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okiさんの記事が30件見つかりました

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記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[77613]2011年2月7日
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[77607]2011年2月6日
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[77598]2011年2月5日
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[77589]2011年2月4日
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[77579]2011年2月2日
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[77557]2011年1月30日
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[77486]2011年1月19日
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[77128]2010年12月28日
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[77123]2010年12月27日
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[77115]2010年12月26日
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[77106]2010年12月26日
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[77088]2010年12月23日
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[77020]2010年12月12日
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[77010]2010年12月11日
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[76927]2010年11月29日
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[76809]2010年11月18日
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[76729]2010年11月10日
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[76694]2010年11月7日
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[76678]2010年11月6日
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[76674]2010年11月6日
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[76668]2010年11月5日
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[76667]2010年11月5日
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[76662]2010年11月5日
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[76661]2010年11月5日
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[76637]2010年11月3日
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[76610]2010年11月3日
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[76601]2010年11月2日
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[76579]2010年11月1日
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[76574]2010年10月31日
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[76429]2010年10月23日
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[77613] 2011年 2月 7日(月)22:02:40oki さん
役所前の駅
ところで駅に一番近い市役所・町村役場・特別区の区役所(本庁舎、またはメインの役場所在地)ってどこなんでしょう?

私が知る限りでもっとも役所に近いのは、その名も「板橋区役所前」駅。都営三田線の駅出口が板橋区役所に直結しています。
また、都営大江戸線「春日」駅も、文京区役所に直結する出口を持っています。この距離になると、どちらが近いかは定義によっても異なるでしょうが(駅と役所の中心点間の距離か、もっとも近接する部分間の距離か、など)、文京区役所の方に若干分がある、かな?

この種のものは、鉄道駅の多い大都市の方が有利でしょうね。
[77607] 2011年 2月 6日(日)15:29:03oki さん
電子国土基本図(は使えない)
今日は、休日だというのに朝からお仕事。少し飽きてきたので、軽く書き込みを。

[77603] hmt さん
国土地理院の発表 によると、2月1日から、「電子国土基本図(地図情報)」が正式公開の運びになったとのことです。

「電子国土」や「基盤地図情報」は、提供された当初から興味を持って見てきましたが、現時点での評価は「使えない」の一言です。

「電子国土」の利用法には、「基盤地図情報」をGISのデータとして使用する場合と、「電子国土ポータル」を「紙の1/25000地形図」の代替となる閲覧可能地図として利用する場合の二つが考えられます。
まずデータとしての「基盤地図情報」ですが、その大半はGISデータとしては使えません。大きな理由は、そのフォーマットと仕様にあります。「基盤地図情報」のファイルフォーマットは「JPGIS」と呼ばれるXMLファイルですが、極端に冗長な構成を取っており、ファイルサイズが巨大になります。たとえば、地図上の3点を結ぶ線分を示すのに、20行もの記述が必要になります。1つの点(経緯度)を示すのに、次のような5行を費やし、その他ヘッダを入れると3点で20行が必要です。
<jps:column>
<jps:direct>
<jps:coordinate>36.40388495 139.610253106</jps:coordinate>
</jps:direct>
</jps:column>
行政区域、鉄道、道路など、あらゆる地物についてこれをやるのですから、ファイルサイズは馬鹿馬鹿しいほど大きくなります。
しかも、ArcGISやGRASSなど通常のGISソフトは、このフォーマットのファイルを読めません。JPGISファイルを読めるのは国土地理院が提供する「基盤地図情報閲覧コンバートソフト」だけで、このソフトを使ってGISで一般的な「シェープファイル」に変換する必要があります。この変換の過程で、JPGISが持つ属性情報は失われます。つまり、これだけ冗長な構成を取りながら、変換後に得られるのは、ただの経緯度の連なりだけなのです。
さらに、道路に関しては、基盤地図情報が提供するのは「道路縁」の情報で、「道路中心線」ではありません。もちろん、交差点(他の道路との接続)に関する情報もありません。鉄道の方は、線路の本数だけ情報があります。つまり、複線なら2本、複々線の場合は4本の線路に関する情報です。代わりに、線路と駅との関係に関する情報は得られません。
このような状況なので、基盤地図情報のデータを用いて、GISで重要なネットワーク分析を行うことはできません。特定道路の周辺100mに住んでいる人口を求めるようなバッファ分析もできません。
要は、基盤地図情報はただの白地図、つまり白紙の上の線分情報に過ぎないのです。今までの紙の地図上に描かれていた線分に、経緯度情報を与え、経緯度の連なりとして示したもの、それが基盤地図情報です。それ自体としては必要なものでしょうが、少なくとも、私が期待していたような、GISでの分析に利用できるデータではありません。これなら、以前に提供されていた「数値地図(25000および2500)」の方がよほどマシです。

ただ一つ、基盤地図情報で使えるのは「DEM(標高)データ」です。現在、1/25000地図の等高線を元に作成された全国の「10mメッシュDEM」と、航空レーザスキャナ測量で取得された、都市部を中心とした「5mメッシュDEM」があります。私は、「10mメッシュDEM」をすべてDLし、全国の「赤色立体地図」を作成しました。「赤色立体地図」はこういうもので、従来の段彩図に比べ、地形の凹凸が格段に立体的に把握できます。通常はリンク地図のような赤色の地図なのですが、これに彩色し、「彩色立体地図」と名付けました。この「彩色立体地図」をGoogle Earthに貼付け、その上に「ウォッちず」の地形図を被せて全国の地形を観察するのが、現在の私の大きな楽しみなっています。この点については、「基盤地図情報」とそれを提供する国土地理院に感謝しています。

次に、閲覧できる地図としての「電子国土ポータル」ですが、私にとっては、これも従来の「ウォッちず」の方が上です。
一つの問題は、「電子国土ポータル」の地図表示面があまりに狭いこと。「電子国土ポータル」では、地図の表示枠は画面全体の7~8割程度の面積しかありません。そして私の環境では、地図表示枠のうち右側および下側の1/5の範囲がグレーの空白部分になっています。地図が表示されるのは残りの4/5の範囲です。したがって、地図表示面積は画面の半分にも足りません。何度もプラグインをインストールし直していますが、まったく修正されません。ですので、「電子国土ポータル」は使いません(不思議なことに、「オルソ画像」だと表示枠の全体に地図が表示されるのですけどね)。
で、今回「ウォッちず」の「電子国土基本図」を見てみたのですが、重大な難点があります。1/25000地形図では、大字と小字は文字の大きさで判別可能でしたが、「電子国土基本図」では両者とも同じ大きさで、まったく判別できません。これでは非常に困る。
また、「樹木に囲まれた居住地」の記号がなくなっています。「建物」の記号が従来より淡彩で表示されていることもあり、地方(田園地帯)での集落の状況が非常に分かりにくくなった、というのが正直な感想です。
「ウォッちず」では、1/25000地形図は7月末まで閲覧可能と注記していますが、つまり8月以降は閲覧できなくなると言うことでしょう。そうなるととても困ります。今のうちに、国土地理院から「ウォッちず」のすべての地図画像をDLしローカルで使えるようにしようと、本気で考えているところです。
[77598] 2011年 2月 5日(土)01:31:28oki さん
巻き寿司と海苔巻き など
[77590] Issie さん
河童巻きや鉄火巻きのような細巻きと,でんぶや卵焼きを巻いた太巻きとの間の「中間の巻き寿司」ってのがあるのかしら。

ここの海苔屋さんの説明では、海苔巻きには太巻き、中巻き、細巻きの3種があり、その大きさは次のようになるようです。
太巻き : 海苔を1枚或いはそれ以上使用するため、必要な分の海苔を付け足して使用しています。
中巻き : 海苔を1枚そのまま使用しています。
細巻き : 海苔を横半分(店によっては縦半分)に切って使用しています。

30年以上前の徳島には、細巻きや太巻きは存在せず、私が知っていたのは海苔1枚を使う「巻き寿司」だけでした。これは関東の「中巻き」に当たります。ですので、「通常の巻き寿司より太いのを太巻、細いのを細巻」と思いこんだのですね。

[77595] 右左府 さん
私からしてみれば大豆(食べ物)を撒く(そして処分する)なんて罰が当たる!という感覚で、それに比べて落花生は合理的に感じるのですが……。

落花生の元締めであるこちらの協会のサイトでも
雪の多い地域で使う割合が高いのは、雪の中に撒いた豆を拾うのは落花生の方が楽ですし、後で食べることを考えると殻に入った豆の方が衛生的である等の合理的な理由が伴っていると考えられます。
という記述があります。

ここで疑問があります。
大豆を撒く場合、拾って食べるのは外から家の中に向かって投げた豆で、外に撒いた豆は食べません。外の豆は、土(またはアスファルト・雪など)の上に転がっている、と言うこともありますが、そもそも鬼を払うために撒いた豆なので食べる対象ではない、と考えていました。家の中の豆は、「福は内」で入ってきた豆で縁起が良いから食べるのだと思っていたのですが。
落花生節分地域では、鬼を払うために撒いた落花生も、食べる対象にするのでしょうか?

外に落ちている豆は、しばらく放っておけば、季節柄エサ不足に悩んでいる野鳥が飛んで来て片付けてくれるので、別に食べ物を無駄にすることでもないと思うのですが、いかがでしょう。
[77589] 2011年 2月 4日(金)09:41:09oki さん
巻き寿司
[77588] 白桃 さん
節分で「巻きずし」を丸かじりをしたかもしれませんが、覚えてないなぁ~。なんせ50年も前だし、あの頃しょっちゅう「巻きずし」食べてたから・・・。

私も、徳島にいた頃は「巻きずし」を結構食べました。その時代の巻き寿司は、花祭りとか、端午の節句とか、秋祭りとか、学校の遠足などという、ちょっとしたハレの日の食べ物で、しかも店で買うものではなく、自宅でつくるものでした(稲荷ずしと一緒につくることが多かったですね)。目の前でクルクルと巻き上がるのが、とても待ち遠しかった思い出があります。

東京に出てきた頃は、お店に太巻と細巻しか並んでいないのを見て、通常の巻き寿司より太いのを太巻、細いのを細巻と呼ぶのだと思いこんでいました。

節分は、豆を撒く以外は普通の日と同じなので、巻き寿司を食べた記憶はまったくありません。まして恵方巻きなどというものは見たことも聞いたこともない。徳島は文化的には関西圏の一部ですから、恵方巻きは関西圏でも一部の地域で、それも戦後のかなり遅い時期から始まった風習ではないでしょうか。
恵方巻きの概要については、ここにある「食卓の縁起に関する研究」と称する論文が、比較的良くまとまっています。
[77579] 2011年 2月 2日(水)11:51:41oki さん
0.1.1.0.0.0=305
[77576] にまん さん
[77573] ぺとぺと さん

気になったので、「0.1.1.0.0.0」の並びになる町域を抽出したところ、全国で305ヶ所ありました(現在参照しているのは、2010年4月30日付のデータです)。煩雑なので全部は示しませんが、以下のような市に多数存在します。
豊川市(55ヶ所)、山形市(24)、弘前市(21)いわき市(12)、亀岡市(11)、盛岡市(10)。

実際の状況を検証したところ、青森市幸畑、弘前市大清水、金沢市浅野本町、徳島市南二軒屋町では、[77576] でにまん さんが指摘されたように、「町域の一部だけに「丁目」が置かれていて、かつ番地が小字起番の場合」でした。
しかし、横浜市港北区高田西、豊川市西香ノ木町などのように、丁目地域だけが存在し、小字起番の番地地域は存在しないところもあります。該当する市町村は東北、愛知など小字起番地域に多く存在するので、以前は町域の一部だけに丁目が置かれていて現在は全域に丁目が設定されたものの、郵便番号簿の内容が修正されていない、と言うことかもしれません。
ただ、にまん さんが挙げられた4地域については、吉川市保・木売=0.0.0.0.0.0(小字起番でなく丁目もない)、三郷市上口・番匠免=0.0.1.0.0.0(小字起番でないが丁目はある)なので、一体どうなっているのか、と思いますね。
[77488] で88 さん が仰っているように、「私が地元香川県を見た限りでも「一町域」や地番区域については正確ではなく、精査は必要です。」と考えた方が良さそうです。

と言うことなので、[77570] 千本桜 さん 「栗原市築館芋埣の謎」は、郵便番号簿の誤記、と考えるのが妥当だと思います。
ところで、興味を持たれると思いますので、小字まで含めた全国の住所データを一覧できる資料をご紹介したいと思います。「自動車登録関係コード検索システム」という、国土交通省が運用しているサイトなのですが、ここに運輸局ごとの住所ファイルがあり、小字起番地域については、小字までの住所が掲載されています。
PDFファイルなのでデータの加工・分析が難しい、丁目に関する情報がない、ネット地図の小字情報と必ずしも一致しない、といった欠点もありますが、全国レベルで小字を一覧できる資料はあまりないと思われるので、ご覧になられてはいかがでしょうか。
[77557] 2011年 1月 30日(日)17:19:44oki さん
さらに、小字について
[77547] 千本桜 さん
なぜ「大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれると小字が大字扱いになってしまう」と考えておられるのか不思議でした。
私の記述が舌足らずであったため、誤解を招いてしまったようです。
正確に表現すると、「小字が大字扱いになってしまう」ではなく、[77486]の表で「大字」としてある地域のうちには、大字が分解された小字も含まれる、とすべきでした。小字が大字になったと考えているわけではありません。
[77486]で意図したのは、小字起番の地域が地理的に極端に偏っていること、したがって、mapionなどのネット上の地図で検索する場合も、抽出される小字地名が特定の県に偏在すること、を示すことでした。その点さえ理解してもらえばいいので、データの詳細な正確性にはこだわっていませんでした。
資料として郵便番号簿を使ったのは、小字起番の地域を簡単に抽出できる資料がそれしかないからで、このデータに、千本桜 さんがご指摘されたような欠陥があることは承知の上です。
ただ、[77486]で私が使った「大字」という用語は、明らかに誤解を招く表現です。正確には「市区町村の直下の地域区分」であり、それには近世村に由来する大字のほか、城下町等の町に由来する町、明治以降に新たにつくられた町、そして大字が分解された結果市区町村の直下に位置することになった小字、などが含まれています。
スペースが限られる表頭部分に、「市区町村の直下の地域区分」などという長たらしい表示をしたくなかったので単純に「大字」と表現したのですが、以上の説明を丁寧にしておくべきでした。誤解を与えてしまい申し訳ありません。

宮城県の大字数が2848個というのは納得できません。この数字は大字の他に住居表示実施で発生した町と多数の小字を含んでいるはずです。
住居表示された丁目地名は小字起番があり得ないので除去しているとのことですが、丁目がない住居表示済みの町も同様に扱うべきだと思います。
これも、千本桜 さんの意見は正論です。
ただ、「住居表示された丁目地名」は、郵便番号簿から簡単に分かるのですが、「丁目がない住居表示済みの町」を機械的操作によって知る方法はありません。つまり、その地域区分が「丁目がない住居表示済みの町」であるかどうかを確認するためには、10万件近い地名について、その住居表示適用の有無をチェックする必要があります。それには相当の手間と時間がかかるはずで、[77486]でお示ししたデータについては、そこまでの時間を費やしていません。
また、「大字」として示した中に多数の「小字」が含まれるのは先にも示したとおりですが、これも機械的に判別する方法がなく、いちいち確認する必要があります。徳島県内や宮城県の一部については事前に知っていたのですが、東北地方の他の県などの実情はよく分かりません。で、詳しくは調べずに、「大字が分解された小字の存在を考慮すると、小字起番率はさらに高まる」という注釈を入れておいたのですが、こちらも誤解を招いたようです。

今後は、できるだけ誤解を招かない表現、説明をするようにいたしますので、ご容赦ください。

-----------------------------------------------------------------------------------
と言うだけでは言い訳ばかりになってしまうので、大字・小字に関係する別のデータをご紹介しておきます。
基礎とした資料は「数値地図25000(地名・公共施設)」です。これは、25000分の1地形図(全部で4000枚以上あるはずですが)に記載されている地名等の注記約47万件のデータベースです。上記のサイトによると、2002年4月刊行の世界測地系に基づく版もあるようですが、私が持っているのは2000年1月発行の日本測地系版です(定価で買うと7500円なのですが、ヤフオクで1000円で入手しました)。当然、2000年もしくはそれ以前のデータです。
このデータでは、約47万件の注記のうち居住地名が約30万件あり、それが次の3つに区分されています。
・総称する名称~580件
・包括する名称(大字及び住居表示)~141,574件
・個々の名称(字及び通称)~153,025件

とりあえず、「総称する名称」は無視し、「大字及び住居表示」と「字及び通称」の件数を都府県別に集計したのが次の表です。

大字及び住居表示字及び通称「字及び通称」比率
03岩手県1771769394640.81
45宮崎県1150397251220.78
07福島県300910342133510.77
37香川県885271435990.75
46鹿児島県1828542872560.75
32島根県1496413356290.73
36徳島県963263535980.73
05秋田県1707456962760.73
44大分県1929498569140.72
20長野県2362580681680.71
41佐賀県979235933380.71
35山口県1955461965740.70
04宮城県2445575281970.70
33岡山県2916676796830.70
43熊本県2342536377050.70
39高知県1810327650860.64
38愛媛県2138382159590.64
10群馬県1937328852250.63
34広島県3479555990380.62
09栃木県2377372861050.61
42長崎県2022289249140.59
08茨城県3654513587890.58
02青森県1995263446290.57
06山形県2245293251770.57
19山梨県1138148026180.57
21岐阜県2759316059190.53
30和歌山県1576175533310.53
40福岡県4963464796100.48
22静岡県3521321967400.48
31鳥取県1483123427170.45
24三重県2745227850230.45
12千葉県5392388192730.42
47沖縄県97067916490.41
11埼玉県4857312779840.39
26京都府181686126770.32
15新潟県5360224376030.30
01北海道130915549186400.30
14神奈川県4092145555470.26
23愛知県7188248096680.26
17石川県222564328680.22
29奈良県215962327820.22
28兵庫県7778172595030.18
25滋賀県201436523790.15
13東京都508452956130.09
18福井県222820624340.08
16富山県259123228230.08
27大阪府715025274020.03
上記計1318331525412843740.54
(「字及び通称」比率=「字及び通称」/(「大字及び住居表示+「字及び通称」))

「大字及び住居表示」には、大字地名のほか○○×丁目などが個別に、つまり○○1~5丁目は5つの地名として、含まれています。一方、「字及び通称」は大字の下位地名で、小字のほかいわゆる「通称」と称するものが含まれています。大字起番地域では大半が通称ですが、小字起番地域でも、通称が記載されている場合があると思われます。
また、このデータには重大な欠陥があります。25000分の1地形図の注記をそのままデータ化したものなので、地形図の端に位置する地名は、複数の地名図にまたがって記載されます。最大で4つの地形図に記載され、4回カウントされている地名があります。このような地名がどのくらいの割合にのぼるかはよく分かりません(スクリプトを書いて重複データを除去することは、ある程度まで可能ですが、そこまでやっていません)。
以上のような性格のデータだということを念頭に置いて見ていただきたいのですが、全国には大字等の地名が約13万件、小字・通称が15万件程度あることが分かります(先の欠陥のため、実際の地名数はこれより少なくなります)。
また、「字及び通称」比率が高い県には、小字起番地域である東北各県や徳島県のほかに、九州各県や香川県、島根県などがあがっています。一方、「字及び通称」比率が低い地域として、住居表示実施率の高い東京、大阪などの大都市があがっているのは当然として、福井、石川、富山の北陸各県、および奈良、兵庫、滋賀県といったかつての畿内近国地域が目につきます。
どうしてそのような結果になるかについては、地域による近世村の構造の違いが影響していると考えられ、仮説も持っているのですが、その紹介は今後の書き込みで行いたいと思います。

夕方になったから、今日の夕食の「おでん」を作らないといけないのですよ。
[77486] 2011年 1月 19日(水)16:36:54oki さん
再び、小字について
遅くなりましたが、今年もよろしくお願いいたします。

[77484] hmt さん
[77481]のリストを見ると、愛知県など特定の地域に 字名らしきハサマが目立ちますが、同様に 多数の字名を抱えている市町村があるとすると、日本中の地名の数は 驚くべきものになりそうです。

「大和地名大辞典」では、奈良県における小字地名の数が10万ほどだった、と言うのを読んだことがあります。北海道と沖縄を除く45都府県に同程度の小字があるとすると、全国の地名の数は450万ほど、と言うことになります。
こちらの「小字データベース」を見ても、奈良平野が条里制に由来する方形の小字で埋め尽くされていることが分かります。

ただし、これらの小字の多くは、現在のネット上の地図では検索できないと思います。前にも[74206]で触れたことがありますが、ネット上の地図では、小字単位で番地が設定されている(小字起番)地域の小字は検索されますが、大字起番地域の小字は検索できないからです。たとえば、先の小字データベースでは、御所市蛇穴に垣内、車ノ本など数十の小字があることが分かりますが、Mapionの住所一覧検索には御所市蛇穴について4~750番地が記載されているだけで、小字は一切ありません。もちろん、御所市蛇穴字垣内で検索しても出てこないし、地図上に表示されることもありません
一方、[77423] 油天神山 さん の「一宮市千秋町佐野工高前」は小字起番の小字なので(1~69番地があるようです)、検索できるし、地図上にも表示されます。
また、[77481] 油天神山 さん 「豊田市大蔵町(柳ハザマ)」は、4番地と12番地しかないようで、検索はできるものの地図表示はされません。

では、小字起番の地域はどのように分布しているのか。
日本郵便は、ほぼ毎月、全国の郵便番号簿を改定しており、ネット上からダウンロードできます。この郵便番号簿には、「小字毎に番地が起番」という欄があり、これをチェックすることで、全国の大字地域について、それが小字起番かどうかを確認することができます。昨年の2月くらいに、これを使って小字起番地域の分布を調べた結果が以下の表です。

都道府県名大字数小字起番小字起番率
青森県2244112049.9
秋田県206499348.1
福島県3711170045.8
山形県167964838.6
岩手県175960934.6
徳島県131940230.5
愛知県4699127727.2
宮城県284877327.1
石川県230029212.7
京都府65754747.2
兵庫県41261132.7
静岡県2597501.9
三重県2276421.8
岐阜県2356361.5
島根県1153151.3
熊本県169170.4
長野県149250.3
山口県62220.3
群馬県141040.3
香川県144840.3
新潟県161340.2
富山県478480.2
広島県308050.2
鳥取県131420.2
大阪府67610.1
奈良県164820.1
滋賀県162810.1
栃木県170610.1
宮崎県177810.1
北海道251510
千葉県542620
茨城県289610
福岡県168400
埼玉県130200
福井県200900
岡山県147200
長崎県200800
大分県71600
高知県159700
愛媛県81600
和歌山県218400
鹿児島県87900
神奈川県136200
山梨県178100
佐賀県59600
沖縄県227300
東京都146700
合計9957985958.6

以上で、大字とは市町村の直下にある地名で、多くの場合江戸時代の近世村ですが、そうでない場合もあります(住居表示された丁目地名やビル名は、小字起番があり得ないので除去してあります)。
全国で約10万の大字地名があるうち、小字起番なのは8595で8.6%です。地理的分布はきわめて偏っており、青森、秋田、福島県では半数の大字が小字起番で、ほかの東北各県も高率、徳島、愛知、石川各県も10%を越えています。
しかし、小字起番が多い県は少なく、1%未満が熊本など30県以上、北海道以下の18県は小字起番の大字が皆無です。
なお、徳島や宮城は小字起番の割合が30%程度になっていますが、これらの県では大字が分解されてかつての小字が市町村の直下に組み込まれる事例が少なくなく、この場合は小字が大字扱いになってしまいます。これを本来の小字と考えると、小字起番の比率はさらに高まります(他の県でも同様の事例があるかもしれませんが確認していません)。

いずれにせよ、現在のネット上の地図で検索される小字は、上に示した県に所在するものに偏ってしまうと思われます。地名コレクションで収集する地名にこのような偏在を許容するかどうかは、検討した方がよいかもしれません。
現実問題として、大字起番地域にどのような小字地名があるのかを調べるのは、非常に難しいことだとは思いますが。
[77128] 2010年 12月 28日(火)09:39:02oki さん
延長18回
[77120]ペーロケ さん
最後に、坂東英二って名古屋ではヒーローなんですね~(笑)。ローカル番組にかなりの頻度でお見かけしました。

板東英二氏は、今では(お笑い系)タレントと見られているみたいで、中日ドラゴンズの投手であった時代を知る人も少なくなったようです。しかし徳島県民には、甲子園で大活躍した徳島商業のエース、というイメージを持ち続けている人が今でも少なからずいます。魚津高の村椿投手を相手に18回を投げ抜き、翌日の再試合に完投勝利したのは、1958年の甲子園大会準々決勝、もう半世紀も前のことなのですけどね。

[77125] 伊豆之国 さん
この「バンドウ」という苗字。英二氏の故郷・徳島県に非常に多いのですが、私が以前([65687])で書き込んだように
両者の分布は(中略)お互いに入り混じっているようです
分布地域はいずれも吉野川下流地域を中心としているのですが、お互いに重なり合っており、隣同士の市町村でも分布が逆だったりして、混乱してしまいそうです
という状況で、徳島県民でも取り違えが多そうな気がするのですが‥。

「板東」の名字は、もちろん地名がもとになっています。鎌倉時代中期以降、板野郡は板東、板西の両郡に分かれており、その状態は江戸時代初めに再統一されるまで続きました。この板東、板西の郡名が、名字として広まったのだと思います。
伊豆之国 さん が「分布地域はいずれも吉野川下流地域を中心としているのですが」と仰っている吉野川下流地域が、まさしく板野郡です(言うまでもありませんが、鳴門市も旧板野郡です。というより、鳴門市周辺がかつての板東郡)。
ただし、板東郡の時代から坂東と混用しており、「坂」東郡と書かれた史料もたくさんあります。関東を表す「坂東」の語がポピュラーであったため、そちらに引きずられたのでしょう。江戸時代以前はこの種の混用に寛容ですからね。鎌倉時代の阿波守護が、東国出身の小笠原氏だったことも影響したかもしれません。
地名自体が板東と坂東で揺れていたわけで、それが名字にも影響して、「板」東さんと「坂」東さんの両方が存在する現状につながっているのだと思います。

私の同級生には板東くんしかいませんでしたが、坂東くんも同時にいれば、やはり混乱したでしょうね。
[77123] 2010年 12月 27日(月)19:11:18oki さん
西高東低のアーケード
[77120]ペーロケ さん
[77121] Issie さん

[77122] hiroroじゃけぇ さん
都心のアーケード商店街といえば、高松や岡山、倉敷もあてはまります。小さな児島でさえアーケードがあるのですから、当然大都市にはあるものだと思っていました。京都や大阪もしかり、草津もある。徳島や宮崎も記憶に残っています。

こちらのサイトに、「都市のアーケードの成立発展過程」、「アーケードの原型としての『日覆い』の成立発展過程」というページがあり、その中にアーケードに関する論文がいくつかあります。
それらを見ていると、アーケードの分布は西高東低の傾向が非常に強いようです。その要因として、西日本、特に瀬戸内海沿岸地域は夏の日照時間が長いため、商品を日焼けから守る目的で日覆いが必須だったことがあげられています。また、古くから商業集積が進んでいた反面として道路幅が狭いため、道路両側の商店が協力して道路全体を覆う天蓋型の日覆いも、早い段階(遅くとも明治期)からあったとのことです。
西日本各地には、その発展形としての天蓋型アーケードが普及し、大阪の心斎橋筋や難波、神戸三宮、岡山表町、徳島東新町など、地域の代表的商業集積として必ずアーケード型商店街が存在する、という現状につながっているようです(済みません、広島本通は有名なアーケード通りのようですが、行ったことがないので)。
一方、東日本では道路幅の広さから、Issie さんの言及された歩道上のみに設置する雁木型の片側式アーケードが主体だったようです。

さらに、戦後の一時期、アーケードが商店街近代化の切り札的な存在だった時代があり、商店街のイメージアップと一体感醸成のために盛んに設置されました。これにより、東日本の大都市郊外にも西日本型の天蓋型アーケードが普及したようです。中野、吉祥寺といった中央線沿線が典型で、私の居住地近くでは新小岩にもあります。

銀座の場合、道路幅は広いし、日本を代表する商業地でイメージアップの必要などなかったため、アーケード設置の必然性がまったくなかったのでしょうね。名古屋の場合も、アーケードに関しては東日本型に属し、中心部には設けられなかったのでしょう。対して、総曲輪などがある北陸は西日本型に分類されるようです。
[77115] 2010年 12月 26日(日)21:19:33oki さん
泣くは因幡の
[77114] 伊豆之国 さん 
「兎」の付く駅もただ一つ。山形鉄道・フラワー長井線の、その名も「白兎(しろうさぎ)」駅(山形県長井市白兎)。「旧高旧領取調帳」「天保郷帳」に「置賜郡白兎村」として出ているので([77085]YTさん)、少なくとも江戸時代から続く由緒ある地名でしょうが、由来が気になるところです。

大永2年(1521)の伊達氏の書状に「下長井之庄白菟郷之内」とあるのが史料上の初見のようです。当然、それ以前から存在した地域名のはずで、遅くとも15世紀中に成立していたのではないでしょうか。
角川の地名辞典によると、永禄9年(1566)の史料に「彼地、白兎もあつかひ候ニ付而」とあり、白兎を飼って毛皮を領主に献上するのが当郷のつとめであった、とのことです。まさしく、白ウサギと直接関係のある地名ということになります。もっとも、毛皮にされる兔にとっては、うれしくも何ともないでしょうが。
因幡のアレもそうですが、白兎というのは皮を剥がれる運命にあるのでしょうか。

ところで、「旧高旧領取調帳」による白兎村の石高は1,682石、対して「天保郷帳」では956石であり、米沢藩では明らかな二重帳簿を作成していたようです。
[77106] 2010年 12月 26日(日)03:31:44oki さん
利根川東遷以前の下総国図
[77091] hmt さん 利根川と国境・県境との関係(10)

利根川と国境・県境との関係シリーズについては、興味をもって読んでおりますので、今後も継続していただくよう、お願いいたします。
それに関連して、上記書き込みでhmt さんが引用された土木学会のサイトに、非常に面白い絵図が掲載されており、利根川東遷以前の利根川流域の状況が推測できるので、それについてちょっとご紹介しておきます。

紹介したい絵図は、上記サイトの右下に「江戸初期 下総之国図」(船橋市西図書館蔵)となっているものですが、サイト掲載のままでは解像度が低すぎて何を示しているかよく分かりません。
そこで最初に、この絵図が何を示しているか、簡単に説明しておきます。絵図は上が北、右が東で、現在の地図と同じです。絵図のもっとも左上(北西側)にある□印が古河城で、その西を流れるのは渡良瀬川(思川)です。渡良瀬川(および権現堂川)沿いに古河城の下(南)に位置する□印が栗橋城、そのすぐ東(右)にあるのが関宿城です。ただし、この栗橋城があったのは、権現堂川西岸に位置する現在の栗橋ではなく、東岸の元栗橋(現五霞町)です。関宿城のはるか下にある□印は葛飾区青砥にあった葛西城、その斜め右(東北東)に位置するのが松戸の大谷口にあった小金城です。
栗橋城、葛西城、小金城などは、秀吉の小田原攻めの際に落城し、そのまま廃城になったはずですから、この絵図は江戸時代初期というより、後北条氏時代の下総を描いたものではないかと思います。

この絵図で、利根川は次のように流れています。まず、北西方向から流れてきて二派に分かれます。東流する細い流れはおそらく合の川で、渡良瀬川と合流しています。南東流は浅間川筋と見られ、さらに二分されていますが、東派した川は権現堂川と合流、関宿方面へ続いています。南東方向への流れが利根川の本流で、猿ヶ股(現在の葛飾区水元)で二分し、葛西城の東を通って江戸湾に注ぐ西側の流れが江戸時代の中川です。その一部(古隅田川)はさらに西派して隅田川に流入しています。猿ヶ股から東へ行く派川は当時の太日川で、現在の江戸川下流部をなす河川だと考えられます。絵図からは、(古)隅田川以東が下総国に属していることがはっきりと分かります。

この絵図には、東遷以前の利根川水系について、注目すべき点がいくつか示されています。その中で最大のものが、利根川水系と常陸川水系の連絡を明示していることです。少し分かりにくいですが、栗橋城の南を通る権現堂川は、関宿城の西側から北側を迂回し、東側の常陸川につながっています。これは近世の逆川の川筋そのもので、この絵図が正しいとすれば、後北条氏の時代に、逆川に当たる水路が既に存在したことになります。
栗橋城主北条氏照の書状により、天正4年(1576)の段階で葛西~栗橋間および佐倉~関宿間の舟運があったことが判明しているので、栗橋~関宿間が上記の水路を通じて連絡していたとすれば、江戸湾と佐倉間(さらには銚子まで)の舟運も可能だったと考えられます。

もう一つの注目点は、庄内古川に相当する河川が存在しないことです。庄内古川(この時点では庄内川ですが)は、関宿城の西側で権現堂川から分派、当時の利根川本流と並行する形で南流し、猿ヶ股から東派した太日川と合流しているはずです。しかしこの絵図では、太日川に流れ込んでいる川はありますが、権現堂川には達していません。逆に権現堂川から南流する川は、途中で利根川本流に合流してしまっています。
この南流河川は、hmt さんが
権現堂川の西側の流路は、古河から南下してきた渡良瀬川の続きで、権現堂付近から南へ大きく蛇行した河跡が地形図上で読み取れ、杉戸付近で古利根川に流入していたとされます
と書かれていた川だと思います。この絵図が正しいとすると、この時点では庄内川がなく、渡良瀬川の水も利根川本流に合流していたことになります。
迅速側図を見ると、上記の南流河川の東側に、南へ向かう広い河道跡が認められ、それは庄内古川の川筋につながっています。ひょっとすると、この絵図の時点では閉塞していた河道を改めて開き、利根川本流に集中する水流を太日川方面に流そうとしたものの、うまくいかず、改めて江戸川を開削したのかもしれません。

また、利根川水系と常陸川水系との水運が既に開かれていたとすれば、新川通や赤堀川を開削した主目的は、特に洪水時に、利根川および渡良瀬川の水を常陸川に流すことにあったと思われます。それにしては赤堀川の川幅が狭すぎ、放水路の役割を果たさなかったのではないか、とも思われるのですが、この点は今後考えてみることにします。

何にしろ、赤堀川も新川通もない時代の珍しい地図ですので、参考のために、ご覧になってください。

※ 後で捜したところ、こちらに、もう少し詳しい地図が掲載されていました。城名などの注記もあるので、より見やすいと思います。また、上記した北条氏照書状の翻文も記載されているので、そちらもご覧ください。


[77101] hmt さん  利根川と国境・県境との関係(11)中川
現在の住居は江戸川のすぐそばで、新中川辺りにもよく行きます。なので、「中川」に関する記述も、とても興味深く読みました。今後の連載は、上武国境の方に遡るのでしょうが、江戸川についても触れていただければと思います。
ご参考のために、野田市立興風会図書館にある「江戸川縁領々地図」と題された地図をリンクしておきます。幕末期(1845年以後)のものですが、江戸川沿岸地域の地図として非常に精密で、流頭部の棒出しも明瞭に描写されています。
[77088] 2010年 12月 23日(木)11:33:31【1】oki さん
置賜郡の町
[77083] 千本桜 さん
ところで、旧高旧領取調帳では羽前国置賜郡292村2町となっていますが、その2町がどこなのか、御存知でしたなら教えて頂けないでしょうか。

[77086] YT さん
『天保郷帳』では『旧高旧領取調帳』の「小国村」と「小阪村」を併せて「小国小阪町村」と称しているようです。もしかしたら「小阪村」は本当は「小阪町」で、『旧高旧領取調帳』では「関町」と「小阪町」の二つを町と判定していたのかも知れません。

旧高旧領取調帳における「町」は、「関町」だけであり、置賜郡292村「2町」という記載は誤りだと思います。
関町は関村の一部に当たる地域で、現在の米沢市関町です。関村の北端を会津街道(県道234号線)が通っており、街道沿いに成立した宿場が関町です。ただし、米沢藩から公式に認められた町ではなかったようで、天保郷帳には関村しか記載されていません。地方行政区画便覧にも関村しか載っておらず、関町を独立した存在として扱っているのは旧高旧領取調帳だけのようです。
一方、旧高旧領取調帳の「小国村」は天保郷帳の「小国町内」、「小阪村」が「小国小阪町村」で、これらは西置賜郡小国町の中心市街地に当たります。
郷帳の「小国町内」は、本来「小国町村」と表示すべき場所で、「小阪町村」と並び、米沢藩領小国郷の中心地です。小国町村、小坂町村が一体となって小都市を形成していたようで、小国町が商業地、小坂町は士族の住む陣屋町で、両者を一括して「小国町」と呼ぶこともあったようです。「○○町村」となっているのは、米沢藩が公式には町と認めていなかったからで、実態としては町であり、地域の人たちも「まち」と呼称していたと考えられます(このような例は全国至る所にあります)。
ただし、そこが実態として町か村かを判断するのは難しいので、旧高旧領取調帳では、単純に「○○町」となっている場所だけを「町」と見なしているはずです。その意味で、旧高旧領取調帳における置賜郡の町は「関町」だけであり、置賜郡292村「2町」という記載は誤記だと見なすべきです。もちろん実態としては、「関町」より「小国村」・「小阪村」の方がより都市的な場であったことは間違いありません。

「天保郷帳」にしろ「旧高旧領取調帳」にしろ、名称や石高が実態とずれている場合は少なくありません。特に天保郷帳は諸藩が幕府に提出した資料がもとになっており、外様大藩の場合は幕府向けと藩内用との二重帳簿を作成している事例がよくあります。したがって、郷帳等の記載に疑問が生じた場合には、その村の位置を特定し、現在の姿を確認するとともに、各種の資料から歴史上の実態を解明する必要があります(7万を超える郷帳記載のすべての村にそんなことをしていては、とても身が持たないのは事実ですが)。

【最後の記述を若干訂正。】
[77020] 2010年 12月 12日(日)11:52:07oki さん
「長すぎる」地名
[77004] hmt さん
エデンの園以来嫌われ者の「蛇」が使われた地名は、行政が使う公式の町名からは消されてしまいました。

確かに、東京からは「蛇」のつく地名は消えてしまいましたが、全国を見渡すとまだたくさんあります。地名コレクションにあるかなと思ったのですが、蛇はまだないようなので、調べた地名を以下に記しておきます。

所属自治体地名読み
下北郡風間浦村蛇浦へびうら
三戸郡三戸町蛇沼じゃぬま
九戸郡軽米町蛇口へびぐち
石巻市蛇田へびた
横手市蛇の崎町じゃのさきまち
由利本荘市下蛇田しもへびた
由利本荘市上蛇田かみへびた
東置賜郡高畠町蛇口じゃぐち
田村郡三春町蛇石へびいし
田村郡三春町蛇沢へびさわ
常総市上蛇町じょうじゃまち
猿島郡境町蛇池じゃいけ
富岡市南蛇井なんじゃい
佐倉市大蛇町おおじゃまち
旭市蛇園へびその
岩船郡関川村蛇喰じゃばみ
魚津市蛇田へびた
下新川郡入善町蛇沢へびさわ
南砺市蛇喰じゃばみ
下伊那郡天龍村大蛇だいじゃ
海津市蛇池じゃいけ
養老郡養老町蛇持じゃもち
下呂市蛇之尾へびのお
賀茂郡南伊豆町蛇石じゃいし
東近江市蛇溝町へびみぞちょう
福知山市蛇ヶ端へびがはな
御所市蛇穴さらぎ
八代市蛇篭町じゃかごまち
菊池市班蛇口はんじゃく

示したのは全部で29ヶ所。小字レベルまで含めると100ヶ所以上になるのですが、表示が長たらしくなるので、大字レベルの地名に絞ってあります。分布としては、東北、関東、中部に多いようで、中国、四国にはまったくありません(小字レベルの地名はあります)。
地名コレクションでは、「狸・狢」が119件、「狼」89件で、それらと同じような数です。ただし、100ヶ所というのは居住地名だけで、自然地名も100以上あるので、合計すると「狸・狢」は確実に上回り、「猫」に匹敵するだろうと思います。

hmt さんが引用されたサイトでは、蛇窪を改称すべき理由として
「由来我国民性ノ蛇ヲ嫌忌スル感情ヨリスルモ亦此ノ都市文化ノ中心タル地名ニ蛇窪ナル名称ハ恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク到底不適当タルヲ免レス」
とありますが、これだけ蛇を名乗る地名があるのですから、「蛇ヲ嫌忌スル国民性」とは必ずしも言えないだろうと思います。また、「恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク」という表現は、戦前の1932年(昭和7)だから許されたので、いまこのような文章を公表すれば、世論から袋だたきにあうでしょう。このサイトでは、「結果的に合理的だったことや長年使用される間に愛着が出てきたということになるだろう」と、「蛇窪」から現在の「豊町」、「二葉]への改称を肯定していますが、「蛇」地名の残存状況を考えれば、「蛇窪」を残しても特に問題なかったのではないかと思えます。

上記地名での「蛇」の読みは多くが「へび」または「じゃ」ですが、御所市蛇穴(さらぎ)は難読です。この地名については、こちらのサイトで柳田国男を引用しながら起源を説明してあります(確か、谷川健一氏も同じようなことを書いていたと思います)。

[77015] hmt さん
上記のように書いてから更に調べたら、蛇窪付近の地形地図 がありました。(中略)
oki さんが指摘された「谷戸」は、こちらだったことがわかりました。

私が指摘したかった谷戸はそこですが、かなり浅い谷で、分かりにくいのは事実。現在の地形図では痕跡すら見分けられません。一方、「今昔マップ」には50mのDEMから作成した彩色段彩図が付属しているので、明治42年の2万分の1地形図を見ると、立会川の谷から北側に向けて谷戸が伸びているのを確認できます。
[77010] 2010年 12月 11日(土)03:17:09oki さん
よしなしごと
今日(もはや昨日ですが)、奈良県まで出張に行ったのですが、途中、新幹線で多摩川を渡っているときに、「考えたら大きな川をたくさん越えるな」と思い、渡った大河を順に書き連ねると次のようになりました。
荒川、隅田川(渡ったのではなく、くぐったのですが)、多摩川、相模川、酒匂川、富士川、安倍川、大井川、天竜川、浜名湖(番外)、矢作川、木曽川、長良川、揖斐川、瀬田川、桂川、淀川、大和川、木津川。そのほか、中小河川、水路等は数知れず。
ま、だからどうだと言うことは別になく、川がたくさんあって、そのそばに街ができているのを再確認しただけですが。

川に注意しながら窓外を眺めていると、琵琶湖の東側で次のような看板を目にしました。
「愛荘町 ここはどこの県?」
いったい何のことかいな、と思っったのですが、しばらくして「愛知中学校」、「愛知高校」の大きな看板と、それぞれに添えられた「えち」という読仮名を見て納得しました。看板の「愛荘町」はもともと「愛知川町」だったのでしょう。確かに、滋賀県民(とここの常連)以外で、愛知高校を「えちこうこう」と読んでくれる人はほとんどいないでしょうからね(古いグーグルマップを見ていると、「愛知川図書館」に「Aichigawa Library」という英語の読みが当てられていました)。

渡った川を見れば分かるように、新幹線で新大阪まで行き、大和路快速で奈良県に入ったのですが、大阪(梅田の方がしっくりくるが)から乗ったので環状線の海側を半周して天王寺から関西本線を経由しています。途中、西九条の駅に停車したとき、反対側の車線に極彩色の電車が停まっていて、「なんじゃこれは」と思っていると、桜島線(いまは「ゆめ咲線」と呼ぶようです)を走るUSJ行きの電車でした。ディズニーリゾート線の、いかにも「リゾートムード盛り上げ」という列車はあまり好きではないのですが、USJ電車の派手というよりケバさには「ついていけんな」という感覚を持ちました。
で、西九条を出てしばらく進むと、大阪市立の「咲くやこの花中学・高校」という看板が。発想は分かるのですが、東京都が「いざ言問わん高校」をつくるかというと、大江戸線を命名した「あの」都知事でもそこまではやらないでしょう。
私はもともと、文化的には関西の影響下で育った人間で、いわゆる大阪的な発想や言動にはあまり違和感を感じないのですが、上の2件には「ついていけんな」という感想です。東京生活が長くなって、知らず知らずのうちに感性が染められているのかしらん。

しばらく前に、朝日放送の人気番組である「探偵ナイトスクープ」を東京MXで見ていたときに、奈良県に住んでいて堺市に通っている人が、電車を使うより大和川を舟で下るほうが早いのではないかと考え、実行してみたというネタがありました。確かゴムボートを使って川下りに挑んだと思いますが、川の水深が浅すぎて至るところで座礁し、容易に前進できず、結局職場に着いたのは夕方だった、とうオチだった思います。今日、阪奈県境の地峡部で大和川の流れを観察していたところでは、確かに水深は非常に浅く、とても舟で下れそうにないということを改めて確認しました。

ということで、東京から奈良県王寺に着くまで、まったく退屈することなく過ごすことができました。こういうとき、地理好きというのは得ですね(単なる暇人という声もあろうが)。


川の話のついでに。
[77004] hmt さん
おそらく目黒川水系の蛇行する窪地に由来する「蛇窪」の地名は
蛇窪が位置していたのは、目黒川ではなく立会川の谷だと思います。立会川は、かつての碑文谷村当たりに源流があり、上下蛇窪村の南を東流、現在の大井町駅のあたりで流路を南に転じて現在のように立会川駅の東側で海に注いでいたようです。
また、「窪」の地名は平地にできた窪地ではなく、両側の尾根から見て低くなっているところ、つまり谷地を意味するのではないかと思います。明治42年側図の2万分の一地形図を見ると、上蛇窪と下蛇窪の間には、立会川から北に伸びる谷地があり、その最奥部に当たる現在の戸越公園駅の近辺には、「谷戸」という小字があります。おそらく、蛇「窪」とはこの谷戸地形を表す地名だろうと思います。

ところで、この種の調べ物をするのに格好のツールに「今昔マップ」があります。その名の通り、首都圏、中京圏、関西圏の3地域について、明治(または大正)時代から現在までの地形図を閲覧できるようにした優れものです。簡易GIS「MANDARA」を開発した埼玉大学の谷謙二氏の作品で、こちらからDLできます。地図イメージの多くはネット上からDLするようになっているので、データを揃えるまでに少し時間がかかりますが、すべて完備すると非常に使いでがあります。
もしご存じでなければ、試してみてください。
[76927] 2010年 11月 29日(月)10:45:51【1】oki さん
渡良瀬川旧河道に関する若干の考察
皆様楽しいオフ会を過ごされたようで、うらやましい限りです。当方はオフ会当日も、いつもの如く仕事および家事に追いまくられていたのですが。
さて、話題になっている3県境について、思いついたことがあるので書き込んでおきます。
旧下宮村、海老瀬村、小野袋村の境界について、現在の県境が本当に渡良瀬川旧河道の中央部だったのかという疑問が呈されているようで、以下の[76876] hmt さん の意見に集約されていると思います。

そこで改めて立て札の写真を見ると、合流点の右上にある「基点」標石を境に、右端部(東側)と水路側とは植生が異なっています。現地の観察でも、昔の渡良瀬川の跡とおぼしき東側は荒地状態で、現在の水路周辺の土手を挟んで西の群馬県側は田んぼ。
どうやら地表の姿が変わっているこの線が、栃木県との境である渡良瀬川旧河道の右岸で、「群馬県」の建てた標石は、その延長上にあるようです。
(中略)
渡良瀬川の真ん中が県境だったのならば、右岸に設置された「基点」標石よりも川幅(現在の荒地幅)の半分だけ東寄りが、真の3県境なのではないかと考えています。

hmt さんは、このあたりの荒地を旧河道と考え、現在の県境が旧河道の西端ないし南端に引かれている点に疑問を持たれているのだと思います。

そこで、旧帝国陸軍が撮影した1941年時点の空中写真をご覧ください。白黒で見にくい写真ですが、注目していただきたいのは旧河道と土手沿いの道路との間、旧下宮村の飛地にある1件の農家です。この農家の敷地はかなり広く、その東西方向の幅が、すぐ西側を通る渡良瀬川旧河道とほぼ同じであることが分かります。
次に、MasAkaさんが紹介された1974年の空中写真。ここでも、件の農家の存在ははっきりと分かります。そして、渡良瀬川旧河道の幅が農家の敷地幅とほぼ同じであるのも同様です。しかし、この写真では、旧河道の中央部に線が引かれ(おそらく用水路でしょう)、2つの地域に分けられつつあるように見受けられます。また、旧河道の存在は、農家の西側(下宮村と海老瀬村との境界)では明確ですが、南側(下宮村と小野袋村との境界)でははっきり分からなくなっています。下宮村側の旧河道ははっきり見分けられますが、小野袋側は不明瞭です。

以上を踏まえた上で、改めて現在の空中写真を眺めてください。例の農家は以前と同じように存在します。しかし渡良瀬川旧河道とされる荒地の幅が、農家の敷地幅の半分程度しかないようです。すると、hmt さんが旧河道と考えられた荒地は、実は旧河道の栃木県側の部分ではないかと思われます。
海老瀬村側では、土地改良工事でも行われたようで、境界のすぐ西側に南北方向の直線道路が伸び、1941年や74年の空中写真に見られた河道跡の痕跡もありません。小野袋側の方は、以前から河道跡は不明瞭です。ということで、現在はっきりと認められる河道跡は栃木県側だけになってしまっていると考えられます。したがって、河道跡の西端ないし南端に引かれた現在の県境線は、まさに渡良瀬川旧河道の中心線ではないか、と思われます。

現地調査にも行っていない人間が、空中写真だけをもとに外野から口を出すのははなはだ心苦しいのですが、このような考え方もあるということで、ご検討の参考資料にしてください。

※「宮中」写真を「空中」写真に訂正(「宮中」写真だと、やんごとない方々のパパラッチ写真のようで)
[76809] 2010年 11月 18日(木)18:12:09oki さん
町村制施行時の千葉県県令
むっくん さん宛ての業務連絡です。

居住地域周辺についての調べ物をしていて、千葉県(正確には千葉県立図書館)が明治8年~32年の県報をウェブ上に公開しているのを見つけました。
その中に、町村制施行時の県令がありました。明治22年3月分の県報のうち、35ページが該当部分です。
町村制の根拠が明治22年3月27日付県令19号、町村の廃置分合が同20号になると思います。具体的な配置分合の状況は38ページ以下に記載されています。

[75042] の「市制町村制施行時の府令県令(ver.4)」では、千葉県分は未発見になっていたので、とりあえずご報告しておきます。
[76729] 2010年 11月 10日(水)01:40:49【1】oki さん
あなうなぎ
[76725] hmtさん
[76724] おがちゃん さん
[76721] Issie さん

辞書を見ると、「妹(いも)」←→「兄(せ)」とあります。

「妹(いも)」の原義は、男性の側から年齢の上下に関係なく姉妹を呼ぶ語で、英語のsisterと同じです。転じて、結婚相手や恋人を意味するようになっています。「いもうと」はhmtさんのご指摘通り「いもひと」が変化したもので、もともとは姉妹を意味していたものが、年下の妹だけに限定されていったようです。
「妹」の対義語が「兄(せ)」で、こちらも女性が兄弟を呼ぶ際に用いるのが原義で、夫や恋人に転じたと考えられます。「夫」、「背」の字も用います。
したがって、「妹兄(いもせ)」は兄妹、姉弟、あるいは兄弟姉妹の意に用いていたようですが、「妹背(いもせ)」となると、Issie さんの仰るとおり、もっぱら夫婦もしくはそれに準じる男女を意味します。

これだけなら良いのですが、歴史上のどこかで妹背の音に逆転が起こったようで、妹を「せ」と呼ぶ場合が生じています。備中国で発生した現象らしく、「妹尾」を「せのお」と読み(岡山市南区)また「妹(せ)」(倉敷市)もあります。倉敷市の「妹」は和名抄の「呉妹(くれせ)郷」の遺称地とされており(備中呉妹駅があります)、かなり早い段階で「いも」→「せ」の逆転が起こったようです(「背」を「いも」と読む例はないようですが)。これ以外に「妹」を「せ」と読む地名としては、北秋田市妹尾館(せおだて)があります。なぜ、備中から遠く離れた秋田の地に「妹(せ)」の音があるのかは不明です。
(「兄弟姉妹」コレクションで、「倉敷市妹山(いもうとやま)」とされているのは、「せやま」だろうと思います。)

さらに、これが日本語の摩訶不思議なところですが、「妹」は本来「いも」ですから、「妹尾」を「せのお」と読まない地名も当然存在します。私が確認しているのは、次の2つ。
和歌山県日高郡日高川町上初湯川妹尾(いもお)
鹿児島県薩摩川内市高城町妹尾(いものお)
よろしければ、地名コレクションに追加してください(読みは「地図閲覧サービス」のものなので、正しいという保証はありませんが)。

以下は四方赤良の狂歌
あなうなぎいづくの山のいもとせをさかれてのちに身をこがすとは

鰻→山の芋→妹→背→裂く→焦がすと繋ぐ、達意洒脱の芸です。

※書き込もうとしたら、Issie さんの[76727]が先にあったのですが、ま、いいかと。
[76694] 2010年 11月 7日(日)11:09:39oki さん
寒田 西寒田 西寒多
[76624] オーナー グリグリさん

臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田
読みが「ささむた」と面白いですね。これはもちろん採用なんですが、大分市寒田(そうだ)とは関連があるのでしょうか? 少し離れていて読みが違いますが偶然では片付けられない何かがありそうです。

面白そうなので調べてみたら、意外な事実を発見しました。
まず先に、臼杵市野津町と豊後大野市犬飼町の西寒田について。
この地名は、1975年(明治8)に5つの近世村が合併してできた村名に由来しています。その5村とは、豊後国大野郡の寒田(そうだ)村、細口村、松原村、御霊園村、鍋田村の5つ。西寒田の村名は、寒田村にある西寒田(ささむた)神社に由来しています(西寒多神社とも表記する)。
市区町村変遷情報によれば、西寒田村は明治大合併で、鳥岳村、千塚村など大野郡の6村と一緒に戸上村を構成しました。戸上村は1955年(昭和30)に犬飼町、長谷村と新設合併して新たな犬飼町となりますが、1957年(昭和32)、一部が大野郡野津町に境界変更されます。地形図を見ると、野津町に編入されたのは元の御霊園村、鍋田村の部分のようです。
寒田、細口、松原は犬飼町に残り、結果として臼杵市野津町大字西寒田/豊後大野市犬飼町西寒田の分断地名が生じました。これ自体はよくあることです。なお、地形図から判断すると、松原は松田という集落名になっているようです。また、寒田は地図上で松田の北北東にある神社記号(これが西寒田神社です)の周りにあったはずですが、地図上に集落名が記載されておらず、無住地になっているのかもしれません。

次に、グリグリさんが指摘された大分市寒田ですが、なんと、こちらにも西寒多神社があります(読みは「ささむた」で同じです)。おっしゃる通り、この二つは偶然では片付けられません。二つの地点を結びつける説があります。
豊後大野市の西寒田神社の社伝によると、ここは延喜式内社の大野郡西寒多神社であり、応永10年(1403)もしくは応永15年(1408)に豊後国守護大友親世が大分郡植田(わさだ)に分祀し、その地を寒田と名付けた(これが大分市寒田)、というものです。
この説が成り立てば、大分市の寒田は豊後大野市から移った地名と言えるのですが、実際には延喜式内社である西寒多神社は大野郡ではなく大分郡にあったというのが通説で、そうであれば、大分市寒田の西寒多神社の方が先にあったのかもしれません。こちらの社伝では、応神天皇9年(278)に西寒多山(神社の南にあり、現在は本宮山)上に創祀され、応永15年に大友親世が現在地に遷座した、ということになっています。
どちらの説が正しいかは分かりませんが、「応永15年に大友親世が現在地に遷座」という点では一致しています。また、神社そのものが古い歴史を持つことも確かで、「日本三代実録」には貞観11年(869)に、豊後国の西寒多神を従五位下に叙したという記事があります。
いずれにせよ、寒田というあまり見られない地名と、ほかには存在しない西寒多(田)神社とがセットで存在するわけで、豊後大野市の寒田(西寒田)と大分市の寒田が無関係なはずはない、と考えられます。

なお、西寒田神社を紹介したサイトで、所在地が臼杵市野津町西寒田神尾392となっていますが、おそらくこれは間違いで、西寒田神社は豊後大野市側にあるはずです。
[76678] 2010年 11月 6日(土)15:24:41oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾の二
[76674]の那珂市が既出のため、再答します。

問三:姫路市

[76677] maki さん
問三の那珂市は[76671]で今川焼さんが解答されています。

わざわざご指摘いただき、まことに有難うございます。
[76674] 2010年 11月 6日(土)10:24:58oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の拾
問三:那珂市

これも、準備はしてあるのに気付かなかった口
[76668] 2010年 11月 5日(金)22:23:51oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の玖
問九:西東京市

リストは準備しておいたのに
[76667] 2010年 11月 5日(金)21:19:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の捌
問六:阿波市

個人的には、これしかない、という回答です
[76662] 2010年 11月 5日(金)18:07:54oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の漆
連投失礼します

問五:日立市

江戸川区民としては、せめて第一ヒントで答えたかったところ
[76661] 2010年 11月 5日(金)17:19:25oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の陸
分かった問題から答えていこう

問一:別府市
[76637] 2010年 11月 3日(水)22:17:46oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の伍
とりあえず、最初に見つけた市で

問八:釜石市

案の定、問十を間違えたので完答権をなくしてしまった。
ま、その前にほかの問題も正答できるかどうか危ないわけだが。
[76610] 2010年 11月 3日(水)00:49:28oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の肆

問十:夕張市

これが最後の一つだと思うのですが、いまいち不安も


[76605] Issie さん
私は子供過ぎて気が付かなかったのですが,三木武夫首相も「国会」を「こっくゎい」と発音するので有名だったとか。この人は徳島の方ですが,ちょっと前までは「くゎ」という音がまだ聞けたのですね。
でも今はどのくらい残っているんでしょうね。

少なくとも徳島では、「くゎ」の発音は残っていません。三木氏は1907年(明治40)の生まれなので、この発音を保持したのは明治生まれの世代までではないでしょうか。
一方、三木さんは「しぇんしぇい(先生)」という言い方もよくしていました。こちらはまだ生きていて、私でも使うことがありますね。「今回の十番勝負はじぇんじぇん分かりません」などと。
[76601] 2010年 11月 2日(火)22:30:51oki さん
自治体越地名 ブービー賞
香川県で2件発見しました。

観音寺市本大町/三豊市豊中町本山乙・本山甲
観音寺市本大(もとだい)町と三豊市豊中町本山乙は江戸時代の本大村(もとのおおむら)、本山甲は寺家村です。この地域は、中世には周辺を含めて本山庄に属しており、本大村は江戸時代初期に本山大村(もとやまおおむら)と呼ばれていました。
本大村は財田川の両岸に広がる村で、明治合併時に、川の右岸(東側)が寺家村と合併して本山村になり、左岸地域は吉岡村などとともに一谷村を構成しました。本山甲・乙は、本山村の2つの大字を甲・乙と名付けたのだと思います。本大町と本山乙はもともと本大村で「本」の字を共有するので、分断地名と考えていいと思います。本山甲まで含めるかどうかは、判断をお任せします。

丸亀市飯野町東分/綾歌郡宇多津町大字東分
江戸時代は鵜足郡東分村です。明治合併時に西分村、東二村とともに飯野村を構成しましたが、1955年(昭和30)に飯野村が丸亀市に編入された際、大字東分の一部が宇多津町に編入されました。さらに1959年に、宇多津町東分の一部が丸亀市に編入されています。

これで空白県は鳥取だけに。
[76579] 2010年 11月 1日(月)01:50:04oki さん
自治体越え地名の検討をお願いします
十番勝負がまったく解けないので(1週間以上かかって解答がたったの2問。やはり才能の問題でしょう)、別の話題を。

[76567] オーナー グリグリ さん
[75921]で更新して以来、滞っていた自治体越えの地名を更新しました。

更新したすぐのところを申し訳ないのですが、以下の自治体越え地名について、ご検討をお願いします。

まずは現状で登録のない徳島県から2件。
徳島市国府町桜間/名西郡石井町高川原桜間
板野郡上板町第十新田/名西郡石井町藍畑第十

石井町の桜間、第十とも小字の扱いですが、高川原、藍畑という明治合併村が大字を構成しているためで、両方とも江戸時代には独立した村でした。
桜間は古代からある地名で、本来は阿波国名方郡桜間郷でしたが、寛平八年(896)、名方郡が名東・名西の2郡に分割されたとき、郡境に位置していた桜間郷も両郡に分かれました。以来幾星霜、江戸時代は名東郡桜間村と名西郡桜間村、明治以降の町村合併でも、片方は名東郡国府町から徳島市、他方は名西郡高川原村から石井町と、常に自治体を異にし、1100年にわたって分裂状態が続いているという「自治体越え地名の権化」ともいうべき地名です。
第十新田はもともと第十村と一体でしたが、洪水で吉野川の河道が現在の流れに変わったときに本村から切り離されました(地図を縮小すると、吉野川の北岸に第十新田の本体があります)。ただ、第十新田のごく一部が南岸に取り残され、本村の第十と隣接しています。

次に、「大物?」の(都)県境を2件。
東京都江戸川区堀江町/千葉県浦安市堀江(1~5丁目)
埼玉県吉川市大字三輪野江/千葉県流山市三輪野山

堀江町は江戸川に沿ってわずかな面積が残るだけなので、地図を拡大しないと分からないかもしれません。本来は、西側に広がる南葛西1~7丁目の全域が堀江町だったのですが、住居表示によって変えられています。
この地域が堀江を名乗っていたのは、浦安市堀江の飛地であったから。江戸時代、下総国葛飾郡堀江村は江戸川左岸の河口に位置する村で、目の前にできた中州を自村に組み込み、堀江新田を開発していました。堀江新田は、明治大合併で堀江村が当代島・猫実村と一緒に浦安村を形成してからも大字堀江の一部でしたが、1895年(明治28)の「東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法」で江戸川両岸の飛地が整理されたとき、南葛飾郡葛西村に編入されています。また、現在の堀江町の対岸は浦安市富士見(1~5丁目)ですが、これは住居表示後の地名で、元は大字堀江の一部です。したがって、住居表示前は江戸川を挟んで堀江が向かい合っていたはずです。

江戸川両岸の「自治体越え地名」は、上記の堀江を除くと江戸川の河道開削に伴うものが多いのですが、吉川市の大字三輪野江と流山市三輪野山は別の起源を持っています。吉川の三輪野江は、江戸時代初期の開発時に、対岸三輪野山に鎮座する三輪明神を移し祀ったために三輪野江の村名を名付けたことが、新編武蔵風土記稿に書かれています。神社を機縁として、共通の名前が江戸川両岸に存在するわけです。
もっとも、三輪野山の三輪明神は現在「茂侶神社」と改名しているので、地図を見ただけでは気づかないかもしれません。
[76574] 2010年 10月 31日(日)23:57:38oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の参
誤答したくないので手堅く

問四:国分寺市

前回の回答から中5日。何をやっておるのやら
[76429] 2010年 10月 23日(土)21:34:40oki さん
第二十九回全国の市十番勝負 解答其の弐
想定解数もチェックしたので、間違いないと思います。
四国が売り切れているので。

問七:淡路市

今回の目標は、できるだけ多く正答すること。


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