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hmtさんの記事が10件見つかりました

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[99936] 2020年 6月 26日(金)15:17:32【1】hmt さん
東京臨海部の陸地化2 (4)「中防」への 新ルート・東京港海の森トンネル
最初に、このシリーズについての言い訳です。

「東京臨海部の陸地化」シリーズの連載は、10年前に「水に囲まれた江東区」という副題の第1回 [75307]から始め、江戸時代末期の [80264]「品川台場」で 10回シリーズを締め括りました。
引き続き明治以後の続編を記す予定でしたが、なかなか着稿できない間に東京ゲートブリッジが完成し、番外編として hmtマガジン にも収録。

続編に着手する次の機会は、中央卸売市場が築地から豊洲に移転した 2018年でした。
埋立地の歴史としては 幕末から かなり飛んでしまうものの、前歴のガス工場なども含めて 話題にはこと欠かない埋立地。しかし、筆を進める気力が衰えており、[96927]の後が続きませんでした。

それでも、気持ちだけは 第2シリーズを続けたい。
そこに現れたのが、東京湾「中央防波堤埋立地」の帰属争い決着へというニュースです。

「中防」は「中央防波堤内側【or 外側】埋立地」という長い埋立地名を省略した通称地名ですが、その帰属に争いがあり、長い間「所属未定」のま 落書き帳の話題になっていました。

コロナ騒動がなければ、2020年東京オリンピックを機に盛んに話題になっている筈の場所です。
しかし、拡大を続ける大都市・東京の物流基地として、重視される場所でもあります。

参考までに、「中防」の検索結果【長い名称は対象外】を古い順に示しておきます。

東京地裁判決を江東区・大田区双方が受け入れた結果、ようやく帰属先が決定[98525]
昨年末には、テレビで「東京リボーン」の 第3集「輸送革命 果てなき欲望との闘い」が放送され、[98765]で紹介しました。

新しい町名も誕生[99880][99885]。大田区の「令和島」、江東区の「海の森」。

以上、シリーズに関連した過去記事の紹介が、主になりました。

ところで、落書き帳トップに掲載されている NEWS欄により、水底トンネルコレクションの更新を知りました。

開いてみると、東京港の埋立地・有明から「中防」への 新ルートである「東京港海の森トンネル」2459..5m が、2020/6/20 に開通したことを伝える内容でした。[98765]で紹介した輸送革命の主役です。

乗りものニュース [が伝えるように、従来の青海縦貫線の東側に並行する都心側ルートの増強で、トレーラーなどによる大型貨物輸送の 隘路解消が目的です。トンネルの命名は昨年末でした。
トンネルの先、内側埋立地と外側埋立地の間は 250mの架橋です。

青海と並行する有明ルートの開通で、東京港臨海道路西端の臨海トンネル、東側の東京ゲートブリッジと合わせて「中防」へのルートは4本に増強され、私達の「果てなき欲望」に奉仕することになりました。
[99933] 2020年 6月 25日(木)15:29:27hmt さん
朝鮮戦争 70年
1950/6/25の「朝鮮戦争勃発」から 70年を経過しました。
朝日新聞の朝刊を開いてみたところ、北朝鮮が 開城工業地区の南北共同連絡事務所(2018)を爆破した件に関する解説記事はありましたが、1950年からの約3年間、激しく行なわれた戦争についての言及は、全くありませんでした。

朝鮮半島を南北に分断する 事実上の国境線である「軍事境界線」。
1945年、日本の敗戦後に行なわれた 分割占領に基づく「北緯38度線」は、地理的には現在でも存在します。
しかし、戦争の結果 南へ、北へ、また南へと半島内を移動した結果としての停戦ラインや、その南北 2kmを無人とした「非武装地帯 DMZ」は「38度線」と一致していません。

この食い違いを端的に示しているのが、開城(ケソン)です。
地理的には「北緯38度線」より南側に残された唯一の大都市。
北緯37度58分14秒 東経126度33分15秒
停戦ラインよりも北西側にあるので 北朝鮮領内。

落書き帳で「朝鮮戦争」の過去記事を検索したら、[56950]から[99400]の7件は hmtの記事。
他の方の記事は、3万台以前でした。

高校生だった hmt[78506]の記憶に残る朝鮮戦争。

その朝鮮戦争は、現在も まだ「休戦状態」です。
南北間の「平和」は 70年後の現在も回復しておらず、核兵器とミサイルで身を守る「隣人」は健在?です。
拉致問題も 全く進展せず。

時間だけでは解決しない現実が残されていることを実感した 70年前。
ラジオから流れるニュースにかじりついていた高校2年生、日曜日の記憶でした。
[99927] 2020年 6月 23日(火)15:51:04【1】hmt さん
さとうきび畑
沖縄戦が終結してから 75年経過した(沖縄県)慰霊の日です。 

糸満の摩文仁にあった日本軍の司令部が壊滅し、組織的戦闘が終結した 1945(昭和20)年の日付に基づくものですが、1965年の改正により 6月22日から変更されたものです。
正確な日付の確定が困難なくらいの状況であったことは、[80990]に記しました。

一般住民も巻き込んだ悲惨な地上戦により、日本側だけで推定約 19万人の生命が失われたと伝えられています。
沖縄県外出身の戦死者 7万人弱を差し引くと、沖縄県民の死者は 推定 12万人余となります。
これは 沖縄県(先島諸島以外の2市3郡)の人口の 1/4 にも相当します。

「鉄の暴風」に例えられる沖縄戦は、「人のいのち」だけでなく、琉球文化にも壊滅的打撃を与えました。
最近の東京新聞日曜版「大図解」シリーズ。No.1462 失われた文化財-沖縄戦-

私が今回の記事のタイトルに選んだのは、「ざわわ ざわわ ざわわ」というリフレインで知られる『さとうきび畑』という歌です。
1964年、復帰前の沖縄を訪れた作曲家の寺島尚彦が作詞・作曲した 11連の歌。
1967年初演とされていますが、1970年代に沖縄返還への関心が高まり、流行したとのことです。
森山良子の歌がよく知られていますが、その他にも多数の歌手が歌っています。

2012年4月1日に 中城郡読谷村の さとうきび畑 の一角に この歌の 歌碑 が建てられたそうです。

読谷村(よみたんそん)は 人口約4万人で、日本最多の村。
東シナ海岸の村で、南は嘉手納町と隣接。沖縄戦の当時は読谷【当時の名は 読谷山村 ゆんたんざそん】にも 嘉手納にも飛行場がありました。

読谷村の戦跡によると、閣議決定に基づき1944年7月から「足手まといになる老人と子どもを戦闘地域から移し、食糧を確保する」ということを目的とする「県外疎開」が実施されました。しかし、疎開者を乗せた対馬丸がトカラ列島を航行中に潜水艦の魚雷攻撃により沈没[56250]。読谷山村民90人も犠牲になりました。

1944/10/10の空襲などを経て 1945/4/1に比謝川河口から米軍が上陸。
日本軍の守備は手薄であり、米軍は 当日中に2つの飛行場を占領。4/5頃には米軍が宜野湾以北の中部一帯を制圧。
その後、首里を攻め落された守備軍司令部が糸満の摩文仁に後退、6月23日に最後の抵抗も終了。

読谷村の歌碑に戻ると、基金募集のコンサートなど、草の根運動で集めたお金で、完成に至ったとのこと。
この歌にふさわしいエピソードです。歌碑に刻まれた「ざわわ」は、各連6回で合計 66回。

歌詞の主人公に見立てられた少女は、「大図解」で知った ウチナーグチを使えば
カンポーヌ クェヌクサー【艦砲射撃の 喰い残し】

【2連】昔 海のむこうから いくさがやってきた 夏の陽ざしの中で
【3連】あの日 鉄の雨にうたれ 父は死んでいった 夏の陽ざしの中で
【4連】そして わたしの生まれた日に いくさの終わりがきた 夏の陽ざしの中で
[99921] 2020年 6月 19日(金)17:35:53【2】hmt さん
北アルプスの超火山
登山にも地質学にも無縁の hmtですが、最近放送された Nスペ『ジオ・ジャパン』シリーズ2第1回「列島大隆起」。
300万年前の 北アルプスに、1万m?のスーパー火山が存在した可能性を知り、驚いて投稿します。

地質探偵ハラヤマとして世界的にも著名な地質学者・原山智さん(信州大学名誉教授 67)の発見に基づくもの。

巡検案内書を引用してみると、「くるりんぱ」した隆起年代は 1.6-0.6Ma【百万年前】とされていました。

北アルプスの北部に位置する鹿島槍ヶ岳から爺ヶ岳, 蓮華岳一帯には, 第四紀前期更新世の火山-深成コンプレックスの断面が広く露出している.この一帯では火山活動と花崗岩マグマの上昇定置の直後にあたる 1.6-0.6Ma の間に傾動を伴う隆起が生じており,これらコンプレックスが 80°前後の直立に近い状態まで南北水平軸回転していることが判明している(原山ほか,2003、2010)
参考までに、原山さんの講演記録(2005)特別寄稿

テレビでは、300万年前に始まるこの時期を、プレートの動きによって説明していました。
北上してきたフィリピン海プレートが太平洋プレート・ユーラシアプレートに押し負けた結果、150kmもの深みに潜り込み、進路は 北か北西へと 45度変化しました。

海水の影響によりマグマが生成した結果、飛騨山脈に、世界一若い露出花崗岩ができます。

爺ヶ岳の西側では黒部峡谷の割れ目ができ、割れ目は カルデラ花崗岩の下に伸びてきます。
そして、東からの圧力【45度カックン】で、カルデラ火山の噴出物と 地下の花崗岩塊とは 西向きに隆起します。
【幻の】超火山形成は、こんなシナリオと理解しました。

爺ヶ岳で火山岩が分布する範囲は 南北18km・東西10kmだそうです。
この火山が、東からの圧力に押されて 垂直に立ち上がれば、計算上の高さは 10000mになります。
しかし、垂直移動と同時に、崩壊も進行してゆきます。10000mの火山 は、やはり実現しないでしょう。

爺ヶ岳と同様のカルデラと変動とは、南側の槍穂高連峰でも観察されます。
こちらは垂直でなく、水平面から 20度の傾きだそうです。

「列島大隆起」は、巨大火山の他にも、関東平野ができた話もあり、興味深い番組でした。
6月21日・日曜日に再放送が予定されていたようだが、変更された?

同日、午後9時からは「列島大分裂」と題する第2回です。
中央構造線など西日本の変化によって、現在の日本列島が形成される物語に期待。
[99916] 2020年 6月 14日(日)19:25:18hmt さん
岩手県への表記統一(2)
[99914] ekinenpyou さん

複雑な謎解きの解説をいただき、ありがとうございます。

実は、[99914]を拝見する前に、[99907]で示された【その1】は改印届であることが明記されているが、
【その2】は単純な欠損改刻であることに気付き、[99911]の修正 or 別記事化【出直し】を検討していました。

公文録に残されたM9.10.9届出当時の原本を示します。

明治9年の改印届は「巌手縣」であったこと。そして

※法規分類大全の印影「岩手縣」は同書がM24年刊行であり、
「巖」を「岩」に置き換えた可能性があると推測しております。
という 落し穴 には全く気付いていませんでした。

…というわけで、[99907]の謎解きについては 完敗でした。
[99911] 2020年 6月 13日(土)13:35:09hmt さん
岩手県への表記統一
[99907] ekinenpyou さん

公文雑纂を示していただいた 県名の文字に関する件照会
日付は大正12年9月10日。100年近く前、関東大震災から間もない頃です。
この一次資料に接することで、当時の雰囲気を味わうことができました。

用紙枠には「巌手縣」と印刷されています。
「岩手縣知事 牛塚虎太郎」と記された冒頭の「岩」には、通常の邦文タイプ活字(明朝風字体)でなく、清朝風字体の活字が特別に使われています。そして、氏名の下の知事公印に記されていた文字は「岩手縣知事之印」。

[99907]では、テーマが「県名」から「県印」に変り、M9.10.9 岩手県届けによる印鑑の印影【その1】【その2】が提示されています。

【その1】は「当県印鑑欠損に付」と理由が記され、別紙の通相改 「岩手縣」
 上部欄外に明治5年正月5日 盛岡県>岩手県 を記載
【その2】も同じ理由が記されており「巌手縣」に改刻
 上部欄外の付箋は読み取れない 件名:諸県県印彫刻・九条とあるが、その内容は不詳

明治9年当時は 正式の「岩手縣」と慣用の「巌手縣」とが共に使われており、旧印鑑の欠損を機会に、慣用している「巌手縣」の印鑑も彫刻し、届出をしたのでしょうか? よくわかりません。

時代は進んで、大正12年に 名称を統一した知事。
牛塚虎太郎の名は初耳だったのですが、後の東京市長時代【1933-1937年】に、水源確保・し尿処理などの実績を残した大物官僚政治家でした。
[99889]で紹介していただいたように射水市の名誉市民になっているのですね。

余談
射水市の名誉市民には、読売新聞の 正力松太郎[35062] も 名を連ねていました。
戦後は、プロ野球や日本テレビに加え、原子力政策でも活躍した 記憶に残る人物です。
[99890] 2020年 6月 8日(月)10:31:30【2】hmt さん
慣用されていた 巌手県 から 正式の 岩手県 に統一する手続
[99889] ekinenpyou さん
このような変更手続は法的には行われていないという見解を多くの方がお持ちだと思います。

レファレンス協同データベース に、大正12年発行の岩手県報彙報欄掲載の、「今後は「岩」の字に統一する」旨の記事が紹介されていました。

--------------
『岩手県報 第847号』(大正12年9月22日発行)
⇒p.3「縣名ノ文字ニ關スル件」
“従来本縣名ニハ巌又ハ岩ノ二様ノ文字使用セラレ今日ニ於テハ官記辭令等一般ニ巌ノ文字ヲ使用スルニ至レリ【中略】
今回内閣書記官長ノ諒解ヲ得テ爾今官記法令其ノ他公文書等ニハ總テ明治五年一月改稱ノ際太政官ヨリ通達有リタル通岩ノ文字ヲ使用スルコトトセリ。”
--------------

【2】追記
太政官布告(明治5年正月8日)
仙台県を宮城県 盛岡県を岩手県 と改称候事
[99888] 2020年 6月 7日(日)14:10:09hmt さん
虎ノ門ヒルズ駅「静かに」開業
昨日 東京メトロ 日比谷線に 開業以来 56年ぶりの 新駅誕生。
朝日デジタルのタイトルが示すように、コロナ禍の最中、新駅開業恒例の出発式もなく、静かな船出であったとか。

それはともかく、1.3kmしか離れていない 既存の霞ヶ関・神谷町両駅の間に設置された新駅は、再開発が進んでいる この地域の「交通の結節点」としての役割が 期待されているようです。

落書き帳では、2018年に[97081] hmt 「虎ノ門ヒルズ」駅 を書いていますが、その前にも 2014年の[85227]で、東京の環状二号線 地下部分開通(新橋-虎ノ門)を伝えています。

日比谷線の新駅は、この道路と 地下鉄との交点 に設けられたもので、銀座線虎ノ門駅との乗換駅になっています。
両駅は 約400m離れており、改札外地下道経由。
参考までに、東京メトロは 改札外乗換適用時間を 60分に拡大しました。改札外の店舗への立寄便宜もあるようです。

「芝の金毘羅さま」東京都港区虎ノ門は 丸亀藩主京極家の上屋敷内にあり、江戸市民の要望に応えて毎月十日に参拝が許されていました。

hmtが 隣接する 外濠跡のオフィス に勤務していたのは 20年以上前ですが、毎月十日の縁日は賑わっていました。
私が退職し、会社が移転した結果 OB会開催地も変化したので、この付近とは すっかりご無沙汰になっています。
しかし、新駅誕生の機会に、過去記事を材料にして、虎ノ門のことを振り返ってみました。
[99885] 2020年 6月 5日(金)17:23:53hmt さん
Re:新地名「令和島」
[99880] 鳴子こけし さん
大田区が獲得した埋立地南西部の区域に、去る6月1日、町名として「令和島(れいわじま)」という地名が誕生

大都市・東京から発生するゴミの処理。埋立処理による活用は江戸時代から続けられてきました。
営々として続けられてきたこの手法が、江戸・東京の土地問題に役立ってきたことは、hmtマガジン 東京臨海部の陸地化 で ご紹介してきました。

マガジン・東京臨海部の陸地化の第一部は、江戸時代末期で終っていますが、番外編として収録した 2012年の[80265]には「中央防波堤埋立地」を登場させています。

3本目のルートとして新しい橋ができる「中央防波堤地区」には何があるのか。
産業用施設としては、当面のところ中央防波堤外側埋立地地の 新国際海上コンテナターミナル整備事業 があります。

帰属問題に関して 江東区と大田区との争い[98525]
令和元年になった 2019年、東京地裁の判決を両者が受け入れ、説明図 に示される 104.2haの土地を手に入れた大田区が命名した町名が(東京都大田区)「令和島一丁目・二丁目」でした。
# 大田区には、昭和島一丁目・二丁目もあります。

落書き帳には 登場していなかったので、埋立地の前に、中央防波堤から概略を記しておきます。

…と書いたのですが、お台場の沖に作られた この東京湾防波堤が何時作られたのか? 年代不詳。

現状は、防波堤北側の「中央防波堤内側埋立地」と一体化しており、「中防」と略称されるこの地域は、防波堤そのものよりも、埋立地として認識されています。

最初からこの形で工事が進められたものならば、東京港第2次改定港湾計画(昭和41-50年度)の時代である 1973年に着工し、1986年に終了したと思われます。

昨年末の江東区町名募集の結果、内側埋立地は(東京都江東区)「海の森一丁目~三丁目」と命名されました。

今回、水路南側の大田区「令和島一丁目・二丁目」が決まりましたが、江東区の外側埋立地は、町名未定らしい。

2015年からの第8次改訂版概要を含む東京港の港湾計画は、東京湾の埋立と開発の歴史について に収録。

町名から離れますが、中央防波堤外側地区の 国際海上コンテナターミナルの整備工事
[99869] 2020年 5月 31日(日)14:02:41hmt さん
Re:岐阜県「明治大合併」と「郡の再編成」
[99867] MI さん
フォロー記事に感謝します。

「郡の再編成」と「明治大合併」の順序を入れ替えました。

岐阜県において同日に施行された「郡の再編成」と「明治大合併」。
#36 「編入/郡変更」 という形で まとめられている 変遷情報は、「/」により順序付けされていたのですね。

「郡の再編成」は 1年近く前の「法律」で公布されていたのに、羽島郡に関する言及は
岐阜県美濃国羽栗郡及中島郡を廃し 其の区域を以て羽島郡を置く
だけでした。

新しい羽島郡の姿は、何時になったら知ることができたのか? それは、

法律施行日の前日 M30/3/31 に至り ようやく発せられた 岐阜県告示第58号 を待たなければならない

という状態でした。

そして注意しなければならないのは、この告示による廃置分合は「従前の郡」で行われているということなのです。

この告示を収録した岐阜県令達全書_明治30年 を見ると、羽栗郡と中島郡とに関する記載は 約1頁分ありますが、八神村に関する部分は その区域の増減に関する2ヶ所だけであることを確認しました。
中島郡大須村の一部(字平太島)の区域を八神村に合併す
中島郡小藪村及び午南新田を合し(中略)と八神村の一部(字名列挙)との区域とを以て小藪村を置く

記載がないということで 中島郡八神村の 法人格は維持され、郡変更法律の対象に残った と理解します。

ところで、M30/3/31の 明治大合併告示は、どのようにして岐阜県民に伝えられたのでしょうか?
当時の通信事情からすると、役場の掲示板が精一杯?

[99867]に紹介されたように、官報附録「庁府県公報欄」にも掲載されました。
しかし、それは 明治大合併の施行から 2ヶ月も経過した 明治30年6月になってからでした。

町村廃置分合
町村制第四条に依り各郡町村中 本年4月1日より左記の通 廃置分合す
明治30年6月 岐阜県
細かい文字で2頁4段余。1件毎の改行は省略され、「、」で繋げて記載。


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