最初に
[75315]の誤記を訂正。2行目の“重要な掘割である「小名木川」”の掘割脱落に加えて、新大橋開通後の芭蕉の句の漢字違い。「霜」を「雪」と書いていましたが、「雪」は橋が完成する前の句でした。
【完成前】 初雪や かけかかりたる 橋の上
【完成後】 ありがたや いただいて踏む はしの霜
蛇足ですが、ゴッホが模写した浮世絵の一つ、歌川広重が幕末に描いた名所江戸百景
大はしあたけの夕立 の「大はし」は 新大橋です。「あたけ」は深川側の地名で、幕府御舟蔵に置かれていた御座船の名に由来するとか。
なお、木橋時代の新大橋は、現在の斜張橋(1977)や
明治村 に一部保存されている 1912年の鉄橋
[33199]よりも、少し下流に架けられていました。
それはさておき
江戸時代から明治にかけて(およそ17~19世紀)の埋立により、江東の陸地は小名木川から約2km南まで拡大しました。
深川が、明暦大火後の江戸再編成で開発が進んだことは、
[75315]で記しました。
永代橋よりも南の越中島につき、
江東区の地名由来 には、
隅田川河口にできた寄り洲だった。播州姫路の領主榊原越中守の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた。
と記しています。
江戸東京学事典には“明暦・万治の頃”とあるので、榊原康政の孫の榊原忠次ということになりますが、この殿様は越中守に任官していません。越中守は通称なんでしょうか?
波による屋敷の流失を繰り返しながらも砂洲は次第に成長していったようです。
明治になると、越中島には練兵場や商船学校ができました。
ここで「越中島駅」につき記しておきます。
戦前にに国鉄は亀戸(正式には新小岩)からの貨物線を作り、1929年小名木川駅開業。戦後になると、ここから 晴海や豊洲ふ頭への臨港鉄道(専用線)が 東京都により建設されましたが、越中島駅までの区間は 1958年に国鉄に編入されました。
この駅の所在地なんですが、戦後にできた この駅のための埋立地 です。
上記のような江戸時代からの歴史のある土地ではないのに、越中島のネームバリューを借りたのでしょうか。
1990年に JR京葉線が東京駅に乗り入れる際に、今度は本当の越中島に 地下旅客駅ができました。そして、こちらが「越中島駅」を名乗り、従来駅は「越中島貨物駅」と改名しました。
少し脱線しましたが、隅田川の永代島・越中島、中川の宝六島のような河口のデルタがもとになり、陸化の進行と共に倉庫・問屋・木場・大名屋敷・社寺・その門前の歓楽街などが江東地区に生まれました。
[75307]で引用した
江東区町名図 でいうと、扇橋から千石にかけての5町は主として享保年間の造成地で、「十万坪」と呼ばれたとか。仙台堀川の南は現在の東陽6・7丁目が「六万坪」、西側の木場2~5丁目が「十五万坪」という具合で、「○万」コレクションは江戸時代から始まっていたのでした。
江戸時代最後の大規模埋立は、明和年間(1764-1772)の「平井新田」で、海岸線はこれで ほぼ現在の永代通りの線になりました。
平井新田は
塩浜 として開発されたものの、間もなく廃止。明治の地図を見ると、深川東平井町(江東区役所を含む現在の東陽4丁目一帯)には養魚場が広がっており、陸地化したと言っても水面です。深川西平井町も東側は養魚池ですが、西側は陸地。そこに弁天社と東陽小学校があります。
名所江戸百景の
深川洲崎十万坪 に名を記す「洲崎」は、この平井新田のあたりです。
「洲崎橋」は交差点名として近年まで永代通りにあったと思いますが、現在は東陽3丁目。その南側の洲崎弁天町(現在の東陽1丁目)は、明治の埋立地でしょう。
[66539]では大正時代と書いていましたが、これは間違いで、明治時代の海岸線は 現在の町名で言うと 東陽や木場の南縁、つまり汐浜運河の線まで進出しました。
明治の地図では 土手で囲まれた一角が見えます。城郭の「曲輪」にも例えられる この別世界に びっしり立ち並んだ施設 は遊郭です。一隅には病院も。深川洲崎警察署
[24746]も、この施設の取締が目的でした。
根津遊郭が深川洲崎に移転したのは、明治20年代とのことです。洲崎橋から北にある「大門通り」という名も、最後には「赤線」という名で1958年まで存在したこの種の施設の痕跡を伝えています。
[66539]は初期のプロ野球が行われた洲崎球場のことも記しています。
1937年修正測図の地形図 を見ると、満潮時にグラウンドに海水が入りコールドゲームになったという珍事があったことも納得します。
地形図の上端には錦糸堀・ 水神森からの城東電気軌道が見えます。3つある停留所の真ん中が四ツ目通りを南下してきた市電猿江線と合流する東陽公園前。現在の東西線東陽町駅です。左端の停留所が日本橋から永代橋を渡って来る東京市電の洲崎で、大正初期に開通した最も古い路線です。城東電車は昭和初めにここまで延長され、市電も東陽公園前まで乗り入れました。城東電車は戦時中に市電に統合。
明治の地図では養魚池だった東陽町近辺。本当の陸地になったのはずいぶん遅かったようですが、こんな具合にして、昭和初年には東京南東部における交通の要衝になっていました。小田急の創業者利光鶴松が計画した環状線
[34571]の終点も「洲崎」だったし、東西線の前身とも言える東京成田芝山電気鉄道の起点も「東平井」でした。
その「洲崎」も「平井」も江東区の地名から消えました。
「玉ノ井」が東向島になったのと同じ理由で、「洲崎」は過去帳入りすることになったのでしょうか。
江東区役所も東京メトロ東陽町駅も、その所在地は江東区「東陽」4丁目になっています。
これは 1967年の統合・住居表示実施によるもの。
1964年以来部分開通を積み重ねて 1967年に「東陽町」以西が全通した営団東西線の駅名は、それ以前からの深川東陽町に基き「町」という字が入っており、現在までこの名で通しています。
江東区役所 は “東陽の地名には諸説があり定かでない” としていますが、「東陽小学校」に由来するという説が有力で、
地名コレクション にも収録されています。この学校は、明治の地図では 深川西平井町(現在地よりも西)にありました。
明治時代の学校には、安易に番号や地名を付けるのでなく、漢語を使った個性的な名を多く見ることができます。
[62333]に記した雑感に現れた学校名。愛日・聚楽・待賢・教業・明倫・日彰・成祥・立誠・郁文・格致・成徳・豊園・開智・永松・醒泉・修徳・柳池・銅駝・鳴鶴・盛隆。地名の組合せですが、豊玉や三福もありました。そして忘れることができないのが「酒呑学校」。
「東陽」学校も、東から昇る朝日になぞらえた瑞祥名と思われます。