[35679]ひでひで さん
日本統治時代の台湾以外の地域の行政区分は、どういった物だったのでしょうか?
既に
[35686]Issieさん から詳細な回答があり、
[35692]中島悟さんからも補足がありましたが、「戦前は広かった 日本地理の範囲」という観点から、少し書いてみます。
大正12年(1923)に刊行された 小川琢治編「市町村大字読方名彙」という本があります。この本には、第1回国勢調査の行なわれた大正9年当時の地名を保存するという目的がありました。
この本は、「市部町名彙」と「町村大字名彙」との2部に分れていますが、後者の目次を見ると、次の順で並んでいます。
1.東京府、2.京都府、3.大阪府、4.神奈川県、5.兵庫県、6.青森県、7.巖手県、8.秋田県、9.宮城県、10.山形県、11.福島県、12.茨城県、13.栃木県、14.群馬県、15.千葉県、16.埼玉県、17.山梨県、18.静岡県、19.愛知県、20.新潟県、21.長野県、22.富山県、23.岐阜県、24.石川県、25.福井県、26.滋賀県、27.三重県、28.奈良県、29.和歌山県、30.岡山県、31.廣島県、32.鳥取県、33.島根県、34.山口県、35.香川県、36.徳島県、37.愛媛県、38.高知県、39.大分県、40.福岡県、41.佐賀県、42.長崎県、43.熊本県、44.宮崎県、45.鹿児島県、46.沖縄県、47.北海道、48.樺太、49.臺灣、50.朝鮮、51.関東州、52.南満洲警務区域、53.南洋庁
都道府県の配列順は過去にも話題になり、
アーカイブズもありますが、今回のものは3府に次いで神奈川県と兵庫県が別格です。
[34038]によると、第1回国勢調査報告書から既に現在のコードと同じ順が使われているそうですが、この本では異なっています。
滋賀県、三重県という順番から、三重県は近畿地方として扱われていることがわかります。
廣島県は当然として、巖手県という書き方があったのでしょうか?(岩手県と表記された個所もあります。)
それはさておき、48~53が現在の日本地理の範囲に含まれていない「外地」です。
48.樺太庁に属する支庁は、大泊支庁(4郡)・豊原支庁(3郡)・真岡支庁(3郡)・泊居(とまりおる)支庁(4郡)・敷香支庁(3郡)で、豊原郡豊原町(1920年当時は市制未施行)のような町村がありました。
49.台湾は、
[35679]に挙げられた5州・2庁でしたが、1920年当時は高雄州に属していた澎湖郡(当時の日本最西端)が その後「澎湖庁」になって、
[35686]のように3庁になったようです。1920年当時の市は、台北・台中・台南の3市だけですが、1938年の地図を見ると、基隆・新竹・彰化・嘉義・高雄・屏東の6市が増えています。
郡を見ると、台中州に新高郡があります。“ニイタカヤマ” 3950m は、当時の日本最高峰でした。(ここで突然「新高ドロップス」や「エベレスト鉛筆」を思い出す。)
郡の中には、町村に相当する「街」と「庄」がありましたが、“街庄を置かざる蛮地”(例えば台北州羅東郡濁水)も存在しました。これが
[35686]で「区」とされているものでしょう。
50.朝鮮の「道、府・郡、面」(「邑」は未編成)については、
[35686]で13道、14府の名も含めて紹介されています。なお、1920年当時は、開城・咸興以外の12府でした。1938年の地図では、光州・全州・大田・羅津を加えて18府になっていました。そう言えば、1920年の「光州」には、府も郡も付いていません。これは?。
51.関東州
最初に断っておきますが、関東地方とは無関係です(笑)。
清国が天然の良港・旅順に軍港を建設していた遼東半島は、日清戦争で日本に占領され、下関条約で その南部が日本に割譲されることになりました。しかし、南下政策のロシアはドイツ・フランスを誘って三国干渉。この外圧で遼東半島は清国に返還され、ロシアの租借地になりました。
日露戦争の後で,日本がロシアより租借権を護り受けたこの地の行政府の名称は、時代により変化していますが、1920年当時は「関東庁」でした。地域名としてはずっと「関東州」が使われていました。
旅順民政署(旅順市ほか6村)、大連民政署(大連市ほか)、金州民政署
52.南満洲警務区域、
日露戦争後にロシアから獲得した利権(東清鉄道・撫順炭鉱など)により設立された南満洲鉄道の付属地。
営口警務署、遼陽警務署(鞍山市)、奉天警務署(奉天市・撫順市・本渓湖市)、鐵嶺警務署(鐵嶺市)、長春警務署(長春市)、安東警務署(安東市)
53.南洋庁
ミクロネシア(西太平洋、赤道北側の島々)で、現在はパラオ共和国・ミクロネシア連邦・マーシャル諸島共和国および「北マリアナ」になっています。「北」が付いているのは、最大のグアム島だけは米国領のためです。
ミクロネシアのカロリン群島にはスペインが進出していましたが、キューバをめぐって争った米西戦争に敗れて、フィリピンとグアムを米国に取られ、太平洋から撤退することになりました。スペインから権益を買い取ったのがドイツで、内乱に乗じて米英に攻撃されたサモアをあきらめて、ミクロネシア東部に確保していたマーシャル群島と共にミクロネシアの経営に専念することになりました。
ところが第1次大戦でドイツは敗戦。ベルサイユ会議の結果、連合国の一員として参戦した日本が、国際連盟の委任統治領として、ミクロネシアの支配権を握りました。
これが日本の南洋群島で、623島、2149km2というから、小さな島でも合計すれば東京都の面積に匹敵します。
1922年には南洋庁がパラオ諸島のコロール島に開設されて 海軍の軍政を引き継ぎ、マリアナ群島にはサイパン支庁、西カロリン群島にはパラオ支庁(パラオ諸島)とヤップ支庁(ヤップ諸島)、東カロリン群島にはトラック支庁(トラック諸島)とポナペ支庁(ポナペ島)、マーシャル群島(レーリック群島、ラタク群島)にはヤルート支庁と、合計6支庁が置かれました。
1933年に日本が国際連盟を脱退すると、委任統治の権原は失われた筈ですが、一度手に入れた領土を手放すわけはなく、敗戦まで統治を続けました。1934年の地図を見ると、「我が南洋諸島」と書いてあります。なるほど、「我が」という字に、「国際連盟には返さないぞ」という意思が込められていたのでした。1938年版では「我が南洋群島」と微妙に変っています。
日本の敗戦後は、米軍の占領を経て1947年から国際連合の太平洋信託統治領として米国が支配しました。
この間、1954年のビキニ水爆実験は忘れることのできない事件です。「市町村大字読方名彙」を見ると、ヤルウト支庁のレーリック(ラリック)群島の中に「ビキニ諸島」の名がありました。
信託統治終了後、ミクロネシアの島々が選んだ道は分れました。
米国内の内政自治領を選んだのは Commonwealth of the Northern Mariana Islandsです。これを北マリアナ連邦というのは
誤訳だそうです。
赤道に近い島々は統一国家の樹立を目指したのですが、1978年にパラオが離脱。残りで形成したミクロネシア連邦から、マーシャル諸島が脱退して、結局3ヶ国になりました。
ミクロネシア連邦国旗の4つの星は、米国旗と同様に、連邦を構成するヤップ・チューク(トラック)・ポンペイ(ポナペ)・コスラエの4州を表わし、また南十字星をかたどっているとされます。参考までに、日本統治時代のポナペ支庁は、ポナペ・コスラエに加えて後に水爆実験場になったエニュエトック島などマーシャル群島の一部を含んでいました。
1979年に自治政府が発足したミクロネシア連邦の初代大統領はトシオ・ナカヤマ氏、1994年独立当時のパラオ(現地の言葉ではベラウ)共和国第4代大統領はクニオ・ナカムラ氏と、日系人が活躍しています。
おまけ
小川琢治編「市町村大字読方名彙」は 1923年の刊行ですが、1981年に東洋書林から復刻版が出ていますから、備えている図書館も多いことと思います。
京都大学地理学教室の小川琢治先生は、冶金学の小川芳樹、東洋史の貝塚茂樹、物理学の湯川秀樹、中国文学の小川環樹という学者兄弟の父親です。
トラック諸島には、四季諸島(夏島・春島・秋島・冬島)や七曜諸島(日曜島・月曜島・…・土曜島)という地名コレクション向きの島々がありました。