[54242]YSK さん、
太田市には強戸と書いて「ごうど」と読ませる地名があります
この強戸(ごうど)は、どうも額戸(ごうど)が転じたものの
ようです。清和源氏の流れの新田義重の子(庶子)である経義が、
新田荘の額戸郷を拝領(相続?)した時に額戸氏を名乗ったという
説があります。
逆に額戸経義が、新田荘の中の、現太田市強戸町の地域を拝領
して額戸郷という呼び方をされたという説も見られるのですが、
いずれにしても強戸村の起源は額戸郷で、それが転じて強戸と
なったように思います。
*
ごうどつながりで・・・ (前回はざっと1行だけですませたので)
神門(ごうど)に関しての
[54223]の書き込みの補足です。
西日本の神門という地名は、どうも神社の神門が由来ではないかなあ~と思っています。
古代の出雲の豪族に神門氏(神門臣・かんどのおみ)があって、
この神門氏の名前の由来が、出雲大社の神門の建立であったようです。
古代の出雲では神門氏は大きな勢力を持っていたようです。結構開拓に
熱心だったという説もあって、神門氏が開拓した地に神門の名前が
ついた可能性があるのですが、(おそらく、その地の神社の神門の
建立に関わったことと想像できます。)でも佐倉市や君津市の神門に
関しては音が異なりますし、神門氏との関係は、よくわからないです。
*
地名の由来を辿ると、必ずしもルーツがひとつとは限らない場合も
あります。実は、神戸市のルーツも、“生田神社の神戸”が主流
なんですが、異説もあります。“長田神社の神戸”が神戸の地名の由来
だと
長田神社は主張しています。
*
[54253]ニジェガロージェッツ さん、
1874(明治7)年開業の初代神戸駅は、現在の神戸駅からハーバーランド(旧・湊川貨物駅)にかけての広大な領域を構内としていましたが、この場所は意外にも兵庫の領域です。
&
「神戸」と「兵庫」の力関係について、明治7年の時点の神戸駅の開業と結びつけるのは、ちょっと筋違いかもしれませんが、時代背景としては面白いと思っています。
詳細な言及をありがとうございます。また、
[5887]が私の検索から漏れて
しまって、失礼いたしました。
江戸期の幕末前夜までは“一集落の地名”でしかなかったが「神戸」という
地名が、明治の区名に選ばれ、市名になり、日本の重要な港名になり、国鉄の
停車場の名前に選ばれた理由。現在は国内外に通用する都市名になり、結構
ブランド力のある名前のようですが、「何故、神戸が・?」なのかは、よく
わからないです。当時は県名の「兵庫」の方が通りが良かったと想像出来ま
すし、隣接する「生田」であっても良かったわけです。
ニジェガロージェッツ さんの
[54253]の書き込みの主旨の大きなテーマの
ひとつが「兵庫ではなく、何故、神戸が・?」ではなかったのかなあ~と
勝手に想像してしまいました。他の地域の神戸が、三重県では神戸氏を名乗る
豪族が現れて市町村制に複数の神戸が残っています。それに対して北関東の
神戸は、ほとんどが市町村制に残ることが出来ず旧村や、旧村の中の一集落の
名前として、昔ながらの地域の地名として留まっています。この違いは地域性
なのか、偶然なのか・・・、いろいろ考えると面白いですね。
*
当時の兵庫は、かなりの天井川であった旧・湊川以西となり、港町、宿場町
として賑やか“町”だったのに対して、湊川以東の走水村、二茶屋村、神戸村、
生田村は、西国街道沿いの、農業と漁業の寒村のような感じだったと思います。
私自身よくわからないのは、神戸村と生田村との関係です。神戸村は、
西隣の走水村や二茶屋村とまとめて3村という括りで捉えられたり、山手の
北野村・中宮村・花熊村を併せて6ケ村と括られたりしていますが、どうも
東隣の生田村とは、疎遠だったのか、或いは対立関係だったのか、一線を画して
いたようなニュアンスを感じます。もちろん6ケ村が福原庄ということで、
結びつきが強かったことは大きいでしょうね。
江戸期までは、どちらかというと「生田」の地名の方が通りが良かったのでは
ないかなあ~と思います。神社の名前は生田神社、その附近は生田の森で、
山手からの流れは生田川、神戸と生田では、生田の方が地名としては優勢の
ような気がします。
神戸と兵庫の関係と共に、生田と神戸の関係も気になります。
*
神戸駅の件ですが、確かに「何故、神戸が?」を辿る時には避けて通れない
と思います。神戸駅が明治7年で、兵庫港が神戸港に改称したのが明治25年。
一方、走水村と二茶屋村、神戸村が合併して神戸町になったのが明治元年
とされ、兵庫、神戸、坂本が神戸区となってのが明治12年です。
ニジェガロージェッツ さんが着目されておられるように、幕末から
約10年間の間に、“兵庫から神戸”と大勢が流れたように思います。
実はこの時期に湊川神社(楠公さん)が創建されています。神戸の大きな神社は
長田神社、湊川神社、生田神社になりますが、長田神社と生田神社は神戸を持つ
古代からの神社に対して、湊川神社は明治5年に明治政府によって創建された
神社です。
河川跡に造られた街
この地図は明治18年のモノですが、神戸駅の位置は、古くからの兵庫港と
新しい海外向けの新兵庫港との間で、湊川の左岸河口で、楠公さんの真正面に
なっています。
このサイトのアーカイブズにまとまっていますが、
[1774] Issie さん、
[1775]Issie さん、
[1776] f さん、
[1777] Issie さん、のやりとりにある
ように、兵庫県の県庁の所在地は兵庫から、楠公さん近辺に移り、明治6年に
現在地へ移転したようです。私は県庁の場所に関する資料を持っていません
ので、このやりとりの情報によると、明治6年以前の数年間ぐらいは楠公さん
のご近所に県庁があったことになります。
*
私見ですが、兵庫の古くからの町と、新しい兵庫港と居留地のある神戸との
間の場所であり、新しい神社・楠公さんの目の前のロケーションである湊川
左岸の河口附近に兵庫県の玄関の町を作ろうとしたのかもしれません。
そして、その地が兵庫ではなくて神戸だったことが、駅名に反映したように
思います。あるいは明治に入って2~3年で、港と居留地の地名「神戸」が
(国際的にも)有名になったのかもしれません。
楠公さんは、当初は尾張藩は京都に創建することを薦め、また滋賀や大阪の
計画もあったようですが、楠公の墓の場所であり、それが永く荒れた状態
だったのを徳川光圀が墓碑を創建したこともあって、今の地になりましたが、
もし別の場所に楠公さんが創建されていたら、神戸の駅の場所や駅名は「兵庫」
だったかもしれませんし、兵庫区→兵庫市という名前に落ち着いていたかも
しれません。また、兵庫の古くからの港をそのまま外国向けに使っていたら、
当然のように兵庫市になっていたことと思います。
生田神社の44戸の神戸が、西国街道沿いの村名として、その地域を
指し示す地名に留まらずに、広域な政令指定都市の名前になったルーツ、
それは唯一の明確な理由があったのかもしれませんし、幾つかの偶然(?)
が重なった故かもしれません。
何故、生田ではなくて神戸? 何故、兵庫ではなくて神戸?
・・・ いろいろ調べてみたいと思います。
*
[54229] たもっち さん、
ezekielさん。この際ですから、メンバー登録と「神戸コレクション(仮称)」の編集をなさってみてはいかがでしょうか。
[53879]のグリグリさんへのコメントでも触れていますが、
[53720] &
[53619]が
ペンディングのままになっています。このような状態ではメンバー登録は
考えられませんので、「神戸コレクション(仮称)」の編集は、どうぞ適任の方に
お声掛けして下さい。