世界「自然」遺産の小笠原ですが、やはり、この地と関わった人々抜きでは語れません。
2005年国勢調査人口は 男 1689人 + 女 1034人 = 2723人。2010年速報値は 60人増加の2783人。
ところが、
2006年4月1日の住民基本台帳人口 (2コマ)は 男1308人 + 女1028人 = 2336人 であり、小笠原で国勢調査の対象になった男子は、登録住民と比べて、著しく多かったことがわかります。
小笠原村の人口構成は、男女比 1.63で、65歳以上人口の割合が 全市区町村中最低(8.5%)と 特殊なものです。
台帳ベースの男女比でさえ 約1.3であり、公務従事者や一時的な作業従事者が多く、転入・転出割合が高いことが特徴とされています。実際に住んでいても 転居手続きをしていない人々が かなり多数存在することを思わせます。
現在小笠原に定住している人々のうち、最古のルーツを持つのは、いわゆる「欧米系」島民です。
明治8年(1875)の「再回収」
[78654]で 日本への帰属を了承し、明治15年には全員が帰化したとはいうものの、ハワイからの 1830年移民団
[78654](ポリネシア人が多数)の子孫そのままではありません。
島を去った人もあれば、新たに加わった人もおり、世代交代を重ねて、かつて 40人程度を維持していた多国籍型出自の社会は、1946年に帰島を果した時には 約130人になっていました。
幕末の小笠原回収
[78725]の結果、八丈島からの移民 38人が朝陽丸で送り込まれたものの、すぐに中断。明治丸による再回収(1875)の翌年には国際的にも日本の領有権が確立し、内務省直轄を経て 明治13年(1880)に「東京府移管」という「本国化」の形を整えました
[78654]。
小笠原諸島のあらまし 4/4に「小笠原諸島の人口推移」というグラフがあります。それによると、明治15年に 531人だった人口は、明治33年(1900)には既に 5550人、現在の2倍に急増しています。その後の増減はあるものの、第二次大戦までの間、おおむね数千人の人口を維持し、昭和15年(1940)の
町村制施行 に至りました。
硫黄島開拓も、硫黄採取目的の渡航(1889)に始まり、平坦な地形と地熱を利用した農業も盛んに行なわれ、天水が頼りの暮しながらも 1000人を越す人口を抱える村になり
[56162]、父島・母島の各2村と同時に
硫黄島村 も誕生しました。
人々の暮しを一変させたのは、第二次大戦です。
第一次大戦に登場した飛行機は、大正から昭和へと次第に発達し、東京から 1000kmの太平洋上にある小笠原も、我が国の最前線として、国防上重要な拠点と認識されてきました。
要塞地帯に指定された小笠原には、多数の軍事要員が配置されて 陣地を作りました。例えば『小笠原学ことはじめ』p.98には、昭和16年頃の兄島に 600人近くの兵隊が居たとありましたが、軍人を含めて膨れ上がった小笠原の総人口は不明です。
大戦末期の昭和19年(1944)になると、8月4日に父島が大空襲を受け、一般住民 6886人は内地に強制疎開となりました。
残留した軍属 825人を合わせると 人口は 7711人であった計算で、これが前記人口推移グラフのピーク、小笠原群島(父島・母島) 6457人、硫黄島・北硫黄島・南鳥島 1254人の合計数と合います。
小笠原群島への空襲や艦砲射撃攻撃よりも更に激しい戦いが行なわれたのが硫黄島です。
硫黄島は父島・母島クラスの面積(23km2)を持つ島で、大部分が平坦ですから 飛行場を作れます。
とは言うものの、グアム島(549km2)はもとより、戦前から日本軍の航空基地が作られ、1944年11月以降は B29による日本本土空襲の基地になった マリアナ諸島のテニアン島(101km2)と比べても ずっと小さな島です。
水源に乏しい火山島で、大規模基地建設には制約があるものの、日本軍にとっては、本土空襲に向う B29を監視する早期警戒、迎撃基地として軍事的価値がある 不沈空母でした。米軍にとっても、不時着飛行場を確保し、護衛戦闘機基地としても使える有用な島です。
1945年(昭和20年)2月19日、硫黄島に米軍が上陸し、国内最初の地上戦が開始されました。
守る日本軍は2万人余でしたが、飢えと病気で実動兵力は半分だったとか。
これに対して、上陸する米国の海兵隊は6万人余と圧倒的多数。火力で支援し、補給を担当した海軍は 22万人。
とにかく、人口 1000人余であった小島での、日米両軍合せて8万人余の激戦により、合計4万人を越す 戦死戦傷者を出すという異常事態が、約1ヶ月にわたり繰り広げられました。
敗戦後の占領軍の手に渡った小笠原からは、軍事要員も含めてすべての日本人が引揚げたので、小笠原在住の(日本人)人口はゼロになりました。しかし、小笠原支庁及び各村役場の行政組織は、昭和27年まで残されていました。
小笠原村沿革
戦前の小笠原5村が正式に廃止されたのは、米国による暫定統治権を認めた
日本国との平和条約(サンフランシスコ条約) 第3条が発効した昭和27年4月28日でした。
この出来事は、変遷情報に記録しておく必要があるのではないでしょうか? >88さん
【付言】
同じ条約第3条に記された「北緯29度以南の南西諸島」(該当地域は奄美と沖縄)については、現地にそれなりの行政組織ができているので、平和条約を機に小笠原で行なわれたような 戦前行政組織の形式的廃止処分はなかったものと推察します。
変遷情報沖縄県には、1952年4月28日~1972年5月15日(沖縄返還)の期間の変遷も、日本本土並みに記録されています。
ついでに、
復帰時の情報 に記された“参加自治体:父島, 母島, 硫黄島”について。
奄美や沖縄と違って、復帰前の小笠原には、現地の自治体(行政組織)は存在しなかったので、この場合は“参加区域:小笠原諸島”と読み替えるのが妥当と思われます。島を列挙するならば、(住民ゼロの硫黄島だけでなく)南鳥島や沖ノ鳥島をも含ませる必要があります。
最初にリンクした小笠原諸島の人口推移グラフに戻ると、昭和21年の人口 129人となっています。
これは、敗戦の翌年10月に「欧米系」島民が、占領下の父島に帰島することが許されたためです。
父島・母島の人口は、本土復帰の昭和43年末に285人。その後増えてきましたが、戦前の半分にとどまっています。
戦前に 1000人が住んでいた硫黄島は、土地が戦争で荒廃しただけでなく、火山活動や水源不足が厳しいから産業が成立し難く、一般住民の定住は困難 とされました(小笠原諸島振興審議会1984)。
最大で年間 30cmにも達する 土地の隆起。火山活動が続く不安定な大地では、旧島民も帰島することができません。
硫黄島の基地 は、かつてロラン局運用のため、米国沿岸警備隊が駐在していました。GPSができた現在、ロラン局は廃止されて 海上自衛隊の基地になっていますが、各施設には種々の地熱対策を講じているとのことで、やはり厳しい環境を思わせます。
硫黄島には自衛隊基地関係者が駐在しており、飛行訓練だけでなく、小笠原村から本土への救急患者搬送も行っています。
現在は完全な無人島ですが、戦前は
北硫黄島 に石野村と西村の2集落があり、明治37年の人口は 156人に達しました。行政的には、硫黄島村の所属でなく、小笠原支庁直轄。
硫黄島歴史年表
それだけでなく、なんと8世紀~15・16世紀頃に残されたと見られる遺跡が 1991年の調査で発見されています。
発掘された小笠原の歴史 18~29コマ
小笠原貞頼伝説
[78720]より前の住民登場ですが、本土の文化圏と違うようなので、日本人と言えるかどうか?
[79238]で「手つかずの自然」と紹介した南硫黄島ですが、実はこの島に住んだ人が居たようです。硫黄島陥落後に上陸した米軍が1名の日本人を発見。漂着漁船員と自称したが、実は搭乗機が撃墜された海軍兵曹だったとか。
出典
最後に、日本最東端の南鳥島(マーカス島)。
資料 によると、明治31年内務省令等により日本領土になったようですが、近代デジタルライブラリー未確認。
水谷新六などにより、民間ベースで数十人規模の入植事業が行なわれたようです。1902年(明治35年)には、米国との領有権争いが心配されたが、後の日米間協議で、改めて日本領と認定。入植は結局のところ失敗し、1928年民間人は撤収。
戦時中は、南鳥島にも 2000人以上の兵力が居たようです。現在は気象庁の観測所と海上自衛隊の職員とが30数人常駐。