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[87785] 2015年 5月 16日(土)23:53:19【1】hmt さん
「いわき太平洋・島サミット2015」の開催と ニウエの国家承認 
閣議決定-と言っても、大きな話題になっている 安全保障法制関連11法案 のことではなく、その翌日です。
昨日(2015/5/15)の閣議で ニウエの国家承認が決定された という 外務省発表 がありました。

日本の地理には詳しい皆さんでも、ニウエ? どこだ? という方が大部分だと思うので、最初に地図を出します。
外務省・太平洋の島国

マガジンの中に 南太平洋 という特集を作っている hmtとしては 黙視するわけにゆきません。
落書き帳の話題の大勢が流れている方向とは無関係ですが、それを承知の上で、この機会をとらえて太平洋島嶼国の記事を入れます。

最初にお断り。この地図には太平洋にある14の国が示されていますが、太平洋の島はこれで全部というわけではなく、米国領、フランス領などの島もあります。
赤道より北ではグアム島・サイパン島、それに右上の表で隠れているハワイ州も米国領ですね。
サモア独立国の東の空白域にも米国領サモア【サマセット・モームの短編『雨』の舞台】があります。ニウエはその南に位置しています。

面積で比較すると、日本より大きいパプアニューギニアはずば抜けた「大国」です。
それに次ぐメラネシアの3ヶ国は1万~3万km2で、その南のフランス領のニューカレドニア島、この図に示されていないハワイと共に大きい方です。
…で、ポリネシアにある ニウエは 259km2、人口 1600人とも 1500人とも。奄美群島の 徳之島248km2と対比される面積ですが、人口は 1/17。

ニウエは国でなく地域(2015年1月1日現在)と書いてありましたが、昨日の決定に基づいて国交関係を開くことが決まったわけです。

外務省発表にはありませんでしたが、新聞報道によると ニウエから 国家承認を求める要請がなされており、今回の国家承認は いわき市で開催する 第7回太平洋・島サミット2015 に合せたもので、太平洋地域での外交強化のねらいもあるとのことでした。

キャプテン・クックは 1774年の第2回航海[45308]の際に ニウエを確認したが、上陸を阻まれました。
その後 1900年に英国の保護領、ニュージーランド領を経て、1974年に内政自治権を獲得して 事実上の独立を達成しました。

現状では内政自治権を保持しつつ、防衛と外交についてはニュージーランドが責任を負うという自由連合関係結んでいます。既にニュージーランド、オーストラリア、マレーシア、中国など 12ヶ国と外交関係を開設。国連未加盟ながら、ユネスコなど 34の国際機関には加盟済みとのこと。

わが国が承認した国は これで 195か国になりました。前回の国家承認は 2011年7月の南スーダン[81210]でしたが、2011年3月には 193番目としてクック諸島を承認していました。[78607]

ココ椰子【ニウエという国名の語源らしい】、ヤムイモ、タロイモなどの農産物輸出国ですが、地理的条件から サイクロンの直撃による被害もしばしばで、市民権を有するニュージーランドに移住する人も多いのが現実。
世界最大の隆起珊瑚礁であるという自然を活かし、ニュージーランドの援助を受けながら観光事業を開発中。

太平洋・島サミット。Pacific Islands Leadets Meeting - 略して PALM は、アブラヤシの意味になっています。
私は知りませんでしたが、日本が太平洋島嶼国との関係を強化する目的で1997年に初めて東京で開催され、以後3年ごとに日本で開催されているとのことです。
開催地は PALM2が宮崎、PALM3,4,6の3回が沖縄県名護市の万国津梁館、PALM5が北海道占冠村トマムでした。
そしてPALM7の開催地が いわき市。首脳級の国際会議が福島県内で開かれるのは初めてのこと。
地球温暖化による海面上昇。津波と違い じわじわと襲ってくる海の脅威。
太平洋の島国にとっては大問題です。キリバス
[87709] 2015年 5月 8日(金)18:26:42【1】hmt さん
奇跡の樹
[87670] グリグリ さん
あしかがフラワーパークをたった1年で再生させた樹木医としても有名な女性経営家の塚本こなみさん
[87702] G さん
樹齢100年を超える大藤を、足利市河南の旧早川農園(中略)から足利市東部の迫間町へ大移動。

先日報道ステーションでも中継放送があり、大藤の見事な姿と共に、移植された過去を知りました。画像
樹齢約150年の2本の藤の木は、移植の際に縮小されたが、現在では広さ1200畳の藤棚に広がっているとのこと。

移植不可能と言われた「大藤の引越し」に成功した物語は、『奇跡の樹』という絵本 にもなり、21世紀の子どもたちに命の大切さを伝えています。

古樹の移植に関連する過去記事
東京・日比谷公園 本多静六の 首かけイチョウ [35013] 
御母衣ダムによる水没から救われた 荘川桜


あしかがフラワーパークの所在地「足利市迫間町」は、もちろん はさまコレクション に収録されていますが、「はざま」と濁るのですね。

【追記】
大藤の移植に成功した 塚本こなみさん のインタビュー記事
[87680] 2015年 5月 5日(火)18:47:30hmt さん
三重の津
足利学校や閑谷学校などが選定された「日本遺産」について [87667]で触れたばかりですが、先輩格の「世界遺産」でも同様な傾向の事例が注目を浴びています。

昨夜のニュース によると、世界文化遺産への登録を目指している「明治日本の産業革命遺産」について、ICOMOS(ユネスコの諮問機関)が登録にふさわしいとの勧告を行なったとのこと。

“同様な傾向”と書いたのは、今回の産業遺産の事例が、8県に及ぶ地域に点在する23もの文化財を一体的にとらえ、ストーリーを組み立てたパッケージとして扱われているからです。
ICOMOSが「九州・山口と関連地域」という地域的な名称よりも「製鉄・鉄鋼、造船、石炭産業」という名称への変更を求めたのも、ストーリー性を重視した結果と思われます。

ところで23の文化財。程度の差はあるものの、その多くは 一度は耳にしたことがある有名文化財です。
1つだけ佐賀市の「三重津海軍所跡」 を紹介しておきましょう。
鍋島閑叟(直正)の下で、日本で最初に実用的な蒸気船が建造された場所です。
2009年に帆船修理の木造ドックが確認され、2013年に国史跡に指定されたとか。
その遺構は地中に保存され、一帯が公園として整備されているそうです。

三重県の「津」ではありません。念の為。
[87667] 2015年 5月 3日(日)22:42:35hmt さん
日本遺産
[87659] G さん
足利学校が4市(水戸市・備前市・日田市・足利市)によるシリアル型で日本遺産に認定されるという明るい話題

2015/4/24に発表された 日本遺産 の第1号ですね。おめでとうございます。
わが国の文化・伝統を語るストーリーのタイトルは、「近世日本の教育遺産群 -学ぶ心・礼節の本源-」でした。

近世日本では、武士階級だけでなく、商人・職人・百姓階級(農工商)も 読み書き・ソロバン・礼儀 を身に付けていました。
近世日本の高い教育水準は、藩校・郷学・私塾・寺子屋など様々な教育システムによって実現したものです。
江戸時代から国民の間で広く普及していた教育は、「開国」を契機とする急速な近代化の原動力になりました。
そして、現代でも学問・教育に力を入れ、礼節を重んじる日本の国民性に受け継がれています。

従来の文化財行政は個々の遺産ごとに点として指定し、保護するやりかたが主流でした。
しかし、日本の魅力を世界に伝えるためには、地域に点在する様々な遺産を面としてとらえ、ストーリーを組み立てた文化財パッケージを一体的にPRし、その魅力を観光誘致や地域起こしにも活用しようという考えになってきました。

これを具体化した政府の施策が「日本遺産」の選定事業です。
全国自治体からの 第1期募集・審査・認定が先日行なわれ、83件の応募から18件が選ばれました。

近世までの教育に関連する文化財は全国に多数あると思います。
その中で、「日本遺産」という形で 日本の魅力を世界に発信する ストーリー。
それを語る上で不可欠な文化財として今回申請し、認定されたのは、旧弘道館(水戸市)・足利学校跡(足利市)・旧閑谷学校(備前市)・咸宜園跡(日田市)でした。

シリアル型(ネットワーク型)というのは、文化財が複数の市町村に存在するからでしょうが、時代的には中世起源の足利学校を含み、地理的にも関東・中国・九州の4県に及ぶこの教育遺産群は、第1期18件の中でも、特に広範囲な文化財を包含する事例として注目されます。

落書き帳記事が最も多かったのは 閑谷学校でしたが、大部分はさらっと触れている程度でした。記事集

あまりに久しぶりのため暗証コードを失念してしまい、新規書き込みでニックネーム「G」が使えず。

久しぶりはお互い様なのですが、半角alphabetニックネーム仲間ということでもあり、一つ確認。
半角Gと全角Gとは非常に紛らわしいのですが、Gさんは最初からずっと「半角G」ですね。
実は、「久しぶり度」を確認するために、落書き帳メンバー紹介で 最新の書込(10件) をクリックしてみたのですが、正しく表示されませんでした。
記事検索>ニックネーム検索で半角の G を入力すれば、前回は2011/3/3と正しく出ます。

プログラムのどこかに、全角Gが紛れ込んだ影響ではないかと推測するのですがどうでしょうか。>グリグリさん
[87504] 2015年 4月 25日(土)15:04:27【2】hmt さん
知床半島羅臼町海岸での異変
[87500] 山野さん
海底が数10mほど隆起しているのを地元住民が発見したそうです。

住民が24日朝に発見したのは海岸の状態の変化であり、夕方には更に大きく盛り上がっていたとのこと。NHK北海道

朝日によれば 付着したウニや昆布に鳥が群がっていたとのことであり、これから山からの土砂崩れではなく、海中から隆起した岩と判断したようです。

海中・海底の調査はこれからでしょう。
しかし、朝と夕方で違いが判るほどの大きな隆起が短時間の間に起こったとすれば、その原因探求が待たれます。

釧路地方気象台によると羅臼町付近で火山や地震の活動は 24日には確認されていないとのこと。NHK北海道

スロー地震サイレント地震 などという ゆっくりした地殻変動も発見されつつあるようですね。

リンクした地理院地図は 知床半島の形が見える 20万分の1サイズを選びました。
羅臼町の幌萌町という居住地名は、これを3段階拡大した2万5千分の1サイズになると やっと現れます。

国後島を望む地で起きた今回の異変。探求の結果 何らかの形で防災に役立つ知見が得られればよい と思います。

【追記】
25日の現地調査の結果、現場周辺では がけ崩れなどの大規模な土砂災害が起きているとのこと。NHK

【追記2】
現地を調査した北見工業大学工学部の山崎新太郎助教らによると、海岸より陸側に地滑りが起きていたとのことです。
羅臼町では例年より積雪が多く、一気に雪解けが進んだことで大雨のように地面に水がしみ込み、地中の岩石と岩石の間の摩擦力が低下して滑り始めたとみられる と分析。地滑りの端が海底よりも深い部分に突っ込んで、海面下の地面が押し上げられたという見方が示されました。NHK北海道NEWS WEB
[87493] 2015年 4月 22日(水)16:04:51hmt さん
畿内と近畿
[87492] に引き続き、hmtマガジンの特集「畿内から北陸へ」に関する補足記事です。

特集名に 安易に「畿内」という言葉を使いましたが、これは都が京都に移るよりずっと前の言葉でした。
机上の『大辞林』の説明を見たら、律令国家を形成した諸氏族の居住地域【山背・大和・河内・摂津】を行政上特別扱いして四畿内(和泉の分立後は五畿内)と呼んだとのこと。つまり古代国家の「首都圏」を意味していたのですね。
なお、「畿」の意味は王城から五百里【周では200km余】。(漢和辞典)

具体的な範囲が記されている日本書紀・大化二年(646)改新の詔によると、東は名張の横河、南は紀伊の兄山【葛城】、西は赤石【明石】の櫛淵、北は近江の合坂山【逢坂山】迄でした。
都が難波や飛鳥にあった時代ですから、京都から山一つ隔てただけの近江は畿内ではなく、東山道所属なのでした。

従って、近江から越前へのルートを「畿内から北陸へ」と表したのは問題であることを認めざるを得ません。

そこで考えた屁理屈。ここでは平安時代以後を問題にしているので、畿内の範囲は改新の詔を根拠とするのでなく、「京都が都であった時代の首都圏」と解釈していただきたい。

近江は天智天皇時代に短期間ながら大津京が置かれた実績もありますが、それ以上に平安遷都以来千年以上の間に「首都圏」に組み込まれていました。
タイトルの説明だけならば、「畿内から(近江経由で)北陸へ」を短縮したもの と解釈することもできます。
しかし、「京都基準の首都圏」という形で 近江を畿内の中に取り込む解釈 の方が、むしろ適切なように思われました。

もちろん都に近い国々という意味では、「近畿」という言葉を使う方が一般的でしょう。
白桃さんは[86442]で滋賀県を含むブロックを「畿内」と名付けた後、これを適切でないとして、素直に「近畿ブロック」に修正していました。

今回の記事は、[87452]で使われていた“畿内から北陸方面へ向う街道”に影響されて、畿内と越前とを結ぶルート[87455]から戻れなくなってしまったhmtの悪あがきです。ご容赦ください。
[87492] 2015年 4月 22日(水)13:47:18hmt さん
本州横断運河
[87452] 伊豆之国さん 愛発越え に始まり、敦賀近辺の鉄道に関する記事がいくつか続きました。
そこで、2006年の鳩原ループの記事と合せて hmtマガジンの特集に仕立てることを考えました。

新しい特集の骨格は 何よりも記事 ですが、それと共に「特集のタイトル」と「まえがき」も必要です。
今回「まえがき」に据えたのは、港湾都市・敦賀が交通路の要衝になった原因である その特異な位置です。
本州日本海側で大きく湾入した若狭湾の東部、敦賀湾として更に深く入り込んだ最奥で、その先には琵琶湖。

琵琶湖と言えば 淀川の源流[67664]。ということはシロウト目にも本州横断運河構想に結びつきます。
これについては予備知識がなかったのですが、近代以前の日本ではパナマ運河のような工事は技術的に無理 ということで片付け、鉄道の話につなげて2015/4/16に 登録しました

これで「まえがき」の形は一応できたものの、やはり 本州横断運河構想 が気になります。
調査したところ、本州横断 運河計画 水運ネットワーク というページがあり、これを手掛りに調査を進めてみました。

海運・貿易によって天下を握った平清盛。その嫡男・平重盛が越前国司であった時代に 敦賀琵琶湖の運河が計画されたという伝説があるそうです。敦賀から笙の川を遡り、深坂峠を切り開いて大川で近江塩津に至るルートでした。その名も「堀止地蔵」という別名を持つ深坂地蔵が 計画断念の遺跡とのこと。参考

近世にも いくつかの計画があり、19世紀初頭に 大阪商人の資金で山中峠経由ルートの改修が行なわれ、幕末まで利用され活況を呈した と記されていました。
地理院地図を見ると、七里半越【現在の国道161号】の国境【「くにざかい」という地名らしい】には 389mと記され、付近にはスキー場が作られています。疋田で合流する笙の川の支流・五位川は 曳舟によってどこまで遡れたものか知りませんが、いずれにせよ近江側の知内川とを結ぶ全区間を 無理に舟運でつなぐというものではなく、道路による峠越えを併用した 現実的なルートであったようです。

幕末の加賀藩運河計画は実現しなかったものの、新湊博物館「高樹文庫」資料中の越前・近江関係には 越前近江糧道測量絵図 慶応三年 その他が残されています。

近代になると 1903年にアメリカが着工した パナマ運河【1914開通】に倣った 閘門式運河計画が登場。
1905年には 貴族院で 日本海から琵琶湖経由大阪までの汽船通船計画が採択されたが、日露戦争で実現できず。参考

昭和恐慌をようやく抜け出た頃の 田辺朔郎による運河計画も、5億円の工費とあって 実現は前途遼遠と伝えられています。

最後に戦後の高度経済成長時代。
海外では 外洋の航行が可能な大型船を五大湖に通じる セントローレンス海路 が1959年に開通。
今度の本州横断ルートは、伊勢湾と敦賀湾とを結ぶ計画で、三重県が熱心だったそうです。
大野伴睦氏を会長とする建設促進期成同盟会を 1962年に設立。岐阜県に港を作る構想もあったようです。中日新聞

でも、もう高速自動車道の時代が近づいており、1965年には名神高速道路が全線開通。
運河構想が日の目を見ることはありませんでした。
[87486] 2015年 4月 19日(日)16:13:08hmt さん
「ただそれだけ」の地名
[87477] じゃごたろさん
[87481] inakanomozartさん 
「ただそれだけ」につられて、もう一つ。
10年前、合併前の中川根町時代ですが、地名(じな)という地名を取り上げた ゼンリン地図豆の記事 をリンクしておきます。最後の文に注目。

以下は、「ただそれだけ」にしては長すぎるフォロー記事です。

地名(じな)の説明:「(山がちの地域の中で 居住に適した)土地のあるところ」という意味であるとのこと。

地図豆の連載は中断していますが、せっかくなので 「豆27:地図には地名は書いていない」も読んでみましょう。
ここには「居住地名」と本来の「地名」との区別が解説されています。 [56419]などに落書き帳の関連記事もあるので 参照してください。

[87481]で言及されたように 静岡県大井川沿いの地名(じな)に関しては 過去記事 で話題になりました。

その中に「徳山の盆踊り」というヒントがありましたが、大井川鉄道で地名駅から11.2km先に駿河徳山駅があります。
[29164]に記されているように 徳山の盆踊りも 国指定重要無形民俗文化財 ですが、これから思い出した極めて特徴のある地名が、盆踊りとしては全国最初の指定を受けた(1981) 秋田県西馬音内(にしもない) でした。
[87471] 2015年 4月 15日(水)20:08:11【1】hmt さん
北陸新幹線整備の基本計画は長野経由が前提
[87469] グリグリさん 北陸新幹線に乗車 
[87457]で私が言いたかったことの本質は…(中略)…長野経由前提ということだったのか と言う点です。

もっと詳しい情報をお持ちの方がおられるとは思いますが、とりあえず。

北陸新幹線について、全国新幹線鉄道整備法第四条に定められた基本計画は昭和47年6月決定のようです。
その公示を国土交通省サイトで閲覧することはできませんでしたが、S47/7/3の運輸省告示第243号であり、起点:東京都、終点:大阪市、経過地:長野市付近、富山市付近とされているようです。参考

基本計画がこのように長野経由と定められた理由。それは、上記法律の第三条に示された
全国の中核都市を有機的かつ効率的に連結するもの
に沿ったものであると思います。
北陸新幹線は、やはり長野新幹線でもあるのですね。

【追記】
長野五輪開催が大きく影響したのでしょうか。

オリンピック冬季大会開催都市への国内立候補は戦前(1935)に始まり、1961年にも山ノ内町などが立候補したが札幌市に敗れたそうです。札幌大会の実現は1972年でした。
長野県では県内の候補地一本化ができなかったのが敗因と考え、三度目の正直を合言葉に具体的に動き出したのが1985年でした。翌年に国内立候補した都市は、長野市・旭川市・山形市・盛岡市。国内候補地選定1988を経て 1991年に IOCでの最終選定を獲得しました。

「長野でもできるのか?」 「できるさ。サラエボ【1984年開催地[86112]】だってやったんだから。」
こんな会話が交わされた 昭和60年(1985)でも、長野市が北陸新幹線の経過地と明記されてから10年以上も後のことです。

1998年の長野五輪開催は、北陸新幹線の軽井沢・長野間フル規格化着工決定(1990)には影響したと思います。
しかし、ずっと前に決定していた ルートの選定 には無関係です。
[87470] 2015年 4月 15日(水)18:12:38【1】hmt さん
気比大神 木ノ芽峠
かつては 敦賀ウラジオ航路を介して ヨーロッパに向う交通路の結節点であった敦賀。
外国貿易港や鉄道基地としての賑わいも 過去のものとなった現在ですが、選抜高校野球大会における敦賀気比高校の優勝で注目され、落書き帳でも話題になっています。

こちらでの話題の中心は畿内と越前とを結ぶ交通路ですが、ここで初心に戻り「気比」(けひ)について。

気比神宮・主祭神の気比大神(伊奢沙別命)は海神・食物神のようです。古代の人にとっては、渤海国など海外を含め、海産物や舶来品を手に入れることができた地、それが敦賀だったのでしょう。海外と言えば、神功皇后の三韓征伐とも関連し、気比大神は朝廷から重視されました。越前出身の継体天皇も関係していると思われます。

気比神宮は明治以後の称号でしょうが、越前国一宮として崇められ、古代からの北陸総鎮守だったものの、南北朝動乱では敗け組になりました。戦国時代も朝倉方で織田信長の侵攻を受けるなどして衰退。

落書き帳で「気比」を検索すると 大多数は高校野球でしたが、その中で気比の松原[16538][58771][61217]が健闘。

明治20年頃の敦賀駅は 気比神宮に隣接していたそうです。
明治26年鉄道局年報に 福井に向う線路を説明し、敦賀停車場から既成線に沿って南進し左旋して東北に向うとあります。その後に駅を南に移してスイッチバック線形を解消したようですが、[87466]で東海道線と北陸線の接点とされた敦賀ステーションが移転後なのか否かは判りません。

それはさておき、上記で引用した年報には 敦賀森田間の線路工事景況が説明されています。
森田は後に九頭竜川北岸にできた森田駅ではなく、工事の終点であった九頭竜川南岸を指していたようです。

「葉原より西北行…屈曲極めて多し…杉津の東に出て山腹を迂回…隧道橋梁交互相接し」などの記述を経て山中峠に達し、「葉原より此に至る4哩半余は 本線中至難の工区」 と記しています。

[61344]でも引用した北陸本線旧線地図を再びリンクしておきます。赤線が明治27年(1894)開通の旧線です。
青線は昭和37年(1962)開通の北陸トンネル経由の新線、緑線が昭和52年(1977)開通の北陸自動車道です。
越前海岸の絶景を展望できる唯一の駅であった杉津駅の跡は 杉津PA上り施設に利用されています。

工部省沿革報告に記された 明治14年6月井上鉄道局長の加越地方巡視復命書には、「江越の境界は 栃の木・木の芽の峻嶺を開通して敦賀線に連絡するは容易の業にあらず」と記されており、これを後回しにする姿勢でした。
しかし、それから15年後の鉄道局年報にあるように、「北陸線は本年度(明治29年)7月15日を以て運輸営業を開始」することができたのでした。

60年前にSL牽引の準急「ゆのくに」で通ったはずの旧線ですが、残念ながら天気が悪く 印象に残っていません。
地理院地図も付けておきます。2段階拡大すると、旧道の木ノ芽峠が北陸トンネルの真上近くを越えていることがわかります。

この木ノ芽峠。別名が「木嶺」で、福井県を分ける嶺北・嶺南という言葉はこれに由来します[85057]
多くの人口と文化とが集積された嶺北の福井(足羽県)は、港湾都市敦賀の拡大を見据えた敦賀県への統合(M6)に反発。
明治9年に敦賀県を分裂・消滅させるに至った騒動[85057]は、嶺北・嶺南を隔てていた木ノ芽峠の険しさを思わせます。

もっともこの措置は嶺北を併合した石川県に混乱をもたらしたようで、明治14年には分県して福井県新置となりました。
嶺南4郡については 滋賀県から離れなければならない積極的な理由はなかった とも言われますが、結局は現在の福井県に落ち着きました。


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