名の表記は,法令などの官報に記載されたものによる”のが原則とされています。

「小笠原群島」は、国土地理院の地形図や、水路部【海洋情報部】の海図に使われる「地形由来の自然地名」だと思われますが、検定地図帳においては、地形図や海図は補助的な資料とされています。
「教科書に使われる地名」は、小笠原法など法令上の主役である「小笠原諸島」が優先されることになります。
「小笠原諸島」は、小笠原返還後に我が国土の東端になった南鳥島と、南端になった沖ノ鳥島とを含ませるという、極めて政治的な意図をもつ法律により、「昭和43年に作られた地名」だったのでした。

なお、[53386] 88 さん により 既に紹介されているように、小笠原復帰暫定措置法第18条で
東京都に属する小笠原諸島の区域をもつて小笠原村を置く。
と定められたので、地理的な「小笠原諸島」と 行政的な「小笠原村」の区域とは 当然に一致します。

現在の【沖の鳥島・南鳥島まで拡張された使い方の】地名は返還後ですが、「小笠原諸島」という地名自体は 戦前からありました。もっとも、日本法令索引で調べると、明治時代の法律で使われていた地名は「小笠原島」でした。

『帝国書院の復刻版地図帳』[25914] 昭和9年の 第17図5「豆南諸島」には、小笠原諸島と硫黄列島とが同じ文字サイズで並んでいます。つまり、戦前の「小笠原諸島」は小笠原群島(3列島のみ)を意味していたようです。
小笠原返還後の 昭和48年地図帳39図2でも、小笠原諸島と硫黄(火山)諸島の文字サイズは、まだ ほぼ同じ でした。
つまり、戦前に引き続き3列島(小笠原群島)の意味で使われていたようです。

最近の帝国書院地図帳では、火山列島より明らかに大きい文字サイズの「小笠原諸島」が記されています。
EEZ[26266]や国連での大陸棚申請[67184][67185]に関連し、南鳥島や沖ノ鳥島の重要性 が強く認識されるようになっている現在、拡張された小笠原諸島の地位は、地図帳における文字サイズに反映しているようです。
[79238] 2011年 8月 24日(水)14:34:32【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (10)小笠原の島々の自然 生物編
小笠原諸島という名[79228]による「世界自然遺産登録」。
ここで、小笠原の自然に触れておきます。

最初に、国際自然保護連合(IUCN)による評価報告を伝える 2011年5月のチラシ をリンクしておきます。
世界遺産委員会による 最終決定 の1段階前ですが、登録を適当と認めた理由(生態系の価値)や指摘事項、要請事項、区域を示す地図などが 要領よくまとめられています。

本格的な資料としては、世界遺産一覧表記載推薦書 (日本政府 2010年1月)があります。全体で 234コマもある pdfファイルです。7~14コマが要旨で、小笠原の自然については、「該当するクライテリア」として、3項目の評価基準につき陳述がなされています(要旨 12コマ、本文107~112コマ)。

(viii) 地形・地質:数百万年にわたる島弧の進化過程を示す証拠が陸上に露出
(ix) 生態系:陸産貝類(適応放散による種分化)、植物(海洋島独自の進化)、南硫黄島(手つかずの自然)
(x) 生物多様性:限られた陸域に、固有種を含めた多様な動植物種が生存

先に紹介したチラシにあったように、3項目のうち、小笠原諸島の特殊な生態系が評価され、登録になりました。
陸の貝類(チラシに写真)は、外界から隔絶された海洋島の中で独自に適応放散し、多くの種に分化した代表例 です。

小笠原の自然にとって、今後の大きな問題として、外来種対策があります。
世界遺産登録により観光客の目が向けられることは、地域振興にとっては役に立つでしょう。
しかし、自然環境保護の立場からすると、観光客の増加は、大きな危険因子です。
一時は危機遺産に指定されたガラパゴス[78644]の二の舞を踏んではなりません。

自然環境保護に関する制度として 最も有名なのは 国立公園でしょう。小笠原も国立公園に指定されています。
しかし、今回の世界自然遺産指定区域の中で 重要な地位を占めながら、小笠原国立公園の区域外の場所があります。
それがどこか お分かりですか?

それは、標高 916m 都内島嶼部の最高峰・南硫黄島[74102]です。大島三原山 764m、三宅島雄山 814m、八丈富士 854m、父島中央山 318m、母島乳房山 463mですが、問題は 高さよりも、海からいきなり聳える ピラミッド状の孤島 という立地です。
黒潮を越えて 日本列島から 1200kmも離れ、有史以来大陸と繋がったことのない 海洋島。これに加えて 荒波に侵食された断崖という バリアもあります。

生き物を容易に侵入させない この火山島に到達した限られた種は、手つかずの自然生態系に進化し、貴重な存在になっています。父島では夜行性の オガサワオオコウモリが、天敵のいないこの島では、日中でも空を飛びまわるとか。

実は、1972年に小笠原国立公園が指定された時には、南硫黄島も入っていましたが、1975年に国立公園区域から除外。
なぜ? それは、自然公園法に基づく国立公園が「自然環境の保護」と同時に「利用増進を図ること」を目的としているからです。南硫黄島の「手つかずの自然」を保護するには、これでは不十分。そこで使われたのが 自然環境保全法に基づく「原生自然環境保全地域」です。

土地利用が大きく制約される 原生自然環境保全地域 は、全国でも 5ヶ所しか指定されていませんが、南硫黄島は 屋久島の一部【注】と共に最初に指定され(1975)、国立公園の区域外になりました。
【注】
南硫黄島と違い 大きな屋久島の中で、屋久島原生自然環境保全地域 は、ごく一部です。
なお、霧島屋久国立公園は、霧島・錦江湾地域と屋久島地域とに 分割することが検討されている由。

1982年環境庁により 原生自然環境保護地域指定地の 総合的な学術調査が実施された翌年、南硫黄島の全体が 自然環境保護の理由で立入禁止となりました。
最近の島の様子は、25年ぶりに 東京都環境局と首都大学東京 により行なわれた 2007年自然環境調査 により知ることができます。同行NHK取材班による ダーウインが来た!サイエンスゼロ
1982年・2007年と2回の調査が、いずれも6月に行なわれた理由は、島に近づくことのできる 唯一の季節 であるとのことです。
[79245] 2011年 8月 26日(金)14:01:31hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (11)小笠原の島々の自然 地質編
1910年に日本政府がUNESCOに提出した 世界遺産推薦書 には、評価基準(viii) 地形・地質に関して、数百万年にわたる島弧の進化過程を示す証拠の陸上露出が挙げられていました(12コマ、107コマ)。

最終的に世界遺産としての評価を得たのは (ix) 生態系 [79238] だったのですが、今回は「さかのぼり小笠原史」[78665]が行き着く 源流 である、小笠原の島々の誕生 について 語ることにします。

資料として、上記推薦書の30コマの図と、31コマの説明とを使います。

(A)図 5000万年前:太平洋プレートが 沈み込みを開始。上盤のフィリピン海プレート東縁部に張力が働き、高温のマントル物質が浅い位置に上昇。
(B)図 4800万年~4500万年前: 沈み込んだ水の影響で浅いマントル物質の融点が下がり、初期特有の無人岩マグマによる海底火山誕生。父島・聟島の原型。

“太平洋プレートの運動方向の転換”という文字が、(B)図の中に記されています。この事件は [53501]で触れました。
「地球史的な説明」をすれば、天皇海山列のできた時代には北寄りに向かっていたプレート運動が、4000万年前頃に西寄りに変わり、その後ハワイ海山列が生まれたということになります。

(C)図 4400万年前:少し時代が進むと、マグマはやや深い所で発生するようになり、母島火山を形成。
母島溶岩は、(B)図の時代にできた父島の無人岩のようなマグネシウムの多い特殊な組成のものではなくなってきた。
(D)図 4000万年前: この頃までに西フィリピン海盆は拡大を止め、火山フロントは、ほぼ現在の位置まで後退。定常的な沈み込み帯に移行。
(E)図 現在: 現在小笠原海域で活動中の火山は、小笠原群島の西100km以上、伊豆諸島の延長線上に南北に連なる西之島~火山列島。
(D)(E)両図の間の期間には、四国海盆が拡大し(1500万年前頃まで)、伊豆小笠原マリアナ弧と九州パラオ海嶺とが分離。

更にこの図から外れた内容を付け足せば、もっと北では、同じく新第三紀の中新世に日本海も広がり、日本列島が大陸から分離しています。『小笠原諸島の地質』(金沢大学海野) 8コマの図1-4。
# この資料の9~10コマは、前記推薦書30~31コマで使われた(A)~(E)図の元と思われます。

日本政府の推薦書107コマには、次のように記載されています。
小笠原諸島は、数百万年にわたる一連の島弧の進化過程を示す証拠が完全な形で保存されて陸上に露出している世界で唯一の場所であり、重要な進行中の地質学的過程の顕著な見本である。

推薦書32コマの図2-4にまとめられているように、小笠原諸島の形成年代・岩石系列は、沈み込み初期(父島列島・聟島列島)、過渡期(母島列島)、定常期に3大別されます。
そして、特に類例がなく注目されるものは、初期に形成された「無人岩」(むにんがん、Boninite)でしょう。

「Bonin Islands(無人島むにんしま[78665])」に由来する無人岩(『小笠原諸島の地質』の11コマ)は、(B)図の時代【4800万年~4500万年前の始新世】に海底に噴出した枕状溶岩が、その後の漸新世に隆起して陸上に露出したものです。
上部マントルに直接由来するため、マグネシウムを多く含む特殊な安山岩で、推薦書33コマに 緑色がかった岩の写真が掲載されています。
二見湾入口の烏帽子岩、宮之浜、釣浜、初寝浦などでも見ることができるそうです。

母島列島は 父島・聟島よりも少し後、(C)図の時代【始新世中期】に活動した火山島で、主として現在の伊豆諸島の玄武岩や安山岩に類似した岩石で構成されています。

火山列島は、伊豆小笠原弧の第四紀火山フロントをなしており、推薦書32コマに示されているように、ずっと新しい火山です。
火山列島の島々は、北の伊豆諸島や南のマリアナ諸島の火山よりもアルカリが多い岩石です。

北硫黄島・南硫黄島は噴火記録も現在の噴気活動もありませんが、西之島[57361]や福徳岡ノ場【南硫黄島付近の海底火山】[74102]は近年も活動しています。

「さかのぼり小笠原史」の源流を探訪してみました。
南半球のゴンドワナ大陸の一部がはるばると北上して、5000万年前頃にユーラシア大陸に衝突。
巨大なエネルギーは、間にあった海をヒマラヤ山脈にしただけでなく、乗り上げによりチベット高原を形成。

そして衝突の影響は、隣接するフィリピン海プレートも揺り動かし、その東縁での太平洋プレートとの力学的バランスを崩した。
そこでは、地下のマントル物質が浅いところに上昇し、太平洋プレートはフィリピン海プレートの下に潜り始めた。
こうして海水とマントルとが出会い、生成した無人岩マグマなどから 父島列島以下の小笠原の島々が誕生。

西にある フィリピン海プレートの下に 沈み込み始めた太平洋プレートは、中央海嶺からの拡大方向が 北から西に方向転換。
そのために、ハワイのホットスポットを基点として神武海山へと北向きに残されていたプレート運動の足跡(天皇海山列)は、4~5000万年前頃にハワイからミッドウェイへと向う西向きのハワイ海山列へと折れ曲がる[53501]

因果関係が正しいかどうかわかりませんが、古第三紀始新世に起きた壮大なプレート運動ドラマに、わが小笠原も出演していたと、地球儀を見ながら 想像を回らすことは、なかなか楽しいことでした。
[79266] 2011年 8月 28日(日)17:12:07【1】hmt さん
世界遺産になる小笠原群島 (12)人々と小笠原との関わり
世界「自然」遺産の小笠原ですが、やはり、この地と関わった人々抜きでは語れません。
2005年国勢調査人口は 男 1689人 + 女 1034人 = 2723人。2010年速報値は 60人増加の2783人。
ところが、2006年4月1日の住民基本台帳人口 (2コマ)は 男1308人 + 女1028人 = 2336人 であり、小笠原で国勢調査の対象になった男子は、登録住民と比べて、著しく多かったことがわかります。

小笠原村の人口構成は、男女比 1.63で、65歳以上人口の割合が 全市区町村中最低(8.5%)と 特殊なものです。
台帳ベースの男女比でさえ 約1.3であり、公務従事者や一時的な作業従事者が多く、転入・転出割合が高いことが特徴とされています。実際に住んでいても 転居手続きをしていない人々が かなり多数存在することを思わせます。

現在小笠原に定住している人々のうち、最古のルーツを持つのは、いわゆる「欧米系」島民です。
明治8年(1875)の「再回収」[78654]で 日本への帰属を了承し、明治15年には全員が帰化したとはいうものの、ハワイからの 1830年移民団[78654](ポリネシア人が多数)の子孫そのままではありません。
島を去った人もあれば、新たに加わった人もおり、世代交代を重ねて、かつて 40人程度を維持していた多国籍型出自の社会は、1946年に帰島を果した時には 約130人になっていました。

幕末の小笠原回収[78725]の結果、八丈島からの移民 38人が朝陽丸で送り込まれたものの、すぐに中断。明治丸による再回収(1875)の翌年には国際的にも日本の領有権が確立し、内務省直轄を経て 明治13年(1880)に「東京府移管」という「本国化」の形を整えました[78654]

小笠原諸島のあらまし 4/4に「小笠原諸島の人口推移」というグラフがあります。それによると、明治15年に 531人だった人口は、明治33年(1900)には既に 5550人、現在の2倍に急増しています。その後の増減はあるものの、第二次大戦までの間、おおむね数千人の人口を維持し、昭和15年(1940)の 町村制施行 に至りました。

硫黄島開拓も、硫黄採取目的の渡航(1889)に始まり、平坦な地形と地熱を利用した農業も盛んに行なわれ、天水が頼りの暮しながらも 1000人を越す人口を抱える村になり[56162]、父島・母島の各2村と同時に 硫黄島村 も誕生しました。

人々の暮しを一変させたのは、第二次大戦です。
第一次大戦に登場した飛行機は、大正から昭和へと次第に発達し、東京から 1000kmの太平洋上にある小笠原も、我が国の最前線として、国防上重要な拠点と認識されてきました。
要塞地帯に指定された小笠原には、多数の軍事要員が配置されて 陣地を作りました。例えば『小笠原学ことはじめ』p.98には、昭和16年頃の兄島に 600人近くの兵隊が居たとありましたが、軍人を含めて膨れ上がった小笠原の総人口は不明です。

大戦末期の昭和19年(1944)になると、8月4日に父島が大空襲を受け、一般住民 6886人は内地に強制疎開となりました。
残留した軍属 825人を合わせると 人口は 7711人であった計算で、これが前記人口推移グラフのピーク、小笠原群島(父島・母島) 6457人、硫黄島・北硫黄島・南鳥島 1254人の合計数と合います。

小笠原群島への空襲や艦砲射撃攻撃よりも更に激しい戦いが行なわれたのが硫黄島です。
硫黄島は父島・母島クラスの面積(23km2)を持つ島で、大部分が平坦ですから 飛行場を作れます。
とは言うものの、グアム島(549km2)はもとより、戦前から日本軍の航空基地が作られ、1944年11月以降は B29による日本本土空襲の基地になった マリアナ諸島のテニアン島(101km2)と比べても ずっと小さな島です。
水源に乏しい火山島で、大規模基地建設には制約があるものの、日本軍にとっては、本土空襲に向う B29を監視する早期警戒、迎撃基地として軍事的価値がある 不沈空母でした。米軍にとっても、不時着飛行場を確保し、護衛戦闘機基地としても使える有用な島です。

1945年(昭和20年)2月19日、硫黄島に米軍が上陸し、国内最初の地上戦が開始されました。
守る日本軍は2万人余でしたが、飢えと病気で実動兵力は半分だったとか。
これに対して、上陸する米国の海兵隊は6万人余と圧倒的多数。火力で支援し、補給を担当した海軍は 22万人。
とにかく、人口 1000人余であった小島での、日米両軍合せて8万人余の激戦により、合計4万人を越す 戦死戦傷者を出すという異常事態が、約1ヶ月にわたり繰り広げられました。

敗戦後の占領軍の手に渡った小笠原からは、軍事要員も含めてすべての日本人が引揚げたので、小笠原在住の(日本人)人口はゼロになりました。しかし、小笠原支庁及び各村役場の行政組織は、昭和27年まで残されていました。小笠原村沿革

戦前の小笠原5村が正式に廃止されたのは、米国による暫定統治権を認めた 日本国との平和条約(サンフランシスコ条約) 第3条が発効した昭和27年4月28日でした。
この出来事は、変遷情報に記録しておく必要があるのではないでしょうか? >88さん
【付言】
同じ条約第3条に記された「北緯29度以南の南西諸島」(該当地域は奄美と沖縄)については、現地にそれなりの行政組織ができているので、平和条約を機に小笠原で行なわれたような 戦前行政組織の形式的廃止処分はなかったものと推察します。
変遷情報沖縄県には、1952年4月28日~1972年5月15日(沖縄返還)の期間の変遷も、日本本土並みに記録されています。

ついでに、復帰時の情報 に記された“参加自治体:父島, 母島, 硫黄島”について。
奄美や沖縄と違って、復帰前の小笠原には、現地の自治体(行政組織)は存在しなかったので、この場合は“参加区域:小笠原諸島”と読み替えるのが妥当と思われます。島を列挙するならば、(住民ゼロの硫黄島だけでなく)南鳥島や沖ノ鳥島をも含ませる必要があります。

最初にリンクした小笠原諸島の人口推移グラフに戻ると、昭和21年の人口 129人となっています。
これは、敗戦の翌年10月に「欧米系」島民が、占領下の父島に帰島することが許されたためです。
父島・母島の人口は、本土復帰の昭和43年末に285人。その後増えてきましたが、戦前の半分にとどまっています。

戦前に 1000人が住んでいた硫黄島は、土地が戦争で荒廃しただけでなく、火山活動や水源不足が厳しいから産業が成立し難く、一般住民の定住は困難 とされました(小笠原諸島振興審議会1984)。
最大で年間 30cmにも達する 土地の隆起。火山活動が続く不安定な大地では、旧島民も帰島することができません。

硫黄島の基地 は、かつてロラン局運用のため、米国沿岸警備隊が駐在していました。GPSができた現在、ロラン局は廃止されて 海上自衛隊の基地になっていますが、各施設には種々の地熱対策を講じているとのことで、やはり厳しい環境を思わせます。
硫黄島には自衛隊基地関係者が駐在しており、飛行訓練だけでなく、小笠原村から本土への救急患者搬送も行っています。

現在は完全な無人島ですが、戦前は 北硫黄島 に石野村と西村の2集落があり、明治37年の人口は 156人に達しました。行政的には、硫黄島村の所属でなく、小笠原支庁直轄。硫黄島歴史年表

それだけでなく、なんと8世紀~15・16世紀頃に残されたと見られる遺跡が 1991年の調査で発見されています。 発掘された小笠原の歴史 18~29コマ
小笠原貞頼伝説[78720]より前の住民登場ですが、本土の文化圏と違うようなので、日本人と言えるかどうか?

[79238]で「手つかずの自然」と紹介した南硫黄島ですが、実はこの島に住んだ人が居たようです。硫黄島陥落後に上陸した米軍が1名の日本人を発見。漂着漁船員と自称したが、実は搭乗機が撃墜された海軍兵曹だったとか。出典

最後に、日本最東端の南鳥島(マーカス島)。
資料 によると、明治31年内務省令等により日本領土になったようですが、近代デジタルライブラリー未確認。
水谷新六などにより、民間ベースで数十人規模の入植事業が行なわれたようです。1902年(明治35年)には、米国との領有権争いが心配されたが、後の日米間協議で、改めて日本領と認定。入植は結局のところ失敗し、1928年民間人は撤収。

戦時中は、南鳥島にも 2000人以上の兵力が居たようです。現在は気象庁の観測所と海上自衛隊の職員とが30数人常駐。
[85081] 2014年 2月 10日(月)15:14:00hmt さん
変遷情報の「変更種別」(6)小笠原の事例を考える
[85063] グリグリさん
【小笠原5村廃止】の変更種別については「廃止」が妥当でしょうか。

[79266]では“正式に廃止”と書き、[79773]では それを引用しながらも、タイトルで“形式的には 1952年”と付け加えました。
そのように記した理由は、[79266] でリンクした 小笠原村沿革 昭和27年(1952)の下記記載を考慮した上のことです。
対日平和条約の発効により、小笠原支庁及び各村役場が廃止される。

わざわざ“各村役場が廃止”と書いてあります。
「廃止」であることには 相違ないのですが、“村の廃止”と“村役場の廃止”とは同じなのか?
私は、“村役場の廃止”は “村の廃止”に関係する一連の事実の中で 最後に実行された行為であり、これにより“村の廃止”が手続上でも完了した と理解しました。

従って、市区町村変遷履歴情報 東京都一覧の各項目に、次のように「廃止」と記録することに賛成します。
変更年月日:1952(S27).4.28  変更種別:廃止  自治体名:大村  

1940年に大村と同時に設置された扇村袋沢村、北村、沖村、硫黄島村についても同様です。

付言1 変更種別:廃止 について
これは、変更種別の詳細説明 になかった新種だと思います。しかし、「分村編入の結果としての廃止」事例が 多数存在するようなので【別記事を予定】、どっちみち変更種別に加える必要があると思っています。

付言2 5村役場と同日付の小笠原支庁廃止情報について。
北海道以外の「支庁」変遷情報は、でるでるさん[71480][72866]により、暫定的ではあるが 収録対象外とされています。この方針に変更がなければ、平和条約発効時 1952年の小笠原支庁廃止情報は 無視てよいと思います。

本論に戻ります。
5村廃止日は、昭和27年(1952)4月28日です。これは、サンフランシスコ平和条約の発効日で、この条約第3条により 日本は米国による暫定統治権を認めました。その結果、存在根拠がなくなった5村が廃止されたのです。

建前としては こういうことなのですが、どうも すっきりしません。
形式的には【東京都庁内?に】名目上存在していた「村役場の廃止」により、村の廃止が完成した。
しかし、事実上の5村廃止は、島に実在した 村落共同体が失われた その時点ではなかったのか?
このようなことを考えると、三宅島の全島避難は? 原発事故の結果、現在も続いている福島県における全町避難は? 北方領土6村 の扱いは? と疑問が湧いてきます。
何れも、「一時的な異常事態」であるから、変遷履歴の対象とはしない。これが建前なのでしょう。

5村の共同体が失われたのは、大戦末期の 昭和19年(1944)でした。
この年8月4日に父島が大空襲【注】を受けた後で、一般住民 6886人は 内地に強制疎開させられたのでした[79266]
【注】(パパ)ブッシュ中尉が従軍[56162]

私見ですが、この変遷情報には「公式の5村廃止」だけでなく、もっと血の通った変遷履歴を記録しておきたいものだと考えています。
具体的には、上記[79266]のリンクなどにより、事実上の5村廃止を記録に残すとか、父島・母島4村の位置とかも記録しておきたいと思っています。大村:父島北部と兄島等の離島、扇村袋澤村:父島南部、沖村:母島南部と離島、北村:母島北部。

返還に伴う 1968年の 小笠原村設置は、既に 変遷情報 に記録されています。
そこでは、変更種別: 村制 となっているのですが、村長も村議会もない設置当初の小笠原村には、「村制」つまり「村の自治制度」に値するものは 存在しなかった と考えます。「村制」に代えて単なる「設置」にとどめておくのは、いかがでしょうか。

そういえば、従来の変更種別には「設置」もなく、「設置」と同類の「新設」が新設合併の意味に限定して使われていました。

1968年の記録では、「変更対象自治体名/変更内容」が父島, 母島, 硫黄島となっている点にも疑問があります[79266]
この3島は 既存の自治体ではないので、島名【というよりも列島名】を列挙して小笠原村が設置された地域を示したものと理解されます。しかし、それならば、聟島列島,南鳥島,沖ノ鳥島が記されていないのは片手落ちと思います。

そして、村長と村議会議員との選挙が行なわれ、本当の「変更種別 村制」が実現した 1979年4月22日。
現在は、1968年の記録 詳細欄の末尾に書き加えられているだけですが、これは独立の変遷履歴として記録すべきではないでしょうか。
[85082] 2014年 2月 10日(月)23:12:14hmt さん
変遷情報の「変更種別」(7)小笠原の事例を考える・続編
[85081]を書いた後で、「別の見方」の可能性を再考した結果です。

[85063] グリグリさん
【小笠原5村廃止】の変更種別については「廃止」が妥当でしょうか。

昭和27年(1952)・ 平和条約発効時に廃止されたのは、あくまでも「5村の役場」です。
「村自体の廃止」ではない かもしれません。
確かに、統治権が米国になったので、日本側の役場を置く根拠は失われました。
しかし、潜在主権[56304][56322]を認められた日本の「東京都に属する小笠原諸島の区域」【注】内には、「5村の区域」が残っていました。
【注】
例えば、小笠原諸島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律(S43-83)第18条[53386]参照

もっとも、区域と名称だけが残っていても、肝心の 地域住民共同体 が失われた5村を、「村」と言って良いものか?

その点、日本の行政機構は失われたが、地域住民共同体は継続していた 米軍統治下の沖縄 の村とは 大違いです。
上記の暫定措置法第19条にも、“旧大村、旧扇村袋沢村、旧沖村、旧北村又は旧硫黄島村に属していた権利義務は、小笠原村に帰属する。”と記されています。

米国統治下でも沖縄県は存続していました[56304]
しかし、住民が完全に居なくなった小笠原では、沖縄と訳が違い、完全なリセットでした。
頭に「旧」という字を付けられた5村は、やはり 役場の廃止と共に 「廃止」されたのでしょう。

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