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落書き帳から選び抜いた珠玉の記事集

国家の領土、その現況と変遷

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記事数=34件/更新日:2004年7月25日/編集者:YSK

現代世界システムは、主権と領土を持つ「主権国家」の集合体として機能しています。「領土」に注目した場合、その現況と移り変わりはどのようなものなのでしょうか?

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★推奨します★(元祖いいね) ニジェガロージェッツ hmt ken みやこ♂ 北神

記事番号記事日付記事タイトル・発言者
[344]2001年8月30日
Issie
[10073]2003年3月1日
まがみ
[10112]2003年3月1日
太白
[10121]2003年3月1日
Issie
[10124]2003年3月1日
Issie
[10177]2003年3月2日
太白
[10183]2003年3月2日
Issie
[10196]2003年3月2日
太白
[10520]2003年3月6日
太白
[10521]2003年3月6日
N-H
[10526]2003年3月6日
太白
[10528]2003年3月6日
N-H
[10537]2003年3月6日
般若堂そんぴん
[10543]2003年3月6日
太白
[10590]2003年3月6日
たけもと
[11824]2003年3月25日
Issie
[11845]2003年3月26日
Issie
[11855]2003年3月26日
太白
[11873]2003年3月26日
Issie
[11902]2003年3月27日
ニジェガロージェッツ
[11906]2003年3月27日
太白
[11909]2003年3月27日
太白
[11970]2003年3月27日
三丁目
[11994]2003年3月28日
ニジェガロージェッツ
[12032]2003年3月28日
ニジェガロージェッツ
[12057]2003年3月29日
深海魚
[23964]2004年1月20日
花の東京都民
[26266]2004年3月16日
hmt
[26610]2004年3月26日
hmt
[26657]2004年3月28日
井上清
[26662]2004年3月28日
夜鳴き寿司屋
[26683]2004年3月29日
hmt
[30979]2004年7月24日
Issie
[30992]2004年7月25日
Issie

[344] 2001年 8月 30日(木)20:53:54Issie さん
沖ノ鳥島
>全都道府県に関してこういうのを集めよう。

とりあえず“暫定公開”しておきます。
http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/kubun/kubun.htm
「県の下位区分」

凡例その他の説明文は,まだ未完成ですが,一応全都道府県分のデータがあります。
ご参考までに。

>あと、沖の鳥島は領土と認められるのでしょうか。国際法上の疑義はないのでしょうか。

これは,ないはずです。
沖ノ鳥島全体は珊瑚礁でほとんどが海面下にあるのですが,満潮時でも常時海面上にでている岩礁があって,これが国際法上の「領土」とされています。
これが波の侵食でなくなりそうになったのであわてて護岸工事をしたのです。

領有関係についても問題はないでしょう。
小笠原諸島の本体部(父島・母島など)については最初に定住したのがハワイ人であったにもかかわらず,19世紀末にイギリスや(すでにハワイを併合した)アメリカ合衆国の承認の下で日本による領有が認められています。
信州の戦国大名・小笠原家の家臣が発見したという「伝説」はともかく,最初にヨーロッパへ紹介したであろうポルトガルやスペインも(沖ノ鳥島の国際名はポルトガル語であるそうです)これに異議を唱えていません。
この延長で,南鳥島や沖ノ鳥島は1920年代末に「東京府小笠原支庁小笠原村」に編入されました。
太平洋戦争後,この領域を占領していたアメリカ合衆国から1968年に“返還”された後,日本政府は当然に沖ノ鳥島が日本の領土であると主張していますが,これに対してアメリカ合衆国は異議を唱えていません。
竹島や尖閣諸島とは違って,(少なくとも今のところは)日本以外のどの国もこの「島」の領有を主張していませんから,
ここが日本領であることは国際的に承認されていると理解されているはずです。
[10073] 2003年 3月 1日(土)03:14:42まがみ さん
東西南北
[10070]utt さん
特別賞として長野県の立科町を推薦しま~す!!
立科町ってどんな形だっけ? と思って調べてみましたら、これは素晴らしい!
この、長野県 北佐久郡 立科町付近には細長い市町村が多いですね。
離島を入れるとなると、やはり東京都小笠原村になるのでしょうね。日本の200海里経済水域の45%が東京都のおかげだとか。なんせ台湾より南に「東京都」があるのですから…

なお、日本の東西南北は、
最北端北海道蘂取郡蘂取村(択捉島)北方領土を除けば北海道稚内市
最東端東京都小笠原支庁小笠原村(南鳥島)自衛隊員などが居住、こういう例外を除けば北海道根室市
最南端東京都小笠原支庁小笠原村(沖ノ鳥島)有人最南端は沖縄県八重山郡竹富町(波照間島)
最西端沖縄県八重山郡与那国町(与那国島)

あんまり過去ログになかったようなので書いてみました。
といっても、この落書き帳の常連さんには常識でしょうか。
ところで、南鳥島も、きれいな三角形です。


[9808][9814][9828][9850][9853][9861]
北総開発鉄道を成田空港へのアクセスルートとして活用するという話題については、過去ログに既にありました。([6458]TN さん)ご参考までに。
[10112] 2003年 3月 1日(土)16:15:27太白 さん
東西南北の端
[10073] まがみさん

 現在の日本の東西南北端は、まがみさんご指摘のとおりですが、日本の歴史を通してみた場合、東西南北の端はどこなのでしょうか? 旧日本軍による軍事占領は除くとして、植民地や租借地、国際連盟による信託統治なども含めると、今の東西南北とは全く違った地点になると思われます。北端は割合簡単に考え付きますが、東西南が結構難しそうです。

 あと、日本のように地球全体から見れば領土が一定の地域に集中している場合、東西南北端の判断が比較的容易ですが、世界中に領土があると、難しいですね。

 そこで問題です。興味のある方はチャレンジを。

Q.次に挙げる国の東西南北の端はどこか、答えなさい。
なお、東西の判断は経度を基準とし、「最も東」とは東経180度とし、「最も西」とは西経180度とする。

1.イギリス
2.フランス
3.ノルウェー
4.オランダ

実は、出題しておきながら解答に自信が持てないので、ちょっと考えてみます。

P.S. [10099] Seahawkさん
やはり同窓でしたか。「男子校」で可能性を感じ、「家から太白山が見える」で確信しました。
「先輩」はやめてください。ここは部活じゃないですから(苦笑)。地理好き(市町村合併ネタ好き?)の人たちがお互いに節度を持って対等に雑談/議論するのがこの掲示板の良いところだと思いますよ。私も、この掲示板の雰囲気の良さを見て初めて、書き込む気になったので。あ、敢えてお願いするなら、私が誰かのレスを期待して書いた下らない書き込みに誰も反応してくれない時に、「しゃーねーなー」と義理でレスをつけてくれたらありがたいです(笑)。
[10121] 2003年 3月 1日(土)18:55:17【1】Issie さん
過去の日本領土の四端
[10112] 太白 さん
旧日本軍による軍事占領は除くとして、植民地や租借地、国際連盟による信託統治なども含めると、今の東西南北とは全く違った地点になると思われます。

国際連盟(聯盟)の場合は「委任統治領」ですね。

まず,はじめに日本の「領土」の範囲の確認。
◎主要3島(本州・四国・九州)及び周辺島嶼 ---確認の必要はないですね
◎北海道 ---南端部は16世紀末までに蠣崎(松前)氏の支配下入り。江戸時代の大部分は松前藩の支配(幕末の一時期は幕府直轄)。戊辰戦争末期に「蝦夷共和国」なるものが割拠するも,明治政府軍により制圧。1869(明治2)年「北海道」とし,11の「国」に分割。
◎南千島(国後・択捉・色丹) ---1854(安政元)年,「日本国魯西亜国通商条約」(日露通商条約)により日本領であることが確定。
◎中千島・北千島(得撫島~占守島) ---日露通商条約によりロシア領。1875(明治8)年「樺太千島交換条約」により日本領。
◎琉球(沖縄) ---1609(慶長14)年,島津氏による侵攻。「奄美」を直接支配下に置く。「沖縄」および「宮古・八重山」地域は「首里王府=琉球王国」の統治下。1872(明治5)年,「琉球藩」設置,琉球国王を「琉球藩王」とする=日本領であることの積極的表明。1879(明治12)年,琉球藩廃止,「沖縄県」を設置=琉球処分。
◎小笠原島 ---1861(文久元)年,幕府老中が小笠原開拓を各国公使に通告。1876(明治9)年,日本領であることを諸外国に通告。
◎大東島 ---1885(明治18)年,沖縄県に編入。
◎硫黄島 ---1891(明治24)年,東京府に編入。
◎南鳥島 ---1898(明治31)年,東京府に編入。
◎沖大東島 ---1900(明治33)年,沖縄県に編入。
◎竹島 ---1905(明治35)年,島根県に編入。
◎沖ノ鳥島 ---1931(昭和6)年,東京府へ編入。

*いわゆる「植民地」
◎台湾および澎湖島 ---1895(明治28)年「日清両国講和条約」(下関条約)により日本領。
◎樺太 ---18世紀末以降,日本人が進出。1867(慶応3)年,全島を日本・ロシア両国の「共有」とする。1875年,樺太千島交換条約により,全島がロシア領。1905(明治38)年「日露講和条約」(ポーツマス条約)により,「北緯50度以南」が日本領。1943(昭和18)年,内務省管轄とし「内地」へ編入。
◎朝鮮(旧大韓帝国) ---1910(明治43)年「韓国併合ニ関スル条約」により日本領。

*「租借地」
◎関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端)---1906(明治39)年「満洲ニ関スル日清条約」により,ロシアの租借地(1898年より25年間)を継承。1915(大正4)年,いわゆる「対華21ヶ条要求」の一環として「南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約」により租借期限を“1898年から99年間”に延長。
◎膠州湾(青島地区) ---1920(大正9)年「同盟及連合国ト独逸国トノ平和条約」(ベルサイユ条約)によりドイツの租借地を継承。1922(大正11)年「山東懸案解決ニ関スル条約」により中華民国に返還。

*「委任統治領」
◎南洋群島(旧ドイツ領太平洋諸島のうち赤道以北) ---ベルサイユ条約,および同年「太平洋中赤道以北ニ位スル旧独逸国属地ニ対スル日本ノ委任統治条項」により,国際連盟から当該地域の当地を委任。1933(昭和8)年の「連盟」脱退後も委任統治は継続。

*「一部統治区域」
◎満鉄付属地帯:南満洲鉄道(大連~長春間およびその支線)線路両側約62m ---ポーツマス条約によりロシアの保有していた権利を継承。当該地域の行政権を取得。うち,軍事・外交・裁判・警察権以外は南満洲鉄道が代行。日本人以外の民事・刑事裁判権は中国(清国→中華民国→満洲国)が持つ。1937(昭和12)年「満洲国ニ於ケル治外法権ノ撤廃及南満洲鉄道付属地行政権ノ移譲ニ関スル日本国満洲国間条約」により行政権を「満洲国」に「返還」。

ここまで参考資料:百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』,吉川弘文館,1990年

そこで,これを元に考えると,
*北端:占守島(北海道根室支庁占守郡),1867~75年は樺太北端(ただしロシアとの共有)
*西端:澎湖島(台湾総督府管下)

で,南端と東端は南洋群島のうちの南端および東端の島だと思われます。
「南洋群島」の範囲そのものは個々の島を指定するのではなく,「赤道以北」のような形で緯度・経度で指定されています。
だから,これによれば委任統治領を含む日本の南端は「赤道,すなわち緯度0度線」となります。ただし,この線上に島はありません(もし島があったとすれば,それは赤道を境に南側の部分は日本と同じ経緯で連盟から統治を委任されたオーストラリアの委任統治領となります)。
委任統治領の東端も同様に経線で指定されているのですが,何度線かは読み取れません。東経170度から経度180度の間の“ある経線”です。
具体的な島としては,「南端」が現在のミクロネシア連邦の南端の島,「東端」がマーシャル諸島の東端の島,ということになるのでしょう。
「委任統治領」を除けば,やはり南端が沖ノ鳥島,東端が南鳥島,となりますね。
[10124] 2003年 3月 1日(土)19:23:05Issie さん
過去の日本領土の四端:つけたし
1つ書き忘れました。
*西端:澎湖島(台湾総督府管下)

その後,日本は南シナ海上,北緯10度・東経113度付近の島々を「台湾の一部」と主張し,1938(昭和13)年に「新南諸島」の名称で高雄市に編入しました。
したがって,以後はここが「西端」となります。また,沖ノ鳥島よりも南にありますから,委任統治領を除いた領土の南端にもなりますね。

現在,「南沙諸島」「スプラトリー諸島」などの呼称で,中華人民共和国・中華民国両政府をはじめとする周辺諸国が領有権を主張しています。
[10177] 2003年 3月 2日(日)09:51:47太白 さん
過去の日本の東西南北端
[10124][10121] issieさん
 日本の過去の東西南北端につき、体系的かつ詳細な解説をありがとうございました。特に、南沙諸島がかつて日本の領土であったことは初めて知り、大変勉強になりました。

 ちょっと詳細な世界地図を見てみると、キリバスの首都であるタラワのちょっと南東にあるアラヌカ島(Aranuka)が最も赤道に近い(北緯0度12分くらい)ように見えます。ここが南端のようです。また、同じくタラワの南東にあるアベラマ島(Abemara)は、東経174度付近に位置しており、ここが東端のようです。

 さて、西端ですが、南沙諸島の西端よりも、ベトナムの東に位置する西沙諸島(パラセル諸島)の西端(英語名だとトリトン島)の方が西に位置する(東経111度50分)ようですが、この西沙諸島は[10124]で言及されている「新南諸島」に含まれるのでしょうか?(ちょっと細かい点で恐縮です)。

 しかし、こうしてみると、昔の日本の範囲は随分「広かった」んですねえ…。
[10183] 2003年 3月 2日(日)11:13:59【1】Issie さん
キリバス
[10177] 太白 さん
キリバスの首都であるタラワのちょっと南東にあるアラヌカ島

キリバス=ギルバート諸島は旧委任統治領には含まれません。
ここは第1次世界大戦までのドイツ領ではなく,イギリス領だからです。
旧委任統治領の範囲が緯度・経度で指定されているのは前言の通りなのですが,緯線・経線で仕切った四角形ではなくて,四隅が欠けた八角形で,ちょうどギルバート諸島(イギリス領)やウェーク島(合衆国領)が外れています。さらに,やはり合衆国領であるグアム島も委任統治領からは当然外されますから,この部分だけ西側から切込みが入ったような形になっているのですね。
もちろん,太平洋戦争ではギルバート諸島も戦場になっているわけで,日本軍が占領しています。

なお,委任統治領時代,日本はこの島々を「南洋庁」(パラオ・コロール島)の下,サイパン,パラオ,ヤップ,トラック,ポナペ,ヤルートの各地域に区分して統治をしていました。

ベトナムの東に位置する西沙諸島

ここも現在,関係各国が領有権を主張しあっているわけですが,日本のいう「新南諸島」には含まれないようです。ここを,「台湾の延長」と主張したかどうかは,わかりません。

南沙諸島がかつて日本の領土であった

そう主張していただけ,でしょうけどね。
ま,戦争中はまわり全部を占領してしまったし。
[10196] 2003年 3月 2日(日)12:39:51【1】太白 さん
東西南北(まとめ)
[10183] issieさん
ご教示ありがとうございます。キリバスは旧イギリス領でしたか…。[10121] の書き込みに込められた含意を今理解しました。
遠い記憶ですが、グアムのあたりがえぐられた、日本の信託統治領を示した地図を思い出しました。
そうすると、過去の日本における東西南北の端は以下のように整理できますね。(緯度・経度は概算です)

北端占守島北緯51度北海道根室支庁占守郡
 樺太北端北緯55度ロシアとの共有(1867~75年)
南端ヌクオロ岩礁(現:ミクロネシア連邦南端)北緯4度国際聯盟委任統治領(南洋庁管下)
西端澎湖島東経119度台湾総督府管下
南沙諸島最西端東経112度1938年「新南諸島」として高雄市に編入
東端ノックス(Knox)環礁(現:マーシャル諸島東端)東経172度国際聯盟委任統治領(南洋庁管下)

 ただし、国際聯盟委任統治を除く場合、最東端は千島列島東端(占守島)、最南端は沖ノ鳥島(1938年以降は南沙諸島)

委任統治領を除く東端に関しては、南鳥島より占守島が東にあるように見受けられます。
[10520] 2003年 3月 6日(木)09:45:43太白 さん
海洋国の東西南北端
[10112]の答え合わせです。

1.イギリス
 北端:シェトランド諸島北端(Herma Ness):北緯61度(西経1度)
 東端:英領インド洋地域(チャゴス諸島/ディエゴガルシア):東経73度(北緯23度)
   (米軍の大規模な基地があります。香港返還により、以前より東端が西になりました)
 南端:南サンドイッチ諸島:南緯58度(西経27度)
 西端:ピットカーン島:西経130度(南緯25度)

2.フランス
 北端:本土北端(ダンケルク) :北緯51度
 東端:ニューカレドニアの東の島(マレ島):東経168度(南緯20度)
 南端:フランス領南極地域(ケルゲレン島):南緯50度(東経70度)
 西端:フツナ島:西経178度(南緯14度)

3.ノルウェー
 北端:スバールバル諸島北端(Sjuoyane):北緯80度(東経21度)
 東端:スバールバル諸島東端(Kvitoya):東経34度(北緯80度)
 南端及び西端:ブーベ島(アフリカの南):南緯54度、東経3度

4.オランダ
 北端:本土の北端(西フリージア諸島):北緯53度(東経7度)
 南端:オランダ領アンティル(カリブ海):北緯15度(西経68度)
 東端:本土の東端:東経7度
 西端:アルバ(カリブ海):西経70度(北緯18度)

なお、南極条約に基づき、南緯60度以南の領域については、領有権の主張が凍結されています。このため、南極大陸やその周辺の島はどの国の領土でもありません。
[10521] 2003年 3月 6日(木)10:14:17N-H さん
ノルウェー領ブーベ島
[10520]太白 さん

ブーベ島ときいて思わず出てきました。
私もその昔地球儀を眺めていてこんなところにノルウェー領の島があるのでたいそう驚いた記憶があります。
なにせ付近に目立った陸地や島もないため、世界地図の分図を見ても掲載されていないことが多く、謎の島です。
現在本土と何の地理的つながりもなさそうな遠くの海外に領土を持っている国がどれだけあるでしょうか。
アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、ポルトガルといったいわゆる昔からの列強諸国で、かつ第2次大戦に敗れなかった国ぐらいしかおもいつきません。
まあ、ニュージーランドあたりがかなり太平洋の遠方まで進出していますけれど、まあ「海続き」といってもいいでしょう。
そんな中、列強諸国とはいえないノルウェーが、南海の孤島を所有しているというのはいかにも意味ありげです。昔から南極探検に熱心だった国だったのでそれと関係があるようです。
なお、無線をやる人にとっては有名らしいですね。
それからなんといってもここの島はインターネットの独自トップドメインを持っているというのがすごいです。つまり、日本なら .jp イギリスなら .uk というのと同格で、ブーベ島ドメイン .bv というのがあるのです。
このように無人島なのにトップドメインを持つ島というのは、他にもオーストラリア領ハード島(.hm)があります。
[10526] 2003年 3月 6日(木)12:22:19【1】太白 さん
海外領土
連続書き込みですみません…。

[10521] N-Hさん
 ブーベ島は、本当に唐突なところにありますね。まさに南海の孤島。N-Hさんも指摘されていますが、ノルウェーは南極探検のパイオニア、アムンゼンを生んだ国ですし、南極条約締結前は南極大陸の一部の領有権を主張していたくらいですから、南緯60度以北にあったこの島が残ったということでしょうか?

 海外領土ですが、グリーンランド=デンマーク領、というのは結構有名ですね。ポルトガルについては、マカオの返還と東チモールの独立により、もはや海外領土はアゾレス諸島だけではないでしょうか。あと、スペイン領サハラもありますが、これはモロッコが実効支配してますし。

 実は、昔から、地図にも載っていないような「海外領土」の一覧を作ってみたいと思っていたのですが、[10112]の答えを確認する過程で良い資料を見つけたので、結果をまとめたものをUPします。比較的広い領土や諸島の緯度・経度については概算です。

国名名称日本名(仮訳)緯度経度地域
Anguillaアンギラ18 15 N 63 10 W カリブ
Bermudaバミューダ32 20 N 64 45 W北アメリカ
British Indian Ocean Territory英領インド洋(ディエゴガルシア他)6 00 S 71 30E南アジア
British Virgin Islands英領バージン諸島18 30 N 64 30 Wカリブ
Cayman Islandsケイマン諸島19 30 N 80 30 Wカリブ
Falkland Islandsフォークランド諸島51 45 S 59 00 W南アメリカ
Gibraltarジブラルタル36 8 N 5 21 Wヨーロッパ
Guernseyガーンジー49 28 N 2 35 Wヨーロッパ
Jerseyジャージー49 15 N 2 10 Wヨーロッパ
Isle of Manマン島54 15 N 4 30 Wヨーロッパ
Montserratモントセラート16 45 N 62 12 Wカリブ
Pitcairn Islandsピットカーン諸島25 04 S 130 06 Wオセアニア
Saint Helenaセントヘレナ(周辺の島を含む)15 56 S 5 42 W南大西洋
 (Ascension IS./Gough Is.)
South Georgia and 南ジョージア・南サンドイッチ諸島54 30 S 37 00 W南アメリカ
the South Sandwich Islands
Turks and Caicos Islandsタークス・カイコス諸島21 45 N 71 35 Wカリブ
ノルBouvet Islandブーベ島54 26 S 3 24 Eアフリカ
ノルJan Mayen ジャン・メイエン71 00 N 8 00 Wヨーロッパ
ノルSvalbardスバールバル諸島78 00 N 20 00 Eヨーロッパ
Bassas da Indiaバッサ・ダ・インディア21 30 S 39 50 Eアフリカ
Clipperton Islandクリッパートン島10 17 N 109 13 W中央アメリカ
Europa Islandエウロパ島22 20 S 40 22 Eアフリカ
French Guiana仏領ギアナ4 00 N 53 00 W南アメリカ
French Polynesia仏領ポリネシア(タヒチなど)15 00 S 140 00 Wオセアニア
French Southern and Antarctic Lands仏領南部・南極地域43 00 S 67 00 E南極
(ケルゲレン・クロゼ諸島)
Glorioso Islandsグロリオソ諸島11 30 S 47 20 Eアフリカ
Guadeloupeグアドループ16 15 N 61 35 Wカリブ
Juan de Nova Island ジャン・デュ・ノバ島17 03 S 42 45 Eアフリカ
Martiniqueマルティニーク14 40 N 61 00 Wカリブ
Mayotteマヨット12 50 S 45 10 Eアフリカ
New Caledoniaニューカレドニア21 30 S 165 30 Eオセアニア
Reunionレユニオン21 06 S 55 36 Eアフリカ
Saint Martin Islandサンマルタン島(の一部)19 00 N 63 10 Wカリブ
Saint Pierre and Miquelonサンピエール・ミクロン46 50 N 56 20 W北アメリカ
Tromelin Islandトロメイン島15 52 S 54 25 Eアフリカ
Wallis and Futunaウォリス・フツナ13 18 S 176 12 Wオセアニア
Baker Islandベーカー島0 13 N 176 31 Wオセアニア
American Samoa米領サモア14 20 S 170 00 Wオセアニア
Howland Islandホーランド島0 48 N 176 38 Wオセアニア
Guamグアム13 28 N 144 47 Eオセアニア
Jarvis Islandジャーヴィス島0 22 S 160 03 Wオセアニア
Johnston Atollジョンストン環礁16 45 N 169 31 Wオセアニア
Kingman Reef キングマン岩礁6 24 N 162 24 Wオセアニア
Midway Islandsミッドウェイ島28 13 N 177 22 Wオセアニア
Navassa Islandナヴァッサ島18 25 N 75 02 Wカリブ
Northern Mariana Islands北マリアナ諸島(サイパン)15 12 N 145 45 Eオセアニア
Palmyra Atollパルミラ環礁5 52 N 162 06 Wオセアニア
Puerto Ricoプエルトリコ18 15 N 66 30 Wカリブ
Virgin Islands米領バージン諸島18 20 N 64 50 Wカリブ
Wake Islandウェーク島19 17 N 166 36 Eオセアニア
Arubaアルバ12 30 N 69 58 Wカリブ
Netherlands Antillesオランダ領アンティル12 15 N 68 45 Wカリブ
Saint Martin Islandサンマルタン島(の一部)18 00 N___ 63 10 W___カリブ

注)英:イギリス、ノル:ノルウェー、仏:フランス、米:アメリカ、蘭:オランダ

出典はCIA(アメリカ中央情報局)です(所在地域もその表記に準じています)。オーストラリアとNZはデータを拾っていません。しかし、CIAってこんなことまでやってるのか…。原典のHPを記しておきます。英語ですが、世界の全ての国・地域について、かなりの情報量です。

http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/index.html
[10528] 2003年 3月 6日(木)12:44:59N-H さん
海外領土
[10526]太白 さん

おもしろいねたをまたありがとうございます。なるほどCIAですか。
「飛び地」というと、自治体の境界線だとわれわれ変人(?)の興味の対象になる程度ですが、これが国の飛び地となると植民地問題や国際紛争に直結するわけですからとたんにきな臭さが倍増しますね。
東チモールなんてポルトガルの飛び地なんて悠長なことは言ってられないわけです。
確かにCIAの資料で出てきても全くおかしくないですね。
JAPANの項目を見てみると、係争地域として北方4島、竹島、尖閣列島なんかがちゃんと書かれていますね。

スペイン領サハラもありますが、これはモロッコが実効支配してますし。

モロッコの北側、ジブラルタル海峡の南側にセウタとメリリャというスペインの飛び地があるかと思いますが、ここの現状はどうなのでしょうか。
[10537] 2003年 3月 6日(木)14:13:18般若堂そんぴん さん
スペイン領サハラ→西サハラ
[10526]太白さん
西サハラ(旧・スペイン領サハラ)では
1973年にポリサリオ戦線が結成され,独立戦争を開始.
1975年にスペインが領有権を放棄,モロッコ,モーリタニア両国に譲渡しました.
1979年2月,サハラ・アラブ民主共和国(RASD)の樹立を宣言.
1979年8月,モーリタニアは領有権を放棄.以後,モロッコが領有権を主張.
1991年9月,ポリサリオとモロッコは停戦.

西サハラの帰属を問う住民投票は未だ行われていません.
というわけなので,現在はスペイン領サハラとはよばず,西サハラといいます.
[10543] 2003年 3月 6日(木)15:11:07【2】太白 さん
西サハラ&セウタ
[10537] 般若堂そんぴん さん
現在はスペイン領サハラとはよばず,西サハラといいます.

 失礼しました。スペインは領有権を放棄していたのですか。小さい頃家にあった1970年前後の地図が頭にあるので、古い呼称を使ってしまいました。
 ここ30年程度をみても、旧ソ連、旧ユーゴスラビアをはじめとして、独立や国名変更の例がありますね。ちょっと変わった(?)ところでは、
 東パキスタン→バングラデシュ
 南ローデシア→ジンバブエ
 ザイール→コンゴ(民主共和国)
 オートボルタ→ブルキナファソ   などでしょうか。


[10528]K-Nさん
 セウタは、私にとってはモロッコ、ジブラルタルと合わせ、是非1度言ってみたい場所の1つです。
 セウタの歴史については、以下のHPに解説があります。(このHP、世界の飛び地に関してはかなり詳しいです)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/africa/ceuta.html
[10590] 2003年 3月 6日(木)23:39:55たけもと さん
ナウル
[10482]般若堂そんぴん さん
ナウルが「丸い国」金メダルというのは実に適切ですね.隣鉱石(海鳥の糞)が採れなくなったため,余所に土地を購入して国家全体が移住する,という話はどうなったのでしょうね?

まあ、これでも読んでみてください。
http://news.msn.co.jp/articles/snews.asp?w=391111
[11824] 2003年 3月 25日(火)23:39:32【1】Issie さん
フン
[11811]三丁目 さん

まず初めに,フィンランド語もハンガリー(マジャール)語も,言語的にはウラル諸語と同系で,おそらくはフン族の言葉が属していたであろう中央アジアの諸言語とは直結しない,というのは現在では「定説」になっています(実は,ハンガリー語についてはトルコ系諸語の系譜に連なるかどうかの論争がありました。けれども現在では,ウラル地方から移動する途中でトルコ系遊牧民(これが「オノグル族」)と接触して相当の影響を受けたけれども,マジャール人自身はトルコ系とは別系統,という考え方が一般的になっています)。

英語表記にするとフィンランド、ハンガリーが、それぞれフンに通じる音であるし、

「フィン」の場合,これは本当に“通じている”でしょうか。
確かに母音や子音の種類がたいへん貧弱な日本語ではお互いに大変近い音ではあるけれども,本来 Fin というのは唇で発音する音ですね。それに対して Hun というのは喉の奥で発音する音です。中国語の「匈奴」に通じるのであれば,たとえばロシア語の х やドイツ語の ch のように喉の奥をこすって発音するような音であるように考えられます。
発音する場所が相当に違う点,Fin と Hun とが通じるのかどうか,ヨーロッパ語の立場からすれば疑問に思います。

「ハンガリー」の場合,実は彼らが接触した「オノグル族」がかつて中央アジアから黒海北方の草原地帯に侵入したフン族の流れをくむものらしいとは考えられています。
けれども,現在では「フン」と「ハンガリー」とは直接結びつかないという説の方が多くの支持を集めています。
確かに(現代)英語では「ハンガリー」は Hungary ,「フン」は Hun と表記されます。
ところが,そのハンガリー(人)と最も濃密に接触したはずの(現代)ドイツ語では,ハンガリーが Ungern ,フン族は Hunne となっています。
同じく,ハンガリー人(マジャール人)と密接に接したであろうスラブ人の代表としてロシア語で見てみると,ハンガリーは Венгрия (Vengriya:ヴェングリヤ),フン族は гунн (gunn:グン)となります。ロシア語をはじめとするスラブ諸語では,以前に ニジェガロージェッツ さん が説明されていたように,喉の音の h を г (g) で転写する習慣があるのですが(だから,横浜が Иокогама:ヨコガーマ となる),それにしてもこの2つがお互いに“通じる”ものである,と即座に言うことはできないように思います。

確かに,「人伝えの噂」でマジャール人のことを耳にした西ヨーロッパの人々は,昔の「フン」の話を思い出したかもしれません。けれども,直接にマジャール人と接触した中・東欧の人々は,「フン」と「マジャール」(オノグルと混同したけれども)とは別に考えていたのではないか,と考えています。

でも,「歴史上の伝説」に,それが「史実」であるかどうかは,実はどうでもよいことなのです。
何となく説得力があって,みんながそう信じ込んでしまうようなものであれば,そしてそれを流布する媒体が発達すればするほど,事実とは関係なく「伝説」は広く定着してしまうものだと,私は思っています。
[11845] 2003年 3月 26日(水)12:45:14Issie さん
リトアニア語
[11841]ken さん
良くわからないのですが、リトアニア語とポーランド語とかも似てるんじゃないでしょうか?

確かに似ているのですが,これにはワンクッションがあります。

まず,リトアニア語は隣りのラトビア語ととてもよく似ています。この2つの言語と,現在はロシア連邦カリーニングラード地方とその南隣のポーランド領にまたがる,かつてのドイツ領プロイセン(プロシア)の先住民の言葉で現在は消滅してしまった「(古)プロイセン語」とで,「バルト語派」と呼ばれるグループが形成されます。
一方,ポーランド語はチェコ語やスロバキア語などとともに「西スラブ諸語」というグループをつくり,ロシア語・ウクライナ語・ベラルーシ(白ロシア)語などで構成される「東スラブ諸語」,セルビア語・クロアチア語・スロベニア語・マケドニア語・ブルガリア語などで構成される「南スラブ諸語」などとまとめて,全体で「スラブ語派」というグループを構成します。
で,この「バルト語派」と「スラブ語派」とは,「インド・ヨーロッパ語族」に属する諸グループの中でもお互いによく似ています。
実際にリトアニア語の単語集をざっと眺めてみると,確かにポーランド語やロシア語とよく対応しそうな単語が目につきますね。

リトアニア語とポーランド語とが似ているように見えるもう1つの要素は表記法ですね。
ポーランド語には「~ン」と鼻に抜ける鼻母音があって(フランス語やポルトガル語にもあります。実は日本語も鼻母音の豊富な言語の1つです)そのための文字があるのですが,それがリトアニア語の表記にも用いられます。かつてはリトアニア語にも鼻母音があったのですが,その後の変化で現在は鼻母音としては発音されません。
背景には14世紀末以来,リトアニアとポーランドが一体的な国であったことがあるように思います。

14世紀のリトアニアは北東ヨーロッパで最大の勢力でした。
キエフ・ルーシが衰退し,モンゴルの侵入で東スラブ(ルーシ)地域が分裂する中,リトアニアは現在のベラルーシへ勢力を伸ばしていきました。
この段階のリトアニア語は,まだたいへん素朴な言葉でしたから,行政上の文書処理の言語としては文字言語としての蓄積のある(当時の)ベラルーシ語が用いられました。やがて,リトアニアの支配層ではベラルーシ語が優勢となります。
1386年,カトリックに改宗したリトアニア大公ヨガイラがポーランド女王ヤドビガと結婚してポーランド王ヤゲウォ(ヤゲロ)となることで,リトアニアとポーランドは一体化への道をたどりました。
そうした流れの中,はじめのうちはベラルーシ語やリトアニア語も統合国家の中でそれなりの地位が与えられていたようですが,やがて行政上の言語としてはポーランド語に一本化され,リトアニア語やベラルーシ語,さらにその後ポーランドの支配下に入ったウクライナ語などの使用は廃止されてしまいました。その結果,これらの言語はフィンランド語がそうであったように「田舎の農民の言葉」となってしまったのです。

ただ,そのせいかどうか,リトアニア語やラトビア語には格変化をはじめとする文法要素についてインド・ヨーロッパ語の古い形態が保存されることになりました。19世紀,これに気づいた言語学者によってリトアニア語は一躍脚光を浴びることになりました。
そして,フィンランド語と同じような経過を経て,第1次世界大戦後,独立リトアニアの公用語として「復活」をとげたわけです。
[11855] 2003年 3月 26日(水)15:51:15太白 さん
ケーニヒスベルグ(カリーニングラード)
 飛び地とリトアニア関連でもう1件書き込みます。

 リトアニアの南に、ロシアの飛び地として、ケーニヒスベルグ(カリーニングラード)があります。ここはもともと、中世(13世紀)にドイツ騎士団が入植して以来、伝統的にドイツ・プロシア領土になっており、19世紀以降はプロシアの本体と陸続きだったわけですが、第1次大戦後のベルサイユ条約により、ポーランドに海への出口(回廊)を与えるため、ドイツが領土の一部を割譲した結果、東プロイセン(主に現在のケーニヒスベルグ)地域はドイツの飛び地となりました。大戦後の領土関係については以下のHPに地図があります。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/ussr/esatprussia.html
 (なお、ポーランドの海の出口にある「ダンチヒ」(現グダニスク)は自由市=国際連盟管理地域)

 そして、第2次大戦末期にケーニヒスベルグをソ連軍が占領し、南北に分割され、南半分はポーランド領、北半分はソ連領(ロシア共和国カリーニングラード州)となりました。現在はロシア領で、名称は昔のケーニヒスベルクに戻っているようです。

 ここで疑問なのですが、上記HPの地図と比べると、ポーランドは第2次世界大戦の結果、国土がかなり西に寄っています。旧ポーランド領の東側は、現在、ベラルーシやウクライナになっています。にもかかわらず、ケーニヒスベルグだけは隣のリトアニアに編入されることなく、ロシア共和国の飛び地とされたのは何故でしょうか?
 ロシアとの関係で、ウクライナ・ベラルーシ(白ロシア)に比べて、リトアニアは冷遇されたように見えます。確か、リトアニア共和国はバルト3国の中ではロシア人の比率が比較的高かったと思うのですが、それとは関係なく、ロシア人中心のソ連指導部と各共和国との「政治的距離」のような判断があったのでしょうか…。
[11873] 2003年 3月 26日(水)19:08:16【1】Issie さん
プロシア
[11855] 太白 さん
19世紀以降はプロシアの本体と陸続きだったわけですが

地名としては,バルト海南東隅のケーニヒスベルク(カリーニングラード)周辺の地域が「本来のプロシア(プロイセン)」で, [11845] で触れたとおり「プロシア人」とは本来ドイツ人とは関係なく,ドイツ騎士団に征服されてしまった異教徒のことでした。
ベルリン周辺の本来の呼称は「プロイセン」とは全く関係なく「ブランデンブルク」。
ドイツ騎士団の支配下にあったプロイセンは16世紀前半に「プロイセン公国」に“昇格”するのですが,その「プロイセン公」の地位を1618年に「ブランデンブルク選帝侯」であったホーエンツォレルン家が継承することとなり,以後プロイセンとブランデンブルクは一体化への道をたどることになりました。
ホーエンツォレルン家の本拠地は「ブランデンブルクのベルリン」なのですが,「ブランデンブルク侯」よりも「プロイセン公」の方が“ランクが上”なので,以後この連合国家は「プロイセン」と呼ばれることになりました。
似た例には,イタリア北西部のピエモンテを支配していた「サボイ(サボワ)公」が「サルデーニャ(サルジニア)王」の地位を獲得したことで「サルデーニャ王国」と呼ばれるようになった,というものがあります。後のイタリア王国の中核となった国ですね。

ケーニヒスベルグだけは隣のリトアニアに編入されることなく、ロシア共和国の飛び地とされたのは何故でしょうか?

この地域がリトアニアの支配下に入ったことがない,というのも理由かな,と考えています。
ベラルーシもウクライナも,かつてはリトアニア(および,これと合体したポーランド)の支配下に入った地域ですが,このときすでにプロイセンはドイツ騎士団の支配下に入っていました。
リトアニアがポーランドと合体した頃,リトアニアの支配地域で多数を占めていたのは既に東スラブ(ベラルーシ,ウクライナ)人でした。
かつての「大リトアニア」の姿は,第1次大戦末期に革命ロシアとドイツとの間で講和条約が結ばれた「ブレスト・リトフスク」(リトアニアのブレスト,という意味。現在は単に「ブレスト」で,ベラルーシ領)という地名に名残をとどめていましたが,ポーランドから「奪った」地域の住民は多くがベラルーシ人やウクライナ人ですから,ここがそれぞれ白ロシアやウクライナに編入されたのは,ある意味自然なことと思います。
けれどもケーニヒスベルク地区にリトアニア人が多く住んでいたかというと,そうではないのですね。リトアニアの支配に入ったことがありませんから。
結局この地域は,ソビエト連邦の「盟主」であるロシア連邦に飛び地として編入されています。
[11902] 2003年 3月 27日(木)01:23:55【2】ニジェガロージェッツ さん
カリーニングラード  バルト3国の国境の変遷
[11855]太白 さん
第2次大戦末期にケーニヒスベルグをソ連軍が占領し、南北に分割され、南半分はポーランド領、北半分はソ連領(ロシア共和国カリーニングラード州)となりました。現在はロシア領で、名称は昔のケーニヒスベルクに戻っているようです。

ソ波2国に分割された嘗てのオストプロイセン(東プロシア)のうち、ソ連・ロシア共和国に編入されたカリーニングラード州に関する書き込みですが・・・
州名、市名とも、現在においても「カリーニングラード」のままで、旧名には戻っておりません。
参考までに、カリーニングラード州のホームページを出しておきます。
http://www.government.kaliningrad.ru/
地図も出ています
http://www.government.kaliningrad.ru/images/map.jpg

また、カリーニングラード市を構成する5つの区の中にも「ケーニヒスベルグ」に由来するものがありません。
例えば、ロシア本土でソ連時代に都市名が変更されていた都市でも、市内の区名に旧称が残っていた例があります。
旧レニングラード市ペトログラード区[ピタログラーツキー ラヨン]や、旧ゴーリキー市ニジニノヴゴロド区[ニジェガローツキー ラヨン]が、その例にあたりますが、カリーニングラード市には「ケーニヒスベルグ区」は存在していません。
カリーニングラード市の5区の名称と2000年1月1日の人口データを出しておきます。
市・区人口面積km2 ロシア語表記[地名発音]
カリーニングラード市(5区)424,400211.53город Калининград[ゴーラト カリーニングラート]
 レニングラード区154,20053.7_Ленинградский район[リニングラーツキー ラヨン]
 中央区88,00038.8_Центральный район[ツェントラーリヌイ ラヨン]
 バルト区71,20034.__Балтийский район[バルチースキー ラヨン]
 モスクワ区69,40042.__Московский район[マスコーフスキー ラヨン]
 十月区41,60045.__Октябрьский район[アクチャーブリスキー ラヨン]
参考までに、カリーニングラード市のホームページも出しておきます。
(露語)http://www.klgd.ru/ru/
(英語)http://www.klgd.ru/en/
ロシア語版では、区の一覧もありました。
http://www.klgd.ru/ru/city/districts/index.php

前にも書いたことがありますが(拙稿[3740])、心理的にも領土問題の残っているカリーニングラード州では、旧名に戻すのに当局ではかなりの抵抗があるようです。
参考までに、カリーニングラード州の全22市の旧称を調べて見ました。但し、ロシア語のサイトから出したもので、旧称にしてもロシア風にアレンジされた表記もあることを、おことわりします。
人口は2000年1月1日のデータ
現行都市名人口 旧称旧称の年代
カリーニングラード424,400ケーニヒスベルク1255-1946
ソヴェツク43,300チリジット1288-1946
チェルニャホフスク43,000インステルブルク1336-1946
バルチースク31,200ピッラウ1686-1946
グーセフ27,900グンビンネン?-1946
スヴェートルイ21,700
スヴェトロゴルスク13,400ラウシェン1258-1946
ネマン13,000ラグニット1288-1946
ゼレノグラーツク12,400グランツ(クランツ)1252-1946
グヴァルジェイスク12,000タピアウ?-1946
ピオネールスキー12,000ホイクレン1254-1946
グリエフスク9,800ノイハウゼン1262-1946
マモーノヴォ8,100ハイリゲンバイリ1301-1947
バグラチオノフスク7,400プリョイシシ=エラウ1585-1946
ポレーススク7,400ラビアウ?-1946
オジョールスク6,200ダルケメン1724-1946
ネスチェロフ5,000シュタッルピョネン1732-1946
スラフスク4,600ハインリフスヴァリデ1292-1946
プラヴジンスク4,500フリードラント1312-1946
クラスノズナメンスク4,000ラズデネン1734-1946
ラードゥシキン3,300リュドヴィヒソルト1314-1946
プリモルスク2,000フィシュハウゼン1268-1946

カリーニングラード州においては、人口1万人未満の小都市が乱立しております。
似たような例としてはサハリン州があります。(拙稿[2683]で言及)

[11855]太白 さん
ロシアとの関係で、ウクライナ・ベラルーシ(白ロシア)に比べて、リトアニアは冷遇されたように見えます。

確かに、東スラヴ系の両国に比べれば、リトアニアは冷遇されたように見えますが、しかしバルト3国の中では、ソ連の支配下を経てリトアニアのみ戦前の領土を拡張させています。
両大戦間では、現在の首都ヴィルニュスを含むリトアニア東端一帯はリトアニアに属さず、旧ポーランドの領土に属し、ポーランドとの領土係争地でした。両大戦間のリトアニアの首都がカウナスだったのはそのためです(杉原千畝氏の勤務した領事館がカウナスにあったのは有名)。
この旧ポーランド領の係争地は、1939年の独ソによるポーランド分割の際に、ソ連・白ロシア共和国とリトアニアで折半され、ヴィルニュス市を含む一帯がリトアニアに返還された形になり、リトアニアのソ連併合(1940年)以降、リトアニアと白ロシア(ベラルーシ)共和国の国境となり、戦後も踏襲され、現在に至っています。

一方で、バルト3国のうちラトヴィアとエストニアはいずれも戦前の領土の一部をソ連支配下でロシア共和国に「移管」され、領土をもぎ取られたまま1991年にソ連から独立し、現在に至っています。
次の3市はいずれも両大戦間にはラトヴィアとエストニアの領土でした。
人口は2000年1月1日のデータ
都市所属人口旧称旧所属国
プィタロヴォロシア・プスコフ州7,200アブレネラトヴィア
ペチョールイロシア・プスコフ州13,700ペトセリエストニア
イヴァンゴロドロシア・レニングラード州11,900ナルヴァ市の一部エストニア
[11906] 2003年 3月 27日(木)04:49:20【2】太白 さん
カリーニングラード レス
[11873] Issie さん
[11902] ニジェガロージェッツ さん

 カリーニングラードの国境変遷に関する経緯(及びデータ)につき、詳細にわたりご教示いただきありがとうございました。
 この地域について殆ど予備知識もなく(…って、別に他に詳しい地域があるわけでもないですが)、かなり不正確な書き込みになりましたことをお詫びいたします。

州名、市名とも、現在においても「カリーニングラード」のままで、旧名には戻っておりません。
参考までに、カリーニングラード州のホームページを出しておきます。

 ご指摘のとおりです。地図の方はキリル文字で書かれているので、"It's all Greek to me!"ですが、雰囲気は分かります。手元の"Concise ATLAS of the WORLD"でも、しっかり「カリーニングラード」でした(苦笑)。

 ラトヴィアとエストニアはいずれも戦前の領土の一部をソ連支配下でロシア共和国に「移管」され、領土をもぎ取られたまま1991年にソ連から独立し、現在に至っています。
ペチョールイ(中略)エストニア
イヴァンゴロド(中略)エストニア

 この、旧エストニアの2つの領域ですが、上記地図によると、1999年3月に、エストニアからロシアに対し、領有権主張(返還)の申し立てがなされています。
[11909] 2003年 3月 27日(木)07:38:14【1】太白 さん
飛び地の定義
[11857] N-H さん
[11868] KMKZ さん

 研究家に素人が楯突くのは僭越ですが、[11853]でデンマークのユトランド半島まで「飛び地」と判定してしまった私としては、N-H さんの飛び地の定義には異議があります(笑)。
 私自身は、「飛び地」の定義はもっと緩く解釈すべきではないかと思います。
 以下、自治体間ではなく、基本的には国と国の関係という前提で議論させていただきます。

 N-Hさんの定義を引用します。
本体をA、飛び地をBとします。
(1) AとBは陸上部分で接していない
(2) AとBは地続き(陸地のみ経由して双方行き来できる)である
(3) AとBのいずれかは海岸線を持たない
(4) BはAと異なる単一の自治体(など)に囲まれている
(5) Aの面積 > Bの面積

 (1)は議論の余地はないと思いますが、私は、(2)は必須ではないと思います。(2)の議論を厳格に適用すると、ポルトガルにとって旧ゴア植民地は(ユーラシア大陸の一部なので)飛び地だが、イギリスにとっての返還前の香港は飛び地でないことになります
 また、(3)を要件としてしまうと、例えば同じポルトガルの旧植民地でも、ダマオは飛び地でないが、ちょっと内陸にあったダドラやナガールアベリは飛び地と判定され、直感的に不合理が生じます。

(参考:ダマオ、ダドラ、ナガールアベリ位置関係については以下のHPを参照。ナガールアベリの中に、更にボンベイ(ムンバイ)の飛び地があって、結構ここはすごい(すごかった)です)

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/india/datra.html

 同様に、(4)についても、飛び地の「質」(いかに美しい飛び地か)についての議論であって、飛び地に該当するか否かを判定する要件ではないと思います。
 さらに、(5)については「感性」の問題かもしれませんが、私自身は、赤道ギニアのような大きい「飛び地」の方が希少性という意味で価値が高いと思うのですが…。

 では、定義として何らかの適切なものはあるのか? 対案を考えてみました。

★飛び地の定義(太白案)

-A国の本体をA1、飛び地判定対象をA2、A2から最も近いA国の別の領土をA3とします。
 対象となる任意の国をB国とし、A2から最も近い領土をB2、本体をB1とします。
(なお、A1=A3、B1=B2となる可能性あり)

以下の要件をすべて満たすA2を「飛び地」とする。
(1) A1とA2は陸上部分で接していない
(2) A2とA3の距離は、A2とB2の距離より長い。
(3) A2とA1の距離は、A2とB1の距離より長い。
(A2とB2又はB1が陸続きである場合、その距離はゼロ)

 <具体例>
カリーニングラード、アラスカ:飛び地
北アイルランド:飛び地:イギリス本国とは海を隔てているが、北アイルランドとは陸続き
クリスマス島(豪州):飛び地:豪州よりインドネシアの方が近い
与那国島:要件(2)を満たさない:西表島の方が、台湾より近い
サルディニア島:要件(3)を満たさない:イタリア本国の方が、フランス本国より近い
関西空港の各自治体:要件(3)を満たさない(本体の境界線の延長上にある)

この考え方は、それぞれの領土が海に面しているか、島であるかは飛び地の判定に影響を与えません。島については、相互の本体同士の中間点までを勢力範囲となることを仮定しつつ、沖縄のように島が続いているときは、一方の国が中間点を超えて領土を保有しても飛び地ではないと判定するものです。

また、飛び地の質の問題としては、以下の(いずれかの/双方の)要件を満たす飛び地は、「飛地度」が高い。

(a) 上記定義(2)と(3)について、任意の国との距離差が著しく大きいもの
(b) B2が海岸線を持たない
(c) BがAと異なる単一の他国に囲まれているもの

例えば、ノルウェーのブーベ島、フランスのニューカレドニアなどは、条件(a)の距離差が大きいので、飛び地度が高いといえるのではないでしょうか?

「植民地」や「海外県」と飛び地との差異は「何かという政治的な問題
 私見ですが、飛び地の定義は、N-Hさん自身が言及されているように、AとBとの関係という、純粋数学的な問題であって、そこに政治的な問題を考慮する必要はないと思います。もっとも、第2次大戦前の状況だと、世界中飛び地になってしまいますが…。
 私の定義で申し上げれば、セウタやメリリャは飛び地になります。直感的に申し上げれば、周りがモロッコ領なのに、そこにあるスペイン領が着目されている(=何らかの「違和感」がある)以上、やはり飛び地なのではないでしょうか。

 以上の私案は、飛び地を若干広く認めすぎるきらいがあり、個々の適用において不合理な場面も出てくるかと思いますので、皆様のご意見をいただければ幸いです。
[11970] 2003年 3月 27日(木)20:43:20三丁目 さん
Re:ポーランド・ウクライナ・バルト史
[11825]Issieさん

本日、時間があったので、都心の大きな書店で、ご紹介頂いた本を少しだけ立ち読みしました。第一次大戦後に、突然バルト3国が独立した印象があったので、ナンノコッチャ、と思ってましたから。ポーランドとの関係が記述されていたので、つながりを少しだけ理解できました。

しかし、世界史を受験科目として学んだ当時は、あまり考えてませんでしたが、一国(ポーランド)を他国が分割して自国の領土に組み入れてしまう、というのは、凄まじいばかりですね。朝鮮半島を日本が自国の領土としていたことも、併せて考えてしまいました。

そもそも、この本の出版は、私が北欧関係を探していた頃よりは新しめで、だいたい北欧関係の本は、スウェーデン関係を除くとあまり新しい本が出版されることがなかったので、久しくそういうコーナーへは立ち寄ってませんでした。

しかし、この本が出版された経緯を読むと、もともと東欧史として括られ1冊の本だったものが、世界の激動により、分かれて独立することになった、とありましたから、さもありなん。と言うのか、国際情勢の変化はこういうところにも影響を与えるのか、と思いました。

バルト3国史も、分量は少なかったので、たぶん、立ち読みですませてしまうと思います。

[11842]Issieさんの
フィンランド語は「田舎の農民や牧民の言葉」と意識されていたようです。

にも反応したかったのですが、本日は既にお酒が入り、本を読む能力と思考能力が既に低下しているので、ネタがそろえば、ご質問したい気持ちです。

でも、あまりお酒が入ったときは、書き込みを控えねばならぬ、と反省しているこのごろです。そもそも、私がHNの変更を決断したのは、自分色登録をお願いしたからなのです。自分の恥ずかしい書き込みを、自身で訂正しなければ、と先日気づいたものですから。地理ネタご提供は少ないかもと思いつつも。。グリグリさんもお忙しいようですから、お手すきになられるのをお待ちしております。

でも、雑魚さんて、お酒が入っても冷静に書き込めるのがスゴイ、とかねてから思ってました。
[11994] 2003年 3月 28日(金)01:28:13ニジェガロージェッツ さん
消えたはずの旧ポーランド東部国境が・・・
太白さんが[11855]で、リンクを出してくださっている、両大戦間の中欧地域の地図に因んで書き込みます。

この地図で一番興味があることの一つは太白さんも述べておられるように、現在と領域が大幅に東にずれているポーランドでしょう。
この「落書き帳」でも、以前にIssie先生が
[1900] オシフェンチム
[4694] ロシアの西部国境
などで、詳しくご教示くださっております。

この地図で、ポーランド領の東部となっているヴィルノ(現リトアニアの首都ヴィルニュス)、レムベルク(正しくはリヴーフ、現ウクライナ領リヴィフ)に、ブレスト=リトフスク(現ベラルーシのブレスト)の3つの都市が、両大戦間のポーランドを象徴する都市だったそうです。
このように、東ポーランド(=西ウクライナ+西べラルーシ)を含む戦前のポーランドの人口構成では、ポーランド人が全体の6割ほどに留まった多民族国家だったそうです。
戦後ポーランドの領土は、この東ポーランドをソ連に奪われ、その穴埋めとして敗戦国ドイツよりオーデル=ナイセ線以東とオストプロイセン南部のドイツ領が、新たに新領土としてポーランドに与えられました。
旧ドイツ領からはドイツ人が強制的に駆逐され、変わってソ連領となった東ポーランドから住民交換でポーランド人が旧ドイツ領へ移住し、この結果ポーランドは、人口の98%がポーランド人という高度に同質の「単一民族国家」となりました。
そして、戦後のポーランドを象徴する都市として、グダニスク(旧ドイツ系のダンツィヒ自由市)、ヴロツワフ(旧ドイツ領ブレスラウ)、シュチェチン(旧ドイツ領シュテッティン)の3つの都市が挙げられるそうです。

さて、このポーランドの旧国境線のうち、旧ドイツ国境は現在のポーランドの地図からは完全に姿を消し、なぞることが容易ではありません。
しかし旧ポーランド・ソ連国境は、現在のウクライナにおいては州界として残っており、ベラルーシにおいても一部が州界として残っています。

ウクライナの州ごとの地図です。
http://travel.kyiv.org/map/

ウクライナを構成する25州(このうちクリミアは「州」ではなく「共和国」ですが)のうち、西部のヴォリン(Luts'k)、リヴィフ(L'viv)、イヴァノ=フランキフスク(Ivano-frankivs'k)、テルノポリ(Ternopol)、リヴネ(Rivne)の5州が、旧ポーランド領です。
また、ザカルパト州(Uzhhorod)は旧チェコスロバキア領、チェルニフツイ州(Chernivtsi)は旧ルーマニア領です。
つまり現在のウクライナにおいては、リヴネ・テルノポリ2州の東界はそのまま旧ポーランド・ソ連の国境を踏襲し、テルノポリ州の南界およびイヴァノ=フランキスク州の東界は旧ポーランド・ルーマニア国境を、また、イヴァノ=フランキスク・リヴィフ2州とザカルパト州の境界は旧ポーランド・チェコスロバキア国境をなす、ということです。

さらに、
ベラルーシの州ごとの地図です。
http://www.evmaps.com.by/english/index.htm

ベラルーシを構成する6州のうち、西部のブレスト州とグロドノ州が旧ポーランド領で、現在のブレスト州とゴメリ州の州界は、そのまま旧ポーランド・ソ連国境です。旧国境線はこれ以北では、現在の州界には沿わず、ミンスク州内を通ります。ミンスク州のうち(地図上をクリックすると州内の地区が色分けされた詳細図が出ます)西部の7地区が旧ポーランド領のように思われます。また、北のヴィテフスク州では、南東部の6地区が旧ポーランド領のようですが、ドクシツィ地区はその西部が旧国境線より西にはみ出しているようです。

このように、消えたはずの旧国境線が、ウクライナとベラルーシでは、州界として「保存」されているのが興味深いところです。

参考までに、旧ポーランド領のウクライナ5州と、ベラルーシ2州のデータを出しておきます。
州名所属国面積km2人口州都
ヴォリン州ウクライナ20,2001,078,000(1995)ルツク
リヴィフ州ウクライナ21,8002,770,000(1995)リヴィフ
イヴァノ=フランキスク州ウクライナ13,9001,467,000(1995)イヴァノ=フランキスク
テルノポリ州ウクライナ13,8001,178,000(1995)テルノポリ
リヴネ州ウクライナ20,1001,195,000(1995)リヴネ
ブレスト州ベラルーシ32,3001,449,000(1990)ブレスト
グロドノ州ベラルーシ25,0001,164,000(1990)グロドノ
[12032] 2003年 3月 28日(金)21:40:40ニジェガロージェッツ さん
バルト3国とポーランドの地図
[12007]太白 さん
レス有難うございます。
文字数こそ30万文字に達しましたが、書き込み数は9か月かかって未だに214件の牛歩です。

旧ポーランド国境の名残は興味深いですね。思わず地図に見入ってしまいました。

折角ですから、旧ポーランド国境の通っていたリトアニアとポーランドの地図を出しておきます。
ポーランドに於いては、数年前に従来の49県を16州に改変したようです。
いずれも、旧国境は完全に無視されています。

リトアニアの地図です。(ラトヴィア、エストニアを含む)
http://www.virtual.lv/maps/baltic500000/baltic_all_full.htm

ポーランドの地図一覧です。(16州=2000年と、49県=1982、1997年の両方が見られます)
http://www.lib.utexas.edu/maps/poland.html
[12057] 2003年 3月 29日(土)09:16:07【1】深海魚[雑魚] さん
ベルリンの壁
飛び地の話題が盛んな様ですが、行政上の解釈からすると、大使館や領事館など在外公館および
空港などで税関を経た先の領域も 「飛び地」 と見なし得るのかな。(笑)

西ベルリンに関する鉄道誌の記事によれば、西独 「本土」 と西ベルリンを結ぶ列車は東独領内では
勿論 通過扱いなのですが、火器で武装した東独の警官が同乗し、物々しい雰囲気だったそうですね。
東西の接点と言えば、チャーリー検問所や Sバーンのフリードリッヒ・シュトラーゼ駅が有名でしたが、
エルベ川など、ベルリン以外の国境線では、どの程度あったものやら。

亡命阻止目的か、東独市民はバルト海沿岸での海水浴等は禁じられていたそうで、バカンスの際は
わざわざ国境を越え、黒海方面に行く手合いが少なくなかったとも聞きます。1989年秋にベルリンの
壁が崩れた際の予兆として、当時既に 「民主化」 が進んでいたハンガリー経由で、東独市民が多数
西側に脱出したのも、そうした元々の背景ゆえの事ですかね。

壁が崩れて間もない頃、親父殿が出張で旧東独を訪ねたところ、ベトナム人と間違えられたそうです。
同じ東側陣営として、技術研修や出稼ぎの人々を多々受け入れていた様ですね。そう言えば同国の
航空機の備品には、インター・フルーク (東独の航空会社) のお下がりが少なくなかったとか。
[23964] 2004年 1月 20日(火)19:37:55花の東京都民 さん
領土問題
こんばんは。
中国海軍の潜水艦が我が国に何の連絡も無しに鹿児島県沖で急浮上しました(昨年末)。
そして中共旗を掲げて行ってしまったとか。経済水域なので問題はありませんが・・・。
北朝鮮の不審船と同じ事をしていますね。我が国を侵略する気でしょうか?それとも嫌がらせ?
[23961]いっちゃんさん
[23959]mikiさん
[23957]いっちゃんさん
[23950]月の輪熊さん
[23935]夜鳴き寿司屋さん
複雑ですね。我が国(日本)とも領土問題を抱えていると解釈しているようですし(中国も)。
「尖閣諸島」は明治時代から正式に我が国の領土として扱ってきました。

「尖閣諸島」→「領土問題」繋がりで書いてみました。

「北方領土」相手:ロシア
択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島。ご存知の様にこれらの島々が「北方領土」です。
ここからカムチャッカ半島に連なる島々は「千島列島」で日本はこれらを歴史的に区別してきました。
日本はロシアより早く北方四島の存在を知り、多くの日本人が渡航するとともに、徐々に島々の統治が確立しました。
1945年8月、旧ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して対日参戦、「北方領土」を占領します。
これに対し日本は、これまで半世紀以上も「固有の領土」であると返還を要求してきました。
しかし旧ソ連は「領土問題は存在しない」と一時は主張します。
話し合いは平行線をたどりますが、旧ソ連が崩壊してロシアになると、
経済支援を引き出す切り札として問題を利用し始めました。
ですが返還に消極的なプーチン大統領になると、交渉は再び停滞してしまいました。

ロシア大統領選挙では彼の再選が確実視されていますが、返還に積極的な候補が当選するように念を送っています。
ですが皆消極的です。今世紀中に本土復帰できるようまた念を贈ります。

■北方領土をめぐる歴史の流れ
1885年(安政2年)日露通商友好条約で択捉島とウルップ島の間の国境を確認
1875年(明治8年)樺太・千島交換条約で千島列島=日本、樺太=ロシアに
1905年(明治38年)ポーツマス条約で北緯50度以南の樺太が日本領に
1945年(昭和20年)旧ソ連が対日参戦し、9月5日までに北方四島を占領
1946年(昭和21年)旧ソ連が北方四島を編入、日本人を強制退去
1951年(昭和26年)サンフランシスコ平和条約で日本は千島列島を放棄
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言で平和条約締結後の歯舞・色丹返還合意
1990年(平成2年)戦後初めての択捉島への墓参りが実現
1991年(平成3年)ゴルバチョフ大統領訪日で日ソ共同声明を発表
1993年(平成5年)東京宣言で北方四島名を列挙した上で交渉指針を決定
1997年(平成9年)2000年までに解決を図る内容のクラスノヤルスク合意
2001年(平成13年)イルクーツク声明で平和条約締結の必要性を再確認

「竹島」:相手韓国
日本と韓国のちょうど中間に位置する岩礁で、周囲は良質な漁場として古くから知られています。
17世紀にはすでに、日韓双方の漁民がこの水域で操業しており、「竹島」は中継基地として利用されてきました。
ところが、日本の「国際法的に正式な手続きで明治政府が島根県に編入」との主張に、戦後になって韓国が
「領有は植民地政策の一環だった」と反発。
1952年には独自に海洋上の国境線を策定した「李承晩ライン」で領内に取り込み「独島(トクト)」の呼称を発表したことも。
漁業問題は解決しましたが、領有問題は常に結論が先送りになっていました。

■竹島をめぐる歴史の流れ
1656年(明暦2年)江戸幕府が竹島(当時は松島)への渡航を許可する
1905年(明治38年)日本政府が閣議決定と島根県告示によって領有を宣言
1951年(昭和26年)韓国が灯台と電信所を建設して実効支配に着手
1952年(昭和27年)李承晩大統領が「李承晩ライン」なる国境線を策定
1953年(昭和28年)韓国では義勇守備隊が結成され竹島に常駐
1965年(昭和40年)日韓国交正常化で「李承晩ライン」廃止も問題棚上げ
1996年(平成8年)日本が排他的経済水域を設置したことで問題が再燃
1999年(平成11年)日韓新漁業協定で竹島周辺を共同管理することで合意
2002年(平成14年)韓国環境省が04年までに国立公園化する方針を発表

「尖閣諸島」相手:中国・台湾
面積がわずか1haほどの狭い岩礁が尖閣諸島です。
日本は明治時代から正式に領土として扱ってきましたが、中国は明朝のころから海上防衛区域に含まれていたことや
「領海法」なるものを根拠に1970年代かに入ってから領有を主張しはじめました。
台湾は位置関係や地質構造、歴史的な継続使用があったことなどから「アメリカ信託統治後は台湾に返還されるべき」と
譲りません。
96年には中国・台湾の主張に激昂した日本の団体が政府の了承を得ずに灯台建設を試み、
反発した中国・台湾の関係者が大規模な抗議行動にでる事件も。
日本が巡視船を派遣し、一時、緊張が高まる事態に発展しました。

■尖閣諸島をめぐる歴史の流れ
1895年(明治28年)日本、清朝が支配していないと確認し沖縄県に編入
        (中国の主張では)下関条約で台湾とともに清朝から割譲された
1951年(昭和26年)南西諸島の一部としてアメリカ信託統治下に入る
1968年(昭和43年)国連アジア極東経済委員会の調査で地下資源が判明
1969年(昭和44年)台湾が正式に領有を主張し始める
1970年(昭和45年)台湾がアメリカも石油会社に石油探査権を認可
1971年(昭和46年)中国も正式に領有権を主張
1972年(昭和47年)沖縄返還で信託統治が終了し、アメリカも日本の領有を承認
1992年(平成4年)中国が「中国領海法」制定で「自国の領土」と宣言
1996年(平成8年)日本が排他的経済水域を設定し正式編入、問題再燃

※本を参考にした部分がありますけぇ

日本は「共産主義」を認めるようになったのでしょうか?まあ認めたのだから「台湾」を「中国領」としているのでしょうが。

[23946]トミさん
自転車は横浜では需要が無いようですね。失礼ですが自転車屋さんはありますか?
横浜はバスが縦横無尽に走り回っていて・・・とにかく凄いですねよ。桜木町は発着回数が半端ではありません。

これは「ブルーライト・ヨコハマ」に引っ掛けたものなので、愛称的には良いかと。

受験頑張ってくださいね。応援していますよ。

[23938]みかちゅうさん
愛称は必要だと思いますが・・・。

「南北線」はいかがなものかと。港町らしさが欲しいと思います。
「横浜環状鉄道路線」にはどのような経済効果があるのでしょうか?

やはりそうですか。本牧はJR根岸線が走っていますが、カバーしきれていないと思います。

横浜には東西移動手段がないとNHKでやっていましたが(保土ヶ谷バイパスだけ)。不便ですか?
[26266] 2004年 3月 16日(火)13:58:00hmt さん
岩の上に鳥が止まる広さがあれば「島」
白川静「字統」より
「島・嶋」…もと海鳥の住む岩島をいう字。その大なるものを島といい、小なるものを嶼という。

[26206]では「島」を認定するにあたって考慮に入れる要素として、人手の関与や越えるべき水面を取り上げました。今回は島の大きさです。
「島」は「大陸」や「本土」に対する相対的概念で、その大きさの上限はほぼ明らかです。
世界的にはオーストラリアとグリーンランドとの間、国内では四国と択捉島の間に上限が引かれています。目的によっては沖縄本島と佐渡島との間で区別することもあるようです。
カナダ北端のエルズミア島。これは面積については本州と同じくらいの大きな島ですが住民は極めて少なく、離島扱いでしょうね。

問題は下限です。二見の夫婦岩は「島」なのか?
夫婦岩は島であろうとなかろうと観光的価値に変りがないでしょうが、「島」であるか否かで経済的価値が大きく変るのが沖ノ鳥島です。
日本政府は「沖ノ鳥島は島である」として、領海12海里および排他的経済水域 EEZ=exclusive economic zone 200海里を主張しています。沖ノ鳥島の存在は、日本の国土面積を上回る40万km2のEEZを我が国にもたらしています。

[26206]で引用した「国連海洋法条約」の島の定義は、1958年の領海条約の定義を踏襲したものですが、これが人工島を排除したわけは、海洋の経済的利用に関係するためでした。この条約は121条第1項の「自然に形成された陸地」の他にも第60条第8項で「人工島、施設及び構築物は、島の地位を有しない」と駄目押しをする念の入れようです。
しかし、この定義に大きさの規定は直接にはありません。だから「高潮時においても水面上にあれば、どんな小さな岩でも島である」ということになり、「水面上」を維持するために300億円を投じた護岸工事も行なわれました。

ところがこの条約の121条第3項には「人間の居住又は独自の経済的生活を維持することのできない岩は、排他的経済水域又は大陸棚を有しない」という規定があり、鳥が止まれても人が住めないような岩は(基線=低潮線から12海里の領海はOKでも)200海里のEEZ はダメとされているようです
沖ノ鳥島の排他的経済水域について1999年の国会質問での政府答弁がありますが、何となく苦しい感じです。 http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/sp01/law.html 参照。

では、この「島」の実態は? というわけで写真を探したら……
ありました! http://vldb.gsi.go.jp/cgi/tr_table.pl?410 東露岩にある「一等三角点」(北露岩には三等三角点がある)。でも三角測量をするには3つの三角点が必要なのではないかな?
それはともかく、一番下の写真、コンクリートで固められた岩の小さいこと。まさに鳥が止まるのがやっと という大きさでした。これを「島」であると主張する日本政府の勇気に感服!

ところで、最初の位置図にあるように2つの露岩は東西に並んでいるのに東露岩と北露岩。なぜ?
実は西側に北露岩と南露岩があったのです。南露岩はキノコ状の岩が波浪で倒壊した状態で発見され、1937~1938年頃に波浪に流されて消失したようです。
このような事例もあるので、現在は辛うじて水面上を維持している2つの岩も危ない…というわけで実施されたのが1989年に完成した護岸工事でした。
http://www.takagigumi.jp/step17.html によると、略最高高潮面からの高さ僅かに16cmと6cmだったキノコ状の岩の周囲を消波ブロックと特殊なコンクリートで固めたとあります。一等三角点のある東露岩には、更にチタン製のフタをかぶせるという過保護ぶりです。

ほんの小さな岩ですが、200海里を確保しようと努力すると金食い虫になります。護岸の維持は本来自治体の仕事ですが、東京都にとってもその負担は大変というわけで、改正海岸法を受けた政令(1999/6/18)により、国の費用全額負担で直轄管理をすることになったそうです。 http://www.thr.mlit.go.jp/bumon/b00037/k00290/river-hp/kasen/forefront/sea/0008.html

「国の直轄管理」と言われると、この“現代の天領”と自治体の小笠原村や東京都との関係がどうなったのか気になりますが、東京都に代わって国(建設省、現 国土交通省)が海岸の管理をするという意味で、東京都小笠原村沖ノ鳥島であることに変更はないようです。

沖ノ鳥島にあるのは護岸工事を施された2つの岩だけでしょうか?
いやいや http://homepage2.nifty.com/shot/okinotori.htm には、なんと3階建ての建物のある人工地盤が写っています。ここは重要な気象観測基地(無人)で、2003年2月までは ネットでリアルタイム気象観測データが公開されていました。
海岸保全に加えてこのような利用を含む実効支配の実績は、先に問題になった条約121条第3項の「経済的生活の維持」を裏付けるものとして役に立つのかもしれません。

海面上の岩のことばかり気にしていると沖ノ鳥島は小さな存在のように思われますが、海面下の実態は 深海からそびえ立つ雄大な海山です。
1996年の調査により、最終間氷期に形成された12万5000年前の珊瑚礁が、最終氷期に下降した海面レベルまで浸蝕され、更に7500年の温暖期に海中に沈んで、上にできた新しい珊瑚礁が現在の海面近くにほぼ平らな頂上を形成していることがわかりました。
海面上の小さな岩は、富士山の白雪や笠雲のような珊瑚礁で上部を覆われた古い巨大な山体の頂が、海上に突き出たものなのでした。

日本最南端の沖ノ鳥島のことを書いているうちに、幻の日本最東端の島 (サンズイのない)「中ノ鳥島」の存在(実は不存在)を知りました。
興味のある方は http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/01/ganges.html をどうぞ。
[26610] 2004年 3月 26日(金)23:53:28【2】hmt さん
日本の手を離れている間に紛争の種がまかれた尖閣諸島
尖閣諸島がニュースで話題になっているので、ひとまず地理と歴史のおさらい。
現在の地籍は 沖縄県石垣市登野城。 これは石垣市の中心部の地名です。
実際にある場所は 西表島の北約150kmにある 3.8km2 の魚釣島(釣魚台)を主島とし、その東に南小島・北小島と岩礁、更に北東に久場島(黄尾嶼)、ずっと東に大正島(赤尾嶼)。

政府の基本見解 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/ にあるように、1895年1月14日に日本領土に編入されました。
これは日清戦争中のことですが、1885年以来数回にわたる実地調査により、清国を含めて どの国にも所属している証跡がない無人島であることを確認した上で、国際法で言う無主地の「先占」として日本の領土とする閣議決定をしたようです。1903年には沖縄県八重山郡大浜間切登野城の地籍を設定。

1884年頃から古賀辰四郎による開発が始まり、1909年通称古賀村の人口248人とあります。羽毛の採取が行なわれたアホウドリは絶滅しました。1932年には魚釣島・北小島・南小島・久場島が払下になり、近年まで埼玉県に住む古賀さんの私有地のままだったようです。
政府は2002年10月に魚釣島など三つの島に賃借権を設定したということです(読売社説2004/3/25)。米軍管理の久場島以外の私有3島を、正式に国の管理に移す意思を表明したものでしょう。【2】

第2次大戦後は米国の施政権下になり、久場島と大正島は米軍の射爆場になりました。
そのまま沖縄返還…となれば問題なかったのでしょうが、日本の手を離れている間に新事実が明らかになりました。
東シナ海の海底資源を調査していたECAFE(国連・アジア極東経済委員会)が、「沖縄諸島と台湾、日本の間の大陸棚の縁や、黄海・渤海には石油埋蔵の可能性が高い」として、尖閣諸島海域にも大規模な海底油田・天然ガス田があるという考えを発表したのです(1968)。

この海底資源に最初に反応したのが台湾で、1969年中華民国行政院は東シナ海大陸棚の主権的権利を先ず主張し、翌年にはガルフその他の米国系石油企業と探査・試掘の契約を結んだりしました。東シナ海大陸棚の北側海域には日本・台湾・韓国の石油鉱区設定が重複し、1970年には3国で領有権を棚上げして、石油を共同開発する協議が行なわています。

こうした事態の進展のなかで、それまで何もしなかった中国は、1970年末になって 「尖閣諸島は中国の領土であり、その周辺の海域は中国の海であり、したがってその海域の資源に対して中国は主権的権利を持っている。日本・台湾・韓国の協議は中国の資源を掠奪する企みである」との強硬な抗議を行なっています。

このようにして1972年5月15日を迎え、米軍施政権下に発生した領有権争い付きの尖閣諸島は、沖縄返還協定に基づき施政権が返還される南西諸島全島の一部として日本復帰。

「尖閣」という名は、なんとなく中国的な響きですが、1900年に調査・探検をした黒岩恒が、急峻な岩山が屹立し海食崖に囲まれた地形から命名した由。

「中国福州・琉球間の航海に関する16世紀以来の文献に釣魚台(魚釣島)・黄麻嶼(北小島)・黄尾嶼(久場島)・赤尾嶼(大正島)が記されている」という中国の領有権主張の根拠に対して、日本政府は 「これらの文献記載は航路の目標に過ぎず、1895年の無主地の先占行為は 国際法上有効である」と反論しているようです。

【1】補足
地学的に見ると、尖閣諸島は東シナ海大陸棚の東縁にあり、沖縄トラフを隔てた八重山諸島と自然地理上は区別されているようです。中国側の大陸棚に乗っていることは、領有権問題には関係ないはずですが。
[26657] 2004年 3月 28日(日)00:23:41井上清 さん
「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明
[26662] 2004年 3月 28日(日)01:49:45【1】夜鳴き寿司屋 さん
Re:「尖閣」列島
[26659] 般若堂そんぴん さん
[26657] 井上清さん

 この問題に関する当事者である中国側の団体のHP(中国語簡体字)で、中国側の主張が読めます(翻訳ソフトが必要ですが)

http://wenshuqingren.51.net/dy/index.htm
(バーナーでは「釣魚島 中国神聖不可侵領土」だそうです)

 あえて彼らの政治的スタンスについては論評をさけますが、日本とは鏡で写した様な正反対な論法であります。いろいろな彼らの会則など様々な情報が読めますが、沖縄占領時代の尖閣諸島で、アメリカ軍が射爆場に使っていたとの間違いがありますし、領有権主張運動が1970年に華僑のアメリカ留学生がはじめたとの記載がありますが、台湾当局の蒋介石総統が領有権を主張したことは無視していました。(香港の活動家との体験談は充実しています)

 また、フォークランド諸島のイギリス領有は国際法上における時効取得は出来ないとして、日本側の時効取得は認められないとしています。他にも根拠が示していますが取り上げるのが難しい事が載っています。

 このHPで思った事は、ここまでもつれる一因に沖縄の琉球王朝が日中両属であった歴史的経緯が関係あると思います。

 また両国にある排他的民族主義はどちらにしても水と油で和解など出来ないと思いました。それにしても、尖閣諸島の魚釣島以外の島は領有権主張の範疇に入っていないような感じがしますが、中国側では「釣魚島列島」と呼称しているようです。

 ただ現在でも赤尾島(日本側呼称不詳)に、中国の漁民が1年のうち3ヶ月暮らす建物があると記載されていますが、少なくとも19世紀後半以降は存在しなかったように思います(それにしても膨大な石油埋蔵の可能性にも言及しています)

http://wenshuqingren.51.net/dy/dl.htm
[26683] 2004年 3月 29日(月)18:43:49【2】hmt さん
「無人島」が日本領になるまで
[26610] 尖閣諸島に関連して [26657]井上清さん [26659]般若堂そんぴんさん [26662]夜鳴き寿司屋さん から情報をいただき、いろいろな考えの方の存在を知りました。感謝いたします。

【2】井上清さんご本人の書き込みを前提とした記載を削除([26689]ゆうさんのご指摘あり)

それにつけても、[26625]で 夜鳴き寿司屋さんが言及された 小笠原諸島 がこのような紛争の地にならずに済んだのは幸いだったと思います。

文禄の役における小笠原貞頼発見(1593)の伝説はさておき、1675年 島谷市左衛門らによる探索・領有宣言。
1827年の英国軍艦ブロッサム号のキャプテンビーチィが領有宣言(翌年にはロシア軍艦が来て残念がったとか)。
1830年 多国籍欧米人とオアフ島民からなる移民の定住。1853年にはペリーが寄港して領有も宣言。
1861年咸臨丸派遣により小笠原回収をしたが、1863年に引揚。1875年明治政府による再回収。
こういう歴史を見ると、長期間放置していた小笠原がよくぞ“無事に回収”できたことだと思います。

小笠原が ケンペルの「日本誌」(1727)や 林子平の「三国通覧図説(クロプロート訳1826)」で外国に知られ、Bonin Islandsと呼ばれるようになったのは、MOU NIN SIMA(無人島)と呼ばれていたためですが、どうもこの名前からして「ほったらかし」の感じです。

この「無人島」に住み始めた1830年の移民団は、ホノルル駐在英国領事の支援の下に結成されたもののようですが、英国・米国・ハワイ王国などの植民地ではなく、約30年間は無国籍の「南海の楽園?」として、当時盛んだった北太平洋の捕鯨船相手の薪水・食糧供給基地になっていました。
1840年には陸奥国気仙郡の難破船が島民に助けられ、帰国して報告していますから、幕府は異人の居住を知りながら放置していたわけです。
1853年には琉球から浦賀に向う前にペリーが寄港して(1827年ビーチィの領有宣言は承知の上で?)領有も宣言。もし日本が打ち払いを実行したら、黒船艦隊がここまで退いて態勢を立て直す前進基地でした。同時に石炭貯蔵地などを購入して、サンフランシスコ・サンドウィッチ諸島(ハワイ)・上海を結ぶ航路に備えた補給基地を確保しました。

この時に交渉した 島の指導者 ナサニエル・セボレーとペリーとは、同じ1794年生れで 出身地も近く、親しくなったようです。ナサニエル・セボレーから4代目~5代目の子孫は今も父島に在住し、ハローページは、瀬堀さん 4人、セーボレーさん 3人を掲載しています。【2】

1856年にペリーの「日本遠征記」出版。幕府はこれによって小笠原の重要性に気付かされ、1861年に至り、老中安藤信正は外国奉行水野忠徳を咸臨丸で派遣して小笠原を回収させることにしました。
…我が南海属島 小笠原島渡航中絶の所 今般外国奉行水野筑後守 目付服部帰一等差遣はし 追々開拓の挙に及ばんとす
と駐日各国公使にも通知して、1861年12月咸臨丸は父島に到着。セボレーたち島民にはジョン万次郎の通訳で日本の領有・既得権の保護・今後の日本移民による開拓への協力方を説明しました。米国公使ハリスの書記官ポートマンからの好意的な書簡もあり、島民も日本の規則に従うことを了承しました。
翌年には八丈島からの移民30人が送られ、実質的な日本領としての開拓・統治が開始されました。
せっかく日本の統治が始まったのに、翌1863年には早々と撤退してしまったのは、幕末多事・安藤や水野の失脚に加えて、生麦事件の賠償金をめぐり英国との間に確執が起き、真っ先に攻撃される事態になることを恐れたためとされます。賠償金問題の解決後も開拓は再開されず、明治維新後も放置状態が続きました。

このような日本に対して外圧を加えたのは英国で、小笠原の所属を再度にわたり質問。
ここに至り明治政府は1875年 田辺太一らを明治丸で小笠原に派遣、神奈川駐在の英国領事も同行して日本側の管轄を既成事実として承認しました。なお、明治丸は越中島の東京商船大学に保存されています。

翌1876年には小笠原諸島規則を制定して各国にも通達し、日本の小笠原領有は国際的にも確立されました。移民も再開。内務省出張所が設けられ、1878には学校も。1880東京府移管。1882までに先住民全員が日本に帰化。という具合に日本化が進みましたが…

第2次大戦末期の1944年、日本軍は強制的に島民を本土に引揚させ、残された食糧補給要員も戦後日本兵とともに本土に引揚させられ、「無人島」になりました。(米軍は駐留していたのでしょうが)
1946年、欧米系島民と配偶者135名が帰島。
1968年、「小笠原諸島返還協定」で6月26日に日本復帰
[30979] 2004年 7月 24日(土)21:21:38【1】Issie さん
エーゲ海の国境
[30975] 今川焼 さん
これって洋の東西を問わない傾向なんでしょうか。

やっぱり,一緒くたにはしない方がいいと思いますよ。
エーゲ海の国境の場合,樽を流したとか,寝坊したとかといった“牧歌的”なものではありません。

ギリシア・トルコ間の国境は,19世紀半ばにギリシアがオスマン帝国から分離独立した当初から現在のようであったわけではないのです。

1810年代半ばから始まった「解放運動」の結果として27年に「ギリシア」の政府が組織されたとき,その領域はバルカン半島南端のモレア(ペロポネソス半島)だけであり,首都は半島南岸のナフプリアという町に置かれました。
この解放戦争ではイギリスやフランス,ロシアなどがそれぞれの思惑からギリシア側を支援し,ギリシア人だけでなくこれらの国がさまざまにオスマン帝国と戦争を繰り広げる中でギリシアの支配領域は少しずつバルカン半島を北へ拡大してゆくことになります。
1830年のロンドン会議でギリシアの主権が承認されて,南ドイツのバイエルン王家から国王を迎えてギリシア王国がアテネを首都に成立しました。
(“青”と“白”の2色からなるギリシア国旗には,いろいろな意味の説明がされているのですが,直接にはバイエルン王国の国旗[現ドイツ・バイエルン州旗]の色を使っているだけです。)
その後もギリシアはオスマン帝国やセルビア,ブルガリアなどとの戦争を繰り返しながら,徐々に北上していきました。特に北部のマケドニアやトラキアをめぐる関係各国の争奪戦には激しいものがありました(現在でも,微妙な問題が多く存在するようです)。

一方,エーゲ海では独立当初はアテネの南東方にあるキクラデス諸島だけがギリシアの領土で,こちらでも少しずつ領土を拡大していきました。そして,1912年の第1次バルカン戦争後のロンドン講和条約でオスマン帝国はエーゲ海のすべての島をギリシアに割譲することに同意します(ただし,この戦争のドサクサに紛れてイタリアがエーゲ海南東部のドデカネス諸島を占領してしまいました)。

19世紀半ばからギリシアでは「大ギリシア主義」という主張が多くの支持を得ていました。
現在「ギリシア」となっているバルカン半島南端だけではなく,エーゲ海の島々,さらにトラキアやアナトリア(小アジア)の少なくとも西部海岸地域,つまり現在「トルコ共和国」となっている地域の西部までがギリシアの領土であるべきである,という主張です。
そもそも4世紀初めのコンスタンチヌス1世以来,(東)ローマ帝国=ビザンツ帝国,オスマン帝国の時代を通じて,「ギリシア世界」の中心はコンスタンチノープル=イスタンブールでした。また,エーゲ海東岸のスミルナ(イズミル)はギリシア人の通商網の代表的な拠点の1つでした。
(アテネの栄光はローマの支配に入るまでです。ビザンツ帝国やオスマン帝国の下でのアテネの地位は地方中心都市に過ぎません。キリスト教以前の「異教」的な色彩の濃いアテネがギリシアの中心として浮上するのは,敬虔なキリスト教=ギリシア正教徒である地元のギリシア人自身以上に,ルネサンス以来の古典教育を通じて自分たちの「ロマン」を勝手にギリシアに投影した西ヨーロッパ知識人の影響を受けつつ,解放運動の過程でギリシア人自身が古典時代のギリシアに「ギリシア人のアイデンティティ」を求めるようになって以降のことです。)

第1次大戦後,敗戦国となったオスマン帝国が解体されるとき,ギリシアは「大ギリシア主義」の主張にのっとり,エーゲ海東岸のアナトリアの一部(スミルナ地方)をギリシア領とすることを要求して軍事占領し,それは1920年のセーブル条約で認められました。
この条約では他にも,イスタンブールの除くトラキア(現トルコ共和国の“ヨーロッパ部分”)がギリシアへ,アナトリアの地中海沿岸部の一部がイタリアとフランスへ割譲され,アナトリア東部ではアルメニア人やクルド人に独立や自治が認められるなど,トルコ人には非常に不利な内容が定められていました。
これに対するトルコ人の反発は強く,ケマル・パシャ(後のアタチュルク)らに指導された“トルコ側からの解放戦争”によって「トルコの統一」が守られ,スミルナ地方のギリシア軍はエーゲ海へ追い落とされました。
(実はこの過程で初めて“オスマン帝国でトルコ語を話していたイスラム教徒”が「トルコ人」としての民族アイデンティティに目覚めました。)
これらを踏まえて1923年に結びなおされたローザンヌ条約で,現在のギリシア・トルコ国境がほぼ確定しました。

同時にこの間,ギリシア語を話しギリシア正教にアイデンティティを求めるギリシア人と,トルコ語を話しイスラム教にアイデンティティを求めるトルコ人とが,新トルコ領から新ギリシア領へ,あるいは新ギリシア領から新トルコ領へと,お互いに住民の交換が進みました。

ギリシアとトルコはお互いに非常に仲が悪いのですが,それはこのような歴史を背景にしています。
さらに,キプロスがギリシア人が多数を占める「南」とトルコ人が多数を占める「北」とに分断されて,「南」だけがEUに参加した今年5月の話にも尾を引いているわけです。
[30992] 2004年 7月 25日(日)00:18:59【1】Issie さん
イタリアの場合
[30975] 今川焼 さん
スイス・イタリアの国境が分水界よりイタリア側に引かれていて、

スイス南部のティチーノ州やその周辺区域ですね。
ティチーノの場合は単純。「イタリア」などという国が影も形もない頃に,分水界の北側からスイスが乗り越してきて自分の領土にしてしまったからです。

「スイス」が姿を現すのは13世紀。ハプスブルク家の支配に抵抗した3つの地域(シュビーツ,ウリ,ウンターワルテン)が同盟を結んだときからです。「ウィリアム・テル」で伝説化しているお話ですね。「スイス」とは,この“原初3州”のうちのシュビーツのこと。
「同盟」は周辺区域を加えて拡大してゆき,最終的には1499年に神聖ローマ帝国からの独立が認められました。
(「ハプスブルク」とはスイスにある地名です。ハプスブルク家はこの地の小領主から歴史の波に上手く乗ってオーストリアを獲得し,やがて神聖ローマ皇帝の位を世襲するまでになりました。しかし,このときに自らの「名字の地」を失ってしまったのです。陸奥伊達郡を失った伊達政宗のように。)

独立したスイスは,さらに南方へ領土を求めて軍をサン・ゴッタルド峠の南へ送り,ティチーノを獲得しました。
神聖ローマ帝国の下,多くの封建所領に分かれていたイタリアが統一国家の形成に向かうのは,それから300年以上も後のことです。

だからスイス領のティチーノについては,イタリアは初めからあきらめていたような感じがするのですが,もっと深刻な地域があります。
それはティチーノよりもう少し東,現在イタリアで「トレンティーノ・アルトアディジェ」と呼ばれている地域。またの名を「南チロル」。
イタリアでは行政上,言語その他の点で特別な配慮をしている地域がいくつかあります。その1つがここ。ここではドイツ語を話すドイツ人について特別な配慮がされているのですね。
だって「チロル」だから…。ここの住民の多くはドイツ人。
「チロル」の中心都市はインスブルック。もちろん,オーストリアの領土ですね。
つまり「チロル」と呼ばれる地域は,「木曽」と同様に分水界の両側にまたがって広がっているのです。

19世紀半ばのイタリア統一(リソルジメント)の最終局面は,半島北東部の支配を続けるオーストリア(ハプスブルク帝国)からの「解放戦争」でした。
途中,オーストリア軍司令官のラデツキー将軍がイタリア軍を破り「反乱」勢力を鎮圧し,それを讃えてヨハン・シュトラウスが有名なマーチを作ったりした場面もあったのですが,1866年にベネト地方(ベネチアの後背地)が「解放」されて,リソルジメントはおおむね完成しました。

このときにオーストリアの支配に残されたのがさらに東のトリエステ・イストリア半島と南チロル。つまり,このときにはオーストリアの領土が分水界の南にはみ出していたわけです。
ここをオーストリアから「奪還」することがイタリアの最後の願いであり,だからイタリアはドイツ・オーストリアとの三国同盟に反して,第1次世界大戦でオーストリアと戦ったのでした。その結果,1919年に南チロルを獲得することができました。めでたく,分水界が国境となったわけです。

けれども,この地域の住民の多くはイタリア語を話すイタリア人ではなくドイツ人であって,その扱いをめぐってオーストリアと,さらにこれを併合したナチス・ドイツとの間に微妙な問題を残しました。ムソリーニとヒトラーは決して「無二の親友」であったわけではないのですが,この「南チロル問題」も2人の関係を微妙なものにした原因の1つでした。

現在のイタリア共和国がこの地域に特別な配慮をしているのは,このような背景があってのことです。

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