沖縄戦が終結してから 75年経過した(沖縄県)慰霊の日です。
糸満の摩文仁にあった日本軍の司令部が壊滅し、組織的戦闘が終結した 1945(昭和20)年の日付に基づくものですが、1965年の改正により 6月22日から変更されたものです。
正確な日付の確定が困難なくらいの状況であったことは、
[80990]に記しました。
一般住民も巻き込んだ悲惨な地上戦により、日本側だけで推定約 19万人の生命が失われたと伝えられています。
沖縄県外出身の戦死者 7万人弱を差し引くと、沖縄県民の死者は 推定 12万人余となります。
これは 沖縄県(先島諸島以外の2市3郡)の人口の 1/4 にも相当します。
「鉄の暴風」に例えられる沖縄戦は、「人のいのち」だけでなく、琉球文化にも壊滅的打撃を与えました。
最近の東京新聞日曜版「大図解」シリーズ。No.1462
失われた文化財-沖縄戦-
私が今回の記事のタイトルに選んだのは、「ざわわ ざわわ ざわわ」というリフレインで知られる『さとうきび畑』という歌です。
1964年、復帰前の沖縄を訪れた作曲家の寺島尚彦が作詞・作曲した 11連の歌。
1967年初演とされていますが、1970年代に沖縄返還への関心が高まり、流行したとのことです。
森山良子の歌がよく知られていますが、その他にも多数の歌手が歌っています。
2012年4月1日に 中城郡読谷村の さとうきび畑 の一角に この歌の
歌碑 が建てられたそうです。
読谷村(よみたんそん)は 人口約4万人で、
日本最多の村。
東シナ海岸の村で、南は嘉手納町と隣接。沖縄戦の当時は読谷【当時の名は 読谷山村 ゆんたんざそん】にも 嘉手納にも飛行場がありました。
読谷村の戦跡によると、閣議決定に基づき1944年7月から「足手まといになる老人と子どもを戦闘地域から移し、食糧を確保する」ということを目的とする「県外疎開」が実施されました。しかし、疎開者を乗せた対馬丸がトカラ列島を航行中に潜水艦の魚雷攻撃により沈没
[56250]。読谷山村民90人も犠牲になりました。
1944/10/10の空襲などを経て 1945/4/1に比謝川河口から米軍が上陸。
日本軍の守備は手薄であり、米軍は 当日中に2つの飛行場を占領。4/5頃には米軍が宜野湾以北の中部一帯を制圧。
その後、首里を攻め落された守備軍司令部が糸満の摩文仁に後退、6月23日に最後の抵抗も終了。
読谷村の歌碑に戻ると、基金募集のコンサートなど、草の根運動で集めたお金で、完成に至ったとのこと。
この歌にふさわしいエピソードです。歌碑に刻まれた「ざわわ」は、各連6回で合計 66回。
歌詞の主人公に見立てられた少女は、「大図解」で知った ウチナーグチを使えば
カンポーヌ クェヌクサー【艦砲射撃の 喰い残し】
【2連】昔 海のむこうから いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で
【3連】あの日 鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で
【4連】そして わたしの生まれた日に いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で